22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2006年10月

小穴四郎(こあなしろう)さんと美津子(みつこ)さんの来し方
四郎さんは、大正14年2月7日、山梨県甲府市に生まれ、学校卒業後は、鋳物工場で働く。
召集前に、志願し新兵教育の後、郡山の航空隊に配属、待機中に終戦。焼け野原の甲府に戻り、再び鋳物工場で働き、そして独立。
 美津子さんは、昭和7年8月16日、甲府市に生まれる。父親が鋳物工場を経営し、なに不自由なく暮らしていた美津子さんでしたが、空襲に遭い、生活は一変。結婚後は、働きものの四郎さんをささえ、現在は、保護司としてのお役を務めています。女学生の時、歌手の東海林太郎を、甲府市内を案内したというエピソードも。



 友人の両親である小穴美津子さんは、友人同様、懐の大きな方で、現在保護司をされています。お仕事の合間にお時間をつくっていただき、聴き取りをさせていただいたのですが、卒業証書や、写真を、ほうぼうから借りて準備してくださっていました。お会いした印象はまさにビックママでした。そして、小穴四郎さんは日本を支えている現役職人さんです。職人さんらしく、口数は少ないのですが、子供のころの話をするときにはキラキラといたずらっ子の眼がのぞく、チャーミングな方です。


不発弾の再利用
私のうちは軍需工場でした。もともと鋳物工場です。戦争中は、大きくて盛んな軍需工場でしたよ。
私の父は戦死。甲府が空襲を受けたのが七月六日でしたね。その二日前の四日に父の遺骨が帰ってきたんです。戦死公報はその前に来ていました。
私の家ではお葬式の準備をしていました。地下室がありまして、大事なものや食料はそこに入れておきましたから、食料なども豊富にありました。軍需工場でしたからね。その食料は、お葬式のため全部その地下室から出しました。ところがそこに空襲でしょ、食べ物は全部焼けてしまいましたね。
鋳物をやっていましたから、私の家には砂がたくさんありました。そして、鉄を溶かした後に残るカスを「のろ」というんですが、その「のろ」の山もたくさんありました。そこへ集中して焼夷弾が……。それが6日の出来事で、その日は父のお葬式も終わって、お客さんたちもまだ帰っていない自分でした。夜になって、警報が鳴ったと同時に、愛宕山に照明弾が落とされたんですが、きれいでしたよー。寿町にいましたから、丁度真ん前が愛宕山だったんです。「きれいだ、きれいだ」と騒いでいるのをよそに、町の人たちは家の前を通って、荒川の土手に逃げる。当時、東京の荻窪から疎開してきた人が別棟に住んでいたのですが、その人曰く、「家の門をすぐに閉めなさい。」って。それから、二つある門を閉めて、家に居たんですが、そのうち、焼夷弾の落ちてくる音が聞こえてきました。ばらばら、ヒューヒューと。母と姉は蚊帳と砂で火を消して、そのそばで私は両手に弟たち、首には父の遺骨の入った箱をぶらさげていました。そのうち、逃げましょう、ということになって、荒川の土手沿いに竜王まで行きましたかしらね。そして、敵機も去って家に戻ってみると、私の家だけが焼けていたんです。周りはなんともなかったんですが、私の家だけ。軍需工場だったので、狙われたんでしょうね。
母は、女学校三年の姉を筆頭に六人の子どもがいましたから、焼け残った材木やトタンでバラックを建てました。
近くの倉庫には、兵隊さんたちの食料の缶詰が入っていたんですが、その缶詰が中でバンバン破裂しているんですよ。それをご近所の人たちと母と姉、私、弟の4人で、リヤカーをひいて拾いにいきました。いいものだけを選ってバラックに持って帰り、それを床に敷いてその上に戸板をのせ、その板の上で寝ました。
空襲警報が鳴るときは、もう敵機がその辺にいるんですよ。富士山のほうから来ますから。私の家には大きな桃の木や柿の木があって、その下に防空壕を二つつくってありました。一つは、物や食料用に、もう一つが私たちが逃げ込むためにつくってありました。
バラックで生活しているでしょ。だから、ある時ね、飛行機が降りて来るのがわかるので、「来た、来た!」って言って、防空壕に逃げ込んだのですが、私が一番最後になってしまったんです。すると、すぐ後ろでバリバリバリと機銃掃射ですよ。見ると、十五センチくらいの弾がたくさん土にささっていました。あと一歩防空壕に飛び込むのが遅かったら、撃たれていたでしょうね。
私の家は、焼夷弾で焼けたのですが、やわらかい地べたのところには、つきささっているんですよ…不発弾が。その不発弾には、先端にいぼみたいのがあるんですが、それを拾ってきましてね。その先端のいぼを回すと、それが取れて開くのですが、五十センチくらいの大きさで、いぼのある反対側には布がついている。それがひらひらしながら落ちてくるんですよ。その焼夷弾の中には生ゴムみたいなのが入っていて、そこに爆弾の油がいっぱい浸み込んでいるので、それを取り出して燃し、木の代わりにしました。よく燃えましたよ、臭かったですけれどね。そしてその布は、わらぞうりを編むときに中に入れるんです。穿くものがありませんでしたから、そうやってわらぞうりを編んだんですよ。私、上手でしたよ。焼夷弾の布、黄色かったですよ、それを編みこんだわらぞうりは上等でしたよ。今でも兄弟集まると、そんな話が出ます。
 家の近所に釜屋さんがありました。お釜を作る釜屋さん。そこのお兄さんは、当時中学生くらいでしたでしょうか。その人が、アメリカ軍が落としたという万年筆を拾ってきて、皆に見せてくれたんです。「わぁ、いいなー」なんてうらやましがって、私と弟は帰ったんですが、後ろでバーンというものすごい音がしたんですよ。吃驚して振り返ったら、お兄さんが吹き飛ばされて壁のところで足を投げ出して座っている格好をしていました。お腹から…中のものが膝まで流れ出ていました。即死だったでしょうね。時限爆弾だったんでしょう。

