「国語」という教科にずっと違和感があった。それは「実用」と「芸術」という二つの異質なジャンルが混在しているからである。
たとえば書道。これはあきらかに芸術分野であろう。
たしかに「国語」を成す日本語を書くわけだが、ワープロの文字と顔真卿の書を同列にするのはいくらなんでも変だ。
つぎに古典、そして小説。これらも日本語で構成されているとはいえ、論説文や小論文と同列に扱うわけにはいかない。
漢文についてはなおさらだ。「歴史」に区分されてもいいくらいだ。
では、そもそも「国語」とは何なのか? 
一般的に「国語力」とは、日本語による文語および口語のコミュニケーション能力を指す。
以前、「国語力に欠ける人はすぐキレる」というエントリーを書いたが、ここでいう国語力もそういう定義に基づいた。
論説文を読むことは、相手の言いたいことを論理的に汲み取り、小論文を書くことは、自分の言いたいことをわかりやすく表現するという訓練だ。それらが「国語」教科に組み込まれていることは理解できる。
しかし、古文、漢文、小説、さらには短歌、俳句、詩などが「論理的な言語操作」を旨とする「国語」に含まれるのはどうにも納得がゆかない。やはり、「芸術」にカテゴライズされるべきではないか。
このような国語をめぐる混同は、我々の生き方にも少なからぬ影響を与えているのではないだろうか。これについては、次回述べることにする。〈つづく〉