●1
お遍路さんは、以前からやってみたいと思っていたが、なかなか手がけられないでいた。というのも、すべて徒歩で廻る「歩き遍路」なら約五十日、クルマで廻っても十日はかかるというのだから。
せっかく始めるなら、一気にコンプリートしたいたちなので、五十日もかかる歩き遍路は私には無理。クルマ遍路にするのだが、それにしても一気に終えるためには一週間のまとまった休みが必要だ。
今から十五年も前のことになるが、私は四国を鉄道で一周したことがある。当時チャレンジしていたJR全線完全乗車の旅の一環であるが、この時も、初めての四国上陸の機会をとらえて、四日で四国全線に乗りつぶした。今回も一気呵成にコンプリートさせたいものだ。
さて、私は年明け早々結婚したのだが、新婚家庭もわずか二ヶ月で崩壊。崩壊と言っても外部的な要因のためである。要は、三月の原発事故である。妊娠中の家人は、早々に実家の福山に疎開した。私は、逆単身赴任状態を余儀なくされたが、福山と東京の行き来を楽しむことができたのは幸いである。
まずは、開業間もない九州新幹線に乗りに出かけた。すでに新八代と鹿児島中央の間は乗っているので、博多から新八代の間が新規の区間である。だが、あの素晴らしい九州新幹線開業のコマーシャルの様子とは相反して、防音と目隠しのための囲いが多くの区間で立てられていて、車窓は面白くなかった。ただ、鹿児島から宮崎を周り、延岡での一献は楽しい思い出になった。
その次に、福山に行った時は、ギャラリー経営の友人も同行したので、直島に行った。直島とは、ベネッセが繰り広げるアートの島であり、芸術の瀬戸内を象徴する島である。物珍しさはあったのだが、何だか禅寺にでもいるような気分であった。どでかいキャンバスに墨でニョニョと書いてあるのが、デーンと鎮座しているアート。豆腐みたいな物に、針金が刺してあるというアート。「これ如何に?」という禅問答のような物体ばかりで私には皆目わからなかった。
プロならわかるのだろうと尋ねてみると、プロの友人も「よくわからないね。現代アートは」と笑っていた。利休が品定めした茶器や霊感系のツボやハンコを連想してしまったが不謹慎だろうか。
●2
毎月のように出かけているので、しだいに行きたいところはなくなってきた。なくなってきたが、大物が一つ残っている。言うまでもなく、お遍路さんである。
福山駅から、お遍路さんバスが頻繁に出ているが、団体旅行は苦手だ。それに一気にコンプリートはできないのも、せっかちな私には面白くない。クルマでも一週間はかかるというから、三日四日の滞在期間では厳しい。
そう思っていたのであるが、家人のお腹が大きくなるにつれ、こんな巨大なもの(胎児のこと)が本当に出てくるのか、健康健常で生まれてくるだろうかとしだいに不安になってきた。
そんな時、私は神仏に祈る。自宅近くの熊野神社にもジョギングの際に必ず参拝するようにした。それだけでは足りない。この機会に、お遍路さんで、家人の安産と子供の健やかなることを祈願しようと思った。
たまたま大きな荷物を運ぶためにクルマで福山に行くついでができた。さらには、東京での仕事でスケジュールの空きができた。このチャンスを除いては、お産の前に、結願を迎えることはできまい。五月二十二日の夜、日付が切り替わる前に、クルマで中央道に滑り込んだ。ETCの休日割引きに間に合わせたのである。
その夜は、談合坂サービスエリアで宿泊。私のクルマはレガシィのワゴンである。後ろのシートを前に倒せば、カプセルホテル並の広さにになる。これまでこのクルマに何度宿泊しただろうか。宿に泊まるよりも、クルマに泊まる方が多いくらいだ。
でも、今回の福山行きは、パソコンデスクを積んでいるので、シートを倒してゴロリとできない。パソコンデスクを外に出してしまおうと思ったが、雨が降っているのでそれも無理。昨今の雨は放射能含みなので、日頃使うデスクを放射能汚染させてしまうわけにもいかないのだ。
仕方がないので、助手席に移り、ちょっとだけシートを倒した。出がけに買ってきたビールを呷り、日本酒をチビチビやっていたらすぐに眠たくなった。
