22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

カテゴリ:【作品】22世紀堂書店 > 駅の記憶

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○中村邦夫(なかむら くにお)さんの来し方
昭和十一年九月二日生まれ。昭和四〇年、飯田橋で「神田事務用品」を開業。飯田橋商店街振興組合の創業メンバーで、現在は代表理事として地域の人々と共に、飯田橋商店街の活性化のため、様々な取り組みを実施中。

 東京都文京区後楽町で生まれました。飯田橋の近くね。
 しばらくして埼玉に移り、学生時代にはまた東京に戻ったんだけど、卒業してから今度は福島に行って働いていました。でもなぜか飯田橋には縁があったみたいで、昭和四〇年に飯田橋に戻ってきた。そこで今の店を開いてから、ずっと飯田橋だね。
 当時は店の前を都電が走っていましたね。今のJR飯田橋駅の近くに都電の駅があってね。早稲田まで一直線。早稲田や神保町まで、よく都電に乗って行きましたよ。
 おもしろいのがね、道の幅は都電が走っていたころと全く変わらないところ。道の中央に都電が走っていて、その両脇に車が走っていたんだよ。ただ、交通渋滞がひどくてね。なかなか時間通りに走らない。車社会の波も押し寄せてきて、結局都電が廃止になっちゃったんだよね。
 当時は私も車の方がいいと思っていました。都電は邪魔だってね。今思うと都電は懐かしいですけどね。
 駅前の歩道橋ができたのは、ちょうど東京オリンピック開催のころだったかな。いつの間にかできていたね。当時は車が優先だったから、車の邪魔にならないように、歩道橋を作って人を上に登らせようって考えだったんだね。今は車より人が優先。時代の流れは変わるもんだね。
 駅前にラムラってビルがあるでしょう。あそこはね、当時はお堀だったんですよ。飯田堀っていってね。私が四十代のころだったかな、それが開発されるっていうんで、飯田堀を守る会っていうのを立ち上げて、地域住民と一体となって反対運動をしました。けっこう盛り上がりましたよ。
 当時は飯田町――甲武鉄道飯田町駅ね――今のJR貨物があるところから貨物列車が走っていました。
 飯田橋は印刷、製本の街だったんですよ。紙の流通基地。この貨物列車で製紙を日本全国に運んでいたんだね。今のJR飯田橋駅には何本も路線が走っているでしょう。あのうちの一本はこの貨物列車用の路線だったんですよ。牛込御門のそばにあった終点の駅が、JR飯田橋駅に統合されてね。
 そうそう、当時は「飯田橋」なんて名前はなかった。町の名前も全部「飯田町一丁目、二丁目…」ってね。出版社も今よりたくさんありましたよ。でも、印刷や製本っていうのは、場所を取るし公害にもつながるんだよね。この辺は場所が狭いからみんな郊外に移ってしまった。
 昔から飯田橋は下町庶民の街。みんな人が良くてね。それが飯田橋のいいところかな。バブルのころは、街全体が活気付いていて良かったね。店にもとにかくだまっててもお客がじゃんじゃん入ってきたね。
 そのころは通販なんてないでしょう。会社の人たちがたくさん買いにきました。当時は、二割引きセールだとか在庫処分セールをやったら、どんどんお客が来て大繁盛だった。あのころは本当によかったですねぇ。今じゃ二割引き、三割引きなんて当たり前だからね。
 でも、バブルの影響で土地が高くなって、周りのお店はずいぶんなくなっちゃいましたよ。店をたたんで外に出て行ってしまってね。個人商売が難しくなってしまってね。
 外食屋ももっとたくさんあったんだよ。おじさんやおばさんが個人経営でやってる泥臭くていい店がね。朝食や昼食にはよく食べに行っていました。でも、バブル時代には、そんなお店もどんどんなくなっちゃってしまいましたね。
 そこで、飯田橋の街をにぎやかにしたいという思いから、昭和六十三年頃に飯田橋商店街振興組合を立ち上げました。立ち上げた当初、商店街で福引大売出しイベントなんかをやりましたね。大盛況でした。商店街は繁盛するのが最大の目的とよく言われるけれど、私がいつも言っているのは、いくら個々の店が良くても、街全体が良くならないとだめだということ。街が良くなれば、店の繁盛にもつながるからね。
 イベントは一昨年ぐらいまでやっていたんだけど、イベントにたくさんのお金を使っても、結局その場限りで終わってしまう。最近は、こういうイベントよりも、本当に人々が街の集まるために必要なことにお金を使っていきたい。
 今、携帯がすごく流行っているでしょう。やっぱり若い人に親しんでもらえる街にしていかないといけない。これからの課題は、パスモやスイカが使えるような商店街にしていきたいですね。

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森田俊一さんは昭和13年6月22日の生まれ。、総武線ガード下にある秋葉原ラジオセンターの中で「東京科学無線電機商会」を経営していらっしゃいます。秋葉原はご承知の通り、近年では電気街からアニメ・オタク文化の発信地へと広がり、世界的にも有名な街になりました。周辺の再開発も著しく、駅に隣接する神田市場跡が秋葉原クロスフィールドとなり、つくばエクスプレスが開業するなど、目まぐるしく変わっていきます。そんな中、ガード下でバラの電子部品を売る古くからの店も健在です。今回はの「駅の記憶」は、秋葉原電気街の移り変わりを伺いました。


―ラジオセンターには古くからたくさんのお店が軒を並べていらっしゃいますね。「東京科学無線電機商会」さんは、いつごろからご商売をやっていらしゃるんですか?

昭和30年代くらいからだと思うんですけど。父の代から。父が商売を始めて、昭和30年代後半に私が手伝いをしはじめたんですよね。ですから、この辺りは長いんですけど。

―ラジオセンターは昔から今のように部品屋さんが並ぶお店だったのですか?

お店は2階までありますが、以前は今みたいな状態ではなかったらしいです。だいぶ前とは様子が違いますね。
2階はね、一番端は食堂だったんです。カレーライスとか、飲み物とかね。なんかいろいろやってましたよ。買い物に来た人がちょっと休めるようになってたんです。
自分はあんまり近くで食べたことないんですよね。よく食べに行くのは、道路渡って向こう側に古くからうどん屋だかそば屋だかがあって、そこによく食べに行ったんですよ。今はないですけどね。

右手の奥のパソコン屋さんの前は、テレビがあったんですよ。テレビのキットなんて珍しいのがあったの。キットなんですよ。
テレビは、そうねえ……値段は高かったけど、よそで売ってるものより安かったのね。自分で作る分ね。サイズは、だいたい14型の大きさでしたよ。今そのお店はないんですけど。

―わたしも子供のころに秋葉原で電子部品を買ってラジオをつくりました。当時を思い出して、どのような雰囲気でしたか?

ええ、いっぱいお客さんは来ましたよ。うちは子供が多かったね。小学生、中学生がわんさと来てね。結構長い間ブームは続きましたよ。いつごろ陰りが見え初めたのかなあ……、あぁ、ファミコンなんか始めたころだ。
昭和50年代の終わりころから、ファミコンができて、それからパソコンのゲームとかね。ゲームが流行り出したね。だんだんね。で、ゲームに夢中になるから、ラジオとかねいろいろなものをつくるっていうのが少なくなったんだろうね。
今では電子回路も学校では教えていないんじゃないかしらね。

―今は子供達はあまり来なくなってしまったんですか。

たまに自分の子供にやらせるのに、親が連れてくるんですけどね。昔は子供が友達同士で買いにきたものですが、今は親が面倒見ないと、やらなくなってきた。今は子供が来ないから、お客さんがひとつ上の世代だけになったね。

あとね、このへんの店は中古のテレビが結構置いてあったんです。なかなか今みたいにテレビ買える時代じゃないから。
白黒からカラーに移ったあたりだね。

それから、ジャンク屋さんっていって、古い品物を置いてあったお店があったんだね。売っているのは、半分壊れたものや使えないようなものもある。ラジオの中身だけっていうのもありますよ。
そういうものを結構探して、みんな買っていって。それにいろいろスピーカーとか自分でつけて、直して聴いたいたんだよね。
昔はね、テレビ壊れたって直すし、そういうものから最後には部品を取るしね。みんな捨てずに使ってましたよね。

真上を総武線が走ってますけど、あんまり気にならないですね。というのは、人がたくさん入ってたから。賑やかだったからあんまり気にならなかったんだね。だいたい、お客さんが店の前にずらーっといるような状態です。通路を通れないくらいでね。



―秋葉原も高層ビルが建ち、だいぶ雰囲気が変わりました。駅前の移り変わりを見ていらして、いかがですか。

「やっちゃば」って言ったんですけどね、八百屋市場があったんですね。神田市場だね。今は大田市場に移ってるけど。
そのころは、野菜を買い付けに大勢朝早くから人が来るから秋葉原全体が賑やかで活気がありました。そういう人も入れてね。まあ、そうねえ。いろんな人が来てごったがえしてたんじゃないかな。
こっちには来ないんだけどね、駅前は賑やかで。食堂がたくさんあったんです、そういう人たちが食べるね。裏にずっと、市場の周りにあって。そこ行って昼飯食べたりしました。食堂もたくさんあったからね、そこに食べにきたり働きにきたりする人も多かったんじゃないかな。

最近は食べ物屋さんからは縁遠くなってきましたね。あんまり庶民的な食べ物屋さんがないしね。ビルの中に入っている値段が高そうな店はあるけど、大衆食堂みたいなのがない。

―電気街としてはいつころから知られるようになったんですか?

終戦後のことはよくわからないんですが、親父が戦争から復員して。元々電機会社で働いていたんだけど、その工場が焼けてしまって、働くとこがないからっていうんで、焼けたところから部品やなにかを持ってきて、露店で始めたんです。
それはね、もっと向こうの小川町のほうだった。
その露店商は神田駅寄りに多かったのね。むしろ神田駅のほうが賑やかでね。だんだん流れてきて。

で、露店商は置けないっていう法律ができて、それでこういう小さなお店が…道路の向こうにラジオデパートが、
でこっちにラジオセンターができて、電気街としてだんだん定着してきたんじゃないかな。

建物の中に小さいお店がたくさんでき始めてから、秋葉原駅からたくさん人が降りて買い物に来るようになったんですよね。
前はね、神田駅から降りて、秋葉原駅へずーっと歩くのがお客さんの買い物ルートだったんですよね。中央通りの両端に電気屋さんがあってね。

今のラジオガーデンってありますよね。中があんまりお店閉まっているようだけど。あそこに前、うちの店があったんですけど、そこもすごく賑やかだったですよ。それでだんだんこちらへ移ってきたから、うちもこっち移ったんです。それが昭和30年代の終わりころ。

その後、家電屋さんがたくさんできるようになったでしょ。サトームセンとか、ヤマギワ電気とかね。それでお客さんが向こうへどんどん行くようになってきて。たいがいの人は、秋葉原へ来れば安く買えるっていうんで、三種の神器って言いましたけど、カラーテレビ、洗濯器、クーラー……それでたくさん売れたんじゃないかな。

昔は部品がよく売れましたよ。要するに個人のアマチュアのお客さんばっかりじゃなくって、工場の人も結構よく買いに来たからね。そういうメーカーの人もまとめて買いにきたから、よく売れましたよね、
パソコンのソフトからいろいろ派生してきて、インターネットができて。ずいぶん変わりましたよね。

―僕が子供のころはマイコンもキットだったですよ。

マイコンキットってありましたね(笑)。Z80なんてね。
まあ、呼びかけるとしたら「ラジオ少年」たちが戻って来てくれないかなと思いますね。

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■列車の音が店のBGMだった
半世紀以上にわたり東京駅と共に歩み、そして東京駅の歴史をそっと見守り続けた小さなバーがあります。バー「カメリア」。東京ステーションホテル内に昭和26年からある「列車の音を楽しめるバー」は、今年3月、東京駅丸の内駅舎の保存・復元工事を機に閉店することになりました。今回お話をお伺いした杉本寿さん(65)は、「カメリア」で46年間シェーカーを振り続け、現在も銀座のカクテルラウンジでご活躍されている、現役のバーデンダーさん。杉本さんが、バー「カメリア」を通して見続けた、東京駅の記憶を語っていただきました。


終戦のときは神奈川県山北町の実家にいました。山北町には昔から鉄道員(ぽっぽや)が多くてね、私の叔父さんや従兄弟だとかも鉄道の仕事をしてました。私が東京駅のバーで働くようになったのもなんかの縁ですかね。自分が鉄道の仕事をやろうとは考えませんでしたけど…。

うちの隣の人が箱根富士屋ホテルに勤めていてね…。戦後新しく改装した東京ステーションホテルのコーヒーショップでマネージャーをしていて、その人の紹介で、東京ステーションホテルで働き始めたんです。

カメリアのオープンは昭和26年で、私が働き始めたのは19歳ぐらいの頃、昭和35年からかな。そこのチーフだった人は、高田さんっていって僕の仲人をやってくれた人だったんだけれど、その人は、満鉄が大連で経営していたヤマトホテルでバーテンダーをやっていた人だったんです。

上下関係の厳しい世界でしたからね、最初は話せなかったです、チーフとは。カウンターにも入れさせてもらえませんでしたよ。「氷もってこい」なんていうことから、「タクシー呼んでこい」「切符買ってこい」なんてことまで色々と雑用をして、まあ最初はそんなもんでしたね。お客さんの切符を買うのも仕事のうちだったんです。「タバコ買ってこい」と言われれば、タバコ買いに行きましたし、バーテンダーというよりはボーイの仕事でしたね。それから、今はどこのホテルにもあると思いますが、東京ステーションホテルにも宴会場があって、そこで使うお酒というのも全部バーから出るんですね。そういうお酒の用意も仕事のうちでしたから、最初はそんな仕事ばかりでした。シルバー(銀食器)を磨いたりとか…。シェーカー持てるようになるまでには三、四年かかりましたね。先輩が休んだときなんかに、たまに振らせてもらったりして…。

仕事を始めた当初は、「バーテンダーなんていうのは、暗いところでお酒を飲んでタバコを吸って、ろくなもんじゃない、はやくやめなさい」っておふくろによく言われました。実際はそうじゃないんですけどね。その当時はバーやバーテンに対する認識っていうのはそんな感じでしたね。当時はバーの数も少なかったでしょうし。バーテンダーに対する認識が変わったのは、ここ20年ぐらいなんじゃないですかね。

