22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2011年11月

飛行機が怖いので、国内の移動はほとんど鉄道かクルマだ。

ただし、新幹線は速度が出過ぎて、乗り心地が悪い。だから極力乗らない。長距離の移動は、もっぱら夜行の寝台列車を利用してきた。

東京から大阪に行くのも急行「銀河」、北海道は当然「北斗星」、九州には「はやぶさ」や「富士」。

夜行列車の狭い寝台に身を埋め、お酒を飲みながら、カーテンの隙間から過ぎゆく都会の喧噪をのぞき見る。まさに至福の時である。


夜行寝台列車に心奪われたのは、小学校5年生の時。当時は、ブルートレイン・ブーム。

夏休みに、ブルトレに乗ったと自慢する友達を羨ましがったり、連れたって、東京駅や上野駅に写真を撮りに行った。

西村京太郎の寝台特急殺人事件ものが続々と刊行されたのもこの時期である。あんまり「殺人事件」が起こるものだから、女性を中心に物騒な乗り物というイメージが定着したのも、利用客減少の一因かもしれない。

こんな寝台特急の全盛期も、今は昔。


大人になったら、乗りまくってやるぞと息巻いていたが、お金が自由になり始めたとたん、ブルトレは続々と廃止になっていった。

「あさかぜ」「さくら」「みずほ」「はやぶさ」「富士」「彗星」「なは」「出雲」「北陸」「出羽」「利尻」「まりも」「オホーツク」「銀河」「ドリームにちりん」――この10年、思い付くだけでも、これだけの列車が廃止になった。

そのたびに、私の足はどんどん奪われていった。

今では、九州に行くにも「サンライズ出雲」で出雲市に出て、そこから山陰本線の鈍行を乗り継いで下関。一昼夜かけて、ようやく門司に上陸する始末だ。


来春は、いよいよ「日本海」が廃止になる。

京都に越し、これから「日本海」にぞんぶんに乗れると喜んでいたのもつかの間、残すところ3ヶ月ところとなった。まことに残念なことである。

1月に、名残を惜しみに青森まで往復してこようと思う。

クルマの荷台に寝泊まりするのが、どういうわけか大好きだ。

おととい、昨夜と2日間、クルマに寝泊まりした。

レガシィの後部座席を倒し、引っ張り出した毛布にくるまっていると、深い安心感をおぼえる。


新潟市の中心部にほど近い駐車場は私のお気に入りで、これまで10回ほど泊まっている。

昨夜も、古町で仲間と一献し、風雨の中、駐車場へ。海に向かって立ち小便して、クルマに潜り込んだ。買ってきた生酒を開けてちびり。強い雨がバラバラと天井を叩く。

それにしても、この安心感はなんだろう。

思えば私は、夜行列車の寝台、カプセルホテル、テントや寝袋を好む。子供のころ、押し入れの中に籠もるのが好きだった。

閉所恐怖症というのは聞くが、閉所愛好癖とはこれ如何に?


と思っていたら、最近、閉所を愛好する仲間を発見した。

それは、うちの坊やである。

ふとんを敷き詰めた「ふかふかベッド」を喜び、全身を抱え込むように抱っこすると落ち着く。

それを見た義母が「胎内の感覚に近いからだろう」と言っていた。

寝台列車、クルマの荷台、カプセルホテル、テントと寝袋、押し入れ――私が求めているのも胎内の感覚なのかもしれない。

今から25年前の5月のことだ。高校2年生の私は、相模原のダイエーで警備員のバイトをしていた。

早朝からの雨に、私はおののいていた。というのは、その5日前に、チェルノブイリ原発事故が発生していたのだ。

雨に混じって放射能が降り注ぐと、テレビで盛んに警報を鳴らしていた。

そんなときに警備服に雨合羽といういでたちだ。降りようによってはずぶ濡れになる。


幸いにして、雨はほどなくあがったので、手がいくらか雨水に濡れた程度で済んだ。


それから5年後のこと。

「週刊文春」に、チェルノブイリの子供たちのその後を扱った記事が掲載されていた。甲状腺に異常を来し、咽の違和感として症状が現れるという。

記事を読みながら、私は恐怖した。

というのは、私も咽に違和感を覚えていたからである。

(俺は癌だ。あのとき、被曝した)


その日は土曜日、病院はやっていない。

土日の2日間、「現代用語の基礎知識」などを引っ張り出してきて、癌の項目を隈無く読みあさった。

そして絶望の淵に突き落とされた。

(俺は咽喉癌だ……)


月曜日、地元の病院で検査を受けた。

結果は、「異常なし」。

(そんなことはないだろ)と思い、翌朝、慶応大学病院で検査を受けた。

結果は、「異常なし」。

(異常なしって、この咽の違和感は何なんだよ~)

2度の異常なしを受けても、私の疑念は去らなかった。

(俺はあと5年で死ぬんだ。26歳まで生きられぬ)と、身近な人たちに泣きついた。

しかし、あまりの世迷い言に、当時の彼女も友達も親も呆れ果て、相手にしてくれなくなった。


そんなとき、私の相手をしてくれたのが、大学の友人Mであった。

Mは南相馬市(当時は原ノ町市)の出身である。

「お前は、被曝なんかしていない」

さすがに原発について一家言あるMの言葉は、妙に説得力を持っていた。

江古田にある彼のアパートに夜な夜な通ううちに、私の狼狽はしだいに収まっていった。


Mは、よく原発の話をしていた。

反原発の立場から、原発とズブズブになっている地元の経済をよく嘆いていた。癌ノイローゼの私には、そんなことどうでもよかったのだが、今になって、そんなことをよく思い出す。


Mはたしか地元の南相馬市で教員になったはずだが、卒業後は没交渉である。

今どうしているだろうかと思い、フェイスブックで検索してみた。


すると――同姓同名が50人以上も出てきた。。。

こんなじゃ、見つかんねえよ~~~(笑)


南相馬市出身で早稲田OBの小林正人、これを見ていたら連絡くれ!!

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