22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2018年05月

「国語」という教科にずっと違和感があった。それは「実用」と「芸術」という二つの異質なジャンルが混在しているからである。
たとえば書道。これはあきらかに芸術分野であろう。
たしかに「国語」を成す日本語を書くわけだが、ワープロの文字と顔真卿の書を同列にするのはいくらなんでも変だ。
つぎに古典、そして小説。これらも日本語で構成されているとはいえ、論説文や小論文と同列に扱うわけにはいかない。
漢文についてはなおさらだ。「歴史」に区分されてもいいくらいだ。
では、そもそも「国語」とは何なのか? 
一般的に「国語力」とは、日本語による文語および口語のコミュニケーション能力を指す。
以前、「国語力に欠ける人はすぐキレる」というエントリーを書いたが、ここでいう国語力もそういう定義に基づいた。
論説文を読むことは、相手の言いたいことを論理的に汲み取り、小論文を書くことは、自分の言いたいことをわかりやすく表現するという訓練だ。それらが「国語」教科に組み込まれていることは理解できる。
しかし、古文、漢文、小説、さらには短歌、俳句、詩などが「論理的な言語操作」を旨とする「国語」に含まれるのはどうにも納得がゆかない。やはり、「芸術」にカテゴライズされるべきではないか。
このような国語をめぐる混同は、我々の生き方にも少なからぬ影響を与えているのではないだろうか。これについては、次回述べることにする。〈つづく〉

収録後のタクシーの車中。グロービスの堀義人さんが「まもなく4人めの男の子が産まれるんだよ」とおっしゃった。
3人の男児は(記憶が曖昧だが)、健人とか治人とか、「コンセプト+人」というパターンの名前だった。堀さんはそれぞれの命名に、政治家、経営者、アスリートになって欲しいという想いを込めたという。
次の子供の名前をいま考え中だというので「アートはどうですか?」とふってみた。
「アートか、芸術家。いいね。でも、どんな字をあてるの?」
「『噫』とかどうですか。噫人」
「うーん…」
こんにち芸術家がもてはやされるのは、その自由さゆえではなかろうか。
一方、銀行員をはじめとする、サラリーマンの人気がガタ落ちだが、その背景には「カネやステータスよりも自由気まま」という価値観の高まりがあるのではないか。
起業ブームについても同じことがいえる。起業家は自由気ままで楽しそう。嫌な上司もいないし、時間も自由。カネに不自由しないし、モテそう。
これらは多分に誤解なのだが、そんな上っ面のイメージだけで行動に移してしまうおっちょこちょいも少なくない。
最近の学生はしっかりしているが、それでも、30年前なら銀行員や広告代理店を目指したような面々がいま、芸術やら起業やらに流入しようとしている。
彼らがその道で成功するかどうかは微妙だ。なぜなら、芸術やら起業というものは、スキルとか経験というものではなく「体質」だからだ。
暑がり、酒飲み、肥満などと同様に、芸術家体質があり起業家体質がある。サラリーマン体質というと抵抗があるのなら、御家中体質というべきものもあり、それはそれで尊い。
それを変えようというのは、血液型を変えるくらい困難なことだ。その時間と労力は、自分の得意分野を伸長させる方につかうべきではないか。
さんざん事業失敗を繰り返してきたわたしであるが、じつは安定志向の権化である。安定するために起業を繰り返し、不安定にならないために勤め人になろうとしないだけのことだ。
これは、どちらがいい悪いという話ではない。体質なのである。受け入れた上で、戦略を立てる他ない。
さて、起業体質者の行動癖の一つに「逆張り」がある。
今こそ、サラリーマンになって、銀行に勤めるタイミングなのではないか――そんな妄想がふと頭をよぎることもある。だが、急激な体質改善は大病の元。もう、ジジイだ。ここは自重しておこう。

太宰治は津軽の名門・津島家の面汚しであった。
あの時代、文学にうつつを抜かし、挙げ句の果て、女と入水自殺をはかるなど、勘当されても当然の愚か者だった。
もっとも、その逆境との対峙が、太宰を芸術家たらしめているわけで、親が全面的にバックアップしていたら、彼はアーターに堕ちていたであろう。
こんにち「芸術」に興味を持った子供に困惑する親はほとんどいない。むしろ将来有望と小躍りするのではないか。
わたしはこの風潮を揶揄したり侮蔑するつもりはない。ただ、アーターへと道を踏み外さぬよう注意を喚起したいだけだ。
アーターはアートをファッションとして身にまとう。「学歴はもう古い。これからはアートぜよ」
流行に敏感なアート家庭の熱気は、ひと昔前のお受験家庭を想起させる。早々と「アート」に舵を切った彼らの嗅覚には感嘆するが、アート戦略は偏差値戦略とは事情がだいぶ違うということをわきまえておきたい。それは、教わって育まれる能力ではないからだ。
北京で現代アートのギャラリーを営んでいる旧友がこんなことを言っていた。
「中国の若手アーティストにはメッセージがある。日本の若手にはそれがない。小手先の技術の人が多いのよね」
芸術は技術ではない。技術には職人という道もあり、それは尊い。だがそれと芸術家を一緒くたにしてはならない。
両者を隔てるものは、内なる情動だ。訴えたいこと、伝えたいことなくして、芸術は成り立たない。魂なき真似事は、本来の芸術から一番遠い所に漂着させることになる。
芸術の時代は到来する。物質的に満たされた我々が、精神的な豊かさを充足させようとするのは自然の流れだ。
そのためには、たしかに芸術はうってつけだ。創作であれ、趣味であれ、研究であれ、没頭できる対象を追い求められる者は、大ヒマ時代の成功者とされるだろう。
そんな直感から、世の親たちは我が子を「芸術」方面に向けようとしているのだろう。その気持ちもわかる。
それなら、道は二つしかない。一つは、芸術教育に身を捧げ、それを教える教師になることだ。
受験勉強体験を生かして、教師になるようなものだ(だが、これは芸術家ではなく、芸術系教師ということになる)。
だが、これを望む親はごく少数だろう。やはり、“真性芸術家”になってもらいたいと願うはずだ。
では、どうすればいいのか。それは、親自身が自分の天命や使命、つまり「物語」に生きることだ。
おのれの物語に覚醒した者は、自然とメッセージがほとばしる。その姿を目の当たりにしたら、子供が自分の物語に出会う道筋を見出す可能性は高まる。
そのためにまずやるべきは、ジャンクなアート消費を慎むことだ。
週末に展覧会に行ったついでに買い物して食事を楽しむ。家族でアートイベントにお出かけ。温泉旅行ついでに、ゆかりの芸術家の記念館に立ち寄る。そんなアート消費者=アーターは、アーター産業のカモでしかない。
そんな消費活動にうつつを抜かすくらいなら、自分の仕事に渾身でのぞむことだ。どんな仕事でもいい。全身全霊で打ち込むことだ。
そうするうちに、その仕事は、芸術の芳香を漂わせるようになる。
おのれの天命、自分の物語に出会えるのは、そんな瞬間なのである。

