橋本三治さん(水晶島出身 昭和三年十二月二十日生まれ)

 水晶島・秋味場での暮らし

 生まれは根室ですが、昭和六年頃に親が水晶島へ渡ったようです。だから、幼すぎて当時の記憶はあまりありません。
 除隊してから、島で昆布採りを始めたようです。聞くところによると、私たちが生まれる前だと思いますが、兵隊に行く前には、大きな柳田さんという漁場に勤めていたみたいです。たぶん、それは根室の本庁のほうだと思います。いろいろなところに資本を出してやらせていたところがありまして、兵隊から帰ってきてからは、うちの母親と一緒になって、島で昆布を採っていました。父は十九年に亡くなりました。
 私が住んでいたのは、水晶島の中ほどにある入り江のところです。住んでいた家は質素でしたよ。根室はトタン屋根ですが、島は柾葺きでした。
 学校は、島内の学校に上がりました。私が通ったほうは分校だったんですが、こちらに本校がありましてね、島には学校が二つあったんです。学校の教室は二つから三つ。一年生から六年生まで同じ教室で勉強しました。全員で五、六十人ぐらいでした。教室は結構大きかったと思います。畳でいうと、六十畳ぐらい。今の学校よりも大きいでしたね。
 中には小さな運動場もありました。運動会は野原のようなところで草を刈って、そこでやっていました。家から歩いて大体一キロぐらいのところに学校はありました。学校もこの湾のところにあったけれど、ちょうどこっちの岬にいく道路の近くです。
 この真ん中のあたりは、秋味場というんです。こちらは、トッカリ岬。私のいた部落は秋味場です。
 学校に行っていたときは、三、四年になると手伝いが忙しかったです。昆布をしまうときにムシロで覆うのですが、それを夜になるとしまわないといけないから、親が畳んだものを数えて倉庫にしまって。子供の力ではちょっと大変でしたが、そのうち慣れてしまう。
 普通の家でも子供が多くて、六、七人というのが普通でした。私は六人兄弟で、上から三番目でした。他の家の子供たちも皆手伝いをしていました。島には、学校とお寺があったけれど、部落の他の家も同じ(昆布の)仕事をしていましたよ。
 学校を卒業したのは十六年の春。十九年には父親が亡くなっているので、十八歳くらいからは海に出て仕事をしていたんですよ。二人のうち一人の兄は十八年に召集されて、もう一人の兄は、二十年の三月頃に兵隊にいったんです。で、十九年に父親が亡くなってからは、私一人しかいなかったんですよね。下には弟もいたんですが、家に残っている中では、私が長男のようなものでした。
 十九年くらいになると、若い青年は兵隊にとられて、ほとんどいませんでした。だから、その当時は私たちくらいの年代が一番若くて、あとは高齢で兵隊に行けない人だけ。私も終戦になるまでの二年か三年、昆布採りをやりました。
 戦時中も、島はとても平和でした。昭和二十年七月に根室で大空襲があったときも、島にいました。根室のほうでは煙が上がっているのが見えました。水晶島と根室は比較的近いし、根室には親戚もいたので、船でよく行き来できたんです。一年に何回も行き来をしましたよ。ちょっとした用事があると、自分の小さな船でちょくちょく根室へ。
 空襲になった後も、すぐに行きました。親戚があったから、どうなったか見にね。親戚は皆無事でした。一緒になる前でしたが、当時、私の家内は根室にいまして、その親戚の中には空襲で亡くなった人も何人かいましたね。当時、防空壕が至る所にありまして、無事逃げ込んでも、煙に巻かれて亡くなったり。港の近くは、港の機能(輸送)を途絶えさせるために、港が空襲の標的となりました。空襲後も、根室の親戚はそこに留まり、私は島にいました。
 島では、魚とお米は終戦になる前はわりと食べていました。畑も自由に作れますから、野菜や魚は不自由ないけれども、十八年ごろからはお菓子などはなくなって、砂糖などは配給になりました。
 島の生活はのんきといえばのんきだったけれども、電気はあるところもあればないところもありました。私の住んでいた家もランプでしたが、相泊あたりの大きな事業家の親方の家は発電して電気がありました。
 ランプは、今でいう灯油をつけて。冬は石炭を使いました。立派な家は少なく、質素なものが多かったです。風が入らないように、冬になるといろいろと工夫して。
お風呂もあるにはあって入りましたが、洗い場も質素なもので、お湯をとっておいて顔を洗ったりする程度でした。また、テレビはないし、ラジオも全部の家にあるというわけではありませんでした。ですから、町から見たら生活は悪かったのかもしれませんが、そのほかは暮らしやすかったのではないかと思います。
 そのころの楽しみは、百人一首や、お金をかけた宝引き(〓ほうびき 二メートルぐらいの縄を十五本ぐらい束ね、一本に鈴をつけて引く遊び。十人くらいで行った)でしょうか。
 電話もないけれども、口頭で「今晩何をやりますよ」って寄って遊ぶというのが多かったね。あとはレコードをよく聴きました。みんな持ってたと思います。根室で買ってくるんです。うちの母親は歌が好きでよく聴きましたし、レコードの貸し借りもしましたね。夕食が終わってからレコードを聴くことが多かったです。
 子供のころは、島の小高い山で朝から晩まで遊んでいました。終戦になる前は青年学校というものがあり、冬になるとそこに毎日行っていました。夜は勉強をやりましたが、大体が兵隊の心得のようなものをやっていました。
 十一月ごろになると根室へもあまり行けなくなるんですよね。海が荒れるのと、流氷が来るためです。流氷が来ると船も動けませんから、半月ぐらい新聞が届かないときもありました。

