価格交渉から妥結にいたる。それから請求書を起こし、入金が行われたかを確認する。仕事の本質とは、この一連の過程に他ならない。
だが、これは子を産むという神聖な営みが、煎じ詰めればセックスであることと同様に、あまりにも生々しい。だから、あまり表立って語られることはない。
学生たちは、会社に入れば、パワポ資料をプロジェクターに映し出しながらプレゼンするものだと思っているが、そんな機会はまずない。
仕事の大半は書類作りとお金のやりとりなのだが、職業体験ものは、いずれも映像映えする部分だけ切り出す(法廷での弁護士と検事の丁々発止などはその典型例だ)。これでは「体験」とは名ばかりで、実態は「ごっこ」であると言わざるをえない。
そんな「体験」をたよりに仕事を選べば失望が待っている。新社会人のくじけやすさは、学校時代の陳腐な「体験(その時期に視聴したテレビ番組なども含め)」に起因するのではないか。
学校がやるべきことは、むしろ、こうしたギャップを埋めることにあるのだろうが、それができる教師がどれだけいるだろうか。
もっとも、そこまで教師に求めるのも酷だ。本来は、家庭教育でカバーすべき領域だろう。
だが、家庭で社会を体験するほうがよりハードルは高い。家庭はもはや社会から切り離された存在だからだ。
だがそれは近年の傾向だ。往時はちがった。
私淑する大先輩は、小学生時代、しばしば学校を休んでは、父親の行商に同行して手伝っていたという。こんな営みこそ「職業体験」ではないか。
その方は仕事を手伝いながら、高校卒業後、一流大学に入学され、家業を継いで精を出し、市長も歴任された。
「仕事をしていると勉強したくなるんだよ。それに勉強も身につく」この言葉は多くの示唆に富んでいる。子供が勉強するようになるためには、遠回りかもしれないが、仕事をさせるのがよいのである。
私自身実感する。あんなにデタラメだった学生時代とうってかわって、仕事を始めてからの勉強は真剣そのものだ。
学校の空転は、子供を「労働」から切り離したところ誘因であるように思えてならない。
職業体験などでお茶を濁さず、「リアル労働(当然、カネのやり取りも含め)」に従事させる。これが、子供・学校・家庭のよき関係を復活させるのではなかろうか。
だが、これは子を産むという神聖な営みが、煎じ詰めればセックスであることと同様に、あまりにも生々しい。だから、あまり表立って語られることはない。
学生たちは、会社に入れば、パワポ資料をプロジェクターに映し出しながらプレゼンするものだと思っているが、そんな機会はまずない。
仕事の大半は書類作りとお金のやりとりなのだが、職業体験ものは、いずれも映像映えする部分だけ切り出す(法廷での弁護士と検事の丁々発止などはその典型例だ)。これでは「体験」とは名ばかりで、実態は「ごっこ」であると言わざるをえない。
そんな「体験」をたよりに仕事を選べば失望が待っている。新社会人のくじけやすさは、学校時代の陳腐な「体験(その時期に視聴したテレビ番組なども含め)」に起因するのではないか。
学校がやるべきことは、むしろ、こうしたギャップを埋めることにあるのだろうが、それができる教師がどれだけいるだろうか。
もっとも、そこまで教師に求めるのも酷だ。本来は、家庭教育でカバーすべき領域だろう。
だが、家庭で社会を体験するほうがよりハードルは高い。家庭はもはや社会から切り離された存在だからだ。
だがそれは近年の傾向だ。往時はちがった。
私淑する大先輩は、小学生時代、しばしば学校を休んでは、父親の行商に同行して手伝っていたという。こんな営みこそ「職業体験」ではないか。
その方は仕事を手伝いながら、高校卒業後、一流大学に入学され、家業を継いで精を出し、市長も歴任された。
「仕事をしていると勉強したくなるんだよ。それに勉強も身につく」この言葉は多くの示唆に富んでいる。子供が勉強するようになるためには、遠回りかもしれないが、仕事をさせるのがよいのである。
私自身実感する。あんなにデタラメだった学生時代とうってかわって、仕事を始めてからの勉強は真剣そのものだ。
学校の空転は、子供を「労働」から切り離したところ誘因であるように思えてならない。
職業体験などでお茶を濁さず、「リアル労働(当然、カネのやり取りも含め)」に従事させる。これが、子供・学校・家庭のよき関係を復活させるのではなかろうか。