22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2006年08月

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昭和59から61年のいわゆる「三年豪雪」当時、塚田善四郎さん(87歳)は、わら靴にかんじきを履き、道踏み(雪を踏んで道をつける)をして、下校してくる子供たちの通学路を整えました。

この写真は、昭和59年の春日山駅構内の様子。近所の若い人たちで結成された除雪組合が駅の雪かきをしています。夕方の五時まで、雪かきをした後、やっと自宅の雪かきが始まります。

コスキ(木製の四角いシャベル)にろうを塗って使っていたそうですが、この時期、「ピーター」という除雪機械が流行り、しだいに雪かきに機械が使われるようになりました。また、前回の大雪、昭和20年は、そりで川に雪を捨てていましたが、それもダンプカーに代わりました。

当時は、信越線の列車が春日山や高田駅に大雪で足止めを食うことも。「お米を農協から高田駅までそりで運んだのですが、積み込みに3日もかかりました。雪で家が覆われ、中に入るのは、まるで穴の中に入っていくかのようでしたね」。塚田さんは、写真を見ながら、懐かしそうに語ってくださいました。

(和栗由美子)

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■ストの時は、バナナが大人気でした
佐々木清喜さんは昭和25年11月28日生まれ。宮城県のご出身で、昭和41年に集団就職により上京しました。現在は新宿駅東口にある青果店・百果園新宿店の店長をされています。有楽町店、高円寺店を経て、昭和57年より新宿店に勤務。以後、今日まで20年以上にわたり、新宿駅とその周辺の変化を最も間近で見てこられました。

―― 百果園が新宿でご商売を始められたのは、いつ頃からですか?

新宿店は昭和42年の4月からですから、商売を始めてもう約40年ですね。

―― 昭和42年ということは、新宿騒乱事件が起こる前年ですね?
※)新宿騒乱事件…昭和43年10月21日の国際反戦デーに、日本全国で国際反戦統一行動として、基地撤去・米タン反対・沖縄奪還の闘争が展開された中、反戦青年委・中核派・社学同・ML派・第四インターなどが、新宿駅で闘争を繰り広げた事件。

そうですね、翌年には安田講堂事件などがありました。僕がこの店に来たのは昭和57年頃ですが、開店当時から働いていた人に、その頃の話は聞きましたよ。新宿駅の東口前に、線路に沿って映画などの看板が並んでいる場所があるんですが、昔はそこに金網があったようです。しかしながら、新宿騒乱の頃は、投石に使うために、みんな金網を乗り越えて、線路の敷石を取っていたらしいです。敷石がほとんど無くなったと言っていましたね。うちの店も全部シャッターを下ろしていたんですけど、だいぶシャッターがへこんだようです。まあ、被害はそれぐらいですんだようですが……。
僕がこの店に来た昭和57年頃は、アルタのビルが建って間もない頃だったと思います。アルタが建つ前には、三越の100%子会社で「二幸」という食品専門の大きなショッピングセンターがあったそうですよ。

――私はアルタができてからの新宿の風景しか知らないのですが、だいぶ駅前も変わったんですね。新宿駅の建物自体については、大きく変わりましたか?

ここから見た駅の景色はあまり変わらないですね。建物もそのままですし、外観が変わったという記憶はないですね。もちろん中はずいぶん変わりましたけど……。駅の改札も便利になりましたね。昔は改札口に8人ぐらい切符切りがいて、凄いスピードで切符を切っていましたね。聞いた話だと、あの切符切りは30分おきに休みを取らないと、手がもたなかったらしいですね。30分切符を切り続けたら1時間休む。また30分切符を切る……、そんな感じだったらしいです。

――佐々木さんがこのお店に来られた昭和57年と比べて「変わったな」と実感されたことは何かありますか?

