22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2010年06月

■11(金)新潟駐車場泊

この駐車場はとてもいい。
海を一望できるし、空いていてよく眠れる。

■12(土)新潟港 10:30

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■13(日)

小樽港 4:30

上川


●金華駅

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置戸

ちほく線跡をたどる。

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陸別。この日は暑かった。29度。


足寄

本別
↓ 高速
帯広

■14(月)

帯広 田本氏取材

本別

釧路


●尾幌駅

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●糸魚沢駅

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●茶内駅

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●霧多布

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●姉別駅

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●別当賀駅

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●落石駅

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根室 

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お祭りをやっていました。
一献して、駐車場泊。


■15(火)

根室

厚床

●奥行臼駅

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奥行臼駅逓。


弟子屈

●オンネトー

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前回は曇っていたので、1年ぶりに再訪。

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また来ました。ここの湯はいい。


本別

あのトンテキを食す。

新得 ベア・マウンテン

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二風谷 アイヌ

苫小牧港

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■16(水)

新潟港

高尾

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 雲に聳(〓そび)ゆる高千穂の 高根おろしに 草も 木も――今から二六七〇年前の二月十一日、日本国は生まれました。戦前、その誕生日は紀元節として、国民を挙げて祝われていましたが、戦後廃止。やがて、各地で紀元節復活を望む声が高まりましたが、「建国記念の日」として復活するまでに二十年近い歳月を要しました。北海道帯広で、復活運動の指導的役割を担ったのが宮坂文一さん。宮坂さんの思い出を、田本憲吾さんが語ります。

●紅白まんじゅう――楽しかった紀元節

 紀元節が楽しみでしてね。四月二十九日の天皇誕生日である天長節、十一月三日の明治節――当時は、いろいろな国の行事がありましたが、紀元節が一番楽しかった。
 この日は、私たち小学生は、ふだんの服ではなく、親が紀元節用の正装を着せてくれるんです。
 学校の校門には国旗が掲げられています。ふだんはここで御真影が収まっている奉安殿に深々と礼をするのですが、この日はしなくてもいいのです。と言いますのは、この日は、御真影は講堂に掲げられているからです。
 二月十一日の樺太ですからとても寒い。寒い講堂に、全校生徒が教室から各自イスを持って集まり、紀元節の行事が始まります。君が代を歌って、紀元節の歌を歌って。その後、校長先生や町長ほか、お偉いさんの話を聞きます。難しいので、私たち小学生はよくわからないのですが、頭を下げて聞いています。
 校長先生が教育勅語を読み始めると、御真影の白い幕が開きます。そこには、天皇陛下と皇后陛下のお写真が並べられているんですが、私たちは御真影を見てはいけません。最敬礼して、勅語に耳を傾けなければならないのですが、いたずら盛りの小学生ですから、どうしても見たくなりますよ。それで、チラチラっと(笑い)。
 行事が終わると、教室に戻ります。それから三十分ほど、担任の先生から紀元節についてのお話がありまして、その日はそれで終わり。授業はありませんでした。
 帰りには、紅白のまんじゅうをもらいます。これが嬉しくてね。当時、甘いものなんてありませんから、最高のご馳走ですよ。午後は、冬の樺太ですから、表で飛び回るというわけにもいきませんが、まんじゅうを持って、友達と遊びましたね。

