22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2010年08月

■9(月)~10(火) 箱根

家内を紹介してくださったおば様の別荘へ。

三島で家内と合流。

鰻など食し、三嶋神社に寄ってから現地へ。

富士山の眺めがいい別荘ですが、この日は雲が多く。。。

富士山麓をめぐって帰京。

今日2010年8月25日は、私の祖母の生誕100年の日です。

100年というと、昨今ニュースで取り上げられていた日韓併合や大逆事件などがあった時代です。

この年に生まれた人には、黒澤明監督、鈴木俊一元都知事、大平正芳元首相、マザー・テレサがいます。

祖母は、神奈川県の最奥地・沢井村で生まれました。

末っ子だった祖母は、幼くして母親と死別。

その後、川崎の身寄りに寄宿し、そこで関東大震災に遭遇。

「そりゃ怖かったぁわ。川原に死体があってな。朝鮮人が攻めて来るというんで、隠れたな」

こんな話をよく聞いたものでした。

私の両親は、その年代としては学歴が高く、誰に対しても、学歴で判断するような人でした。

当然、その矛先は私にも向けられ、幼少時から、東大法学部に行くものとして育てられました。

本来必要なしつけはほとんどなされず、幼くして修得すべき道徳観や美意識は育まれることなく、ひたすら学歴至上主義とエキセントリックな価値観(協調性は悪――のような)ばかりが植え付けられました。

一動物としての私はこのような異常な家庭環境の中、高校に上がるあたりで、身体的に違和感を持ち、親に反抗(というより、敵対)するようになりました。

それが先鋭化し、ついに私は家を出て、近所で独居する祖母の元に身を寄せたのでした。
祖母は、両親のような人間ではありません。

きわめて歴史的な人間でした。

社会や親兄弟、学校の先生からしつけられた言葉で、先人たちが磨いてきた言葉を私に伝えるだけ。

語彙も乏しく、田舎言葉の口べたでしたが、常識と愛に裏打ちされた言葉は、乾いていた私の心に染み渡りました。

あの時、祖母の存在がなければ、私は自殺したか、親を殺したか(あるいは、通り魔的な犯行も)、引きこもっていたでしょう。

秋葉原事件の加害者の家庭環境が取りざたされていますが、まさにあんな感じでしたから。

なぜ、祖母の存在が、私を救ったのか。それは次の2点にまとめることができます。

1.日本的な美質に触れさせてくれた。

「負けるが勝ちだぁよ」とよく祖母は(おそらく意味はよくわからず)言っていた。
「短気は損気」、「堪忍してやれよ」――こんな言葉は、両親の口から出たことがなかったな。

2.わかりやすい愛情を表現してくれた。

電話を掛けてきては、「着る物着てるか? 食うもん、食ってるか?」。
裸でいるわけでも、餓死寸前なんてこともないが、昔の人は、こういう表現で身内の安否を気遣った。
人間も一つの動物。わかりやすい愛情表現を受けなければ、愛されていないと思ってしまうもの。
それが、その人の将来に禍根を残すのだが、例えば私の母のような人は、愛情表現を使って、己の希望する方向にコントロールしようとした。これは罪深い。


祖母のいた人生に、心の底から感謝しています。


祖母のような愛にあふれた庶民が、この国の繁栄と平和をもらたしたと思います。

私は祖母のような「美しい庶民」に光を当てようと、7年前に、NPO「昭和の記憶」を設立しました。

 http://www.memory-of-showa.jp/

祖母が亡くなって9年になりますが、今も尚、精神的縁(よすが)として、私の魂の中で息づいています。

 これから墓参りに行って参ります。


 山谷えり子さんの人生の師は二人。実父・山谷親平さんと、小学校時代の担任・河原ジュンさん。日本で最初のパーソナリティと言われた親平さんは、それまでのキャスターの常識を覆す、主観で時局を切るジャーナリストでした。河原さんは、戦時中に、命を懸けて、教育に情熱を、子供たちには愛情を注いだ女性でした。現在の政治家・山谷えり子をつくった、二人の恩師への思いを語っていただきました。