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 サケ捕りと昆布漁

 食べ物は十一月や十月補給しておくので心配はありませんでしたが。冬は魚があまり捕れませんが、保存食――塩で漬けておく物などがありましたので、食べ物には不自由しませんでした。でも、今から見れば、寂しかったかもしれませんね。冬はちょっとの間フノリというのが採れるんだけれども、そんなに長い期間ではありませんでした。
よくやったのはサケ捕りです。私のいたすぐそばにサケがのぼる川があって、夜になると捕りに行くんです。五、六人で行ったと思います。川の名前は忘れてしまったけれども、秋味場のあたりにあった川でした。
 釣り竿でなく、網を川の縁に刺すやり方で、サケの季節の一ヶ月ぐらいの間は楽しかったです。半月くらいで七、八十匹は捕ったと思います。サケは波に乗ってやってくるのだけれど、川を上れずにそれてしまうサケがいて、それを捕まえる。
捕れると家に持ち帰って焼いて食べたものでした。そのほかにも、カレイとかコマイ、チカといった魚が刺し網でとれました。夜、網をさしてくると翌朝には結構な数がかかっていました。
 昆布の漁は朝三時ぐらいに起きて、夜は暗くなるまでやったね。船が戻るのは四時か五時くらい。それから浜で干すために船から降ろす。そうするとだいたい晩になってしまう。昆布の時期はそんな感じで忙しいので、疲れるんです。だからお風呂に入ってご飯を食べたら、呑む人は呑んで、すぐに寝てしまう。そのときは疲れているから遊びになんか歩きません。それが十月の中頃になると昆布漁も終わりになって暇になってくるのですが。
 春秋の昆布は竿で絡めて採ります。夏に採れる昆布は幅があまり広くないのですが、とても長い。天気がいいとすぐに乾くけれど、春秋はなかなか乾きません。三日くらいかかったかもしれません。
 加工などの作業は家族でやります。乾かしたら、今度は検査を受けるのですが、道の検査員がいて、来て検査をするんです。規格にあった長さかどうか、重さかどうか。道の検査員は島内に駐在所があって、月にいっぺん、できた頃に歩いてまわってくるんですよ。
 倉庫の前に陳列しておくと、検査員が中を調べて一等二等と決める。一ヶ月で製品になる量は八、九キロぐらいでしょうか。その日のうちに検査で島内を回りきれないときは家に泊まります。その泊まる先は、部落でそういう役をやる人がいて、そこに泊まって、翌朝また次へ行きます。
 昭和十六、七年くらいに組合ができました。昔は、仕込み親方というのがいて、力のあるお金のある人は、そういう仕事をやらせてました。しかし、頭のいい人がいて、それじゃだめだということで組合ができたんです。
 干場の所有権を持つ人は、根室に多かったです。だから一年に一度、お金にすれば今でいう年間何十万というものを、お金じゃなく昆布で払う。私もその仕込み親方に払っていました。組合ができても、土地の所有は変わらないから引き続きそこに払う。昔はいろいろあって、高く売っても安く帳面につけるなんてことが多かったのさね。「なんぼで売れましたよ」といえば、「はいはい」と言ったもので。だから、島で商売している人は、なかなかお金をつくれなかった。
 だけど、終戦当時はお金が残った。食べ物や衣類が全部点数制だったので、買うにも限度があったからです。そのときに土地でも何でも買えばよかったのだけれどね。終戦になってからは、紙幣の切り替えもありましたし。

