22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2019年01月

3年ほど前、小学4年の少年が不審死した。警察は自殺としたが、あまりにも不可解な死に、私はたいへんな衝撃を受けた。
その後、この小学生はシュタイナー学校(藤野ではない)の生徒だったと判明した。
ネット上には、シュタイナー教育との関係を取り沙汰する書き込みがあふれたのは言うまでもない。
ことの真相は私にはわからない。ただ親御さんや学校の責任を問うのは、あまりにも酷だと思う。したがって、ここでは「自殺」とシュタイナー教育の因果関係を述べるつもりはない。
私がこの件を引いたのは、以下の報道記事を紹介するためである。
〈同校近くの住民からは「あそこの学校は親同士の仲はいいけど、生徒同士が笑顔で話しているところはあまり見ないんですよね」という奇妙な声も聞かれる。〉(東スポ ウェブ版からの抜粋)
東スポにしては、じつに歯切れの悪い文章であるが、云わんとするところは汲みとれる。
思うところはあるが、この件については、やはりやめておく。
あらためて、亡くなった少年を悼み、遺族、関係者にお悔やみを申し上げる。

「急に集中力がついてきて、子どもが片っ端から本を読み始めました」――こんなシュタイナー学校の体験談を最近読んだ。
だがこれは本当に「教育効果」なのだろうか。
子供をシュタイナー学校に入れる親はいずれも高学歴だ。彼らの小学生時代も「急に集中力がついて、片っ端から本を読み始め」たのではないかな。要は「遺伝のたまもの」であると言いたいのだ。
知能や性格、そして身体能力はほぼ遺伝で決まる。差別につながるので、大声では言えない御時世だが、もはや真理といってもよいだろう。
ひるがえれば、後天的な教育などというものは、たいして意味がないということになる(ただし、習得しようという意欲があれば話は別だ。ただし、そう思えること自体が遺伝的資質ともいえる)。
親の夢を託し、エゴを満たすために施された「教育」など、数年を経ずしてメッキが剥がれてしまうのだ。気づけば、親と同じような人生を歩んでいる。これが厳しい現実だ。
遺伝と教育については、以前、以下のようなエントリーを書いた。ご参考に。
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『日本人の9割が知らない残酷な真実』(橘玲)はタイトル通り残酷な本だ。
子供の未来を「学校」に託そうとする親たちに、冷や水をかけることになるからだ。
音楽、執筆、数学、スポーツといった分野において、遺伝の影響度合いは80〜90パーセントになるという。
同様に、知能も性格も遺伝であるというから、教育は意味ないのではないかと絶望する親も少なくないだろう。
このスクールで勉強すれば、食いっぱぐれない資格が取得できますよ。この学校で教育を受ければ、芸術性が育まれますよ。
おのれが成しえなかった「理想」への変身を願う親にとって、こうした囁きかけは魅力的に映る。
だがそれは、しょせん開運ペンダントやパワースポットめぐりのようなもので、お望みの結果につながらないのが現実らしい。
自分には才能がないにも関わらず、子供に医者やらアスリートやら芸術家になってもらいたいなどと期待するのは「頑張って血液型を変えろ」というようなものだ。
そんな無茶振りをされた身にもなってみるがいい。それは教育ではなく虐待だ。
だが、悲観的になる必要はない。忌まわしき遺伝的制約を「持ち前」と言い換えてみてはどうだろうか。
遺伝を積極的に受け入れ、それを社会に適合させてゆく力。これこそ教育の本質に他ならない。
先祖代々、営々と受け継がれた所与の持ち前をいかにして生かすかが、当代たる我々に問われているのだ。
遺伝を通じて子供と共有した「持ち前」。これに磨きをかけてゆくという夫婦親子の共同事業。これが親が成しえる最高の取り組みなのではないか。
こんな崇高ないとなみを、学校にアウトソースするのはもったいなさすぎる。