●福井のケネディ、立候補

 父は身体に、戦時中に機銃掃射で受けた弾丸の破片がいくつも埋まっていました。傷痍軍人としてお金をもらえる身でしたが、仲間に申し訳ないと、それはしませんでした。弾丸が身体に入っていることが理由で、お見合いを断られたこともあったそうです。東京から福井に移ったのも、療養のためでした。
 そんな父が早朝のラジオ報道生番組で三十年間無遅刻無欠勤の記録を作ったのです。もともと父は、福井新聞から福井放送に出向していたのでした。当時はのんきな時代でしたから、早朝の番組でアナウンサーが遅刻したりして、番組が遅れて始まるなんてことは珍しくなかったそうです。しかし視聴者からは、苦情が殺到する。それを見かねた父が、それなら自分がやるということで、始めた番組でした。幼少時から病弱だった人なので、ひとかたならぬ執念を持って番組に携わっていたのだと思います。
 福井新聞の政治部長ですから、普通に原稿を読むだけでなく、各新聞をならべて自由にしゃべるんですね。当時は、記者は原稿を書く、キャスターは原稿を読むという縦割りが当然のスタイルでした。キャスターの主観で時局を切る番組は無かったので、大変な反響を呼びました。民間放送連盟からも金賞をもらったりして。日本で初めて、本来の意味でパーソナリティと呼ばれた人でした。
 そのうち福井のケネディなんて呼ばれるようになって、「どうか政治を変えてくれ」と皆さんから期待されて。昭和三十八年十一月、衆議院総選挙に出馬したんです。福井大学の学生が、「山谷親平来る」と書いたのぼり旗を持って、応援に来ました。当時はラジオの時代だから、顔を見たことが無いので、好奇心で集まってきたんです。それが結局、票にはならず、落ちちゃうんですけどね。当時の新聞を見せてもらったら「地方分権と福祉の充実」って書いてあるんですよ。昭和三十八年で。ちょっと早すぎたましたね(笑い)その落選で福井にいられなくなり、東京へ戻ることになるんです。

●誰も見んところだから、きれいにしとくんや

 福井で通っていた順化小学校の担任だった河原ジュン先生も、大切な恩師です。戦争未亡人で、ひとり息子を育てながら、家庭と学校を守り抜いている立派な女性でした。空襲で皆が避難しているとき、ひとりだけ学校の方へ走っていくんです。生徒たちの資料が燃えちゃ大変だと。責任感の強い先生でした。
 生徒には、わが子とへだてなく、一人ひとりに愛情を持って接してくださいました。体育が得意な子には体育を、音楽が好きな子は音楽を褒めてあげるという風に、みんなを大切にしてくださいました。
 お相撲を取るときなんかは、女の子にもとらせたりして。私は結構、強かったものですからお相撲が大好き。ある時、調子に乗って、男の子とお相撲を取ったら見事に負けてしまって。それだけでなく骨を折ってしまったんですよ。そしたら先生には「受身が悪い」なんて言われて(笑い)
 手間のかかる仕事は、全部、自分が引き受ける方でした。毎日、学校で、四季折々にお花がきれいに咲くように、花壇や学校の周りの広範囲の花の世話をしていました。真っ黒な顔をして、汲み取りトイレの裏に生えているお花に水をやっている先生に「そんなとこ水やっても、誰も見んわ」と言ったことがあります。先生は「だからきれいにしとくんや」とにっこり笑われました。そんな先生の素朴で真摯な姿には子供ながら強烈に感化されたことを憶えています。
 先生に担任してもらったのは小学校四年生まででした。ところが、中学一年で、東京に引っ越すときには、誰から聞いたのか見送りに来てくださり「えりちゃん、東京行って負けたらあかんざ」と勇気づけてくださいました。私の選挙の時も心配して、「私は遺族会の婦人部長をやってるから、あんたには入れられない。でも、他の人には頼んでおくから」と励ましてくださるんです。いつも正直で優しい先生でした。

