22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2017年08月

ひと頃、大学の禄を食んでいたことがある。私の授業は学生にとても評判がよかった。
その理由は明らかである。私ほど、学生の幸せのために全身全霊で尽くした講師はいなかったからである。
こんな不遜な男が、学生たちの幸せのために、憐れなほどの訴えかけをした。もし選挙ならば、悠々と当選していたであろう。
これは冒涜することになるかもしれないが、ほかの先生方には、そこまでの懸命さはなかった。
講義録に目を通すと、目の前の学生たちの幸せに向けてアレンジした形跡はなく、「自分」の切り売りでしかないように思えた。これでは、学生たちの心には響かない。
だがこれは、大学というものが抱える宿痾かもしれない。
経営していたNPO昭和の記憶には、多くの求職者がコンタクトしてきた。それも著名大学の大学院生など、高学歴の人が多かった。
彼らに通底していたのは、それまで自分がやってきた研究や活動を、私のところでやらせて欲しいという態度であった。
NPOのミッション遂行や運営に寄与しようという姿勢はなく、「自分」の一部をそのまま買わせようというのである。
そんな「商品」を買うほど、私はお人よしではない。面接するたびに、うんざりさせられたものだ。
どうやら大学という場は、そんな幼稚な態度が許される気風があるようだ。その傾向は中学や高校以上に濃厚であるように思われる。
高校生のときまでは、毎朝きちんと起きて通学していたのに、大学の4年間を経たら、すっかりだらしない人間に堕ちていたなんてことはままある。
その昔なら、徴兵があった。兵役を経た男たちはシャキッとしていた。大学とは真逆である。
人生は短い。ひとたび、だれてしまうと、ふたたび、ひたむきさを取り戻すには同じかそれ以上の時間がかかる。
大学という浮世離れした場に、人生のだいじな時間を投下すべきか。そんな損得勘定は、これからいっそう取り沙汰されることになるだろう。

「耳学問の盛池塾」から「英雄児育成の盛池塾」へと看板を変えました。
「英雄児」とは、突出や偏りのある子供のことです。
「よばあたれ」と笑われた坂本龍馬、「うつけ者」と蔑まれた織田信長、「姫若子」とよばれるほど気弱だった長宗我部元親。超KYの大村益次郎、超反抗児・河井継之助。幼少期の英雄たちは誰もが問題児でした。
こんにちでしたら、アスペルガーやら発達障害といったレッテルが貼られていたことでしょう。
異常なまでの突出、あるいは異常なまでの偏り、これらが個性であり、それが英雄を英雄たらしめているのですが、これを「障害」とみなす昨今の風潮には違和感を禁じ得ません。
うちの坊やにも突出と偏りがあります。やけにおとなびていて、6歳にして小学校高学年の雰囲気を持っています。
ただ、とても神経質で、同年代の子供たち(あと、動物)を前にすると萎縮してしまう。その一方で、大人や年上の人たちには非常に気安く接するという風変わりな少年です。
運動嫌いなインドア派で、市町村パズルのアプリにはまっていて、寝床では、地図、時刻表、昔話を好んで読んでいます。スタンプラリーに燃えるあたりも含めて、「異常」な私にじつによく似ていて、とても気が合います。
私はその「異常」を修正しようとはまったく思いません。むしろ、それを軸にして、人生を切り拓いてもらいたい。
学校や世の母親は「年齢に応じたバランスのいい発達」を望む傾向がありますが、そんな要求に苦しむ子供は少なくありません。私はそんな英雄児たちが気楽に呼吸できる場を創出してゆくことにしました。
今後、この場で経過など報告してゆきたいと思います。引き続き、よろしくお願いします。

大学生の2人に1人は利用しているという奨学金制度。学業優秀者向けの給付型奨学金も充実してきている。
学生自身がアルバイトで現金収入を得る手立ても選り取りみどりだ。
二世代前なら、五木寛之の小説にもあるように売血までして学費を稼いでいたことを思えば、隔世の感がある。
授業料無償化は高校まで進み、今後、学費負担軽減化のその流れは加速する一方であろう。あと10年もすれば、学費で苦慮する学生はほとんどいなくなりそうだ。
さらには、学生自身が学費を調達するのが主流になるのではないか。クラウドファンディングで研究費を募るように、学業の支援者を広く募るのである。将来有望な学生なら、多くの「里親」が集まることだろう。
生涯未婚化が進むなか、我が子のように応援する人たちも出てくるはずだ。彼らにとって、学生たちは養子や猶子のような存在となり、生きがいのひとつになるだろう。
これはひとつの先祖返りだ。「親の占有物」に身を堕としていた子供たちが、ふたたび「社会の子」へと回帰するからだ。そんな時代がやってくることを喜びたい。
そうなると、問題になるのが大学そのものの必要性だ。これについては、次回述べるとしよう。(つづく)