今の新宿には、コマ劇場に芝居を見に行くお年寄り以外は若者しかいない。でも、昔はそうではなかったですね。いいバランスで様々な世代の人間が、この街には集まっていたと思います。それに昔のほうが街の雰囲気がゆったりしていましたね。僕は安保闘争の波が落ち着いてからこの店へ来たものですから、その頃は新宿の街もわりとゆったりした雰囲気だったんです。

――私は新宿というと、落ち着いた街というよりも、色々な意味でエネルギーに満ち溢れた街というイメージを以前からもっていたんですが、そういう時期もあったんですね。

ええ、そういう時期はありました。でも、やはりバブルの頃はすごかったですよ。バブルの頃を境に、落ち着いた街の感じが少しずつ失われていったように思いますね。それと、他人同士が話をするということが、昔と比べて少なくなりましたね。今、若い人は若い人同士でしか話をしない。違う世代との会話がないんですね。

――安保闘争の時期を経て70年代に一度落ち着いた街も、バブルの到来で再び熱を帯び始めたんですね。安保闘争の60年代と、バブル期の80年代にこの街に渦巻いていたエネルギーの違いは感じましたか。

ええ、ちょっと異質なものだったと思いますね。安保闘争の時期に若者が発していたエネルギーは、全員が全員ではないにせよ、社会的なイデオロギーに基づいたものでした。しかし、バブルの時期に若者が発していたエネルギーは、個人主義に基づいたものだったような気がします。

――お客さんは街に遊びに来ている通りすがりの人が多かったのではないかと思うのですが、新宿駅に勤めている方なんかもお客さんだったんですか?

昔は国鉄の方もよくいらしたようですね。ストの時にはしょっちゅうバナナを夜食替わりに買いに来ていたみたいです。今ではJRの方がいらっしゃることもなくなりましたけど……。開店当時は安くて栄養価が高いということで、バナナがすごい人気でした。店の棚の半分以上がバナナだけで埋め尽くされていたこともあったようですよ。ちょっと想像できないでしょうけれど。

――それだけ積んでも売れてしまったわけですよね?

この店は、地下にも倉庫があるんですが、そこにバナナをぎっしり入れて、それでも足りないという感じだったようです。

――昔は顔なじみの常連さんが多かったんですか?

そうですね。昔から来てくださっている方も結構大勢いまして、季節の節目に贈る果物を、よく買いに来てくれます。ありがたい話ですね。ただ、その方たちの次の世代ということになると、常連さんという感じのお客さんはあまりいないですね。お中元やお歳暮の感覚というのも、若い世代になるほど、無くなりつつありますし……。この店は開店当時のまま、今も変わりはないですが、そういった点では変わったなと思います。

――百果園の建物は、昭和42年の開店当時のままですか?

そうですね、中に鉄骨を入れて支えたりはしているんですが、それ以外は開店当時のままです。老朽化はしていますが、こうなったら直すよりも、この開店当時の形のまま残していきたいですね。

――新宿駅東口から見た風景の中で、昔から変わりなく目に映るのは百果園さんの看板だけなのでは?

そうでしょうね。「二幸」もアルタになってしまいましたし。ビルの看板なんかも目まぐるしく変わりますけれど、うちだけは変わってないですね。あと、この近所で変わらないものといったら、「アカシア」のロールキャベツの味ですかね。でも、あとは本当にみんな変わってしまいましたね。

――佐々木さんが新宿の街、そして新宿駅前の変化を20数年間見つめ続けてきて、今と比べたときに、「昔のほうが良かった」と思われるようなことはありますか?