起きたら午前六時、習慣とは素晴らしいものである。こんな状況でも定時には起きられるのだから。外で屈伸をして、さあ出発。
中央道は快適だ。距離的には、東名を使う方が短いのであるが、トラックがビュンビュン走り、防音、目隠しのシェードで被われているので快適ではない。そんな東名より、山並みを眺めながらゆったり名古屋まで行くのがいい。途中、関ヶ原近くの伊吹と龍野のサービスエリアで休憩したくらいで、昼寝もせず、夕刻五時には福山に到着した。
払暁四時前に目を覚まし、おにぎりを二個持って出立。外はまだ雨が降っているが、私は雨降りが好きなので気にならない。瀬戸大橋に差し掛かる頃にはだいぶ明るくなってきたが、風が強い。横風に煽られて、橋から落ちてしまいそうで怖いことこの上ない。
一番札所は霊山寺。ここは以前、鳴門教育大学に出講に来た際、連れてきてもらったことがある。今回端折っても良かったのかもしれないが、一番から八十八番まで順番通りにきっちりやりたいのでやって来た。
到着したのは、六時半過ぎ。まだ、公式にはお寺の業務は始まっていない。お遍路さんは「納経帳」というスタンプ帳のような物を持っているが、これに対応してくれる納経所の営業時間は午前七時から午後五時。
お遍路さんは一般的に、この時間内にお寺を廻るようにしているのだろうが、最速で廻ろうとしている私は、この時間制限は取っ払うことにした。私のルールとしては、本堂で本尊に向かって祈りの言葉を捧げることができたらOKとしたのである。だから、本堂でお賽銭を投げ入れ、手を合わせ、家人の安産と子供の健やかなることを祈って、一番札所を後にした。
この段階では、私は三日でコンプリートしようと企んでいた。私は手際が良く、地理勘も良い。弘法大師様には申し訳ないが、作法を簡略化させていただき、さらには、朝七時から午後五時までという納経所縛りも取っ払った。ネットで調べてみると、速周りしている人の中には、三日半という人もいるので、三日も夢ではないと考えたのである。そのためには、今日中に高知市界隈のお寺まで攻略したい。理想は三十五番札所であるが、せめて高知中心部まで到達したい。
二番札所・極楽寺、三番札所・金泉寺、四番札所・大日寺、五番札所・地蔵寺、六番札所・安楽寺、七番札所・十楽寺、八番札所・熊谷寺、九番札所・法輪寺、十番札所・切幡寺、十一番札所・藤井寺は隣接・近隣なので、一気に攻略。
先へ急いでいると気も急く。これでは巡礼の風情も得られないとお叱りを受けるであろうが、祈りには心を込めているつもりだ。
最初は、家人の安産と子供の健やかなることを祈願していたが、それに、被災者・犠牲者に向けた祈りを付け加えるようにした。「被災者の心が癒え、犠牲者の魂が鎮まりますよう――」と唱えるようにしたのだ。お堂にも、被災者のための祈りを呼びかけていることもあるが、ちょうど一ヶ月前に被災地を訪れ、すさまじい情景と痛ましい人々に触れたこともある。その時、胸一杯になった私の心も今回の巡礼で解きほぐそうと思う。
十一番札所、藤井寺。クルマで乗り付けると、駐車場が有料である。二百円。民間の営業であり、留守のおやじさんが料金を受け取りに来た。それまで有料駐車場はなかったので、釈然としない気持ちになった。観光地に有料駐車場はままあるが、そこを起点として二、三十分は見物をするだろうからまだ納得がゆく。私の場合はわずか数分の滞在であるので、どうしてもケチな気持ちになる。
藤井寺はまだ十一番目である。これから八十近くもあるお寺の駐車場がここのように有料だったら、駐車料金だけでも一万円を優に超えてしまうなあと、けち臭い不安が胸をよぎる。
ちなみに、八十八ヶ所を巡り終えた段階で言えば、有料駐車場は全体で十五ヶ所くらいであった。その半分は、無人の駐車場で、設えられた箱に料金を入れてくれ、というものであった。二百円から三百円が相場である。
私は百円だけ入れることにした。留守番も置かずに、不労所得であるということと、私は一人で数分の滞在だから、というのが私の言い分である。としながらも、毎回気後れするのも確かだ。気持ちよく無条件で満額支払ってしまおうかと気持ちが動くこともある。無人の料金箱を前に、己の良心が試されている。