●これならホワイトハウスの会食でも通用するよ

 好奇心が旺盛な父は、学校教育で何が行われているかにも、大変、興味を持っていました。河原先生も、何度となく食事に呼ばれて、父と意見交換をしていましたね。父は、ことあるごとにホームパーティーを開いたりするのが好きでした。家族のためには、世界の民族料理をつくったり、福井で一番いいレストランに連れて行ってくれたりしました。「大切にしないと家族ってのは壊れるもんだ」というのが父の口癖でした。祖父の事業失敗による一家離散を経験していたので、家族に対しては、強い思いがあったのです。どうやったら家族を楽しませられるか、いつも考えている人でした。
 父に、将来どんな仕事をしたいかと聞かれたことがあります。その時はなんとなく、新聞記者と答えました。父はレストランに行くたびに、スプーンの持ち方、パンのちぎり方を教えてくれ、「これなら将来、記者になって、ホワイトハウスでの会食でも通用するよ」と言ってくれるのです。考えているスケールが違うというか、視点を移動させることを、いつも教わっていました。
 父の落選後、母は過労から失明してしまいます。数年後、投薬により、視力は回復しましたが、ステロイド剤の副作用により、片足が不自由になってしまいました。欠乏感から人生のどん底にいる母を再起させたのは「人生、八十年。残り四十年、泣いて暮らすより、自分に合った何かを探そう」との父の励ましでした。それ以来、炊事、洗濯、料理は父が率先して行っていました。母はカルチャースクールに通い、現在でも巣鴨のとげぬき地蔵でカウンセラーをしています。父は晩年、不治の病に蝕まれながらも、あぶら汗を流しながら、母の車椅子を押し、韓国旅行に出かけて行きました。次はどこへ行きましょうかと聞く母に、「これが最後だよ」とつぶやいたそうです。母と子供たちを愛しぬいた父の生き様は、ジャーナリストとして、家庭人として、私の大切なお手本になっています。

■聴き書きを終えて

 山谷親平さんの家族への愛情を、二児の父である私も身につまされる思いで聞かせていただきました。二人の娘を明るく育てられるよう、親平さんの愛情とダンディズムをお手本に、妻子に接してみようと思いました。
(社団法人「昭和のおしえ」理事・谷口博幸)

 拉致問題解決、家族支援、福祉充実、教育再生を推進する参議院議員・衛藤晟一さん。衛藤さんの一貫した信念を育んだ恩師――それは大分大学時代の教授・山本雅之(〓まさし)さんでした。学生たちにとっては、気さくな変わり者の教授。ゼミの教え子から見れば、情熱的に青年を育成する教師。そして、権力と対峙する経済学者としての一面など。衛藤さんにしか語れない、山本さんの知られざる横顔を伺いました。