 終戦、そしてソ連兵の上陸

 九月の始まり頃、兄も二人とも帰ってきたんです。そこでようやく家族が揃った。根室がやられてしまったから、終戦後は昆布が売れるかどうかわからないでしょう。それに、戦争に負けたということで、皆ショックを受けて、何も手に付かない様な感じでした。1ヶ月くらいは。何をしたらいいかわからずに、路頭に迷うような状態だったのさね。でも、やっぱり生きている以上は食べなきゃならないから、魚を獲る人は獲る。でも、昆布は採りませんでした。
 そして、九月三日にソ連の兵隊が来ました。そのころにはもう、日本の兵隊は水晶にはいませんでした。他の島には、何千人もいるところもありましたが。水晶、勇留、秋勇留のあたりはいませんでした。十人ぐらいいたこともあったけれど、結局全部撤収して、終戦の頃はいなくなっていた。
 九月三日、戦争に負けたということがあったけれど、その日は皆、昆布を採っていました。その日のお昼の十二時一時ころでしょうか、島の三角という場所に船が着きました。
 ここは波が荒いので、昆布があるのです。昆布採りの船が二、三十くらい沖に出ていたところに、二千トンぐらいの船がやってきました。私は見には行かなかったけれども、近くにいた人が呼ばれて、船を見に行きました。そしたら、大きい船だったので、陸までその船をつけることができず、それほど大きくない船にソ連の兵隊十人ぐらいが移って、その船から上陸してきました。それで、その大きい船は行ってしまった。それを見た皆が、「大変だ」って。もう昆布どころではないからね。
 上陸したソ連兵は、島の家を一軒ずつ、日本兵が残っていないか調べて歩いた。島の角っこのところから上がって、そこからずーっと島をまわって。ここの山に火葬場があって、ここで十人ぐらいのソ連兵は泊まったみたいだね。で、次の日に、また一軒一軒まわる。昼は、兵隊か何かいないか調べて歩き、夜になると山の中の火葬場で寝る。
私の家にも兵隊が来ました。土足で上がってきましたよ。そのとき、私の兄が一人いたんだけれど、そのときはもう兵隊の服は着ていなかったから何もされませんでした。結局、二日間かけて島全部の家をまわり終えて、上陸したところに戻ってきました。もう昆布を採る人なんかいません。
 水晶島の人よりも、志発や多楽、勇留の人が船で上陸してきました。一日では根室にたどり着かないからということで、このあたりで宿泊したんです。みんなソ連の兵隊が入ってきて、「もう駄目だ」という思いで。それで水晶の人たちも「やっぱりだめだ」と、どんどん逃げ始めた。
 でも、そうした中でも島に残った人がいたのさ。別れちゃったんだよね。根室に行っても住む家がない。島にいれば食べるものはあるということで。部落の村長さんといえど、「残れ」とか「行ったらいい」という判断は難しかったのさね。それぞれの考えがあったからね。
 私の家からは、妹と兄二人が根室へ多少のものを運んで親戚の家を頼り、行きました。一方、私と下の弟と妹一人と母親と四人が残りました。二十一年になってから、志発にあるソ連のカニ工場に働きに来ないかという誘いがありました。ソ連はカニを捕っていたから、日魯という大きな工場があって。水晶島の住民たちも、残った人の半分ぐらいは引き揚げて、もう半分ぐらい残ったのだけれども、残った人は働かなければ食べていけない。

