22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2018年09月

『日本人の9割が知らない残酷な真実』はタイトル通り残酷な本だ。
子供の未来を「学校」に託そうとする親たちに、冷や水をかけることになるからだ。
音楽、執筆、数学、スポーツといった分野において、遺伝の影響度合いは80〜90パーセントになるという。
同様に、知能も性格も遺伝であるというから、教育は意味ないのではないかと絶望する親も少なくないだろう。
このスクールで勉強すれば、食いっぱぐれない資格が取得できますよ。この学校で教育を受ければ、芸術性が育まれますよ。
おのれが成しえなかった「理想」への変身を願う親にとって、こうした囁きかけは魅力的に映る。
だがそれは、しょせん開運ペンダントやパワースポットめぐりのようなもので、お望みの結果につながらないのが現実らしい。
自分には才能がないにも関わらず、子供に医者やらアスリートやら芸術家になってもらいたいなどと期待するのは「頑張って血液型を変えろ」というようなものだ。
そんな無茶振りをされた身にもなってみるがいい。それは教育ではなく虐待だ。
だが、悲観的になる必要はない。忌まわしき遺伝的制約を「持ち前」と言い換えてみてはどうだろうか。
遺伝を積極的に受け入れ、それを社会に適合させてゆく力。これこそ教育の本質に他ならない。
先祖代々、営々と受け継がれた所与の持ち前をいかにして生かすかが、当代たる我々に問われているのだ。
遺伝を通じて子供と共有した「持ち前」。これに磨きをかけてゆくという夫婦親子の共同事業。これが親が成しえる最高の取り組みなのではないか。
こんな崇高ないとなみを、学校にアウトソースするのはもったいなさすぎる。

北京で現代アートのギャラリーを経営している友人が嘆いていた。
「日本のアーティストには怒りがないの。中国のアーティストには怒りがある」
社会に対する怒り、自分に対する怒り、境遇に対する怒り。ボノもスティングも若かりし日、その怒りを音楽にぶつけた。いずれにせよ、怒りはおのれのテーマをもたらしてくれる。
かっこ悪いが、わたしの場合は、親に対する怒りだ。それが淵源となり、その後の人生のテーマとエネルギーをかち得た。
『英雄問答』は父への怒り、古老からの聴き書き集は、愛する祖母を蔑む親類への怒りが根底にあった。
こんにち、日本では「芸術教育」が花ざかりである。
ふた昔前なら博士か大臣、ひと昔前なら医者か弁護士だったのが、いまや芸術家にシフトした。
だが、わたしに言わせれば、それは芸術風職人あるいは、芸術業界関係者になるためのものである。
その理由は、言うまでもなく、根底に「怒り」がないからだ。
怒りを訴えたい、怒りを昇華させたい。その強烈なエネルギーが創作の原動力になる。
それなくしては、メッセージもないのに、文章教室に通って小説を書こうとするのと変わらない。
古今東西、貴族の子女など、衣食住の心配から隔絶した者たちは、より上位のテーマを持ちうる。だが、それはごく少数だ。
適度に家族円満で、適度に衣食住が満たされ、適度に愛情や刺激が満たされた一般家庭には、そんな有閑活動人=芸術家の存在は許されない。
「早く芸術をひと通り勉強して、いい仕事に就きなさい」では、芸術の芽は育まれない。
そんな現世利益主義者が芸術家の「怒り」に感応できるはずもなく、むしろ、芸術家をつぶす側に立つのがオチだ。
芸術は、荒くれ者の聖域だ。安易に関わると、それにともなう業までも引き受けなければならなくなるだろう。

多様性を言うのなら、ヒモや妾もひとつの生き方として認めてはどうだろうか。LGBT同様、それは一種の性的かつ社会的マイノリティーだからである。
女に面倒をみてもらうヒモは、社会的通念からすれば肩身の狭い存在だ。
だが、男は経済的に自立なければならないという考えも、もはや古めかしい。ヒモは男のあり方の一つとして認知されてもよいだろう。
妾にしても同様だ。夫と共に家を経営するのが正妻だとすれば、バイトのように気楽な妾のほうがいいという人もいるはずだ(それも、けっこう多いはず)。
わたしの父は妾の子である。川を挟んで本宅と妾宅があり、酔っ払っては、夜な夜なふんどし一丁で川をザブザブと行き来していたと聞く。
亡き祖母といえば、プロレスを観ながら、酒を飲みタバコを吸っている姿が思い出される。
だらしない印象の人であったが、彼女には分限者の二号さんが似合っていたように思う。
何事においても折り目正しい母方の祖母とは、拠って立つところが根本的に異なると、子供の目にも映った。
じっさい、わたし自身、最初の結婚をしているとき、「妾(愛人ではなく妾と言われたw)にしてほしい」と言われたことがある。
相手が多少エキセントリックな人であり、また、そんな甲斐性もないのでとぼけて逃げた。
そういえば、「そのへんの男の妻になるくらいなら、アラブの王様の第三婦人になりたい」という美女もいた。
昨今の生涯独身者の増加の背景には、こんな事情があるのかもしれない。
つまり、家庭を共同経営する正妻は荷が重い。気楽な妾だったら、なってもいいけど、浮気男はたくさんいても、丸ごと面倒みてくれるような旦那衆は見た当たらない…
批判を承知でいえば、動物としての人間は、一夫四妻くらいがちょうどいいのではないか。
結婚にあぶれた男は、お茶を引いている女房のところに裏口から現れる。
間男する馬喰や夜這いする若衆こそ、ナチュラルでサステイナブルな生態系を現出するのではないか。
ヒモ諸君、妾諸君、いまがチャンスだ。LGBTを突破口にして社会的地位を確立しよう。

