22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2011年02月

■12(土)

高尾

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軽井沢

蛯名氏面会

中軽井沢

小諸

小淵沢
上諏訪 一心
松本泊?
バケツ唐揚げを食いながら
日帰りしたような⁇




永塚良さん(国後島出身 大正十三年四月十七日生まれ)

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 色丹島の旅団本部に配属

 昭和二十年の三月に徴兵に行ったんですね。それまで代用教員をしたり、それから留夜別村役場の職員もしました。二十一、二の頃に徴兵です。島の最東端の地、白糠泊で入隊しました。
 北方派遣として、白糠泊に一個中隊ほどの兵隊が駐屯していましたんでね、その部隊へ仮入隊したかたちなんですよ。もう島の人全員そこへ入隊させられましたね。三ヶ月の教育受けるまではそこへ全部おりました。
 そして六月に入ってから分散して、北方、カムチャツカのほうへ行った者、いろいろでしたけどね。私は色丹島の旅団本部に配属されて。旅団本部というのは大きな部隊で、三千名くらいおったかもしれません。そういう大きな部隊でした。本部は穴間というところにありました。島は小さいからね、乗馬であっちへ行ったりこっちへ行ったり転々と島の中を歩き回りましたけどね。
 私たちが国民学校を卒業すれば、上の学校へ行きたい人は昔中学校ってあったんですよね。その中学校制度を私たち受けたもんだからね。今度幹部候補受けなきゃだめだって、中等学校出たものは全部幹部候補受けなきゃ駄目だってことになって試験受けさせられたんですよ。
 そこで幹部候補甲種っていうのは将来将校になれる人なんですよ、それから乙種っていうのはだいたい下士官止まりなんですよ。私は下士官止まりの乙種幹部候補に受かって。

 敗戦は色丹島で迎えました。八月十五日ですが、この日はまだわからなかったです。十六日の夕方ですね。旅団本部からね、下士官以上全員集合がかかったんですよ。そして穴間の原っぱに全員集合させられて、旅団長の話をを聞く形に、全部整列して待機してました。そしたら兵舎から旅団長が出てきてね、日本は戦争に負けたと。そういうことでこれからの戦(〓いくさ)はね、私が全責任を負うから、絶対みだらな行為はしてはいけないという注告を受けましたね。
 三千人の兵士の前でそう言ったんです。我慢できなくて、かなりの将校が自害しましたけどね。私たちは自害するようなそれこそ勇気も何もなかったから、残ったんですけれども。
 旅団長の言葉を聞いたとき、私たち初めは信じ切ってないような、なんか負けたっていうような感じはぜんぜん持ってなくてね。負けたっていうことは結局、これから戦争しないんだっていうことなんだろうなって、一応そう思ったけどね。なんかあんまり直に戦った記憶もないのにね、ただここに居座って訓練朝夕、平時の訓練だけさせられてて、負けたって言われたって、なんかこうピンとこなかったですよね。
 でも負けたっていうことがみなさんの口から伝わって広がっていけば、それに従うしかないのかなと。これがどういうふうになるのかなっていう心配もありましたけどね。とりあえずまた上部から命令が来るかもしらんって、兵舎にそのまま待機をしていなさいということで待機させられて。待機したけども、丸一日ぜんぜん何にも音沙汰なしですよ。
 十六日の夕方初めて、これから東京で武装解除をするんだと。だから自分で持っているものは全部自分の身の回りから離してはいけないという指示が出まして。東京行って武装解除するからと。このままでむこうの言うとおり、それに従うしかないんだということに。そうして十八日の朝に、軍艦が入って来たんですよ。

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 ソ連兵と銃撃戦

 ソ連の軍艦が入ってきました。見張りが得体の知れない船が来たからって。どうするかってことなんですよね。ま、とにかくそばに来るまで待機してようって言っていたけどね。なかにやはり捕虜に捕まったら大変だっていうことでバンバン発砲させた部隊もあるんですよね。
 そのときはソ連軍だってわからない、ぜんぜんわからないです。日本の船は日の丸か軍旗が立てて来てるんだけど、その軍旗も何もないしね。何か変わった旗だなあって思った旗があったけど、真っ赤な旗だったような記憶がありますね。これは日本の旗じゃないわって。  
 これは日本兵でないから、とんでもないことになるからって聞いて、「やれっ」てことでバンバンやった。僕らも七、八十発くらい打ちましたよ。でも、どんどん船が入ってくる。
 軍艦は大きな船ではないですよ。中型くらいの船ですよ。大きな母船は沖泊まりなんですよ。そっから中型船でもって入ってきたんですよ。四十人近い兵隊が乗ってたと記憶してるけどね。
 ソ連兵が入ってきました。そしたら「発砲止めっ」ていう指示があったもんだからね、発砲止めて、待機して。そしたらつかつかと上がってきて。引き金を引いていればね、七十発や八十発くらいは連射できるような機関銃を持って彼らは来るわけさ。
こちらは一発ずつバンって撃つ銃でしょ。太刀打ちできないなって感じで、銃をちゃんとしまって、草っぱらに銃を置いてさ、手を上げて待ってました。降参したような形ですよ。
 向こうから銃撃はないんです。まったくないです。向こうからバンバン撃ってくるんであればこちらもそれに対して抵抗するんだけれども。だからひょっとするとね、何かおかしいぞっていうことでね、撃ち方止め、っていうことで。それで、それでどんどん下りてきたの。これはもうだめだっていうことで勘念しました、みんな。

 ソ連の軍艦に乗せられて

 そのとき相手がソ連兵っていうのはまだわかんなかったです。言葉はぜんぜんわかんないしね。頭の帽子の脇からね、毛が見えるのは茶色とかそういう色はわかったけどね。日本人は全部髪の毛は黒いもんだとばかり思ってたしね。初めはもうまったくロシア人ってことわからなかったですね。
 おとなしく私のそばへ来たんだけどね、来てしまってから包囲して、ぐるっと周ってしまったから。七、八百人くらいひとかたまりでおりましたが、それが全部包囲されちゃって。それぞれの箇所でもってみんな包囲されている。どの部隊もね。
結局そこへ全部自分たちの持ってるもの、全部下へ置きなさいっていうことで、全部命令に従ったわけよね。で、そこから荷物から離れろってずっと離されて。私ほんと手に何ももの持たずに。
 日本の通訳が出てきてね。ハルピン大学を卒業、中退だかしたっていう、兵隊の中にある程度ロシア語を生かじりの人がおったんでね。それで何を言ってるかくらいは大方の見当はつき、それから日本語に整理して、我々に説明するわけね。そういうことで、ロシア人であることがはっきりわかったし、今ロシア人に降伏するんだな、しなくてはならないんだなっていうふうなこともそこで薄々わかったんですけどね。
 そこで日本へ帰るっていうこと、無理かなあって思ったんだけれども。とにかく話を聞こうっていうことで聞いたらね、これから全部私達が案内してね、私達の船でもって東京へ行って武装解除をしますと、こういう言い方なんだよ、通訳がね。日本の通訳が、ソ連兵の人がそういうことを言ったよと、東京で武装解除するんだと。
 東京がアメリカに押さえられてるっていうこともぜんぜんわからないことだしね。東京へ行って、全面武装解除するから、この船で東京まで送る、そういうことなんです。そうしたらこの船に全員乗りなさいって。結局全部その船に乗ることになって、一列縦隊にダーッっとその船に乗って。何回か往復しながら本船まで行って。
 本船へ行ったら大きな地下室があるわけさ。その中へ梯子があってその階段を降りて下へ入っていくとね、それこそ大きな枡みたいなところがあって、そこの中へ全員乗せられたわけ。ところが将校だけは、少尉以上の将校だけは別場所。我々と同じ場所じゃないんですよね。
 でも下士官以下全部同じとこだったんですけどね。兵隊から何から全部一緒だったんだけど。我々の所でも三千人近く乗せられたかね。あとまた、二艘か三艘くらい大きな母船がありました。その船に乗せられるだけ乗せられたと思うんですよ。
一応僕らは全員乗ったら今度はバタンと蓋かけられて。もう真っ暗です。窓ひとつないんだからね。そしてもう手探りで、わかんないもんだからね。そのまま横になって、まあひもじい思いをしましたけどね。
 そうしたらね、何日でどこまでどういうふうに行ったのか、三日か四日したかなあって思った頃に、甲板に出て空気を吸いなさいって指示があった。船は停まっていたからね。で、今度起き上がって立ったら、そしたらなんかずらっと向こうに島みたいなものが見えるの。
 後から聞いたらここが樺太の真岡だっていうわけさ。ですから、国後島と択捉島と間を、国後水道を通って北上して樺太の方へ行ったもんではないかなあと思うんだけどね。それで二日か三日かかったような気がするんだけどね、それまでね。その間食糧はまったくなし。水も何にもなし。でも、カンパンとか最低の食糧は自分達がそれぞれ持ってたから、それをかじりかじり、暮らしてたんだけど。
 そして二十分かそこら甲板で空気を吸ったのかな、そして陸(〓おか)から大きな箱舟が来て、それにね牛が四十頭くらい乗ってたのかな。それからすぐ後から来た箱舟には馬が五、六十頭乗ってたかな。それを全部後ろに詰め込んだもんですよ。乗ってる母船にね。そしてもうお前たちも中へ入れって言われて。また地下の中へ入っていって、それからまた蓋かけられて、しばらくまた何日かかかったのか。

 食料、水も与えられず真っ暗闇の貨車で移送

 そしてもうここで上陸するんだから、全員甲板に出れって言われて。甲板に出たらなんだか変な真っ白い建物がいっぱいあちこちにあるんだけど、ここどこだって。ここが東京だっていうことなんですよね。
 はあ、東京って何だかみすぼらしいな、これじゃ根室よりまだ悪いなって思ったのさね。変な東京だなと思いながら、みんなで、おいこれほんとの東京かって言ったって、東京だってみんな言ってるから東京らしい。
 とにかく下りてみなきゃわかんないって。そして下りたんですよね。そしたら全部横文字でね。ぜんぜん読めないんですよ。ロシア語だもんね、読めるはずないさね。
ちょっとやあ、これ東京じゃないわこれ、変だぞって。日本じゃないんじゃないかっていうことになって。見たら女の人や子供たちがみんな頭真っ赤、髪の毛は赤いし、着ているもの自体もなんかふわふわしたようなもの、白いスカートみたいなものいっぱい履いて、寒い最中に歩いてるわって。
 やっぱりこれ、違うわって。それでロスケの通訳やってる日本の兵隊が、これウラジオストックだっていうことになったわけさ。なんかラジオのような名前の文字だっていうわけさ、文字がね。そしたらやっぱりウラジオだったんだね、あれね。
 そこから今度そこで上陸させられて、また貨物みたいのに乗せられて、三十二か三ぐらい車両に分散して、全部乗せられたのよ。僕らのところはね、前から十一、二番目かなあ。そのくらいだったと思うけどね。
 ここの隅っこと、こっちの隅っこと二箇所、長めに二十センチぐらいの四方の窓があるんです。鉄格子なんです。ラッパが七本くらいとガラス、あとは何もなし。そこの中へ全部入れさせられたの。そして昼頃になればガタンガタン、ガタガタ動き出す。発車してるんだね。
 そして燃料がなくなったんだか、ストップして半日もそこにいるんだわ。ぜんぜん動かないでね。あれシベリア鉄道なんだろうけど、燃料ったって、周辺に枯れ木だとかそういうようなものがあればそれを集めてきてかけながら走ってるんだよね。石炭だとかそういうものはないんだから、その頃は。薪で走らせてる。だから、遅いんだ。僕らは速さはわかんないけどさ。ガッタンガッタン、ガッタンガッタンやってんだよ。
 そして何日か、自分が持ってきた食糧はほとんど食べつくしちゃって。今度ぜんぜん食べるものがなくなってきて、毛布の角、チュッチュチュッチュ吸ったんだよ。そんなものさ、ぜんぜん食べるもんなくて。
 ちょっと汚い話だけどね、そこの隅っこの一角を便所にしたわけさ。で、便所したくなればそこの隅っこへ行ってするんだわ。便所の山があるでしょ、そしたらやっぱり寒いからね、だんだんそのうちに硬くなるのね。それをガバッと持ってきて、ぶっち切りにするわけ。それを今度食べることになる。食べるんだよ。
 皆で分け合って食べるわけだけどね、そりゃやっぱり位の上の者は一番いいの取ってく。若い兵隊だとか、今来たばかりのなったばかりの連中たちはね、本当に隅っこさ。端っこさ。まあそれを繰り返してたらね、何か知らないけれども、そこへ大便しに行く人がいなくなっちゃったの。せっかくやったってみんなに食われるようなもので、自分がさっぱり当たらないでしょう。だからもう行かないんだ。自分で勝手に毛布かぶりながら毛布の中で大便をして、それで自分で食ってんだ、自分のものを自分で食ってんだ。
 そうなると、人のためにとかっていうそういう気持ちはまったくなくなるもんだよね。自分さえよければ、自分が生きていればいいんだっていう考え方になるのかね。ひどいもんですね。人間生きることはそういうことなんだなあって僕は思いましたよ。
 何日かしてから、外へ出て空気吸わせようとして、昼間停まってね。停まった所がね、ちょうど小さな池みたいな所、沼地だね。沼地の中にちょうど停めてもらったのさ。ドアを開けて降りてもいいってことでね、降りたけどね。満足にちゃんときちんと、あの若い兵隊たちがね、満足にきちんと歩ける人いなかったよ。
 足フラフラ、フラフラしちゃってね。もう杖でもなければね、歩けなかった、みんな。もう這うようにしてそこの池まで行ってようやくガブガブ、ガブガブ水飲んだ。そして今度毛布持ってって、毛布しっかり濡らして持って帰ってくるんだわ。いやあ、その味も忘れられないと今思ってるけどね。草や木なんかなんにもないんだもん。シベリアだから。何にもないんだもん。

 収容所での生活へ

 そしてまたそこから乗ってそれこそ何日か、とにかく全部で三週間くらい乗って収容所みたいなところに到着して。そこで降りたときも、後ろから叩かれながら、鞭で叩かれながら、這うようにして兵舎まで行ったんだね。
 ロシアに抵抗してたドイツの人がたがそれこそ何百人か何千人か捕虜になって作らせられた収容所があるわけさ。収容所がポツンとあって、周りは鉄条網で囲ってんだわ、三重にして。そして四つ角に櫓を立ててそこに銃をもった兵隊が監視してるわけさ。そういう中で生活しなきゃならない。その兵舎の中全員入れさせられたんだけどね、まずひどいもん。島でよく飯場って言ったけど、それこそあれだ。まあひどいとこですわ。
 夜よなかになるとね、木で家を造っているでしょ。その木と木の割れ目の中にね、ダニみたいな虫が真っ暗になると出てきて人間様のあちこちに血吸うんだよね。それであかり点けりゃあ、パーっといなくなっちゃんだわ。
 汽車の中では亡くなったのはないけれどもね、毎日生活しているなかで、一日少なくても七十人やそこらは亡くなりましたね。亡くなれば全部ね、倉庫みたいな冷凍庫みたいな所へみんな入れられるのね。そして固まればね、トラックみたいなのが来て山にして積んで、川に投げにいくんだね。
 収容所に行ってからどんどん、どんどん脚気になったり、それから鳥目になったりよくしたですよ。日中ぜんぜん見えなくて、晩になれば見えるんだね。
収容所についたのは九月の半ば。もう九月って言ったら寒いですよ。結構雪ありました。場所はトボルスクってとこです。
 ウラジオからずっと入ってからね、オムスクとかトムスクとかっていうところずーっと通り過ぎて、トボルスクっていうところまで行きましたね。そこの収容所入ったんですよ。そこからまたモスクワまで四日かかるって聞きました。ガタガタ貨物汽車で。四日かかるって言ってましたからね、相当行ってると僕は思うの。
 そこで身体検査をされてね。結局甲種、乙種、丙種三段階に分けられてね。甲種っていうのはね、毎日ある程度の労働させられるのが甲種って言ったね。それから乙種っていうのはね、食べるものを与えておけば、そこら近辺のね、掃除くらいはできるっていうのが乙種さね。それで丙種っていうのは、それこそ食べさせるだけ損だっていうふうな、そういう見方をされるのが丙種さ。だから乙種になったからね。なんとか食べる仕事ぐらいさせられたのよ。

 洗い方を咎められて処刑台に

 僕がさせられた仕事が洗濯。ロスケの若い兵隊たちが官舎にいますよね。若い女房をみんなもらってるんですよ。その若い女の人、自分の旦那の洗濯は自分でするけれども、奥さんの洗濯を今度我々にさせたのですよ。
 僕らいつも若い将校の奥さんの洗濯ものばっかり、川へ行ってね。川の縁に大きな石があるんですよね。その石の上に行ってね、川の流れに沿って洗濯ものを端っぽだけ持ってね。そして流れの中に入れて、手は水の中入れられないからね、冷たくてもう。だから大きな手袋はめて、冬の手袋もらって。
 そうしてしゃがんでやってたら、なんだか背中がポカポカ、ポカポカ暖かいような感じして、あれって思ってはっと見たら、僕のすぐ後ろに白い布着た将校のおかみさんが睨みつけているわけだよ。そんな洗い方はなんだっていうようなもんで。
僕はそれこそ生まれ育ってからさ、親に頭ひとつ殴られた記憶もない僕がだよ、その若い女の子に往復ビンタ食ったの。それで僕も歯軋りをしたんだね、悔しくて。その歯軋りをしたのがね、抵抗する気かって言うんですよ。奴隷の分際で抵抗する気かって。軍法会議にかけるって。すぐもう軍法会議にかけて処刑さって。
 一旦兵舎に帰って、全部荷物を自分の物を持ってまたここへ来いと。言われた通りに僕は一旦帰って荷物を持ってそこへ行ったのさ。そしたらこっちへ来いって引っ張られてね。ずーっと奥のそれこそ廊下ずーっと入って、一番隅っこのほうにね大きな真っ白な部屋があるのよね。その部屋へ入ったところがね、ものすごい嫌な匂いがぷんぷんするわけ。
 そしたらね、そこが処刑場だったんだね。ドイツ人なんか、捕虜法違反でもって処刑された連中達が転がっていたわけさ。すごかったんだよ。もう臭くなってるのさ。
案外暖かいその部屋へ入るわけ、そうしたら大きなペチカみたいなものがあって、後から階段があって、上へ上がっていくような形なんだよ。上に上がったら、足を揃える、足の形の絵が描かれている。そこに足をちゃんと、きちんと揃えて立てっていうことなんだよね。
 そして向こう側のほうから拳銃を持った将校が一人いるわけだよ。そして拳銃向けたの、僕に。そして誰かが言っているんだろうけども、十秒から始まって、九秒、八秒、七秒、六秒…ってやってたんだよ。
 そしたらね。七秒か六秒かそのあたりになって、廊下をカタカタって走ってくる人がいるじゃない。そうしたらピタッと僕たちがいたところの入り口に立ち止まってダンダンってノックして入ってきて、そしたらそれが下士官みたいだったんだよね。長い銃を持って、そしてなんだかロシア語で何だかしゃべったんだよ、拳銃向けてる人に。
 そうしたらその人が拳銃をしまったの。今度そこへ自分が立ち上がって、自分が持ってきた銃剣を。だから僕は銃殺じゃなくて射殺なんだなあと思ったわけさ。拳銃でバンとやるなら銃殺だけど、刺して殺すんだなあとそう思ったのさ。まあいいや、と思って。どうせもう生きることに未練はないから、ここまで来たらもう死ぬしかないんだと。こんなところで苦しむんなら死んで日本に帰る、魂になって帰っていけるかもしれない、そういうふうに思ったら何も怖いものなかったんだよね。腹決めちゃったら。
 そうして今度、なんか言い残したことないかとかさ、島へ、日本へ帰ったらこういうことを伝えたいっていうふうなことことないかとか、言ってたけどね。「一切ありません」って僕は言ったのさ。
 ああそうか、よしわかった、ということで、また、十秒、九秒、八秒、七秒やりだすんだよ。そうして、四秒、三秒、二秒、一秒、よしって言われたんだろうけど、僕はその頃はぜんぜん頭に記憶はない。朦朧としてぜんぜんわかんないの。

 処刑失敗で一命を取り留める

 三日、四日してね、気がついたら、ベッドの中でひっくりかえって寝てるんだ。そして周り見たら全部白いところなんだわ。そしてもう、壁なんだ。すぐ壁なんだよね。そこが病院だったんだよね。
 衛生兵がね、ぐるぐる回って来てくれて。「永塚、気ィついたか」って、今先生がうるさいから後で来てよく事情話するからって、それで「わかった」って言って。僕も下士官だったもんだから、兵隊達は僕をすごく大事にしてくれてっからね、お前たちに任せるから頼むぞって言ったのさ。彼らも真剣になって、僕を大事にしてくれたっていうことが今もって嬉しいけどね。
 兵隊が来ない時間帯を見ては日本の衛生兵が来てね、僕のそばへ来て話するわけ。その話はね、一応射殺になったんだけれども、間違ってね。心臓はこっち(〓左)にあるもんでしょ。こっち(〓右)にあると思ったんだ、その兵隊が。そして、「よし」と言われて銃剣を刺したけどもね、それが届かなかった。ちょっと一歩手前で滑るようにして、銃剣の先がばあっとこの足に一発来たわけさ。いまだにここに傷あるけどね。ブツっときたわけだ。
 起き上がろうとしたら、血がすごいの。二日も三日も経ってるのに、ぜんぜん治療してくれることもなし。そしたら僕の枕元にね、何項目だか、何十項目だかしらないけれど、この人間の傍に近寄ってはいけないとかさ、この人間に糧秣を与えてはいけないとか、ものを言ってはいけないとかっていっぱい書いてあった。だからみんな、僕のところへ来てはすーっと行っちゃうんだよ。ぜんぜん僕の傍へやってこないの。ロスケが医者なもんだから。
 日本兵も来るんだけどね、目配せパチパチパチってやってさっと帰ってくんだよ。何か変だなって思って。そしたらやっぱり、そういう処罰を受けたもんだから、このまま苦しんで苦しんで、苦しんでくださいっていうふうな感じなんだよ。
 後から聞いたら、失敗したんだとさ。そういう処刑する仕事を、大事な仕事をね、失敗したっていうことで、かえってその人間が銃殺されたらしいよ。処刑は二回と三回とやるべきもんではないんだと。処刑する場合は。一回勝負なんだってね。ロシアの掟なんだと、それが。
 それで僕は、あとはこれ以上手かけられないという掟でもって、そこに寝せられたわけさ。何にも糧秣も何ももらわずに。でも衛生兵がね。夜中にこっそり、寝静まってから、パン切れだとか、サンマかなんかの塩辛か塩漬けにしたしょっぱいものだとか、かき集めて来て、それを僕にくれたもんだわ。僕はそれが嬉しくてねえ。もう食べた、食べた、食べた。

 何日かして、そこの収容所から別の収容所に移されて。どこへ回されても隅っこなんだ。それでその看板が取れないんだよ、どこ行っても。そしてだいぶ日本に近い方まで来て、ウラジオまでは来ないけども、ややウラジオの近くまで。
 ずっとあっちの収容所じゃ、こっちの収容所じゃって回され回され。そして最後のところの衛生兵が山形県出身で、「やあ秋田(出身)なんだ」って言って、同県人だみたいだみたいなこと言って。
 毎日四十人や五十人死ぬでしょ。その中の死んだ人をね、永塚が死んだっていうことにして、永塚が死にましたって届けて、僕が佐々木っていう人間にしてもらったの。そして僕は佐々木っていう名前でそこにいさせてもらったの。それから治療だとかしてもらえるようになったの。

