22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2010年04月

■24(土)~25(日)新潟、寺泊、高田

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 引っ越してでも通わせたい幼稚園――集英学園 たきのい幼稚園。「集英学園」の命名者は、安岡正篤先生。賢い子を集め、賢い子を世の中に輩出するという理想は、日本を代表する教育者・越川春樹先生によって体現されました。漢字教育、草履履き、水泳教育など、他の幼稚園にはないユニークな教育内容は、明日の日本を担う子供たちを育んでいます。たきのい幼稚園園長・渡辺なをみさんが、恩師の思い出を語ります。


●越川春樹先生の思い出と安岡正篤先生の想い  

 たきのい幼稚園の初代園長・越川春樹先生は、その前は、船橋市の二宮中学校の校長でした。二宮中学は、千葉県一の大規模校で、日教組が強くて、たびたびストが起こるような学校でした。生徒にも問題や非行が多く、とても評判が悪い学校だったんです。
 その学校を建て直したのが、越川先生です。学校改革に情熱を注ぎ、その甲斐あって、高校入試の合格率も市内トップになり、越境で入学する生徒も来るようになりました。
 でも、先生のような存在は日教組から目を付けられるようになります。それが日教組からの集団脱退に繋がったのですが、先生はずいぶんとご苦労されたようです。
 越川先生は厳しい方でしたね。威厳がありすぎるくらい。ふだん園長室にいらっしゃって、なかなかお目にかかる機会はありませんでしたが、週に三日ほど、論語の授業を受ける時に、近くで接することができました。保育室を使って、午後四時から一時間くらい、だいたい十人くらいの人が集まっていましたね。テキストは、諸橋轍次(〓もろはしてつじ)先生の『論語の講義』でした。
 その後、私が園長になった時、「集英学園」の名前の由来に興味を持ちました。命名してくださった安岡正篤先生の勉強をするうちに、たきのい幼稚園の建学の精神――賢い子をここに集め、賢い子を世の中に輩出しなさいという想いを知りました。この想いを受け継いだのが、越川春樹先生だったのですね。
 越川先生は八十歳でお亡くなりになりました。亡くなった日の早朝、夢の中に越川先生が現れて、「しっかりやれ」と激励してくださいました。驚いて目が覚めてしばらくすると、先生が亡くなったという電話があったのです。私が今こうしてやっていられるのも、私のバックに越川先生がいらっしゃるからなんです。肉体は存在していませんが、私のバックから見守ってくださっているんです。

●気骨ある父親から受け継いだ胆力と気概

 父親は、靴箱を作ったりする町工場を経営していました。父の恩師である学校の先生が九十九里にいらして、その方がたいへんな気骨者でした。あるとき、駅前でヤクザ者にからまれた人がいて、その方が止めに入ったのですが、なかなか収まらない。すると、その先生は鎌を二丁持ってきて、自分の首と相手の首に掛けて、「よし、これを引っ張り合おうじゃないか」と言ったんですって。すると、そのヤクザ者は恐れ入りましたとばかりに引っ込んだという話を聞いたことがあります。
 その後、父もこれと同じ場面に遭遇したんです。町工場をやりながら、アパートも持っていたのですが、入居していたヤクザと繋がりのある人が夜逃げしたんです。ある日、ヤクザがその人を探しに来て、父が匿っているのだと言い張り、大騒ぎになったんです。その時、父は恩師のやり方をまねして、鎌を二丁持ってきて、首に掛けようとして。その日以来、そのヤクザも来なくなったそうです。
 こうして幼稚園を経営していると、トラブルに巻き込まれることがあります。何度か、怖い目にあったこともありますが、突っぱねるときはきちんと突っぱねてきました。さすがに、鎌を持ち出すことはありませんでしたが(笑)。
 ここを守るのは、私の仕事です。守るためなら、何でもやるという気概です。こういう気骨は、父親譲りなのでしょうね。
 父は躾も厳しかったですよ。でも、中学に入ってからは話し合いになりました。一時間でも二時間でも納得するまで話し合い。中学生になると、一人前であると考えていたんです。「人に迷惑をかけるな」、「人間は社会に出てからが勝負」が口癖でした。越川先生に初めてお会いした時、親近感がわいたのは父と共通点が多かったからでしょうね。口数が少なく、柄がそんなに大きくなくて、そして大酒飲み(笑)。