追記 ただし、妾やヒモの元に生まれた子供がハッピーかどうかは微妙だ。我が父は、おのれの境遇をよしとはしていなかったからだ。

経営者でなくもない。教師でなくもない。投資家でなくもない。作家でなくもない。政治家でなくもない。職業を尋ねられると、毎回困惑する。
ただこの困惑は、私が22世紀型人間であることの証拠なのかもしれないw
いま第一線で活躍する人たち、たとえばホリエモンや落合陽一といった人たちは、一つの肩書きでは括りれない活動をしている。
たとえば、今をときめく落合陽一は科学者、芸術家、経営者、作家、大学教師という顔を持つ。だが、それはむしろ「落合陽一」というタレントが科学、芸術、経営、文筆、教育を手がけているといったほうが的確だろう。
こんなダヴィンチ人間が今後増えていくことは確実だ。
医者の誰それ、東大卒の誰それ、なんとか銀行の誰それ。そんな肩書きは旧時代のアイデンティティとなるのだ。
とはいえ、いまだ世の中は、肩書きで相手を理解しようとする人が大半だから、わたしのような小ダヴィンチは胡散臭い目で見られる。
落合陽一やホリエモンのように、今後、わたしのブランドが確立されるかどうかは微妙だ。生涯、すわりの悪い思いをしながら、名声を博する日を夢見たい。
さて、視点を家庭文化に向けると、今後「ブランド確立」は自立や個性に替わる教育の基軸となるだろう。
これにともない、稼ぐ力から投資(期待)される力へと、求められる力もシフトせざるを得ない。
投資されるような人物になるには、よりよい未来をつくるためのビジョンやそのためのよき人間関係を語る必要がある。おのれ一個の損得で生きる者は見向きもされないからだ。
利己の時代から利他の時代へーー人間社会は着実に進化してゆく。世の中はどんどんよくなっていくようにできているようである。

しばらく前になるが、幼稚園のパパ友数名で懇親会を企画した。
会場は幹事たる我が仕事場。聞きつけた坊やも行きたいというので、おいでと言った。
数日後、参加者のAさんから「子供の参加はいかがなものか」というメッセージが入った。
私は「翌日休みだし、さっさと寝てしまうから問題なし」とこれを一蹴。
すると、こんどは参加者Bさんからも横槍が入った。
なにやら奥歯に物が挟まったような言い方なので尋ねてみると、Aさんの奥さんから圧力がかかったらしい。それも、Bさんの奥さんを介してだ。
私はスルーした。Bさんの奥さんに、そんな要求をされる筋合いはないからだ。
当時、坊やが通っていた幼稚園は、シュタイナー教育に基づいていて、食事、衣服、言葉遣いなど、じつにさまざまなルール(明文化されていないから空気を読むw)が多かった。そのひとつに早寝早起きがある。
もちろん早寝早起きはいいことだ。うちでも、子供たちは8時には床に就いている。だが、それを他人に勧めるつもりもないし、ましてや強いることなどありえない。なぜなら、そんな言動は子供をもっとも害すからである。
瑣末なことにピリピリして、意に染まぬからと騒ぎ立て、平然と他人に強要する。こんな親の言動を真似した子供たちは、いずれ社会で孤立することになる。これでは、早寝早起きして健康になったところで何の意味もない。
木を見て森を見ず。目先のドグマに縛られて、より高次の価値が見ないのだ。
視点を高めるためには、おのれに対する苛烈なまでの客観視が不可欠だ。だが、教育熱心な小皇帝たちがそのような成熟の機会を持つことは期待しにくい。
だからといって、ツノ突き合わせるのは愚の骨頂。そんなことより、自分のなかに、同様の視野狭窄がないか検証しつつ逃げを打とう。
ここがドラクエと違うところだ。世のモンスターは戦うために存在していない。上手に回避することで経験値になるのだ。

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