 簀巻きにされ、箱船で海に追放

 そういう目に遭ってね、そして結局あちこち回されて、北朝鮮に来たのさ。北朝鮮まで来て、清津(〓セイシン)からずーっと金剛山とか咸興(〓かんこう)行って、興南(〓こうなん)っていうところに来た。最後がここなんですけどね。興南で今度身体検査させられたわけさ。そしたらね、またそこでも甲種、乙種、丙種三段階に身体検査があったわけ。
 ぜんぜん使いものになんねえ、させるだけ損だっていうのが丙種さ。今度は丙種にさせられたわけ、僕が。足ぜんぜん利かないでしょ。だから体自体もすっかり弱っちゃってるしね。もう外へ出て洗濯したりなんかしたりっていうこと自体ができないようなね。足が動かないもんだからね、丙種さ。
 今度、丙種は全部島流しだっていうことになったわけさ。丙種はスッポンポンの裸にさせられて、ロスケの白いきれみたいのをくるくるっとひとまわり回して、そして筵をこう広げて横になるの。ぐるぐる回って海苔巻きみたく回されて。
 で、下に大きな箱舟があるわけさ。その箱舟にうまく転がって入ればその箱舟に入れるけんども、下手に頭だとか足のほうが回転が速ければそっちが海の中へばっさりさ。僕ら六百何十人だかね、兵士がいたんだよ。そして僕が後ろから三番目か四番目だったんだわ。
 だから僕は上積みさ。上のほうさ。下積みだったのはそれこそほんとに下になって終わりだったと思う。僕は上の方だったもんだからね、まず上のほうでもって海に落ちないで箱の中に入れたからよかったんだろうけどね。帆かけみたいな船で、興南の港から流されちゃった。

「私は永塚でした」

 どのくらい漂流したか、もうぜんぜんわかんない。筵の中に入ったまんまだから。前なんかぜんぜん見えないの。僕ら、もうおっかないっていうことはなかったね。そういう気持ちになれなかったね。処刑のあたりから腹決まってましたからね。どこいっても助からないんだと。だけどあえて人間替えてさ、永塚が死んだんだってことで佐々木に名前替えてもらってね、そこで生かしてもらってっていう、そこでやっぱり生きていたいなあ、っていうなんだかそういう気持ちもおきちゃったからね。
 そして昭和二十二年の一月に佐世保の南風崎っていうところに漂着したんだね。アメリカの沿岸警備隊の兵隊に発見されて。十一人だかしか生きていなかったって。それから日本の航空兵舎で治療してもらえたわけさ。
 気がついて、しゃべった後、「私は永塚でした」って言ったの。その後、佐世保に回されて佐世保で今度三ヶ月ばかり治療してもらってね、命救われたんだけどね。
最初、三千人が捕虜になった。生き延びたのはほとんどいないね。シベリアに行ってね、一生懸命仕事を、ロスケの兵隊の奥さんの洗濯ものなんかしたり、一生懸命真面目にやる人ほど早く死んでるんだよね。

 爺々山会の結成

 引揚げ後、教員生活を続けました。転々とあちこち歩って、四十八年に根室市内の北斗小学校に奉職したんですよ。そこで十年間勤めまして、昭和五十八年に、定年退職になりました。そのとき島の関係だよねっていうふうに友達から声かかって。島のこれから、北方領土のことについていろいろ大きな仕事が山積されているんで何とかそっちのほうで手伝いしてもらえないかっていうことででした。
 私たちの集落、部落にね、会を作ったらどうだっていう声もあったりしたもんでね、まあ懐かしいなって思いながら足を運んだところが、そこで会を組織するっていうことで、話になったんですね。主な集まった発起人の方々がね、初代会長は永塚君に頼むっていうことで会長になって。
 島を離れて六十一年だねえ……。我々が住んでたふるさとなんだからね、行き来できるぐらいはね、やっぱりこう国がなんとか図ってもらえないもんかなあって思ったりしているのさ。
 お墓にもね、行ってみたいなと思います。まあ熊に倒されてしっかり苔に包まれてもう、ひどくなってたっていう話も聞かされましたからね。行って立てかけるもんであったら立ててね、それこそ苔でも結構生えてると思うけども、我々の手でできる程度にね、洗い落としてきたいもんだなあと思ったりしているんだけどね。
 僕ら、島時代の同級生もさあ、僕一人しか残ってないの。あと全部もう、病気その他でいなくなっちゃって。だからみんなのためにも僕はもう少しやっぱり長生きをして、この爺々山会をなんとか存続させていたいんだなあ、と思ったりしているのさ。

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■聴き取りを終えて

 永塚良さんは物静かな雰囲気の方ですが、その来し方すさまじいのひと言です。
 侵攻してきたソ連軍に捉えられ、捕虜としてシベリアへ貨車で運ばれました。その間、何も食べ物も飲み水すらも与えられず、ついには大便を食すという極限状態を経験。劣悪な収容所生活で毎日数十人という人が死んでいくなか、ささいなことで難癖を付けられ、処刑されることに。
 処刑台に立たされたまま、拳銃を持った将校がカウントダウン……。「一」になる直前、永塚さんは気を失い、気が付くとベッドに寝ていました。処刑に失敗し、九死に一生を得たのです。しかし、足には銃剣を受け、今でも傷跡があると、私に見せてくださいました。
 それからも、永塚さんは治療を受けることもできず、刻々と迫り来る死を受け入れざるを得ない状況に。しかし、山形出身の衛生兵の機転により、他人になりすまし、治療を受けることができ、またもや九死に一生を得ました。
 しかし、これで終わりません。永塚さんは転々と身柄を移され、北朝鮮で身体検査を受けさせられました。身体検査とはいっても、不要な人間を排除するためのもの。
 永塚さんに下されたのは「丙種」。丙種の人たちは役に立たないということで、丸裸にされて、ムシロに巻かれ手足が効かない状態にされ、箱船の中に転がされました。落ちたら溺死、そうでなくても最初に箱船に落とし込まれたら圧死。頻死体でいっぱいになった箱船は海に押し出され、そのまま彷徨いました。しかし、永塚さんはここでも九死に一生を得ます。米軍の沿岸警備隊に発見されたのです。
 本稿では、再三、九死に一生という言葉を使っていますが、永塚さんの場合、それが三度も四度も重なり、そこを生き延びてきました。九死に一生ではなく、“一万死に一生”ともいうべきでしょう。じっさいシベリアに連行された三千名もの日本兵たちで生き延びた人はほとんどいませんでした。
 こうした物語を永塚さんは、子供の頃の思い出を語るかのように懐かしそうに語ってくださいました。一部本書に盛り込むことはできませんでしたが、これはいつの日か、私が責任を持って、陽の目を見るように取りはからい、先人たちが経験した極限状態を後世に伝えて参りたいと考えております。


 岩田宏一さん(択捉島出身 昭和四年生まれ)

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 温暖だった択捉島

 択捉に渡ったのは親父、末吉の代です。親父は茨城県出身。普通の役場職員でした。親父が島に渡ったのは、大正の末期でしょうかね。親父のおじさんが漁業をやっていて、それを頼って行ったようです。関東大震災のとき、親父が東京で震災に遭って、それでじゃあ兄貴がいる択捉に行ったらということで。
 茨城県出身なので、東京にも親戚がいたものですから、夏休みなどに何度か東京には行っています。厚岸から便船が択捉とか国後とかに行っていました。まず根室に行って、汽車でずっと札幌とか、函館に出て、連絡船で青森へ。東京まで三日以上かかります。
 択捉で必要な物は米だけ。あとは自給自足。野菜とか。魚はあるし。だから米さえあれば、あと何とかなりますし。魚はサケ・マス、売るほどあるから。野菜も穫れます。村全体では、芋を収穫したり、ダイコンとかニンジンとか。キャベツも作っていました。わりかし暖かかったんですよ。温暖だったんです。
 当時の蘂取村は人口四五〇人。ほとんどの人が漁業です。あちこちに漁場がありまして、そこに働きに来た人が日雇いの人たちが村の人口よりもっと多かったんです。国勢調査があって、村の人たちの倍くらい日雇いの人がいることがわかりました。ふだん番屋にいるので、目立たなかったですけどね。そんなにいるかというくらいいた。近くに捕鯨場があってね。サケ・マスは塩。サケ・マスの主たる事業主は青森、函館の人でした。だからリンゴとかそんなの持ってきてね、青いやつを。国後とかはこっちの人が多かったけれど、択捉島のはじっこのほうは労働力が全部青森だった。青森の人はいっぱいいたし、青森の話も訊いたし、青森のお菓子も食べられたし。
 獲った魚は基本的には塩蔵ですね。生で積み込むものもありました。氷を持ってきてね。船を電信で呼ぶんです。すると二日間かけて来るんですよ。大漁だと船が取りに来るんです。塩蔵したのをたくさん積んで行って。その船が、野菜とか果物とかそういう物を持ってくるんです。特別に持ってきたら高いことになるんだけどね、氷積んでる船だから易々と腐らせずに。果物とかそういうのは、意外と早く食べることができました。今考えると、根室より早かったしたくさんあった。
 缶詰も最初やっていたけれど、効率が悪いんですよ。電気も無いしね。工場は村の中にはなかったけれど、ちょっと離れたところにいけばありました。実際に操業しているところもありました。すごいなと思いましたね。蒸気でもって全部やるからね。
(さらに北への行き来も)ありましたね。船が目の前を通っていった。沖をね。当時は前線基地だったみたいな。人が住んでいるのは蘂取で終わり。

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 釣り、スキー、映画――

 映画はトーキー、無声のがありましたよ。学校で映写機を持ってきてやったもんね。チャンバラですよ、短いやつ。夜しかやんないんですよ。光の遮蔽をしないから、夜しかできないんですよ。だから映画というと、夜やるものかと思いました。
 島は子供にとってはのんびりした非常にいいところでした。あんまり心配もなく遊べたしね。川釣りはずいぶんできたし、海釣りも。どこでも釣れたしね。川はヤマメとか、マスの子ですね。釣るなって言われたけど、おれ、釣るのうまいからね。海はアブラッコとかアイナメ。カジカ。この辺みんな同じです。
 遊びというと、どこの子供でも同じで、縄跳びとかケンケンとか、釘差しとか、陣地捕りとか。春になるといっせいにやるんです。冬はスキーばっかり。それ以外やらなかったね。
 冬は寒いですね、厳しさがちょっと違う。本当に寒いときなんか。うちの親父なんか紙を何重にも貼って目張りをしてね、寒くないようにしてたからね。茨城から行くもの、寒いさねぇ。
 どこの家にも、一つぐらいはきちんと(防寒対策を)したところがあった。一部屋だけきちんと目張りして、冬の寒さでも何でもないという部屋に。家の作りとか窓の取り方とかそういうのは、本州と同じだったからね。大工さんはそれでしか作れないからね。自分で造るんだったら違うかもしれないけれど、大工さんは習ったとおりにしか造らないから。本州と同じ作りですよ。縁側があってね。あっても普段はいかないのよ、寒くて。
 冬は寒いですけどね、二月ぐらいまでなもんで、あと春になったら同じぐらいなもんです。ただ、日照時間が根室半島よりもいいから、むしろ暖かいというイメージがあります。気温なんて調べてみたら、そんなに変わらない。
 島同士の交流はありませんでした。国後島にも行ったことないですね。島の中でも、隣の村というと五十キロぐらいあるでしょう。だからね、ぜんぜん行かないの。大人が馬で行ったりしますけれども、子供は交通手段がないからね。
 道路はありました。だけど、熊もいるし。こっちのほうが大変ですよ。子供らはあんまり歩いていくということはありません。お隣の紗那村までも道なんて、今のようなものはなかったでしょうから、ここにやってくるよりも、むしろ船で一気に根室とか函館のほうに出ていました。
 熊はいましたよ。でも、見たことないですね。その辺、熊も熊だし、人間も人間で、ちゃんとテリトリーをちゃんと守って、あんまりそんな所に近づいたらお互いにうまくないから。あんまり熊に食べられるようなことはなかった。でも、歩いてるのを見たことはありますよ。熊というのは信仰の対象でもあったからね。強くて恐ろしい。山の神なんていってね。皆はなかなか近づかなかったですよ。
 信仰の対象とかではなく、ただ恐ろしいというだけ。むしろ亀さんが流れ着いたりすると神社に剥製にして、御神酒あげたり。何年かにいっぺん捕まるんですよ。めったにないからね、幸運だっていうわけですね。根室だってそうでしたよ。
 紗那が人口が一番多かったですね。内地からの人がたくさん。四国から始まって、秋田のほうまで。大工さんが来たりとか、商売人は四国の人とか。
 高田屋嘉平が何人か連れてきたんですよね。そのときに嘉平がね、帰りは置いていったんでしょう、みんな。残されたのがその子孫。その人たちは怒るかもしれないけれども、たぶんそうだと思う。だって、嘉平が連れてきたという記録はあるけれども、連れて帰ったという記録はないから。

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 西春別で軍事用滑走路工事に従事

 択捉島を離れたのは十七歳です。そのころ旧制中学校が択捉にはなかったので、根室の中学校に入ったんです。中学校の二年の時、学徒動員がありまして、飛行場のある西春別の陸軍に、根室からだいたい五十キロ離れたところに行ってたんです。
 私たち中学生が四百人くらいで簡易の滑走路を造っていました。直線の道路を埋めて、戦闘機だけが発着できるように、その作業をやっていたんです。根室中学の中学生が二百人と釧路の中学生が二百人でだいたい四百人。二年と三年生ですね。
 西春別に動員されたのは五月でした。作業はいろいろあったけれども、主に警備を。あんまり人数いなかったんですけれども、軍の施設や工場の施設やらに朝鮮の人たちがたくさん動員されていた。そしてね、僕は名目上は「動員」だったんだけれども、行ってみたら警備の担当で。ただ、いるだけだけどね。人がいないということでやらされた。
 西春別にも空襲がありました。何度もあったわけじゃありませんが、一番ひどかったのが、艦上攻撃機の爆撃がありました。航空母艦からね。この辺の沖にいたんですね。爆弾や銃撃です。機銃掃射ですね。人がいるとやるので、じっと動かない。
 終戦の日、昭和二十年八月十五日の玉音放送は、川湯温泉で、軍隊の中枢の人たちと一緒にラジオを聴きました。天皇の放送だったからね、(敗戦というのは)間違いないなと思いました。雑音があって、何を言っているかわからないけれども負けたんだって何となくわかりました。ラジオはあまりよく入らなかったね。
 そのときは、ほっとするよりも、親が択捉島で、あまりにも距離があります。どうやって家に戻るか。方法がないですよね。だからこれはしょうがないなと。
 西春別に戻って、周りの学生に「終わった。負けた」って言ったら、みんな言うこときかない。勝っていると思っているから「何を言うか」という感じでしたね。ラジオなど何もない山の中ですからね(笑)。
 戻った後は、すこし作業をして、その辺の整備がついたら、根室の学校に戻る予定でした。根室に戻ったのは、八月十七日だったですかね。ちょうどひと月前に空襲だったから、町の大半が焼け野原。そこに戻ったから、どっちのほうに行っていいのかわからない。学生の寮は焼けていませんでしたが、うちに戻るのが大変だった。船がないですからね。

 戦前の択捉は、百トンぐらいの機帆船、交通手段はそれだけでしたね。汽船もありましたけれどもね、危ないからそんなの乗らない。機帆船とは百トン程度の船です。定期的に択捉と根室を行き来していました。これは沈められないからね、ちっこいから。海岸伝いに走るでしょう。大きいのは潜水艦にやられちゃうんです。
 島には年萌などの港がありました。私の実家の近くは蘂取というところです。根室まで北海道庁命令航路というのがありまして、ひと月にいっぺん荷物や郵便物を運んだりました。戦前は十日や十五日と決まってありましたし、函館直行とかもありましたが、何しろ船が一隻しかいなくなっちゃったから、戦争中はひと月に一遍。
(単冠湾での軍事作戦を)見た島の人たちはたくさんいました。でもわかんないですよね。大きい軍艦が来て、電信や電話などの通信を全部閉鎖したのです。島内では電話は通じたけど、島外は電話は全部なくなって。航路も全部閉ざされちゃって。停泊していた船はそこでしばらく出られないと。

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 強制退去の家族は樺太を経由して函館に

 蘂取の住民は一斉に引き揚げました。蘂取川の近くに道があって、川の近くの人と山側の人と、ここから山側だけ帰しますっていって帰したんだって、一斉に。海側の人は残されちゃった。たいだい半分だったね。
 こっち側の人には恨まれたね。なんで、「おまえ村長のくせに先に帰るか」って。ただ、ソ連兵がこっちからこっちって言ったまで。川に沿った部落だったからね、山側の人が最初で海側の人が次。いずれにしても、村は全員強制退去ということですね。
(引き揚げ者は)全員樺太から函館に上陸して、そこで検疫をうけて、そこから散るので、千島列島や樺太の人たちがみんな一回函館へ来て。
 択捉には、両親みんなおりました。妹が四人と、弟が一人と、親戚の子が男一人と女一人と。それがうちの家族です。みんな戻ってくるのを待っていました。しかし、二十一年の九月まで、戦争が終えてから一年間、全く消息がつかめなかったんです。択捉を出て函館に着くまで二ヶ月かかりましたが、その間に妹が二人亡くなりました。伝染病です。検疫病院に入れられて、逆にそこで変な病気がうつってしまったようです。
 そんなことを知らない私は根室で中学に通っていました。金はないしね、寮にいれば金を払わなくても大体食わせてもらえるから。(学費などは)払いようがないです。道がそのときは面倒を見てくれたんです。(島に家族が)残っているというのはわかってくれてね。
 函館の従兄弟が家族の引き揚げを知らせてくれた。一年ぶりに再会しましたが、妹たちがみんなおっきくなっていたからびっくりしたね(笑)。わずか一年だけどね。もっとちっちゃいと思った。みんな死んじゃったけれどもね……。

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■聴き取りを終えて

 岩田宏一さんを訪問したのは、平成十八年九月二十一日の昼下がりです。経営される幼稚園の二階でお話を伺いました。
 階下から、子どもたちの楽しそうな声が聞こえてきます。岩田さんからのお話をしっかり聴きとめて、あの子どもたちが大きくなった時に伝えることができるようにと、岩田さんのお話に耳を傾けました。
 岩田さんは択捉島のお生まれです。択捉島というと、北方四島の中で最大の島で、本州、北海道、九州、四国に次ぐ大きさの島です。つまり、私たちがふだん一番大きな島として認識している佐渡島よりもずっと大きく、沖縄本島の二・五倍もあるのです。私は今回、インタビューするにあたりこの事実を知って、たいへん驚かさせられました。
 さらに、このあたりまで来れば、冬の寒さはシベリア並であろうと思っていましたが、岩田さんのお話にあるようにけっこう温暖で、米以外の農作物には不自由しなかったそうです。
 ただし、冬の寒さはさすがに格別だったようです。当時の家屋を例に出されながら、その酷寒ぶりをお話くださいました。印象的だったのは、これほど気候が違いながらも家屋は本土の日本家屋建築だったこと。
 大工さんが本土から来ていたとはいえ、同じ造りであったとは、創意工夫を旨とする日本人のイメージとはちょっとかけ離れた印象を与えました。もっとも、北方四島に人が移ったのは、せいぜい明治に入ってから。わずか百年ほどの歴史しか持っていません。それでは、家屋建築の適応・改善を図るには少々時間が足りなかったのかもしれません。
 また、歴史にちょっと詳しい人であれば、択捉島から単冠湾を連想することでしょう。単冠湾とは、太平洋戦争の緒戦である真珠湾攻撃の出撃港。大日本帝国海軍が単冠湾に集結し、ここからハワイに出撃していったのです。
 北方四島の中でもとくにミステリアスな雰囲気を持つ択捉島。岩田さんのお話から、島のようす、くらしぶりを思い描いてみてはいかがでしょうか。

橋本三治さん(水晶島出身 昭和三年十二月二十日生まれ)

 水晶島・秋味場での暮らし

 生まれは根室ですが、昭和六年頃に親が水晶島へ渡ったようです。だから、幼すぎて当時の記憶はあまりありません。
 除隊してから、島で昆布採りを始めたようです。聞くところによると、私たちが生まれる前だと思いますが、兵隊に行く前には、大きな柳田さんという漁場に勤めていたみたいです。たぶん、それは根室の本庁のほうだと思います。いろいろなところに資本を出してやらせていたところがありまして、兵隊から帰ってきてからは、うちの母親と一緒になって、島で昆布を採っていました。父は十九年に亡くなりました。
 私が住んでいたのは、水晶島の中ほどにある入り江のところです。住んでいた家は質素でしたよ。根室はトタン屋根ですが、島は柾葺きでした。
 学校は、島内の学校に上がりました。私が通ったほうは分校だったんですが、こちらに本校がありましてね、島には学校が二つあったんです。学校の教室は二つから三つ。一年生から六年生まで同じ教室で勉強しました。全員で五、六十人ぐらいでした。教室は結構大きかったと思います。畳でいうと、六十畳ぐらい。今の学校よりも大きいでしたね。
 中には小さな運動場もありました。運動会は野原のようなところで草を刈って、そこでやっていました。家から歩いて大体一キロぐらいのところに学校はありました。学校もこの湾のところにあったけれど、ちょうどこっちの岬にいく道路の近くです。
 この真ん中のあたりは、秋味場というんです。こちらは、トッカリ岬。私のいた部落は秋味場です。
 学校に行っていたときは、三、四年になると手伝いが忙しかったです。昆布をしまうときにムシロで覆うのですが、それを夜になるとしまわないといけないから、親が畳んだものを数えて倉庫にしまって。子供の力ではちょっと大変でしたが、そのうち慣れてしまう。
 普通の家でも子供が多くて、六、七人というのが普通でした。私は六人兄弟で、上から三番目でした。他の家の子供たちも皆手伝いをしていました。島には、学校とお寺があったけれど、部落の他の家も同じ(昆布の)仕事をしていましたよ。
 学校を卒業したのは十六年の春。十九年には父親が亡くなっているので、十八歳くらいからは海に出て仕事をしていたんですよ。二人のうち一人の兄は十八年に召集されて、もう一人の兄は、二十年の三月頃に兵隊にいったんです。で、十九年に父親が亡くなってからは、私一人しかいなかったんですよね。下には弟もいたんですが、家に残っている中では、私が長男のようなものでした。
 十九年くらいになると、若い青年は兵隊にとられて、ほとんどいませんでした。だから、その当時は私たちくらいの年代が一番若くて、あとは高齢で兵隊に行けない人だけ。私も終戦になるまでの二年か三年、昆布採りをやりました。
 戦時中も、島はとても平和でした。昭和二十年七月に根室で大空襲があったときも、島にいました。根室のほうでは煙が上がっているのが見えました。水晶島と根室は比較的近いし、根室には親戚もいたので、船でよく行き来できたんです。一年に何回も行き来をしましたよ。ちょっとした用事があると、自分の小さな船でちょくちょく根室へ。
 空襲になった後も、すぐに行きました。親戚があったから、どうなったか見にね。親戚は皆無事でした。一緒になる前でしたが、当時、私の家内は根室にいまして、その親戚の中には空襲で亡くなった人も何人かいましたね。当時、防空壕が至る所にありまして、無事逃げ込んでも、煙に巻かれて亡くなったり。港の近くは、港の機能(輸送)を途絶えさせるために、港が空襲の標的となりました。空襲後も、根室の親戚はそこに留まり、私は島にいました。
 島では、魚とお米は終戦になる前はわりと食べていました。畑も自由に作れますから、野菜や魚は不自由ないけれども、十八年ごろからはお菓子などはなくなって、砂糖などは配給になりました。
 島の生活はのんきといえばのんきだったけれども、電気はあるところもあればないところもありました。私の住んでいた家もランプでしたが、相泊あたりの大きな事業家の親方の家は発電して電気がありました。
 ランプは、今でいう灯油をつけて。冬は石炭を使いました。立派な家は少なく、質素なものが多かったです。風が入らないように、冬になるといろいろと工夫して。
お風呂もあるにはあって入りましたが、洗い場も質素なもので、お湯をとっておいて顔を洗ったりする程度でした。また、テレビはないし、ラジオも全部の家にあるというわけではありませんでした。ですから、町から見たら生活は悪かったのかもしれませんが、そのほかは暮らしやすかったのではないかと思います。
 そのころの楽しみは、百人一首や、お金をかけた宝引き(〓ほうびき 二メートルぐらいの縄を十五本ぐらい束ね、一本に鈴をつけて引く遊び。十人くらいで行った)でしょうか。
 電話もないけれども、口頭で「今晩何をやりますよ」って寄って遊ぶというのが多かったね。あとはレコードをよく聴きました。みんな持ってたと思います。根室で買ってくるんです。うちの母親は歌が好きでよく聴きましたし、レコードの貸し借りもしましたね。夕食が終わってからレコードを聴くことが多かったです。
 子供のころは、島の小高い山で朝から晩まで遊んでいました。終戦になる前は青年学校というものがあり、冬になるとそこに毎日行っていました。夜は勉強をやりましたが、大体が兵隊の心得のようなものをやっていました。
 十一月ごろになると根室へもあまり行けなくなるんですよね。海が荒れるのと、流氷が来るためです。流氷が来ると船も動けませんから、半月ぐらい新聞が届かないときもありました。

