22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2009年11月

■5(木)諏訪 木崎氏面会

■6(金)上越 小林氏面会

■7(土)新潟


■19(木)
飯田橋 19:00
上野  21:15 あけぼの

■20(金)
青森   9:56/10:01 スーパー白鳥
函館  12:02/12:25
札幌  15:43/15:46
江別  16:10 富士屋旅館

■21(土)
札幌 8:44
野幌 9:04/講演(10-15)/17:23
岩見沢 17:58 オホーツク7号
旭川 19:05

●比布神社訪問。鎌田宮司面会。

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*ケータイ紛失……

●22(日)

旭川

札幌 22:00 はまなす *橋本氏面会

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●23(月)
青森  5:39/6:04 いなほ8号
新潟 12:47 *村山氏面会

東京

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今や、すっかり全国区となった旭山動物園――。旭山動物園から車で数分のところに、旭川神社があります。中心市街地からだいぶ離れたこの地に、本家「旭川」を称する神社。さらに、旭川神社には「兵村記念館」という私設博物館があり、屯田兵の暮らしぶりを今に伝えています。北海道開拓の歴史は、屯田兵の歴史――旭川神社宮司・芦原髙穂さんが、「情熱と行動の人」、父・芦原巖夫さんの思い出を語ります。

●「神主は、郷土史の専門家でなければならん」

「神主は、郷土史の専門家でなければならん」が、父の口癖でした。私も神主なので、よくわかりますが、神社と郷土史は密接な関係があるんですね。だから、父が屯田兵の歴史に興味を持ち、兵村記念館を造ったのは、当然と言えば、当然だったと思います。
 昭和三七年に、東旭川町開村五十年を記念して、東旭川町史を編纂するという話になりました。その編集員に父が抜擢されたのです。旭川屯田の末裔ががんばっている時期で、今のうちに記録しておこうという狙いもあったようです。この仕事がきっかけになって、兵村記念館の構想が具体化したのだと思います。
 最初は、古い拝殿を使って展示しました。私も手伝いましたよ。昭和五五年頃、古い民家に、父と出かけて、板壁を剥がして、床板を剥がしたりと、解体作業を行いました。その後も、運転手として、展示品集めを手伝いました。層雲峡まで、旭川屯田の末裔の家にも行ったことがありましたね。
 父の実地の行動からは、多くを学びました。講釈ばかりでなく、行動する。思いついたら、即行動。「体を動かさんと、何も始まらない。今、もらわんと、散逸してしまう」と言っては、飛び回っていました。唐箕、唐傘、タコ足などの農機具などを収集していました。あるときは、釤(〓おおがま)を使っている人に、「それ、よこせ」と言っていましたね(笑)。
 こうした物が車庫に運び込まれ、順次展示していったのですが、近隣の人たちには「神社は、いつから雑品屋になったのか」と言う人もいましたね(笑)。
 最初は、保存状態が良くなく、「こりゃ何とかしなくてはならん」と父は言っておりました。そんなとき、東旭川農協の組合長の橋場さんが、記念館を一つの形にしようとおっしゃってくだいました。地元の人たちからも、そういう声が上がり始め、各方面からの助成を受けて、昭和五七年四月に、兵村記念館が開館したのです。
 ガラスケースに入れて展示するようになってからは、周囲の評価も高まりました。小学校からも、ずいぶん社会見学に来ていましたね。