たとえば私大の歯学部の学費は、卒業までの6年間で5000万円ほどかかるという。
我が家では、妹2人が歯学部卒である。他にも私と三女もいるので、4人ぶんの教育費は、生活費など諸々含めて、2億円近くになっていたのではなかろうか。
あの時期、バブルを迎えていなかったら、とうてい捻出できなかったはずだ。
こんな現実を突きつけられれば、なぜ教育費におじ気づくのかわかる気がする。要は、教育費に対する恐怖心は、展開が読めないところに起因するらしい。
子供の学業成績がいいことは喜ばしいが、突如襲いかかる学費は恐怖でしかない。備えを手厚くしたくなるのもわかる。
つぎに、教育費を収支でみてみることにしよう。
歯学部を出た妹2人のうち長女のほうは数年勤務医をしてから、歯科医師と結婚。現在は専業主婦だ。収支という点ではトントンといったところか。
次女の経営するクリニックは繁盛しているので、こちらは十分ペイしているといえる。
いまや歯科医院はコンビニより多い。たとえば、妹が開業する山梨県上野原市ではコンビニが8軒なのに対し、歯科医院は15軒もある。
いったん開業したものの、立ち行かなくなり、勤務医に戻ったという歯科医師も少なくない。
こうした実情をみると、投下した学費に対して、十分なリターンが得にくい時代になってきたともいえる。
それまでは、投資に見合ったリターンを得られていたから、親もがんばって教育費を捻出してきたが、こうなると、教育費についての認識も変わらざるを得ない。
さらに近年、学生たちが自力で学費を獲得する術も整いつつある。これについては、次回述べるとしよう。(つづく)

子供の教育費が不安だ。それは、金銭的に困るというより、イメージとして捉えられないからだ。
教育費は親という立場の者にすれば、あらがうことのできない、いわば聖域である。
「子供の教育だけは」というのが、世の親の赤心であるし、私もそんな気持ちでいる。
話はそれるが、ひと昔前まで、学歴はなかばカネで買えた。露悪的な言い方であるが、要はカネがなければ大学には行けなかったのである。
昭和15年生まれの我が親父殿は大学卒だ。一橋大学に入るのに、あの時代、二浪までしている。
カネの出所は実兄、私にとっては伯父にあたる。
伯父は大蔵省を不祥事でクビになり、金融ブローカーとなっていた。金回りはよかったようで、20歳離れた我が親父殿を我が子のように面倒をみた。
あの伯父がいなければ、親父殿の学歴は得られなかった。
我が母についても同様だ。母の父上は歯科医師であったが、32歳で急逝した。
寡婦となった祖母ではあるが、女手一つで仕事もとくにしないで、子供3人を大学まで行かせた。
学費の出所は今もって謎であるが、嫁ぎ先も実家も資産家なので、そこから引き出したのであろう。
我が両親は身近な人たちの財力によって、大学進学を果たすことができた。
彼らより勉強ができた人でも、カネがなければ大学には行けなかった。学歴とは資力であるといってもいいだろう。(つづく)

「子供の目線に立って語りかけよう」と言われるが、はたしてそうだろうか。
我が家では、まったくそうしていない。生まれてこの方、幼児語はいっさい使わずに、ふつうに語りかけてきた。
言っていることを、子供がわかろうとわかるまいとかまわない。本気で向き合っていることが伝わればそれでいいからだ。
私の友達が訪ねてくると、坊やは同席したがる。かわされている会話は超マニアックで、大人でも意味不明であるが、おとなしく耳を傾けている。彼なりに理解しようと努めているのであろう。
「合わせない」からこそ、子供のなかにみずから理解しようという意識が高まってくる。教育の本質は、合わせるのではなく、高みを目指すよう促すことにあるのではないか。
未知の世界を捉えたいという欲求は、疲弊した大人より子供のほうが強い。そこをだいじにしてあげたい。
あらゆる人間は成長を欲している。子供はなおさらだ。子供扱いすることは、彼らの成長欲求を裏切る、背信的行為といえよう。
「いつまでも可愛い子供でいて欲しい」といつ親のエゴイスティックな行動なのである。