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 サケ捕りと昆布漁

 食べ物は十一月や十月補給しておくので心配はありませんでしたが。冬は魚があまり捕れませんが、保存食――塩で漬けておく物などがありましたので、食べ物には不自由しませんでした。でも、今から見れば、寂しかったかもしれませんね。冬はちょっとの間フノリというのが採れるんだけれども、そんなに長い期間ではありませんでした。
よくやったのはサケ捕りです。私のいたすぐそばにサケがのぼる川があって、夜になると捕りに行くんです。五、六人で行ったと思います。川の名前は忘れてしまったけれども、秋味場のあたりにあった川でした。
 釣り竿でなく、網を川の縁に刺すやり方で、サケの季節の一ヶ月ぐらいの間は楽しかったです。半月くらいで七、八十匹は捕ったと思います。サケは波に乗ってやってくるのだけれど、川を上れずにそれてしまうサケがいて、それを捕まえる。
捕れると家に持ち帰って焼いて食べたものでした。そのほかにも、カレイとかコマイ、チカといった魚が刺し網でとれました。夜、網をさしてくると翌朝には結構な数がかかっていました。
 昆布の漁は朝三時ぐらいに起きて、夜は暗くなるまでやったね。船が戻るのは四時か五時くらい。それから浜で干すために船から降ろす。そうするとだいたい晩になってしまう。昆布の時期はそんな感じで忙しいので、疲れるんです。だからお風呂に入ってご飯を食べたら、呑む人は呑んで、すぐに寝てしまう。そのときは疲れているから遊びになんか歩きません。それが十月の中頃になると昆布漁も終わりになって暇になってくるのですが。
 春秋の昆布は竿で絡めて採ります。夏に採れる昆布は幅があまり広くないのですが、とても長い。天気がいいとすぐに乾くけれど、春秋はなかなか乾きません。三日くらいかかったかもしれません。
 加工などの作業は家族でやります。乾かしたら、今度は検査を受けるのですが、道の検査員がいて、来て検査をするんです。規格にあった長さかどうか、重さかどうか。道の検査員は島内に駐在所があって、月にいっぺん、できた頃に歩いてまわってくるんですよ。
 倉庫の前に陳列しておくと、検査員が中を調べて一等二等と決める。一ヶ月で製品になる量は八、九キロぐらいでしょうか。その日のうちに検査で島内を回りきれないときは家に泊まります。その泊まる先は、部落でそういう役をやる人がいて、そこに泊まって、翌朝また次へ行きます。
 昭和十六、七年くらいに組合ができました。昔は、仕込み親方というのがいて、力のあるお金のある人は、そういう仕事をやらせてました。しかし、頭のいい人がいて、それじゃだめだということで組合ができたんです。
 干場の所有権を持つ人は、根室に多かったです。だから一年に一度、お金にすれば今でいう年間何十万というものを、お金じゃなく昆布で払う。私もその仕込み親方に払っていました。組合ができても、土地の所有は変わらないから引き続きそこに払う。昔はいろいろあって、高く売っても安く帳面につけるなんてことが多かったのさね。「なんぼで売れましたよ」といえば、「はいはい」と言ったもので。だから、島で商売している人は、なかなかお金をつくれなかった。
 だけど、終戦当時はお金が残った。食べ物や衣類が全部点数制だったので、買うにも限度があったからです。そのときに土地でも何でも買えばよかったのだけれどね。終戦になってからは、紙幣の切り替えもありましたし。

 終戦、そしてソ連兵の上陸

 九月の始まり頃、兄も二人とも帰ってきたんです。そこでようやく家族が揃った。根室がやられてしまったから、終戦後は昆布が売れるかどうかわからないでしょう。それに、戦争に負けたということで、皆ショックを受けて、何も手に付かない様な感じでした。1ヶ月くらいは。何をしたらいいかわからずに、路頭に迷うような状態だったのさね。でも、やっぱり生きている以上は食べなきゃならないから、魚を獲る人は獲る。でも、昆布は採りませんでした。
 そして、九月三日にソ連の兵隊が来ました。そのころにはもう、日本の兵隊は水晶にはいませんでした。他の島には、何千人もいるところもありましたが。水晶、勇留、秋勇留のあたりはいませんでした。十人ぐらいいたこともあったけれど、結局全部撤収して、終戦の頃はいなくなっていた。
 九月三日、戦争に負けたということがあったけれど、その日は皆、昆布を採っていました。その日のお昼の十二時一時ころでしょうか、島の三角という場所に船が着きました。
 ここは波が荒いので、昆布があるのです。昆布採りの船が二、三十くらい沖に出ていたところに、二千トンぐらいの船がやってきました。私は見には行かなかったけれども、近くにいた人が呼ばれて、船を見に行きました。そしたら、大きい船だったので、陸までその船をつけることができず、それほど大きくない船にソ連の兵隊十人ぐらいが移って、その船から上陸してきました。それで、その大きい船は行ってしまった。それを見た皆が、「大変だ」って。もう昆布どころではないからね。
 上陸したソ連兵は、島の家を一軒ずつ、日本兵が残っていないか調べて歩いた。島の角っこのところから上がって、そこからずーっと島をまわって。ここの山に火葬場があって、ここで十人ぐらいのソ連兵は泊まったみたいだね。で、次の日に、また一軒一軒まわる。昼は、兵隊か何かいないか調べて歩き、夜になると山の中の火葬場で寝る。
私の家にも兵隊が来ました。土足で上がってきましたよ。そのとき、私の兄が一人いたんだけれど、そのときはもう兵隊の服は着ていなかったから何もされませんでした。結局、二日間かけて島全部の家をまわり終えて、上陸したところに戻ってきました。もう昆布を採る人なんかいません。
 水晶島の人よりも、志発や多楽、勇留の人が船で上陸してきました。一日では根室にたどり着かないからということで、このあたりで宿泊したんです。みんなソ連の兵隊が入ってきて、「もう駄目だ」という思いで。それで水晶の人たちも「やっぱりだめだ」と、どんどん逃げ始めた。
 でも、そうした中でも島に残った人がいたのさ。別れちゃったんだよね。根室に行っても住む家がない。島にいれば食べるものはあるということで。部落の村長さんといえど、「残れ」とか「行ったらいい」という判断は難しかったのさね。それぞれの考えがあったからね。
 私の家からは、妹と兄二人が根室へ多少のものを運んで親戚の家を頼り、行きました。一方、私と下の弟と妹一人と母親と四人が残りました。二十一年になってから、志発にあるソ連のカニ工場に働きに来ないかという誘いがありました。ソ連はカニを捕っていたから、日魯という大きな工場があって。水晶島の住民たちも、残った人の半分ぐらいは引き揚げて、もう半分ぐらい残ったのだけれども、残った人は働かなければ食べていけない。

 ソ連の工場で働き始める

 三月ぐらいでしたでしょうか、私は志発の工場に働きに出ました。私の家では、私一人だけ。相泊という場所に集合しました。ここに大きな工場があって。相泊に行くまでは、ソ連の兵隊も特にうるさくなく、半月ぐらいで撤収したようです。
 志発にはソ連の兵隊がたくさんいましたが、水晶にはいなくなった。でも、昆布を採っても売れるかわからないし、根室は焼けて倉庫もない。誰も沖に出る人はいなくなりました。
 それで、もうだめだと根室へ引き揚げてくる人がたくさんいたし、残ったというのも三分の一ぐらい、百五十戸ぐらいあったでしょうか。ソ連兵はいなくなったので、残った人は何もせずに平凡と暮らしていました。ソ連が入ってきてからは、仕事をしなかったです。昆布も採りませんでした。
 水晶に残ったのは下の妹と弟、母親と私の四人。私はすぐに志発に行ったので、家族ばらばらの暮らしになりました。私の家も二十一年の三月までは島にいたけれど、兄たちが「もう駄目じゃないか」と言うので、たしか四月か五月だったと思いますが、私一人を置いて根室に行ってしまいました。そういう家は何軒もあったよね。
 志発には昔から大きな事業主がいて、五十人や六十人も泊まれるところが何カ所もありました。昆布採りではなく、北千島のサケマスを獲ったり、太平洋から出たり。親方がずっとこの辺にいたんです。だから立派な泊まるところがあった。
 それから二十二年の十月ごろまで、一年八ヶ月いました。その間、いろいろな仕事をしました。私は船に乗ってあちらこちらに行ったり。輸送船みたいなものに載せられたこともありました。ソ連は木工所などがないので、家を建てるといっても、日本の家を壊して、それを材料にして自分たちの家を作っていました。いろいろな仕事を手伝い、給料はソ連からもらっていました。
 一年目は食べ物も良く、兵隊が残したお米があったのですが、だんだんとなくなってくる。二十二年には食糧不足で腹がすいて、腹がすいてね。だから、給料でソ連のパンなんかを買いました。結構暮らせるものなんですね。日本も、根室も食料はなかったですから。
 二十一年には残っていたお米が、二十二年には食べてしまったから、粉を買ったり、小麦粉でパンを作ったり。私たちはソ連が作ったパンが配給されました。日本人の長がいて、その人が出勤簿などを管理して給与計算をしていました。また、仕事によって給与は違っていました。
 志発ではソ連兵との交流もありました。個人的には良い人たちだった。お腹をすかせていると、ちょっと手伝いをしてパンをごちそうになったりしました。言葉もだんだんわかってきますし。
 二十二年の九月いっぱいくらいまではそこにいて、二十二年の十一月二十日だったかな、函館に引き揚げてきました。真岡というところを経由して。二十一年の三月からですから、一年数ヶ月、ソ連の工場で働きました。でもまだ残った人もいました。ソ連のほうでこの人は必要だなという人が、二割くらい次の年まで残ったんです。その人たちも、次の年には引き揚げてきました。
 一人で引き揚げる人は少なくて、家族連れもいました。行くときには、ソ連の証明書があったので引き上げの証書もあわせて持って。
根室に着いたのは二十二年の十一月三十日。函館から根室へは汽車で移動しました。真岡からふた月くらいかかったんじゃないでしょうか。真岡にも二週間くらい留まりました。秋だからけっこう時化るために遅くなって、なかには亡くなった方もいました。布団なんかひけないので。寒いし、良い薬もない。
 脱走した人はだいたいの荷物を持ってくることができたけれど、引き揚げの場合は、衣類と布団くらいしか持てず、食器類などは持てなかったんじゃないでしょうか。
当時、私も若かったから賭博などもやっていました。だから働いていたけれども、あまり荷物の中にお金はありませんでしたね。

 引き揚げ後の生活

 根室に来てからは、島へは行きませんでしたが、一度、漁をしていてソ連に捕まったことがありました。三十二年に家内と一緒になってからですから、三十五年ぐらいだったでしょうか。
 捕まって樺太へ行かされました。そのころはまだそんなに労働も厳しくなかったですが、裁判が終えてからは木工所で働かされました。それが一年ちょっと続きました。
根室の当時の生活は、ご飯も三度食べられなかったほど。食べていたものといえば、うどんや芋の煮たもの。食事は一日一回ぐらいでした。
 六十三、四歳まで、仕事で底引漁船に乗り、サンマやタラ漁。しかし、結婚してから、冬は働きませんでしたね。三月は漁に出る準備で、春四月から十月頃まで働くだけです。十月以降は、同業者の知人と飲みに行ったり。金に糸目はつけませんでしたね(笑)。
漁に出ているときは、船で寝泊まりするので、十日にいっぺんぐらいしか陸に帰れませんでした。しかし、サンマの場合はあまり日持ちがしないから、二、三日にいっぺん帰ってくることもありましたが、それでも晩方にはもう出ていくような生活。船は夜の仕事が多いんです。イカでもサンマでも。
 島を引き揚げてきてからも、田舎は田舎で運動会やなんだと楽しいことがありました。お祭りとか踊りとか、相撲もやったし。特に、お祭りは楽しみでしたね。家族ぐるみでやるから、おもしろいものです。また、魚がたくさんとれればお裾分けをしたし、地域内での行き来は頻繁にありましたね。

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 聴き取りを終えて

 橋本三治さんのお生まれは根室。橋本さんが幼いころにご家族で水晶島へ渡られました。
 お子さんのころにされたという家業のお手伝いや学校でのエピソード、子供ころの遊びから始まり、根室が近かったせいで空襲の様子がよく見えたという、終戦時のエピソードなどなどなど、さまざまなお話を伺いました。
 昭和二十年の根室大空襲の際も、島での生活は平和だったといいます。夜、近くの家で寄りあって楽しんだという「宝引き」やレコードの貸し借りなど、お話を伺っていても、島での豊かで平和な暮らしが伝わってきました。二時間、お話をお聞きする中で、島での平和な様子が一番印象に残りました。
 しかしながら、ある日突然やってきたソ連兵。橋本さんは一人、水晶島を離れ、ロシア人が経営する別の島の缶詰工場で働くことになります。そんなときでも、橋本さんはその環境の中で、ご家族と離ればなれになりながらも、一生懸命お仕事をされました。共に働くなかで、いつしかロシア人とも意志疎通を図ることができるようになり、最後まで任務を全うされたそうです。
 橋本さん宅で「聴き取り」を追えた後、コーヒーをごちそうになりながら、島の歴史や記録がしたためられた、貴重な資料を見せていただきました。「差し上げます」と言われ、恐縮してしまった私ですが、橋本さんの柔らかな口調と物腰に、思わずお言葉に甘えてお借りして東京に帰ってきてしまいました。
 今回、「聴き取り」をした際のテープおこしをしながら、この資料には何度も目をとおし、参考にさせていただきました。
「島を引き揚げてきてからも、田舎は田舎で運動会やなんだと楽しいことがありました。お祭りとか踊りとか、相撲もやったし。特に、お祭りは楽しみでしたね。家族ぐるみでやるから、おもしろいものです。また、魚がたくさんとれればお裾分けをしたし、地域内での行き来は頻繁にありましたね」という橋本さん。東京でこうして原稿を書きつつ、当時、このように自然に形成されていたコミュニティをうらやましく思う私でありました。

竹脇昭一郎さん(志発島出身 昭和三年十一月十一日生まれ)

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 実家は昆布漁を手掛ける

 祖父は寅吉(〓とらきち)と言いましたが、この代で志発島に来ました。島へ入ったのは、詳しくはわかりませんが、明治の後期あたりでしょう。開拓者としてね。
 寅吉はホタテ漁業を営んだと聞いています。志発島というのはホタテの本場なんですよ。他にも獲れたのは主として、サケマス、カニ、それからウニ。ウニなんて昔は食べなかったんですけれどもね。あと、エビ、海藻。昆布ノリですよ、歯舞群島というのは、昆布の主産地ですから、日本全国で一番産出する、生産が多い島だったんですよ。ほとんど、漁家は昆布が専業でしたね。昆布は根室港から上海へ積み出され、輸出されていました。
 おじいさんの時代はそんなことでホタテをやったり、昆布もやったんでしょうけれども、僕の記憶している時代は、戦争中ですからね。そのころ、うちはヨードとか塩化カリの製造もやっていました。戦時ですから、薬品とか火薬に使ったんじゃないですかね。僕も子供ながらの工場の手伝いもしましたよ。
 屋号は、カネマルイチです。これを染め抜いた半纏を作って、工場の従業員なんかに着せていました。
 島の昆布漁業というのは家族操業なんですよ。ほとんど家族でやっている。だから、うちの家族のようにちょっと少ないところは、陸回りや沖乗りという雇い人がいたんですね。陸回りというのは、採ってきた昆布を干場に干したりする。いわゆる陸で働く女の人。それから沖乗りというのは船に乗って漁場に出て、昆布を採取する人。
 戦時に入った時は、うちの父の一番下の弟が工場をやっていましてね。父はしょっちゅう出ていましたから、根室の町のほうへ。根室の町とか歯舞のの本村のほうへ出て留守でしたから、その叔父が家業を全部切り盛りしていましたね。
 父は吉栄(〓きちえい)といいました。戦前、親父は歯舞漁協の組合長をやったり、(歯舞の)村会議員をやったりしていました。
 現在の根室市内地域には四つ漁協があるんですけれども、昔の北方の島があったときには、歯舞群島の管轄というのは、歯舞村にあったんですよ。漁協が歯舞群島五つの島の漁業権をすべて所管していました。
 父は歯舞村の所轄でした。歯舞村に漁協事務所の本所があったんです。支所は根室町に大きくありましてね、本所よりも根室町の支所のほうが規模が大きくて、五つの島をこの事務所が統括していたんです。
歯舞村の漁協本所はこの半島沿岸だけ。だから事業内容は支所のほうが大きくて、歯舞は本所といっていましたけれども、出張所みたいな形になって逆転してました。

 戦争中は根室です。最初は、島の志発尋常高等小学校でした。高等科は根室町の北斗小学校で、二年間だったんですよ。小学校の六年から進学する五年生の進学と、高等科二年を卒業してから進学するコースと二つあったんです、当時。私は高等二年からのほうだったですね。
 父は島と根室をちょくちょく出たり入ったりやっていました。昔はね、焼き玉エンジン、当時の木造機帆船ですよ。
 何トンぐらいあったのか、せいぜい大型でも八十トンぐらいのものですね。こっちから島の生活物資を運搬して行ったり、島で獲れた生産物を運ぶというような運搬船ですね。その船が客便も兼ねていて、それで行ったり来たりしていましたね。
 根室ではちょうど町の中心、緑町にいました。今は落ちぶれちゃいましたけど、繁華街、商店街のある中心街でしたからね。ここで父の妹が和裁の先生をやっていたんです。和裁教室ですね、今でいうと。お弟子さんをとって、教えて。そこが私の根城なっていたんです。父も出てくると妹のところに落ち着きました。

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 昆布の採集から収穫まで

 終戦の前の年(昭和十九年)の夏のことです。八月だったかな、昆布の最盛期ですから。勤労奉仕で工場にも入って働いたりしましたよ。ほとんど勤労奉仕に動員されていましたね。学校に帰ると軍事教練。当時は、学校では勉強はほとんどやりませんから。
 僕は実家がたまたま島だったものですから、昆布漁業の実習の奉仕に入ったんですよ。学生何人かで組んでね。そのうち二人、僕ともう一人同僚が、僕の島へ来ましてね、僕は自分の家、もう一人は隣家にヨード工場をやっていた木村家がありましてね、そこに行って、その同僚も僕と一緒にヨードカリ工場の作業をやりましたね。
 島には若い人はほとんどいませんでしたね。兵隊に行っていたから。戦地に行かない老人とか女子供の仕事でしたね。
 寄り昆布といって、時化で海岸に寄ってきた昆布を拾ってきて集めて、乾燥して。それを焼き昆布灰として、ヨードカリの原料としました。
 製品にする昆布はきれいに浜に揃えて干すんです。昔は砂付き昆布といって、砂まみれの昆布。これを一本一本、干場へきれいに干すんです。昆布を海から採る時期が終わると、今度は製品にするんです。
 これはすごく手が掛かるんですよ、何回も干したり。昔は天気のいい日でなけりゃ干せませんから。あまり干し過ぎると、ぽりぽり折れてしまう。夜になるとガスがかかるんですよ。ガスで湿度が保たれてしんなりとなる。
 その後は、昆布一本が十メートル以上ありますから、数本位の元を束ねて手繰り寄せ、蝶結びのような形の輪を作り、真ん中に元の部分を通して結び、背負いやすいように形を作る。これを「手絡をかく」というのです。
 それを一つずつ背負って、納屋に入れるんです。それをだんだん積んでいって、天井につくぐらいまで積み上げて。今度何日かおくと、しっとりして昆布の旨みが出る。
また天気のいい日には「日入れ」といって、手絡を解いて干場に長く伸ばしてまた乾燥して旨みを出す。そういうのを繰り返すんですよ。
 あんまり湿気を与えるとかびるので適当に乾燥させて、折れないようにしては倉にしまっておいて、合間をみては製品を作るわけですよ。昆布を干せない日とか漁閑期には、倉庫の中で製品作りです。三尺の長さに切り、八貫目重さに束ねます。
 生昆布は沖から採ってくるんですが、これが大変な作業で。沖何百メートルか出たところで、波の静かな瀬荒の場を避けながら採るんですよ。昔は前浜、つまり自分のうちの前の海岸沖で採っていましたからね。
 昆布は採れる場所と季節で、全部種類が違うんですよ。主体はナガコンブで、春早くは棹前昆布、夏は成長身入の夏正昆布が採れるし、秋は厚葉昆布という身が厚い幅の広い昆布。また遅くは猫足昆布なども採れます。
 棹前昆布は、早採りの身の薄くて柔らかい昆布。野菜と一緒に煮てすぐ食べられるので、早煮昆布といって、現在は貝殻島産の名物なんです。厚葉昆布はだしにしたり。身が厚いですから、昆布巻きにしたりして。薄い昆布は結び昆布にするけれども、厚いやつは巻いたのを昆布巻きにするほか、削り昆布など加工用に使う。
 朝は夜明け前に起きます。三時が普通ですね。二時半とかに目が覚めますかね。昆布の最盛期は寝る間も惜しむという感じでした。子供も夏休みがないくらいで。
 四、五人くらいの人の手で入れたり出したりするんですけどね。乾燥すると、倉庫に収められないんですよ。折れちゃうから。だから、夜、ガスが来るまで待っていなきゃならない。でも、何時にガスが来るかわからないんです。その日の天候次第ですから。
 やっと遅くにガスがきて、湿気が与えられて、手絡に畳めるぐらいになったら、ようやく倉の中にいれて。曲がらないものは浜に並べてムシロを掛けておきます。夜の十一時、十二時ぐらいまでランプやランタンの灯の下で働くんです。寝る間を惜しんでね。生活がかかっているんですから。そのかわり、冬はのんびり寝て暮らす(笑)。
 回り浜の人というのがおりましてね、昆布の季節だけ、干場を借りて仕事をする人がいました。季節ごとに浜に回ってくるということで、僕らは「回り浜」って呼んでいたんですけど、富山県からの人が多かったですね。回り浜の人たちは、干場料として、昆布を製品にした物を物納する。この浜は何駄っていってランクに応じて。
 回り浜の人たちは、秋に昆布を全部作って製品にして出荷したら、富山に帰っちゃうんですよ。越冬しないんです。出稼ぎですね。干場を借りて、夏の間だけ働いて帰り、また春になると一家でやって来るんですね。五月ぐらいから来て、遅くてもだいたい十一月というと帰りましたね。うちも五、六軒の回り浜の人たちに貸していましたかね。