駅の中のバーですから、電車の時間待ちっていうお客さんは多かったですね。だから、お客さんの出入りが速かったです。ホテルの泊り客よりもそういったお客さんの方がはるかに多かったですね。

電車を待つお客様への配慮から、カメリアの時計はあえて5分早く進めていました。これは創業当時からの伝統で、ずーっとそうだったみたいです。誰が始めたのかは分からないんですけど…。

それから、これもカメリアならではなんですが、カメリアではBGMを流しませんでした。

私があまり音楽を聴かなかったというのが大きな理由ではあるんですが、昔は今みたいに立派なオーディオ設備も無かったですしね。あと線路がすぐそばにありますから、音楽を流してもあまり聞こえないっていうのもありました。逆に、音楽を流さないことで、列車の行き来する音がよく聞こえるっていうんで、特に鉄道ファンの方なんかの間では「列車の音を楽しめるバー」ということで、話が広がりましたけど…。

実際、バーの設備としてオーディオが必要不可欠かというと、そうでもないですからね。床屋さんなんかでもはさみが動く「シャキシャキシャキシャキ」なんていう音は気持ちいいものじゃないですか、純粋にただ仕事をしているときに自然に発する音というのは…。結局BGMは閉店までかけることはなかったですね。列車とシェーカーの音がBGMみたいなもんでした。今は、音楽の流れていないバーの方が珍しいぐらいですから、そう考えると珍しいかもしれませんね。

46年間、ほぼ半世紀にわたってカメリアでシェーカーを振っていましたが、色々なお客さんが来ましたよ。昼の時間なんかは丸の内の商社のお偉いさんなんかが来てましたね。重役の方は時間に縛られないですから。昼のお客さんがいないバーで人事の話なんかしていましたよ。お客さんで多かったのは、駅の時間待ちの人と、近くの商社の方。でも昔は、今みたいに若い人たちが来るということはあまり無かったですね。

今は、若い人でも気軽にバーに入りますが、昔はホテルのバーっていうと、やっぱり若い人が気軽に入れるような感じではなかったですね。昔はバーというのはフォーマルな場だったんですが、それがカジュアルになったというか…。よく言えばバーの敷居が低くなった、バーがお客さんにとって身近になったということなんでしょうけど。

昭和39年の新幹線開通にあわせてにオリジナルカクテルを作ったんです。実際に作ったのは昭和40年なんですが…。39年当時は日本にいなかったんですよ。ニューヨークで修業をしていましたから。40年に日本に帰ってきたら、新幹線開通のメニューを作るっていうから、それで「こだま」と「ひかり」というカクテルを作ったんですね。メニューに常に載せていたわけではないんですけど、つい最近でもこのカクテルをご存知で、注文されるお客様はいらっしゃいましたね。

「こだま」「ひかり」を作ったあとも、お客さんから「この電車のカクテルを作って」なんていう要望があると作ったりしましたね。「こんなもんでどうでしょう?」なんて言って(笑)、リクエストがあったその場で作ってしまうんです。

一番よくできたオリジナルが、「あさま」開通のときにつくった「あさまマティーニ」。あれは人気でしたね。冷やしたジンに梅酒を入れて、種の抜いた小梅をオリーブの代わりに使ってね。あとは「東京駅」。東京駅開業の75周年記念にあわせて作りました。人気はあったんですけどね、実は作るのが結構大変だった(笑)

カメリアの閉店が決まったときは、私はともかく、「お客さんどうするんだよ」って思いましたね。閉店することをお客さんに告げると、常連さんたちには「俺、どこ行ったらいいんだよ」っていうことをよく言われましたね…。まず、お客さんが困っちゃうなあって思いました。バーに思い出がたくさんあるお客さんもいますしね。

46年間、ほぼ半世紀にわたって一つの仕事を続けてこられたのは、やっぱりお客さんがいたからですね。負けず嫌いなところもあったのかもしれないけど、やっぱりお客さんの励ましがあったからだと思います。好きじゃなければ続かないですけど、好きなだけではもたなかったと思いますよ。


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■ストの時は、バナナが大人気でした
佐々木清喜さんは昭和25年11月28日生まれ。宮城県のご出身で、昭和41年に集団就職により上京しました。現在は新宿駅東口にある青果店・百果園新宿店の店長をされています。有楽町店、高円寺店を経て、昭和57年より新宿店に勤務。以後、今日まで20年以上にわたり、新宿駅とその周辺の変化を最も間近で見てこられました。

―― 百果園が新宿でご商売を始められたのは、いつ頃からですか?

新宿店は昭和42年の4月からですから、商売を始めてもう約40年ですね。

―― 昭和42年ということは、新宿騒乱事件が起こる前年ですね?
※)新宿騒乱事件…昭和43年10月21日の国際反戦デーに、日本全国で国際反戦統一行動として、基地撤去・米タン反対・沖縄奪還の闘争が展開された中、反戦青年委・中核派・社学同・ML派・第四インターなどが、新宿駅で闘争を繰り広げた事件。

そうですね、翌年には安田講堂事件などがありました。僕がこの店に来たのは昭和57年頃ですが、開店当時から働いていた人に、その頃の話は聞きましたよ。新宿駅の東口前に、線路に沿って映画などの看板が並んでいる場所があるんですが、昔はそこに金網があったようです。しかしながら、新宿騒乱の頃は、投石に使うために、みんな金網を乗り越えて、線路の敷石を取っていたらしいです。敷石がほとんど無くなったと言っていましたね。うちの店も全部シャッターを下ろしていたんですけど、だいぶシャッターがへこんだようです。まあ、被害はそれぐらいですんだようですが……。
僕がこの店に来た昭和57年頃は、アルタのビルが建って間もない頃だったと思います。アルタが建つ前には、三越の100%子会社で「二幸」という食品専門の大きなショッピングセンターがあったそうですよ。

――私はアルタができてからの新宿の風景しか知らないのですが、だいぶ駅前も変わったんですね。新宿駅の建物自体については、大きく変わりましたか?

ここから見た駅の景色はあまり変わらないですね。建物もそのままですし、外観が変わったという記憶はないですね。もちろん中はずいぶん変わりましたけど……。駅の改札も便利になりましたね。昔は改札口に8人ぐらい切符切りがいて、凄いスピードで切符を切っていましたね。聞いた話だと、あの切符切りは30分おきに休みを取らないと、手がもたなかったらしいですね。30分切符を切り続けたら1時間休む。また30分切符を切る……、そんな感じだったらしいです。

――佐々木さんがこのお店に来られた昭和57年と比べて「変わったな」と実感されたことは何かありますか?

今の新宿には、コマ劇場に芝居を見に行くお年寄り以外は若者しかいない。でも、昔はそうではなかったですね。いいバランスで様々な世代の人間が、この街には集まっていたと思います。それに昔のほうが街の雰囲気がゆったりしていましたね。僕は安保闘争の波が落ち着いてからこの店へ来たものですから、その頃は新宿の街もわりとゆったりした雰囲気だったんです。

――私は新宿というと、落ち着いた街というよりも、色々な意味でエネルギーに満ち溢れた街というイメージを以前からもっていたんですが、そういう時期もあったんですね。

ええ、そういう時期はありました。でも、やはりバブルの頃はすごかったですよ。バブルの頃を境に、落ち着いた街の感じが少しずつ失われていったように思いますね。それと、他人同士が話をするということが、昔と比べて少なくなりましたね。今、若い人は若い人同士でしか話をしない。違う世代との会話がないんですね。

――安保闘争の時期を経て70年代に一度落ち着いた街も、バブルの到来で再び熱を帯び始めたんですね。安保闘争の60年代と、バブル期の80年代にこの街に渦巻いていたエネルギーの違いは感じましたか。

ええ、ちょっと異質なものだったと思いますね。安保闘争の時期に若者が発していたエネルギーは、全員が全員ではないにせよ、社会的なイデオロギーに基づいたものでした。しかし、バブルの時期に若者が発していたエネルギーは、個人主義に基づいたものだったような気がします。

――お客さんは街に遊びに来ている通りすがりの人が多かったのではないかと思うのですが、新宿駅に勤めている方なんかもお客さんだったんですか?

昔は国鉄の方もよくいらしたようですね。ストの時にはしょっちゅうバナナを夜食替わりに買いに来ていたみたいです。今ではJRの方がいらっしゃることもなくなりましたけど……。開店当時は安くて栄養価が高いということで、バナナがすごい人気でした。店の棚の半分以上がバナナだけで埋め尽くされていたこともあったようですよ。ちょっと想像できないでしょうけれど。

――それだけ積んでも売れてしまったわけですよね?

この店は、地下にも倉庫があるんですが、そこにバナナをぎっしり入れて、それでも足りないという感じだったようです。

――昔は顔なじみの常連さんが多かったんですか?

そうですね。昔から来てくださっている方も結構大勢いまして、季節の節目に贈る果物を、よく買いに来てくれます。ありがたい話ですね。ただ、その方たちの次の世代ということになると、常連さんという感じのお客さんはあまりいないですね。お中元やお歳暮の感覚というのも、若い世代になるほど、無くなりつつありますし……。この店は開店当時のまま、今も変わりはないですが、そういった点では変わったなと思います。

――百果園の建物は、昭和42年の開店当時のままですか?

そうですね、中に鉄骨を入れて支えたりはしているんですが、それ以外は開店当時のままです。老朽化はしていますが、こうなったら直すよりも、この開店当時の形のまま残していきたいですね。

――新宿駅東口から見た風景の中で、昔から変わりなく目に映るのは百果園さんの看板だけなのでは?

そうでしょうね。「二幸」もアルタになってしまいましたし。ビルの看板なんかも目まぐるしく変わりますけれど、うちだけは変わってないですね。あと、この近所で変わらないものといったら、「アカシア」のロールキャベツの味ですかね。でも、あとは本当にみんな変わってしまいましたね。

――佐々木さんが新宿の街、そして新宿駅前の変化を20数年間見つめ続けてきて、今と比べたときに、「昔のほうが良かった」と思われるようなことはありますか?

正直な話、五分五分ですね。今のほうが便利ではありますけれども、気持ちの上ではやっぱり昔のほうが良かったなと思うことはあります。私がここへ来た昭和50年代のほうがゆったりした気分でいられました。昔は他の人と言葉を交わすことも多かったですし。今は自分の言い分が通らないと「フンッ」とそっぽを向いてしまう方が多いですから……。

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鉄道旅行の楽しみといえば駅弁。

今では、販売ブースで買い求めるのがふつうになりましたが、一昔前までは、駅弁の立ち売りが行われていました。肩から提げた木製の箱に、駅弁をたくさん入れて、ホームで声を嗄らす売り子さん。今ではしだいにそういう風景を見ることができなくなりましたが、昔の思い出として懐かしく思う方も少なくないのではないでしょうか。

今回、お話を伺った鹿野茂雄さん(69)は、駅弁立ち売り30年以上という大ベテラン。札幌駅の売り子さんとして、数多くの列車を迎え、お客さんにお弁当を売ってきました。北海道を旅行された方の中には、鹿野さんからお弁当を買った方もいるかもしれませんね。

札幌駅立売商会に入社したのは昭和40年4月4日、27歳の時でした。ずっと駅で、いわゆる立売をやってきました。

この仕事は先輩から親切に教えられることもありませんので、見よう見まねで覚えていきました。指示されることもありませんので、雰囲気を見ながら、自分で判断していくんですね。最初は、足が太ってしまい、慣れるまで1週間くらいかかりました。ただ、声はかれませんでしたね。腰も大丈夫でした。

夏休みになると、すごいお客さんが来ますから、そういう時は、全員で18名いる売り子がそれぞれ交代でホームで販売しましたね。当時の札幌駅は0番線から7番線までありました。いちばん売れたのはやはりお昼時です。

今はほとんど札幌が起点になっていますが、当時は、網走や稚内から函館に向かう列車――「宗谷」や「おおぞら」といった列車がありました。これらの列車が札幌に到着する時が書き入れ時です。一列車できれいに売れました。100本ではききませんでしたね。1日200本くらい売れる時もありました。あと、売れるのはやはりお正月ですね。

平成に入ってから種類が多くなりましたが、当時、(お弁当は)まだ3種類しかありませんでした。幕の内弁当が150円、お寿司が80円、シャケ飯が100円でした。幕の内がいちばん売れていました。冬は立ち食いそばも賑わっていましたね。

販売箱には40個入ります。けっこう重たいので、たくさん積めません。積むお弁当は、来る列車にあわせて弁当場に頼んで作ってもらいます。「幕の内をいくつ、寿司をいくつ」というふうに、自分で売れるなあという数を頼む。ふだんはそれなりに、繁忙期には多く頼みます。

ホームでは、販売箱を肩から吊して「お弁当~ お寿司~ シャケ飯~~」と呼び声を出すのです。自由席の方がお客さんがたくさん乗っているので、そちらに人を割くことが多かったですね。繁忙期には、10両編成になって、自由席1両に2、3人売り子がついたものでした。先輩を立てて、新入りは指定席に回っていましたね。このあたりは、阿吽の呼吸でした(笑)。

朝は7時から8時、夕方は5時頃から7時半くらいまでが忙しかったですね。当時は、北6条西5丁目の寮に住んでいて、朝は5時半に起きて、6時半には出社しました。そして、お弁当を持って線路を横断してホームに。朝のピークが終えた9時、10時くらいに一息つく。そして、11時半頃から1時のお昼時のピークを迎えます。その後、お昼ご飯を交代で取って、夕方のピークに。

室蘭行きの急行に乗るお客さんが晩ご飯を兼ねてお弁当を買うんですね。8時頃終えて、事務所で売上の計算。歩合がありまして、総売上の4分5厘でしたね。釣り銭を多くやってしまったりなんてこともありました(笑)。

今の汽車は窓が開かなくなりましたが、当時は窓を開けてお弁当を買いました。窓を開けて買う光景は思い出に残っていますね。でも、冬になるとしばれて開かないんですよ。そういう時は、デッキに出てきていただいて売っていました。