食べ物は、ほんとにありませんでした
食べ物には、ものすごい苦労しましたよ。ひもじい思いしました。終戦まではわりとよかったんです――軍需工場でしたからね。でも終戦後は、即、財産を封鎖されてしまったんです。一定の貯金はすべて押さえられてしまい、引き出すといっても決まった額しかおろせない。空襲で焼けましたからね、何もなくなってしまったでしょ、買うほかないんですがね。
特に、食べるものがなくてたいへんでしたね。戦後は、配給を貰いに、よく並びました。ない中でもおいしかったのが、かぼちゃを薄焼きにしたもの。お砂糖のかわりにかぼちゃを入れるんです。母が工夫をしたんでしょうね。ふすまの粉の中にかぼちゃを入れて薄く焼くんです。それはそれは甘くておいしかったですね。あとは、さつまいもとか。お米なんて食べられませんでした。
母はピーナツやじゃがいもなどをつくっていました。子どものおやつにと思ったんでしょうか。父が戦死して、母が六人の子どもを育てたわけですから、厳しかったでしょうね。

戦争中、学校では先生に「これは大事なことだ」といわれれば、何の疑問も持ちませんでした。不安もありませんでしたね。一番厳しくなったのが小学校六年生。女学校一年生でしょ、その頃には授業はなかったですから。ほとんどが動員といって、近郊の農家に行きました。姉たちは軍需工場でしたけれど、私は畑や田んぼのお手伝いでした。
私が小学校六年生頃は、みかん箱ぐらいの大きさの木の箱を背中にしょって荒川に行きました。そして、川原の砂をその箱の中に入れて学校へ持って帰るんです。火を消すときのためです。そんな作業を授業の中でしましたね。裸足の子が多くて、戦争中は、私は運動靴を穿かせてもらいましたが、戦後の女学校へは下駄で通いました。赤い鼻緒の下駄でした。
その時の女学校は、県立で一つしかありませんから入るのは大変でしたね。クラスから二、三人といったところでした。山梨県で一つで、あちこちから来ていますから下宿している人もいましたよ。
入学試験は、校庭を5周ぐらい回る体育と面接。一番憶えているのは、口頭試問のときのこんな設問でした。「新聞の戦果を答えなさい」というの。毎日すごかったでしょ。何機撃墜とか何隻轟沈とか、それをね、暗記しなければいけなかったんですよ。だから、毎日新聞の戦果を読んでいました。
終戦後すぐには、アメリカ軍が入ってくるということで、私は、まだ小さくておかっぱ頭でしたから何もしませんでしたが、姉は、顔を黒くして男の子のようにしていました。
甲府市内にもすぐにアメリカ軍は駐留しましたからね。大きなお家が宿舎になっていました。ジープで移動していましたね。「チョコ、チョコ、ガム、ガム」なんて言いながら手を出すと、くれたりしましたね。
 これを見て、卒業証書よ。この時分が一番物がなかった時じゃないかしら。わら半紙で手書きですよ。この女学校はね、山梨県の偉い人たちがお嫁さんを捜しにきたんですよ。
授業に関しては、戦争中から終戦になった直後は、あまり授業はなかったですけれど、私たちはまず自由になった、という嬉しさのほうがさきでした。戦争中の何機落としただの、轟沈させた、という関心が一夜にしてなくなったでしょ。アメリカ軍が入ってきて、物が入ってくる、そのうち「ララ物資」が入ってきて、しゃれた洋服なんかをもらいましたよ。学校での勉強は、高校になってからですね。
その当時も、食べるものはあまりなかったですね。山梨県じゅうから生徒は来ているでしょ、田舎の人はお米のお弁当を持って来るんですが、私たちは、さつまいもとか、じゃがいもとか、家で作った切干と、大豆を煮たのとか…私なんかはそうでした。薄焼きのなかに大豆が入っていたり、かぼちゃを入れて甘くしたりね。ですから、お弁当の時間、蓋をとるときは、中が見えないようにしていましたよ。今でも思い出すんですが、私の隣の席の人が池田村から来ている人で、ご飯を持ってくるんですよ。私はうらやましくってね。でもその彼女は、私のが羨ましかったのね。萩原さんの薄焼きは、甘くておいしいって。私は、ご飯が食べたかったから、半分ずつ交換しましたよ。今は夢見たいですが。