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 根室と釧路の空襲

 根室の空襲は昭和二十年、お盆月。七月の十四、十五日でした。でも、僕はそのとき学生ですから町にいなかったんです。勤労奉仕で歩き回っていたから。あちこち歩かされましたからね。空襲の時は厚岸にいました。天気のいい日でしたよ。
 僕は水産学校の出身なんですよ。北海道に三つ水産学校がありまして、厚岸にもあったので、そこにいたんです。勤労奉仕から一時学校に戻ったときに、機銃掃射に出くわしましたね。
 厚岸の町は海岸通の橋を渡ってからが住宅街でしてね。朝早くね、下宿先のおばさんの子供と僕と三人で朝ご飯を食べていた。朝ご飯を食べていると、飛行機の音がする。飛び出してみたら、向かいの厚岸湾の上空に飛行機が飛んでいる。ああ、日本の飛行機が根室のほうに行くんだなと思って、手を振っていた。
 またご飯を食べていたら、機銃の音がするんですよ。バババババーッと。外に飛び出てみると、向かってくるんですよ僕のほうへ。一瞬操縦士のマフラーまで見えました。超低空で、電柱すれすれ。十メートルほどしかなかったように感じましたね。艦載機が飛んできて、こちらが無抵抗だから、町の道路に沿って機銃掃射しているんですね。後日、家の裏で機銃弾を発見しました。
 学校の校舎の離れたところに、御供山という小高い山があって、そこの根元に洞窟を掘ってあったんですよ。僕らは一時期そこに避難したんですけれどもね。それから、釧路で空襲始まったんです。
 御供山から離れた厚岸湾口と湾外の大黒島に要塞があって、そこから高射砲を撃つんですけどね、届かないんですよ。山から釧路の方を見ると、青空の雲の切れ間から、きらきらーっと飛行機が急降下し、釧路の町を爆撃しているのが見えるんです。
 根室には終戦の前、空襲の一週間ぐらい後に戻っているんです。学校から許可をもらって。
 焼け跡に、ごっそり灰が残っているだけですよ。緑町の叔母の家も。今でも記憶に残っているんですけれども、机に置いてあったインクスタンドが飴細工みたいに溶けて、青も赤も一緒になって固まりになっていたのを見ました。あとは全部灰です。
 それから、ちょうど玄関のあったところに、子供時代に履いたスケート――長靴の上から履いて皮バンドで詰めるスケートなんですけれど、それが焼けて、そのまま真っ赤になっていました。それからスキーの金具も焼けて。あとは、食器の瀬戸物が、そっくりそんまま残ってるんですよ。昔は柳行李っていっていうのがあって、それが縦の目に、そっくりそのまま編み目が灰になって残っていた。情けないと思ったですね。
 叔母がどこに行っているかわかんないですよ。そうしたら、ちょうど焼け残ったところに父の一番下の妹が嫁いでまして、そこを頼っていったんですよ。そこで二日くらい過ごして、それで学校に戻りました。

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 兵役を志願し、「戦車」を受ける

 終戦の日は勤労動員で釧路にいました。防空壕を掘っていましたね。昼近くなってから、大事な放送があるから作業を止めてラジオの前に集まれということで集まって。十五、六人の班全員が網元の家でラジオを聴きました。放送が始まりましたが、聴いても何をしゃべっているのか雑音だらけでわからない。だから、負けたと知ってのは後になってからなんです。勝つと思っていたから、負けたといわれてもピンと来ない。
 戦うことだけしか考えていませんし、兵役志願の検査を受けて合格していて、いつ召集がくるかわからないというところでやっていたわけですから。僕は志願で戦車を受けたんです。受けなきゃ恥、意気地がないと。僕らが志願したのは特別幹部生っていって、下士官養成の(課程が)ができたんです。それを受けたんですよ。
 僕には招集が来ませんでしたが、航空には来ましたね。一緒に。受けた小関や西村には来ましたね。
 当時は、いろんな噂が飛びましたよ。(負けたら)男性は去勢されるとか、女性は暴行されるとか。鬼畜米英と敵視していたから、かなり残酷なことになるんでないかと、皆そういう意識を持っていた。だから絶対負けられないんだと。だから勝つことしか頭になかったですね。戦地に行って勝つんだという思いでいるわけですから。志願が普通だと思って志願するわけです。
 戦争が終えても、実習、作業は継続しましたよ。焼け野原になった釧路の繁華街の焼け跡の整理ですよ。島のことは何もわかりません。ソ連軍が入って来るなんて、考えてもいないし。アメリカと戦っているわけですから。
 終戦の翌年、昭和二十一年春で卒業したんですけれども、島へ帰れないんですよ。島は占領されていますから。釧路から厚岸の水産学校に戻って、根室には卒業までは帰りませんでしたね。帰る家が焼けてないわけですから。
 志発の島民にも、「島民に告ぐ」というのが道庁の出先である支庁長名で出まして、島を離れてもしょうがないから。できるだけ島に残るようにというというわけですね。だから、指導的な立場にあった者たちは、残りましたね。
 家族、うちの一族全部が残りました。うちが残るんだからって、残った人もいるんです。だけど、ほとんどの人は脱出していますね。
 引き揚げには第一次と第二次がありまして、昭和二十二年の十一月か十二月の第一次のときに、父母と父の弟夫婦、私の弟、叔父の子供たちは雪降る中引き揚げてきました。樺太周りで函館へ上陸。苦労したそうです、話を聴くと。引き揚げてきても住むところがないわけですから、うちの父母、弟が焼け残った一番下の妹に世話になりました。
(二年ぶりに会った時は)交わす、言葉もないですね。ソ連占領下の島の生活という実感は僕はないわけですが、いろいろな話をきくと、大変な苦労だったなと。
 僕の友人の兄弟は、ソ連の目がとどかないように、時化の日とか、暗闇の日とかにこっそりと脱出しています。途中、時化に遭遇して根室の港の沖に来たところで船が転覆して全滅したり。そういう脱出の人たちの苦労が合ったんです。引き揚げ者は引き揚げ者で苦労しています。

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 安藤石典町長による北方領土返還運動に参画

 焼け野原の根室の町で、学校を卒業して、就職も決まっていない時期、親父の縁があって、漁協に行くようになったんですね。そのうち島の家族と連絡もつくようになるだろうから、それまで組合の事務でも手伝いなさいよと幹部の人に言われて、何となく手伝いかたがたみたいな気持ちで行ってたんです。
 昭和二十一年の七月に、根室町長の安藤石典(〓いしすけ)さんが、返還運動の組織をつくったんですよ。その事務局を歯舞漁業組合の根室事務所に置くと。そして、僕がその事務を手伝いなさいということになって、安藤石典さんの返還運動のお手伝いをする縁ができた。それからずっと返還運動に携わってきたんです。
 僕もまだそのとき十八歳の若僧でしたからね。(安藤さんの印象は)何ていうか、いかめしい感じの人でしたね。でも、非常に心配りのあるひとでした。町長さんと直にお話しするなんて、僕は初めてですし、もともとあまり物怖じしないほうで図々しかったのかもしれませんけれども、安藤さんにかわいがられましてね。何時も町長室に呼ばれるんですよ。電話直通で。用事があると、すぐにいらっしゃいと。
 安藤さんは二十年の十二月にマッカーサーに陳情書を出しているんですが、そこの経緯は僕もよくわからないです。組織ができて、組合に事務局が置かれた時点からの活動の中身というのは、僕の記録に残してありますが。
 北海道付属島嶼復帰懇請委員会――これが原点なんですよ。この運動を立ち上げに尽力されたのは、歯舞の漁業会の竹村専務、田村さん、根室漁業会の川端会長、歯舞村高薄村長、関係有志として河野さん、山本さん、富山さん。それから島に縁があった方々が発起されて、という記憶がありますけれどもね。
 ソ連に占領されるなんて念頭にないですから、マッカーサーが進駐した段階で、本土と同じように北方の島々四つもソ連軍の占領を解除して、米軍の保障占領化に置いてくれと陳情したんですね。まずそこから始めたんですね。返せという表現ではなく。
 占領政策に注文をつけたわけですから、今考えると、たいへんなことだったと思うんです。無条件降伏している立場でですよ。今考えてみても、これはただごとじゃないと。一地方住民が命がけの仕事です。これは直訴だって。自分の命を投げてやるんだと。
 それから、次の第二号として、八月二日に、安藤町長以下、五人が焼け野原の東京に出かけているんです。直々マッカーサーのお膝元に出向いたわけですよ。記録が残っています。用意したのが東京の築地の高野屋という旅館で、食料は内地で補給証明書。それから食べる魚として鮭二箱。それから二等車(切符)購入。旅費五人分、一人二千円ですよ。外食券十食分ほか――僕は行きませんでしたが準備しました。
 安藤町長は公職追放されたんですよ、戦犯だとして。それでも怯まないですよ。毎年陳情にいっていますから。事務的なことしか手伝いできませんからね。だから、記録だけは残していこうと。

 とにかく、四つの島あっての根室です。根室が焼け野原になり、島で生き残る根室の復興の元になる島を盗られては、死に体です。
 いろんな意見の出る時代になって、二島でもいいとかね、面積で分けようとか、共同管理しようとかこんな話になってきたんですがね、とにかく四つの島だ、妥協しちゃだめだと――安藤さんの言葉は英語にも訳されています(〓註:マッカーサー記念館に保管)。
 だから昭和三十年に、日ソ共同宣言が出るときも、緊急役員会開いて、「二島なんかで妥協しちゃだめだから、すぐに電報を打ちなさい」と。当時の鳩山総理、重光外相、根本官房長、武内欧米局長に電報を打ったんですよ。安藤さん自ら起案して。返還運動の組織の長として。
 これで妥協してはだめだと、一切妥協を廃して、四島一括で返してもらうと、そういう電報を最後に安藤さんが亡くなったんですよ。このときの電報を記録に残しているんですよ。

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 聴き取りを終えて

 竹脇昭一郎さんは、端緒の段階から北方領土返還運動に携わっていらっしゃいました。 竹脇さんのお話を伺っていると、ひとくちに元島民(この表現を竹脇さんは好まないとおっしゃっておりましたが、状況を共有するためにこの表現を使わせていただきます)といっても、さまざまな立場があるということを認識させられました。
 北方四島が実行支配されて六十余年、元島民の平均年齢も七十四歳だと聞きます。こうした月日を背景に、北方四島に対する向き合い方も大いに多様化したようです。
 現地で暮らしていて、お墓もある元島民の皆さんにとっては忘れがたきふるさとであっても、元島民二世、三世にとっては同じ心象を必ずしも共有できないでしょう(私にしても、父の出身地は親近感を覚えるものの、そこにいずれ帰りたいという希求する気持ちは希薄であると白状しなければなりません)。このように、世代を超えることによって、島への想いの埋めがたい隔絶は深まるのはやむを得ません。
 また現状においても、ロシアとの経済交流の上で暮らしを立てる人たちにとっては、政治的な解決が当然大切だとは理解しながらも、経済を主体とした日々の生活を優先するであろうことも、一生活者の感覚として理解できます。
 また、島からの離れ方も、元島民の方たちの間でいくらか感情的な軋轢が生じていることも事実のようです。島から脱出した人はある程度家財道具を持ち出すことができた反面、ソ連による強制退去によって島を離れた人はまさに着の身着のままの状態で放り出されました。どちらもたいへんなご苦労をされたことは確かですが、当事者同士になると、微妙な感情が渦巻くことも、部外者の私でも想像できます。
 モザイク状化した北方四島に対するスタンス――私たちはこの現実を受け止め、直視するほかないでしょう。解決すべき問題は山積していますが、北方の島々に生きた人々の記憶が語り継がれる限り、北方領土問題解決の糸口は失われないはずです。記憶をつむぎ、語り継ぎながら、次の世代に託すことが私たちに求められているのだと思います。

 楠木秀雄さん(国後島出身 大正十三年九月一日生まれ)

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「女工さんの手柄は外国までも」

 私は国後の古釜府の出身です。お祖父さんの三郎兵衛の代で島に来ました。父は寅次郎(〓とらじろう)です。兄は正悦(〓しょういち)、三代目です。祖父と父は一緒に島に渡ったんじゃないかな。富山出身です。
 仕込み制だったものだから、そこに使われていました。川端元治さんの親のところで働いていました。
 国後では、昭和八年頃から、カニの缶詰工場の生産者をしていました。カニはタラバ専門です。だから雄しか獲らないんです。雌は缶詰にしないんです。
 蟹工場は三社あって、全部で二百五十人はいたんじゃないかな。それとは別に女工さんも。一軒の生産者で、男女あわせて五十人から五十五、六人。一隻あたりです。父はその船を預けられて「お前はこれでカニを獲れ」ということで、責任者になってやっていました。その船で、国後と色丹の間に行きました。刺し網で、ふた晩から一週間ぐらいおくと、網にカニが絡まってくるんです。それが一隻でだいたい三千反(一反=約十六メートル)から四千反にもなるんです。だいたい一日二百反から三百反ぐらいの網を繰り返していきます。それを抜き身にし、工場に渡したわけです。
 それが大量の時は抜き身で最高八百貫。今のキロに直すと二トンくらい。船は二十トンクラスです。船が満杯になると引き上げます。朝はだいたい一時か二時ぐらいに、起きたら直ぐに行きます。乗組員は船で二時間くらい仮眠をとって、明け方くらいから始めます。そして、場所によって時間は違いますが、一時から五時か六時ぐらいに帰ってきます。
 濃霧が激しいんです。コンパス一つで勘でやった時代だから、自分の目印を置いて帰ってきます。
 カニを引き揚げたら、陸(〓おか)に、二人でモッコで担ぐんです。そして、煮炊きする大きなボイラーでもって茹でてしまう。カニを茹でるには直径二メートルぐらいの木の枠を使うのですが、足と胴は別々にゆでます。かかる時間が違うんですよ。炊きあがったあとは、塩水で冷やすんです。缶に詰めたまま炊くんですね。
 昭和九年に、根室から新造船が来ました。工場も新しくなって。だから、当時としては最高の設備だったね。
 昭和九年というのは全盛期だったんですね。そうそう、古釜府だけでも大きな缶詰工場が工場三つもあったんですよ。カネカさんと、泉工場、カクマの三つです。
 値段は高くて、日本人は普通買えなかったんじゃないですか。輸出用でしたから。ラベルも貼ってね。缶に添って横にこうやって貼るんです。英語で書いてありましたね。
缶詰ができた後は、根室に運びました。別の船に積むか、汽車で持っていくか。
 女工節というのがあって、「女工、女工と侮るな、女工の詰めたる缶詰は、横浜検査に合格し、女工さんの手柄は外国までも」と。これを工場で、みんなで歌いながら作っていました。この時、尋常小学校五年でした。大正十三年九月生まれですから。
 手伝いはしましたよ。弁当運びが主だったね、番屋から工場まで。網から外しているところまで持っていって、働いている人に運びます。弁当の中身はおにぎりだったと思います。夜食ですね。船の状況によって、遅く入ってくれば遅くなるし、早く入ってくれば早くなります。漁があると忙しいからね。そうといきは、夜中であろうとなんであろうと。あまり遅くなったら寝ちゃうけれども(笑)。
 カニの最盛期はやはり三月ですね。二月の二十日頃から編み上げが始まります。流氷だから出入りできるんですよ。西のほうは氷がびっしりつくんですよ。こっちは、冬は主に北風が吹くもんだから、この太平洋側は(氷が)あくんですよ。
 三月ごろが最盛期なんですね。三月が一番忙しいですね。でも、学校人は行っていました。学校は一日も休んだことない。休みたいことあんだよね、でも学校へ行けって。厳しい父だったね。
 夏はやりませんよ。六月の十日というと切り上げちゃう。二月の十日ぐらいから六月で終わり。その間は雇っている人は解散。出稼ぎなんです。女工さんは地元の人も結構いましたね。その間は塩虫。(塩虫は)海の中にいるんですよ。それを肥料にするんです。それをけた引き網で採ってきて、天日でムシロに干して俵に詰めて出荷する。肥料は根室に出荷して、リンゴとかに使われます。
 昆布も採ったりね。その他にホタテ、フジコやったり、あとは動力船でけた引き。ナマコは小舟で一人操業。フジコは一回り大きく、沖合で動力船で取ったんですね。
それと、サメの刺し網。サメのヒレを目当てに。サメを釣るために、青森県から運搬船を呼んだもんですよ。こっちは加工(できる場所)がぜんぜんないんですよ。(青森県人は)サメがないと年を越せないというくらい。
 サメは主に秋ですね。夏は保たないんですよ。あと、サケマスやりました。国後にいても現金収入がないわけですよ。でもサケマスだったら水揚げして買い手がつけば、次の日には金になるから。

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 上級生とヤマメ釣り

 上級生の方とね、ヤマメ釣りに行くんですよ。四、五年生ぐらいのときに行くんだけれども、(歩くのが速くて)ついていけないんだね。熊もおっかないしさ。熊出るんじゃないかと先には行けねぇ。そうすっと、先に行った人がいいとこ釣ってしまって、こちらは何もつれねぇんだ。泣きながら釣って(笑)。
 富山の薬屋さんの話を聞くと、よく熊に出会ったなんて話をしているんですよ。そんときは、ぜったい動かないことですよ。熊と睨み合いっこしているうちに、熊のほうは姿消してしまう。そういう話は聞いたことがありますよ。薬屋さんの話をよく聞きました。置き薬屋さんの数は十二人位おりました。

 修学旅行とは言わないんだけれどもね、かわりにニキショロ湖あたりにキャンプに行くんですよ。そうすると、先生がね、「おいおい、これ、熊の糞だぞ。まだ新しい」って。怖かったね。だから、必ずラッパ吹いたりカンカン鳴り物を鳴らしたりしてね。熊には、馬がたまにやられますね。食べられちゃうんです。
 青年団の服を着て、胚嚢とかシートとか毛布とか。大変なんだよね、重いし。それでね、海から上がってくる魚をとらえて、造った生け簀に。ところが、それを熊に食われたりして。
 大体二晩泊まります。ヤマメ釣りとか、キャンプに行ったりですね。先生もいますよ。キャンプに行くと先生もね、一杯飲んでさ、夜中に生徒の寝ている上を先生が飛んで歩くんだわ。酔っぱらってね(笑)。
(生活は)そんなに不自由はなかったね。苦しかったということはなかったね。お米はぜんぜん穫れないです。運搬船で根室から持ってきて、全部積んどくんです。(流氷で)途絶えることも何回もあるんですよ。だから十一月ごろになれば、越年米といって、もうちゃんと米半年分も積んでしまう。先に配給してしまうんです。
 お米は貴重だったですね。蟹場で五十人もいるとね、一俵の米が大体もって二日半だね。
 だから、おにぎりを二日間も続ければね、なくなっちゃう。だから、三ヶ月分ぐらい積んでおくけれどもね。
米俵を開けるのが、子供の頃の楽しみでね。必ず富良野米だとか、旭川米だとか、お猪口が必ず入っているんですよね、米俵ん中に。で、これはどこどこの米だって。これが楽しみでね。どういうのが出てくるかね。それを集めたりしたんだね。
 最初のビザなしに行った時、ロシア人がお猪口を四、五個くれました。どこへしまったかな。
 人数が多かったから米俵で買ってね。一つは倉庫は米だけ入れておく米倉があってね。家族が十数人。蟹場のときは、みんな大きい釜で家族の全部炊くから。何合あったのかな。
 缶詰工場に来てみれば、ご飯に、切り干し、わかめに菜っぱ。蟹はまずないね。高級だというわけじゃなくも、ボイラーのところに行けば、すぐに食べられるからね。こんな太い、こんな長いの。二本なんか食べられないですよ(笑)。
 あとは鯨肉。藁でできた塩ガマスに入れて、鯨を塩漬けにして。食べるときは、塩を脱がして切って。そのままだとしょっぱくて食べられないから、水の中に入れて、二日でも三日でも塩分を抜いて。
 氷が来るところの下でコマイが獲れるんです。そういうものも食べた。ジャガイモなんかも塩で煮て。

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 お正月の思い出

 お正月になるころには、十二月の二十八日あたりになると餅つき。五十人分の餅つきがものすごい盛大なの。だいたい俵二俵はつくんです。元気のいい者が裸ふんどし一貫でもってね餅つきするんですよ。蒸籠というふかすやつを二つ置いてね。休みなしさ、三時間ぐらいかな。それでたまに酒をやりながらやったりさ。なんぼ空臼を叩かせるかって、盛り上がるんです。早くついてね。
 一升枡を下に伏せ、その上で一俵の米を片手で持ち上げられるかとかやるんだね。子供たちは、それを遠くから、畑の方から見てるんですよ。暇になると、相撲を取るんです、若い衆が。若い衆は三十人くらいで、女衆が十五、六人。家族もいてね。
 子供たちも若い衆と遊びました。百人一首しましたね。お正月は女工さんたちも混じってやるんだ。女工さんも正月はいて、六月に漁が終えると帰るんです。
 ほかにも、宝(〓ほう)引き。年中の遊びだけど。金を掛けて、一銭だとか二銭だとか。十人いれば二十銭で、当たるのは一人だけ(笑)。
 国後には温泉もあって、セセキっていうところにも。これはアイヌ語で「お湯の出る」というところだそうです。択捉にもセセキっていうところがあるんですよ。国後のセセキ温泉には、家の職場は湯治で行きましたよ。一ヶ月とか。旅館もあって。馬車でもって行くわけですね。まだ五年生か六年生かのころね。
 それで、(家族を温泉に置いてきたので)帰りは一人になるでしょう。うちの馬が手荒くて癇がが強いもんだから、駈けるんですよ。行くときはお祖父さんがいるけど、帰りは一人で残されるから、そうすると暴れる。行くときは普通だけど、帰りはめちゃくちゃですよ。何度止めても聞かないんだわ(笑)。
 うちの親父は根室によく行きました。行ったら一ヶ月ぐらいいるんですよ。根室に当時、周旋屋というのがいたんです。仕事を探している人を、旅館の主人が引き合わせてくれるるんです。「あ、どこにいる、ここにいる」って見つけてくる。床屋もいれば、大工もいれば、いろいろな人が集まるんですよ。霧多布からも本州からも来ていた。
 

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 根室への修学旅行

 私は根室には六年生のときに。天皇陛下がいらしたときに、修学旅行をかねて。そのとき初めて根室に。六年生と高等二年は一緒さ。人数が少ないから。キャンプも一緒に。小漁師が大半だったからね、十六、七人ぐらいです。六年生までが義務教育でしたね。
 古釜府から運搬船に乗って、六時間半か七時間ぐらい。明るいうちにつきました。そのころは船着き場は蒲鉾型した石が積んであった。まあるく造ってあるんですよ。そこで降りるんです。そこに艀船を付けて。
(根室の町は)珍しかったねぇ。山木っていうデパートと白木屋というのが、まだ空襲で焼けてなかったからね。これは今、白木屋は信用金庫の本店になっているんです。デパートの建物は三階か四階建て。ものがたくさんあるのはびっくりした。
 汽車に乗ったのも、そのとき初めて。落石まで。そのころ落石無線って有名だったんです。無線局だから、トンツーツって。中継所ですね。アンテナがありました。択捉島は無線電話であったらしい。国後は根室から電線引っぱてたけど。そこを汽車で見学しにいったんです。
 汽車は聞いたりしたことはあったけど、初めてだったから、ああ、こうして走るんだなぁと。そのころはディーゼルじゃなくて蒸気で石炭を炊いてね。みんなびっくりしてました。窓から顔を出して。
 その日は小谷木旅館に泊まりました。旅館の窓から外を見ていたら、すぐそこで卵を配達に来た人が転んで、卵を全部壊してしまってね(笑)。割れちゃったから、その人が「お前たちも飲め飲め」って言ってわけてくれた。
 自分のうちでは鶏を飼ってたけど、卵は運動会とか行事があるときしか食べられなかったね。あの頃の島は、卵が保たないんだよね。自分とこで十羽ぐらいかってんだ。でも生まない。食べ物のせいなんだか。ある時、中二階の倉庫の中のムシロに生んでいたことがった。もう何十個も。そういうこともあったね。
 根室には二泊しました。今の警察のところに上がっていくところで、天皇陛下を迎えました。天皇陛下が来られるということで、それにあわせて出ていったんだね。整列して、頭を下げて、天皇陛下の顔なんか、ぜんぜん見えないね。車で通ったんだけどな。覚えてないねぇ。先生が「(頭上げて)いいよ」って言ったときには何にもいないんだ。
 小さい頃から船が好きでね。十六の時に、根室さ来たときにさ、サケマスの独航船、あれが盛んなときでね、二十隻以上あったね。船が一艘ずつ形が違うでしょう。「この船好きだなぁ」って思ったのが「雄島丸」。
「雄」の字が好きで、俺の名前(秀雄)の「夫」の字、、なんで親父は「雄」にしてくれなかったんだろうって。この字が好きで好きで、自分の船ができたときは、この「雄」を入れたんです。「雄進」って自分の船に名前を付けました。