本来所定の料金を払うべきところを払わないというのは、仏教で言うところの偸盗ってやつにあたるのであろうな。周囲を観察してみると、多くの人は払っていない。百円で良しとさせていただこう。
お金の話になったので、ついでにお賽銭について。十円で十分と、お遍路さんのプロが書いていたので、私はだいたい十円としておいた。原則十円であるが、街中のお寺は経営状態が良さそうなので一円としたり、山中のお寺には、先人の苦労を偲んで百円、または五十円とした。最後の大窪寺では、結願を願って五百円放り込んだ。
だが、一日二十も三十もお寺を廻っていると、あっという間に十円玉は払底してしまう。時々コンビニに立ち寄り、両替してお賽銭を確保していった。その際の購入したおにぎり、肉まん、チーズケーキなどが今回の食事の大半で、これらを運転しながらかじった。本来なら、名物でも食べながら、そして夜は居酒屋で一献が私の旅のスタイルなのであるが、速廻り遍路なのでそうもいかない。そんな調子であったから、食費は、四日間で一万五千円程度で済んだ。
次は、旅費。主たるものはガソリン代である。クルマ遍路は全長一五〇〇キロという。私のレガシィの燃費はリッター一〇キロくらいのようなので、一五〇リットル。一リットル一五〇円とすると二二五〇〇円ということになる。
ばかにならないのが有料道路代。六十番札所・横峰寺に上がる道では、関所で一八〇〇円取られた。他にも、屋島寺に上がるための屋島ドライブウェイで六一〇円。八栗寺のケーブルカー代、往復九〇〇円など。
一方で、宿泊費はゼロ。三泊すべて車内泊なので。クルマに寝泊まりしていると、たいへんでしょう、疲れるでしょう、とよく言われるが、そんなことはない。後ろの座席を倒せばけっこう広いし、身長一八〇センチ強ある私でも、斜めになれば足を伸ばせる。むしろあの狭さがいい。常に積み込んでいる毛布を掛け、寒ければウィンドブレーカーを着て寝る。下には何も敷かない。板張りの上でも寝られる私である。苦にはならない。
道の駅やコインパーキングの片隅にクルマを停め、寝支度を整える。横になってから、持ってきた酒で一献。近くにコンビニがあれば、当然冷たいビールが美味しいのだが、なければ、ぬるくても飲める缶ウィスキーや日本酒が用意してある。
泊まるのはたいてい道の駅。駐車場は広いしトイレもある。同じように宿泊者がいるので安心だ。私が好きなのが、山形県の「道の駅あつみ」で、ここにはこれまで十回近く泊まったことがある。日本海に面していて、夜半になると、真っ暗な海の上に漁り火が見えて美しい。反対側の山には、羽越本線が走っていて、「あけぼの」や「日本海」といった夜行列車や貨物列車を見ることができる。すぐ近くにコンビニもある。
前回泊まったのは、昨年の秋であった。この夜は、たいへんな風雨であった。ずぶ濡れになりながら、コンビニでビールやつまみを買い、それからクルマの中に潜り込んだ。さすがにこんな夜には、漁り火は見えないが、子供の頃、台風の時ドキドキするような興奮を覚えた。
今回のお遍路さんなど特にそうだが、私の旅は行き当たりばったりなので、その日のうちにどこまで行くのかわからない。いちいち宿を予約したりするのも面倒くさい。チェックインもチェックアウトも煩わしい。虫が出る夏、さすがに寒い冬を除けば、車内泊が快適である。
室戸岬の突端にある二十四番札所・最御崎寺に着いたころには夕刻六時近くになっていた。納経所はもう営業終了していて、境内には誰もいない。
本堂で手を合わせて、家内の安産、子供の健やかなること、震災の被災者・犠牲者への祈りを捧げた。
お寺を出ると、だいぶ傾いた陽を受けて、太平洋の海原がきらめいている。弓なりの陸地とのコントラストが美しい。ようやくその場、その瞬間を味わえる余裕が出てきた。朝からどこまで回れるかばかり気にしていたせいで、すっかり視野が狭くなっていたことを実感。
二十五番札所・津照寺は港を見おろす高台にある。石段を息せき切って登って振り返ると、こぢんまりした港町が一望できる。津を照らす寺か、その名の通りだな。