「僕たち、ゲームとかスマホとかやらないけど、不幸じゃありません」
シュタイナー学校(藤野ではない)の説明会で登壇した在校生の弁だ。
申し訳ないが、額面通り受け取れなかった。本心とはほど遠い、強弁に聞こえてしまったのだ。
若い頃の強がりは大事だ。意地を張ることは、血気のあかしだ。強がって強くなる。そんなこともままある。
だがそれも度を過ぎると、憐れみを惹起してしまうから怖い。
女性諸氏にはわかりにくいであろうが、男にとって最もつらいのは同情されることだ。
「本当は羨ましいのでしょうね。かわいそうだから、優しくしてあげましょうね」こういう眼差しが、いちばんこたえる。
「おれ、めちゃくちゃゲームとかやりたいんですけど、うちの学校はだめなんですよね。卒業したら、ソッコーでスマホとか買います」くらい吹っ切れていればいうことはない。
だが、シュタイナー少年たちは賢いので周囲を慮る。冒頭の弁には、その忸怩たる思いがにじみ出ていた。
ゲームに通じて友情を育み、好きな女の子とLINEして心ときめく年頃だ。ふつうに青春を謳歌させてあげたいと思うのは、私だけではあるまい。
また不足体験は、いずれ過剰なかたちで帳尻を合わせられることになる。
「欲しがりません勝つまでは」と我慢を強いられた日本国民は敗戦後、物欲にまみれた。
幼少期に不足を感じたものを生涯追い求めるのが人間のさがであるともいう。
そのあたり、シュタイナー翁はどのように考えていたのだろうか。もう一度学び直す必要がありそうだ。

「今『ドラえもん』という言葉が聞こえてきましたが?(まさか、ドラえもんを読んでいるのじゃないでしょうね)」と先生。
漏れ伝え聞いた、シュタイナー学校でのひとコマである。
「ドラえもん」はシュタイナー教育では御法度だ。キャラクターものは衣類を含め、接することは禁じられている。
一方、うちの坊やはいま「ドラえもん」にのめり込んでいる。
「書籍代は青天井」という父以来の方針にのっとり、毎日のようにドラえもんを買い与えているので、全45巻のコンプリートも目前だ。
ドラえもんは私も読破した。少年に行動を促し意欲を高めてくれる最高のマンガといえる。坊やが「日記を書きたい」などと言い出したのもドラえもん効果だ。
マンガを否定するのは簡単だ。「絵でイメージが固定されやすい」とかなんとか御託を並べればよい。だが、教育というものはそういうものではあるまい。
エデュケーションはラテン語の「educatus(引き出す)」を語源とする。意欲や行動の起点を引き出し、育むことが教育の本質なのだ。
その点、意欲や行動の芽を摘んでしまうシュタイナー教育には首をかしげざるを得ない。
やりたいことはことごとく弾圧され「心身によいこと」ばかり強要される。これはもはやパワハラだ。
パワハラにさらされた子供は、パワハラを平気でやる人間になりやすい。なぜなら、それは彼にとって「普通のこと」だからだ。
「ブラック」の連鎖がいま藤野で始まろうとしている。これを地元民として傍観することはできない。

「ずいぶん待たされたって怒ってたよ」と藤野婦人。知り合いの藤野民が、妹のいとなむ歯科医院で待たされたことに憤っているというのだ。
それは申し訳ない。「ごめんごめん。伝えておくよ」と私はお詫びしておいた。
ところが実情はまったく違っていた。当該の藤野民が大遅刻してきたので、ほかの患者さんを先に通したのだった。
この一件は、いかにも藤野的だ。自分のことは棚に上げて平気で怒る。さらには、当事者でもない者が、同じく当事者でもない私に因縁をつけているあたりがだ。
ほとんどの藤野民は穏健な常識人であるが、類は友を呼ぶ。藤野には、面倒くさい人の比率はかなり高い。
たとえばPTAでご一緒する高尾婦人には、この手の人がまったくいないから、じつに対象的だ。
今後、個人向け「信用格付け」が進展するなか、一人ひとりの品性が問われるようになる。クレーマーや面倒くさい人は、どんどん忌避され排除される世の中になるのだ。
「藤野」の民度がこのままであれば、早晩「申し訳ありません。藤野の方は特別料金になります」ということになりかねない。
藤野在住というだけでレーティングを下げられ、買い物も割増価格、サービスを受けるにも保証人が必要という事態になるかもしれないのだ(すでにヤクザはクルマも買えなくなった)。
パーマカルチャーをうたうのであれば、藤野を品位あるものにしてゆくことだ。藤野婦人よ、まずはお行儀をよくすることから始めよう。