●幻の「上川離宮」構想と東旭川兵村

 屯田兵が入植した場所には、先ず神社がつくられました。木柱に神様の名前を書いただけというものも含めて、必ず神社ができました。芦原の初代は松山にいたのですが、ここは四国松山の出身者が多いこともあり、当時、体を壊して隠居していた初代に声がかかったのです。二代目は、松山中学に在学中でしたが、中途退学して、ここに来たということです。明治三一年のことですから、もう百十年にもなるのですね。
 入植した当時、このあたりは真っ暗け。昼でも、真っ暗け。日の当たらない、鬱蒼とした森でしたから。だからといって、むやみに木を伐ると、今度は洪水が起こる。昭和に至るまで、毎年のように橋を架け替えたり、土手を作ったりしてきたのです。これらを全部人力でやってきたのですから、たいへんな苦労がありました。
 屯田兵制度は、元々、士族救済と北海道防衛のために発案されました。薩摩の黒田清隆の発案で、明治七年に制度ができました。北海道開拓は、この屯田兵制度なくしてはあり得ません。なかでも、旭川は「上川百万石」と呼ばれ、北海道一の米所として知られ、先駆的で代表的な地域として発展しました。とくに、中心地であった、ここ東旭川には、松山藩の家老職にあった人たちが三人も来ています。また、北海道庁初代長官の岩村通俊のぶち上げた「北京(〓ほっきょう)構想」では、離宮建設計画が持ち上がりました。京都出身者が多いのも、そういう理由からです。こういう兵村は、他にはありませんね。その後、軍都として栄える旭川の礎は、ここ東旭川から始まったと言ってもいいでしょう。

●行動と情熱の人・芦原巖夫のあゆみ

 行動と情熱の人であった父ですが、若いころは体が弱く、入退院を繰り返していました。戦争では、シベリアに抑留されて、たいへん苦労しました。そのとき、ソ連の衛兵がパンを横流しを通報したというエピソードを聞きました。自分たちのところに来るべきパンが来ていないということで、不正を暴いたのですね。仲間が毎日のように、死んでいくなかで、生きるために命を懸けたのでしょう。父らしいエピソードです。
 こうした体験から、四年間で体質ががらっと変わったそうです。粗食にも耐えられるようになったし、体もだいぶ頑健になりました。
 そんな父も復員した当初は、左翼的な言動を言ってまわっていたそうです。マルクス主義を刷り込まれたんですね。共産党にも入って、「十年以内に、神社はなくなる」とも言っていたそうですよ(笑)。
 ただ、そうした行動も、ソ連に連れ戻されたり、残された同胞が痛めつけられる恐怖があったからだと思います。共産主義の言う理論闘争の持っている矛盾には、早々と気付いてはいたようですから、まもなく転向しましたが。
 戦後、父はやけ酒を飲んだりせずに、一生懸命勉強していました。勉強はよくしていましたね。神社本庁による神主さんの試験があるんですが、「明階」を昭和二六年に合格して話題になったこともありました。
 勉強だけでなく、神主として地域社会にも向き合いました。「動かんきゃ、だめ」と言っては、真冬の団地にお札を配りに行きました。このあたりにも新しい家や団地が建ち始めたので、そこを回っていたのです。零下二〇度という寒さのなか、新年のお札を説明しながら回る。本当に、よく動きました。夜九時くらいになってようやく帰ってくるほどでした。私も同行しましたが、父の精神力には、心から敬意を表しましたね。

■聴き書きを終えて 120字×40字×3行

 旭川神社に、芦原宮司の取材前夜、比布町に鎌田告人宮司を訪ねました。到着する頃、町はすっかり雪化粧。こんなに美しい雪を見るのは久しぶりのことでした。鎌田宮司の透徹した理論と、酌み交わす酒を交えた洒脱さに、私はすっかり脱帽。幼馴染みである芦原宮司にお目にかかる前に、すっかりお話を聞き終えてしまったかもしれません。

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■写真(キャプション)

芦原髙穂さんと上田良博館長

芦原巖夫さん

兵村記念館

旭川神社

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岩嶋一雄さん(昭和六年六月一九日、新潟県生まれ)は、新潟大学高田分校を卒業し、中学校教師に。旧制中学以来、佐藤策次先生の謦咳に接しました。岩嶋さんの恩師・佐藤策次さんは、東京高等師範学校(後の東京教育大学。現在の筑波大学)在学中、漢学の大家・諸橋轍次(〓もろはしてつじ)先生に出会い、人生の転機を迎えました。直江津中学校長として活躍後、直江津市長に就任。佐藤策次先生の思い出を岩嶋さんが語ります。