二十七番札所・神峯寺は、カーナビの地図によると、そうとう山奥にある模様。じっさいその通りで、つづら折りの山道をうねうねと登っていく。人家もなく、すれ違う車もない。時折、眼下に見える町の灯がどんどん小さくなっていく。
神峯寺は真っ暗闇であった。空だけがうっすら青白い。灯りはまったくない。足下もおぼつかないので、ケータイの灯りをたよりにおずおず歩く。山門に頼りない裸電球が吊されているが、鎮座する仁王様を浮かび上がらせるだけ。とても怖い。恐怖で、首筋に鳥肌が立つ。自分のお腹がなった音でビックリしてしまった。あまりにも怖いので家内に電話してみた。私は日頃二台持ち歩いているので、一台で足下を照らし、もう一台で通話した。彼女との電話でだいぶ気が紛れたが、怖いものは怖い。本堂で手を合わせてお祈りをしてそそくさと立ち去った。この歳になって、こんなに怖い思いをするとは思わなかった。
「道の駅やす」に宿泊し、翌朝は五時には出立。この日は、高知市の中心部などに点在するお寺を回るので、市街地が混み合う前に脱出したい。街中のお寺はいずれも淡泊で退屈なものが多いが、禅師峰寺は太平洋の眺望が素晴らしく、印象に残った。
三十四番札所・種間寺のあたりから、姫路ナンバーの赤いクルマを見かけるようになった。そのクルマには、三十歳前後の男二人が乗っている。あきらかにクルマでの速廻り遍路である。お互い意識し始めていたので、三十七番札所・岩本寺の手水舎で声をかけてみた。
彼らは姫路から来ていて、今回は二度目のお遍路。昨日から十八番札所を皮切りに回っているのだという。この日は、この二人連れと何度も遭遇した。足摺岬にある三十八番札所・金剛福寺では、反対側から走ってきたところで鉢合わせ。三十九番・延光寺と四十番札所・観自在寺では、駐車場から出ようというタイミングに到着。この寺を最後に見かけなくなったが、高知市内から宇和島に差し掛かるあたりまで、およそ一五〇キロ近く同道したことになる。
四十三番札所・明石寺を終えたのが六時半過ぎ。この日はここでおしまいにして、八幡浜に行く。「港町ブルース」に歌われるこの港町は、気仙沼同様、良さそうな居酒屋がありそうだ。ところが、探してみたが、それらしき店はなかなか見つからない。町のたたずまいはとても好感触なのだが、肝腎の店がないので大洲に移動することにした。途中、立ち寄り湯で一風呂浴び、大洲に着いたのが午後八時半。


▲八幡浜駅

▲伊予大洲駅
城下町・大洲は私の好きな「寅次郎と殿様」の舞台になったところだ。映画で描かれていた雰囲気は今も街中の随所に残っている。とても風情のある町だ。家人にネットで調べてもらった居酒屋で一献して、道の駅に宿泊。

四国の道の狭さはなぜだろうか。国道などはいいのだが、一本入った路地がいけない。クルマのすれ違いがギリギリという道ばかりである。こういう時、下品な人は相手によけさせようとして、わざと道の真ん中を走ってくる。私はこういう連中が大嫌いなので、つい対抗してしまう。チキンレースさながら、すれすれのところですれ違う。そんな自分に嫌気を覚えるのも確かだが、ついそうしてしまう。困ったものだ。
あとは、道路工事の警備員。これは四国にかぎった話ではないが、どうしてあんなに大勢いるのだろうか。じっさいに工事している人より、誘導棒を持っている警備員のが多くないか。
私は職業に貴賎があるかないかという議論には関わらないが、創意工夫の余地のない仕事は気の毒だと思っている。そういう点で、棒振りは気の毒でならない。たまに異常なテンションで、路上で舞っている人もいるが、おしなべて精気のない眼で棒を左右させている。
また、むりやり創意工夫しようとしてか、対向する交通がないのにわざわざいったん停止させる棒振りもいる。棒振りの価値は、交通をスムーズにするところにあって、自分の存在価値を高めようとばかりに交通を遮断するスタンドプレーはいただけない。
ある時、ふつうに走行していたら、警備員がクルマの前に飛び出してきて危うく轢きそうになった。横断歩道で、自転車に乗っていたおばさんが停止していたのだが、彼女を守るために身を挺して私のクルマの前に飛び出してきたのだ。当然、おばさんも私もびっくり。交通の妨げでしかない。