また、マイナス10度にもなりますから、保温のために工夫しました。お弁当の大きさにあわせてビニールを弁当1本ずつ包んだのです。混雑するお正月には、デッキで売り子2人が交互に売っていたこともありました。10分くらい停車するのですが、それでも買いそびれるお客さんもいました。次の苫小牧までお弁当を買えませんからたいへんです。

昭和55年頃に、今の販売車に切り替えられ、人数も8人くらいになりました。汽車の窓も開かなくなりましたから、販売箱よりも販売車の方にという流れになったんですね。


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軽井沢駅の昔に詳しい方々に集まっていただき、戦中戦後を中心にお話をお聞きしました。国鉄に勤めていらっしゃった斉藤和男さんと、武田進さん。そして、軽井沢駅で駅そば店を営まれる小川太郎さん。皆様に軽井沢駅の思い出を語っていただきました。

─ 皆さんは軽井沢駅でお仕事をされていたのですよね。

武田:私が国鉄に入社したのは、昭和20年の10月31日のことでした。当時は、お米の買い出しに行く人がたくさん乗っていて、そのために車両の増結をしたほどでした。機関車の前に乗ったりする人までいましたね。軽井沢駅に列車が来ると、そのときに増車していました。

今はそういうことはないけれど、当時はお客さんが多すぎて、2人掛けの席に3人掛けさせたり、立っている人がいても、どんどん詰め込んで......。満員電車なんてものではありませんでしたね。

そんな時代が終わって、昭和24年7月、国鉄が人員整理したときがありました。行政整理で、我々は20年に入ったばかりだから、首を切られる可能性があったのです。ところが幸いなことに、戦中と戦後では勝手が違った。

昔の中学校――今でいえば高校になるけれど、それを卒業して入ると、戦時中は駅の掃除や、終着列車、線路の中の掃除をする「駅手」と呼ばれる職に就きました。切符はまだ切ることができない、これが最低職だったわけです。つまり、中学校を終わって入社すると、その上の駅務掛(切符を切ることのできる職名) ――つまり一格上になるには、試験を受けて本職にならないといけなかったんです。

しかし、終戦までは中学校を卒業すると、駅手を飛び越えて駅務掛になれたのに、とたんになくなっちゃった。8月15日の終戦でなくなってしまったんです。中学校を卒業しようが、どこを卒業しようが駅士。当時は男性が皆、兵隊さんに行っちゃったから、女子職員が多かったのですが、その女子職員にあごで使われたなぁ(笑)。そういう時代でした。

斉藤:駅の柱の傍には痰壷という国鉄のマークが入った白い入れ物があって、駅手はそれも綺麗に掃除しなければいけなかったんですよ。

私が国鉄に入ったのは昭和16年4月ですね。当初、私は東京にいましたので、空襲でとても怖い思いをしました。あの頃はだんだんと学徒動員で次々と駆り出されていった時代。そんなわけで、私の家でも男一人だけ。当時、国鉄は基幹産業ですから景気がよかったんです。そこで、私も国鉄に入りました。あの頃は「駅夫」と言っていました。東京鉄道局新橋運輸事務所。新橋、軽井沢間です。当時は、郵便局か国鉄かと言われていました。

私が軽井沢駅へ転勤してきた当時は、月給が68円。そのままの給料で、中央から地方へ移るのは難しかったのですが、いろいろあって一銭も引かれずに月給68円で働くことができました。

空襲で焼け出された私は、着の身着のままで軽井沢駅に来ました。着るものも何もない。それに、高崎まで来るだけでも1日半ほどかかりました。そこから高崎から横川まで出て、横川からは碓氷線に乗る――それは大変でした。焼け出されたのですから、着るものはもうぼろぼろです。

軽井沢は空襲などなかったですから、そんなことなくて。着るものがなかったのは私だけでした。そして、軽井沢に着いて、着るものをもらって。今考えてみれば、とても良くしてもらったと思います。それに、苦しいけれど、国鉄精神がありましたから、強い絆で結ばれていたと思います。

武田:私は国鉄ではないけれど、駅の売店の蕎麦屋をやっていました。
昔、駅前に油屋旅館というのがありまして、そこが私の本家なんですが、もともとお弁当の仕出しをやっていて、私の家では蕎麦をやっていた。だから昔からの駅を知っています。

思い出すのは、汽車が着いて別荘のお客さんが駅へ降り立つ。そうすると、タクシーが送迎をするわけです。その後をご用聞きが自転車で追いかける。当時は、車も今のような馬力はないですからね。10人くらいのご用聞きが自転車で追いかけて、別荘に着いたら、ものを買ってもらうように交渉するんです。あれも軽井沢の風物詩でした。

─ なかには有名人も?

斉藤:昔の別荘地というのは、今とは全く違います。今の軽井沢の住む人とは全然違いました。古き良き軽井沢といった感じですね。今は、セカンドハウスだとかいいますが、昔は最低でも1000坪はありました。そして、車寄せがあって。アイアンの5番で隅から打ったって、端まで届かないくらいです。立派なものでしたよ。芝生で白樺があって。

当時は、大使館の別荘もたくさんありました。そして、大使館と領事館は治外法権。だからあそこで博打をやるんです。けれど、警察は入れない。そうすると、コックさんや「ベビヤマ」――外国人の子守りです――そういう人たちは博打やお酒が好きでしたから、集まるわけです。ご主人の食事が終わると、だいたいが夜10時ころ。そのあたりから集まって、コックの部屋で博打をやる。そして、終わるとみんな数珠繋ぎで出てきたものでした。

昭和6、7年ごろ――不景気の時ですが、私も外国人の子供と一緒に遊んでいたことがあります。外国人の子供が通りに出てきて、街の中を歩いていくわけです。それも風物詩だったな。だから、我々が遊んでいると、アメリカやフランス人が「行くべぇ」とか「ばかやろう」とか覚えちゃうんですよね(笑)。

小川: うちの家内の実家は土産物屋だったんですが、別荘の人と土産物屋との関係も、非常に密接でした。軽井沢に着くと「今来ましたよ」と、必ず挨拶にまわる。今はそういったことはないね。わずかにあるとすれば追分の方面かな。あとはぜんぜんなくなってしまいましたが。

斉藤:徳川でも前田でも、田辺製薬でも、使用人や執事がきて、「徳川家です」「田辺家です」と言ってまわるんです。そして、銀座の貝新(かいしん)という佃煮屋さんの大きな佃煮の包みを持って「今年も軽井沢に来ました。宜しくお願いします」と挨拶をする。いろいろな佃煮が入っていて贅沢でしたね。

そして帰るときは、「お世話になりました」とちゃんと半紙に10円札――当時で言ったら10円なんて高価でした――を包んで渡すのです。

昔はお店の主人や奥さん、家族たちが店を守っていたんですね。でも今はアルバイトのような学生が増えて、従業員がお店を守っている。知らないような人たちがお店を守っているわけですから、お客さんは来ても入りにくい。「お世話になりました」とも言いにくい。挨拶の声も掛けられないんですね。だからつきあいも薄い。

─ 戦後の軽井沢はどのような様子だったのでしょう?

斉藤:昭和21年は食べ物がないから、今の軽井沢プリンス・ショッピングプラザの辺りの土地では馬鈴薯やもろこし、さつまいもなど何でもつくっていましたね。我々が駅のトイレのものを担いで捨ててたし。

武田:だから、線路でもどこでも大事なモノが落ちていた(笑)。昭和21年に、軽井沢は米軍の第8軍の人たちの避暑地になりました。ニューグランドホテルや万平ホテルはみな接収しちゃって。そして、その人たちの鉄道輸送のために、RTO(Rail transportation office)と呼ばれるものができました。

軽井沢には昔から、1等待合室、2等待合室があったのですが、境をつくって昔の一等待合室といわれるところに米軍がRTOをつくりました。自分たちの兵隊が来るときには、そこを使ったものです。そのとき、私はたまたま旧制中学を出ていたものだから、「お前、ちょっと通訳しろ」と言われて、わけも分からず英語を使っていたという苦い思い出があります。

21年後半には新しいR.T.Oがつくられて、正式に職員が配置されました。また、占領軍の指揮官(第8軍)、アメリカのアイケルバーガー中将が軽井沢に来たときには、軽井沢駅は、下りだったら下りホームに着けるのに、その人は日本は負けたからと、下り列車を上りホームにつけた。そんなこともありました。

斉藤:そうそう。中線に列車をおいて、木の板を渡して、万平ホテルへ行ったんだよね。

武田: そのとき、戦争に負けた惨めさというのは、つくづく感じました。

斉藤:上野から進駐軍の専用車が下ってくると、その後ろには一般の車もついてくる。直江津、上野間を走る列車の他にね。そういう列車が来るときは、上野が出るときに連絡がくる。そうするとバスが手配されて、駅でちゃんと待っているわけです。ポーターがバッグだとか積んでやって。それで万平ホテルなどへ行き、休暇を過ごすわけです。

天皇皇后も上野からいらしたときには下りホームで降りるのですが、米軍のアイケルバーガー中将が来たときは上り線につけろなどと言う。でも上り線に直接入れるわけにはいかないんです。だから、いったん下り線に入れて、上り線に持ってきて降ろす。

武田:米軍のために、お召し列車が足止めを食らってしまったこともありました。
お召し列車は、菊の紋章がついている列車なのですが、これだけにはシートをかぶせていました。もちろん、他の車両にはカバーなどはかけません。このお召し列車を交代で寝ずの警備するんです。私が一番最初にやった仕事がそれでした。懐かしいですね。

─ 皇室の方々をはじめ、著名人にも愛される軽井沢ですが、やはり当時も駅は混み合いましたか?

武田: たいへんな混みようでしたよ。というのも、当時は長野から東京までの切符は買えなかったんです。「局が違う」という理由からか、軽井沢でいったん打ち切られたからです。長野から軽井沢までは買えても、そこから先は買い直さなければならない。だから、軽井沢でいったん全部降りて、切符を買い直して乗ったんです。昭和30年ごろかなぁ。だから、軽井沢駅は切符を売るのが忙しかったですよ。座って売っていれば、お客さんにつるし上げにあっちゃいますからね(笑)。

松田聖子さんが売り出しの頃――16歳くらいだったでしょうか――に軽井沢にいらしたんですが、そのときはホームに人があふれちゃって大変でした。

─ そのときはどのようにして事故を防いだのですか?

武田:松田聖子さんのような有名人がみえた際には、駅長室に通しました。列車が来ると、乗るのをファンが待っているわけです。ですから、裏口というか、庭を通って、自分の乗る車両まで誘導していました。碓氷峠を越すために、補助機関車を着けますから、5分は停車するんですが、その間にそういった方々を駅舎で休ませたりもしました。


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花堂純俊さんは昭和5年1月6日生まれ。

昭和35年、転勤で鹿児島から宮崎に。その後、約24年間、宮崎駅の旅客掛に勤務。駅の変遷を肌で感じて来られた花堂さんに、新婚旅行客が大挙した当時の宮崎駅の様子についてお話を伺いました。

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─ 宮崎駅といえば、当時新婚旅行客で相当な賑わいを見せていましたね。

花堂:本州から九州に入ってまず賑わう場所といえば別府。でも別府は、当時はまだ"温泉がある街"という位置付けで、観光といえば、断然宮崎でしたね。

宮崎交通のバスガイドが駅前にずらりと並んで、観光客を出迎えていました。お客さんが駅に到着すると、一斉に旗を振ってね。プラットフォームにまで出迎えに行く旅館の女将さんや社長もいましたね(笑)。特に、昭和42年11月から京都と宮崎の間に走った「ことぶき列車」の頃は、大勢の人が駅にあふれかえって大混雑しました。

─ 「ことぶき列車」は毎日走っていたのですか?

花堂:新婚さん用の臨時列車として、大安や友引の前後に、下り線のみ出ていました。例えば「今度の大安は連休と重なるから大入りだな」といった見当を付けて、発車させるタイミングを見計らっていたのですね。
全て1等の寝台列車で5両編成。昭和48年に運行を終えるまでに、4000組を超える新婚さんを連れてきたそうですよ。

その頃の賑わいぶりといったらすごいものでした。新婚さんが集団でゾロゾロと駅に降りてくる、そしてみんな手に花束を抱えてね。あまりにも列車に置いていかれる花が多いもんだから駅前や改札に籠を設けて、そこに入れてもらうようにしました。

─ ちなみにその後の花の行方は?

花堂: 駅員のみんなで、老人ホームや孤児院に持っていきました。結婚式をしてそのまま電車に乗ってやって来るわけだから、みんなきれいな花ばかり。とても喜ばれましたね。

駅では、あまりの新婚旅行客の多さに、一般の人が泊まるホテルがない、とよく相談を受けました。いわばホテルの争奪戦ですね。タクシーについても同じ相談を受けました。当時は旅館斡旋を行うタクシーもいたようです。旅館側が客室のマッチ箱にお金を隠しておき、お客さんを連れてきたタクシーの運転手が、こっそりそのお金を受け取って帰る――そんな話を聞いたこともありました。

─ 現在はいかがですか? ホテルの数は減りましたか?

