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 祖父の幼名が「五郎」、父親の名も「五郎」。三代目の五郎ということで名付けられた「五郎三郎」。渡邉五郎三郎先生は、久留米藩・有馬家の家臣を出自とされています。戦後の日本の再建に、若い力を投入した「日本健青会」。その健青会の後見を務められた安岡正篤先生の風格。その後、四〇年に渡り秘書として仕えた松平勇雄先生の度量。西郷南洲を尊崇する父の躾――。三人の師の思い出を、渡邉五郎三郎先生に語っていただきました。


●生涯の師・安岡正篤先生との出会い

 安岡正篤先生に初めてお会いしたのは、昭和二四年のことでした。ちょうど創設したばかりの日本健青会の顧問に就いていただくようお願いに上がるためでした。じつは、それまで私は安岡先生のことをよく知らなかったのです。偉いたいへん立派な方くらいの知識しかなかったのですが、ともに健青会を創設した末次一郎(〓すえつぐいちろう)さんが、安岡先生に私淑しておりまして、そのご縁で、お願いしようということになったのです。
 話は少々逸れますが、日本健青会は、戦争によって荒廃した日本を青年の手で立て直そうという志に燃えた人たちによって結成されました。
 街頭で演説したり、各方面に働きかけたりしました。たとえば、不当に戦犯とされた方たちの名誉回復。捕虜に牛蒡のキンピラを食べさせたのを、材木を食わせたとして、捕虜虐待に問われた方もいらっしゃいましたから。シベリア抑留時に、洗脳された赤化抑留兵たちを、舞鶴港に迎えて引揚列車の車中で抑留部隊を調べたり、その動向を調査したりしました。
 こういう活動を行う上で、戦前・戦中の過ちをくりかえさないために、指導してくださる人物の必要性を痛感し、安岡正篤先生のお名前が挙がるようになったのです。
 当時、安岡先生の秘書を務めていた林繁之さんを通じて、面会が決まりました。日銀のすぐ前に、先生が主宰される師友会の事務所があり、私は末次さんと一緒に参りました。
 林さんからは、安岡先生はとても厳しい方で、自分は先生の講義を七、八時間正座して聴いたことがあるという話を聞いておりましたので、私たちはとても緊張していました。
 ところが、実際の安岡先生はとても優しい方でした。当時、四十八歳だった安岡先生は、二十七歳の私に対しても対等に話され、けっして先輩面されるようなことはありませんでした。誰に対しても、同じ態度で接しておられる。その様子を見て、心から「学識だけではない。この方は、本当の人物だな」と思いましたね。
 先生は「自ら修めて国家社会の役に立つ。それだけでいい」とおっしゃってくださり、健青会の顧問就任も快諾していただきました。

●縁尋機妙(〓えんじんきみょう)――安岡先生の教えと励まし

 その後も、安岡正篤先生への師事は続き、今でも私淑しております。
 先生は、よく私たちに「無名有力の人になれ」とおっしゃていました。名を求めず、世の中の役に立つ人間になれということです。
 戦後の混乱に乗じて、高級将校や知識人のなかには、不見識なことをする者がずいぶんいたのです。混乱期には、地位や権威など何の役にも立たないんですね。そういう人間を見るにつけ、安岡先生の教えは、その広毅な見識と風格とともに、私たちの心に刻まれました。学問とは、ただ知識を増やすことではなく、人間を作ることである――これは、安岡先生の立ち居振る舞いから教えていただいたことです。
 昭和五四年、私は『わが補佐道』を上梓しました。その際、原稿のゲラを安岡先生にご覧いただく機会に恵まれました。この本に、先生は序文を書いてくださったのです。序文は、「此の書によって我々も晏子(〓あんし)に親炙し、四焉ができる。まことに善書である」と結ばれています。この序文を書いてくださるとお聞きしたときは、本当に嬉しく感謝しました。同輩からは、ずいぶん妬まれたものです(笑)。
 話は戻り、昭和三九年、当時、参議院議員松平勇雄(〓いさお)先生の秘書時代に、日本健青会の研修で沖縄に行きました。私は旅をすると、報告書代わりに歌を詠むことにしています。沖縄には、昔の日本の良さがまだ残っていました。とくに、女性の慎ましさや献身ぶりには、心を打たれました。その感動を、私はこう詠みました。

  その海の 深き碧みの さながらに

       つつましかりし 沖縄乙女

 この歌を安岡先生にご覧いただいたとき、「これは、良い歌だよ」とお褒めの言葉をいただきました。嬉しかったですね。

●もう二人の師――松平勇雄先生と厳父・五郎

 松平勇雄先生と初めてお会いしたのは、終戦の翌日、昭和二〇年八月十六日のことでした。昭和二六年五月以来、私は松平先生の秘書として、三十七年もの長きに渡ってお世話になりました。参議院議員秘書、国務大臣行政管理庁長官秘書官、福島県知事政務秘書と、国政、地方行政に深く携わりました。
 松平先生は、幕末の会津藩主・松平容保(〓かたもり)のお孫さんにあたる方です。参議院では他の議員から「殿様」と呼ばれていましたね。
 松平先生は、先生は私をとても大切にしてくださいました。ふつう、参議院会館では、秘書は手前の部屋にいるものですが、松平先生が「なべさん、君の机、こっちに持って来いよ」とおっしゃったので、議員室で、私は先生と机を向かい合わせにしていました。これを見て、周囲の人たちはたいへん驚いていましたね。
 松平先生は、私が諫言したときは「君がそう言うなら」と率直に受け容れる、度量のある方でした。こういう信頼関係があってこそ、補佐も役目を全うできるんですね。そういった意味では、知事と秘書というよりは、主君と家老のような関係だったのかもしれません。
 安岡先生、松平先生とともに、私にとっての恩師と言うべきは、やはり父でしょう。私の家は、久留米藩有馬家の家臣の出で、戦後まで、我が家の戸籍には「士族」とありました。
 父、五郎は、西郷南洲(隆盛)を敬慕しておりました。「敬天愛人」など、南洲の教えをよく用いながら、私を武士の子としてしつけました。

  幾度か辛酸を経て志始めて固し/丈夫は玉砕すとも甎全を恥づ
  一家の遺事人知るや否や/児孫の為に美田を買わず

――この西郷南洲の詩が家訓でした。父は、常々「財産は残さない。独立自尊せよ」と口にしていました。
 日常の心得としては、三つ――一つは、「男として、恥ずかしい事はするな」。二つ目は、「難易の二途があれば、難を選べ」、つまり、二つ道があれば、困難なほうを選べということですね。三つ目は、「男子は食に対して不平を言ってはならぬ」。幼いころから、この三つを叩き込まれましたね。
 父親と私とは、食事の場所も他の家族とは別席でした。私は長男でしたから、それだけに侍の子として厳しくやられましたよ。でも、父の教えと安岡先生の教えはひじょうに近かったので、安岡先生にも、すぐに飛び込むことができました。まさしく縁尋機妙(〓えんじんきみょう)ですね。


■聴き書きを終えて 120字×40字×3行

 古武士然とした渡邉五郎三郎先生は、御年九一。今も矍鑠とされ、対面してお話を伺っていると、背筋がピンと伸びました。しかし、緊張感を強いられるようなものではありません。気品が横溢する場は、先生の品格がもたらしたものです。そのとき、点った志の灯は、今も燃え続けています。

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■写真(キャプション)

渡邉五郎三郎先生

五郎三郎先生の御尊父・渡邉五郎さん

安岡正篤先生