●変わり者教授から育まれた「信念」

 山本雅之(〓まさし)先生と初めてお会いしたのは、大学一年生。大分大学経済学部の一般教養を教えておられました。当時、先生は四十歳を過ぎた頃でしょうか。倍以上、歳が違う私たちにも、威張ることは一切なく、いつもニコニコしておられました。時には自分で喋ったことが面白くて、自分で大笑いしてしまうような明るい先生でした。
 先生の授業は、少し変わっていました。アダム・スミスの「国富論」を、英語の原文で読ませたり、経済学の授業なのに、スタンダールの「赤と黒」を読ませたりするのです。絵画を見せて、この女性の着ている服の素材は何か、絹は当時、シルクロードから何トン渡って来ていたかを問われることもありました。博覧強記の先生でしたから、講義の内容は、とにかく多岐に渡っていました。ある時、私に湯飲みを見せて、これは角度によって、円にも長方形にも、二重丸にも見える。常に、物事の全体を見なければいけないということを、先生は言われたことがあります。これが先生の教育を一貫する、信念だったのです。
 その頃は、まだ、先生のお心が分かりませんでした。夏休みに入る前に、レポートで、「赤と黒」の感想文を出さなければならなかったのですが、なんだか馬鹿ばかしく思えてしまいましてね、提出しなかったんです。しかし、出さなければ単位がもらえない。心変わりして、夏休みの間に、先生のご自宅に提出しに行ったんです。ちょうど先生はご不在でした。奥様が出て来られて、おはぎと梅酒を出してくださったんです。それをいただいている間に、先生が帰って来られました。「夏休みに、自宅まで来られるなんて、真面目な学生さんね」と奥様が言うと、「こいつは不真面目だから来ているんだ」と苦笑されていました。普段は厳しいけれど、優しい方でした。
 こうして思い出すと、やはり、普通の教授とは、ちょっと違う方でしたね。しかし、山本先生が学生たちに、「変わり者の先生だ」と噂されていた理由は、他にもあったのです。

●「先生、資本論を三分でまとめてください」

 山本先生のゼミでは、勉強会を開いていました。たまに、食事のマナーを教えてやるということで、中華料理屋を貸し切りにして、招待してくださるのです。先生は、別府大学の臨時講師もやっておられましたので、そちらの女子を呼んできて、食事会をしていました。今で言う、コンパみたいなものですね。僕らの頃の経済学部は、二四〇名の内、女子は三名しかおりませんでしたから、それは喜んだものです(笑い)。食事のマナーだけではなく、ホールに音楽をかけて、ダンスを踊ったりさせるんですね。先生が選んだ名曲が、次々とかけられ、みんな照れながらも踊ったものです。一番、ダンスが上手なのは、先生ご自身でした。女性をリードして颯爽と踊る姿は恰好良かったですね。そんなことを、年に三、四回やっていました。
 当時、大分大学は、学園紛争の最中にありました。先生はマルクス経済学者でしたが、当時の学内の風潮には、違和感を感じておられたようです。私も、全共闘系の学生十数人に囲まれて、危ない目に遭ったことがありますが、教授でも、下手なことを言うと、吊るし上げられるような時代でした。それでも正しいと思ったことは、逃げずに、はっきり言う方でしたね。
「理論は沢山あるが、全て仮説だ。現実に当てはめ、実際に正しかったことのみを採用すべきである。」と言われていました。全共闘系の学生と論を戦わせるためには、「資本論」を読まなければならない。そこで先生に「資本論の要点を三分で教えてください」とお願いしたことがあります。そうすると、本当に三分でまとめてくださるんですね。結びに「生産関係によって全てが規定されると彼は説いているが、実際には違う。ただ、経済を考える上で、そういう視点を持っておくことは必要だ」と言われました。先生は農業経済学者として、県庁の農政指導もしておられたので、マルクスの論理が、現実に合わない場面も、見ておられたのです。

●農業を”経済する”学者

 社会政策と農業政策の研究者でもあった先生は、県庁から請われて、経済面からの農業指導もしていました。大分県の農政が暖地てんさいの栽培を推進しました。大分の気候から考えると、収量が採算に合わないことは、学者の立場から見れば明らかでした。しかし、農政批判をすると、県庁からの仕事を干されてしまうため、他に声を上げる学者はおらず、山本先生は一人、反対をされました。事実、先生への農政指導の要請は大幅に減りましたので、先生は自分の研究に集中されていました。権力には、淡々とした態度をとられる方でしたね。
 結局、暖地てんさい栽培は失敗に終わり、大分県の農政は大幅に後れをとることになります。先生の口癖は、「ウォームハート・クールアイ」。熱い心を持ち、冷静な目で見る。それを地で行く先生でした。
 私は大学を出た後、専攻課に進み、その卒業後は、先生の縁故で、東京の企業に就職が決まっていました。しかし、大分に残りたいという気持ちがどうしても強くなり、先生にお詫び申し上げて、就職を辞退し、自営業を始めました。そして、二十五歳の時に、市議会議員選挙に立候補したのです。これが私の初めての選挙でした。その選挙用のパンフレットに、山本先生が推薦文を寄せてくださったのです。これは私の友人からの依頼を受けてくださったのですが、国立大学の教授が、政治的に動いたということで、また回りから責められたそうです。
 しかし、先生は「自分の教え子が、国のために働くことを応援して、何が悪いのか」と毅然としておられました。自分のことは顧みず私を応援してくださいました。胸が熱くなりましたね。先生にいただいた推薦文通りの、素晴らしい人間になっていこうと誓いました。先生にいただいた「政治に温かい心を」という言葉は、政治家としての信念となり、今も私の中に息づいています。