戦後のことですが、父は戦死をするし、工場は駄目になるしで、お金はない。母一人で行商をしたり、地所が広かったですからその地所を順々に売り食いしました。ですから、あの大きかった地所を子どもたち六人が食べちゃったんです。七百坪くらいあったでしょうかね、通りから裏の通りまで全部でしたよ。庭があって母屋があって、庭の横に、従業員の泊まる家があって、その裏に門があって、そこからトラックが入るようになって、材料なんか運び込むようにね。そこには、シーソーや滑り台や鉄棒がありましたね。こっちが全部工場で、次の通りまでが倉庫でした。そこの屋根の下でつくったものを乾かすとか、こっちの空いているところには、「のろ」といって、鉄を溶かした滓★ここまで★が山になっていました。いくつもあったんです。その横のほうに家庭菜園がありました。そういう広い屋敷でした。今、そこに何件の家が建っているんでしょう。区画整理になりましたからね。
この写真はね「東海林太郎」って言ってね、直立不動で歌う人でね、「赤城の子守唄」は有名だわね。 
歌手・東海林太郎さんを市内案内
――(由加里)サイン入りで萩原美津子さまって書いてありますよ。
美津子 そうなのよ、この人と一緒に歩いたの。戦後何年かして、東海林太郎が歌を歌いに来たのかなー、検事正をしていた、私の母の大叔父のところに寄ったんです。そして、私が甲府の町を案内したの。その時にくれたの。東海林太郎なんて有名な人ですよ。「赤城の子守唄」や「愛染かつら」なんかヒットしましたよ。
娘だと目立つから、私だったら暇もあるから、と言うことだったんでしょうね。
――写真の裏に、昭和24年5月13日と書いてあります。
美津子 あらそうー。私が高校1年生だわね。面白い写真が出てきたわねー。
――四郎さんもこちらのお生まれなんですか。
四郎 親父もお袋も長野の今の白馬村なんだけれど、僕は、ここ生まれなんです。
美津子 小穴の本家はもうないんですよ。
――小さい頃の四郎さんは?
四郎 五寸釘といって長い釘があるでしょう、それを地べたにさして遊ぶのがはやったんだよ。ただそれをさすのは面白くないっていうんで、中央線の線路において汽車にひかせて平らにするのよ。あの頃は、ガソリンカーが走っていて軽いのね。くぎの上をがたがたいって走っていくんだけれど、きれいな平らにならないの。脱線するんじゃないかと思ったね。それを、また線路の上にならべていると、向こうから駅員が走ってくるじゃない、逃げたんだけれど、一人つかまっちゃたの。それで、学校に呼び出されて、校長室で大目玉だよ。
――(由加里)いくつぐらいの時ですか。
四郎 小学校一年か二年ぐらいだったかな。小学校高学年頃は、お墓の石塔を倒したり、
かくれんぼの時には、骨壷を入れるカロートの蓋をはずして、その中に隠れたりしてね。
学校に奉安殿というのがあって、そこから校長先生が白い手袋をしてうやうやしく教育勅語を持ってくると、生徒全員が頭をさげて、校長が読み上げるのを聞くでしょ、「朕思うに・・・」から始まって「・・・御名御璽」で終わると「ふー」ってため息がでたもんだよ。
――頻繁にその教育勅語を読みあげたんですか?
四郎 四大節の時じゃなかったかな。新年、2月11日の紀元節、4月の天長節そして11月の明治節とこの4回でその時は、堅パンが支給になって嬉しかったね。
美津子 紅白饅頭じゃなかった?私なんか紅白饅頭もらったような気がするんだけれど。
志願兵の生活
――召集されたんですか。
四郎 志願で行っちゃったからね。皆と同じじゃいやだから志願したの。一つでも階級が上のほうが良いと思って召集される一年前に志願したの。
  高等小学校を出て岐阜の川崎航空へ、戦時中だったから集団で行ったんですよ。神戸の川崎重工の航空機を作っていたところです。そこで寮生活をしていたんだけれど、集団でけんかをしてね、初めて留置場に一晩泊められたよ。当事、新聞に出てね「中山道の大乱闘」ってね。そして、会社から首になって、5、6人だったかなー、帰ったきたの。それで鋳物工場で働き始めたわけ。そこで志願したからね。横須賀の武山海兵団に入り、三ヶ月の新兵教育を受けたんです。水泳やカッターっていって8人くらいで漕ぐボートね、