お遍路さんは、以前からやってみたいと思っていたが、なかなか手がけられないでいた。というのも、すべて徒歩で廻る「歩き遍路」なら約五十日、クルマで廻っても十日はかかるというのだから。
せっかく始めるなら、一気にコンプリートしたいたちなので、五十日もかかる歩き遍路は私には無理。クルマ遍路にするのだが、それにしても一気に終えるためには一週間のまとまった休みが必要だ。
今から十五年も前のことになるが、私は四国を鉄道で一周したことがある。当時チャレンジしていたJR全線完全乗車の旅の一環であるが、この時も、初めての四国上陸の機会をとらえて、四日で四国全線に乗りつぶした。今回も一気呵成にコンプリートさせたいものだ。
さて、私は年明け早々結婚したのだが、新婚家庭もわずか二ヶ月で崩壊。崩壊と言っても外部的な要因のためである。要は、三月の原発事故である。妊娠中の家人は、早々に実家の福山に疎開した。私は、逆単身赴任状態を余儀なくされたが、福山と東京の行き来を楽しむことができたのは幸いである。
まずは、開業間もない九州新幹線に乗りに出かけた。すでに新八代と鹿児島中央の間は乗っているので、博多から新八代の間が新規の区間である。だが、あの素晴らしい九州新幹線開業のコマーシャルの様子とは相反して、防音と目隠しのための囲いが多くの区間で立てられていて、車窓は面白くなかった。ただ、鹿児島から宮崎を周り、延岡での一献は楽しい思い出になった。
その次に、福山に行った時は、ギャラリー経営の友人も同行したので、直島に行った。直島とは、ベネッセが繰り広げるアートの島であり、芸術の瀬戸内を象徴する島である。物珍しさはあったのだが、何だか禅寺にでもいるような気分であった。どでかいキャンバスに墨でニョニョと書いてあるのが、デーンと鎮座しているアート。豆腐みたいな物に、針金が刺してあるというアート。「これ如何に?」という禅問答のような物体ばかりで私には皆目わからなかった。
プロならわかるのだろうと尋ねてみると、プロの友人も「よくわからないね。現代アートは」と笑っていた。利休が品定めした茶器や霊感系のツボやハンコを連想してしまったが不謹慎だろうか。
●2
毎月のように出かけているので、しだいに行きたいところはなくなってきた。なくなってきたが、大物が一つ残っている。言うまでもなく、お遍路さんである。
福山駅から、お遍路さんバスが頻繁に出ているが、団体旅行は苦手だ。それに一気にコンプリートはできないのも、せっかちな私には面白くない。クルマでも一週間はかかるというから、三日四日の滞在期間では厳しい。
そう思っていたのであるが、家人のお腹が大きくなるにつれ、こんな巨大なもの(胎児のこと)が本当に出てくるのか、健康健常で生まれてくるだろうかとしだいに不安になってきた。
そんな時、私は神仏に祈る。自宅近くの熊野神社にもジョギングの際に必ず参拝するようにした。それだけでは足りない。この機会に、お遍路さんで、家人の安産と子供の健やかなることを祈願しようと思った。
たまたま大きな荷物を運ぶためにクルマで福山に行くついでができた。さらには、東京での仕事でスケジュールの空きができた。このチャンスを除いては、お産の前に、結願を迎えることはできまい。五月二十二日の夜、日付が切り替わる前に、クルマで中央道に滑り込んだ。ETCの休日割引きに間に合わせたのである。
その夜は、談合坂サービスエリアで宿泊。私のクルマはレガシィのワゴンである。後ろのシートを前に倒せば、カプセルホテル並の広さにになる。これまでこのクルマに何度宿泊しただろうか。宿に泊まるよりも、クルマに泊まる方が多いくらいだ。
でも、今回の福山行きは、パソコンデスクを積んでいるので、シートを倒してゴロリとできない。パソコンデスクを外に出してしまおうと思ったが、雨が降っているのでそれも無理。昨今の雨は放射能含みなので、日頃使うデスクを放射能汚染させてしまうわけにもいかないのだ。
仕方がないので、助手席に移り、ちょっとだけシートを倒した。出がけに買ってきたビールを呷り、日本酒をチビチビやっていたらすぐに眠たくなった。