戦後没落したのは父親だけではない。長男の地位も没落した。
家父長制下、長男は別格であった。財産はすべて長男が相続し、家によっては、別室でひとり食膳が用意されることもあった。
なぜこのように厚遇されたのかといえば、一つには、家の繁栄につながるという理由があげられる。
今ではすっかり解体してしまったが、かつての「イエ」は事業体であった。商家はもちろん、農家にしても"企業"であった。
企業で欠かせないのが統治。リーダーを中心に結束しなければ、組織の平和と繁栄はなしえない。
リーダーが多少ぼんくらでも、フォロワーたちが盛り立てていこうと思えば、組織は繁栄するのである。リーダーシップよりもフォロワーシップ。これが日本型組織の要諦といえよう。
もう一つの理由は、長男の人格への悪影響を配慮してのことだ。
長男にとって、あとから生まれてくる弟や妹は生存上のライバルとなる。
それまですべて受け取ってきた愛情や待遇が次々に奪われてゆく痛烈さを想像できるだろうか。
さみしくて悔しくて、時には我がままを言いたくもなる。まだ幼いのだから無理もない。
そんな時、「お兄ちゃんなんだから!」と一喝する母親が見られるが、これほど痛切な場面はない。
第一に、そんな言葉で納得できるほど、長男たちは成熟していない。不毛な働きかけでしかない。
また、妹や弟の前で恥をかかされた長男が、その時どんな気持ちでいるのか、もっと想像力を働かせねばなるまい。
私は公衆の面前で、坊やを叱りつけることは絶対にしない。必要があれば、私の書斎に呼びつけて、おだやかに言い聞かせる。
むしろ娘に対して「お兄ちゃんはえらい」「お兄ちゃんの言うことを聞きなさい」と躾けている。
すると、娘は兄を慕うようになり、兄は妹を思いやり、よく面倒をみるようになった。
長男への対応ひとつでこんなに違ってくるものなのだ。
長男を別格扱いすることで、すべてが好転する。陳腐な「平等主義」は家庭文化を淀んだものにするだけなのだ。

坊やは男だ。幼少期から褒めたたえてきたら、ずいぶん泰然としてきた。分別も知性も、6歳児にしてはたいしたものだと思う。
そんな坊やであるが、2年前に危機を迎えた。それは妹の誕生である。
こういうとき、家族の愛情や注目が妹に一気に傾き、お兄ちゃんはさみしい思いをするものだ。
それが原因となり、やきもちを焼いたお兄ちゃんが妹をいじめ、その後の兄妹仲の悪さにつながるケースがままある。
私は妹の誕生を前に、元々忙しくなかった仕事をさらに暇にした。そして、娘が生まれるや、坊やと毎週のように、旅行してまわった。
泊りがけの夜は、居酒屋のカウンターに並んで腰かけ、「お前は最高だぞ」と繰り返し語りかけた。
坊やとの強固な絆は、この期間に築かれたといっていい。
もしこの時期、仕事で多忙を極めていたら、父子の関係が深まることはなかっただろう。さらには、母親に反抗的になったり、妹につらくあたるようになっていたかもしれない。
今でも、隣に住む甥や妹の誕生会の時などは、一族みんなの関心が彼らに向けられる。
そんな時、さみしそうにしている坊やを見ると、私は隣にどっかり座り、坊やに集中する。
父親にここまで本気で向き合われていれば、情操が安定するのも当然だ。いずれ、坊やが親父になったら、息子にそうしてやって欲しい。
ところが、世の親の多くは、まったく逆の向き合い方をしている。これについては、次回述べるとしよう。(つづく)

何年か前のことだが、坊やが転んで、口元をすこし切った。
家内は駆け寄り、目を大きく見開いた仰天顔で傷口を見るなり、病院に行こうと騒ぎ出した。それを見た坊やは大泣きし始めた。
坊やの大泣きは、ケガが痛むからだけではない。母親の動揺を見て、「これはたいへんなことになった」と動転したからだ。
私はゆったりと歩み寄り、「なんだ、たいしたことないじゃないか。アイスでも食べよう」と穏やかに言った。
すると坊やは泣きやんで、口元から血を流しながら、私とコンビニに行った。
瞬時、家内は「なんて冷酷なことを言うんだ」という態度をとったが、それを私は目顔で押さえ込んだ。以前なら、ここから大騒ぎになったのだが、今回はこれで収束した。
男心にうとい家内ではあるが、男女によって感じ方が違うということを次第に学習してきたようだ(とはいえ、母親が子供のケガに冷淡であれというわけではない。それは最悪だ)。
かように、男女の感性とは根本的に異なる。私が言いたいのはそういうことだ。
もし、転んでケガをしたのが娘だったら、私も「大丈夫か! 病院行こう」と“共感”モードで接するだろう。
このように、子供とはいえ、態度と言動は、男女で使い分けるべきなのである。
こうした分別は、長男と次男以下でもなされるべきであるが、世の母親の多くは、ここでも過ちをおかしている。
次回はそのあたりについて語るとしよう。(つづく)