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■聴き取りを終えて

 楠木秀雄さんのご自宅は根室市中心部からクルマで三十分ほど、納沙布岬に近い歯舞という地域にあります。歯舞というと、私たちは歯舞諸島を連想しますが、歯舞諸島の名称は、この歯舞地区――昔は歯舞村といいましたが――に起因するので、じつはこちらが本家なのです。
 楠木さんのご自宅、目の前は海です。私が訪問した平成十八年九月二十三日は快晴で、海岸には昆布(帰りに、おみやげに頂戴致しました。ありがとうございました)が干されていて、遠く海がきらめていたのが今でも心に残っています。
 楠木さんからは、国後島での少年時代の出来事を中心にお話しいただきました。蟹工場で働く人々、お正月などの年中行事、キャンプ、修学旅行のエピソードの数々に、当時の豊かな島の暮らしぶりが目に浮かぶようです。
 私が楠木さんのお話でとくに印象的だったのが、楠木さんの漁にかける想いの強さでした。若いころ、根室の港で独航船を見て、感激した時の印象。そして、自分で船を持つようになったら、好きな「雄」の字を名前に付けるんだとおっしゃる楠木さんの目は、少年のように輝き、私も聴いていて、胸躍る想いに駆り立てられました。
 好きな船で漁をすることを生業とした楠木さんに転機が訪れたのは、いうまでもなくソ連の侵攻。島民の豊かな海は閉ざされることになりました。しかし、楠木さんは果敢にも北の海に船を出します。ソ連の警備艇の追跡をかわしながら、根室港に逃れてくる様子などはまさに映画のワンシーンのようです。
 ソ連が実行支配しているとはいえ、北方四島の海は日本のもの、日本人のものです。楠木さんもおそらくソ連の不法占拠に対する理不尽を思いながらの出航だったのでしょう。 しかし、現実は厳しく、ついに楠木さんはソ連に拿捕抑留されることに。長期間の抑留の末、船などを没収された楠木さんは、これを機に漁を断念します。
「あの海は違うんですよ。何が違うかというと、川が違う。川がいいと、魚が違う。ああ、おれももう一回、好きなだけ漁をやってみたいなあ」
 インタビューの最後に発した楠木さんの言葉を聞いて、私は思わず涙ぐみました。本当に心の底から海を、漁を愛していらっしゃるその姿に打たれたのです。

富山清人さん(多楽島出身 大正八年四月一日生まれ)

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 根室と多楽島を行ったり来たりの生活

 生まれは、根室市内鳴海町です。多楽島へはいつから渡るようになったかは覚えていませんが、鳴海町に居を構えて、春三月の末か四月の始めに島に渡り、根室と島を行き来する生活でした。秋になり、十一月末か十二月の初めに根室に帰り一冬を根室で越します。そういう繰り返しの生活でしたね。ですから、島と根室の両方に家がありました。
 私、戸籍上は四男なんですが、全部で十二人ぐらい兄弟がいたらしいです。でも、あの当時は粗製濫造である上、島に医者はいません。富山の置き薬ぐらいあればいいほうで、島にいて病気になると、死に至ることもありました。
 私も、島にいたときに一人亡くしたのを覚えています。また、根室で亡くなった子もいます。長男も富山で亡くなっていますが、私は記憶にありません。だから、全員で十二人というのは、聞いた話というだけ。
 私の両親は富山県生地(〓現黒部市)の出身で、昔は富山から根室まで働きに来ていました。ですから、根室と富山を行き来するのが何年か続いたようです。
親父の実家の本家――親父の兄のところは子供がいなかったので、私はその家にもらわれることになりました。そのころは子供がたくさんいて、私のすぐ上にも下にも兄弟がいたので、中抜きをすればある程度暮らしに余裕が出るということだったんじゃないでしょうか、私を内地の本家に渡す予定でいたんです。
 ところが内地では、本家のすぐ前に親父(次男)が住んでいたために、私は夜になると、預けられていた本家から、泣いてすぐに家に帰ってしまったそうなんです。そういう状況が続くので、ついに私を本家に出すのは駄目だということになり、父は私と兄を置いて漁師として働きに出ました。
 そういう生活が何年か続いた後に、親父が根室に古い家を買って居を構えたわけです。そして、根室から島へ行ったり来たりする。そのころには、もう内地には帰りませんでしたね。私と上の兄は、小学校に上がる七歳までは内地に預けられていました。私は、一人だと泣いて帰ってしまうから、小学校に上がるようになって初めて、根室に行ったんです。ですから、私は根室の学校で通いました。
 当時、親父親は何でもやっていましたね。多楽では、主として昆布を生業としていましたが、そのほかにもタラ釣りなどをやっていました。まだ流し網というものがない時代で、延縄といって、餌を付けてサケマスを釣る仕事をしていたんです。
 一方、根室ではどうしていたかというと、島へ行って昆布を採ることで一年の生計を立てるくらいの余裕がありました。ですから、根室では寝て暮らすといった感じでしたね。
 我々は子供だったから、根室に留まって学校に行っていました。したがって、私の親父親が島から根室に帰ってくると、我々は少し大きくなるようでした。庭には、ストーブ用の薪がいっぱい積んでありました。それを鋸(〓のこ)でひいて割って、日の当たるところに積んでおくんです。雪が降っても中に雪が入らないようにして。「あ、明日は雪が降るな」と思えば、薪を庭へ入れたもんです。
 島から帰ってきてからの私たちの仕事は、薪を切ることと。十月になると餅つきをやりました。それが終えるともう仕事はないんですよ。だから、私の親父親たちは、毎日花札をやっていましたね。

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 昆布漁の手伝いを

 学校へ上がるようになってからは、私も島によく行きました。学校が終えて帰ってくると、それからは仕事の手伝いです。島にいたころは、昆布を採る夏の期間、子供であっても、結構仕事がありました。
 昆布漁というのは、朝、船を出して、大人たちは昆布を採って置くとまた沖に出ていく。その間に残った子供たちが、昆布を干したり、前の日に採った昆布を浜へ置いて、その上にむしろをかける。昆布の根本――私らが島にいたときは、ダマといったけれども――を切り取って投げる。それをやらなかったら、学校へも行かせてもらえず、遊ぶことはもちろんできなかったもんですよ。だからむしろ干しと昆布の根を切るのが学校に行く前の仕事です。
 学校の授業がある日も、浜にムシロを干して畳む仕事を、学校が終えてからやりました。大体毎日一時間くらいかな。担いでいって浜に配って、昆布をあげ、それを掛ける。その繰り返しです。家では、漁をやっていたけれども、三月には鱈釣り。五月、六月にはサケマスの仕事をやっていました。
 ですから学校も、冬が根室、それ以外は多楽島で通いました。他にもそういった通い方をしていた子供たちは多かったですね。もちろん、島で冬を過ごす人も居て、そのことを越年(〓おつねん)と呼んだものです。そういう人たちも我々と同じで、秋になると冬支度といって、衣料品だとか米味噌しょうゆを買いに根室に出てくるんです。
 そのころは仕込み親方というのがいました。仕込み親方は干場を持っていて、土地のない人に土地を貸し、昆布で地代をもらっていました。だから、仕込み親方のところに行って、秋に清算してもらうわけです。仕込み親方には、夏に米や味噌を送ってもらったりするので、干場料とあわせて、そういう必需品を送ってもらった代金も、秋になってからあわせて計算するんです。
 昆布漁だけであれば、漁具の仕込みなどは大きな金額がなくても足りたんです。ある程度親方に信用があったり、干場主や干場の支配人に信用があれば、誰でも簡単にできた仕事だったんですね。海産干場といって、誰も持ち主のいない土地であれば、一筆書いて出せば、誰でももらえたわけなんです。干場主というのは頭のいい人で、自分でもっている干場を仕切って個人に貸していました。だから、割と昆布だけをやっている人は生活が楽だだったわけですよ。
 ただ、その当時、子供が多かった。子供の服や食べ物、お菓子というのは冬支度といって、根室まで買いに出たものです。そして、根室で清算してもらって、冬の必要なものを買って島へ帰る。私の家は、根室に冬ずっといたから、そういったことは必要ありませんでしたが。
 仕込み親方はとにかく頭のいい人だから、根室でふんぞり返って店員さんを使って、どこそこに何をナンボ貸したとか、どこに米を何俵送ったとか、帳場の人を頼んでやっていました。だから、いつもいい着物と羽織りを着て。我々はそういう人のことを羽織漁師だと言ったものですよ。だから、漁のことなんてぜんぜんわからないんだけれどね。
うちの親戚で干場を持っている人がいたんですが、そこの支配人という立場でしたから、その干場を借りたいという人が来れば、うちの親父の頭で貸したりしていました。親戚も富山の方面から来ていました。結局、富山から来ても頭のいい人は干場をもらったり、大きな仕事をしたりしてふんぞり返っていたわけです。
 うちの親父は干場を持っている人とある程度ひっかかりがあって、「富山」という名前だったんです。うちの親方は親父に一切を任せていました。その家の屋号はカクマサ、トミヤマというのですが、そこへ誰かが干場を借りたいといった場合、親方は何も分からないから、「富山(父)のところに行って訊け」と言われて、うちに来るわけです。そうすると、この人は今までどこそこにいて真面目に働いたといった信用があると、じゃあ、これだけ貸しましょうと。その一人分として、年間、昆布五十段を物納してもらっていました。
 多楽の場合、漁師としてはタラを捕る親戚がいて、富山姓では二軒ぐらいやっていましたね。そういう人たちは、春三月から行って早くからタラを釣るんです。
島で越年する人は、タラ釣り業者が魚を売り分けてくれました。しかしながら、タラは出荷してしまうので、タラ以外の雑魚が自家用や近所の人へのお裾分けになりました。

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 川湯温泉で骨休め

 島の学校には、教室が二つありました。一から三年で一組、四から六年で一組です。それぞれの教室に先生が一人。学年を越えて一緒の教室で授業を受けることになるので、私は、一年生の勉強なんてできないんです。隣の二年生の勉強ばかり頭に入ってくるから。そういう点では得しますね。根室では、他の学年と一緒ということはありませんでしたが。
 二クラスだけといっても、島の学校にも一学年二十人はいました。当時は、島にも子供がたくさんいて、その子供たちが小学校を卒業すると、もう一丁前に仕事をやらせるんですよ。男の子であれば、すぐに親父親と船に乗って沖に行って昆布を採るんです。
 私が学校を出たころ、親父はもう昆布採りはやっていませんでした。人を使う立場にいましたから。春にはタラ釣りをするのですが、この漁業の商売というのは、人手がたくさんあるわけさ。沖のりにも四、五人いますし、陸周りといって、沖乗りと陸周りという役目がそれぞれいたわけです。
 だから、タラ釣りなどの春の漁が終わると、うちに使われていた人たちが自分たちで昆布採りをやったわけです。無駄なく働いたということですね。
 富山から来た人たちは、十一月になると富山に帰ります。湯治というのでしょうか。昆布採りは体を冷やすから、ゆっくり湯治して休んだんです。
 あと、うちの親父もそうですが、根室から来た人は川湯温泉に行きました。私も一年に一回は行きましたね。若い者たちで「おおい、温泉行かねぇか」って言って。二晩ぐらいして帰ってくる。それがまた、汽車に乗る楽しみというか。根室駅から川湯の駅まで行くと、駅からすぐ温泉街に行けたんですよ。当時は若かったから歩きましたね。

 学校は、尋常小学校に六年行き卒業してから、高等科へ二年行って。そして、「勉強しなきゃだめだよ」と言われて、進学をしました。
 昔、根室商業学校という学校がありまして、そこの、今で言えば定時制のクラスへ通いました。その間は島へ行かず三年間根室に留まりました。その時、新聞配達をしたり、納豆売りやったりしながら、根室実業夜学校へ通いました。実業夜学校は本科で二年行けば良かったんです。卒業したのは十八。その後、二十歳で兵隊検査を受けました。

 ヨードカリの製造を手掛ける

 昭和十四年に根室にいて徴収されました。兵隊にいってからは、旭川に一年半、その後、樺太の国境へ行って一年半。合計三年、兵隊に行っていました。
 その後、根室に戻ってきたのですが。親父は島で、当時の軍需品として、昆布から製造するヨードカリをつくることをやっていたんですよ。タラ釣りにいけないし、かといって、若い男の人は戦争に行っているから、人を雇うわけにいかない。したがって大きな仕事ができないもんだから、自分でヨードカリの製造をやっていました。
 軍需品としてカリは、火薬の原料になりました。その他、今でも使っていますが、カリ肥料というものもありました。農家が使っているカリ肥料です。そうして肥料にもなるし、火薬にもなる。ヨードというのは主に薬品ですね。ヨードカリの原料になる昆布のことを、我々は雑昆布と呼んでいました。いわゆる売り物にならない昆布ですね。それを焼いて、残った灰からヨードカリを製造するんです。硫酸やマンガンという劇毒薬を調合をしてね。
 自分の採った昆布ではたかがしれているので、親父は昆布の灰を買いに行かなければなりませんでした。馬車で買いに行くんです。戦時中だったもんですから、ヨードカリを製造する人たちには「特配」といって、お酒を年に二升ほどもらったかな。親父は酒を飲むのが好きだったから喜んでやっていましたね。
 しかしながら、戦争がますます激しくなってきて、採った昆布も売り上げが少なくなりました。昔は採った昆布を中国に輸出したものでした。大阪などの関西方面にも出しましたが、中国向けが多かったんです。しかし結局、中国も戦争で日本の物は買わないということになりました。

 したがって、昆布採りばかりやっていた人たちが、「どうやって食べていくんだ」ということになりました。隣近所が集まり、お互いどうしたらいいんだと話し合って。富山方面から来ている人たちのなかで、気の早い人は、自分たちの財産を売ったりもしました。
 その時点では、また来年も来られるということを確信していましたから、玄関に板を打ち付けたりして帰っていったんですね。そして、昭和二十年の七月。根室が空襲にあったんですよ。
 その一週間くらい前の頃だったでしょうか、隣近所でアブラッコ(〓アイナメ)を釣ろうと出かけたんです。網が五、六枚あったので、それを全てもって。それを使って捕ったものを、根室に出すと売れる。けれども、釣ったあとにどうやって根室へ持っていくのかということになって、うちの親父が「持っていく」と言いだした。
 私が機関士をやって、もう一人、船長さんを頼んで。三人で根室に運ぶことになりました。島にいる人たちは自家用の資材しか持っていないので、資材調達には俺が行くと。とにかく、父親と三人で船に乗って根室に来ました。
 根室で魚を揚げたあと、島の水は汚かったですから、風呂にでも行こうと、風呂に行って、ご飯を食べて。そこで、明日にはものを積んでいかなければならないといっていたところで、空襲があったんですよ。それが七月十四日です。

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 根室空襲の日

 その日は、やたら飛行機が旋回していまして、それを日本のものと思って「おーい」って手を振ったりしていたんですよ。なのに、それがバババババっとやったから、「これは日本の飛行機でないぞ」ということになってね、びっくりしてみんな防空壕に入ったりしたものですよ。
 我々が島に行く際に、誰もいなくなってしまうといけないということで、姉夫婦に留守番を頼んでいったんです。けれども、根室に来て空襲にあって。
米軍が飛行機から撃った機銃弾が、屋根の上の棟木を突き抜けて、隣の塀の下にささっていたんです。びっくりしてね。それで、「早く島へ戻らなきゃだめだ」ということで、箱も何も積まないで来た道を帰るつもりでいました。なのに、次の日に、また空襲があったんです。それが十五日です。
 うちの前の道路に、町内会で掘った共同の防空壕があり、うちの裏には自分たちでつくった防空壕がありました。私たちは町内会で掘った防空壕に、姉の子供二人と私、それから私の妹の二人の五人で入った。
 一方、父親は自分たちが掘った防空壕に、私の姉と、一歳なるかならないかの姉の娘の三人で入りました。そのすぐ目の前に自家用の井戸があって、そこに爆弾が落ちた。そのときに父たち三人が入った防空壕は潰れ、三人はそこで亡くなったんです。私たちは、もう一方の防空壕に入ったために助かったのですが、空襲は続く。過ぎ去ったと思ったらまたやってきて。近くに落ちたときは、本当に地面が浮き上がるんですよ。
私は戦争に行かなかったから、恐ろしい思いはそれほどしなくて済んだと思うけれども、この空襲ではとても恐ろしい思いをしたね。
 しばらく時間が経って、空襲の音も聞こえなくなって、静かになったので、もう爆撃は過ぎたと思って、防空壕の蓋にかぶせた畳を上げてみたら、辺り一面火の海さ。すぐさま、「今、防空壕から出なければだめだぞー」と言って自分は出たんだけれど、父親と姉のことがとても気になりました。
 どうなったかなと思って、父たちが入った防空壕のほうを見たけれども、その壕はぺしゃんこになってて、これではもう助かりようがないと思いました。ですから、こちらの子供たちだけでも助けてやろうと思ってね。道路には電信柱が倒れてぼうぼうぼうぼう燃えているわけさ。
 昔の電信柱は木だったからね。木にコールタールを塗って黒くして。だから、なおさら燃えやすかったんだ。小さい子をおんぶして、もう一人の子供の手を引いて、それらを飛び越えて山に逃げたものです。
 それでも、余分な米なんてどこにもない。自分の家に行っても食べるものなんて何もないんですよ。隣のうちは大きな家で、中が真っ暗だったので「何かないか」と探したら、今のムギコが缶にちょっと入っていたんですよ。
それを持ちだして鍋に入れ、空襲で焼けて燃えているところに持っていき水を入れて炊いて。それを山に隠れさせていた子供に食べさせようと持っていった。幸い子供たちはおにぎりをリュックに入れて持っていたので、それを食べました。毛布もあったので、そこで一晩を明かしました。
 その翌朝は、飛行機も来ないから大丈夫と山を下りました。しかし、家を見たらぺしゃんこ。父親たちも、もちろん亡くなっていました。
父と姉たちを、焼け残りの木を集めてお骨にして持っていた布袋に入れて、とりあえず島へ帰ろうということになりました。何も積まずに島に帰りました。
 しかし、帰ったら、今度はみんな根室に逃げる準備をしている。うちの姉の亭主と私ぐらいしか男手がいないから、ひとまず食いつなぐために、ヨードカリを製造しました。そして、結局、最後まで残ってヨードカリを製造して、船に積んで持ってきたんですよ。

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 多楽島の暮らしぶり

 島に住んでいたときの家は、いわゆる掘っ建て小屋でした。要するに、家に住むために最低限必要なものだけです。穴を掘って柱を立て、丸太だろうが角材だろうが、穴を掘って、その上に梁を渡して屋根を作ってね。その屋根も長柾を使いました。島の場合は潮風があるから、釘をさしてもすぐ錆びてしまう。それで、長柾といって、三十センチぐらいの柾を使ったんです。家を建てるのも、自分たちでやるんだけれど、忙しいと言えば、隣近所から手伝いに来てくれて皆でつくりました。
 柾を並べた後は、釘は使わないんですよ。木舞(〓こまい〓六、七センチの板)という材料を使い横にやって、上に石を載せるんです。そして風に飛ばないようにして。そうする家がほとんどで、昭和に入ってからは、越年する人たちがぽつぽつと普通の柾屋根を使うようになりましたね。トタンの屋根は、巡査駐在所と海産物の検査員駐在所ぐらいだったね。
 食卓には、いつも魚が並びました。野菜を作っている人は大根、人参、菜っぱや馬鈴薯なんかがあって、不自由なく食べられたけれど、動物性タンパク質はほとんどありませんでしたから、結局は魚を捕って食べたわけですね。
 また、トド島という小さな島が多楽島の沖にありました。そこは無人島なので、鳥が巣を作り、いろいろな海鳥が卵を抱えてふかしていました。私たちは、春昆布と夏昆布を採るちょっとした間、暇な時期があるのですが――ちょうど六月くらいかなぁ――そのときにここに行くと、カモメなどの水鳥が卵を抱いているんです。その卵をとって食べたり、鳥の肉を食べたりしました。
 その他、各自ですぐ前の海に夕方に刺し網を入れて置く。すると、朝になってカレイの二枚三枚はかかっていたし、カジカはもちろん、アブラッコなどがかかっていました。だから、魚についてはいつも生きのいいものばかり。
 特にカレイだと、生きたまま網の袋に入れて、流れないように重りつけ、海に入れておく。沖から戻ってきてからそれを上げて、晩に刺身にしてたべる。そういう、天然の生け簀の中に入れておけるんですよね。そうして、粋の良い動物性タンパク質が手に入っていた。
 しかし、冬はそれができない。できないけど、島に鉄砲を持っている人がいて、これで猟をする。カナクソという小さな岩があったのですが、そこにいくと、いつもトドが上がっている。春二月、三月くらいかな、そこらにトドが来るんです。だから、それが来る時期になると、とどーんと撃って。船に積まれないから、引っ張って陸まで持って来るんですよ。
 そして、解体して、ご近所に分けてあげるわけさ。このトド肉は、当時、主にみそ漬けにして食べました。テッピ(〓ひれ)一枚、二枚……と数える。合計四枚、これがとれるわけですが、それを一枚共同で買うなどしていたんだよね。
今なんて、トド肉なんて食べる人はいないけれど、当時は島にいて肉といったらこれしか食べられないから、当時にしたら、美味しかったね。当時はライスカレーの中に肉を入れるといっても、キリダシといって、牛とか豚の肉の売り物にならないような筋になるとか、油のよけい付いたところとかを細かく売っていたんですが、それを買ってきて入れたもんですよ。
 島でも野菜はつくりました。春は、島で畑をそれぞれにもっていて、そこに種を植える。そして、秋には収穫をするわけです。菜っぱ類は年に何回もできるから、夏にも収穫できました。
 大根やにんじん、芋は一回しかできなかったけれども。我々のように根室に引き揚げてくる人は、秋にとった芋とか大根を自分の畑に穴を掘り、野菜を埋めるんですよ。それで土をたくさんそこにかけて山をつくって。
春になって島に戻り、雪が溶けたころに掘って食べる。そのかわり、島に越年してきた人たちは野菜を貯蔵する台(〓一種の地下貯蔵庫)をつくり、その中に芋を入れて保存して食べていました。野菜や魚は、ある程度食べられましたね。

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 ソ連兵の上陸

 ソ連兵が島へやってきたときのことですが、当初、ロスケは多楽には来ないんじゃないかと言われていたんですよ。九月三日だったかな、隣のおばさんが「清人さん、清人さん。カガマイの方へ大きな軍艦が入っているよ」って。
 私は「おお、そうかいそうかい。どれどれ」って、うちの工場の煙突を上って見たんですよ。そうしたら、大きな軍艦が入ってきているんだよね。上陸用舟艇がね、兵隊何人かと将校一人を乗せてくるのが見えたんですよ。
 こっち側は、あまり浅瀬のないところで、陸に入ると砂利なんですよ。そこへ上陸して乗り上げてきたんです。私と姉の亭主とで黙っていると、向こうから将校がてくてくと歩いてきました。将校一人と下士官一人、兵隊一人と三人で来たんですよ。
 我々はマンドリンと言っていたけれども、連続してダダダダと機関銃を撃ってきたんです。「何でもいいから工場で黙って仕事してれ」って言って、やっていたら、ちょうどうちらがどういうふうに見えたのか、ヨード工場も、他の家よりよくできていたからね、ちょうど工場の前を通るようになっているから、工場の中に入ってきたのね。そうしたら、何とかかんとか言うんだけれど、ロシア語はわからないんですよ。
 そうこうしているうちに、「日本の兵隊がどこにいるか」って聞いていることがわかった。それで私は外に出て、「この先を行くと川がある。川を越えたらすぐにお寺と学校があるから、そこへ行くと兵隊さんもいるし、みんないる」って言ったんです。言ったとたんにぶるぶるふるえてね。機関銃を突きつけて言うんだから。
 家へ来る前に天神さんという家があって、そこにも寄ってきたらしいんだよね。それで私に言ったことと同じことを聞いてきたらしいんだけれど、「ぜんぜんわからない」って答えたと言ったそうです。
 なぜ日本兵を探していたかというと、日本の兵隊さんを連れて帰るっていうんだよね。将校が先頭になってね、馬に乗ってさ。それで、後ろに日本の将校が――その将校だけが刀を許されていたんだけれど――その後ろの兵隊はみんな丸腰さ。下士官もみんな丸腰。
 そして、そのうしろの馬車には日本の銃や兵器が積んであって。そのまたうしろに日本の兵隊が二十人くらいいて、そのうしろにまたロスケの兵隊がいて警戒しましたね。そして、うちの前を通って、大きな船で連れていったんですよ。そのとき、私も兵隊にいった経験があるから、戦争に負けたらこんなふうになるのかなって、悔しくて悔しくて仕方なかったですよ。
 島で越年していた人は、やはり何かあると兵隊さんと話をしたものでしたよ。当時、三月十日の陸軍記念日というのがあって、そのときに島の小学校で演芸会をやるんです。そういう場合は、青年団も一緒になって劇をやったり、家族慰安会というかね、そいうのをやっていたものでした。だから、兵隊さんが連れて行かれるときに、その人たちは涙を流してね、兵隊さんも頑張りなさいよって握手して行ったもんだったよ。
 あれはとっても見ていられなかった。私も工場の中に入って、涙を流しました。我々ももし負けて捕虜になっていたら、こういうふうになっていくんだなと思ってね。そのとき満二十七歳でね、なぜそういう若い私らがおったかということですよ。皆さん恐らく分からないと思うんだよ。
 私の父親はいいことにね、駐在巡査と仲が良かったわけさ。近くに駐在所があったから。昔は駐在所だけは家の裏にあったんです。私の考えからすると、船が来るのは家のところが一番よく見える、だからここにあったんでしょうね。だれかがこちらの島に向かってくれば、駐在所から巡査が見に行く。それも巡査の仕事だったんだよね。仲が良かったから、兵隊から帰ってきても、ヨードカリ製造の要員として一人じゃやっていけないから、一筆書いて出したいと頼んだんです。招集も徴用も来ない。
 私はあのとき、兵隊に召集に来るんじゃないかと思っていたんだけれど、来なかった。私と一緒に旭川に行って、帰ってきた人は二回も行ってきている。なのに、私のところには来なかったわけさ。それがきっと影響したんじゃないかと思いますね。まあ、私がいなかったら我が家はどうなっていたかわからんかった。
 私だってね、結局のところ、島に引き揚げることになっても、私と姉の亭主しか男がいない。姉の亭主は機関士でもなければ船頭でもない。ぜんぜんわからないし、私一人さ。いいことに私は兵隊に行く前に、船長の免状はとってあったんだ。引き揚げていってから皆さんが家や船を売ったり、あるいは親戚にくれたり、みんな引き揚げて。根室から来ている人も、内地から来ている人もほとんど先に逃げたんじゃないかな。