起きたら午前六時、習慣とは素晴らしいものである。こんな状況でも定時には起きられるのだから。外で屈伸をして、さあ出発。
中央道は快適だ。距離的には、東名を使う方が短いのであるが、トラックがビュンビュン走り、防音、目隠しのシェードで被われているので快適ではない。そんな東名より、山並みを眺めながらゆったり名古屋まで行くのがいい。途中、関ヶ原近くの伊吹と龍野のサービスエリアで休憩したくらいで、昼寝もせず、夕刻五時には福山に到着した。
払暁四時前に目を覚まし、おにぎりを二個持って出立。外はまだ雨が降っているが、私は雨降りが好きなので気にならない。瀬戸大橋に差し掛かる頃にはだいぶ明るくなってきたが、風が強い。横風に煽られて、橋から落ちてしまいそうで怖いことこの上ない。
一番札所は霊山寺。ここは以前、鳴門教育大学に出講に来た際、連れてきてもらったことがある。今回端折っても良かったのかもしれないが、一番から八十八番まで順番通りにきっちりやりたいのでやって来た。
到着したのは、六時半過ぎ。まだ、公式にはお寺の業務は始まっていない。お遍路さんは「納経帳」というスタンプ帳のような物を持っているが、これに対応してくれる納経所の営業時間は午前七時から午後五時。
お遍路さんは一般的に、この時間内にお寺を廻るようにしているのだろうが、最速で廻ろうとしている私は、この時間制限は取っ払うことにした。私のルールとしては、本堂で本尊に向かって祈りの言葉を捧げることができたらOKとしたのである。だから、本堂でお賽銭を投げ入れ、手を合わせ、家人の安産と子供の健やかなることを祈って、一番札所を後にした。
この段階では、私は三日でコンプリートしようと企んでいた。私は手際が良く、地理勘も良い。弘法大師様には申し訳ないが、作法を簡略化させていただき、さらには、朝七時から午後五時までという納経所縛りも取っ払った。ネットで調べてみると、速周りしている人の中には、三日半という人もいるので、三日も夢ではないと考えたのである。そのためには、今日中に高知市界隈のお寺まで攻略したい。理想は三十五番札所であるが、せめて高知中心部まで到達したい。
二番札所・極楽寺、三番札所・金泉寺、四番札所・大日寺、五番札所・地蔵寺、六番札所・安楽寺、七番札所・十楽寺、八番札所・熊谷寺、九番札所・法輪寺、十番札所・切幡寺、十一番札所・藤井寺は隣接・近隣なので、一気に攻略。
先へ急いでいると気も急く。これでは巡礼の風情も得られないとお叱りを受けるであろうが、祈りには心を込めているつもりだ。
最初は、家人の安産と子供の健やかなることを祈願していたが、それに、被災者・犠牲者に向けた祈りを付け加えるようにした。「被災者の心が癒え、犠牲者の魂が鎮まりますよう――」と唱えるようにしたのだ。お堂にも、被災者のための祈りを呼びかけていることもあるが、ちょうど一ヶ月前に被災地を訪れ、すさまじい情景と痛ましい人々に触れたこともある。その時、胸一杯になった私の心も今回の巡礼で解きほぐそうと思う。
十一番札所、藤井寺。クルマで乗り付けると、駐車場が有料である。二百円。民間の営業であり、留守のおやじさんが料金を受け取りに来た。それまで有料駐車場はなかったので、釈然としない気持ちになった。観光地に有料駐車場はままあるが、そこを起点として二、三十分は見物をするだろうからまだ納得がゆく。私の場合はわずか数分の滞在であるので、どうしてもケチな気持ちになる。
藤井寺はまだ十一番目である。これから八十近くもあるお寺の駐車場がここのように有料だったら、駐車料金だけでも一万円を優に超えてしまうなあと、けち臭い不安が胸をよぎる。
ちなみに、八十八ヶ所を巡り終えた段階で言えば、有料駐車場は全体で十五ヶ所くらいであった。その半分は、無人の駐車場で、設えられた箱に料金を入れてくれ、というものであった。二百円から三百円が相場である。
私は百円だけ入れることにした。留守番も置かずに、不労所得であるということと、私は一人で数分の滞在だから、というのが私の言い分である。としながらも、毎回気後れするのも確かだ。気持ちよく無条件で満額支払ってしまおうかと気持ちが動くこともある。無人の料金箱を前に、己の良心が試されている。