●漢字教育で培われる、日本を支える子供たち

 幼児には、刷り込みが大事。幼い頃に、人間の土台を作ることが大事というのが、越川先生の考え方でした。だから漢字教育なんです。クラス名も、名前も漢字。絵本も、漢字を使って勉強しています。実は、私も最初は漢字教育の効果に懐疑的だったのですが、長年にわたる実体験を経て、今は漢字教育の効果を確信しています。何よりも、我が子を使って実証しましたから(笑)。
 たきのい幼稚園では、草履を履きます。水泳もやります。園児はみんな元気ですよ。平成七年から、園内での骨折者はゼロ。新学期の始めには、お清めの塩を遊具、バス、園庭にまき、式では、国旗・園旗に一礼。こういう幼稚園が日本を支えているのだと思います。
 私は常日頃、子供たちに「普通の人になりなさい」と言っています。普通の人って、たいへんですよ。優しくて、思いやりがある人間。地域を良くして、日本を支える土台になる人になって欲しい。いいお父さん、いいお母さんになって、いい家庭を築いて欲しい。時代を継承する人材を作ること、それが教育じゃないですか。
 子供に接するには、まず自分が動くことです。自分から動かなければ、子供は動きません。口先でわかれば、学校なんて必要ありません。身をもって学ぶから、学校教育があるのです。
 子供たちにいろんな種をまいて、育てたいものを育てればいい――種まき教育が、たきのい幼稚園の教育方針です。入園式では、お母さんたちに、「今日から、私の子供ですから、褒めることもあれば、厳しくすることもあります」と言い、子供たちを預かります。そして卒園式では、「今日で種まき教育が終わりました。これから先、花を咲かせるのは、ご両親の役割です」と言って、子供たちをお返しすることにしています。

■聴き書きを終えて

 今回のインタビューをコーディネートしてくださったのは、高木書房社長・斎藤信二さん。その後、同社刊行の育児書を拝読し、自分自身の来し方、そしてこれから子供の父親になる上での覚悟を植え付けられました。人生の一大事ともいうべき聴き書きでした。

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■写真(キャプション)

渡辺なをみ園長

越川春樹先生

安岡正篤先生による「集英学園」

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世界で最も貧しい土地と言われるネパール・アッパームスタン。JICAを退職し、七十歳から単身、彼の地に渡った。果樹園を造り、鯉を養殖した。世界最高高地(2770メートル)での稲作にも成功。病院、学校の建設まで行い、国家勲章を受けた。八十八歳になった現在も、ムスタンの開発を続ける近藤亨さんが語る恩師の記憶。


●根性があれば何でもできる

 ムスタンに行くきっかけは、もともとJICAでネパールに派遣されていたからです。定年で、いよいよ帰国するというときに、ネパールの首相・コイララ氏に頼まれました。今度は、どうかアッパームスタンの開発をしてほしいと。そこは世界で一番、貧しい土地と呼ばれているところでね。そんな秘境で農業をやろうなんていう人間はいなかったんですよ。僕には、五十年以上、農業をやってきたという、技術者としての自負がありましたからね。自分なら、残りの人生を賭ければ、この必死に生きている人々を救えるんじゃないかと考えたんだね。
 年間降雨量がわずか二〇〇mmの乾燥地帯であり、寒暖の差は激しい。まともな野菜なんて一つも獲れない。そんな土地でも必ず作れる作物はあるんです。それを見つけるのが、この爺様の腕ですよ(笑)
 ムスタンのりんごは、わざと背を低くしている。現地の人々の背が低いから、それに合わせたんです。結果、実のほうに栄養が行くようになりました。基本的に農作物は昼夜の寒暖差が激しいほど、美味しくなります。それに今まで、まともに野菜も作れていなかったから病害虫もいない。厳しい環境が、逆に成功の原因となったのです。今では青森や長野からりんご農家が勉強に来るくらいになっているんですよ。
僕はもともと果樹技術者です。ほかの農業に関しては素人ですが、ニジマスや鯉の養殖もやっています。標高二千メートル以上の土地だから、水がきれい。日本の養殖業者よりはるかに大規模な養殖場で美味しい魚を育てています。稲作も、その気候を利用して大成功した。根性があれば何でも出来るんだよ。一度ムスタンへいらっしゃい。「どうやってでも生きていこう」という根性が湧いてくるよ。
 学校も十八校建てましたが登校率は一二〇%。まだ学校に行く年齢でない子も登校してきます。給食が食べられるからね(笑)
 僕はムスタンに居ても三食、白米です。日本の人々より美味しいご馳走を食べているんじゃないかな。食べたいものは何でも自分で作れる腕を持っていますから。それが農業のありがたいところなんだね。