●”消防団長短命説”を覆した、帝国軍人の気骨

 この紅白のまんじゅうは、物資が逼迫した戦争末期でもきちんと配られたそうですよ。聞いたところによると、まんじゅうが手違いで間に合わなかったこともあって、大騒ぎになったことあったそうです(笑い)。それだけ、紅白のまんじゅうは重要だったのです。宮坂文一先生も、紅白のまんじゅうにはこだわっておられました。
 宮坂先生は、現在、私が会長を務める建国を祝う帯広市民の会の創始者です。戦後、紀元節は廃止となりましたが、何年もしないうちに、帯広神社で紀元祭が開かれるようになったのです。この催しの中心となったのが、宮坂文一先生が会長を務める帯広郷友会でした。
 帯広郷友会というのは、戦前で言うところの在郷軍人会です。宮坂先生は職業軍人でした。先生は陸軍士官学校出身ではなく、一兵卒から出世されていった、いわゆる叩き上げでした。温厚篤実、物静かな方でしたが、とにかく威厳がある。
 ずっと後の話になりますが、私が市長の頃、宮坂先生に、消防団長を務めていただいたことがあります。当時、歴代の消防団長は、就任すると、どういうわけか、まもなくお亡くなりになってしまうという状態が続いておりまして、なかなかなってくださる方がいませんでした。宮坂先生に三顧の礼でお願いし、消防団長になっていただいたんです。
 消防団というのはご存じの通り、ふだんは別の仕事をしているおじさんたちの集団です。動作もどうしても緩慢になりがちです。でも、宮坂団長のもと、みんなキビキビと動いていましたね。さすが、旧軍の軍人は違う、と思いましたよ。
 宮坂先生は結局十五年、消防団長を務められました。消防団長短命説を覆してくださいましたよ(笑い)。

●「自分の背丈でものを考え、仕事をすべき」

 昭和四十年代に入ると、全国各地で、建国記念の日を法制化しようという声が高まりました。昭和四十一年三月には、帯広郷友会会長宮坂文一先生等百十四名――この中には、私も含まれています――が「紀元節復活に関する陳情書」を衆議院内閣委員会に提出しました。そして、この年に「建国記念の日」として法制化されたのです。
 そんな時、奉祝式典の開催が持ち上がりました。当時、私は帯広青年会議所の副理事長をしていました。宮坂先生から、青年会議所も参加しないかという呼びかけがありましたので、私は呼応いたしましたが、青年会議所のなかでも賛否ありましてね。結局、参加することでまとまり、以後、歴代理事長が大会の宣言をするようになりました。
 昭和四十二年二月十一日、第一回の奉祝式典が行われました。二千名を超える市民、自衛隊音楽隊、市内の高校のブラスバンドなどが参加して、盛大に行われました。昭和五十年代にさらに参加者が増え、昭和六十一年一月十四日、「建国を祝う市民の会」が誕生しました。会長は、宮坂文一先生です。その後、毎年千人規模の行事が開催されていますが、これは全国的に見ても異例の盛り上がりです。これもひとえに、宮坂文一先生のお働きのたまものです。
 宮坂先生たちによって始められた式典も、今年で二五回を数えました。これが第三〇回、五〇回、一〇〇回と継続していくようにしなければならないというのが、会長としての私の務めであり願いです。
 何事も、自分の背丈でものを考え、仕事をすべきだ。基盤から離れた、突飛なことをやってはならない――宮坂先生は、つねづねそうおっしゃっていました。この教えを胸に、宮坂先生のおっしゃっていた、真の魂の独立回復に向けて微力を捧げたいと思います。

■聴き書きを終えて 120字×40字×3行

 私の父の名は、「二千六百(〓ふじろう)」。昭和十五年、九州男児の祖父は、七十歳を過ぎてから生まれた子供にそう名付けました。父は、その名が恥ずかしかったとよくこぼしますが、その命名に込められた、祖父の日本国に対する誇りを、今回の取材を通じて実感することができました。

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■写真(キャプション)