本来所定の料金を払うべきところを払わないというのは、仏教で言うところの偸盗ってやつにあたるのであろうな。周囲を観察してみると、多くの人は払っていない。百円で良しとさせていただこう。
お金の話になったので、ついでにお賽銭について。十円で十分と、お遍路さんのプロが書いていたので、私はだいたい十円としておいた。原則十円であるが、街中のお寺は経営状態が良さそうなので一円としたり、山中のお寺には、先人の苦労を偲んで百円、または五十円とした。最後の大窪寺では、結願を願って五百円放り込んだ。
だが、一日二十も三十もお寺を廻っていると、あっという間に十円玉は払底してしまう。時々コンビニに立ち寄り、両替してお賽銭を確保していった。その際の購入したおにぎり、肉まん、チーズケーキなどが今回の食事の大半で、これらを運転しながらかじった。本来なら、名物でも食べながら、そして夜は居酒屋で一献が私の旅のスタイルなのであるが、速廻り遍路なのでそうもいかない。そんな調子であったから、食費は、四日間で一万五千円程度で済んだ。
次は、旅費。主たるものはガソリン代である。クルマ遍路は全長一五〇〇キロという。私のレガシィの燃費はリッター一〇キロくらいのようなので、一五〇リットル。一リットル一五〇円とすると二二五〇〇円ということになる。
ばかにならないのが有料道路代。六十番札所・横峰寺に上がる道では、関所で一八〇〇円取られた。他にも、屋島寺に上がるための屋島ドライブウェイで六一〇円。八栗寺のケーブルカー代、往復九〇〇円など。
一方で、宿泊費はゼロ。三泊すべて車内泊なので。クルマに寝泊まりしていると、たいへんでしょう、疲れるでしょう、とよく言われるが、そんなことはない。後ろの座席を倒せばけっこう広いし、身長一八〇センチ強ある私でも、斜めになれば足を伸ばせる。むしろあの狭さがいい。常に積み込んでいる毛布を掛け、寒ければウィンドブレーカーを着て寝る。下には何も敷かない。板張りの上でも寝られる私である。苦にはならない。
道の駅やコインパーキングの片隅にクルマを停め、寝支度を整える。横になってから、持ってきた酒で一献。近くにコンビニがあれば、当然冷たいビールが美味しいのだが、なければ、ぬるくても飲める缶ウィスキーや日本酒が用意してある。
泊まるのはたいてい道の駅。駐車場は広いしトイレもある。同じように宿泊者がいるので安心だ。私が好きなのが、山形県の「道の駅あつみ」で、ここにはこれまで十回近く泊まったことがある。日本海に面していて、夜半になると、真っ暗な海の上に漁り火が見えて美しい。反対側の山には、羽越本線が走っていて、「あけぼの」や「日本海」といった夜行列車や貨物列車を見ることができる。すぐ近くにコンビニもある。
前回泊まったのは、昨年の秋であった。この夜は、たいへんな風雨であった。ずぶ濡れになりながら、コンビニでビールやつまみを買い、それからクルマの中に潜り込んだ。さすがにこんな夜には、漁り火は見えないが、子供の頃、台風の時ドキドキするような興奮を覚えた。
今回のお遍路さんなど特にそうだが、私の旅は行き当たりばったりなので、その日のうちにどこまで行くのかわからない。いちいち宿を予約したりするのも面倒くさい。チェックインもチェックアウトも煩わしい。虫が出る夏、さすがに寒い冬を除けば、車内泊が快適である。
室戸岬の突端にある二十四番札所・最御崎寺に着いたころには夕刻六時近くになっていた。納経所はもう営業終了していて、境内には誰もいない。
本堂で手を合わせて、家内の安産、子供の健やかなること、震災の被災者・犠牲者への祈りを捧げた。
お寺を出ると、だいぶ傾いた陽を受けて、太平洋の海原がきらめいている。弓なりの陸地とのコントラストが美しい。ようやくその場、その瞬間を味わえる余裕が出てきた。朝からどこまで回れるかばかり気にしていたせいで、すっかり視野が狭くなっていたことを実感。
二十五番札所・津照寺は港を見おろす高台にある。石段を息せき切って登って振り返ると、こぢんまりした港町が一望できる。津を照らす寺か、その名の通りだな。
