太宰治は津軽の名門・津島家の面汚しであった。
あの時代、文学にうつつを抜かし、挙げ句の果て、女と入水自殺をはかるなど、勘当されても当然の愚か者だった。
もっとも、その逆境との対峙が、太宰を芸術家たらしめているわけで、親が全面的にバックアップしていたら、彼はアーターに堕ちていたであろう。
こんにち「芸術」に興味を持った子供に困惑する親はほとんどいない。むしろ将来有望と小躍りするのではないか。
わたしはこの風潮を揶揄したり侮蔑するつもりはない。ただ、アーターへと道を踏み外さぬよう注意を喚起したいだけだ。
アーターはアートをファッションとして身にまとう。「学歴はもう古い。これからはアートぜよ」
流行に敏感なアート家庭の熱気は、ひと昔前のお受験家庭を想起させる。早々と「アート」に舵を切った彼らの嗅覚には感嘆するが、アート戦略は偏差値戦略とは事情がだいぶ違うということをわきまえておきたい。それは、教わって育まれる能力ではないからだ。
北京で現代アートのギャラリーを営んでいる旧友がこんなことを言っていた。
「中国の若手アーティストにはメッセージがある。日本の若手にはそれがない。小手先の技術の人が多いのよね」
芸術は技術ではない。技術には職人という道もあり、それは尊い。だがそれと芸術家を一緒くたにしてはならない。
両者を隔てるものは、内なる情動だ。訴えたいこと、伝えたいことなくして、芸術は成り立たない。魂なき真似事は、本来の芸術から一番遠い所に漂着させることになる。
芸術の時代は到来する。物質的に満たされた我々が、精神的な豊かさを充足させようとするのは自然の流れだ。
そのためには、たしかに芸術はうってつけだ。創作であれ、趣味であれ、研究であれ、没頭できる対象を追い求められる者は、大ヒマ時代の成功者とされるだろう。
そんな直感から、世の親たちは我が子を「芸術」方面に向けようとしているのだろう。その気持ちもわかる。
それなら、道は二つしかない。一つは、芸術教育に身を捧げ、それを教える教師になることだ。
受験勉強体験を生かして、教師になるようなものだ(だが、これは芸術家ではなく、芸術系教師ということになる)。
だが、これを望む親はごく少数だろう。やはり、“真性芸術家”になってもらいたいと願うはずだ。
では、どうすればいいのか。それは、親自身が自分の天命や使命、つまり「物語」に生きることだ。
おのれの物語に覚醒した者は、自然とメッセージがほとばしる。その姿を目の当たりにしたら、子供が自分の物語に出会う道筋を見出す可能性は高まる。
そのためにまずやるべきは、ジャンクなアート消費を慎むことだ。
週末に展覧会に行ったついでに買い物して食事を楽しむ。家族でアートイベントにお出かけ。温泉旅行ついでに、ゆかりの芸術家の記念館に立ち寄る。そんなアート消費者=アーターは、アーター産業のカモでしかない。
そんな消費活動にうつつを抜かすくらいなら、自分の仕事に渾身でのぞむことだ。どんな仕事でもいい。全身全霊で打ち込むことだ。
そうするうちに、その仕事は、芸術の芳香を漂わせるようになる。
おのれの天命、自分の物語に出会えるのは、そんな瞬間なのである。