 ソ連の工場で働き始める

 三月ぐらいでしたでしょうか、私は志発の工場に働きに出ました。私の家では、私一人だけ。相泊という場所に集合しました。ここに大きな工場があって。相泊に行くまでは、ソ連の兵隊も特にうるさくなく、半月ぐらいで撤収したようです。
 志発にはソ連の兵隊がたくさんいましたが、水晶にはいなくなった。でも、昆布を採っても売れるかわからないし、根室は焼けて倉庫もない。誰も沖に出る人はいなくなりました。
 それで、もうだめだと根室へ引き揚げてくる人がたくさんいたし、残ったというのも三分の一ぐらい、百五十戸ぐらいあったでしょうか。ソ連兵はいなくなったので、残った人は何もせずに平凡と暮らしていました。ソ連が入ってきてからは、仕事をしなかったです。昆布も採りませんでした。
 水晶に残ったのは下の妹と弟、母親と私の四人。私はすぐに志発に行ったので、家族ばらばらの暮らしになりました。私の家も二十一年の三月までは島にいたけれど、兄たちが「もう駄目じゃないか」と言うので、たしか四月か五月だったと思いますが、私一人を置いて根室に行ってしまいました。そういう家は何軒もあったよね。
 志発には昔から大きな事業主がいて、五十人や六十人も泊まれるところが何カ所もありました。昆布採りではなく、北千島のサケマスを獲ったり、太平洋から出たり。親方がずっとこの辺にいたんです。だから立派な泊まるところがあった。
 それから二十二年の十月ごろまで、一年八ヶ月いました。その間、いろいろな仕事をしました。私は船に乗ってあちらこちらに行ったり。輸送船みたいなものに載せられたこともありました。ソ連は木工所などがないので、家を建てるといっても、日本の家を壊して、それを材料にして自分たちの家を作っていました。いろいろな仕事を手伝い、給料はソ連からもらっていました。
 一年目は食べ物も良く、兵隊が残したお米があったのですが、だんだんとなくなってくる。二十二年には食糧不足で腹がすいて、腹がすいてね。だから、給料でソ連のパンなんかを買いました。結構暮らせるものなんですね。日本も、根室も食料はなかったですから。
 二十一年には残っていたお米が、二十二年には食べてしまったから、粉を買ったり、小麦粉でパンを作ったり。私たちはソ連が作ったパンが配給されました。日本人の長がいて、その人が出勤簿などを管理して給与計算をしていました。また、仕事によって給与は違っていました。
 志発ではソ連兵との交流もありました。個人的には良い人たちだった。お腹をすかせていると、ちょっと手伝いをしてパンをごちそうになったりしました。言葉もだんだんわかってきますし。
 二十二年の九月いっぱいくらいまではそこにいて、二十二年の十一月二十日だったかな、函館に引き揚げてきました。真岡というところを経由して。二十一年の三月からですから、一年数ヶ月、ソ連の工場で働きました。でもまだ残った人もいました。ソ連のほうでこの人は必要だなという人が、二割くらい次の年まで残ったんです。その人たちも、次の年には引き揚げてきました。
 一人で引き揚げる人は少なくて、家族連れもいました。行くときには、ソ連の証明書があったので引き上げの証書もあわせて持って。
根室に着いたのは二十二年の十一月三十日。函館から根室へは汽車で移動しました。真岡からふた月くらいかかったんじゃないでしょうか。真岡にも二週間くらい留まりました。秋だからけっこう時化るために遅くなって、なかには亡くなった方もいました。布団なんかひけないので。寒いし、良い薬もない。
 脱走した人はだいたいの荷物を持ってくることができたけれど、引き揚げの場合は、衣類と布団くらいしか持てず、食器類などは持てなかったんじゃないでしょうか。
当時、私も若かったから賭博などもやっていました。だから働いていたけれども、あまり荷物の中にお金はありませんでしたね。