宮坂文一先生

田本憲吾先生

 ■今日の「昭和のおしえ」


  いつもでっかい声で笑とんねん


 ――大阪府の谷口栄蔵さん(103歳)のことだまです。


 昔の人は、よく笑います。

 昭和初期の子供たちの写真を見ると、みんな笑顔がいい。

 最近の子供は笑うのがへたになっているような気がします。

 谷口さんの長寿の秘訣も、笑うこと。

 テレビのお笑いを見て、大笑いしながら語ってくれました。


 ■高尾山だより

 今夜、新潟まで行き、明朝、出航するフェリーで北海道へ。

 毎年この時期に、北海道を回るのが恒例になっています。

 今回も、取材やセミナー講師などを務めつつ観光も。

 かれこれ10年以上も通っている夕張にも足を伸ばします。

 夕張はご存じの通り、炭鉱で栄えた地。

 ここには、三井系と三菱系の二つの企業がありました。

 今はともにないのですが、この二つがじつに対照的。

 ルーズな三井系北炭に対し、まじめな三菱。

 三菱はしっかり後片付けをして撤収したのに対し、

 三井はかなり放り散らした状態で撤退。

 でも、三井が放漫経営で各地に作った建物は、

 今となっては文化財。

 何がどう転ぶかわからないのが、歴史のおもしろさですね。

 このページはおもしろいですよ。→ http://yubari.net/


 生き様インタビュアー・清家ゆうほ seike@c23.jp

■第七回 村田昇さん(滋賀県大津市)

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▲村田昇先生


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▲長田新先生

**

■リード

 八時十五分、原爆投下――その朝、面会する予定だった学生主事補は、落下してきた梁木が頭を直撃、「君が代」を歌いながら死亡。その頃、村田昇さんは、上官の命令で移動中。列車のデッキから、謎のきのこ雲を眺めていました。拾った命――祖国の再建のために何をすべきか。その命題に答えを与えてくれたのが、長田新(〓あらた)先生でした。滋賀大学名誉教授・村田昇さんが、恩師の思い出を語ります。

■本文

●列車のデッキから見たきのこ雲

 八月六日の朝、私たちは向洋駅から呉線の列車に乗って、広(〓ひろ)を目指していたんです。広島高等師範学校の二年生で、学徒動員で東洋工業で小銃づくりをしていたんですが、この日は、急遽、広にある横穴工場の下見に行くよう指令があったんです。
 疲労と空腹、そして昨夜の空襲警報による睡眠不足で眠い目をこすりながら列車に揺られていたら、列車が急停車したんです。車掌が来て「外見ちゃ、いかんぞ」と怒鳴って回ったんですね。そう言われると見たくなる(笑)。
 車掌がいなくなった後、デッキに出て空を眺めたら、広島方向の青空に、きのこ雲が上がっていくのが見えました。その時は、それが原爆とはわかりませんから、そのまま視察の仕事をしました。帰りに、駅員に事情を聞くと、ガスタンクに爆弾が落とされ広島は全滅したとのこと。
 やっとのことで海田市駅に到着すると、全身大火傷の人や杖をついて倒れそうになりながら歩いている人がいる。真っ裸に近い人もいました。怪我も火傷もしていない私たちを恨めしそうに見ている女学生もいましたね。駆け足で東洋工業に着くと、被爆者たちが続々と工場に避難してきました。水を求めながら息をひきとる人たち。まさに生き地獄です。
 いよいよ本土決戦という時、家族との最後の別れを告げるために一週間の休暇が与えられました。大津駅に到着したのが八月十五日の正午前。江若鉄道の浜大津駅に着くと、みんながうなだれてラジオを聴いている。あれが玉音放送だったんですね。
 家に辿り着いたのは、午後三時頃。家族たちは私が特殊爆弾で死んだと思い、私を幽霊ではないかと、足下ばかり見ていましたよ(笑)。

