22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2007年07月

リクルートに転職が決まった時、ちょっとしたドライブ旅行をした。

初日は、上野原から、秩父を経て群馬町の鴨下君宅で宿泊。

2日目は、軽井沢から草津、日本ロマンチック街道を経て、日光へ。
さらに北上し、会津若松へ。そこで宿泊。

3日日は、只見線沿い、千曲川沿いに南下し、飯山。
道の駅で、車中泊。

4日目の昼、燕温泉に到着。深い感動を覚えたなあ。

長野オリンピックがあった1998年の5月だと記憶している。

以来、燕温泉は大好きで何度も訪問している。

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○小疇昌美さん(67)

○小疇昌美(こあぜ まさみ)さんの来し方
昭和15年4月21日国立生まれ。生まれも育ちも国立。実家の文房具店「金文堂」を切り盛りし、現在もレジに立っている。

東京では珍しい苗字は姫路出身のご主人とご結婚された小疇さん。高架化工事が進み、面影が全くなくなってしまった国立は、古くから学生街の玄関口としてにぎわいました。三角屋根の駅舎からまっすぐ伸びた大学通り。昭和の匂いが今も漂う国立駅のお話を、本当に想い出となる前に伺いました。(今井)

 うちの並びに白十字っていう、喫茶店があるんだけど、その前は一橋館(〓いっきょうかん)っていうね、一橋の学生がほとんどだったんだけど、その寮っていうの、下宿屋さんだったのよ。
 その一橋館の端っこにね、ほんとにちっちゃなお店を出したのね。それが昭和二十二年頃かな。一橋館の一室じゃないけど、端っこを借りてお店をやったのね。それが最初。
 その後、駅前の日本通運の寮が燃えちゃって、その土地をたましん(多摩信用金庫)さんが買って、この一角を売りに出したの。それでここにうちだとか「ロージナ茶房」だとか「邪宗門」(注:どちらも喫茶店)だとかみんな同じ頃にできたのよ。
 それでうちがビルに建て替えちゃったのが昭和四十七年、白十字が四十八、九年にビルにしたのよね。「銀杏書房」ってあるでしょ、洋書屋さん。あれは古いのよ。うちより古いかも知れないよ。戦前からあるんだと思う。
 その前は駅前にあったのはね、一番角が燃料屋さん。練炭だとか、昔で言うならね。井出さんっていって――今も桐朋(学園)のそばに住んでらっしゃるけれど――そのもうあと二軒隣りがね、エピキュールっていって喫茶店、食堂っていうような、学生街のお店っていう感じのお店があったね。
 でも私はエピキュールには入ったことはない(笑)。結局まだその頃の学生は、喫茶店なんて。大人が入る店だから、入れなかったからね。
 今たましんがあるのが、日本通運の社宅だったのね。それでね、三階建てかな、四階建てかな。ビルみたいなので建ったんだよね。
 それがね、何年だったかな、昭和二十八年くらいだったかな。焼けたので、それを取り壊してその後たましんさんが建ったのよ。
 そこのたましんを建てる前は広場だったから、そこで街頭テレビもやってたわね。力道山とかね、やってましたよ。のんびりした雰囲気だったね。
 それこそ雨が降れば水浸し、冬になって木枯らしが吹き始めれば砂埃。舗装はされてないしね。でも街路樹はあったよ。この桜と銀杏は箱根土地が植えていったやつだから、うん。
 もちろん大学通りもこんなきれいに整備されてなかったし花壇もなかった。猿回しがね、桜の木の下で。猿回しとかさ、蛇遣い――ハブの蛇ね――をやって、ガマの油じゃないけれど、薬を売るとか、いろんな人たちがここの桜の下でね、やってたよ。
 一年中いるわけじゃなくて、大道商人っていうのかな、一年に一回とか二回とか来るような、そういうこともあったね。今はもう。それも三〇年くらい前までだね。蛇を見せる見せるっていってやってたけど、とうとう見なかったけど(笑)。
 駅のあの三角屋根はね、毎日見てるとね、それほどの想いはなかったんだけどやっぱりなくなると寂しいよね。あって当たり前なのよね。私たちの感覚はね。
 武蔵小金井にも三角屋根の建物があるんだってね。それも国立より三ヶ月早く駅としてできたらしいけど、まだあったんだって。国立があまりにも騒ぎすぎてるから向こうはなくなってもいいっていうことらしいなんていっている人がいたね。
 こちらは反対運動があるからね。また復活するんじゃないの、五年後くらいらしいから楽しみに。できたら今の場所にないと意味ないような気もするけどね。
 今、お店には学生さんはほとんど来ないもの。結局学校の中にお店が入ってるから。
二十年くらい前まではね、留学生が来るでしょ。そうすると、うちなんかにみえたときに、いろんな話をしたわよね。
 三年経って帰国するときに「帰ります! 遊びに来てくださいね、お世話になりました」っていって帰っていったものよ。今はそんなことないからね。あの頃も結構いたのよね、東南アジア系の方だけれどもね。今はトップに上りつめているんじゃないですか(笑)。
 駅舎がなくなるっていうのが報道されたでしょ。そうすると、「何年前の卒業なんですけど、報道を聞いてきてみたんですけど変わりましたね」とか「何十年ぶりで来た」っていう方も結構いらっしゃいましたよ。
 国立は著名な作家さんも結構いらっしゃいますよ。でも(石原)慎太郎さんなんかはいらっしゃらなかったけど(笑)。嵐山光三郎さんとかよくみえますよ。あと、山口瞳さんもみえたし。瞳さんは亡くなっちゃったしね。

