22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2018年02月

リクルートの大先輩たる藤原和博さんと並んで歩いていたとき、「ガタイいいねえ。お前、(リクルート)シーガルズ?」と言われたことがある。これには閉口した。
体格がいいとよく言われるが、じつは、わたしはかなり華奢なのである。
たしかに背は高い。181センチある。体重は72キロくらい。これもBMI的にはちょうどいい。
だが、腕も足も細く、肩幅も狭い。筋肉がつきにくい体格にもかかわらず、腹まわりには贅肉がつく。
そんなみじめな肉体であるが、顔つきが精悍で、押し出しが強いせいか、よくこんな勘違いをされる。
エレベーターに乗り合わせたおばあさんからは、きまって「うわぁ、身長はどのくらい?」と感嘆され、出入り業者からは「(体格いいですね)スポーツは何をやっていたんですか?」と話をふられる。
そのたびに、わたしは動揺する。それは、わたしの弱点に他ならないからだ。
スポーツといえば、わたしは体育会系どころか、部活すらろくにやったことがない。
あの集団教練だけはどうにもなじめない。教わる立場だと、わたしはラジオ体操すらろくにできない。なぜなのかわからないが、とにかく教わるのが苦手なのだ。
だが、身体を動かすことは好きだ。毎日のようにランニングしているし、機会があれば、野球やサッカーなどもやってみたい。
こういうタイプは、学校の「体育」のどこに居場所を見出せばいいのだろうか。
昨今、部活の見直しが喧伝されているが、その前にやるべきは体育の授業の見直しだろう。
軍事教練感に満ちあふれた、あの雰囲気。できない子が公開処刑され、(子供たちの前途をあやまらせる)スポーツ礼賛思想が叩き込まれる。あれで運動嫌いになった人は少なくないはずだ。
身体を動かすよろこびを知り、みずから運動を楽しめるようになるーーこれが「体育」の本質ではないのか。
藤原和博さんはその後、民間人初の公立中学校校長に就任した。
ユニークな授業導入で名を馳せた藤原校長、体育にはどんなメスを入れたのかな。

わたしが主宰するサロンは盛況だ。「サロン」とはメッセンジャーを用いたチャットグループで、メンバーは十数人。
「一般財団法人盛池育英会 臨時役員会」と称しているように、サロンのメンバーの多くは同団体の役員である。
わたしと博覧強記の高橋御山人評議員のセッションを軸に、気のおけない仲間たちが日夜会話を楽しんでいる。
1日あたりのチャット総数は300はくだらないだろう。
教育、先端技術、投資(ときにはオナニー)まで、あらゆるテーマでの情報提供や問題提起。日常のひとコマや旅行中の画像まで多岐にわたる。
専門家も多いので、転職相談に活用されたり、急病のSOSで威力を発揮したこともある。
ここでの交流が充実しているので、フェイスブックはさっぱり見なくなってしまった。
いくら知り合いで構成されているとはいえ、フェイスブックはいわば「外海」。ツイッターほどの「大海原」ではないにしても、余計なひと言で“難破”しかねない。
その点、サロンは安心だ。気心の知れた仲間同士なので、波風立つことはまずない。「外海」では危険な発言であっても、ここでは対話の起爆剤でしかない。
こうした安心感と信頼感は「外海」、ましてや「大海原」では、とうてい得られるものではない。そう、サロンは「湊」なのだ。
最近、坊やがサロンに出没するようになった。自分のiPadで、わたしのアカウントでいきなり画像をアップしたり就寝前の挨拶をしたりし始めた。
気のいい仲間たちは、これに当意即妙のリアクションするものだから、坊やにとっても楽しいものになってきた。
内容はわからなくても、大人の会話(文章語)に聞き耳を立てているうちに、門前の小僧習わぬ経を読む。坊やの言葉に磨きがかかってきたようでもある。
ふだんとは違う父を見ることができたことも大きい。
身辺には話が合う相手もおらず、家では憮然としているわたしが、嬉々としてしゃべり散らしている。この様は、坊やにある確信をもたらしたようだ。
「そうか、合う人とつきあっていればいいのか」彼の気づきを代弁すればこんな感じだろうか。
坊やは今春小学校に入学する。
学校社会には、「友達100人できるかな」という同調圧力が依然として蔓延しているが、無理して友達など作らないほうがいい。友達は「作る」のではなく「惹き合う」ものだからだ。
よき友を持つことは大事だ。だが、「100人」というよけいな煽りは、子供を惑わせ迷わせるだけだ。
たくさんの友達がいることが至上価値。その昔、わたしはそう勘違いして、SNSでむやみに友達を増やすような愚行を繰り返した。
無理して接触を試みれば、それは侮りや拒絶にもつながりかねない。いじめの温床には、友達100人主義があるのではないか。
みずから近づくのは、惚れた女だけでいい。友達とは、本来は、おのれの磁力に共鳴する者のはずだ。
愛想笑いを浮かべながら擦り寄る必要はない。おのれの磁力(=関心領域や専門性)を強め、おのれの磁場(=たとえば、わたしのサロン)を築いていくだけでいい。
我々はSNSにいかに向き合うかが問われている。使いようによっては、「外海」に彷徨う藻屑ともなるし、殷賑極める「湊」のあるじにもなるからだ。