「藤野」に失望して出てゆく人は少なくない。そんな場面に出くわすと、地元民として申し訳ない気持ちになる。責任すら感じてしまう。
「藤野離脱」の最大の要因はシュタイナー教育であろう。
藤野のシュタイナー教育はガラパゴス化していると、多くの離脱体験者は口を揃える。すこし関わった程度の私ですら「なんか、ちげくね?」というシーンに何度も出くわした。
外面的にはシュタイナー教育然としているのだが、そこにはシュタイナー翁の精神が宿っていないように思えてならないのだ。
ゲームやマンガの禁止から始まり、性的成長が促進されるから鶏肉を食わせるなやら、写真を撮らずに心に刻めやら、こまごまとした「規則」がごまんとある。
シュタイナー教育者のその場の気分で方針が立ち上がったり、それを忖度した親がお互い自制自粛したりで、次々と「法制化」されてゆく。その瞬間を、私は何度も目撃した。
たちの悪いことに、これらは明文化されない。だから「空気」をよみながら行動しなければならないのだ。
さらには「空気汚濁」を感知するセンサーがいたるところに張り巡らされ、それに抵触しないよう神経を尖らせる必要もある。これはたいへんなストレスだ。
この本末転倒ぶりは連合赤軍を想起させる。気高い理想を掲げながら、そのドグマによって自縄自縛となっていく構造と道程は、じつによく似ている。
私が泰斗・子安美智子先生から教えを受けたシュタイナー教育は、もっと気楽で伸びやかなものだった。その点、藤野シュタイナー教育はあまりにも苛烈で重苦しい。
藤野シュタイナー教育の実態は、しょせん教育ママによる過激な管理教育なのではないか。
「地上の楽園」を探し求めた挙げ句、「惨劇の現場」に行きつくことは少なくない。
藤野を「山岳ベース」にしてはならない。そのために必要なのは多様性の受容と寛容さなのだが、こればかりは一朝一夕にはどうにもならない。

「藤野論」を始めて1ヶ月、藤野におけるフェイスブック友達とはすっかり没交渉となった。盛池育英会のFBページはもちろん、私個人のタイムラインにおいても完全に交流が途絶えたのである(脱藤野者は除く)。
こうなることは予想できた。藤野はムラ社会だ。ムラへの批判は許されない。私の言動をして「反藤野分子」と目されたのであろう。
困ったことに、批判者のみならず、同調者にまで風当たりが強くなることも想定された。これには頭を悩ませた。そこで私は助走期間を設けることにした。昨秋から、藤野のFB友の記事に「いいね」しないことにしたのだ。
私から「いいね」してしまうと、律儀な藤野紳士淑女が「義理いいね」せざるを得なくなる。そんなことで苦境に追い込むわけにはいかない。
こうして身辺を整えてから、藤野論をスタートさせた。
当初、ごく少数の藤野民が「いいね」してくれたが、まもなく止んだ。周囲からの圧力があったのだろう。
こうしてSNS村八分になったのであるが、私はべつにかまわない(多少忸怩たる思いはあるが)。
だがこれが、もし藤野少年だったらどうだろうか。「藤野」に対する疑念は表に出せまい。出したら即、社会的死が待っている。
親きょうだい、学校の友達、近所の人。リアルでもバーチャルでも、やけに繋がっているのが「藤野しがらみ」。
年端もゆかぬ若者にとって、それは「人生」であり「世界」そのものだ。それに立ち向かうのは容易なことではない。
私が憂えるのはまさにここだ。藤野は類まれな「ムラ社会(「村社会」とは異なる)」だ。ここまでの閉鎖性は、こんにち地方の村落に行ってもなかなかお目にかかれないだろう。
これが藤野版「郷に入れば郷に従え」なのか。「藤野」に疑問を持ったら隠忍するか脱出するしか選択肢はない。
だがその時、脱出するだけの元気を保持できているかどうかは微妙だ。ムラ社会は知らず知らずのうちうちに活力を奪うからである。

