22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2010年07月

■6(火)

高尾 11:18

(小淵沢)14:09

松本 15:18

■7(水)

松本 7:59 スーパーあずさ

高尾

 北朝鮮拉致の日本人を救出するための全国協議会「救う会」。その事務局長を務める平田隆太郎さんの恩師は末次一郎さん。秘書として、十二年間薫陶を受け、目の当たりにした知られざる事実。北方領土問題、沖縄返還、戦犯の救済、青年海外協力隊の設立――民間人としての活躍を超越した功績を残した昭和の巨人の記憶をお話しいただきました。


●守衛、芸能事務所からの転身

 末次事務所に勤める前は、建設現場の守衛をしていたんです。大企業には入りたくないという気持ちがあったので、下宿と駅の間の電信柱の貼り紙を見て、働き始めました。しかし入ってみると、アルバイトへの対応がひどいので、ストを打ったんですよ。一晩かけて先輩たちを説得してね。私は入って一週間くらいなのに、気付いたら集団交渉の先頭に立っていました。当時、そういう仕事っていうのは、意外かもしれませんが、右寄りの人が多かったので、左翼と間違えられて大変でした(笑い)。
 その後、先輩の紹介で、有名なアイドル芸能事務所に勤めました。でも、どうにも肌に合わない。それで、もっとしっかりした所で働きたいと先輩に相談したところ、末次事務所を紹介されたのです。
 永田町の首相官邸のそばにある古い一軒家が、末次先生の事務所でした。訪ねていくと吹浦さんという方に面接をされました。ろくな説明もされずに来たので、「ここは何をする事務所ですか?」と質問したのですが、「入れば分かる」としか言って貰えませんでした。
 末次先生との初対面も、その時でした。優しいけども、気迫のある方でした。私より背は低いのですが、人間としての大きさみたいなものが滲み出ていました。説明すると月並みになってしまいますが、圧倒的な存在感で、こんな人物は、他にはいないと思わせる人でした。その気持ちは最後まで変わりませんでしたね。
 昭和五十二年一月からお世話になりましたが、実際に入ってみると、「入ればわかる」、つまり、説明するのは無理だということがよく分かりました。やっていることが、とにかく多岐に渡っているのです。末次さんの人脈を把握するだけで、五年はかかりましたもの。さらに、二人いた先輩はまったく仕事を教えてくれません。自分で考えて、仕事を作り出す、そういう仕事でしたね。末次事務所での十二年間、経理、秘書、事務的な調整、記録、すべてをやらせていただきました。

●偽名を使って巣鴨プリズンに出入り

 末次先生は功績が多いので、いろいろなことをしていたように思われています。しかし、実はきわめてシンプル。やっていたのは、二つの仕事でした。
 一つは、戦後処理です。引揚げ、戦犯、沖縄・北方領土の返還などですね。私がいた頃は、引揚げは終わっていましたので、末次さんは、BC級戦犯にされた韓国や台湾の人たちの救済のために動いていました。末次さんは自分がGHQから追及されている身だったにもかかわらず、「宮崎一郎」という偽名を使って、巣鴨プリズンに出入りしていました。末次さんの本名は「末次一(〓はじめ)」ですが、この頃から「一郎」と呼ばれることが多くなっていったので、その後、「末次一郎」に名前を変えたのです。
 北方領土問題を話し合うために、ソ連の賓客をホテルに招いて、会議をすることがよくありました。私は会議の後、彼らが玄関のドアから出てきた瞬間に、迎えのバスが滑り込んでくるように指示を出されていました。そのタイミングが、三十秒でも遅れたら、厳しく叱咤されました。
「戦場では、一秒違ったら、弾が飛んできたら死ぬんだぞ。こっちはロシア人と戦っているんだ。もてなしは満点、会議では喧嘩する。こっちが言いたいことを言える状況を作るのが君たちの仕事だろう」と指導されました。末次先生の仕事は、秒単位で考えて、動かなければならない。常に緊張していました。
 でも、先生のもてなしは、形だけのものではなく、本当に心を尽くしたものでした。ある時、懇意にしていたソ連科学アカデミーのイノゼムツェフという学者が亡くなった時、末次先生は、お墓参りをしたり、奥さんを日本に招待したり、積誠を尽くしておられました。そういう行動を、ソ連の人たちも、ちゃんと見ています。末次さんが、民間人でありながら、ゴルバチョフや、ライシャワーなど、ソ連の高次の人間から信頼されていたのは、そういう理由があったからです。特別な配慮をされているというのは、国境を越えて、伝わるものなんですね。

●「一回死んだ人間なのだから、絶対に自分を甘やかさない」

 もう一つは、戦後の復興です。それは、青年を育てることでした。青年海外協力隊は、本来、海外を支援することよりも、青年を育成するということに重点が置かれていました。それには、先生の戦争体験が深く関わります。
 末次先生は、戦争から帰ってきても、降伏する気はありませんでした。有志を募り、徹底抗戦を決意。勝算はなくても、そうしなければ、やりきれなかったのだそうです。九州中に防衛網を張り巡らせ、米軍を討つ態勢を作りました。しかし、国内の空気は、急速に降伏に傾斜していきます。本当に抗戦できるのか、やってはいけないことをしているのではないか、様々な議論が仲間たちと交わされ、最後には、作戦を中止。腹を切る決意をされました。
 しかし、腹に刃を当て、少し切ったところで、考えてしまった。一回、躊躇したらもう死ねないそうです。悶々としながら、一ヶ月ほど、放浪して「死ねなかった以上は、自分が戦争の後始末をしよう」と、青年運動を開始されました。それが、青年育成事業へと繋がって行ったのです。
 末次先生は青年を温かく、同時に厳しく育てられました。私も毎日めちゃめちゃに怒られていました。末次さんは、人を怒鳴りつけるようなことはしません。「君ともあろう者が何だ」と言われるのです。静かだけど、恐かったですね。
 ある懇親会で、私は先生に叱られたことがありました。しかし、それが先生の勘違いだったことが夜中に分かったのです。翌朝私の机の上に「昨日はすまなかった」と書いたメモが置かれました。これは、私の宝物になりました。よく怒るが、筋が通らないことには、きちんと謝る度量のある方でした。そして人に厳しくする以上に、自分に厳しくしておられました。胃がんで亡くなられましが、手術の前日まで、病気は自分で治すと、階段を昇ったり下りたり、持ち込んだ鉄アレイでトレーニングをされていました。「一回死んだ人間なのだから、絶対に自分を甘やかさない」という信念を、最後まで徹(〓とお)されました。先生の率先垂範の姿は、その後の私の規範になりましたね。

■聴き書きを終えて 120字×40字×3行

 戦後の日本再建に奔走した末次一郎さん。活動のために得た、自民党からの資金援助も、領収書をつけて、残金を返すという高潔な方だったそうです。一つの信念に貫かれ、シンプルに、真剣に仕事をされていた姿を伺いました。自身を猛省し、新たな挑戦への活力を頂きました。(谷口 博幸)

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