戦前までは、いわゆる義務教育ではなく、子供を家庭で教育するホームスクールは合法とされていた。
司馬遼太郎の祖父は、日露戦争に勝利するまでチョンマゲを結っていたという傑物である。
彼は、娘はともかく、息子は学校に行かせることはまかりならぬと、みずから教育をほどこした。おのれの力量が満たない語学などについては、別に師匠を見つけてきたという。
息子を学校にやりたくないという気持ちはよくわかる。わたしも坊やの教育はみずから手掛けたい。
先日、ホームスクールを実践している家庭を訪ねた。
小学校1年生にあたる少年を父親が指導している。わたしがインタビューしていた2時間あまり、彼は機械仕掛けの模型を作っていた。
周囲には、さまざまな工作道具や材料がたくさんあり、ちょっとした研究所の風情だ。エジソンもホームスクーラーだったが、こんな子供だったのかもしれない。
少年はドローンに興味を持っていた。もともとヘリコプターが好きで、そこから派生したようだ。いずれドローンからロボットに展開して、それこそエジソンのような発明家になるかもしれない。
わたしが感心したのは、息子の興味や行動に寄り添う父親の姿だ。彼は元来、機械や科学的な知識や関心は必ずしも高くないという。しかし、息子の興味や意欲にあわせて、知識や技術を深めようと努力されている。
うちの坊やは、市町村合併の研究や全国一宮の御朱印集めが趣味で、これなら、わたしもよろこんで指導しつきあえるが、もし、ドローンに興味を持ってしまったら、たぶんつきあいきれない。
じっさい、最近将棋に入れ込んでいて、朝な夕なに勝負を挑まれるのに、いささか辟易としているくらいなのだから。
ホームスクールは日本では合法違法の狭間、いわばグレーゾーンである。学校行政的には不登校として扱われるようだ。
だが、欧米にかぎらず中国やロシアでも合法化されているように、日本でも早晩“解禁”となるだろう。
我が子に理想の教育を施したい。そんな親はホームスクールを選択するかもしれないが、そこで問われるのは、指導者たる親の柔軟性と忍耐力だ。
子供の関心や興味、ときには衝動につきあいながら、彼らの学びを手助けできるか。これは、いま、わたし自身が突きつけられた問いでもある。

IMG_4205


IMG_9139


IMG_9141


IMG_9142


IMG_9143


IMG_9144


IMG_9145


IMG_9146










IMG_4204



IMG_9123



IMG_9124



IMG_9125


IMG_9127


IMG_9128


IMG_9131


IMG_9132


IMG_9133


IMG_9134


IMG_9135


IMG_9136


IMG_9137


IMG_9138



IMG_9121


IMG_9111


IMG_9112


IMG_9113


IMG_9114


IMG_9115


IMG_9116


IMG_9117


IMG_9118



続きを読む

IMG_9120


IMG_9067


IMG_9076


IMG_9077


IMG_9090


IMG_9093


IMG_9094


IMG_9095

IMG_9096


IMG_9098


IMG_9099


IMG_9100


IMG_9102


IMG_9103


IMG_9104


IMG_9108


IMG_9109


IMG_9110


続きを読む

坊やは率直に言って運動神経がよくない。これはわたし譲りだ。責任を感じているので、運動については全力で向き合ってきた。
最難関の水泳は克服した。いま取り組んでいるのは跳び箱と鉄棒だ。
最初は自転車をやっていたのだが、河川敷は大雪後の凍結で、当分練習できなくなってしまった。
それではということで、家の中に跳び箱と鉄棒、そして跳躍リズムを体得するためにトランポリンを設えた。跳び箱が6万円もしたので、しめて10万円の支出だ。
幼稚園から帰ってくると、これらを繰り返しやらせている。
わたしの指導法はシンプルだ。
「いいからやれ」
「100回やれ」
ひたすら反復練習させるだけだ。
わたしは運動オンチだからよくわかる。世の中のコーチは言葉で説明するから伝わらないのだ。
「脇を締めて」とか「両足で跳ね上げて」なんて言ったところで無意味だ。
そんな説明は、コーチ自身が理解するためには便利であろうが、年端もいかない子供、それも運動が苦手な子供に通じるはずがない。
運動音痴少年は、できない上に、わけのわからない言葉を浴びながらさらにパニクる。
挙げ句の果て、「なんで、できないんだ‥」なんてため息をつかれようものなら、運動嫌いに拍車がかかるだけだ。
これは勉強をはじめあらゆる技能習得においても同様だ。いくら説明を受けたところで、実践なくしてできるようになることはない。
クルマの運転法を10万時間説明されたところで運転できるようにはなるとは思えない。
世の指導者は、「言葉」で説明しすぎなのである。そんなことより、ひたすら反復練習させる技術に習熟すべきである。
おだてるもよし。おどすもよし。モノやカネで釣るもよし。「できれば、女の子にモテるよ」とそそのかすもよし。
何度も何度もトライしたい、あるいはトライしてしまう。そういう気持ちを維持向上させるコーチこそがよき指導者なのである。👺

↑このページのトップヘ