自覚はないだろうが、世の母親の多くは「騒々しい」。息子は母親の「騒々しさ」で消耗している。
口うるさく注意したりガミガミ叱りつける母親はもちろん騒々しい。一方、こまごまと世話を焼こうとする母親も騒々しい。
だが、息子にとっていちばんこたえるのは、じつは「変な気遣い」をする母親である。
息子についての話や聞かせたくない話になると、とたんに声をひそめる母親がいるが、これなど典型的な例だ。
子供のためを思っての配慮であろうが、自分についてなにやら取り沙汰されていると、心中穏やかでなくなるのは当然だ。
この手の母親は「子供のため」という旗を掲げて、平然と夫とケンカするが、これなど本末転倒もいいところだ。子供にとっての苦痛の最たるものは、そんな母親の騒々しさにあるからだ。
子供の学校に乗り込む母親。子供の些末な体調不調にうろたえ、すぐに病院だと騒ぎ立てる母親。こんな「子供のため」の懸命の言動が息子のストレス源に他ならない。
「落ち着き」と「静寂」が息子が心底求める環境であるという認識は、もっと共有されるべきであろう。
尚、これが娘だったら、「あり」かもしれない。息子にとっての「騒々しさ」は娘にとっては「愛情の発露」と映るだろうからだ。
息子を消耗する母親たちに悪気があろうはずがない。彼女は、自分がして欲しいことを息子にしているのである。
だが、「相手の立場に立つ」とは、幼い息子に「憑依」することであって、素のままの自分を息子の境遇に置くことではない。
「男の子は難しい」という母親に求められているのは、豊かな想像力なのだ。(つづく)

男は共感されるとみじめな気持ちになる。共感というより「同情」といったほうが的確かもしれない。ともかく男というものは、へんに寄り添われると心萎えるものなのだ。
「そんなの悩みのうちに入らないわよ」と背中をバンと張られたほうが気持ちが晴れる。男が欲しているのは「共感」ではなく「激励」なのだ。
だが、そんな男心をわきまえた女性はきわめて少ない。
むろん、これは逆もまた真なりだ。「そんなの悩みのうちに入らないよ」などと“激励”してしまうと、「冷たい人」認定されてしまう(私はこれまでこれで何度もしくじってきた)。
巷間よく言うように、女性は悩みを解決することよりも、悩んでいる自分に共感してもらいたいようである。
そんな反応のズレが男女のすれ違いを生む。これが夫婦ならせいぜいケンカ程度ですむが、母親と息子という関係となると事態は面倒なことになる。
息子が思春期を迎える頃、世の母親は「男の子は難しい」とぼやく。
だが、これは「難しい」息子に問題があるわけではない。母親が男というものに対する学びが浅く、理解が低すぎることに問題がある。おそらく彼女は、夫のことも「難しい」としているのであろう。
男性が女性という別種の生き物をよく学び理解すべきであるのと同様に、女性も男性という別種の生き物をよく学び理解すべきだ。
母親は女性たるおのれの感性を頼りに、息子に向き合ってはならないのである。(つづく)







『英雄問答~「司馬遼太郎」で男の修行』(盛池雄峰/ゴマブックス)

■概要
司馬遼太郎全作品から、英雄の心構えや技法を中心に約3300項目の「ダンディズム」を抽出。それらを対話形式でまとめた、時代に“逆行”する自己啓発書。 英雄問答表紙