 島に家財品を取りに潜入

 あとの人はぼつぼつと隣近所で船をチャーターしたりして根室に逃げてきたわけさ。でも、私の場合一人だし、姉の亭主がいたといっても、船のことは何もわからない。困ったなと思っても、隣にも船はない。機械のついた船はないわけ。
 隣の親父さんの息子が十七、八になっていたので、その丸山さんという人にどうするんだというと、「俺も困っているんだ」と言う。そこで、「丸山さん、あんたのところの息子さんに手伝いをさせてくれ」と頼んだ。そうすれば、あんたのところの財産も全部運んでやるからって。
 そういう話をしたら、じゃあ行こうということになって、丸山さんという人の親父さん一人だけを留守番に残して、その息子さんと私と、姉の亭主の三人で根室に荷物を運んだわけね。
 一番最初は夜具とかそういうものを。とりあえず根室に来ても眠れるようにと。それから、食べられるような米。
それから人を、留守番に残っていた丸山さんの家族全員を船に乗せ、夜、暗くなってから多楽島を出港して根室に向かったんです。
 悪いことに、私ちょうど結婚した年だったんだわ。島で越年する予定で、島に新しい家を建てたの。新しい家を建てて古い家を壊して。まだ材料がそこにあったわけさ。来年、また来られるもんだと思ってたから、その古材を最後に運んだんだけれど、それが間違いさね。新しい家を壊して持ってくればよかったんだけど。
 根室に渡ってからも、何回か通ったね。両家の荷物を運ぶために。ロスケに見つからないように、闇夜に隠れて。私の場合、回数は島で一番通ったんじゃないかな。二家族の荷物を運んだんだからね。
 一回ね、夜、ランプをつけて小屋の中で荷造りをしていたら、どっかでロスケの野郎が見てたのかね、夜、走ってきたわね。それで、「おー、ロスケが来たぞ、積むのやめるべ」って言ってね。馬車に積んだ荷物はそのままにした。
 そうしたら悪いことに、昔、軍隊で使った鉄かぶとが一つあったんですよ。なんでそんなところにあったのか、わからないんだけれども、根室で空襲に遭って焼けて鍋がないから、これを鍋がわりに持っていたものなんだね。ロスケの野郎は、それを見つけて「なんだこれは」って言うから「これは、マーレンケ(〓子供のおもちゃ)だ」って。そうしたら「そうか」って。それでも、しつこく「これから荷物を積んで逃げるんだろう」と言うから、「日本へは行かない。そっちに回るだけだから」って。
 そしたら、ロスケの野郎は船のほうに来てね、当時焼き玉エンジンですからノズルというものがついていたんですが、それを外して持っていっちゃったんですよ。行かせないぞってね。

 ノズルを取り戻しに

 それを返してもらうのに、えらい目に遭いましたよ。でも我々は予備を持ってるのさ。だから、その予備をつけて根室に向かいました。ロスケは、夜はまったく出てこないんだけど、なぜかこのときは、夜に出てきたもんね。
 その前の話になるけどね、ちょうどロスケのいるところから見ると、ちょうどうちは島の出先に見える。そこへ船を繋いであったわけさね。
昼は小屋の中で荷物を縛ったり、家で必要なものを荷物にしてしばったりしていたのね。そうしたら馬に乗って走ってきたものだったね。二人のロスケが来て、うちの船を見てね「乗って沖へ出ろ」と言う。何を意味しているのかわからないけれど、とにかく、ロスケを二人載せて沖に出た。
 私と丸山さんの息子さん、そして姉の亭主と三人で乗っていました。走らせているときは訳がわからなかったけれど、最後に分かったことは、牛を積んで逃げた船がいるから追えということだったんだ。へたに逆らうとやられると思って、仕方ないから、言われるとおりにした。でも、なかなか逃げた船というのは見えない。
 そのうち、一艘の船がだんだん近くなってくるわけさ。それが鉄砲を撃つ真似すんだ。だから「ダメだって、あれ根室からきた船だから。撃つな」って言ったら、「上を向けて撃つから大丈夫だ」って。荷物を積んだ船だって喜んでいるわけさ。
 そして、いよいよその船が近づいてくると、そこには松原さん親子が乗って、牛二頭を積んで逃げたわけだね。それがどうしてわかったのかというと、牛を二頭積んだけれども、一頭が暴れて海に落ちたんだよね。そこがちょうどシオマチといって、一番潮の流れが速いところだった。多楽と志発の中間辺りでね。
 牛は船に繋がれているから大丈夫だといっても、牛の胸のあたりに潮水が当たってさっぱり船が進まない。そこで、見つかっちゃったんだね。ちなみに、松原さんは、同じ漁業をやっていた人で、親父が亡くなってからは、ヨードカリをつくるための薬の調合だとか聞きに行っていた、顔見知りの人だったんです。二人とも、顔色は真っ青。ロスケにやられると思って。
 なぜ牛を放して逃げなかったかというと、根室に持っていけば、肉がないから金になると思ったそうです。思い切って一頭おいていけば捕まらないで済んだのにさ。そして、ロスケはというと、その船を引っ張って帰れというわけさ。
ロスケの言うことに対して、だめだって言うわけにいかんから、「松原さん、悪いけど引っ張ってくから」って言って、フルベツというところまで帰った。ロスケの駐在していたところにね。
 そしたら「お前たちの船はいい船だから、帰ったら米を一俵ずつやると。そして、そのほかに、この死んだ牛もやると。今度は船を乗り上げて、よろしくでもない、米三俵をすぐ放り投げてくれてくれたよ。
 牛もくれるというけれど、船には積めないということで、うちに帰ってカマスと包丁を持ってきて、いいところの肉だけもらうべってね。我々三人はいったん帰って、カマスと出刃包丁をもってきたわけさ。
 そうしたら、もう牛の影かたちないのよ。聞くと、近所の人たちにみんなくれたって言うんだよ。なぜかロスケのいる駐屯地の近くの友達に聞いたら、「ロスケが『ヤル』っていったときに、おまえさんたちはもらわなかった。だからからだめなんだ」とさ。ロスケはそういうものなんだと。
 そして、肉はもうないのか聞いたら、あるというから一切れもらって、その晩に食べたんです。その後に、さっき言ったノズルがとられちゃったわけさ。
そして、次の日に言いに行ったんですよ。酒の一升瓶を持ってね。ロスケに捕まったら酒をやったら勘弁してもらえたと聞いたからね。だから、そのために、いつも一升瓶を一本積んであった。それを持っていってロスケの所までいって、きのうの友達を呼んで、ノズルをとられたことと、一升瓶を持ってきたから、ノズルを返してくれるように言ってくれって言ったら、一人のロスケが来た。
 一升瓶をやったんだけれど、「飲んでみろ」というんだ。だから、酒の口を切って、コップについで飲んでみせたんだ。そうしたら「わかった」って言ってもらっていった。でも、ロスケはいっこうにノズルを変えそうとしないから、返せと言ったら、「だめだ」っていうんだよね。
 わけを聞くと、「あのとき、ちゃんと米をやって礼をしたじゃないか」と。まあ、予備のノズルも持っていたし「まあいいや、帰ろう」って、そして、その晩に根室に逃げて来たんです。

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 聴き取りを終えて

 富山さんは根室市の生まれ。根室市内に居を構え、多楽島と行き来をする生活をされていました。
 春、島に渡り、冬は根室で身体を休める。そんな島と根室での生活や、漁業について教えていただきました。
 お話を伺って、ロシア兵に島を追われるシーンと同じくらい衝撃的だったのは、根室で遭った大空襲の際のお話でした。終戦の年の一ヶ月前、根室を焼き尽くした大空襲。どちらの防空壕に入るかによって分けられた生死。目の前でお父様を亡くされた衝撃。しかし同時に、甥や姪を守らねばならないという大きな使命があったのです。
 また、島を追われた際も、ロシア兵との取引は、経験されたご本人しかわかり得ない恐怖だったことと思います。
 歴史資料で多少は北方領土について学んでいったつもりでしたが、富山さんの生活にソ連兵が入り込んできたという生々しいお話を聞き、次々と疑問が湧いてきて、知りたいことは尽きませんでした。その結果、富山さんが綴った『「たらく」物語 その風土とくらし』という、貴重な最後の一冊であったご著書を、ご無理を言って貸していただきました。東京に帰り、富山さんの綴られた文章を拝読し、富山さんの語る言葉の端々に込められた想いというものを、どうにかこの記録にも残したいという気持ちがますます募りました。
 ご著書のあとがきに書かれた「不法占拠された古里(故郷)の北方四島(領土)が一日も早く返還される事を祈念致しまして終わらせて戴きます。」という一文に込められた富山さん熱意を、こうして「聴き取り」をさせていただいた我々も紡いでいきたいと思います。
 学生時代のお手伝いや昆布漁、隣近所とトドを分けて食べたお話、他の家族との交流……。皆様にも、島でのこの平和な生活が奪われてしまった事実と、現在起きている問題を、富山さんの聴き取りから感じていただければ幸いです。

若松富子さん(志発島出身 昭和四年十月十二日生まれ)

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 根室から志発島へ

 うちは両親とも富山の出身ですよ。どちらも小倉姓なの。遠縁同士で結婚しているんですよ。富山県から親戚の者も母の兄弟も小倉姓。父の親が県会議員か何かをやって、政治に注ぎ込んで……。
 だからこっちに来て大きくなろうと。ここが蝦夷地と言われた時代に来ていますからね。蝦夷に行くにはそれだけのことがなければ、富山からなんか来ないですよ。来て成功すると、その人を頼って、みんながいい商売ができるって来るでしょう。だから、ここ根室は富山の人が多いんですよ。
 最初、父は根室に住んでいました。船頭さんっていうんですか、大きな商売をしているところの船の舵を持って、ずっと北洋のほうまでサケマスを獲りに行ってましたからね。
 私が小学校に入る時に島に行ったんです。そのころ、志発の相泊というところには、サケマスを獲っていた大きな漁師がいたり、日魯の大きな缶詰工場がありましたね。相泊は最初から開けたところでしたけれど、(あまり開けていない)北浦というところに住んだんです。
 西から東へどんどん回って来ると北浦、うちらが行ってから開けました。最初はぜんぜん開けていないところで、国有未開発地というのかな、そこを開いて家を建ててちゃんと仕事をすると、土地が払い下げになるというので、父は船頭をやめて入っていったようです。 
 相泊は日魯の大きな缶詰工場がありましたから、女工さんがいました。サケマスを獲っている大きな番屋もありました。サケマスの時期になれば四艘も五艘も自分のところで抱えて、大勢の船乗りやら、獲った魚を処理する女工さんやらたくさんおりましたね。日魯の工場は、私の家のすぐ裏でした。
 島では昭和十八年頃から男の人たちがみんな兵隊に行っちゃったから、昆布を採る人がいないんですよ、若い人が。うちばかりじゃないんですが。現役で働ける人はいませんでした。女、子供と年寄りだけ。だから女、子供と年寄りでもできる仕事をやるよりしょうがないから、昆布巻を軍需工場に納める仕事を始めました。
 根室が空襲で焼けてから、母の身内で母子家庭が二家族ありましたが、住む家もないし、根室にいたって生活できないから、その人たち家族を島に連れて行って。島は大きな番屋があって、たくさん人を雇って住めるようになっているから、そこでその人たちを養ったんです。

 志発に移った時、私は六歳でした。生まれは根室です。姉も兄も移りました。姉は小学校に入っていました。二番目の兄はちょうど学校を卒業した年でした。沖へ昆布を採りに行く仕事をしていましたが、出征していきました。
 学校の生徒がみんな旗を振って、「兵隊さん、万歳、万歳!」って言って、志発島から出征して行きました。長男は二度目の招集、次男は現役です。
 長兄は招集後は、長男だから道内にいました。小樽の停車場司令部というところ。だから終戦になったらすぐに帰ってきましたよ。二番目の兄は、南方のほうにやられてて、台湾からビルマとか行ってたみたいでね、マラリアになって帰ってきてね、帰ってきてから旭川の陸軍病院に入院しました。

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「仕込み親方」からの投資を受けて

 当時、「仕込親方」っていって、お金を出す資本家がいました。島に来て拓いたら、その土地は国が払い下げしてくれますよと言うけど、そうするためには家を建てて住まなきゃならないでしょう。それから行ったばかりのときは、浜は、すぐ昆布が干せる状態ではなくて、草がぼうぼう生えているような荒れ地ですから、草を全部取って、そこに砂利を運んできて撒くとかの準備をしなければならないんです。準備金がいるわけなんです。それを出す人が仕込み親方。資本家です。
 仕込み親方というのは、島に行って仕事をするための費用は一切立て替えて出してくれるわけ。最後に権利書が払い下げられるでしょう。親方は今までの借用書と権利書を引き替える。お金がないと始められないでしょう。家も建てられない。資本家である親方が、根室の本町というところにいまして、なかには何十件も仕込んだという人がもいました。同級生でも親方の娘さんたちは「本町のお嬢様」って、言っていましたよ。女中さん使っているような家のお嬢さんがいましたもの。着ている物から違いましたね。
 たまたまうちの母の甥っ子が、山田商店という仕込み親方のところに弟子に入って。
兵隊に行くときに五尺一寸だったので、兵隊検査に通らなかったんです。背丈が足りなくて兵隊に行けなかったの。そのおじさんが山田商店の親方のところに丁稚奉公に入って修行して、兵隊検査の次の年から背がぐんぐん伸びてね、ものすごく大きくなったの。
 家に入るときに、鴨居をよけるようなしぐさをやってね。常治郎おじさんていって、私たち恐れていんですけど、仕込み親方になったんです。最初、丁稚奉公に出て、年季が明けて、つましくつましく自分が貯めたわずかな賃金を貯めて貯めて。最初のうちは少しずつお金を出して自分が堅い人に仕込みをやらせてみて、その人から権利書をもらったら、次の人にまたやらせてとやっているうちに、何十件も自分が仕込みを持つような人になった。母の兄の息子です。
 父は常治郎おじさんの資本で始めました。屋号は「ソイチ」といいました。お祖父さんが宗十郎で、父が宗一郎で、兄が宗長(〓そうちょう)、二番目が宗治(〓そうじ)といいました。みんな「宗」の字を受け継いできたので、屋号を「宗」に「一」で「ソイチ」とつけました。大きい商売の人は、マルイチとかイチマルとか屋号で通るの。でもうちはソイチなんて通るような屋号じゃなかった。まだまだ貧しいほうだったから。でも十年ぐらいで、根室に家を買って、私は女学校に上げてもらえるようになりました。昆布で景気も良かったし、うまくいったんですね。

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 昆布巻を軍需工場に

 昆布は貝殻島が一番採れます。先が真っ赤になった竿をぎゅっとさして昆布をねじってとるんです。浅いところだとフノリみたいな物。岩礁のところは背の高いところ、棹前昆布という歯舞の昆布は品質がよくて有名。私たちのところで採れるのは厚葉(〓あつば)昆布といいました。
 朝は七時か七時半になったら朝ご飯を食べてから行って、午後三時か四時くらいに、船がいっぱいになると帰ってきました。お弁当を持って行きます。ガラスで覗く水中メガネがあるけれども、そんなものを見なくても、だいたい昆布があるところはわかります。岩場のところに着生しているから、棹でねじってとるんじゃないですかね、私はよく分からないけれど。
 乗る船は櫓を押して、ギーコギーコと漕ぐ船です。それほど遠くないから、一人で行くんです。二人で行くときもありますが、一人前になれば一人です。
棹の下が輪っかになっていて、ここに昆布を挟んで、棹をねじるわけ。そうすると昆布が絡み付くでしょう。そうしてそれをギーッとやって、岩に付いているのを根っこから引っこ抜く。そういう感じ。力がいるらしいですよ。歯舞の昆布は長いんです。
 初めの頃は支那へ輸出していたようですが、昆布ってね、ヨードカリだとか、爆弾の原料になるのだそうですね。大きなニシン釜みたいのでクズ昆布でも何でも燃やして。戦争末期は、ほとんどヨードカリにしていたように思います。
 私はそのころ女学校上げてもらっていて、そういうのをやっているのは見ませんでしたけれども、終戦後、行ってみたときに、こんな大きなニシン釜があって下のほうにドロッとしたようなものが。それが昆布を煮詰めてできるもので、それが爆弾の原料になる物を抽出する。何かそんなことをやっていたみたいですよ。だからクズ昆布を買ってヨードカリを生産しているところはありましたね。うちの裏の方にそれをやっているうちがありました。
 入っていったころは大変でしたけど、昆布の景気がよくなったから、結局昆布が爆弾の材料になるということで景気が良くなったのか、中国に昆布をどんどん輸出して、中国は日本の勢力下にあったでしょう。
 志発島の昆布は、軍需工場で食料無くなったから、うちらの昆布で昆布巻きにしても売れましたけれど、本当は、煮て食べて美味しい昆布じゃないんです。やっぱり煮て食べて美味しいのは棹前昆布とかね。お魚を芯に入れてくるくる巻いて、細く切った昆布で縛る。うちは綿糸で縛ってました。糸で縛ってはチョキッと切って。
 終戦当時、うちでやっていたころにはね、芯に入れるお魚もなくてね。ただ昆布だけ巻いてね。細い小さい昆布をおかず用に軍需工場に。女工さんに食べさせる食料にするんだっていってね。リンゴ箱に何百って入るんですよ。リンゴ箱に一個でいくらと納めていたみたいですよ。
 何千も軍の部品を作っている軍需工場に女工さんいっぱいいるでしょう。そういうところに納めていたと思いますよ。そういうのをまとめて内地に送っている業者がいたんでないですか。昆布巻はまず根室に送ります。根室の仲買人が軍需工場に直接納めていたわけではないです。
 男の人の働き手が無くなって、女ばかり十人以上いるので、昆布巻が終戦当時の家業でした。父は肺病になっちゃって、根室に来て病院で療養していて、妹と私と母が父の看病をしていました。兄たち二人が島のほうをやっていたんですが、兵隊に行ってからは、姉とか兄嫁とか身内であとは、尾岱沼から働きに来ていた陸回りという女衆とかでやり繰りしました。女、子供ばかりを、根室空襲後は病身の父が指揮して生活していました。全員で二十人はおりました。

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 根室空襲の日

 島の人は、生活がちょっと楽になると根室に家を持つんです。なぜかというと、病気になったとき島にはお医者さんがいませんから、根室に出て来なければなりません。買い物するといっても根室に出て来なければならない。
 冬の間、十二月から四月に氷が溶けて船が往来できるようになるまで三ヶ月くらいのあいだ冬眠状態でしょう。根室に家がないと、島から出て来れないわけなんですよ。ほとんどの家は、島での生活がなんとか目途が立ったらセカンドハウスを根室に持っていたんです。
 お金持ちの人は島の本宅と根室に立派なお家をね。子供たちが大きくなると、島の学校は高等科もない学校でしたから。私が小学校の五、六年になったころに、ようやく生活も安定したものですから、根室にセカンドハウスを買って、私は学校に上げてやりたいということで、下の子は幼稚園に、私は女学校に上げてもらいました。
 ところが、八月の大空襲で、根室は町の九割も焼けて焼け野原になったんです。だから、その家ももちろん焼けましたからね。本当にドーナツみたいに、町の縁だけ焼け残ったんです。
 前の日は爆弾ちょっと落として大したことなかったんですよ。不発弾落ちてね、見物して、「なんだこれ?」、「ロケット弾ていうんだ」と、男の人は足で蹴ってみたりしてね。
 次の日は朝八時から、夕方の四時までびっしり友知沖に航空母艦が来て艦載機が一日中根室の町を。丸焼けになったんです。
防空壕に隠れて、はじめは防空壕に避難していればそのうち収まると思っていたけれど、家に火がついて燃え出しましたから。怖かったですよ。怖かったですよ。おおぜい死にましたからね。
 防空壕が潰れて防空壕の奥の方で蒸し焼きになった人もいますし、私たちだって、家に火がついてどんどん燃え出したから、「この防空壕の中にいたら死ぬから」と父が山へ逃げろと言って。今花咲小学校というのがここからすぐのところにあるんですけど、その後が昔は放牧地だったんですよ、牛とか馬とかのね。こうちょっと小高い山になっていて小川が流れていて、山に遊びに行くというと裏山。私たちみんな学校の裏山に行って遊んだんです。
 そこは林もありましたので、そこに軍が防空壕を掘ってくれたんですよ。こういう山になっているところを掘ったから安全でしょう。山の中の穴蔵みたいだから。そこにほとんどの人が避難していたんです。でも避難しないで家に残っていた人はみんな死んだり、家の地下に室のような防空壕を造った人は、家が焼けて潰れてきて出られなくなって死んだり……。根室では八百何十人も死んでるでしょう。こんな小さい町でも。