■聴き書きを終えて 

 インタビューの日、衛藤さんは、出張からお帰りになったばかりでした。お仕事の疲れも感じさせず、目を輝かせながら恩師のお話をされる衛藤さん。聴いている私も、いつしか、情熱的かつダンディ、博識にしてユーモラスな山本先生に弟子入りしたような気持ちになっていました。(社団法人「昭和のおしえ」理事・谷口博幸)

 八時十五分、原爆投下――その朝、面会する予定だった学生主事補は、落下してきた梁木が頭を直撃、「君が代」を歌いながら死亡。その頃、村田昇さんは、上官の命令で移動中。列車のデッキから、謎のきのこ雲を眺めていました。拾った命――祖国の再建のために何をすべきか。その命題に答えを与えてくれたのが、長田新(〓あらた)先生でした。滋賀大学名誉教授・村田昇さんが、恩師の思い出を語ります。

■本文 2400字=40字×60行

●列車のデッキから見たきのこ雲

 八月六日の朝、私たちは向洋駅から呉線の列車に乗って、広(〓ひろ)を目指していたんです。広島高等師範学校の二年生で、学徒動員で東洋工業で小銃づくりをしていたんですが、この日は、急遽、広にある横穴工場の下見に行くよう指令があったんです。
 疲労と空腹、そして昨夜の空襲警報による睡眠不足で眠い目をこすりながら列車に揺られていたら、列車が急停車したんです。車掌が来て「外見ちゃ、いかんぞ」と怒鳴って回ったんですね。そう言われると見たくなる(笑)。
 車掌がいなくなった後、デッキに出て空を眺めたら、広島方向の青空に、きのこ雲が上がっていくのが見えました。その時は、それが原爆とはわかりませんから、そのまま視察の仕事をしました。帰りに、駅員に事情を聞くと、ガスタンクに爆弾が落とされ広島は全滅したとのこと。
 やっとのことで海田市駅に到着すると、全身大火傷の人や杖をついて倒れそうになりながら歩いている人がいる。真っ裸に近い人もいました。怪我も火傷もしていない私たちを恨めしそうに見ている女学生もいましたね。駆け足で東洋工業に着くと、被爆者たちが続々と工場に避難してきました。水を求めながら息をひきとる人たち。まさに生き地獄です。
 いよいよ本土決戦という時、家族との最後の別れを告げるために一週間の休暇が与えられました。大津駅に到着したのが八月十五日の正午前。江若鉄道の浜大津駅に着くと、みんながうなだれてラジオを聴いている。あれが玉音放送だったんですね。
 家に辿り着いたのは、午後三時頃。家族たちは私が特殊爆弾で死んだと思い、私を幽霊ではないかと、足下ばかり見ていましたよ(笑)。