■もくじ
まえがき 修行するオヤジが「英雄」になる
第一章 [威厳]しゃべるな、黙れ
「からっぽ」はよくしゃべる  弁が立つからなめられる  無言だから統率できる  肚にしまい込める量が「度量」  暇人が議論する  断定するから自滅する  相手にならず黙殺せよ  仮病をつかって引きこもれ
第二章 [品性]論評するからなめられる
うまいまずいを言うな  論評するから行動できない  小さくみせれば、大きくみられる  紳士は詮索しない  ひらめきは「変節」 「正確」だから正しくない  誇るから軽蔑される  弱虫が差別する
第三章 [度量]バカはすぐ怒る
おだやかな心に気魄は宿る  怒るなら元をとれ  他者に完全を求めることが愚の骨頂  やさしさは強さ  開き直らず徳を積め  無愛想だから愛される  気楽にさせれば人は集まる  オヤジギャグをかませ
第四章 [知性]自分の頭で考えるな
言葉づかいでお里が知れる  不快感を与えたら負け  初夜は型通りに  型にはまれ  習慣で美しくなる  感動できるのは才能  愚者は情報好き  臆病だから勇敢になれる  自分を野放しにするな  「女」を断って気を養え  贅沢は犯罪行為  「頭脳さん」に配慮せよ
第五章 [徳望]素の自分をさらすな
善人を偽装せよ  涙を流して周囲を欺け  「弱者」を演じよ  役割に憑依せよ  阿呆だと思わせよ  傾聴して身を守れ  はしゃぐから幻滅される  しみじみするな  酔っているふりをせよ
第六章 [気魄]捨て身でいけ
出たとこ勝負をするな  「準備」が英雄の仕事  待ち方に力量が表れる  陽気に悪事をはたらけ  誠実に嘘をつけ  一目散に逃げよ  権力者に媚びへつらえ  しつこさは天賦の才
第七章 [覚悟]悪妻にかしずけ
「おんな」は怖い  論より感動  なりふりかまわず容色を褒めよ  むらむらしたら酒を飲め  嫁は選んでもらえ  「無関心」は愛  悪妻は「あげまん」  敵は敷居の「内」にあり
第八章 [分別]あきらめれば曙光が差す
修羅場で「男」が発動する  好色な男は「行者」 「女天下」時代の人生戦略 「自己中」に勝機あり  思い上がってなんぼ  物欲、愛情欲から燃焼欲へ  損得勘定するから損をする  分際をわきまえよ 
あとがき 「司馬遼太郎」という英雄




仮想通貨などで大いに利益をあげたブロガーのイケハヤ氏は「MacBookおじさん」と称して、若きクリエイターにコンピュータをプレゼントした。
フェラーリ購入や子供の留学資金などでなく、近隣のカネのない若者を支援したところに、私はいにしえの篤志家の姿を見た。
庄屋とか名主とよばれた地域の名士は、地域の有能な子供たちを学校に行かせることがあった。我が祖父もそうであったと聞いて、誇らしく思ったものだ。
こうした行動はたんなる道楽ではない。彼らは50年、100年、あるいはそれ以上のスパンでの損得勘定の上での投資だったからだ。
教育を介しての人間関係が、自分に直接ではないにしても、おのれの子孫や近隣の人たちの幸福に資する。この真実を彼らは知っていたのである。
目先の利益一辺倒、自分一代の「夢」実現にしか目が行かない現代である。こんな長期にわたる時間軸を持った行動が、若者(イケハヤ氏はたしか30歳過ぎ)の間で見られるようになったことはうれしいかぎりである。
もっともこうした篤志家的行動の動機が、長期であれ損得勘定だけではないことは言うまでもない。
人の成長の手助けすることは何よりもの喜びだ。人の喜びをもってして、自分の喜びにできる人こそ、最高の幸せ者であり、成功者であるといえる。
最近の若者はたいしたものだ。50歳手前のじじいであるが、こうべを垂れて教えを乞うことにしよう。

仮想通貨バブルで小銭を稼いだ(とはいっても、現時点では含み益でしかないが)。
8月1日にビットコインが分裂すると報じられると、仮想通貨は暴落するであろうと、先行きに対して暗い見通しが一気に広まった。
こういうとき、私は危ない橋を渡りたくなる。
そこで7月下旬、いくらかコインを買い足してみた。すると、分裂騒動については特段何事もなく終息し、その後、ビットコインは暴騰を続けている。
こうなると、健全な人びとは明るい見通しを語り始めるのだが、こうなると、へそ曲がりの私は手仕舞いを考えるようになる(今回は、ブロックチェーンの世界をもっと知りたいからしばらく放置する)。
だが、今回の私の儲けなど微々たるもので、一部には「億り人」なる富豪も誕生している。
彼らの行動を観察していると、その利益でフェラーリを買ったとか、別荘を買ったとか、そういう痛い人がほとんど見られないのが印象的だ。
彼らの多くははカネをモノに変えるのではなく、さまざまな人や仕組みに再投資している。
仮想で得た利益を「未来の仮想」に投資する。この循環に、私は今後の教育の姿を見るような思いがした。(つづく)

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