花堂: 数自体はさほど変わらないですが、つくりが変わりましたね。当時は全て新婚旅行のお客さん向けに造られていましたから。今は泊まってゆっくり過ごすというより、眠るための場所としてのホテル、ビジネスホテルがほとんど。当時の雰囲気を残す旅館は非常に少なくなりました。

九州にやってきた新婚さんたちには、気の毒な光景も見られました。旅行中にうまくいかなくなってしまう、今で言えば、いわゆる「成田離婚」ですね。早ければ別府でさようなら、そして次は宮崎でさようなら......。といった感じでね(笑)。旦那さんが1人で宮崎から帰っていく姿も目にしましたよ。私も2人くらい宮崎駅のご案内をしたこともありました。

─ 全国各地の新婚さんが宮崎に集まってきたというのは、本当にすごいことですね。

花堂:そうですね。中には、東京行の乗客もとても多かったです。東京との間を走る特急「富士」や急行「高千穂」。こちらは特別に2両ほど追加して走っていたこともありました。ただし、その2両は一般の乗客のためのもので、この切符を取るために、地元の人たちが徹夜で並んだほどでした。

当時は飛行機もあまり普及していなかったので、交通手段の要といえば、列車一本。だから、鉄道員はとても鼻が高かったですね。


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小学校を卒業するとき、私は友人と2人で小旅行に出た。八王子から朝早くの八高線に乗り、高崎へ。そこから信越本線に乗り換えた。扉が開け放たれた客車列車で、古ぼけた車内灯がやけに暗く思われた。
高崎にはちょうどお昼頃着いたので、空腹であった。しかし、私たちはがまんした。あと、30分で横川である。

横川に着くや、窓を開け、駅弁屋さんを呼んだ。停車時間はあったが、必死であった。手にした「峠の釜めし」はずっしりと重く、何か特別なものを感じさせた。食べるのがもったいなかったが、軽井沢を過ぎたあたりで箸を付けた。当然、器は持ち帰る。それは私の宝物になった。

今月の「あの駅はいま…」は横川駅を取り上げる。長野新幹線開通にともない横川・軽井沢間が廃止されてから三年半。横川を取り巻く風情は一変した。今回は、「峠の釜めし」に、横川駅の過去と現在を見たいと考えた。

                               

①■宮内庁御用達--「峠の釜めし」

昭和33年10月18日、横川駅は物々しい雰囲気のなかに包まれていた。警察官が各所に立ち並んでいる。まさに厳戒態勢であった。
この日、富山国体へ参列されるために、昭和天皇ご一行を乗せたお召し列車は信越本線を下っていた。午前11時32分(★)、高崎方面から電気機関車に引かれた列車が到着した。あたりはにわかに緊張感が高まった。

ホームに停車して間もなくすると、おぎのや社長・高見澤みねじは、白い布で覆った漆黒の盆を白手袋の手で恭しく捧げ、車内に運び込んだ。--横川名物「峠の釜めし」である。

この日のために、焼き上げられた釜は益子焼き。メニューはお吸い物、フルーツの付いた特製であった。昭和天皇ご自身が希望されたのか、それともお側の者が推挙申し上げたのかは定かでないが、以来、「峠の釜めし」は宮内庁御用達として、皇室の方々に愛され続けている。

②■駅弁ことはじめ

日本の駅弁の始まりは、明治18年7月にさかのぼる。宇都宮駅で販売された駅弁がそれである。握り飯にたくあんというきわめてシンプルなものであった。

「峠の釜めし」の荻野屋が駅弁を扱ったのは、宇都宮にに遅れること半年、昭和18年10月のことであった。同じく、握り飯に漬け物で5銭という値段が付いた。それまで、荻野屋は街道筋で旅館を営んでいたのだが、鉄道開通を受けて、横川駅での駅弁販売に踏み切ったのである。

しかし、「峠の釜めし」の登場まではまだ73年という歳月を必要とした。

③■「峠の釜めし」誕生秘話

昭和30年当時、荻野屋の駅弁は振るわなかった。高崎、軽井沢という「上級」駅に両側を囲まれ、わざわざ横川で駅弁を買う乗客はほとんどいなかった。一日あたりの売上はわずか30~40食あまり。せっかく機関車の付け替えで停車時間があるにもかかわらず打つ手はなかった。

よし、それなら、お客さんに聞いてみよう--荻野屋社長・高見澤みねじはそう思うと、すぐに行動に移した。停車する列車の乗客に、どのような弁当が食べたいのか聞いて歩いたのである。
すると、乗客は口々に「どこの駅弁も同じだ。何か変化のあるものが食べたい」「冷たくて、米が硬い」と言うのであった。「峠の釜めし」の構想が湧いてきたのはまさにそのときであった。
変化があって、地方色があって、暖かい弁当--「峠の釜めし」はこうした着想から生まれた。

④■昭和33年2月10日(★)

釜めしが売り出された。値段は120円に設定された。陶器の値段がばかにならないのである。当時の駅弁の値段は平均80円。高くても100円という時代である。この衝撃的な駅弁の販売を管轄の国鉄高崎鉄道管理局は許可しなかった。重い、危険、ゴミになる、値段が高いなどが理由である。

再三にわたる交渉の結果、許可が下りたのは昭和33年2月のことであった。満を持して販売された釜めしであるが、当初はさっぱり売れなかった。何よりも認知度がなかった。期待に胸ふくらました売り子たちは、売れ残りを担ぎ、肩を落としたという。

⑤■「峠の釜めし」、全国区へ

そんなある日、釜めしが急に売れ始めた。列車から掛かる声は引きも切らず、駅に持ち込まれた釜めしはことごとく売り切れた。当初、何が起こったのか、わからなかったが、程なくして「文藝春秋」のコラムにに紹介されたことが判明した。

以来、「峠の釜めし」は売れに売れた。それを後押しするように、フジテレビで、荻野屋をモデルとしたドラマ「釜めし夫婦」が放送されて、「峠の釜めし」は一気に全国区となった。昭和天皇への積み込みが行われたのは、その年のことである。

この「峠の釜めし」の爆発的売れ行きは、一大駅弁ブームを生んだ。黒磯駅の「九尾ずし」、長万部駅の「かにめし」、苫小牧駅の「シシャモチップ寿し」など、地方色たっぷり、容器も一工夫加えられた駅弁は、旅の楽しみ、そして目的として定着していった。

⑥■立ち売り30年――「峠の釜めし」とともに

桐生富作さんは現在67歳。横川で駅弁を売って30余年になる。桐生さんが荻野屋に入ったのは、昭和45年、すでに釜めしブームが到来してからだ。それまで、林業に携わっていた桐生さんは体力に自身はあった。肩掛けに25個の釜めしを担ぎ、元気な声を上げる。

「釜めしー、釜めしー。釜めし、いかがですかー!」

朝は7時過ぎから夕闇が迫るまで、ホームで釜めしを売る。当時の報酬は歩合制であった。先輩の売り子さんたちは、それぞれの縄張りを作り、その中で次々と売りさばいていた。桐生さんも負けじと車窓を渡り歩いた。

ある冬の日、スキー客の若者で満載の列車がホームにゆっくりと停車した。「さぁ、来るぞ」と桐生さんは身構えた。一斉にホームに飛び出した乗客は、桐生さん目がけて殺到し、手押し車ごと後ろに押し込まれ、ホームにあった池に倒れ込んだこともあったという。釜めしの人気ぶりが偲ばれる。

⑦■「目迎目送」--峠の駅の日常風景

お昼前に、上野から「白山」が来るんですが、これが一番売れましたねぇ--桐生さんは当時を懐かしそうに振り返る。荻野屋トップの売り子であった桐生さんは、1日1500個の釜めしを捌いたそうだ。
当時の給料は7万円以上、「おそらく駅長さんよりももらっていたんじゃないですか」--桐生さんの顔がほころぶ。

列車に向かって、駅弁の売り子さんたちが深々と頭を下げる様子は横川駅の名物である。この「目迎目送」はおぎのやの精神である「感謝・和顔・誠実」に則っている。この精神は、おぎのや中興の祖・高見澤みねじ社長以来のものだ。

 服装には厳しかったですね。ネクタイや帽子が曲がっていると、よく注意されました。でもね、がんばった後には、「ご苦労様でございます」と仰っていただいて、よく褒美のタバコをもらいましたよ--桐生さんは、嬉しそうにみねじ社長を懐かしむ。

高見澤みねじ社長は、昭和58年9月17日、釜めし1億個達成を待たずして亡くなった。

⑧■日本最初の電化区間

明治18年には横川まで、明治21年には長野方面から軽井沢までの工事が完成した。信越本線の全通まで残すところ、横川・軽井沢間だけとなっていた。全長11.2キロ、直線距離で約8キロ、高低差はじつに553メートルというこの区間の工事は難渋を極めた。殉職者は500名超--。こうした尊い犠牲の結果、明治26年4月1日、ついに横川・軽井沢間が開通した。

峠を貫く横川・軽井沢間はトンネルが多い。急勾配のアプト式区間を喘ぎ喘ぎ牽引する蒸気機関車の煙は当然車内に充満した。乗客、乗務員ともにじつに1時間以上もの間、この苦痛に耐えなければならなかった。
こうした悪環境を解決するため、大正2年(★)年3月(★)、この区間はついに電化された。日本最初の電化区間には、10000型(後のEC40型)電気機関車が投入されることになった。

⑨■「峠のシェルパ」

大正11年、この問題(★どんな問題?★)を解決すべく投入されたのが、電気機関車EF63、別名「峠のシェルパ」であった。昭和38年にのアブト式の廃止まで、毎日峠を往復した。

★「峠のシェルパ」のエピソードが一つ欲しい。探してください。

アブト式時代に沿線で使われていた煉瓦造りの橋やトンネルは現在も残っており、国の重要文化財に指定され、歴史を物語っている。

長野新幹線が開通する平成9年10月1日の前日9月30日横川・軽井沢間は廃止された。横川駅は104年という歳月を経て、再び静かな峠の駅に戻っていったのである。

⑩■横川駅はいま…

早いもので、横軽間廃止から3年以上が経過した。特急列車が引きも切らずに発着したホームに到着する列車はほとんどなく、すっかり生気を失ってしまった様子である。跨線橋を渡った向こうのホームには、雨ざらしになった「あさま」が機関車に繋がって放置されている。

            ***

さぁ、間もなくですよ--桐生さんの表情が引き締まった。

高崎駅からの3両(★)編成の各停電車が1番ホームに入ってきた。桐生さんは、カートの釜めしにかかる布の覆いを取り払った。それから、ホームの端に直立するや帽子を取った。そして、入線する電車に深々と頭を下げる。

電車が止まりドアが開くと、乗客がホームに下り立った。そこで、桐生さんは声を上げる。

「釜めしー、釜めしはいかがですかー」

終着駅に下り立つ乗客に、駅弁カートで立ち止まる人はない。

「次の電車では必ず売って見せますよ」

笑顔の桐生さんの言葉に力がこもった。

高柳英麿さんは昭和8年2月4日生まれ。生まれも育ちも鎌倉です。

今も駅前のビルの経営者として、鎌倉を見守る高柳さん。著名人が集まる街、歴史と文化の街として名高い鎌倉の今と昔を伺いました。

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高柳: 横須賀線の敷設は、明治22年の6月16日。現在、米軍の基地がある横須賀に、日本の海軍が基地をつくったことから、軍用線というような位置付けだったんです。

明治時代には、蒸気機関車が走っていましたが、それがチョコレート色の車体の電車に変わりました。日本の電車のはしりです。

もちろん、当時は今みたいなアルミではなく、鉄でつくった電車でした。横須賀線が敷設されてから、文化人や実業家がどんどん集まってきました。

東京や横浜で事業をしている方が、「海風が健康にいい」ということで、鎌倉に保養の別荘をつくったのです。そして、その別荘に絵描きや作家といった文化人が遊びに来て。それで、かつての歴史ある鎌倉のイメージが確立されて、人口も観光客が増えていいたんですよ。夏目漱石や芥川龍之介の記述に、明治時代の風景が見られます。

─ 「海風が健康にいい」というのが発端だったんですね。

高柳: そうなんですね(笑)。
鎌倉の街区のつくりは、800年前と同じなんです。というのも、今の人口は大船まで入れて17万人なんですが、この市内だとだいたい6、7万。地方から武士や雇人が来ていた。そういう人たちが館を建てたから、鎌倉時代はいっぱい住居があったんですね。つまり、人口密度が高かった。それが今も変わらないので、自動車の交通を考えた街づくりというのができないんです。だから、渋滞がすごいわけですよ。

─ そうなんですね。昭和に入ってからの鎌倉駅は?

高柳: 第二次世界大戦のときは、駅前は軍人の送迎で人が集まり、電車もラッシュを除いた日中は30分に1本くらいでした。鎌倉駅には爆撃の影響はありませんでした。

─ 戦後はいかがでしたか?

高柳: 昭和30年ごろから、首都圏を中心に、地方から集団移住でたくさん人が出てきたわけですが、それによって神奈川県の人口がどんどん増えました。その影響で、観光客も増えました。歴史的なものが破壊から崩れていくのを防ごうと、川端康成とか大佛次郎(おさらぎ・じろう)といった人たち、それからお寺のお坊さんたちが立ち上がり、話題になりました。「鎌倉風致保存会」もできました。

今年がちょうど設立40年。昔、文化人が立ち上がって署名運動をしたりお金を出し合ったりして、八幡宮裏山の土地の開発を止めたこともありました。

─ 高柳さんご自身の、子どものころの思い出は?

高柳:当時、僕なんかが育ったころは、鉄道は一番のハイテクだった。だから、駅に停まる電車の下をくぐったりして遊んだものです。線路に釘を置いたりね。電車が通ると、釘がつぶれて磁石になるから。あとは、線路に耳をつけて、遠くから来る電車の音が聞いて、近くまで来ないうちに逃げたり(笑)。今考えると危ないけれど、昔はのどかでしたからね。そんな思い出があります。

─ 鎌倉駅といえば、三角屋根と時計台ですよね。これは昔から変わらずですか?

高柳: 鎌倉駅は明治22年にできたんですが、そのときからしゃれた洋風の建物ができて、大正時代には中央線の国分寺駅にも似たような、時計台のあるしゃれた駅になっていたんですよ。

─ 鎌倉駅は明治22年にできたんですが、そのときからしゃれた洋風の建物ができて、大正時代には中央線の国分寺駅にも似たような、時計台のあるしゃれた駅になっていたんですよ。

高柳: ここの沿線では、横須賀の軍港で進水式をやっていましたから、天皇陛下が横須賀線に十数回乗ってみえました。それで、横須賀線は品格があったんだと思います。

天皇陛下の「御召し列車」という言葉がありますが、当時は代々木の駅から、専用の列車で横須賀までお見えになっていました。今は代々木の特設ホームも使われなくなりましたが。

葉山御用邸の入り口の逗子駅は階段の上り下りがなかった。平らなわけです。従って、横須賀駅もフラット。つまり、そこに赤い絨毯をひいて、電車からすぐお出になることができた。

天皇陛下がお越しになるときは、改札口まで取りはずしちゃったというほど。もちろん、陛下は切符なんかお買いにならないわけですし。そうした皇族の方々を見かけることもありました。

駅には、和服の着流し姿の川端康成や大佛次郎が見掛けられましたよ。それに、大船に松竹の撮影所があったから、田中絹代とか、女優さんが駅に出入りする情景を見たことがあります。最近は、鉄道を使う有名人が少なくなったからあまり見かけませんが。強いて言えば、「みのもんた」さんぐらいかな(笑)。

横須賀線100年を記念して本を作りましたが、平成20年の120年の時にも本を作ります。

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川口市雄さんは昭和11年9月19日生まれ。現役の熱海市長です。丹那トンネルの完成や、新幹線の開通、新婚旅行のメッカといわれた熱海の黄金時代――。川口市長の目から見た移りゆく熱海の様子と、それぞれの時代に見せる熱海の顔についてお話を伺いました。

─熱海駅、そして鉄道はどういう印象でしたか?