●”超能力”の持ち主・佐藤策次先生

 佐藤策次先生は、非凡な才能をお持ちでした。それは、超能力と言っていいくらい(笑)。ご専門の国語は言うまでもなく、水泳、野球、スキーといったスポーツから芸術、さらには政治にまで、超能力を発揮されました。
 高田中学(旧制)がスキーの全日本大会で大学生たちを破って優勝したのも、先生の鍛錬の賜です。夜中の二時頃、妙高山の池ノ平スキー場を上まで登り、そこから滑り降りるという訓練をしたそうです。日の出前で凍っているので、とんでもないスピードが出る。この訓練が、優勝に導いたのですね。
 日本一流の舞踊家である藤間喜與恵(〓ふじまきよえ)先生と創作舞踊の檜健次先生を、佐藤先生が直江津にお招きした時のことです。藤間先生が踊られている時の眼の動きまで、一番後ろで見ていたにも関わらず、佐藤先生は見逃さなかったと、藤間先生がびっくりされていましたね。
 この時、檜先生の伴奏をしたのが世界的な作曲家、宅孝二先生です。まだ無名だった宅先生の才能を佐藤先生が見出して、舞踊公演の中でピアノ公演も実施したのです。たしか「火祭りの踊り」を弾いていただきましたが、ピアノが踊り出すようでした。
 さらにその後、ご一緒にいらっしゃった芦野宏さん。当時、宅先生の教え子だった芦野さんに、佐藤先生は「あなたの声量を聞くと、シャンソンの世界はどうでしょうか」とおっしゃったのです。今でこそ、芦野先生は著名なシャンソン歌手ですが、そのきっかけとなったのは、佐藤先生の一言だったと思います。
 高田高校が体操で、国体で活躍する元を作ったのも佐藤策次先生です。物がほとんどない終戦直後、佐藤先生は、東京の勢能(〓せのう)体育用品店に、縦横が三尺六尺の三六マットが積んであるのをご覧になって、これを高田高校で買い求めたいと言われました。勢野は、各県に一枚ずつ配る予定として難色を示しましたが、佐藤先生は粘りました。先生は、体操で終戦後の沈んだ気持ちを生き返らせたいと思ったのでしょうね。それが叶って、五十五枚のマットすべてを高田高校が買ったのです。真新しいマットに生徒たちは喜んで、マットが擦り切れるまで練習しましたよ。
 私は中学二年までは剣道部でしたが、八月に終戦を迎え、剣道柔道は戦争好きの原因として廃部になりました。中三の一年間はぶらぶらして、四年生の時に、友達から誘われて体操部に入りました。毎日、へとへとになるまで練習しました。
 そんな時、団体徒手体操が初めて国体の正式種目になりました。私たちが四年生の時は石川県、(新制)高田高校二年生の時は福岡県、三年の時には、横浜で開催された国体で優勝しました。高田高校が体操で一躍有名になったのも、佐藤策次先生のおかげです。