●「日本建て直しの根本は、教育」

 広島市内の校舎が原爆で焼失したために、授業が再開されたのは、終戦翌年の二月からでした。仮校舎は、西条駅からボロボロのバスで三、四十分も入った、加茂郡乃美尾村の旧海軍衛生学校でした。待ちに待った授業でしたが、図書館はおろか何もない僻村での寮生活。寒さと飢え、敗戦による虚脱感もまだありました。
 長田校長がこの仮校舎に来られたのはこんな時期でした。先生も原爆で瀕死の重傷を負われ、顔には生々しい傷がありました。先生は、講堂に集まった詰め襟の学生服の学生たち四、五百人を前に一時間半にわたって講話をされました。
「鶯が鳴いているね。広島の焼け跡では聞けないよ」――この先どうなるのか心配していている学生を安心させるような話から始められました。先生の声は大きくテンポも良くひじょうにわかりやすい。それよりもその内容です。ペスタロッチーやフィヒテ、さらには「米百俵」を引き合いにされながら、教育による国家再建の意義をお話になりました。国家の三大機能である政治、経済、教育のうち、日本の建て直しの根本となるのは教育であり。諸君にはその役割をがんばって担って欲しいと、私たちを励まされました。
 この講話に、私たちは奮い立ちました。私はとても感動して、寮に帰っても興奮が冷めませんでした。日本国を建て直すために、何をやるべきか。教育学もやらないかんな――そんなことを考えていると、事務局から校長が学生代表に会いたいと言っておられるから、すぐに来て欲しいと呼び出しがあったんです。
 急いで学校に戻り、恐る恐る校長室に入ると、先生は「まあ、座れや」とお茶や芋菓子をすすめながら、「学生の不安はよくわかっているよ。だからこそ、落ち着いて勉強して欲しいのだ」とおっしゃって、学生たちの様子をいろいろとお尋ねになりました。そして帰りに、先生は「広島に来たら、ぜひ家に来たまえ」と、名刺の裏に地図を書いてくださいました。

●知識ではなく行為――長田先生の教え

 長田先生は大学で、学長であるにもかかわらず、教育学概論を自ら講義されました。月曜日の夕方にまで及ぶ四時間ぶっ通しの授業はたいへん魅力的で、用務員のお婆さんまでが外で感動しながら授業を聞いていたくらいです。
 私はどうしたことか、先生にずいぶんかわいがられまして、ご自宅に何度もお招きいただきました。「村田君、元気か。今晩、一緒にご飯食べよう」とお誘いくださる。すき焼きをご馳走になったり、ピアノも弾かせてもらったり。時には、頼まれて先生の畑を耕したこともありますよ。たいていは夕食を囲みながら、文化や人生などいろいろなお話を伺いました。そういう時、先生はよく「これから話すことを、ノートにとっておいて」とおっしゃいました。私はお話をノートに書き留めて、後日清書して提出しましたが、それから何ヶ月かすると、それが雑誌や本に出ている(笑)。
 じつは就職でもたいへんお世話になりました。先生は、私には何も告げずに、各地で活躍されている教え子の先生方に推薦状を出してくださったのですね。すると滋賀大学の学部長が「長田先生の推薦なら、助手としていただきましょう」ということになって、採用してくれたんです。先生は「郷里に帰ったという気持ちは持たずに行け」と激励してくださいました。そこまでやってくれる先生はいませんね。
 教育は地域を基盤にしないといけません。ですから、私は県や市の仕事をたくさんやりました。旅費も出ないので、自腹で飛び回って。でも、そうしたおかげで信頼関係もできるし、世の中のこともわかってくる。
 そうやって行動しているうちに、シュプランガーの考えなどをも活かせるようになりました。実践と現実を基盤にして、教育理論を練っていったのです。こうしたことができたのも、長田先生のおかげです。先生はつねづね教育は単なる知識ではなく、生きた行為であるとおっしゃっていましたから。

■聴き書きを終えて 120字×40字×3行

 私は早稲田大学教育学部の出身です。学生時代は、デューイを専門的に勉強していましたが、その考え方に、どことなく違和感を覚えていました。実践と現実を基盤に――今回、村田先生へのインタビューを通じて、その違和感の正体がようやく明らかになりました。(社団法人「昭和のおしえ」代表・清家雄峰)

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