22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2011年10月

京都に引っ越したというと、口を揃えて「京都は夏は暑くて、冬は寒くて」と言う。

こういう紋切り型の物言いは好きだが、へそ曲がりの私は「ほんとかね?」と疑い深くなる。

とは言っても、気象庁のデータなんか引くのは面倒。こちらに来て見聞したことを通じて、独自理論を展開したい。


まず、「夏、暑い京都」である。

夏来たとき、たしかに暑かったが、東京のが暑い。

日差しは強いが、物陰は涼しい。

たとえるなら、京都の暑さは、源泉掛け流し風呂の暑さ。さらりと暑い。

一方、東京の暑さは、24時間風呂の暑さだな。熱が循環して、再生産されている感じ。


担当した不動産屋さんに、この件をぶつけてみたら、こんな回答が。

「町家のこと、言うとんのとちゃいます?(←不正確な京都弁かも)」


ひしめき合う町家は、騒音防止のために窓を小さく切ってあるのだという。通気は悪く、熱気がこもる。ただでさえ暑い盆地にひしめく町家。その暑さは推して知るべし。

「夏、暑い京都」は気象というより、町家に暮らす人たちの嘆きが伝播して、一般化していったのではないかな。


では、「寒い京都」はどうだろうか?

冬になると、京都には、比叡山からの冷たい風「比叡下ろし」が吹き下ろす。

たしかに寒いだろうが、ここまで喧伝されることもなかろう。

私の推理なのであるが、大原など奥地に隠棲した人たちの嘆きが伝播したものではないだろうか。

じっさい来てみてわかったのは、岩倉を境に近畿地方から北陸地方に切り替わること。雪も積もれば、家の造りや草木、田畑の風情も北陸のそれである。

洛中から、ちょっと隠棲と洒落込んだ人びとが「北陸」に迷い込んで、「嗚呼、寒い寒い」とつぶやき、それが人口に膾炙していったのではないかと。

鴨長明も大原に隠棲していたが、ほどなく洛南に方丈を構えた。よほど寒かったのであろう。


今夜の洛北岩倉は、冷たい雨。

そろそろ窓を閉めて、床に就きます。

鴨長明の屈折ぶりは、私にとって人ごとでない。

『方丈記』を読んだのは、先日、下鴨神社(正確には河合神社)にある「方丈」の再現建築を見たのがきっかけである。

方丈とは四畳半程度の、今でいうところのプレハブである。そこに、ビジネスホテルのシングルルーム程度の什器が設えてある。


汚辱にまみれた俗世に距離をおき、山里の方丈に起居して、花鳥風月を愛でるくらし。想像するだけでぞくぞくする。

「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず――」

この無常観は、地震、戦乱、飢饉、火災、竜巻などの天変地異、そして政変、戦乱の相次いだ平安末期ならではのもの。なんだか今の日本に似ている。

そんな時代のまっただ中に生きた長明が『方丈記』で言いたいこと、それは「だから言わんこっちゃない、都市なんかに住んでいると死ぬよ。俺みたいに、鄙で風流に暮らそうや」と。


このメッセージ、まさしく私が日ごろから発しているものと同じ。

でも、平素からそう考えて実践している人は、声高にそんなことを言ったりしない。あえて言明する長明や私のような人間の背景には、名誉心と嫉妬心が見え隠れする。


鴨長明なんていうと、俗世の価値観から超越した仙人というイメージであるが、よくよく読むとそんなことはない(これは小林一茶にしても、千利休にしても同様。茶をすすって、俳句を詠んだりなんていう好々爺ではけっしてないのが現実だ)。

『方丈記』も終盤にさしかかるにつれ、長明の強烈なアクが表れてきてじつに愉快。

今のくらしをさんざん自賛しながらも、随所に負け惜しみの感情が滲み出ている。嫉妬の炎が、人生終盤の長明の心を焦がす。

その心のありよう、まさに私の今の心境に他ならない。

今の花鳥風月を愛でる日々に満足している。その気持ちに、それに偽りはないものの、さりとて東京的栄華に対する執着は捨てきれない。

風呂で『方丈記』を音読しながら、何度か苦笑い。

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