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 闇夜の脱出

 父と志発に帰ったのは八月の初めかな。島と根室の間は、毎日定期便が、運搬船といって、人とか荷物を運んでいました。島で暮らしている人の日常雑貨やら食料やら運んでいたんですけれども、危なくて船も走れない状態なの。空襲ですぐに飛行機がきて、船なんか走っていると、やっぱりやられるでしょう。根室は輸送の根拠地で、兵隊さんはここから北千島にどんどん物資を運んでいるということで、めっちゃめちゃにやられたからね。
 ソ連の進駐は九月の三日でしたか、九月の初めですよ。うちの裏に、西村さんというサケマスをやっている大きな漁師がいたんですよ。そこの帳場さんの平山さんが訪ねてきたんです。平山さんには、女の子が五人も六人もいたんです。
 平山さんが父に根室に脱出するための船の舵を取ってもらいたいと言ってきたんです。父は根室近海なら、目をつぶっていても航海できると評判でしたので。この平山さんという人も元々船の機関士なんですよ。でも、船の機械は動かせるけど、舵を握ることは船頭しかできないんですね。うちの父は舵を握ることだけは誰にも一目おかれるくらいの腕を持っていたんです。それで私たち家族はそのうちの船で逃げることになったのですが、そのころには、みんな、「ロシアが来た」って言うんで、不安で不安で、夜誰も眠れないんですよ。
 灯火管制といって、夜窓に幕を張って光が外に漏れないようにしていたでしょう。空襲で来られたら爆弾落とされるから、隣の様子を見たりして不安で誰も寝ていなかったの。
 九月の七日だったかな、その日の夜、何だか隣の家ががさがさやっているぞというので、みんなその家の様子を見にいったら、どうやら沖に行って船に乗り込んでいる。あれは根室に逃げるんじゃないかと。そうなると、「さあ、それじゃうちもうちも」と来ちゃって。あっという間に船は満員になっちゃったの。
 私たちは初めに乗り込んだから、一番いい二段ベッドになっているところで寝て待っていました。でも、その船、長い間停泊していたものだから、エンジンがかからないわけよ。どっか調子悪かったんですね。
 そのうちみんなどんどん不安になってきて、さらにロシアの戦艦が沖でパカーパカーっとサーチライトの灯りをつけているから、すぐにそこにいるんだってわかるでしょう。そうとう遠いらしいんですが、物音が聞こえるかと思っているから、おっかなくておっかなくて。
 たまたま二艘繋いでいたので、もう一艘の小さい船のほうに移ろうかということになったのだけど、そうなると三分の一(の人)をおいていかなければならない。それで立錐の余地もないほど乗っちゃったの。そのうち雨は降ってくるし、上にいる人なんかはずぶ濡れなんだもの。子供は泣くし、まさに阿鼻叫喚。
 私たちは一番いいところに乗ったはいいけど、小さい船に移るとなったら、上の人から移るでしょう。そうしたら、(私たちは積み残されて)うちの父も平山さんも自分たちの家族をおいて、他の家族を連れて行かなければならないでしょう。それで父は困ってどうしたらいいだろうと、「先に下の者から」なんて行ったら、同じ日本人としてそんなこと言ったら殺されるほど殺気立って。
 そこでうちの父がしょうがないから小さい船に期待をかけてみようと。もし小さい船が動くようだったら、大きい船を繋いでいこうと。だから小さい船にも乗せて、あと何十家族も連れていけるんじゃないかと。
 それこそ北浦から相泊のほとんどのうちの男の人だけ残って、女、子供は全部乗ったの。父は、(働きに来ている)娘さんたちを親御さんに返さなければならないという気持ちでいっぱいだったんです。
 ふつう三時間半で着くのに十三時間かかって根室に。ロシアの船から見えないように、ずっと遠回りして、音が聞こえないように潮の流れにポンポンと、スロースローでいくらか機械かけて、船をロシアの船から少しでも遠く、島からも離れるように離れるように。それでないとロシアの船に聞こえるからって。
 前の日の夜に船に乗ったのに、次の日の昼過ぎに根室に着いた。根室に着いたら、桟橋にマスコミやら根室の人が「島から逃げてきた第一陣」と言って、黒山の人だった。
ぜんぜん何も状態かわからなかったから、マスコミも「どうですか、ロシア人が来ましたか? どういう状態でしたか?」と訊くので、「兵隊さんは島の人口の倍もいましたが、それが武装解除されて軍艦に乗せられてシベリアに連れて行かれたらしいっていうことになったから逃げることになったのさ。それでなければ逃げなかったのさ。兵隊さん方が俺たちが守ってあげるから、島の人たちも安心して暮らしていないさいというから暮らしていたら、みんな武装解除されて丸腰で、こうやって後ろ手になってみんな連れて行かれたということになったから」。こんなふうに答えました。

 島を往復しながら

 上の兄は終戦二日目くらいに復員してきたんですよ。島へ心配だからって来たんですよ。でも兄は島に残ったわけ。荷物持てないから、結局風呂敷包み一つっていうことに限定したから、うちだけ荷物持ってくわけにいかないでしょう。根室に来たって食料がなくてなくて、みんなお芋の皮食べて暮らしている。
 島には俵米があって、なんでかっていうと、根室と交通が遮断されて行き来ができなくなったときに、兵隊さんも飢えちゃったらたいへんでしょう。島民も飢えたら大変ということで島は食料になる魚以外で取れる物ないから、三年分の食料を国からちゃんと前渡しされていたの。だから、お米は何俵も倉庫に積んでました。
 そのお米、持って来なきゃならないから、持ってきましたよ兄は。父と兄はその後二回ぐらい島に往復していました。うちは機械の船がないから、昆布採取用の船に帆を掛けて荷物を取りに行ってました。兄は最初残っていたのですが、お米を根室に持ってくれば何十倍でも売れる。根室の人は食料がなくて、それこそ日本国中食べ物に困っていたときだから、島だけ米がある。米をもってくればどんなことだってできるでしょう。
 兵隊さんが島民の倍の数いたんだから。その人たちが三年も四年も食べるだけの米があったから、その米を取りに行ったのさ。十何時間かかるでしょう。帆を掛けるから、追い風のときは機械積んでいるより速いときもある。島は焚き物がありません。色丹島以外は木なんか二、三本しかありませんよ。四つの島は全部裸島。最後に残った人たちは空き家になった家を壊してそれを焚き物にしたんじゃないですか。
 兄は二回くらい往復していると思いますよ。でもね、ロシア人が上陸してきたの。兄が軍隊で戦闘帽をかぶっていたから、戦闘帽の日焼け跡がついていたんです。そうしたら「お前は逃亡兵じゃないか」と言われて、「逃亡兵ではありません」と旭川に兵隊に行っていたんだけれど、ちゃんと除隊になって終戦になって帰ってきたんだと父が言ったけど、後で本部で調べるから待ってろって将校が言ったんだって。脱走した兵隊がいたんですって。
 父が何か因縁をつけられて長男が連れて行かれたら大変だということで、物も何も要らない、命だけあればいいからお米だけ持って帰ろうと、兄を連れて逃げてきたの。
それっきり行かないから、結局二艘持ってきたきり。うちは手押しの船は十何艘も持ってたんです。よそにも貸してたんですけどね。
 よその船で米を取りにいったり、盗みに行ったりとか、闇に乗じて行って、捨てて行ったんだからいいやと持ってくる人もいた。それに米を根室に持ってくれば高く売れるから、軍の米を盗んできて商売にしてた人もいるんですから。私たちが、顔が映るようなお粥を食べているときにね。
 最初はロシアもぜんぜん感づいていなかったので。うちの島だけでなく、みんな逃げていくから、夜陰に乗じて島へ物を取りに行って銃撃されて死んでいる人もいる。だから、だんだんとおっかながって行かなくなったの。

 尾岱沼に移住し、焼き干しで生計を立てるが……

 根室に来てから、すごい苦労しました。尾岱沼(〓おだいとう)から女の人を五人も六人も雇っていましたが、二番目の兄はその女工さんのなかから一人お嫁さんをもらいましたのでね。そこに親はやはり顔を出しに行かなければならないということで行ったんですが、うちの母が尾岱沼というところに惚れ込んじゃったの。
「ここは海だっていうけれど、沼と同じだと」入り江になっていますから。波が立たない。けれど、女の浅知恵ですよね。尾岱沼で生活できるかできないかというのは、母はそこまで考えられなかった。海があるから魚が獲れると思ったけれども。
 野付半島は、今は地獄絵図のように枯れ木ばかりですが、当時は密林でした。秋はハマナスの実がなっていて、風光明媚で素晴らしいところだったの。それが高潮で、津波って言っていたけれども、どんどん潮位が上がってきて、野付半島を飛び越して外海の波が全部尾岱沼の港内に流れ込んで、うちなんか、道路に船が乗っていました。
 潮位が上がったので、うちの中にも水が入ってきて、私たちなんか、本当に箱を積んだ上に布団を上げたり、一枚の布団に前から後ろからみんなで入って寝たりして。島には物を置いてきているしね。寝ているときに高潮になって、そういうので潮水が越してきたので、木が枯れちゃったの。尾岱沼には、引き揚げてきてから三年住んでいました。
 尾岱沼に家を建てて、父が商売を始めたんです。チカを焼いて、ダシにするんです。焼き干しといって、チカを一本ずつ串に刺して、炭で焼く。それを串から外してすだれに編んで干すんです。
 でも、結局、あそこは大きな漁師は駄目なところなんですよ。そして、部落に五十軒なら五十軒、冬、湖に氷が張ったときに、五十画を割って網を指して、外から入ってくるコマイを獲る場所が決まっていて、それは尾岱沼の長男しかその権利が与えられないんです。場所がないから。
 だから出稼ぎでようやく食べつないでる村だったんです。焼き干し作ったりいろいろやったんですけど、ぜんぜん原価がとれない。やればやるほど赤字になってどうにもならない。そのうち母が肝臓の病気になって、半年ぐらい入院して「今日は駄目だ、今日は駄目」と。

 サメ漁に出て拿捕

 何とかして立て直さないと、うちはこれで息絶えてしまうということで、サメ漁をしようということになったんです。サメを獲ってきて、肝臓を煮て油を作る。普通は食用油というとシラシメという植物油ですよね、でも終戦当時は植物油は手に入らないから、魚油といってサメの脂――ちょっと臭いんですが――それでもすごい売れたんです。
 それで、うちにある網を全部サメ網に作り直して――小さい目の網じゃなくて、大きい目の網でいいんですけど、新しい網を買うお金もないものですから、コマイの網からエビの網から、サメを取るためにうまく作り直したんです。
 でも、父は喀血を二回もしているから沖にはもう行けない。それで、兄に「お前が今度メーターを持って尾岱沼の港を出たら、国後をこういうふうに見て、爺々岳が見えてきたらあと何分走って、深さを測って、何尋あったら、そこはどこどこの先というところだ」とか「そこは何という瀬だから、こういけ」と、父は網を指す場所を教えたの。サメの通る魚道(ぎょどう)というのがあるので、そこに刺すといっぺんに捕れると。
 母が病気で組合にもたいへんな借金があるけれども、サメで一山あててれば何とか立ち直れるからとやったんですけれども、網を刺したのに、兄はさんざん空(〓から)戻りしてきたの。
 立て網というのは網を刺したらボンデンの旗をつけて置いてくるんです。魚がかかるのを待って、一日か二日たってから網を上げるのですが、兄は網があるところに行けないで、空戻りしてきたんです。だって目印がない。大海の中だから。
たしかに父が教えたように行ったというのだけれど、父はメーター一つで漁に行くことができたのですが、択捉のほうまでそれこそ目をつぶってでもいけるぐらい海のことに詳しかった。でも兄はだめなの。
 それで父が「あの網を上げて来なかったら、今年うちはお釈迦なんだよ。どうするんだよ」と言うんだけれども、兄もどうしようもない。それで、父が「じゃあ、おれが乗っていく」と、喀血したばかりなのに行った。
 そうしたら、本当に「あのボンデン、見えないか?」って言って、兄のお尻を蹴ったそうです。父は一発で見つけた。“海の神様”と言われた父だからね。
 ただ、父はお酒を飲むとちょっと癖が悪くてね。英語もちょっと囓ったくらい学力があったんだ。だから、根室の辺りの親方はみんなボンクラだって、父はバカにしてたんだ。だからみんな、父のことを使わないの。使われなきゃならないのに、理屈こきで。商売下手なのね(笑)。
 網を上げていたらね、ロシア兵にばっと捕まっちゃった。拿捕されたんです。魚を一匹も上げずに。拿捕されたのは昭和二十一年の十月。そしてひと冬、春まで帰ってきませんでした。帰ってきてから父は間もなく死にました。
 拿捕された母の姪っ子は機関士だったんですが、二回目だったの。一回目はサケマスで捕まって。二回目だから、「佐藤」という偽名を使ったの。本当は、池本という名前だったんですが、「池本」というと「お前は前にも捕まっている」と言われると思って。それで結局スパイ容疑をかけられてシベリアに送られたの。三年帰ってきませんでした。
 そこのお母さんに泣かれて泣かれて。母子家庭だったんですね。「おばさんがなんとか貸してくれというから、光夫を貸したのに」と。うちの母も「申し訳ない。わしが代われるものなら代わってやりたい」って言ったけど、どうしようもなくてね。父たちは釧路に戻ってきましたが、母は「光夫さんが帰ってこないのに、私が喜ぶわけにはいかない」と言っていました。
(拿捕逮捕者の待遇は)酷かったようですよ。食べ物もなくて。兄たちに厚い毛糸のジャケットとか股引とか、母の持ち物と替えては編んで着せたのに、そういうものも向こうで全部ほどいて、靴下を編んで、それをパンと取り替えるんですって。ひもじくてひもじくて、お腹が減って、めまいしてくるんだって。
 塩汁の中で何か浮かんでいるかなというくらいのスープと、ちいさくて薄っぺらいパンが一枚か二枚。みんなチョロマ(〓監獄)に入ってね。狭いから寝返りを打とうにも身動きがとれないから、一斉に「せーの」で寝返りしてね。これは帰ってきてから聞きました。 
 根室で遠藤さんというのが有名で、「鉄砲遠藤」って言われて拿捕されるので有名だったんだ。うちの父なんかは、拿捕された最初のころじゃないかい。父といっしょに拿捕されたのは、兄たち四人でした。

 根室のにぎわいと逼迫する生活

 当時、根室がサケマスですごかったから、国後の辺りの人は、みんな尾岱沼にどんどん入ってきたんだけれども、結局こんな乞食村にはいられないと、みんな引き揚げて根室に来たんです。花咲港でサケマスが獲れて獲れて。拿捕がなかったから。
飲み屋さんが住むために荒れた小屋でも何でもいいから貸してくれって。船が入ってくる と、ご飯食べてお風呂に入って。飲み屋さんは朝からばんばん音楽かけて、「母さん、父さん」ってお姉さんは声をかけて。うち連れたって。男性は胴巻に万札入れて、女の子たちに遣って。女の子たちはキャーキャー言って。もう西部の町と言われるぐらい。ゴールドラッシュさ。船が出るときは演歌流れて。手を振って行くんだから。そのころは景気良かったんだ。
 私はそのとき、妹を高校にあげてやりたくて根室に来ていました。一番末っ子で、うちで一番出来のいい子だったから、この子は何とか進学させてやりたかった。だれか根室ににいないと高校に上がれないから、私は尾岱沼の学校を辞めて、根室の花咲小学校の教員になったの。
 そのとき母が入院して、「危篤だ、危篤だ」と標津の病院で言われてたんです。尾岱沼には病院がなかったからね。土日になれば、私も泊まりがけで母のところに様子を見に行っていたら、父が帰って来ないと。もうそのときで一週間近くたっていましたね。シケもないのに船が沈むはずはないから、これは拿捕されたんだろうということになった。そろそろサケマスで拿捕されている人がいたのでそう思ったんです。
ソ連から連絡なんかありませんよ。役場にも行ったら「それは拿捕されたんじゃないか」と。舵を持たせたら、どんな荒海でも帰ってくる父が、シケもないのに帰って来ないなんて。これは拿捕だろうと言われたたんです。
 母は退院してから女中奉公に行ったんですよ。ご飯食べていけないんだから。兄嫁は赤ちゃんを産んでいたから、乳飲み子がいたの。生活保護受けたらどうかと言われたけれど、母が「娘も教員をしているし、ぜんぜん収入がないわけでもないのに、役場のお世話になったら、父が帰ってきたときに肩身の狭い想いをするから。私も働きに出ますから」と。もう五十代の後半でしたけれど、病院に女中奉公に行きましたよ。付添婦もしてね、何十年も働いて。私、そのときはね、夜の街に行って身売りしようかと思いました……。
 父たちが帰ってきて、病院に入るときでも、お金が一銭もなかったんですからね。病気を直さないとね。三人とも栄養失調で青ぶくれになってね、顔がぶつぶつと腫れているところにおできができてものすごい状態でロシアから帰ってきました。
 父は担架で運ばれて来るときロシアの将校さんから、「お前さん、今帰れば死ぬ。樺太のいい病院に入れてやるから帰るな」と言われたそうです。「子供たちと別れて、そんなところに連れて行かれるんだったら、途中で死んでもいいから日本に返してくれって」言って、父は担架で帰ってきましたよ。
 担架で運ばれて船から下りるところは、「アサヒグラフ」の表紙に出ましたよ。当時はまだ拿捕が珍しかったんです。
 そのとき、歯舞の親戚が当時のお金で六万円持ってきてくれたんです。今のお金だったら三百万か四百万でしょうね。当時の私の給与が月二千円ももらっていないときでしたから。「こういうときでなければ、親戚が助けてあげることってないから、このお金を使ってくれ」って言ってくれてね。拿捕で取り上げられた船も歯舞にある兄嫁の実家の親戚がくれた船です。
 母は八十近くまで働いて、そのお金は全部返しましたよ。「要らない要らない。あれはあげたお金だからね」と言ったけれども母は「返させてほしい。私はこれを返すために、それを生き甲斐に働いてきたから」って言ってね。
 それから本当に地獄のような日々でしたね、お金がないっていうのは。あんなに弱っていた母が働かなくてはならないというのはかわいそうでかわいそうでしょうがなかったです。私はとことん貧乏しましたからね、貧乏に強いんですよ(笑)。
結局、漁師は廃業しました。組合にはたくさんの借金をつくりましたしね、もう漁師をしようにも、網を全部サメ網に作り替えてしまったから、網も一切ないし、船も取られてないし。
 母が病気をしている間にお金もかかっちゃったものですから。生活費も全部組合の借金だしね。せっかく尾岱沼に父が三百坪以上買って、木を植えて土止めをしてね、家と倉庫と焼き干しを作る製造小屋を建てたんだけれど、組合の借金のカタで全部渡して。根室に来て、市の土地を借りてバラックの家を建てて。十二月になっても戸がないんですよ。外の戸を開けると、すぐ茶の間なんです。ご飯食べてても、風が入って寒くて寒くて。
 当時、戸を四枚入れるために、父は「おれは信金に行って借りるけれども、お前たちがこの借金を払っていってくれるかどうか。おれはきっと払わないで死ななければならないから、借金を残して『あそこは払わなかった』と言われないように、なんとかして払ってくれ」って。父は年明けて間もなく死んだものですからね。
 その借金も母が払ったんですよ。毎月信金の通帳を持っていって、当時のお金で七百円だったか、七千円だったか。七と言う数字でしたね――払って。それで戸が入ってね。「いやー、寒い思いをしないでご飯が食べられるようになったね」って言ったんですよ。


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■聴き取りを終えて

 若松富子さんのご自宅を訪問したのは、平成十八年九月二十二日のこと。ちょうどサンマ漁が盛んな時期ということで、ご自宅の台所には、大量のサンマがバケツに入れられて置いてあったのが印象的でした。
 若松さんはとても溌剌とした方で、とても情感豊かな方という印象を持ちました。昔のことを伺いながら、時折涙を流されたりされ、当時の状況を伺う者として、とても感情移入させられました。
 若松さんのお話のクライマックスは何といっても、闇夜の脱出でしょう。根室に達することなく、海の藻屑と消えるか、またはソ連の監視に引っ掛かり困難な状況に陥るか。まさに生死を賭けての大脱出劇。現実にそんなことがあるのか、ましてや目の前のこの方がそんなご経験をされているのか、信じられない思いで、話を伺いました。
 二艘の船で脱出を図るも、主力である一艘のエンジンがかからない。次から押し寄せる島民で船は立錐の余地もないほど。ようよくエンジンがかかったものの、ソ連の監視網をくぐり抜けながら、航海すること十余時間――。島からの脱出にはこんな壮絶な物語があったのです。
 また、北海道に逃れてきてからも苦しい生活を強いられました。尾岱沼にいったん落ち着いたものの、お父様やお兄様が、サメ漁の最中拿捕。苦しい経済状況には拍車がかかりました。年老いたお母様は親戚から借りたお金を返済するために病院に勤めに出、若松さん自身も夜の街に身売りということも考えたと、涙されていました。折しもサケマスで景気のいい根室でしたが、若松さんのご一家には縁のないものでした。
 私が感動したのは、お母様とお金を用立てた親戚の方とのやりとりです。親戚の方は、返済しようとするお母様に「要らない要らない。あれはあげたお金だからね」とおっしゃったそうです。それに対して、お母様は「返させて欲しい。私はこれを返すために、それを生き甲斐に働いてきたから」とおっしゃって、八十過ぎまで働いて、完済したのです。
 この二人のやりとりに、この時代に生きる人々の誠実さと責任感を見る思いがしました。こうした極限状態に置かれていても、人間としての品性を失わなかった当時の日本人の姿勢に私たちが学ぶことは多いはずです。

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鈴木としさん(色丹島出身 大正十年十一月十八日生まれ)

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 島の豊かな食卓

 私の家は湾に沿っていて、目の前が海でした。いい港でしたね。鯨会社もこの辺りにありました。鯨が捕れるんです。あとは小魚がたくさん獲れました。引き網で引いたりね。
 それから春先、氷があるうち――四月から六月ころまでは、まだ氷が割れたのがたくさん浮かんでいるときにカレイ網漁。朝早く獲りにいったんです。夕方、刺し網を入れてくるんですよね。
 朝、すっかり明るくなる前には網を揚げるんです。そうするとカレイのえらが網に引っ掛かってたくさん獲れるんですよ。私も物好きですから弟たちとよく行ったんですよ。揚げてきて、そのカレイを冬のまかないとして干したり、子が入っているので、冷蔵庫なんかなかったから土を掘って樽の中に何か敷いて、そこに子を敷いて塩を振って蓋をして、そして上からたくさん土を掛けて――。そうすると冷蔵庫の代わりになるんです。またちょこちょこ入れますからね。また子を入れて、塩をたくさん振って、それで冬のまかないにちょっとずつ取り出していただくんです。
 カレイは四月から六月くらいまで獲れるので、こうして仕込んでいると、冬になるとちょうどいいんです。それぞれの家で網を投げておくんです。引き網は全部の家にはありませんでしたが、小舟でちょっと行って、網を下ろして、魚が入るようにして、そして引いてくる。
 近所の家が網を入れると、近所からみんなで行って、手伝いするんですよね。みんなで手伝って、そしてもらってくるんですよ。だから魚は買うということはなかったんです。
 カニとかエビ、カジカ、コマイ、チカ――いろいろな魚がたくさんかかってくるんですよね。「どこそこで、引き網やるところだよー」という声が聞こえると、みんなパーッと篭を持って出ていくんです。
 私なんか、小さい時に引き網の所にいって、前掛けを広げてエビやら拾ってたら、隣のおばさんがね「としちゃん、としちゃん、そんなにしてないで、篭持っといで」と言ったんです。私は「篭取りに行くうちに、みんなに拾われてなくなるー」って言ってたって、隣のおばさんから、大きくなってから聞きましたね(笑)。
 誰の物というのでもなく、値段が付いているのでもなく、みんなで分けて食べるんです。食卓の上にはいろんなご馳走――カジカが捕れれば、カジカの味噌汁も出るし、カレイが獲れるとカレイの煮付けやら。
 刺し網なんかですと、カレイを干すんですよ。冬のまかないに。ガランガランになるように干しておいて、冬はストーブが燃えているところに、そのカラカラになったカレイをストーブの中に入れるんです。火が燃えている所にカレイを入れて。カレイの縁が焦げてうまく焼けたら火ばさみで出してきて、そして石の上に置いて金槌でトントンと叩く。そうするとね、今、売っている珍味のような形になる。それを冬食べるんです。今考えると、豊かな生活でしたね。
 うちは旅館をしていましたから、(獲れた魚介は)旅館で使いました。うちの父が、手繰りっていうんですかね、袋のような網を持って、その綱をまくと、袋がだんだんと引かれて手元まで来るんですよね。すると、四斗樽に半分くらい、大きなエビでいっぱいになって。私も一度やってみたいと思っていました。
 夏はノリを採りに行って、おにぎりには、自分で採ったノリを加工したもので包んで。カレイを焼いたのを叩いて。お弁当のおかずね。そして、石の上に腰掛けて、それをむしりながら。
 潮が引いていれば、石と石との間、チャポンチャポンと潮がきているところに手をやると、こぶしぐらいの大きなウニがピターピターッと(張り付いている)。小さいのは採らないの。小さいのがあったって、またこうして入れてやると、大きいのが見つかる。それをこまい石でトントン叩いて割って、塩水で内蔵を洗い流して食べながら、またおにぎりを食べたりね。