園長「みなさん、ぜひ、ご意見ご要望などお聞かせください」「……」
園長「さあ、ご遠慮なく。皆さんのご意見が園をつくるのです。さあ」
「では」と私はおもむろに切り出した。園長の呼びかけに応えるべく、ひと肌脱いだのである。
だが、意に反する意見だったのだろう、園長は目をそらし眉間に皺を寄せた。みんな息を凝らしている。
幼稚な私は、すかさず反撃した。「なんでも言えというから言ったのに、その態度はなんですか」
園長はさらに眉間の皺を深め、顔ををくしゃくしゃにしてうつむいた。
先輩父母によれば、園長(シュタイナー教育を施す幼稚園の園長。すでに退任)のダブルバインドは毎度のこと。だから、園長の意に沿うように立ち振る舞うのが賢明ですよ、とのことだ。
よくも悪くも、男というものは真に受ける。女はその点、言葉の綾を汲み取ることに長けている。
母親たちは、園長の独裁体質と綺麗事癖をひと目で見抜き、それに即したそつない対応ができるのだが、私のような阿呆はダブルバインド・トラップにみごとにひっかかってしまう。
私は歯向かうからまだいいが、同じような目に遭い、膝を屈してしまった藤野紳士もいた。それが原因とは思えないが、彼の一家は、まもなく藤野を去っていった。
冒頭の光景こそ「藤野」の縮図だ。「自由」を標榜しながら、じっさいは凄まじい「空気読め」圧力が横溢するのが藤野なのだ。
メンタルを病む一大要因はダブルバインドであるといわれる。大人の言行不一致が少年の心を蝕む最たるものだ。
相手の言葉を真に受けることができる、そんな素直な少年であればあるほど罠に落ちる。それが繰り返されるうちに、やがて少年の目は輝きを失ってゆく(あるいは詐欺師的にギラついてゆく)。
いずれにしても「藤野」に夢を託した親の理想とするところではあるまい。
社会的座標軸の確立と偏在する不可解磁場の解消。この2点が藤野少年の魂を救済することになるのだが、むろん容易なことではない。

伯父の葬儀できょうだいが集まった。とくに長妹一家とはご無沙汰していたので、子供たちの成長ぶりには驚いた。
娘は中1。九段の白百合学園に通っている。物腰のたしかさと清楚さには目をみはった(白百合の制服も最高!)。
弟はやんちゃな小5。勉強嫌いのゲーム好きだが、毎日を楽しんでいるようで何よりだ。
「皇室みたいだね。秋篠宮様の子供のようだ」と言うと義弟は「いやいや」と謙遜してみせた。
だがその後、娘のお受験にあたり、夫婦で皇室モデルを取り入れたのだと、家内を介して知った。最高w
私には妹が3人いる。しかも私を含めて全員に男児がいる。
私は藤野系母の圧政下で辛酸を舐めたものだから、当初、妹たちの育児は気がかりでならなかった。
変な信念にはまり、視野狭窄に陥り、息子の人生を蹂躙するのではないかと危惧したのである。
だが、いまこうして見渡してみれば、それは杞憂だったようである。少年たちの目は輝き、無駄なストレスにさらされている様子はないからだ。
そういえば、以前末妹が言っていた。「お兄ちゃんが親と対決してくれたおかげで、私たちは助かった」と。
母親というものは、愛するがあまり盲目になり、その結果、子供と社会的心中してしまうのは、なにも今に始まったことではない。
妹たちは母親の姿を見て、反面教師にしたのかもしれない。ちなみに、義弟たちも、妹たちの尻に敷かれることなく父権を保っている。
死した伯父も彼の地から、我が社稷の男児たちを見守り続けてくれることであろう。合掌