●「日本建て直しの根本は、教育」

 広島市内の校舎が原爆で焼失したために、授業が再開されたのは、終戦翌年の二月からでした。仮校舎は、西条駅からボロボロのバスで三、四十分も入った、加茂郡乃美尾村の旧海軍衛生学校でした。待ちに待った授業でしたが、図書館はおろか何もない僻村での寮生活。寒さと飢え、敗戦による虚脱感もまだありました。
 長田校長がこの仮校舎に来られたのはこんな時期でした。先生も原爆で瀕死の重傷を負われ、顔には生々しい傷がありました。先生は、講堂に集まった詰め襟の学生服の学生たち四、五百人を前に一時間半にわたって講話をされました。
「鶯が鳴いているね。広島の焼け跡では聞けないよ」――この先どうなるのか心配していている学生を安心させるような話から始められました。先生の声は大きくテンポも良くひじょうにわかりやすい。それよりもその内容です。ペスタロッチーやフィヒテ、さらには「米百俵」を引き合いにされながら、教育による国家再建の意義をお話になりました。国家の三大機能である政治、経済、教育のうち、日本の建て直しの根本となるのは教育であり。諸君にはその役割をがんばって担って欲しいと、私たちを励まされました。
 この講話に、私たちは奮い立ちました。私はとても感動して、寮に帰っても興奮が冷めませんでした。日本国を建て直すために、何をやるべきか。教育学もやらないかんな――そんなことを考えていると、事務局から校長が学生代表に会いたいと言っておられるから、すぐに来て欲しいと呼び出しがあったんです。
 急いで学校に戻り、恐る恐る校長室に入ると、先生は「まあ、座れや」とお茶や芋菓子をすすめながら、「学生の不安はよくわかっているよ。だからこそ、落ち着いて勉強して欲しいのだ」とおっしゃって、学生たちの様子をいろいろとお尋ねになりました。そして帰りに、先生は「広島に来たら、ぜひ家に来たまえ」と、名刺の裏に地図を書いてくださいました。

●知識ではなく行為――長田先生の教え

 長田先生は大学で、学長であるにもかかわらず、教育学概論を自ら講義されました。月曜日の夕方にまで及ぶ四時間ぶっ通しの授業はたいへん魅力的で、用務員のお婆さんまでが外で感動しながら授業を聞いていたくらいです。
 私はどうしたことか、先生にずいぶんかわいがられまして、ご自宅に何度もお招きいただきました。「村田君、元気か。今晩、一緒にご飯食べよう」とお誘いくださる。すき焼きをご馳走になったり、ピアノも弾かせてもらったり。時には、頼まれて先生の畑を耕したこともありますよ。たいていは夕食を囲みながら、文化や人生などいろいろなお話を伺いました。そういう時、先生はよく「これから話すことを、ノートにとっておいて」とおっしゃいました。私はお話をノートに書き留めて、後日清書して提出しましたが、それから何ヶ月かすると、それが雑誌や本に出ている(笑)。
 じつは就職でもたいへんお世話になりました。先生は、私には何も告げずに、各地で活躍されている教え子の先生方に推薦状を出してくださったのですね。すると滋賀大学の学部長が「長田先生の推薦なら、助手としていただきましょう」ということになって、採用してくれたんです。先生は「郷里に帰ったという気持ちは持たずに行け」と激励してくださいました。そこまでやってくれる先生はいませんね。
 教育は地域を基盤にしないといけません。ですから、私は県や市の仕事をたくさんやりました。旅費も出ないので、自腹で飛び回って。でも、そうしたおかげで信頼関係もできるし、世の中のこともわかってくる。
 そうやって行動しているうちに、シュプランガーの考えなどをも活かせるようになりました。実践と現実を基盤にして、教育理論を練っていったのです。こうしたことができたのも、長田先生のおかげです。先生はつねづね教育は単なる知識ではなく、生きた行為であるとおっしゃっていましたから。

■聴き書きを終えて

 私は早稲田大学教育学部の出身です。学生時代は、デューイを専門的に勉強していましたが、その考え方に、どことなく違和感を覚えていました。実践と現実を基盤に――今回、村田先生へのインタビューを通じて、その違和感の正体がようやく明らかになりました

■写真(キャプション)