わたしほどPTAに向いている男はいないのではないか。日ごとにその思いを強くしている。
まず、PTAはヒマ人でなければつとまらない。
つぎに、男であることも大きい。坊やの学校のPTAは、わたし以外全員女だ。
だから、男のわたしがいることは、必要以上にありがたがられる。ちなみに、「PTA会長は男性が望ましい」という暗黙の了解もあるらしい。
極めつけは、わたし自身がPTA活動に意欲的なことである。元来、なんでも体験してやろうという気持ちが強いものだから、PTAという”魔境”への潜入にも心ときめくものがある。
わたしはいま、PTA広報委員長をつとめている。ぐいぐいとチームを引っ張るものだから、及び腰のお母さんたちからは感謝され、主体的に取り組んでいるお母さんたちからは信望を得ている。
これだけありがたがられることなんて、これまであっただろうか。すっかりのぼせあがっている。
今後の社会動向を展望すれば、わたしのように、PTAに関わらざるを得ないお父さんが激増することだろう。
そんなヒマ人父さんに、わたしは「PTA=忌避すべきもの」という思い込みからいったん離れて、あえて踏み込むことをお勧めする。
中年以降、男たちを襲う無力感と諦念がくつがえされ、さらには、思いがけぬロマンスにめぐりあえるかもしれない。
ユングのいう「中年の危機」を救うのは、じつはPTA活動なのかもしれない。ヒマ人父さん諸君、PTA活動で青春を取り戻そう。

風呂の掃除30円、買い物50円、レシートの経理処理1件5円、いとこの子守は時給200円。帰ったらすぐに宿題すれば30円。わたしの背中の足踏みマッサージが1分10円w
これらの累計が、4月は7000円になった。坊やはこれを携えて、ゴールデンウィークに出向いた旅先の神社で、新しい御朱印帳を購入し、サービスエリアでソフトクリームをなめた。
小1になった、この4月から報酬制になった坊やは、仕事に勉強に意欲的だ。自分の努力やがんばりがその場でかたちになるのだから当然だ。
いかなる動機であれ、よき習慣と勤勉さが身につけばしめたものだ。それは一生の宝となる。わたし相手にどんどん商売をしてもらいたい(周囲に手を広げれば、さらによい)。
その点、小遣い制は退屈だ。一定額の「収入」で毎月やり繰りするのは、後ろ向きの努力に思えてならない。
決まった収入でやりくりするよりも、みずから稼ぎ出す技術を体得するほうがワクワクする。これは、社会人人生のほとんどを自営でやってきた父の実感だ。
ところが、「お金でつるのはいかがなものか。子供のうちから金銭を絡ませるのは、教育上よくない」という声も聞こえてくる。たいていは、サラリーマン家庭の母親からだ。
それも無理もない。一定の収入の中でやり繰りすることは、彼女らの仕事の中核だからだ。
だが、自営業家庭はちがう。節制や倹約はだいじだが、限られた収入でやり繰りするという発想はあまりない。過度な節約に励むより、実入りを増やす工夫や努力に励むだろう。
創意工夫で、豊かな生活が獲得でき、望ましい環境を築くことができる。この確信こそが、元気ハツラツの原動力となる。
親にとっては小遣い制のが面倒は少ないし、統治もしやすい。だが、その手抜きと従属関係の強制は、我が子の社会への期待と意欲を失わせることになるだろう。

IMG_4216



IMG_0387



IMG_0388



IMG_0391



IMG_4215



IMG_0372



IMG_0373



IMG_0374



IMG_0376



IMG_0378



IMG_0379



IMG_0381



IMG_0382



IMG_0385



IMG_0386


IMG_4214



IMG_0363


IMG_0364


IMG_0365


IMG_0366


IMG_0367


IMG_0370


IMG_0371


IMG_4213



IMG_0345


IMG_0346



IMG_0347


IMG_0348


IMG_0349


IMG_0350


IMG_0351


IMG_0353


IMG_0354


IMG_0358


IMG_0360


IMG_0361


IMG_0310


IMG_4212


IMG_0283


IMG_0291


IMG_0294


IMG_0296


IMG_0299


IMG_0304


IMG_0305


IMG_0306


IMG_0307


IMG_0308


IMG_0311


IMG_0323


IMG_0326


IMG_0327


IMG_0328


IMG_0331


IMG_0344


続きを読む

↑このページのトップヘ