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○中村邦夫(なかむら くにお)さんの来し方
昭和十一年九月二日生まれ。昭和四〇年、飯田橋で「神田事務用品」を開業。飯田橋商店街振興組合の創業メンバーで、現在は代表理事として地域の人々と共に、飯田橋商店街の活性化のため、様々な取り組みを実施中。

 東京都文京区後楽町で生まれました。飯田橋の近くね。
 しばらくして埼玉に移り、学生時代にはまた東京に戻ったんだけど、卒業してから今度は福島に行って働いていました。でもなぜか飯田橋には縁があったみたいで、昭和四〇年に飯田橋に戻ってきた。そこで今の店を開いてから、ずっと飯田橋だね。
 当時は店の前を都電が走っていましたね。今のJR飯田橋駅の近くに都電の駅があってね。早稲田まで一直線。早稲田や神保町まで、よく都電に乗って行きましたよ。
 おもしろいのがね、道の幅は都電が走っていたころと全く変わらないところ。道の中央に都電が走っていて、その両脇に車が走っていたんだよ。ただ、交通渋滞がひどくてね。なかなか時間通りに走らない。車社会の波も押し寄せてきて、結局都電が廃止になっちゃったんだよね。
 当時は私も車の方がいいと思っていました。都電は邪魔だってね。今思うと都電は懐かしいですけどね。
 駅前の歩道橋ができたのは、ちょうど東京オリンピック開催のころだったかな。いつの間にかできていたね。当時は車が優先だったから、車の邪魔にならないように、歩道橋を作って人を上に登らせようって考えだったんだね。今は車より人が優先。時代の流れは変わるもんだね。
 駅前にラムラってビルがあるでしょう。あそこはね、当時はお堀だったんですよ。飯田堀っていってね。私が四十代のころだったかな、それが開発されるっていうんで、飯田堀を守る会っていうのを立ち上げて、地域住民と一体となって反対運動をしました。けっこう盛り上がりましたよ。
 当時は飯田町――甲武鉄道飯田町駅ね――今のJR貨物があるところから貨物列車が走っていました。
 飯田橋は印刷、製本の街だったんですよ。紙の流通基地。この貨物列車で製紙を日本全国に運んでいたんだね。今のJR飯田橋駅には何本も路線が走っているでしょう。あのうちの一本はこの貨物列車用の路線だったんですよ。牛込御門のそばにあった終点の駅が、JR飯田橋駅に統合されてね。
 そうそう、当時は「飯田橋」なんて名前はなかった。町の名前も全部「飯田町一丁目、二丁目…」ってね。出版社も今よりたくさんありましたよ。でも、印刷や製本っていうのは、場所を取るし公害にもつながるんだよね。この辺は場所が狭いからみんな郊外に移ってしまった。
 昔から飯田橋は下町庶民の街。みんな人が良くてね。それが飯田橋のいいところかな。バブルのころは、街全体が活気付いていて良かったね。店にもとにかくだまっててもお客がじゃんじゃん入ってきたね。
 そのころは通販なんてないでしょう。会社の人たちがたくさん買いにきました。当時は、二割引きセールだとか在庫処分セールをやったら、どんどんお客が来て大繁盛だった。あのころは本当によかったですねぇ。今じゃ二割引き、三割引きなんて当たり前だからね。
 でも、バブルの影響で土地が高くなって、周りのお店はずいぶんなくなっちゃいましたよ。店をたたんで外に出て行ってしまってね。個人商売が難しくなってしまってね。
 外食屋ももっとたくさんあったんだよ。おじさんやおばさんが個人経営でやってる泥臭くていい店がね。朝食や昼食にはよく食べに行っていました。でも、バブル時代には、そんなお店もどんどんなくなっちゃってしまいましたね。
 そこで、飯田橋の街をにぎやかにしたいという思いから、昭和六十三年頃に飯田橋商店街振興組合を立ち上げました。立ち上げた当初、商店街で福引大売出しイベントなんかをやりましたね。大盛況でした。商店街は繁盛するのが最大の目的とよく言われるけれど、私がいつも言っているのは、いくら個々の店が良くても、街全体が良くならないとだめだということ。街が良くなれば、店の繁盛にもつながるからね。
 イベントは一昨年ぐらいまでやっていたんだけど、イベントにたくさんのお金を使っても、結局その場限りで終わってしまう。最近は、こういうイベントよりも、本当に人々が街の集まるために必要なことにお金を使っていきたい。
 今、携帯がすごく流行っているでしょう。やっぱり若い人に親しんでもらえる街にしていかないといけない。これからの課題は、パスモやスイカが使えるような商店街にしていきたいですね。

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