村田昇先生

長田新先生

長田新編「原爆の子にこたえて」

「恩師の記憶」~渡邉五郎三郎さん、3人の恩師――松平勇雄先生、安岡正篤先生、父を語る。

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▲渡邉五郎三郎さん

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▲安岡正篤先生

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▲松平勇雄先生

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▲御尊父・五郎様

■第三回 渡邉五郎三郎さん(神奈川県鎌倉市)

■リード

 祖父の幼名が「五郎」、父親の名も「五郎」。三代目の五郎ということで名付けられた「五郎三郎」。渡邉五郎三郎先生は、久留米藩・有馬家の家臣を出自とされています。戦後の日本の再建に、若い力を投入した「日本健青会」。その健青会の後見を務められた安岡正篤先生の風格。その後、四〇年に渡り秘書として仕えた松平勇雄先生の度量。西郷南洲を尊崇する父の躾――。三人の師の思い出を、渡邉五郎三郎先生に語っていただきました。


■本文 2400字=40字×60行

●生涯の師・安岡正篤先生との出会い

 安岡正篤先生に初めてお会いしたのは、昭和二四年のことでした。ちょうど創設したばかりの日本健青会の顧問に就いていただくようお願いに上がるためでした。じつは、それまで私は安岡先生のことをよく知らなかったのです。偉いたいへん立派な方くらいの知識しかなかったのですが、ともに健青会を創設した末次一郎(〓すえつぐいちろう)さんが、安岡先生に私淑しておりまして、そのご縁で、お願いしようということになったのです。
 話は少々逸れますが、日本健青会は、戦争によって荒廃した日本を青年の手で立て直そうという志に燃えた人たちによって結成されました。
 街頭で演説したり、各方面に働きかけたりしました。たとえば、不当に戦犯とされた方たちの名誉回復。捕虜に牛蒡のキンピラを食べさせたのを、材木を食わせたとして、捕虜虐待に問われた方もいらっしゃいましたから。シベリア抑留時に、洗脳された赤化抑留兵たちを、舞鶴港に迎えて引揚列車の車中で抑留部隊を調べたり、その動向を調査したりしました。
 こういう活動を行う上で、戦前・戦中の過ちをくりかえさないために、指導してくださる人物の必要性を痛感し、安岡正篤先生のお名前が挙がるようになったのです。
 当時、安岡先生の秘書を務めていた林繁之さんを通じて、面会が決まりました。日銀のすぐ前に、先生が主宰される師友会の事務所があり、私は末次さんと一緒に参りました。
 林さんからは、安岡先生はとても厳しい方で、自分は先生の講義を七、八時間正座して聴いたことがあるという話を聞いておりましたので、私たちはとても緊張していました。
 ところが、実際の安岡先生はとても優しい方でした。当時、四十八歳だった安岡先生は、二十七歳の私に対しても対等に話され、けっして先輩面されるようなことはありませんでした。誰に対しても、同じ態度で接しておられる。その様子を見て、心から「学識だけではない。この方は、本当の人物だな」と思いましたね。
 先生は「自ら修めて国家社会の役に立つ。それだけでいい」とおっしゃってくださり、健青会の顧問就任も快諾していただきました。