正直な話、五分五分ですね。今のほうが便利ではありますけれども、気持ちの上ではやっぱり昔のほうが良かったなと思うことはあります。私がここへ来た昭和50年代のほうがゆったりした気分でいられました。昔は他の人と言葉を交わすことも多かったですし。今は自分の言い分が通らないと「フンッ」とそっぽを向いてしまう方が多いですから……。

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新潟県立看護大学(上越市新南町)教授の吉山直樹先生が、日本初の難民医療医師団に参加されたのは、昭和55年のことでした。

医師団は医師と看護士で構成され、カンボジアに赴きました。難民キャンプに滞在し、患者さんの対応に追われる忙しい日々。滞在期間中、診療所での大火などさまざまな苦難がありましたが、医師団のメンバーは、病気にかかることなく全員無事に帰国することができました。

当時、仕事をともにした現地の方々とは今でも交流が続いています。なかには、日本に帰化し、中学校や高校に編入された子供もいらっしゃるとのこと。現在の難民医療の先駆けとして、熱心に取り組まれた吉山先生、お別れの日の記念写真は、皆、素敵な笑顔をしています。

(和栗由美子)


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⑤拓殖博覧会で賑わう札幌駅前(昭和6年).png


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鉄道旅行の楽しみといえば駅弁。

今では、販売ブースで買い求めるのがふつうになりましたが、一昔前までは、駅弁の立ち売りが行われていました。肩から提げた木製の箱に、駅弁をたくさん入れて、ホームで声を嗄らす売り子さん。今ではしだいにそういう風景を見ることができなくなりましたが、昔の思い出として懐かしく思う方も少なくないのではないでしょうか。

今回、お話を伺った鹿野茂雄さん(69)は、駅弁立ち売り30年以上という大ベテラン。札幌駅の売り子さんとして、数多くの列車を迎え、お客さんにお弁当を売ってきました。北海道を旅行された方の中には、鹿野さんからお弁当を買った方もいるかもしれませんね。

札幌駅立売商会に入社したのは昭和40年4月4日、27歳の時でした。ずっと駅で、いわゆる立売をやってきました。

この仕事は先輩から親切に教えられることもありませんので、見よう見まねで覚えていきました。指示されることもありませんので、雰囲気を見ながら、自分で判断していくんですね。最初は、足が太ってしまい、慣れるまで1週間くらいかかりました。ただ、声はかれませんでしたね。腰も大丈夫でした。

夏休みになると、すごいお客さんが来ますから、そういう時は、全員で18名いる売り子がそれぞれ交代でホームで販売しましたね。当時の札幌駅は0番線から7番線までありました。いちばん売れたのはやはりお昼時です。

今はほとんど札幌が起点になっていますが、当時は、網走や稚内から函館に向かう列車――「宗谷」や「おおぞら」といった列車がありました。これらの列車が札幌に到着する時が書き入れ時です。一列車できれいに売れました。100本ではききませんでしたね。1日200本くらい売れる時もありました。あと、売れるのはやはりお正月ですね。

平成に入ってから種類が多くなりましたが、当時、(お弁当は)まだ3種類しかありませんでした。幕の内弁当が150円、お寿司が80円、シャケ飯が100円でした。幕の内がいちばん売れていました。冬は立ち食いそばも賑わっていましたね。

販売箱には40個入ります。けっこう重たいので、たくさん積めません。積むお弁当は、来る列車にあわせて弁当場に頼んで作ってもらいます。「幕の内をいくつ、寿司をいくつ」というふうに、自分で売れるなあという数を頼む。ふだんはそれなりに、繁忙期には多く頼みます。

ホームでは、販売箱を肩から吊して「お弁当~ お寿司~ シャケ飯~~」と呼び声を出すのです。自由席の方がお客さんがたくさん乗っているので、そちらに人を割くことが多かったですね。繁忙期には、10両編成になって、自由席1両に2、3人売り子がついたものでした。先輩を立てて、新入りは指定席に回っていましたね。このあたりは、阿吽の呼吸でした(笑)。

朝は7時から8時、夕方は5時頃から7時半くらいまでが忙しかったですね。当時は、北6条西5丁目の寮に住んでいて、朝は5時半に起きて、6時半には出社しました。そして、お弁当を持って線路を横断してホームに。朝のピークが終えた9時、10時くらいに一息つく。そして、11時半頃から1時のお昼時のピークを迎えます。その後、お昼ご飯を交代で取って、夕方のピークに。