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 村人総出のお祭りでは、女子青年団で寸劇を

 うちは十三人家族でしたからね。ちゃぶ台二つあわせて。子供十人いましたからね。ご飯はつば釜っていう、大きな釜で炊くんです。お米は島では穫れませんので、定期船が一週間に一回くらい、根室と色丹を結んでいて、必要なもの――味噌、しょう油、塩、米などは船長さんに頼んで買ったんですよ。
(島の学校は)全校で六十人弱でした。学校が四つありましたからね。色丹が本校、一番大きくてね。十人以上他の分校にもいました。生徒さんの家は、だいたい漁業をしていました。ノリを採ったり、フノリを採ったり。今、根室で漁業をやっている方はたいてい、島で漁業をやっていた方ですね。
 沖合ですと、コマイやカジカ、アブラッコが獲れました。あと、エビとか、カニとか。そういうものが獲れました。サケマスは、船を持ってもっと沖合に出て。湾の中は漁船が出たり入ったり。漁船がそうしてなんぼ出入りしていても、魚はどんどん入ってきて、湾の中の魚は新鮮でした。
 しかし、以前北方領土に行ってみたら、魚は湾の中にいなくて、たまにいても、油臭くて汚くて食べられない。去年も行ってみたら、男の人たちが船で魚釣りしているんですよね。コマイとかカレイとかが幾らかいましたがどれもちっちゃくて。
「獲れた魚は食べるの?」と聞いたけれど「いやいや、臭くて食べられない」と(笑)。随分海が変わったんですね。汚くなって、魚もいなくなって。
 神社のすぐ隣にうちの借家があったんですが、(地震で)そこも土砂の下になって。神社のすぐとなりに泥棒岩といって、大きな石があったんですが、その岩の裏に、うちの刀が二振りあったのを、父と弟たちが埋めてきたって。今度行ったら掘ってくるかって言っていたけれど、みんな土で。
 神社の名前は、金比羅神社じゃなかったかしら。一年に一回金比羅神社で色丹会のお祭りをやるんです。当時も、神社ではお祭りがありました。家中全部出て、山車も出して。縁日も出ました。根室からいろいろ持ってきた人がお店を出して。
お祭りは十月じゃなかったかしら。村の人たちは総出で。女子青年団で、お祭りで寸劇のようなものをやってね。それからめいめい隠し芸をやったり、歌の上手な人は歌を歌ったり。女子青年団は十七、八から二十代の前半あたりでしょうか。十人くらいいました。お寺もありましたよ。
 島にはいろいろ肥料をつくる肥料場がたくさん出るから、そこで働く人がその時期になると増えるんです。冬はめいめいの家に帰るから、時期によって結構人は出ましたね。
時化になると、色丹は湾なので、マグロ船とか、たくさん入るんですね。風を待って。ぎっしり閉めきるように。

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「お国のために」と乞われて教員に

 私は、生まれは根室なんです。色丹へ移ったのは二、三歳のころだったと思います。そのころのことは覚えていません。父や母からもあまり聞きませんでしたからね。家は旅館やたばこ、雑貨商などいろいろやりました。豆腐もコンニャクも作っていました。食料品店のような。根室では違うことをやっていたようですが。
 父母はいちど志発島に行ったようですね。志発に行って、缶詰工場で働いて。その後色丹に行って、居を構えたようです。父は九州の長崎、母は山形の出身です。結婚は志発でのようです。
 父は、朝から晩まで働く人でした。旅館だけでなく、料理屋もやりました。人も雇っていました。十人くらい。男の人が二人。女の人が七、八人。結構忙しくて、私も学校にいても、帰ってくると旅館の料理の支度とか。朝もご飯の支度を手伝ったり、結構忙しく働いていたので、いまだに働くことは苦にならない。のんきにしたいと思ってもね(笑)。
 色丹の尋常小学校を終えて、根室に五年女学校に。それが裁縫女学校なんです。裁縫以外の勉強も一週間に一回はありましたけれどもね。ほとんどが裁縫をする学校。そこを卒業してから、島の家に帰ったら、待っていたんですね、島の人たちが。
あんたが先生になるようにと言われたけれど、私は人に教えるような立場じゃないから駄目だと言ったんですが、「お国のためだから」と、「あんたよりいないんだから」と村長さんや校長先生、それから有志の方が四、五人みえて言われました。色丹島では先生方がみんな招集で戦地に行ったので、いなくて困って、急遽私にやれということでした。いわゆる代行教員ですね。
 昭和十六年のことですね。大東亜戦争の始まるちょっと前くらいでした。七月ころかな。学校に行ったのが夏休みが終わった頃ですから。夏休みには根室に来ました。錬成講習会というのがあったんですよ。教職に就く人たちが集まって、十日くらい教え方を教わりました。
 夏休みが終わり、九月になって学校に行ったら、「助教を命ず」って。二十一歳のころでしたね。赴任したのは色丹国民学校でした。戦争の直前です。一年生から四年生までの担任をしていました。四学年一気に。大変でした。
 算数なら、「何年生は何ページを開いて、ここをやりなさい」、「何年生はこの小黒板のこれをやりなさい」、「何年生はこの小黒板を見なさい」って。十人ずつぐらいを一斉いにやりました。
 当時の子供たちは素直でしたね。昔の子供は性質が可愛かったというか、叱られるとうつむいて「はい。わかりました」って。でも、すぐ忘れてしまう(笑)。仲がいいと思えば、取っ組み合いの喧嘩をしたりね。けれども止めると、さらっとやめて、「はい握手」って。そうするともう忘れちゃうんですよね。うじうじしていない。

 島でみんな顔見知り

 親御さんも、何かあれば、「うちの子は夕べこうだった」と教えてくれますね。そうすると「でも、学校ではこうだったよ」とかねぇ。コミュニケーションは親御さんとも子供ともとれていましたね。
 お家ではしっかりと(しつけを)やっていたようですね。教科は算数、国語、国史、理科――。低学年は自然の観察。学校の脇に畝をつくらせて一年生は何の種をまく、二年生は何の種を蒔く。そして何日目に芽が出てきたとかね。そういう観察をしたり、山に行ったり。そこで何の芽が出ていたとかね。
 運動会は九月の二十四日に必ずやっていました。学芸会もありました。学芸会も盛大でした。みんなお弁当やお寿司を作って、父兄が見に来たんですよ。私が子供だったころも楽しみでしたし、教師になっても皆さん楽しみにしていましたね。島ではみんな顔見知り。仲良くやっていたんです。
 家の前を通りかかったら、「どうしてる?」とか「帰りに寄って行きなさい」とかね。それで、家の中に上がってお茶飲んだりお菓子食べたり。
私の家の前を通って学校へ行く生徒は、毎朝、「先生、行きましょう!」って生徒が呼びに来て、一緒に学校に行くんです。途中、やはり生徒の家があって。八時頃家を出て、学校までは二十分くらいかかったかな。授業は九時から始まり、夕方の三時くらいまでありました。
 道は舗装されてなかったのですが、土が固まっていて、けっこういい道でしたよ。ぬかるみでなくね。途中で砂のところもありました。砂のところは肥料場です。鯨会社とかから肥料にするものを持ってきて、筵を広げて干すのですね。通れる道がちょっとあるくらいで、あと全部砂になっている。道幅は二メートルあるかないかくらいでした。それでも、村の中の大きな通りでした。そこを歩いて生徒と一緒に学校へ行きました。
消防訓練もありましたね。めったにやったことないけれど。一ヶ月にいっぺんだったかな、隣組もありました。(他の島との交流は)あまりありませんでしたね。根室へはたまに買い物に。学校に行くようになってから、一度か二度ですね。講習会があったんですよ、そのときに出てきたようなものですね。
 玉音放送はガーガーといっていて雑音であまり聞こえませんでした。天皇陛下の声は聞こえたけれども、何を話していたかあまり分からなかったです。ちょうどその日は女子青年団で、わら人形をつくって、竹槍を持って、(敵兵が)来た場合に、やーっとやるという訓練をやっていたんです。そうしたら天皇陛下の話があるから学校に集まれと。
 
 高台の銃口が教室を向く

 九月一日は、秋晴れのいいお天気の日でした。学校に着いたら、生徒がわーっと集まってきてね、「先生、あれ!」って。大きな軍艦が入ってきたんですね。軍艦は沖の方でしたが、他の漁船なんかとは比べモノにならない、初めて見るような大きさでした。そのときは、アメリカだかソ連だかわからなかったんです。
 見ていたら、小さいボートにたくさん移ってきて、どんどんどんどんこっちに向かってきたときに、朝の授業の鐘がなって、教室に入ったんですよね。
 教室に入って、授業が始まるか始まらないころに、学校の向こう、山の上に兵隊が集まって。山に登って、機関銃のような台を据え付けたんですね。そうなると、勉強も手につかないんですよね。
「先生、あれ、あそこに機関銃だか据え付けて、銃口がこっちの教室の私たちのほうを向けている」っていうんだよね。撃たれるんじゃないかと。そうしたら、生徒もおっかなくて勉強どころじゃないのね。学校に入ってこないだろうかと。どんどんどんどん兵隊が上がったり、下りたりしているんですよね。そしたら、学校に用事があって来るわけじゃないから、軍の武装解除に来るんだと言いました。そう言うことは聞いていましたから。
武装解除だから、学校には来ないよと生徒に言ったんですが、「でも、来たらどうする」って。銃口こっち向いてるから、撃たれるんじゃないですかって。
 距離は、遠くなんですけどね、五百メートルくらいかな。グランドがあって、グランドの下からずっと山になっていたから。兵隊の数は、どれくらいあったんでしょうかね。台座を据えてね。
「大丈夫。来ないから」と言いましたが、私も来るんじゃないかなと思っていました。でも、「来るかもしれない」なんて言ったら、生徒が恐ろしがると思ったから、「武装解除に来たから。軍に用事があって来たんだから、何かあって来るうようなことがあっても、あなたたちは勉強しているんだから、先生のほうだけ見て、入ってきてもそっちを見るんじゃない。こっちだけ見ていなさい。そっちを見たらだめだよ」って。
 外国人なんて見たことないですからね。きっと恐ろしい顔をしていて、見ただけでも怖いから、「絶対見るんじゃない、いつもの通りにしていなさい」と言いましたけれども、私だっていつものとおりにできるかどうか分からない。一人でも傷つけられたらたいへんだし。

 ソ連兵が銃を携えて教室に

 そうしているうちにガラガラっと教室の扉が開いたんです。あ、来たなと思ったけれども、そっちを見ないで、黒板に書いたりして。そうしたら、ドタドタっとソ連兵が五、六人教室に入って来たんですね。
 私のほうからは(ソ連兵が)よく見えるんですが、生徒たちはこっちを向いていますから見えません。そして、扉が開いたところから、銃口だけが見えた。向こうも恐ろしくてぱっと入って来られなかったんじゃないですか。
足が震えるんですよ。だから足を踏ん張って素知らぬふりをしてやるんだけれども、足が震える。そうしたら、ピストルを前に構えながら、私の前に一番偉そうな人が来たんです。
「ズラステ(〓ズドラーストヴイチェ)」って言ったんでしょうけれども、当時はロシア語で何か言っているというふうにしか思いませんでした。そこで私は「いらっしゃいませ。ようこそ」って、手を出して握手して。
 そうしたら、銃を構えている人たちも銃を下ろして。「ズラステ」と言った人は大きな人で、すごく大きな手をしているように見えました。赤い毛がぼうぼう。顔を見ると青い目がぎょろっとして、まるで睨んでいるみたい。頭の毛は赤いし。ぞわぞわっと、血の気が引いたような気がしました。
 でもおっかないようなふうにしていたらだめだと、柔らかくしていなければならいと、にこっと笑って「いらっしゃい」と言ったつもりだったけれど、顔は曲がっていたかもしれませんね。そして、握手してから、その前まではおっかない顔をしていたんだけれども、それからはなんとなく柔らかい顔になって、「銃を下ろせ」っていったんじゃないかな。
 生徒たちにはそのまま普通に勉強させました。「これ、出来る人は来て、やりなさい」と私は言って「はい、誰それさん」と、二、三人が黒板のところに出てきて解いたら、一人が答えを間違っていたんですよ。そしたら、何とかかんとかって言ってね、笑いながら、ソ連兵の一人が教壇に上がってきて、それを直したんですよ。
 その時になって、ようやく私は落ち着いたんですよね。一人でも怪我させるようなことがあったら、どうしようと思っていましたが。それから柔らかい顔になって笑いながら、間違った子供の頭を、何とか何とかって撫でて。たぶん「間違ってるぞ」とか言ったんだと思いますね。
 帰ってから、その子供が「ぼく、頭ね、針を刺されたようだった」って。だから「おっかなかったかい? でももう大丈夫だからね」って言って。「外で会ってもそっちの方を見ないで、黙って真っ直ぐ帰りなさいよ」って。

 布団部屋で息を殺す日々

 その日、学校からの帰りは、漁業組合の女の事務員さん、役場の女性の人たち皆が学校に集まって、校長先生とか役場の人とか三人くらいで、めいめい家に送り届けたそうなの。しばらく様子をみるまで、女の人は出てこないほうがいいと。私も学校を休んでいたし。
 家の方では、父が布団部屋っていって、大きい部屋がありましたので、外をくりぬいて、外にサッカケにしました。外に何もないところに屋根を作って、部屋をくりぬいて、板で外から見えないようにして、それで外から出入りするようにドアにして。釘を打って、オーバーのような長いものを掛けて。そして、ここで隠れていたんですよ。
 女の人は隠れているように言われました。だからといって、外に出て山とかに隠れるのはよくない。私は妹たち四人と一緒に布団部屋に隠れていました。女きょうだい六人、男兄弟が四人いました。うち二人は生まれて間もないので、八人で隠れました。

 ソ連兵が来ると、「来たよ」って、外で遊んでいる男の子が教えてくれるんです。そう聞いたら、布団部屋にぱっと入って隠れちゃう。どこにいっても年頃の娘がいないもんだから、「娘いないのか?」って聞くんです。「ムスメ、ムスメ」って、その言葉だけ覚えていて、聞いてまわるんですよ。
 うちの母は、鯨会社にいるロスケの鉄砲さん(〓鯨に向かって鉄砲を撃つひと)を知っていました。ロスケと話をしていたので、「ボロッショイ(〓大きい)、マーレンキー(〓小さい)」って二言、三言ロシア語を覚えていたんです。
 弟から聞いたのですが、ロスケがうちに土足で入って来たとき、お父さんは隠れてしまって、お母さんはそこにいたのね。ロスケが入ってきたら、お母さんは茶の間にでんと座って「オー、ロスケ、ボロジョイ。ヤポン、マーレンキー」って言ったって。
 そうしたらロスケが「オー、マーマ、パロスケー」って言ったって。「ムスメ、ムスメ、ムスメニャット」、「ハラショー、ハラショー」って言ったって。ロスケがお母さんをロスケだと思ったようです。母は太っていたから(笑)。
 ロスケはめぼしい物を持っていくんです。時計とか欲しかったみたい。そのとき、時計、目覚まし時計を持っていきました。
 布団部屋にいたのは一ヶ月近いかと思ったんだけれど、そんなに入っていないという人もいますね。本当は十日とかそれぐらいだったんでしょうかねぇ。でも、長く感じられました。
 家は旅館で大きいですから、ロスケに盗られちゃったんですよ。部屋がたくさんあるから、「ここから出ろ」ってロスケがね。「あそこに空屋があるから、そこに出ていけ」って。
 そうなると、私たちは隠れているわけにはいかないでしょう。そして、みんなおかしな恰好をして出てきて。そして、家移りしなきゃいけないでしょう。
そうすると、ロスケが笑うのね。そのころはもう慣れていたんでしょう。ちょこちょこ家にも来て、「ムスメ、居ない居ない」って言っていたのに「今、ムスメ、こんなにいるじゃないか」ってロシア語でね。すっかり慣れちゃっていたんです。そして、家移りするのに、重い物なんかを持っていると、手伝ってくれて。
 一人になったり外に出たりはしないけれどね、大勢いるときなら、ロスケと一緒にいても、あまりおっかなくはなかった。共存という感じですね。ロスケは武装解除したら、すぐに帰るだろうと思っていました。どうなるんだろうと思っていたとき、「ヤポンスキー、ハジハジ(〓日本へ行け)」という話も聞きました。若い兵隊が遊びに来て、そこで聞いたんですね。

「ロスケ」との二年に渡る“共同生活”

 最初は、一緒に暮らしたというのはおかしいけど、ロスケが家の半分に住んでいたんです。旅館をしていたから部屋がたくさんあるでしょう。だからその半分をロスケがね。
私もたまに夜中に呼ばれて、(日本兵の居所を)調べられるのね。日本兵が防空壕にいたりしたからね。日本兵がいたことはいたんです。何人くらいいたかとか、どこにいたかというのを聞かれるんですが、分かっていても「分からない」と答えました。「分からないことはない」ってロスケは言う。でも通訳の人は「三時五十分」のことも「三千五十ネ」とかいうくらい訳せない人だったから(笑)。
 ある日、船に乗って穴間まで連れて行かれて。そのときは母も一緒について行きました。穴間にある缶詰工場の中に机を置いて、三人くらい偉い人がいて、「ママはここに入るのは駄目だ」、「ママ、ソッチ」って。それで尋問されました。
他に日本兵はいるかどうかはっきりはわかりませんでしたけれど、大浜部隊というのがうちにいたの。何人くらいかな、三十人くらいかな。ロスケが入ってきたときは、ウチから出て、どこかの山にいたんですよね。
(捕捉された日本兵は)武装解除されてね。軍服に丸腰でね。私の主人もその一人で、連行されたけれど、シベリアから帰ってきた。当時はまだ結婚はしていなかったけれどもね。戻ってきてから結婚しました。(シベリアからは)私よりは早く帰ってきました。栄養失調で早く返されたんだって。
 神社のところに借家が二軒あって、そこに移りました。あまり遠いとこから学校に通っていると、兵隊がうろうろしているからということで。学校は見えるくらいの距離。
借家は二軒で、(ソ連兵から)一軒を寄越せと言われていわれて、しょうがないから一軒のほうで、お祖母ちゃんたちとそこで暮らしていた。他の兄弟は今まで住んでいたところから少しいったところに、うちが貸していた工場があったんです。砂浜のあるところですが、そこで暮らしました。別居ですね。
 そしたら、またその半分に、将校さんの奥さんが来るんだから、半分寄越せと言われて半分やった。
 その奥さんが、「トシコー」って呼ぶのよ。「美味しいもの作ったから、食べに来なさーい」って、ソ連兵の家族と行ったり来たり。仲良くなってね。私、洋裁が好きなものだから、弟や妹のものを作っていたから、「うちの子供の服も作って」って。それで、作ってやったりして。
 そうすれば「今ご馳走をつくったから食べに来なさい」って。「うまくできたね、何が欲しい?」って言うから「バター」と言えば、バターをくれたり、「トシコ痩せてるから、たくさん食べなさい」っていろいろくれるの。それに、「トシコ(洋裁が)うまいから」って、あっちこっちから他の奥さんたちが作ってくれって持ってくるんです。
 振り袖でも留め袖でも。「これでムッシュとダンスするから、何日までに縫ってくれ」っていうの。スタイルブックを持ってくるから、ロスケの体に合おうがあわなくてもどっちでいいと思って(笑)。
 留め袖で作ると、模様が出るから、きれいにできるので。そうしたら喜んでね。奥さんたちに重宝がれられたけれどね。当時は学校にも行っていたから、忙しくて、忙しくて。

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 「ホッカイドウ、ハジハジ」

 夜中の二時頃、ドンドンと起こされて、「ホッカイドウ、ハジハジ(〓北海道へ行け)」と。船が来ているから早く行けと。早くと言われてもね、着る物も持たなきゃいけないとかあるでしょう。リュックに入れて持っただけ。そして三時とか四時ぐらいには船に乗って――。
 そういうことになるだろうという話はあったから、いつだかわからないけれど、支度しておいたほうがいいとは聞いてました。米や豆を煎って、臼で挽いて粉にして。生のまま持っていったって食べられないからね。そうしたものをリュックに詰めてね。
 いろいろ商売やっていたものだから、郵便局にお金はあったけれど、送金はできない。あれば没収されちゃう。お金があっても郵便局には持っていけない。だから、家族のリュックを作ったんですよ。で、リュックの底にお金を入れたんです。
 父はブリキ細工が好きだったから、女の子には底を二重にして裁縫箱を、男の子には筆入れを二重にして、底にお金を入れて。そして命令がある前に作っておいたんですよ。
そしたら、ちょこちょこ遊びに来るロスケが「樺太で、洋服屋がボタンの中にお金を入れて捕まって、チョロマ(〓牢屋。つまりシベリアに送られた)」だとか、「靴屋は、靴の底にお金入れてつくって、見つかって、チョロマ」って。
 行くときは、お金は一人幾らって決まっていたのです。幾らだったか忘れてしまったけれど。お金にミシンの針の跡があってもチョロマ。そう聞いたから、針の跡があるお金は、しょうがないから全部引き出して。
 私は二十二年の十一月に引き揚げました。樺太で十一月三日で明治節だねと行っていたのを覚えています。樺太の収容所で数日いました。函館から根室に来たのは十一月の末か中頃か。雪が降って。根室に親戚がありまして。親戚の石屋にやっかいになりました。
ソ連兵から脱しただけで気分は楽になりましたね。夜になってからドンドンドンドンって外で叩かれるんですから。
 裁縫する鏝を火の中に入れておいたの。もし戸を蹴破って入って来ておかしなことでもしたら、鏝を二つも三つも。それで立ち向かおうと思ってね。
(暴力事件は)ありませんでしたね。紳士的でしたね。一緒にいたときにね、ロスケが「日本人はそれこそ、酷いことをした」とね。「酷いことをやった。だけどロスケは酷いことはしない」と。「日露戦争のときは、女の人たちに火を付けて、みんな穴の中にいれて燃やしたんだぞ」とか「足をこっちとこっちを別々の馬に引かせて裂いただぞ」とか。本当かどうかわからないけれど、そういうことを聞かされたらざわざわっとしたけどね。意地悪い兵隊が来るとね(そんな話をしていった)。
 ちょっとでも反抗的になれば、意地悪もしたくなるんだろうけど、何が欲しいと言えば、「そうかいそうかい」ってくれたりするところもありましたから。

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 聴き取りを終えて

 鈴木としさんは、現在、根室市内梅ヶ枝町で食堂を営んでいらっしゃいます。名称は「としのや食堂」。文字通り、鈴木さん自身が創業したお店です。
 聴き取りは、平成十八年九月二十一日の夕刻、「としのや食堂」の二階で行いました。お茶をいただきながら、約二時間インタビューさせていただきましたが、鈴木さんのお話で印象的なのは、やはりソ連兵が教室に進入してきたシーンです。当時を語る鈴木さんは、まるで昨日のことを語るかのように、生々しく描写してくださいました。
 ふだん見ることもないロシア人の大男が数人、それも銃で武装した状態で出くわす――もし、私がそういう状況に置かれたらどうしたでしょうか? きっと気を失うか、自棄(〓やけ)をおこすか、いずれにしても、鈴木さんのように毅然とした態度をとることはできないのではないかと思います。
 咄嗟の判断で、侵入してくる兵士に手をさしのべあいさつをし、そのまま授業を進行する。足ががくがく震えたと鈴木さんはおっしゃいますが、堂々とした態度です。ソ連兵も鈴木さんの落ち着いた態度に安心し、敬服したに違いありません。
 さらに驚かされるのが、その後約二年に及ぶソ連兵たちとの「共同生活」です。私はいくらか歴史に精通している方であると自負していましたが、こんな歴史があったとは、今回お話を伺うまで知りませんでした。ソ連が侵攻して来るなり、島民たちは強制退去させられたものと認識していたのです。
 平和だった島に突如現れた外国の軍人・兵士たち。当然、何が起こるかわかりません。ましてや妙齢の女性教師、身の危険とは隣り合わせです。布団部屋に姉妹で隠れ、その後も村の人たちの警護を受けながらの教師生活。平和な時期に生きる私たちには、同じ日本人が斯様(〓かよう)な経験をしていたとはにわかには信じられない思いです。
 しかし、鈴木さんはいたって冷静に客観的に当時を振り返り、時にはユーモアを交えながらお話になりました。遠く昔の出来事だからなのでしょうか、私はそれだけとは思えません。この時代の日本人、それもフロンティアともいうべき北方の島々の人々だからこそ色濃く持つ強さ、大らかさに裏打ちされているのではないか――お話を伺いながら、そう確信したのでした。

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