●家族を捨て、故郷を捨て、祖国を捨てての鹿島立ち

 じつは僕自身も、ムスタンに行くことを決意するまでは悩みました。輾転反側、眠れぬ夜を過ごしたんです。現地で人を雇い、長い歳月を過ごすことを考えると、どうしても二、三千万の金は必要になります。県庁の退職金などは、その後の家族の生活費を考えるといくらも残りません。「親方日の丸」といった環境で働いてきた身なので、資金調達の妙案などは浮かんでこない。そこで先祖伝来の山林を、密かに、義兄に売却して活動資金をつくったんです。これで準備は整った。しかし家族や関係者にどう伝えるかでまた悩んでね。猛反対するに決まっていますから。そんな時、絶好の機会が訪れました。JICAを定年退職して、永年の功労をねぎらう帰国祝賀会があったんです。その席上で「もう一度、ムスタンに行き、今度は一人の農業者として、ムスタンの開発に努める」と発表したんです。会場は万雷の拍手のあと、我に返ったように静まりかえりました。その後、ざわめきのなかで、親戚や友人があわてて寄ってきてね。口々に諌めるんですよ。家族にも何も話していなかったもんだから、それはたいそう反対されましたよ。しかし一回みんなの前で言ってしまえば後戻りは出来ませんからね。「もう決めたんだ。先祖伝来の山や田んぼ、畑をぜんぶ売り払ってしまった。ボランティアをやるには同志の信頼を得なければならない。それには自分だけ財産を持っていてはいけない。丸裸になっていくんだと。頼む、行かせてくれ」と言ったら最初は反対していた家族も、次第にあきらめていきましたね(笑)我が家はもともと、それぞれの生きる道には干渉しあわないという家訓でしたから。その代わり子供たちにもやりたいことをやらせてきました。

●隻眼痩躯の恩師・丹羽鼎三先生

 ムスタンに行くことを決めたのは、恩師である丹羽鼎三先生の「近藤よ、安易な道を選ぶなかれ、常に弱者の味方たれ、節を曲げることなかれ」という遺言ともいえる言葉でした。
 平成十五年三月、JICAの勤めを終え、日本に帰国しました。桜舞うなか、多摩墓地にある先生のお墓の前に額づいてムスタン行きを誓い、腹をくくりました。
 先生は加茂農林専門学校(新潟大学農学部の前身)の初代校長で、仙台の伊達藩の武術の師範をやっておられたこともあります。顕微鏡の覗きすぎで、片目が潰れてしまったというくらい勉強熱心、一徹な先生でした。
 一方、僕は若いころは肺病で、「二十歳まで生きられないだろう」と言われていました。肺病が治ってから学校へ行ったので、二十七歳の頃に先生に出会ったんです。本当は文学青年で、作家か文学者になろうと思っていたから、農業なんて興味はなかったんだけどね(笑)家の近くに専門学校ができたから、長い闘病生活の息抜きに行ってみるかというぐらいで。
 しかし丹羽先生と出会ってから、少しずつ農業に惹きこまれていった。先生は農場の管理人室に一人で住んでおられました。他の連中はおっかながって近づかなかったが、僕はやはり変わっていたんだろうね。毎日、そこに一人でとことこ通っていたんですよ。五十も年上の先生に、自分の農業に対する疑問を真正面からぶつけていきました。当時は作付け制限や、大型機械化という方向に進んでいたから、「このままでは日本の農業がだめになると思う」と先生に言ったら、「俺もそう思う」と言われてね。「農林省や県の奴らには分からんのだ。近藤、はやく一人前になって頑張ってくれ」なんて言われてね。僕のボランティアの原点は、丹羽先生なんだね。「ただの技術屋になるな。君なら、恵まれない人のために働けば、多少は世の中に名を残すだろう」と言われていました。それ以来、丹羽先生の言われた通りに生きてきて。この歳まであっという間ですよ(笑)


■聴き書きを終えて 
 この六月で八十九歳を迎えられる近藤先生。お話しを伺い、稲作を営む私は、現地に行ってみたい衝動に駆られました。「ムスタンまでの交通費さえ出せば、現地での生活は面倒みるから」と言って下さる近藤先生。きっと何人もの青年がこの情熱に鼓舞されたのでしょう。(谷口 博幸)

■写真(キャプション)


①近藤亨先生

日本財団版・市井の昭和史no12-0313.pdf

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