川口: 私は網代駅の近くで生まれたので、幼い頃は熱海駅よりも網代駅の方が印象に残っています。

熱海駅は、丹那トンネルが昭和9年に開通し、多くの人が熱海に訪れるようになった。その頃に、ちょうど私が生まれたわけです。

その頃の人たちにとっては、交通機関といえば鉄道ぐらいしかありませんでした。車なんてものはありませんでしたから、非常に貴重でした。そして、我々が子どもの頃は、なかなか鉄道なんて乗れなかった。ですから鉄道はピカピカ輝いているように思えました。

─ 鉄道は憧れの的だったのですね。

父は網代駅から熱海駅まで、毎日電車に乗って通いました。その父を毎朝、網代駅まで見送りに行っていたのをよく覚えているんですよ。「あぁ、これから親父は電車に乗って熱海まで行くんだなぁ」って、羨ましかったね。自分も電車に乗りたいなぁ、と。そういう思い出がありますね。

今はなんでも車を使うことが多くなってきたけれど、今でも私は鉄道が好きでして。また、電車は時間が正確だし、それに何よりも環境にいい。だから、公共交通として非常に大事だと思っています。他の市長さんよりも、圧倒的に鉄道を使っていると思うな(笑)。

─ 熱海の発展とともに、熱海駅の乗客の数もどんどん増えていったそうですね。

そうですね。私が高校の頃――昭和20年代の後半ぐらいかな――その頃からだいぶ乗客が増えて、電車が賑やかになりましたね。私も網代から熱海まで電車に乗っていましたけど、もう人が乗りきれないぐらいでした。

まだ車もあまりなかったから、電車には観光客もたくさん乗っていた。また、その頃は、団体旅行が全盛でしたから何両も団体客で埋まっていてね。そして、駅もずいぶん賑わったね。

駅には、新婚さんや団体客が大勢いてね。やっぱり当時の熱海は何といっても駅――つまり鉄道が非常に重要な位置を占めていましたね。それは今でも変わりませんが。

明治時代の熱海っていうのは、人車鉄道とか軽便鉄道とか、そういうものはあったけど、これには一般の人はあまり乗れなかったんですね。上層階級の人たちしか乗れなかった。

熱海という土地は、来るための交通手段が限られていて、なかなか来られないというような、そんな高級感のある観光地でしたね。それが、丹那トンネル、東海道新幹線の開通とともに、誰もが来ることができるようになった。それで爆発的に熱海のお客さんが増えたんですね。

─ 熱海の海岸線は、埋め立てによって大分変わってきたようですが、新婚旅行のメッカと言われていた時代の熱海の街や海岸線はどんな様子でしたか?

人がどんどん来るのに合わせるように、海岸線の埋め立てもどんどん進んでいったね。砂浜を全部埋め立てたから、どんどん土地ができた。しかし、素晴らしい熱海の海岸が埋め立てられたのは大変残念です。今、失われた海岸を人工的に取り戻しています。

海岸線にはホテルや旅館が次々に立って、そこに次から次へと人がやってくる。だから、そうなる前――お客さんがたくさん来る前――の方が温泉情緒があったかもしれませんね。今と違って、大きなホテルもなかったし。

大型ホテル全盛期だったころは、ホテルの中にはレストランやお店があるから、夜、街に出るお客さんが少なくなったね。今は、だんだんと外の好きなお店で食事をするという人も増えてきたみたいですけれど。

─ 新婚旅行のメッカ、男性の団体客の観光地だったというイメージが大変強い熱海ですが、今の熱海のイメージというと何でしょうか?

今、熱海は文化の香り高い街づくりを目指しています。そして、花と光のイメージチェンジをしているんですよ。昔は、新婚さんや団体さん。でも今は、個人や家族で出かけることが多くなり、会社の慰安旅行も少なくなりました。

ですから、今度は花や光であふれる街、そして家族連れや女性にも愛される街を目指しています。実際、サンビーチでは砂浜として日本初のライトアップも行っております。また、熱海は早咲きの桜と梅園が有名です。花をテーマにしたイベントもたくさんやっていこうと思っています。これから、どんどんと女性たちにも訪れていただける街にしたいと思っています。

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徳田平八朗さんは昭和5年2月23日生まれ。

生まれも育ちも上野です。お父様が創業された履物屋「丸徳履物店」の2代目として、今も上野の町で活躍されています。
上野駅は東京北の玄関口として、東北、北陸方面からの人々を受け入れてきました。集団就職を迎え入れる上野の人々、戦後間もない頃の「アメ横」の様子、帰省時の喧噪など、じっさいに自らの目で見てきた徳田さんならではのお話を聴くことができました。

─生まれも育ちも上野ですね。

徳田: 親父が初代で、あたしが二代目。昔、仕事を求めて日本全国から東京に集まったでしょう。あたしの親父もそうだった。富山出身だけれど、関東大震災の翌年に縁があって、ここで履物屋を始めたのがここの店の始まり。そして、あたしがここで生まれた。ということで二代目ね。

親父たちから聞いた話によると、関東大震災の翌年にこのあたりで区画整理が行われて、ここら辺ががらっと変わったようだよ。あたしが生まれるより前の話だけれどもね。震災の時の目印は、上野の山の西郷さん。あそこは木が周りにうっそうと生えていて、そこに西郷隆盛の銅像があったから、逃げるときに目印になった。ここら辺もほとんどが震災でやられちゃったそうだし。尋ね人の張り紙が、その銅像に貼り付けられていたという話も聞いたことがあったね。

─ このあたりはお店が多いですね。昔からですか?

徳田:商売というと、このあたりは呉服屋。需要があったのは呉服だったから、この辺は呉服屋さんが多かった。デパートの発祥は呉服屋さんだからね、松坂屋だって三越だって。ここら辺は古着屋さんも含めて、みんな呉服屋さんだったよ。なかでも特にここの通りは古着屋さんで有名な通りだった。当時はたくさんの古着屋が軒を連ねていたね。

とはいっても、終戦直後なんて何もなかったんだよ。青空市場――俗に言う闇市、今のアメ横ね。あれがばーっと立ち並んで。鍋や茶碗や食器、何でも売っていた。食べ物もいろいろあったね。ふかし芋、落花生、うどん、そば......。大鍋で煮込んだシチューのようなものも売っていた。

日本は企業統制があったから、いろいろと大変だった。靴も新品だと捕まってしまうから、人に履いてもらって「新品じゃありません」といって売っていた時代ですよ(笑)。でも、その統制をすり抜けて売られているものもあってね。天下の上野の「アメ横」という名前だけで売れていた。

うちは履物屋をやっていたから、主に下駄。靴を履くようになったのは戦後なんだよ。それまでは下駄だったから。カランコロンという下駄の音が通りから聞こえてきたね。

当時は復員してきた兵隊もいたね。ここら辺にはいなかったけれど、公園の近くに行くと、傷痍軍人といってね、アコーディオンを弾いている人やらがたくさんいたね。あと浮浪者も多かった。戦争で焼け出されたんだね。みんな寝るところがないでしょう。だから地下道で生活していた。今の銀座線の地下道も含めてね。

喧嘩やかっぱらいも日常茶飯事。上野の山に上がっていったところに公園緑地事務所というのがあるんだけれども、あそこのとなりに、昔はプールだったところがあって、そこを埋めてバラックを建てた。そして、そこにその浮浪者たちを収容していたんだね。

─ 高度経済成長期には、上野駅は集団就職の列車で賑わったそうですね。

徳田: 金の卵だとか言ったよね。「責任を持ってお預かりします」ということで、就職の列車が着く時間になると、受け入れ側の商店街や工場の人たちが出迎えにいく。

それで、列車が着くと、子供たち――ほとんどが中学を卒業したばかりの子供たちだったけれども――を引率して西郷さんの銅像のところまで行く。そして、西郷さんに着くと、プラカードを配る。それで、「このプラカードがあなた方を世話する工場ですよ」ってね。

当時は「責任を持ってお子さんをお預かりします」ということで、上野署にも職警連ていうのが設けられていて、子供たちの面倒を見ていたんだね。それが今でも残っている。これがまだ残っているのは珍しいんだけど。責任持って受け入れているよということでね、そういうものがあった。ともかく、出稼ぎの人なんかも、みんな希望を持って、上野に降り立ったものなんだよね。

─ お盆や暮れの里帰りの様子はいかがでしたか?

徳田:当時は、就業時間のぎりぎりまで働いて、それで上野駅へすっ飛んでいく。お国へのお土産をたくさん持ってね。働いている先のご主人がいろいろと持たせてくれる。それでも、「あ、あれを忘れた」となると、友達に列の場所取りをしてもらって、追加の土産を買ってくる。今の丸井の向かい側の広場、あそこにみんな並んだもんだった。そして、並んで夜行列車に乗って帰っていく。人が集まりすぎて、警官が整理にあたることもあったね。

上野駅は東京の北玄関でしょう。「津軽」だとか「八甲田」だとか、いろいろな夜行列車があったよね。「出世列車」といってね、東北とかから出てきた人が出世して偉くなって田舎に帰る列車だからそういうんだね。今はどんどんなくなって、「北斗星」がかろうじて残っているけれども。当時のそういう思い出を持った人が立派になり、定年になって退職するという時になると、必ず歌うのは「あゝ上野駅」。これは忘れてはならない歌だね。

昔の上野駅は全ての(列車の)終点だったし、もっと人であふれていた。靴磨きや待合室があって。あとは両替屋や赤帽さんね。今、タクシーが並んでいるところには人力車。当時のあたしは中学生だったから乗ることはなかったけれど(笑)。

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斎藤哲雄さんは昭和4年6月22日、山口県下関市生まれ。

昭和22年に国鉄に入り、以来37年間勤め上げました。下関駅勤務時代は、出札を中心とした業務に携わりました。現在は、下関駅の歴史の研究に勤しまれ、その成果は、『下関駅物語』、『下関駅百年』としてまとめられています。 下関駅は本連載にぜひとも盛り込みたい駅の一つとして、昨年末予備取材のために訪問していました。その際、副駅長・野上さん、下関駅弁当の荒瀬さんに面会し、いろいろと興味深いお話を伺いました。それから10日後、駅は放火による火災によって焼失してしまいました。斎藤さんと焼け落ちた駅を訪ねました。「ショックの一言で、何も言い表すことはできません」長年慣れ親しんだ駅の無惨な姿を前に、斎藤さんは言葉少なげ。今回は、斎藤哲雄さんから、下関駅での出札掛の思い出を伺いました。

─下関駅に移られたのはいつですか?

斎藤:昭和34年です。昭和22年に17歳の時、国鉄に入って、最初は幡生駅におったんです。その後、小野田駅に10年ほどいまして、それから下関駅に来たんです。(小野田よりも近い駅を希望していたら)やっと「下関駅の出札が空いとるが、どうか?」とね。私は商業学校を出ているのでそろばんの方は自信があったので、出札掛をやっておりました。国鉄は、切符を売る人は出札掛、切符を切る人は改札掛というように仕事によってしっかり分けられていたんですね。

─ 1日の勤務はどんな感じでしたか?

斎藤:朝は8時30分に出て、翌朝の8時30分までの24時間勤務。そして翌日は休み。そしてまた24時間勤務というように徹夜非番、徹夜非番の一昼夜交代制でした。夜中に仮眠を取るんですね。早寝、遅寝の交代で4時間ほど。早寝の人は10時から2時まで、遅寝の人はその後。きつかったですが、それよりも盆や正月に忙しく、みんなが休んでいる時に働く方がきつかったですね。でも、今のような(休みを自由に取ることができる)身分になってみると、なぜあれだけ正月休みが欲しかったのかわからない(笑)。

─ 鉄道職員の皆さんは一般の人が休みの時に忙しくなりますからね。
仕事もたいへんだったのでは?