●縁尋機妙(〓えんじんきみょう)――安岡先生の教えと励まし

 その後も、安岡正篤先生への師事は続き、今でも私淑しております。
 先生は、よく私たちに「無名有力の人になれ」とおっしゃていました。名を求めず、世の中の役に立つ人間になれということです。
 戦後の混乱に乗じて、高級将校や知識人のなかには、不見識なことをする者がずいぶんいたのです。混乱期には、地位や権威など何の役にも立たないんですね。そういう人間を見るにつけ、安岡先生の教えは、その広毅な見識と風格とともに、私たちの心に刻まれました。学問とは、ただ知識を増やすことではなく、人間を作ることである――これは、安岡先生の立ち居振る舞いから教えていただいたことです。
 昭和五四年、私は『わが補佐道』を上梓しました。その際、原稿のゲラを安岡先生にご覧いただく機会に恵まれました。この本に、先生は序文を書いてくださったのです。序文は、「此の書によって我々も晏子(〓あんし)に親炙し、四焉ができる。まことに善書である」と結ばれています。この序文を書いてくださるとお聞きしたときは、本当に嬉しく感謝しました。同輩からは、ずいぶん妬まれたものです(笑)。
 話は戻り、昭和三九年、当時、参議院議員松平勇雄(〓いさお)先生の秘書時代に、日本健青会の研修で沖縄に行きました。私は旅をすると、報告書代わりに歌を詠むことにしています。沖縄には、昔の日本の良さがまだ残っていました。とくに、女性の慎ましさや献身ぶりには、心を打たれました。その感動を、私はこう詠みました。

  その海の 深き碧みの さながらに

       つつましかりし 沖縄乙女

 この歌を安岡先生にご覧いただいたとき、「これは、良い歌だよ」とお褒めの言葉をいただきました。嬉しかったですね。

●もう二人の師――松平勇雄先生と厳父・五郎

 松平勇雄先生と初めてお会いしたのは、終戦の翌日、昭和二〇年八月十六日のことでした。昭和二六年五月以来、私は松平先生の秘書として、三十七年もの長きに渡ってお世話になりました。参議院議員秘書、国務大臣行政管理庁長官秘書官、福島県知事政務秘書と、国政、地方行政に深く携わりました。
 松平先生は、幕末の会津藩主・松平容保(〓かたもり)のお孫さんにあたる方です。参議院では他の議員から「殿様」と呼ばれていましたね。
 松平先生は、先生は私をとても大切にしてくださいました。ふつう、参議院会館では、秘書は手前の部屋にいるものですが、松平先生が「なべさん、君の机、こっちに持って来いよ」とおっしゃったので、議員室で、私は先生と机を向かい合わせにしていました。これを見て、周囲の人たちはたいへん驚いていましたね。
 松平先生は、私が諫言したときは「君がそう言うなら」と率直に受け容れる、度量のある方でした。こういう信頼関係があってこそ、補佐も役目を全うできるんですね。そういった意味では、知事と秘書というよりは、主君と家老のような関係だったのかもしれません。
 安岡先生、松平先生とともに、私にとっての恩師と言うべきは、やはり父でしょう。私の家は、久留米藩有馬家の家臣の出で、戦後まで、我が家の戸籍には「士族」とありました。
 父、五郎は、西郷南洲(隆盛)を敬慕しておりました。「敬天愛人」など、南洲の教えをよく用いながら、私を武士の子としてしつけました。

  幾度か辛酸を経て志始めて固し/丈夫は玉砕すとも甎全を恥づ
  一家の遺事人知るや否や/児孫の為に美田を買わず

――この西郷南洲の詩が家訓でした。父は、常々「財産は残さない。独立自尊せよ」と口にしていました。
 日常の心得としては、三つ――一つは、「男として、恥ずかしい事はするな」。二つ目は、「難易の二途があれば、難を選べ」、つまり、二つ道があれば、困難なほうを選べということですね。三つ目は、「男子は食に対して不平を言ってはならぬ」。幼いころから、この三つを叩き込まれましたね。
 父親と私とは、食事の場所も他の家族とは別席でした。私は長男でしたから、それだけに侍の子として厳しくやられましたよ。でも、父の教えと安岡先生の教えはひじょうに近かったので、安岡先生にも、すぐに飛び込むことができました。まさしく縁尋機妙(〓えんじんきみょう)ですね。


■聴き書きを終えて

 古武士然とした渡邉五郎三郎先生は、御年九一。今も矍鑠とされ、対面してお話を伺っていると、背筋がピンと伸びました。しかし、緊張感を強いられるようなものではありません。気品が横溢する場は、先生の品格がもたらしたものです。そのとき、点った志の灯は、今も燃え続けています。

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