「でも結果的に、自由と創造性を掴むのかもしれませんよ」と藤野紳士。藤野論を踏まえての弁だ。
少年にとっての「藤野」は、息の詰まる、騒々しい、恥ずかしい、気苦労の多い、消耗著しい、なにかと面倒くさく、面白みのないコミュニティである。
だが、それがために、藤野を脱出したいという意欲が高まり、結果的に「自由」と「本物」を獲得するのではないか。彼はこう言うのである。
藤野的「アート」や藤野的言行不一致を反面教師にして、本物の創造や自分らしい生き方を発見する。
これはあり得る。なぜなら、私自身が歩んだ道のりでもあるからだ。
私は「藤野家庭」に育った。母親が全権を握り、父親はファッションで芸術を愛でるアーターであった。
私の半生は、両親の軛から逃れ、呪縛を解き、除染し、みずから座標軸を一から構築することに費やされた(まだ道半ばであるが)。
その点、先の藤野紳士の言うように、私は「藤野的環境」を逆手にとって、人生を切り開いてきたといえなくもない。
だが、万人が私のような元気者ではない。むしろ例外的存在といっていいだろう。
私は批判を浴びれば浴びるほど、孤立すればするほど、エネルギーがみなぎってくる変態だ。
いまの藤野に、そんな絶倫少年がどれだけいるだろうか。ほとんどいないのではないか。
座標軸がねじれ、磁場が入り乱れるコミュニティ。逃げ場のない、一様性価値観の支配する核家族。
母親の趣味と気分に振り回され、立ち向かおうものなら即座にねじ伏せられ、敗北感とおのれの無力さを痛感させられる日々(父親は不在か無力だ)。
いつしか目はうつろになり、力のない笑みを浮かべることで、その日その日をやり過ごす。こんな閉鎖環境に身を置いていれば無理もない。
「藤野」は女権社会の象徴ともいえる。こんにち、もはや社会的弱者は男だ。
男の解放なくしては、少子社会に歯止めをかけることはできないし、経済発展もなし得ない。世界平和も社会の成熟も、ひとえに「藤野少年」の肩にかかっている。
「藤野」に警鐘を鳴らすことは、22世紀に向けて果たすべき、当事者としての責務なのである。

家内と娘は広島の実家に帰省。息子は妹家族や祖父母と旅行。私はひとりお留守番。男に不可欠な「孤独」を満喫している。
こんな時も、ほぼ全ての藤野家庭は一人欠けることなく、家族で行動していることだろう。
帰省したり旅行したり様々だろうが、男にとって、常に誰かといることは苦痛でしかない。「孤独」は男にとって、かけがいのないものなのである。
尾籠な話になるが、男は「溜まる」生き物である。五十近くになっても、まだまだ溜まる(私の祖父など、七十になってから二人の子をなしたw)。
ひとたび溜まったら、自分でいじるか嫁を御すくらいしか発散の方法はない。
むろん手近なのは「ひとり遊び」であるのだが、それには個室が必要だ。
昨今の個室否定ムードが蔓延しているせいか、藤野家屋を見ると「みんなのスペース」ばかりが重視され、個室は少ない。これには、男として胸が痛む。
中学生にもなれば、男は大いにさかんになるものだ。健康で野生的であればあるほど溜まる。しかし、出さなければ次第に溜まらなくなる。そんな話を以前、太平洋戦争から帰還した古老から聞いた。
つまり、発散しにくい環境に身を置いていると、胤が減ってくるのである。ここにも、藤野のサステナビリティの危機が見て取れる。
その点、私はまだいい。いよいよ妻と没交渉となれば、浮気するとか風俗に行くという手もあるからだ(もっとも、そんな甲斐性も衝動もなくなってしまったのだがww)。だが謹厳なる藤野紳士に、そんなオプションはない。
となると残るは、嫁との交渉ということになるのだが、司馬遼太郎が言うように「男の性衝動は、数千年来、弱き者に対してのみ能力を発揮する。強きをくじくようにはできていない」。
これまで述べてきたように、藤野婦人は最強だ。「強き」を前にして「能力を発揮」できるか、藤野紳士の真価が問われることになる。
ついでながら藤野婦人は白髪を放置し、ざっくりとした自然素材に覆われているせいか、体の線には無頓着のようでもある。これはあるいは、夫を欲情させないための「武装」なのかもしれない。
子をなすという使命をまっとうした男たちは用済みなのか。藤野紳士の目がうつろになるのも無理もない。

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