●「文部省を教育するような学校にしたい」

 佐藤先生は、昭和二二年に、直江津中学校長に就任されました。先生は校長に就任すると、まず図書館の整備に着手されました。当時の図書館には、本がほとんどなかったので、先生たちを連れて、東京神田の古本屋街に行き、リュックサック一杯に本を仕入れて帰ってきました。
 図書館が充実してきた頃、佐藤先生は、遣米視察団の一員としてアメリカに行かれました。昭和二五年頃のことです。現地で、アメリカの関係者に、「日本は、戦争には負けたが、大東亜共栄圏の建設を目標にして戦い、アジアを植民地から解放したのだ」とおっしゃったそうです。すると彼らは「あんたはいいことを言う」と感激していたそうです。先生は「命懸けだった」と言っておられましたが、まさしくその通りだったのでしょう。
 新潟大学高田分校卒業後の昭和二七年、私は直江津中学に教師として赴任しました。新年度の全体職員会議で、佐藤先生はこうおっしゃいました。「私は勉強をしない先生は嫌いです。自分が良いと思ったことは、積極的にやってください。この学校を去るときに、大過なく、なんて言葉を出さないでもらいたい。それで、失敗することがあっても、自分が責任を負う。私は、文部省を教育するような学校にしたい。さらには、直江津市民の教育もしたい」
 私はこの言葉に感動しました。今でも当時の様子は瞼に焼き付いています。そんな佐藤校長のもと、私は教師生活を始めました。勤め始めは、生徒たちを静かにさせることができなくて苦労しました。そんなときは、「これで教員が勤まるのかな」と不安になったものです。
 騒ぐ子を一度だけ叩いたことがありますが、叩くことは教育にはならないと反省し、その後は、睨むことにしました。以来、「鬼の岩嶋」と呼ばれるようになって、「先生、睨まんでください。叩かれたほうがいい」と生徒に言われるほどになりましたが(笑)。
 それでも、何度も戸惑いはありました。そんな時、佐藤先生から「指導した子供には、事後の指導を」と助言していただきました。叱りっぱなしではなく、その後、しっかり声をかけてあげる。これができるようになって、私の生徒指導はようやく一皮むけました。佐藤先生は、誰に対してもつねに温情を持って接していましたね。

●「日本のことを知らないで、日本人が育てられるか」

 一流の人たちに接しさせたい――これが佐藤先生の教育方針でした。先ほどお話ししました創作舞踊の藤間先生や檜先生、能狂言の人間国宝である山本東次郎先生。東京芸大のオーケストラ、関西学院のグリークラブ、大塚工藝社の工芸版、さらには、ウィーン合唱隊まで。直江津中学の生徒だけでなく、直江津市民にも見せました。佐藤先生の熱意と人格に惹かれて、多くの一流の方々が直江津に来てくださったのです。
 ウィーン合唱隊が来たときは、直江津中学体育館で交歓会が開かれ、あの体育館に三千もの人が集まりました。このとき、直江津中の生徒たちは、オーストリアの国家を歌いました。これに感動した合唱隊は、次に来たときには、日本国国家を覚えて来ましたね。
 今で言う能力別授業も実施しました。千二百人の生徒を三段階に分けて授業をしましたが、当時も差別の問題などで実現が難しかったのです。実現できたのは、日頃から地域PTAといった場で、先生方が地域の皆さんとお話しする機会があったのだからだと思います。大学の先生も見学に来ていました。また、宿屋、お寺、商人といった市民が教壇に立つという試みも行いました。直江津中学は、時代を先取りしていました。
 国語教育においては、副読本を用いて、万葉、古今、新古今から平家物語、徒然草といった日本の古典を重点的に教育しました。先生方も、率先して勉強しようということで、毎週土曜日は二時頃から、日曜は都合を合わせて古典の勉強をしました。「日本のことを知らないで、日本人が育てられるか」というのが、佐藤先生の持論でした。当時の直江津の熱気は、こうした佐藤策次先生の熱意から生まれたのだと思いますね。

■聴き書きを終えて 120字×40字×3行

 今回のインタビューは、上越市議会議員・小林克美さんのお引き合わせで実現しました。小林さんは、岩嶋さんの中学時代の教え子。団塊の世代の小林さんの学年は、全校生徒約二一〇〇人。これだけの生徒が、岩嶋先生が講堂に入った途端、水を打ったように静まりかえったそうです。「鬼の岩嶋」の異名を取った岩嶋さんですが、今は円熟の笑みを満面に浮かべ、近隣の方々に百人一首や古典講座を教える日々を送られています。佐藤策次先生から受け継がれた精神は、岩嶋さん、そして小林さんに受け継がれようとしています。

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■写真(キャプション)

岩嶋一雄さん

故佐藤策次さん

写真提供:佐藤敏さん

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