 引き揚げ後の生活

 根室に来てからは、島へは行きませんでしたが、一度、漁をしていてソ連に捕まったことがありました。三十二年に家内と一緒になってからですから、三十五年ぐらいだったでしょうか。
 捕まって樺太へ行かされました。そのころはまだそんなに労働も厳しくなかったですが、裁判が終えてからは木工所で働かされました。それが一年ちょっと続きました。
根室の当時の生活は、ご飯も三度食べられなかったほど。食べていたものといえば、うどんや芋の煮たもの。食事は一日一回ぐらいでした。
 六十三、四歳まで、仕事で底引漁船に乗り、サンマやタラ漁。しかし、結婚してから、冬は働きませんでしたね。三月は漁に出る準備で、春四月から十月頃まで働くだけです。十月以降は、同業者の知人と飲みに行ったり。金に糸目はつけませんでしたね(笑)。
漁に出ているときは、船で寝泊まりするので、十日にいっぺんぐらいしか陸に帰れませんでした。しかし、サンマの場合はあまり日持ちがしないから、二、三日にいっぺん帰ってくることもありましたが、それでも晩方にはもう出ていくような生活。船は夜の仕事が多いんです。イカでもサンマでも。
 島を引き揚げてきてからも、田舎は田舎で運動会やなんだと楽しいことがありました。お祭りとか踊りとか、相撲もやったし。特に、お祭りは楽しみでしたね。家族ぐるみでやるから、おもしろいものです。また、魚がたくさんとれればお裾分けをしたし、地域内での行き来は頻繁にありましたね。

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 聴き取りを終えて

 橋本三治さんのお生まれは根室。橋本さんが幼いころにご家族で水晶島へ渡られました。
 お子さんのころにされたという家業のお手伝いや学校でのエピソード、子供ころの遊びから始まり、根室が近かったせいで空襲の様子がよく見えたという、終戦時のエピソードなどなどなど、さまざまなお話を伺いました。
 昭和二十年の根室大空襲の際も、島での生活は平和だったといいます。夜、近くの家で寄りあって楽しんだという「宝引き」やレコードの貸し借りなど、お話を伺っていても、島での豊かで平和な暮らしが伝わってきました。二時間、お話をお聞きする中で、島での平和な様子が一番印象に残りました。
 しかしながら、ある日突然やってきたソ連兵。橋本さんは一人、水晶島を離れ、ロシア人が経営する別の島の缶詰工場で働くことになります。そんなときでも、橋本さんはその環境の中で、ご家族と離ればなれになりながらも、一生懸命お仕事をされました。共に働くなかで、いつしかロシア人とも意志疎通を図ることができるようになり、最後まで任務を全うされたそうです。
 橋本さん宅で「聴き取り」を追えた後、コーヒーをごちそうになりながら、島の歴史や記録がしたためられた、貴重な資料を見せていただきました。「差し上げます」と言われ、恐縮してしまった私ですが、橋本さんの柔らかな口調と物腰に、思わずお言葉に甘えてお借りして東京に帰ってきてしまいました。
 今回、「聴き取り」をした際のテープおこしをしながら、この資料には何度も目をとおし、参考にさせていただきました。
「島を引き揚げてきてからも、田舎は田舎で運動会やなんだと楽しいことがありました。お祭りとか踊りとか、相撲もやったし。特に、お祭りは楽しみでしたね。家族ぐるみでやるから、おもしろいものです。また、魚がたくさんとれればお裾分けをしたし、地域内での行き来は頻繁にありましたね」という橋本さん。東京でこうして原稿を書きつつ、当時、このように自然に形成されていたコミュニティをうらやましく思う私でありました。