斎藤:ええ、当時は「弁納」という制度がありましてね。私たちは出札掛ですから、切符の売上を終列車が出たら計算するんですが、これがけっこう合わないことがあるんです。計算が合わない時は、原因がわかるまで何回も何回もチェックやらないけん。それでも合わないと給料から弁償せないけん。これが弁納。月当たり 2,000円とか3,000円になることもありました。中には2万円、3万円になっている人おったんですが、2万円、3万円といえば月給と変わらない。でもその人はケロッとしとる。家がお寺で暮らしには困っていなかったようで、金銭にクヨクヨしないと言っていました(笑)。

─ そんな制度があったのですか。

斎藤:もっとも売上に応じて手当――売上手当が出たんですが、月に500円とか600円くらい。それより弁納の方が大きくなることが多いので泣かされました。今はコンピュータだから間違いも少ないでしょうが、私らの時はせいぜいそろばん。それに自動券売機もなかった。いつも長蛇の列ができておって、いかにお客を掃かすかについてはいつも考えていました。掃かし方がへたやったら仕事になりませんから。こういう割に合わない仕事ですから、「俺は出札掛はせん」と拒否する人もおりました(笑)。

─ 失礼なことを申し上げるようですが、こういうお話を聴くまでは、出札掛って楽な仕事だと思っていました。

斎藤:暑さ寒さ知らずやろうなんて言われますが、そんなものじゃありませんよ(笑)。たいへんな仕事だったんですよ。昭和30年代、40年代当時は、日曜日の午前中、小倉に出る人が殺到するんです。九州(方面の窓口)は7番、8番――1番から3番はみどりの窓口、5番、6番は山陽東海道、9番、10番が山陰の窓口というように分けられとったんですが、小倉行きの切符はたくさん出るんで、すべての窓口で買えるようにしたんですね。多い時は、ひと窓で1日6,000 枚ぐらい売れました。こういう時は、あらかじめ日付を入れて、200枚、300枚手元に用意しておく。混雑する駅はどこでも何か工夫しとったと思いますね。

─ 6,000枚! 12時間かけて売ったとしても1時間あたり500枚。1分あたり8枚ということになりますね。

斎藤:出札掛はお金を扱うという点では、銀行員や郵便局と同じですが、あの人たちと私らが違うのはスピードと正確さを同時にやらないけんということです。お客に急かされながら、発車間際に駆け付けて「汽車、間に合わんぞ! どないしてくれるか!」「早せえ、間に合わんぞ」と怒鳴られることはしょっちゅうで、窓口がダンゴ(=長蛇の列)にならないように、右でお金をもろうて、左で切符を出すようなこともしていましたよ。



─神業ですね。

斎藤:年間通じていちばんたいへんやったのはやはり年始でしたね。九州の故郷におった人が下関にやって来て、ここから列車に乗ろうとするんですね。ご存じかと思いますが、下関は交流と直流の分かれ目の駅なので、直流専用の特急電車は下関までは下がって来れるけど、九州までは入れんわけですよ。(博多など九州からの直通列車は少ないため)下関駅始発の特急が多かったんです。「はと」とか「しおじ」とかですね。

お客さんは帰りの指定券を持ってないと、みな下関に行くんですよ。下関に行ったら、自由席は座れる、指定券も買いやすい。だから、お正月はずいぶん忙しい思いをしました。初盆の人とか契りごとのある人以外は全員出動態勢です。

私たちの正月というのは、正月輸送が済んでから(笑)。こういう混雑する時は、100円札が山のようになって、机の引き出しが一杯になって、溢れ出しそうになっていました。そうなっても数える暇もない。それを夜、8時頃になると勘定するんですね。夜の7時半か8時になると、売上計算をするんです。切符に書いてある番号――残存番号というんですが、それをお互いに読み上げながらチェックしてから引き継ぐんです。売上計算をパチパチそろばん弾いていると、そのうち間違いが見つかって、「あっ、損した!」なんて......(笑)。そうなると、寝る間も惜しんで再計算する。

─ 正確さとスピードの両面が求められるんですね。

斎藤: なんでそんなに時間がかかるのかというと、国鉄には割引制度がとても多いんです。季節割引とか学割、身体障害者割引、あと戦傷者割引というのもあって、さらにそれが割引率によって何段階にも分かれておったんです。それともう一つ、小児断片というのがあって、子供の切符をはさみで斜めに一部を切り落としたものですね。それが小さくてよう無くなるんですね。大人2人、子供2人という場合、大人の切符2枚に、小児断片が2枚出るでしょ。それに学割がかかってなんてことになると、計算が多いですよ。

今はコンピュータですから、そんなに間違いはないでしょうが。でも自動券売機にようけ並んでいるのを見ると思いますね。あれで年寄りがどこまでいくらで、なんて調べながら買っているのを見ていると、昔の出札のが良かったと思います。1枚買う間に、5枚も売っていたのですから(笑)。

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昭和39年の国体の時は、選手の皆さんが宿泊されました。
選手のお弁当を金谷山に運んだことを覚えています。麓まで車で行って、それからお袋といっしょにお弁当を背負って。
金谷山はスキー発祥の地で、当時、スキー客も増えてきましたので、乾燥室を作ることが旅館の条件になってきたんですね。

国体の時は、天皇陛下もお見えになりました。私たち小学生は国道18号に出て、小旗を振ってお迎えしました。新潟地震も同じ年です。震度4くらいでしたか。小学生でしたが、先生に言われて中庭に避難したことを覚えています。それまで地震らしい地震はありませんでしたからね。でも、旅館には地震の影響はありませんでした。

宿泊されるお客様には、本町商店街へ出入りする商売人――問屋さん、あと知命堂病院や中央病院がありますから、製薬会社の人もいました。問屋さんとしては繊維関係。本町には繊維問屋さんが多かったですから。新潟からも、東京からもおいでになりましたね。
高田は総合庁舎などがありましたから、林務、土木など、お役人の出張が多かったです。当時は新潟からでも泊まりだったのです。自衛隊の偉い方がいらっしゃる時は、駅前から橋まで、ジープが並んだことも。うちにも泊まられましたよ。
新潟大学芸能科――昔の新潟師範ですね――がありましたので、受験生も泊まったり、各種スポーツ大会関係者も宿泊されました。
1月、2月はスキー、4月は花見、夏は海水浴。当時は海水浴が流行っていて、谷浜が賑わっていました。臨時列車が出るくらい人出がありましたね。直江津がいっぱいで泊まれないと、高田で泊まるというわけです。

駅の裏の今の駐車場のあたりは、当時貨物ヤードで日通さん関係で物流がありました。そうなると人も動きます。活気がありましたね。
いづも屋デパートはじめ商店街も賑わっていました。当時の高田の人たちの休日の過ごし方というと、いづも屋で買い物をして、「品川」という食堂でごはんを食べて、本町でぶらぶらしてというものでした。映画館も3館ありましたからね。

昔は雪が多かったですね。ここは駅前通ですから、除雪は一生懸命やっていましたが、それでも時々通行止めになりました。
雪で列車が止まると、炊き出しです。駅周辺の旅館は、旧国鉄と協定を結んでいまして、そういう時にはお宿を提供することになっていたんです。足止めを食ったお客さんには、広間に泊まっていただきました。雑魚寝でしたけど、お風呂に入っていただいたり。こういうことが数回ありました。除雪隊の人夫がお泊まりになる場合もありましたね。

旅館は21部屋ありました。昭和39年春に改装し、宴会部屋を作って、部屋も一回りずつ大きく、広間も増やしました。

朝食の準備は6時くらいから。ごはんにみそ汁、卵焼き、納豆、のり、和風の献立です。当時は一泊二食付きが基本でした。お客様も街に飲みに出ることはあまりなくて、接待で仲町に出るくらいでした。今は片泊まり、朝食のみ食べられてという方が多くなりましたが。部屋も六畳にお二人、八畳に三人。大きなお風呂があり、宴会場や広間もありました。
5時半に起きて、玄関開けて掃除して、6時から朝食の用意です。7時からお召し上がりいただき、9時頃には終わります。当時はふとんを上げてあげてから、お部屋で朝食をご用意、部屋出しでしたから重労働でした。
それから、午前中いっぱいかけて掃除して、3時か4時くらいから夕食を仕込みます。ご到着のピークが6時から7時。
夕食を召し上がっていただき、その後、お風呂。その間におふとんをひきます。後かたづけを終えると9時。こんな一日でしたね。

お袋が切り盛りしていました。板前さんが2人、住み込みの人が3、4人。昼間は、近所の人たちが手伝いに来る。親父は外回りです。旅館組合長や商工会議所議員をやっていましたから。お客様の前に出ることはめったにありませんでした。(旅館業を)とくに教わることはありませんでしたね。親の姿をみて学んだんです。

●父と鉄道

薩摩大口駅──それは国鉄マンであった父の最後の職場であり、さかのぼれば、母方の曾祖父の土地に開業した駅でもある。大きくなったら国鉄マンになって、父のあとを継ぐ場所だと心に決めていた「駅」である。

私が物心ついたとき、父は油津駅で、改札と構内アナウンスを担当していた。

──油津 油津 ご乗車おつかれさまでした。車内にお忘れ物のございませぬ よう、お手回り品にご注意下さい。まもなく宮崎行きが発車いたします。次の停車駅は日南、日南でございます

というフレーズを幼い私は、

──あぶちゅー あぶちゅー おつかれました。つぎのていちゃえちは ちなん ちなんでじゃます

と真似していたそうだ。遊び場は当然、父の働く駅である。終日、貨物列車の入換を見たり、出札口にちょこんと座らせてもらい、汽車の絵を描いたりしていた。

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●赤字ローカル線が俎上に

昭和50年代後半、莫大な累積債務に喘いでいた国鉄は、それを脱却するには徹底的な合理化そして分割民営化を余儀なくされていた。その具体策として、赤字ローカル線が俎上に上がり、私の住む大口を走る山野線、宮之城線が選定・承認された。

そのころ高校生であった私は大きなショックを受けた。父を始め、家族全員がたいへん世話になり、思い出のいっぱい詰まったこの薩摩大口駅──感謝の意を込めて、「今できることを精一杯しておこう」と決意したのは、この時である。以来、私は写真撮影や資料の収集に奔走した。それはまさに時間との闘いであった。

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●薩摩大口駅の来歴


薩摩大口駅は伊佐盆地で収穫される米や木材の輸送路線として、大正10年9月11日に開業し、それまで栗野まで馬車に頼っていたこれらの移出や、肥料・食塩その他の物産移入に寄与した。
その後、昭和12年12月12日、山野線の久木野・薩摩布計間、川内方面から東に建設を進めてきた宮之城線の薩摩永野・薩摩大口間も全通し、薩摩大口駅は北、西、南に鉄路を延ばす交通 の要衝としての地位を築いた。

戦時中、軍人の出征や遺骨の出迎え、そして種子島からの学童疎開の受け入れ、米国戦闘機による駅への機銃掃射に見られるような暗い時代を経て、戦後を迎えた。そして高度成長期に入ると、旅客列車のディーゼル化、宮崎・出水間を走破する準急『からくに』号が運転されるなど、鉄道の全盛期を迎えるに至る。
しかし、昭和40年代後半入ると、マイカーに押されて利用者が減少し、ダイヤが間引きされ、貨物輸送は57年11月15日、荷物は59年2月1日にそれぞれ廃止され、旅客営業だけとなった。

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●鉄道の恩恵


鉄道によってもたらされた恩恵は絶大であった。これまで陸の孤島として、新鮮な海産物とは縁遠かった大口であるが、水俣方面で取れる海産物を両手と背中一杯に背負ってやって来る行商のおばさんたちのおかげで、人々は新鮮な海の幸を口にすることができるようになった。

また、駅周辺には、国鉄の物資部、運送店、米検査所、製材工場、商店、金融機関などが次々と建設され、産業、地域経済の発展に大きく貢献した。また、馬車や船で一昼夜近くかかっていた鹿児島までの道のりも3時間あまりに大幅に短縮され、人と物資の流動性が一気に促進された。
このように、鉄道そして駅は地域経済、そして街づくりの中心として重要な役割を演じてきたのである。


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●地域社会の中心として

薩摩大口駅の朝は、山野、菱刈、薩摩永野方面からの通学生で賑わう。往年は4~5両編成でも満員で、一番後の学生が降りるころには、もう先頭の学生は大口高校に達していた、というくらい長い学生の列が駅と学校を繋いでいたという。
昼は、近隣から大口へ病院通いのお年寄りや買い物客がやって来て、駅前通りは活気にあふれ、夜は、帰途のひとときをくつろぐ勤め人が近隣の酒場を賑わせた。

二本のレールは全国に延び、各地の親戚、知人との一体感・安心感を生み出した。そして、その玄関である駅は、単なる汽車の乗降場としてだけではなく、コミュニティーの中心として機能し、様々な人生模様の舞台となったのだ。

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●駅は眠らない

山野線、宮之城線の分岐駅であった薩摩大口駅には、昭和50年代後半まで駅長以下首席助役、助役、運転主任、改札、出札、小荷物担当の他信号場、機関支区、保線区などに約100人もの職員が在籍していた。

早朝5時ごろからの始発列車の仕業検査、入換からはじまり、朝礼、点呼、乗客への案内、通票閉塞器を使用しての運転業務など、職員はそれぞれの業務をキビキビとこなし、午後9時過ぎの終列車の発車後も翌日の準備などに余念がなかった。
泊まり勤務の職員もおり、ディーゼルカーのアイドリング音は、休むことなく、夜通 し駅構内に響き渡っていた。

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●「鹿児島の北海道」

大口の別名は「鹿児島の北海道」──。四方を山に囲まれた盆地の中心に位 置し、冬は放射冷却現象で氷点下7~8度まで気温が下がる。また南九州には珍しく、年に数回積雪もあり、大口駅で十センチぐらいの積雪でも山間部では数十センチにもなり、大口市から川内、人吉方面 、水俣・栗野方面への国道が軒並みチェーン規制や通行止めになるなか、山野線、宮之城線は運休することなく定時運行した。

──汽車が走っで陸の孤島にならんじすんなあ。まこて心強かど

こうした近所の人の声を、私は朧気に記憶している。

しかし、その陰には、カンテラを焚いてポイントの凍結防止に努め、始発列車にさきがけて線路の点検や吹き溜まりの除雪作業に出動する保線区員、見通 しが悪く運転感覚も違うなか慎重に運転する運転士、安全運行を駅で支え見守る助役──そんな人たちのたゆまぬ 努力があったのだ。


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●廃止に至る日々


廃止の日程が決定すると、今まで無関心であった沿線住民が堰を切ったように乗車し始めた。JRが走らせた「さようなら臨時列車」は日を追うごとに別れを惜しむ人々であふれかえり、沿線には日頃皆無に等しかったカメラやビデオを持った人々が繰り出した。ガラ空きだった定期列車でさえも、都会のラッシュ並みの混雑で積み残しが出るほどであった。

鉄道マン達は、最後の日まで安全に列車を運行することを懸命に取り組んでいたが、次第に別れの時が近づいて来ると、

──胸にこみ上げてくるものがあり、本当は放送したくはないんです・・・

と車内放送で、心情をもらす車掌もいた。
私は引退した父に、何度か「駅に一緒に行ってみよう」と声をかけたのだが、決して腰を上げることはなかった。


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●薩摩大口駅、最後の日

山野線、そして薩摩大口駅最後の日となった昭和63年1月31日、早朝よりたいへんな人出であった。定期列車は予備車や日頃他線区で運用されている車両を増結。鹿児島・宮崎各方面 からの「さようなら列車」、その合間を縫って団体列車が線路容量いっぱいに運転された。
JR、県、大口市それぞれの廃止記念式典、山野線を陰から支えて下さった方々への表彰、JRからバス会社への「ハンドル引き渡し式」、乗務員や駅長への花束贈呈や発車式などのイベントが催された。