二十七番札所・神峯寺は、カーナビの地図によると、そうとう山奥にある模様。じっさいその通りで、つづら折りの山道をうねうねと登っていく。人家もなく、すれ違う車もない。時折、眼下に見える町の灯がどんどん小さくなっていく。
神峯寺は真っ暗闇であった。空だけがうっすら青白い。灯りはまったくない。足下もおぼつかないので、ケータイの灯りをたよりにおずおず歩く。山門に頼りない裸電球が吊されているが、鎮座する仁王様を浮かび上がらせるだけ。とても怖い。恐怖で、首筋に鳥肌が立つ。自分のお腹がなった音でビックリしてしまった。あまりにも怖いので家内に電話してみた。私は日頃二台持ち歩いているので、一台で足下を照らし、もう一台で通話した。彼女との電話でだいぶ気が紛れたが、怖いものは怖い。本堂で手を合わせてお祈りをしてそそくさと立ち去った。この歳になって、こんなに怖い思いをするとは思わなかった。
「道の駅やす」に宿泊し、翌朝は五時には出立。この日は、高知市の中心部などに点在するお寺を回るので、市街地が混み合う前に脱出したい。街中のお寺はいずれも淡泊で退屈なものが多いが、禅師峰寺は太平洋の眺望が素晴らしく、印象に残った。
三十四番札所・種間寺のあたりから、姫路ナンバーの赤いクルマを見かけるようになった。そのクルマには、三十歳前後の男二人が乗っている。あきらかにクルマでの速廻り遍路である。お互い意識し始めていたので、三十七番札所・岩本寺の手水舎で声をかけてみた。
彼らは姫路から来ていて、今回は二度目のお遍路。昨日から十八番札所を皮切りに回っているのだという。この日は、この二人連れと何度も遭遇した。足摺岬にある三十八番札所・金剛福寺では、反対側から走ってきたところで鉢合わせ。三十九番・延光寺と四十番札所・観自在寺では、駐車場から出ようというタイミングに到着。この寺を最後に見かけなくなったが、高知市内から宇和島に差し掛かるあたりまで、およそ一五〇キロ近く同道したことになる。
四十三番札所・明石寺を終えたのが六時半過ぎ。この日はここでおしまいにして、八幡浜に行く。「港町ブルース」に歌われるこの港町は、気仙沼同様、良さそうな居酒屋がありそうだ。ところが、探してみたが、それらしき店はなかなか見つからない。町のたたずまいはとても好感触なのだが、肝腎の店がないので大洲に移動することにした。途中、立ち寄り湯で一風呂浴び、大洲に着いたのが午後八時半。


▲八幡浜駅

▲伊予大洲駅
城下町・大洲は私の好きな「寅次郎と殿様」の舞台になったところだ。映画で描かれていた雰囲気は今も街中の随所に残っている。とても風情のある町だ。家人にネットで調べてもらった居酒屋で一献して、道の駅に宿泊。

四国の道の狭さはなぜだろうか。国道などはいいのだが、一本入った路地がいけない。クルマのすれ違いがギリギリという道ばかりである。こういう時、下品な人は相手によけさせようとして、わざと道の真ん中を走ってくる。私はこういう連中が大嫌いなので、つい対抗してしまう。チキンレースさながら、すれすれのところですれ違う。そんな自分に嫌気を覚えるのも確かだが、ついそうしてしまう。困ったものだ。
あとは、道路工事の警備員。これは四国にかぎった話ではないが、どうしてあんなに大勢いるのだろうか。じっさいに工事している人より、誘導棒を持っている警備員のが多くないか。
私は職業に貴賎があるかないかという議論には関わらないが、創意工夫の余地のない仕事は気の毒だと思っている。そういう点で、棒振りは気の毒でならない。たまに異常なテンションで、路上で舞っている人もいるが、おしなべて精気のない眼で棒を左右させている。
また、むりやり創意工夫しようとしてか、対向する交通がないのにわざわざいったん停止させる棒振りもいる。棒振りの価値は、交通をスムーズにするところにあって、自分の存在価値を高めようとばかりに交通を遮断するスタンドプレーはいただけない。
ある時、ふつうに走行していたら、警備員がクルマの前に飛び出してきて危うく轢きそうになった。横断歩道で、自転車に乗っていたおばさんが停止していたのだが、彼女を守るために身を挺して私のクルマの前に飛び出してきたのだ。当然、おばさんも私もびっくり。交通の妨げでしかない。