そんなことやって、後、千葉の香取航空隊に行って実地訓練をし、そして郡山の航空隊に行ったのね。あの時分は、鬼の木更津、地獄の横空って、横浜航空隊ね、そういうふうに言われていてね、そんなとこの航空隊でなくて千葉でも香取でよかったよ。
美津子 私の父が、その鬼の木更津と言われていた木更津の航空隊にいたんですよ。
四郎 下士官はいいんだよえばっているから。毎晩、「ばったん」と言ってね、バットで、野球のバットではないけれど、樫の棒で尻をたたくんだ、気合を入れるということでね。下士官は高みの見物よ。釣り床、ハンモックのことね、そこで寝るんだから。夜中になると、「起きろ」って起こされてたたかれるんだから、お尻が真っ青になるんだよ。風呂いくとわかるのよ、皆青くなっているから。中で、物が無くなったりした大変、盗んだ者は、釣り床を釣り下げるフックに縛られた両手をかけられて、樫の棒で殴られて、気を失うと水をかけられて、またやるんだから、ひどかったね。ほんとに、ひどかったねー。
「赤とんぼ」の整備をさぼって、山に入って自然薯掘ったりしてね。うまいもんだよ。そんなこともしたね。終戦が8月15日でしょ、10日ぐらいから、毎日空襲で、制空権は握られてしまっていたからね、機銃掃射でしょ、怖かったねー。側に阿武隈川があって土手に蛸壺掘ったりね。下士官が陣頭指揮して防空壕を掘って、真っ先にそこへ逃げこんだんだけれど、そこに爆弾が落ちて、爆風で着ているものが飛んじゃうんだね、誰が誰やらわからなくて、とにかくすごい様相だったね。それからは、山へ逃げたの。山は安心だったね。木の下で高みの見物、自然薯堀でよく知っていたからね。
美津子 終戦はどうやって知ったの。
四郎 爆撃が五日ほど続いて後、今日は陛下の放送がある、ということで聞いたんだけれど、何のことやらさっぱりわからなくて、「どういうこと?」と聞いたら、「戦争が終わったんだよ。日本が負けたんだよ」って。その時、一番最初に思ったのが、「あー、これで家に帰れるな」って。後片付けなんてあったもんじゃなかったね。25日には、甲府に着いて降りたら焼け野原だったねー。
――自然薯掘りをしたということは、兵隊さんも食べもので苦労なさったんですか。
四郎 軍隊だって豊富にあったわけじゃないでしょ、白いご飯は食べさせていたけれどね。
戦争が終わって
―甲府に帰ってきてからはどうなさっていたんですか。
四郎 鉄工所に入ったね。鋳物屋さんへ行ったね。当時の鉄工所は鋳物もやっていたからね。鋳物の仕事は、儲かったのよ。これは独立しなければ駄目だ、というわけでね、独立するには、大きなところに入らなければ仕事が憶えられないので、鉄道省指定の鉄工所へ行って、三年か四年いたのかな。そこは、中央線の甲府から引込み線が敷かれている大きな工場で、仕事は憶えたんだけれど、いかんせん賃金が安いんでね。
戦後は、あちこちで機械が動き出して仕事が入ってきたのはいいんだけれど、出来る人がいなくて、そこで、私があちこちの工場へ行って仕事をしたんですよ。請負という形でね。そうしてお金を貯めて、一本立ちになったということです。
――お二人の出会いは?
美津子 もともとは知っているんですよ。父の鋳物工場にいましたからね。おばあさん同志が知り合いで、萩原さんの娘さんなら、小穴さんならということで、見合いも何もあったもんじゃなかったわね。6畳一間の長屋で新婚生活が始まりました。主人は、朝起きてご飯を食べたら仕事へ、お昼の食事に帰ってきて終わったら仕事へ、夕飯を食べてまた仕事へと寝るまで仕事をしていましたね。
 ある日、初めて野球のナイターの実況中継をラジオで放送をするというので、それを聞きに、我が家の六畳一間に大勢集まって聞いたこともありましたね。その時も、主人は仕事をしていました。よく働きましたねー。
――今日の日本の繁栄の原点ですね。
聴き手:副枝裕美子
聴き取り日:平成18(2006)年10月21日

■14~15 御曽岐神社

高田

■27~29 断食道場 伊豆


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