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森田俊一さんは昭和13年6月22日の生まれ。、総武線ガード下にある秋葉原ラジオセンターの中で「東京科学無線電機商会」を経営していらっしゃいます。秋葉原はご承知の通り、近年では電気街からアニメ・オタク文化の発信地へと広がり、世界的にも有名な街になりました。周辺の再開発も著しく、駅に隣接する神田市場跡が秋葉原クロスフィールドとなり、つくばエクスプレスが開業するなど、目まぐるしく変わっていきます。そんな中、ガード下でバラの電子部品を売る古くからの店も健在です。今回はの「駅の記憶」は、秋葉原電気街の移り変わりを伺いました。


―ラジオセンターには古くからたくさんのお店が軒を並べていらっしゃいますね。「東京科学無線電機商会」さんは、いつごろからご商売をやっていらしゃるんですか?

昭和30年代くらいからだと思うんですけど。父の代から。父が商売を始めて、昭和30年代後半に私が手伝いをしはじめたんですよね。ですから、この辺りは長いんですけど。

―ラジオセンターは昔から今のように部品屋さんが並ぶお店だったのですか?

お店は2階までありますが、以前は今みたいな状態ではなかったらしいです。だいぶ前とは様子が違いますね。
2階はね、一番端は食堂だったんです。カレーライスとか、飲み物とかね。なんかいろいろやってましたよ。買い物に来た人がちょっと休めるようになってたんです。
自分はあんまり近くで食べたことないんですよね。よく食べに行くのは、道路渡って向こう側に古くからうどん屋だかそば屋だかがあって、そこによく食べに行ったんですよ。今はないですけどね。

右手の奥のパソコン屋さんの前は、テレビがあったんですよ。テレビのキットなんて珍しいのがあったの。キットなんですよ。
テレビは、そうねえ……値段は高かったけど、よそで売ってるものより安かったのね。自分で作る分ね。サイズは、だいたい14型の大きさでしたよ。今そのお店はないんですけど。

―わたしも子供のころに秋葉原で電子部品を買ってラジオをつくりました。当時を思い出して、どのような雰囲気でしたか?

ええ、いっぱいお客さんは来ましたよ。うちは子供が多かったね。小学生、中学生がわんさと来てね。結構長い間ブームは続きましたよ。いつごろ陰りが見え初めたのかなあ……、あぁ、ファミコンなんか始めたころだ。
昭和50年代の終わりころから、ファミコンができて、それからパソコンのゲームとかね。ゲームが流行り出したね。だんだんね。で、ゲームに夢中になるから、ラジオとかねいろいろなものをつくるっていうのが少なくなったんだろうね。
今では電子回路も学校では教えていないんじゃないかしらね。

―今は子供達はあまり来なくなってしまったんですか。

たまに自分の子供にやらせるのに、親が連れてくるんですけどね。昔は子供が友達同士で買いにきたものですが、今は親が面倒見ないと、やらなくなってきた。今は子供が来ないから、お客さんがひとつ上の世代だけになったね。

あとね、このへんの店は中古のテレビが結構置いてあったんです。なかなか今みたいにテレビ買える時代じゃないから。
白黒からカラーに移ったあたりだね。

それから、ジャンク屋さんっていって、古い品物を置いてあったお店があったんだね。売っているのは、半分壊れたものや使えないようなものもある。ラジオの中身だけっていうのもありますよ。
そういうものを結構探して、みんな買っていって。それにいろいろスピーカーとか自分でつけて、直して聴いたいたんだよね。
昔はね、テレビ壊れたって直すし、そういうものから最後には部品を取るしね。みんな捨てずに使ってましたよね。

真上を総武線が走ってますけど、あんまり気にならないですね。というのは、人がたくさん入ってたから。賑やかだったからあんまり気にならなかったんだね。だいたい、お客さんが店の前にずらーっといるような状態です。通路を通れないくらいでね。



―秋葉原も高層ビルが建ち、だいぶ雰囲気が変わりました。駅前の移り変わりを見ていらして、いかがですか。

「やっちゃば」って言ったんですけどね、八百屋市場があったんですね。神田市場だね。今は大田市場に移ってるけど。
そのころは、野菜を買い付けに大勢朝早くから人が来るから秋葉原全体が賑やかで活気がありました。そういう人も入れてね。まあ、そうねえ。いろんな人が来てごったがえしてたんじゃないかな。
こっちには来ないんだけどね、駅前は賑やかで。食堂がたくさんあったんです、そういう人たちが食べるね。裏にずっと、市場の周りにあって。そこ行って昼飯食べたりしました。食堂もたくさんあったからね、そこに食べにきたり働きにきたりする人も多かったんじゃないかな。

最近は食べ物屋さんからは縁遠くなってきましたね。あんまり庶民的な食べ物屋さんがないしね。ビルの中に入っている値段が高そうな店はあるけど、大衆食堂みたいなのがない。

―電気街としてはいつころから知られるようになったんですか?

終戦後のことはよくわからないんですが、親父が戦争から復員して。元々電機会社で働いていたんだけど、その工場が焼けてしまって、働くとこがないからっていうんで、焼けたところから部品やなにかを持ってきて、露店で始めたんです。
それはね、もっと向こうの小川町のほうだった。
その露店商は神田駅寄りに多かったのね。むしろ神田駅のほうが賑やかでね。だんだん流れてきて。

で、露店商は置けないっていう法律ができて、それでこういう小さなお店が…道路の向こうにラジオデパートが、
でこっちにラジオセンターができて、電気街としてだんだん定着してきたんじゃないかな。

建物の中に小さいお店がたくさんでき始めてから、秋葉原駅からたくさん人が降りて買い物に来るようになったんですよね。
前はね、神田駅から降りて、秋葉原駅へずーっと歩くのがお客さんの買い物ルートだったんですよね。中央通りの両端に電気屋さんがあってね。

今のラジオガーデンってありますよね。中があんまりお店閉まっているようだけど。あそこに前、うちの店があったんですけど、そこもすごく賑やかだったですよ。それでだんだんこちらへ移ってきたから、うちもこっち移ったんです。それが昭和30年代の終わりころ。

その後、家電屋さんがたくさんできるようになったでしょ。サトームセンとか、ヤマギワ電気とかね。それでお客さんが向こうへどんどん行くようになってきて。たいがいの人は、秋葉原へ来れば安く買えるっていうんで、三種の神器って言いましたけど、カラーテレビ、洗濯器、クーラー……それでたくさん売れたんじゃないかな。

昔は部品がよく売れましたよ。要するに個人のアマチュアのお客さんばっかりじゃなくって、工場の人も結構よく買いに来たからね。そういうメーカーの人もまとめて買いにきたから、よく売れましたよね、
パソコンのソフトからいろいろ派生してきて、インターネットができて。ずいぶん変わりましたよね。

―僕が子供のころはマイコンもキットだったですよ。

マイコンキットってありましたね(笑)。Z80なんてね。
まあ、呼びかけるとしたら「ラジオ少年」たちが戻って来てくれないかなと思いますね。

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