午後10時過ぎの最終列車の見送りでは、「蛍の光」を背景に、感謝や別れの声が飛び交った。泣きむせぶような長い汽笛を鳴らしながら、ゆっくりゆっくり走り去っていく列車を、私たちは断腸の思いで見送った。
そして自分にとっていかに大切なものであったかを痛感し、先人達が想像もできないような努力をして開業させ、私たちにたくさんの恩恵を与えてくれたこの駅を、みすみす廃止させてしまった世代の人間の一人として、やりきれない思いに苛まれた。

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●廃止から13年

2月1日──それは山野線・薩摩大口駅の廃止された日である。早いもので今年で13年になる。
駅なきあと、大口市は人々の交流・文化の中心地になるようにと願いを込めて、ちょうどホームのあった場所に、平成4年『大口ふれあいセンター』を開館。アトリウム、図書館、多目的ホール、そして鉄道があったころの様子を語り継いで行くための資料館がある。
線路敷は道路になり、都市計画事業もあいまって、駅周辺に鉄道があったころの面影を伝えるものは何もない。久方ぶりに大口市に帰省した方からは、あまりの変わり様に『まるで浦島太郎になったようだ』との声が聞かれるほどだ。

私は鉄道マンにはなれなかったが、父が働いていたこの場所に建設された「ふれあいセンター」に勤務し、鉄道の案内をしていることに奇妙な縁を感じる。今は、薩摩大口駅の思い出を風化させず、未来に伝えていくことが私の使命であり、はなむけでもあると考えている。

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●“箱庭”の風情

「春の霞がかかる山々に囲まれた小さな駅に下り立つと、山の奥からは採掘の音が聞こえてきました。ちょうど駅前の桜が満開で、まさに“箱庭”とでもいうような風情でした」

渡辺誠さんは当時をこう振り返る。今から約25年前、初めて東赤谷を訪れたときのことだ。東赤谷の雰囲気にすっかり魅了された渡辺さんは、以来、この地を何度も訪れた。

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●ヤマの賑わい

1970年代の東赤谷駅は、まだ鉄鉱石輸送でたいへんな賑わいをみせていた。この駅から、専用線でさらに分け入ったところに採鉱所があるのだ。駅には間断なく、山奥からの貨物列車が到着し、貨物列車に積み荷を移していた。
駅付近には、鉱山に務める人たちの家々が軒を連ね、山間のわずかな平地に民家がひしめいていた。その数は最盛期に100戸を越えていたという。


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●夕刻、小さな駅は活気づく

夕方になれば、新発田方面 から息を切らせて登ってきたディーゼルカーがスイッチバックを経由して短いホームにちょこんと停車する。そこから、黒い制服姿の中学生、高校生が降りてきて、小さな駅はにわかに活気づく。

佐藤諭駅長は、その誰とでも顔見知りだ。


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●駅の思い出

「私が駅長の頃には、乗客は学生さんだけでした。週末になれば、焼峰山などに登る人も来ましたけど・・・。とにかくみんな顔見知りでした。駅の周りには、小学校や銭湯、商店などもあったんですよ。でも、今はもうないでしょうね」

当時を懐かしむ佐藤さんは、現在、山内に住んでいる。かつて「新山内」駅があったあたりである。

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●駅長はいま

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まもなくススキを透して右手に一段高く東赤谷駅のホームと直立する駅長の姿が見えてくる。
(宮脇俊三著『終着駅へ行ってきます』「東赤谷」より)
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この「直立する駅長」が、佐藤諭さんである。 佐藤さんは、赤谷線が廃止になる年、国鉄を定年退職した。その後、悠々自適の生活を送っていたが、最近、心臓を患い、療養生活を送っている。 「もう72──、歳ですよ」──と自嘲するが、佐藤さんの笑顔は今も若々しい。


●汽車か、道路か

──汽車がなくなるということになったとき、村中みんな反対しましたねえ。でも、道路を代わりにつくるというので、納得したんですよ

──汽車と自動車、どちらが便利だと思いますか?

──やっぱり、そうねえ、道路の方がよかったのかねえ・・・

「東赤谷」の対岸には、滝谷と呼ばれる集落がある。ここに暮らす星和子さんは、赤谷線廃止当時の記憶を辿る。

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●鉄鉱石を運ぶ汽車

赤谷線は大正9年、商工省製鉄所専用線として開業した。当初は、途中駅である簀立沢までであったが、大正14年に赤谷、昭和16年に東赤谷まで開通した。

急勾配に位置する東赤谷は、スイッチバック式の駅であった。これは国鉄の終着駅としては唯一の存在として、よく知られていた。

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●あの駅はいま

しかし、鉄鉱石の産出が減少したことと、モータリゼーションが進む中で、東赤谷に住む人々は土地を後にした。そして、昭和58年、赤谷線は地元の合意を得た上で廃止されることになった。

東赤谷駅の駅舎は、赤谷線が廃止されても、しばらく残されていたが、3年の後、ついに取り壊された。現在、跡地は整地が進み、その面 影を残すのは、駅の入り口脇に立っていた大きな桜の木だけである。


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小学校を卒業するとき、私は友人と2人で小旅行に出た。八王子から朝早くの八高線に乗り、高崎へ。そこから信越本線に乗り換えた。扉が開け放たれた客車列車で、古ぼけた車内灯がやけに暗く思われた。
高崎にはちょうどお昼頃着いたので、空腹であった。しかし、私たちはがまんした。あと、30分で横川である。

横川に着くや、窓を開け、駅弁屋さんを呼んだ。停車時間はあったが、必死であった。手にした「峠の釜めし」はずっしりと重く、何か特別なものを感じさせた。食べるのがもったいなかったが、軽井沢を過ぎたあたりで箸を付けた。当然、器は持ち帰る。それは私の宝物になった。

今月の「あの駅はいま…」は横川駅を取り上げる。長野新幹線開通にともない横川・軽井沢間が廃止されてから三年半。横川を取り巻く風情は一変した。今回は、「峠の釜めし」に、横川駅の過去と現在を見たいと考えた。

                               

①■宮内庁御用達--「峠の釜めし」

昭和33年10月18日、横川駅は物々しい雰囲気のなかに包まれていた。警察官が各所に立ち並んでいる。まさに厳戒態勢であった。
この日、富山国体へ参列されるために、昭和天皇ご一行を乗せたお召し列車は信越本線を下っていた。午前11時32分(★)、高崎方面から電気機関車に引かれた列車が到着した。あたりはにわかに緊張感が高まった。

ホームに停車して間もなくすると、おぎのや社長・高見澤みねじは、白い布で覆った漆黒の盆を白手袋の手で恭しく捧げ、車内に運び込んだ。--横川名物「峠の釜めし」である。

この日のために、焼き上げられた釜は益子焼き。メニューはお吸い物、フルーツの付いた特製であった。昭和天皇ご自身が希望されたのか、それともお側の者が推挙申し上げたのかは定かでないが、以来、「峠の釜めし」は宮内庁御用達として、皇室の方々に愛され続けている。

②■駅弁ことはじめ

日本の駅弁の始まりは、明治18年7月にさかのぼる。宇都宮駅で販売された駅弁がそれである。握り飯にたくあんというきわめてシンプルなものであった。

「峠の釜めし」の荻野屋が駅弁を扱ったのは、宇都宮にに遅れること半年、昭和18年10月のことであった。同じく、握り飯に漬け物で5銭という値段が付いた。それまで、荻野屋は街道筋で旅館を営んでいたのだが、鉄道開通を受けて、横川駅での駅弁販売に踏み切ったのである。

しかし、「峠の釜めし」の登場まではまだ73年という歳月を必要とした。

③■「峠の釜めし」誕生秘話

昭和30年当時、荻野屋の駅弁は振るわなかった。高崎、軽井沢という「上級」駅に両側を囲まれ、わざわざ横川で駅弁を買う乗客はほとんどいなかった。一日あたりの売上はわずか30~40食あまり。せっかく機関車の付け替えで停車時間があるにもかかわらず打つ手はなかった。

よし、それなら、お客さんに聞いてみよう--荻野屋社長・高見澤みねじはそう思うと、すぐに行動に移した。停車する列車の乗客に、どのような弁当が食べたいのか聞いて歩いたのである。
すると、乗客は口々に「どこの駅弁も同じだ。何か変化のあるものが食べたい」「冷たくて、米が硬い」と言うのであった。「峠の釜めし」の構想が湧いてきたのはまさにそのときであった。
変化があって、地方色があって、暖かい弁当--「峠の釜めし」はこうした着想から生まれた。

④■昭和33年2月10日(★)

釜めしが売り出された。値段は120円に設定された。陶器の値段がばかにならないのである。当時の駅弁の値段は平均80円。高くても100円という時代である。この衝撃的な駅弁の販売を管轄の国鉄高崎鉄道管理局は許可しなかった。重い、危険、ゴミになる、値段が高いなどが理由である。

再三にわたる交渉の結果、許可が下りたのは昭和33年2月のことであった。満を持して販売された釜めしであるが、当初はさっぱり売れなかった。何よりも認知度がなかった。期待に胸ふくらました売り子たちは、売れ残りを担ぎ、肩を落としたという。

⑤■「峠の釜めし」、全国区へ

そんなある日、釜めしが急に売れ始めた。列車から掛かる声は引きも切らず、駅に持ち込まれた釜めしはことごとく売り切れた。当初、何が起こったのか、わからなかったが、程なくして「文藝春秋」のコラムにに紹介されたことが判明した。

以来、「峠の釜めし」は売れに売れた。それを後押しするように、フジテレビで、荻野屋をモデルとしたドラマ「釜めし夫婦」が放送されて、「峠の釜めし」は一気に全国区となった。昭和天皇への積み込みが行われたのは、その年のことである。

この「峠の釜めし」の爆発的売れ行きは、一大駅弁ブームを生んだ。黒磯駅の「九尾ずし」、長万部駅の「かにめし」、苫小牧駅の「シシャモチップ寿し」など、地方色たっぷり、容器も一工夫加えられた駅弁は、旅の楽しみ、そして目的として定着していった。

⑥■立ち売り30年――「峠の釜めし」とともに

桐生富作さんは現在67歳。横川で駅弁を売って30余年になる。桐生さんが荻野屋に入ったのは、昭和45年、すでに釜めしブームが到来してからだ。それまで、林業に携わっていた桐生さんは体力に自身はあった。肩掛けに25個の釜めしを担ぎ、元気な声を上げる。

「釜めしー、釜めしー。釜めし、いかがですかー!」

朝は7時過ぎから夕闇が迫るまで、ホームで釜めしを売る。当時の報酬は歩合制であった。先輩の売り子さんたちは、それぞれの縄張りを作り、その中で次々と売りさばいていた。桐生さんも負けじと車窓を渡り歩いた。

ある冬の日、スキー客の若者で満載の列車がホームにゆっくりと停車した。「さぁ、来るぞ」と桐生さんは身構えた。一斉にホームに飛び出した乗客は、桐生さん目がけて殺到し、手押し車ごと後ろに押し込まれ、ホームにあった池に倒れ込んだこともあったという。釜めしの人気ぶりが偲ばれる。

⑦■「目迎目送」--峠の駅の日常風景

お昼前に、上野から「白山」が来るんですが、これが一番売れましたねぇ--桐生さんは当時を懐かしそうに振り返る。荻野屋トップの売り子であった桐生さんは、1日1500個の釜めしを捌いたそうだ。
当時の給料は7万円以上、「おそらく駅長さんよりももらっていたんじゃないですか」--桐生さんの顔がほころぶ。

列車に向かって、駅弁の売り子さんたちが深々と頭を下げる様子は横川駅の名物である。この「目迎目送」はおぎのやの精神である「感謝・和顔・誠実」に則っている。この精神は、おぎのや中興の祖・高見澤みねじ社長以来のものだ。

 服装には厳しかったですね。ネクタイや帽子が曲がっていると、よく注意されました。でもね、がんばった後には、「ご苦労様でございます」と仰っていただいて、よく褒美のタバコをもらいましたよ--桐生さんは、嬉しそうにみねじ社長を懐かしむ。

高見澤みねじ社長は、昭和58年9月17日、釜めし1億個達成を待たずして亡くなった。

⑧■日本最初の電化区間

明治18年には横川まで、明治21年には長野方面から軽井沢までの工事が完成した。信越本線の全通まで残すところ、横川・軽井沢間だけとなっていた。全長11.2キロ、直線距離で約8キロ、高低差はじつに553メートルというこの区間の工事は難渋を極めた。殉職者は500名超--。こうした尊い犠牲の結果、明治26年4月1日、ついに横川・軽井沢間が開通した。

峠を貫く横川・軽井沢間はトンネルが多い。急勾配のアプト式区間を喘ぎ喘ぎ牽引する蒸気機関車の煙は当然車内に充満した。乗客、乗務員ともにじつに1時間以上もの間、この苦痛に耐えなければならなかった。
こうした悪環境を解決するため、大正2年(★)年3月(★)、この区間はついに電化された。日本最初の電化区間には、10000型(後のEC40型)電気機関車が投入されることになった。

⑨■「峠のシェルパ」

大正11年、この問題(★どんな問題?★)を解決すべく投入されたのが、電気機関車EF63、別名「峠のシェルパ」であった。昭和38年にのアブト式の廃止まで、毎日峠を往復した。

★「峠のシェルパ」のエピソードが一つ欲しい。探してください。

アブト式時代に沿線で使われていた煉瓦造りの橋やトンネルは現在も残っており、国の重要文化財に指定され、歴史を物語っている。

長野新幹線が開通する平成9年10月1日の前日9月30日横川・軽井沢間は廃止された。横川駅は104年という歳月を経て、再び静かな峠の駅に戻っていったのである。

⑩■横川駅はいま…

早いもので、横軽間廃止から3年以上が経過した。特急列車が引きも切らずに発着したホームに到着する列車はほとんどなく、すっかり生気を失ってしまった様子である。跨線橋を渡った向こうのホームには、雨ざらしになった「あさま」が機関車に繋がって放置されている。

            ***

さぁ、間もなくですよ--桐生さんの表情が引き締まった。

高崎駅からの3両(★)編成の各停電車が1番ホームに入ってきた。桐生さんは、カートの釜めしにかかる布の覆いを取り払った。それから、ホームの端に直立するや帽子を取った。そして、入線する電車に深々と頭を下げる。

電車が止まりドアが開くと、乗客がホームに下り立った。そこで、桐生さんは声を上げる。

「釜めしー、釜めしはいかがですかー」

終着駅に下り立つ乗客に、駅弁カートで立ち止まる人はない。

「次の電車では必ず売って見せますよ」

笑顔の桐生さんの言葉に力がこもった。0fa541e9.jpg



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平成7年9月、私はオホーツク海沿岸の廃止ローカル線跡を訪ねた。湧網線、興浜南線、名寄本線--どれも乗ることなく廃止されてしまった。今になって悔やんでも悔やみきれないが、廃線跡をたどることでいくらか癒されるのではないかと考えたのである。

しかし、失われた鉄道の跡は、あまりにも露骨に時の流れの儚さを見せつけただけで、有効なセラピーとはならなかった。この悔恨は生涯負い続けるのだろう。

この旅の終わりに、深名線を訪ねた。最終運転の前夜である。今回はまず、当時の思い出話を聞いていただきたい。そして今回、11年ぶりに、朱鞠内駅跡、幌加内駅跡を訪ねたのだが、その際に、現地で伺った話をまとめてみた。私たちが知っている深名線とはまた違った一面が浮かび上がってくることだろう。ぜひ、ご覧いただきたい。

                               

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①■19時30分、朱鞠内駅にて

平成■年9月2日、午後7時半、私は廃止前夜の朱鞠内駅にいた。すっかり日は落ち、あたりがすっかり暮色に包まれているなか、駅一体だけは異様な熱気に包まれていた。
待合室は鉄道ファンでいっぱいで、窓口は、入場券や記念オレンジカードを買う人で賑わっていた。なかには、定期券を買う人までもいた。

数年前、この駅に来たことを思い出す。冬の寒い日で、おそらく氷点下10度くらいを記録していたことだろう。同じように、列車の乗り継ぎを行う鉄道ファンもいて、ストーブを囲んでいた。
駅前を歩いていると、すぐに耳がチリチリとしてくる。立ち止まると、「シーン」という音が聞こえてくるようであった。

ぼんやりと往時の思い出に耽っていると、周囲がざわめきだした。列車が到着するようだ。私もホームに出て、出迎えた。

②■21時48分、幌加内にて

朱鞠内で列車を見送った後、クルマで幌加内に向かった。線路と平行する道路を走りながら、暗闇を走る深名線のディーゼルカーを眺めた。

幌加内駅に着いて間もなくすると、列車が到着した。廃止前夜ということもあり、地元の人も駅に来ていた。列車が走り去るのを見送ってから駅を出た。駅前に食堂があったので入った。
奥の座敷では、鉄道ファンが数人写真の撮影ポイントをめぐって話し合っていた。私はテーブル席に腰を掛け、天ざるを注文した。幌加内は言わずとしれたそばの産地だ。

テーブルは相席だった。向かい側には、同じくらいの年格好の人がそばをすすっているので話しかけてみた。彼=T君もも同じ悩みを抱えていた。明日の行程に関してである。深名線最終列車にどの駅から乗るか、ポイントはこの一点であった。私とT君は結論を保留したまま別れた。

③■9:48発名寄行き列車

深川駅前の駐車場で目が覚めた。秋の青空がクルマのウィンドウ越しに見えて、美しい。
駅にはいると、既に多くの鉄道ファンで構内はいっぱいであった。9時48分発の名寄行き列車は通路が立ち客で埋まるほどの混みようであったが、幸いにして座席にありつけた。

全開にされた窓から、北海道の涼しい風が車内を吹き抜けた。ボックスシートには、本州から来た学生と社会人、知床から来た中学教師が同居した。目的は同じなので、早々に打ち解けた。

幌加内に着いた。列車はしばらく停車する。駅前には、「幌加内そば」の屋台が出ていたので、私もそばをすすっていると、急に大粒の雨が降り始めた。駅の中に避難していると、傍らにいたお婆さんが「涙雨だ」と呟いた。

④■最後のローカル線

深名線の歴史は昭和■年に遡る。雨竜川の源流に計画された朱鞠内湖ダムの建設がきっかけとなった。ダム建設のほか、近隣から伐採される木材や農作物の運搬にも大きな働きをした深名線だが、その建設の裏側は血塗られたものであった。

<竹内殿 要調査>


その朱鞠内駅に列車は到着した。駅から外に出ると、若い男性がチラシを配っていた。見ると、深名線工事による犠牲者を弔う法要の案内であった。

⑤■駅が「駅」として

列車が終着駅・名寄に到着して間もなくすると「深名線お別れ会」が始まった。私はそのまま折り返すので、車内からセレモニーを眺めた。たすきを掛けた一日駅長が「出発進行!」と叫ぶと、ブラスバンドが「蛍の光」を奏で始めた。ホームに詰めかけた人たちが列車に手を振る。私たち乗客もそれに応える。

列車は来た道をたどり、深川駅に戻ってきた。すでに1往復■キロ乗ったことになる。乗務員からもらった「乗車証明書」も2枚になった。
さて、私はこれからふたたび朱鞠内まで行く。そして、この駅で、名寄からやって来る深名線最後の列車に乗るのだ。
列車は静かに深川駅を出発した。

停車する小さな駅のひとつひとつには、近所のおじさんやおばさんが集まっていて、名残を惜しんでいる。ハンカチを目にあて、手を振っているおばさんを見ると、私の目頭も熱くなる。

おじさんやおばさんは、いまでは停留所のひとつに過ぎないこの駅が、本来の「駅」として機能していた時代をよく知っているのだ。

⑥■3日、19時43分、朱鞠内駅

沿線に陣取る鉄道ファンのカメラは、だいぶ西に傾いた陽を受けてきらきらと輝いている。自転車に乗る子どもたちが、一生懸命ペダルを踏んで列車を追うが、みるみる話されてゆく。のんびりとした風景が車窓に移ろう。さっきまでの喧噪が嘘のようだ。

朱鞠内に到着したのは、午後7時近かった。冷たい雨が降っていた。すでにファンは各方面から集結しつつあった。朱鞠内に「最終列車」が到着するまでに1時間以上ある。

--列車は今、どこを走っているのだろうか。その列車の走り過ぎたレールの上を、二度と列車が走ることはない。二日か三日もすれば、七十年もの間、輝きを失うことのなかったレールは、赤く錆で曇ることだろう。

私は折り返して深川行きとなる列車の座席に腰を掛けながら感傷に耽っていると、にわかにあたりが騒然としてきた。名寄からの列車が到着するらしい。私は窓から顔を出し、遠い暗闇に目を凝らした。暗闇のなかに一点、ポツンと灯が見える。

⑦■3日、20時38分、幌加内駅

名寄からの5両編成の列車は満員であった。列車は私の乗る2両と連結されて、7両という長大編成になった。

間もなく列車は名残を惜しむかのように、ゆっくりと動き始めた。警笛が淋しく闇夜にこだました。ファンたちが焚くフラッシュが一段と強まった。

沿道には併走するクルマのライトが見え隠れする。踏切で足止めを食っているクルマに、我々は窓から身を乗り出し、「がんばれよー」と手を振る。クルマはライトをパッシングさせたりしてそれに応える。

幌加内に着いた。駅には、強い雨にもかかわらず、大勢の人が集まっていた。報道陣も来ているのだろう、ホームには煌々とライトが灯されている。列車はここでさらに3両増結されて、10両で深川に向かう。この10両の列車が深川に着いたとき、深名線のレールからすべての列車が消え去るのだ。

⑧■3日、21時55分、深川駅

町の人たちは、紙テープの準備をしていた。ひとりのおばさんが、私のところにテープの端を持ってきてくれた。色とりどりのテープが車窓とホームを繋いでいる。いよいよだな、と思い、テープを握っていると、連結のため列車が後ろに向かって走り始めた。残念なことに、テープは思いもよらぬことで切れてしまった。

やがて、連結作業が終わると、大きな喚声のなか、列車はホームをゆっくりとすべり始めた。ホームで見送る人たちとハイタッチしながら廃線を悼んだ。来てよかったと思う。

**

深川に着いたのは、午後10時近かった。朝から12時間も乗り続けていたことになる。乗客は列車から降りても、深名線ホームに佇んでいる。
列車が回送される時間となった。

「ありがとうー、しんめいせーん」「深名線、お疲れさまー」

喚声、拍手、万歳で見送った。

駅を出ると、冷たい雨は相変わらずで、私は頭からびっしょり濡れていた。ぶるぶると震えがいつまでもとまらなかった。

⑨■朱鞠内駅のいま…

谷川昇さんは現在74歳、朱鞠内に住んで60年以上になる。元々は、幌加内町添牛内の出身であるが、朱鞠内の好況を見て、移転してきたのである。
谷川さんは呉服屋のほか、旅館、新聞取次店など手広く経営しながら、朱鞠内の盛衰を見てきた。

「朱鞠内大火前は、このあたりには飲み屋がそれこそ10軒以上、中華料理屋、写真屋、旅館など--それは賑やかなものでした」

「当時は、ここだけでも2000人はいたんじゃないの?」

石川鉄一さんが口を挟む。石川さんは生まれも育ちも朱鞠内という76歳。今では数十人を数える朱鞠内の住人の中でも最古参に入る。

「こんなふうになるとは、思っても見なかったなあ」

石川さんは、朱鞠内駅の跡地を指差しながら、谷川さんに同意を求めた。廃止から■年、跡形もなくなった駅跡には、真新しいバスターミナルが建設されていた。

⑩■幌加内駅のいま…

松屋食堂の主人・松本一夫さんは二代目。食堂は母親が昭和34年に始めたものだ。父親は、幌加内駅前の日通に勤務しており、駅に届いた荷物を馬車で近隣へ運ぶ仕事に就いていた。
幌加内町は一時12000人もの人口があったが現在はわずか2000人。駅周辺にも飲食店が14、5軒あったが今はたった2軒--。松屋食堂はその一軒だ。

「幌加内には役場、病院があったので、汽車を待つお客さんが多かったね。夜になると、近所の人がやって来る。冬場は、周辺が橇と馬でいっぱいになったっけなぁ」

当時を懐かしむ松本さんは自慢のそばを湯がきながら回想する。深名線廃止後、しばらくバスの待合所として機能していた旧幌加内駅も昨年原因不明の出火で焼失。現在は跡形もない。

「鉄道ファン? 来ますよ。あまりの変わりように皆さん、驚いているね。でも、毎日、こうしていると、なかなかその変化に気付かなくなってしまってね…」

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■6(水)
神楽坂のオフィスを出て、オペラで関越(竹内を送った記憶がある)。

■7(木)

11:00新潟港

■8(金)

4:30小樽港

函館本線 小樽~長万部取材 札幌泊

■9(土)

宗谷本線 名寄~稚内取材

010609幌延駅


■10(日)

稚内

興部

紋別

網走

標茶 各駅取材 中標津泊

■11(月)

標茶

釧路

■12(火)

■13(水)

11:00小樽港?

■14(木)

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1■起死回生の一策

昭和63年の瀬戸大橋の開通にあわせて、下津井電鉄は勝負に出た。それまでモータリゼーションの進展のなか、営業面で苦戦を強いられていたが、起死回生の一策を講じたのである。

それまでも沿線を「コーストライン」と名付け、イメージアップを図り、ミニSL、ついには、落書き自由の通称「落書き列車」を走らせるなどの工夫を続けてきたが、なかなか効果が上がらなかった。そこに来て、この僥倖である。凋落のローカル私鉄は新造車両を投入した。その名も「メリーベル号」。真っ赤な車体は斬新で周囲にインパクトを与えたが、わずか【2年:調査!】の運転で終わることになった。

努力実らず、平成3年1月1日、下津井電鉄は【82年:調査!】年の営業に幕を閉じた。

#「メリーベル号」の写真
#「落書き列車」の写真

2■下津井電鉄の歴史

下津井電鉄の前身・下津井軽便鉄道(その後、下津井鉄道に改称)は茶屋町・味野(現在の児島)間で開業した。大正2年のことである。その翌年、大正3年に下津井まで延伸した。

762ミリという軌間のナローゲージを走る電車の車内は当然狭く、立ち上がって車内を歩こうとすれば、他の座っている乗客の膝や体にすぐにぶつかってしまうくらいである。

その後、昭和47年3月31日、営業不振のため、茶屋町・児島間が廃止され、児島・下津井間のみの営業となった。この間が残ったのは、平行道路が未整備だったためだが、これによって両端が鉄道に接続していないきわめて珍しい鉄道線となった。

#下津井電鉄の古い写真
#狭い車内の様子

3■瀬戸内の要衝・下津井

下津井は、今でこそ静かな瀬戸内海の漁港という風情であるが、明治に入るまで北前船の寄港地として賑わった。

岡山県を代表する民謡「下津井節」は、往時の殷賑ぶりを今に伝えている。

  下津井港はョ 入りよて出よてョ
    まともまきよてョー まぎりてョ
  下津井港にョ 碇を入れりゃョ
    街の行燈のョ 灯が招くョ
  船が着く着くョ 下津井港ョ
    三十五丁艫のョ 御座船がョ

北でとれた昆布、ニシン粕、かずのこなどを満載した船がやって来るころ、町はにわかに活気づいた。町はずれの女郎屋では近隣の盛り場に応援を頼むほどであったという。

#写真は、下津井のいい風景。俯瞰図など
#港町としての風情ある写真を

4■下津井の見どころ

古くから下津井は四国へ渡る玄関口でもあった。対岸の丸亀へ就航する船は引きも切らず、金比羅参りの観光客で賑わったという。

<現在の下津井>

タコ料理、下津井城址、古い町並みなど

#「むかし下津井回船問屋」
#干しタコ

5■下津井駅の今

下津井電鉄が廃止されてから、早いもので十年が経過した。今も下津井の駅舎は残っているが、身の丈もあるような鉄条網に覆われていて中に入ることはできない。

駅周辺にはかつての賑わいを感じさせるものは何もなく、駅を出てすぐのところにある漁港のたたずまいもじつにのどかである。

遠くに瀬戸大橋が見える。かつての交通の要衝も時代のなかで役割を終えたようだ。




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