室蘭行きの急行に乗るお客さんが晩ご飯を兼ねてお弁当を買うんですね。8時頃終えて、事務所で売上の計算。歩合がありまして、総売上の4分5厘でしたね。釣り銭を多くやってしまったりなんてこともありました(笑)。

今の汽車は窓が開かなくなりましたが、当時は窓を開けてお弁当を買いました。窓を開けて買う光景は思い出に残っていますね。でも、冬になるとしばれて開かないんですよ。そういう時は、デッキに出てきていただいて売っていました。

また、マイナス10度にもなりますから、保温のために工夫しました。お弁当の大きさにあわせてビニールを弁当1本ずつ包んだのです。混雑するお正月には、デッキで売り子2人が交互に売っていたこともありました。10分くらい停車するのですが、それでも買いそびれるお客さんもいました。次の苫小牧までお弁当を買えませんからたいへんです。

昭和55年頃に、今の販売車に切り替えられ、人数も8人くらいになりました。汽車の窓も開かなくなりましたから、販売箱よりも販売車の方にという流れになったんですね。


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■11(金) 豊橋泊

■12(土) 豊川稲荷→作手

■13(日) 作手→桑名→名古屋

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■17(木) 上野 あけぼの

■18(金) 豪雨で「あけぼの」が遅延。 区界旅館泊

■19(土) いわな釣り

■20(日) 青春18きっぷ利用。鈍行で帰京。


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軽井沢駅の昔に詳しい方々に集まっていただき、戦中戦後を中心にお話をお聞きしました。国鉄に勤めていらっしゃった斉藤和男さんと、武田進さん。そして、軽井沢駅で駅そば店を営まれる小川太郎さん。皆様に軽井沢駅の思い出を語っていただきました。

─ 皆さんは軽井沢駅でお仕事をされていたのですよね。

武田:私が国鉄に入社したのは、昭和20年の10月31日のことでした。当時は、お米の買い出しに行く人がたくさん乗っていて、そのために車両の増結をしたほどでした。機関車の前に乗ったりする人までいましたね。軽井沢駅に列車が来ると、そのときに増車していました。

今はそういうことはないけれど、当時はお客さんが多すぎて、2人掛けの席に3人掛けさせたり、立っている人がいても、どんどん詰め込んで......。満員電車なんてものではありませんでしたね。

そんな時代が終わって、昭和24年7月、国鉄が人員整理したときがありました。行政整理で、我々は20年に入ったばかりだから、首を切られる可能性があったのです。ところが幸いなことに、戦中と戦後では勝手が違った。

昔の中学校――今でいえば高校になるけれど、それを卒業して入ると、戦時中は駅の掃除や、終着列車、線路の中の掃除をする「駅手」と呼ばれる職に就きました。切符はまだ切ることができない、これが最低職だったわけです。つまり、中学校を終わって入社すると、その上の駅務掛(切符を切ることのできる職名) ――つまり一格上になるには、試験を受けて本職にならないといけなかったんです。

しかし、終戦までは中学校を卒業すると、駅手を飛び越えて駅務掛になれたのに、とたんになくなっちゃった。8月15日の終戦でなくなってしまったんです。中学校を卒業しようが、どこを卒業しようが駅士。当時は男性が皆、兵隊さんに行っちゃったから、女子職員が多かったのですが、その女子職員にあごで使われたなぁ(笑)。そういう時代でした。

斉藤:駅の柱の傍には痰壷という国鉄のマークが入った白い入れ物があって、駅手はそれも綺麗に掃除しなければいけなかったんですよ。

私が国鉄に入ったのは昭和16年4月ですね。当初、私は東京にいましたので、空襲でとても怖い思いをしました。あの頃はだんだんと学徒動員で次々と駆り出されていった時代。そんなわけで、私の家でも男一人だけ。当時、国鉄は基幹産業ですから景気がよかったんです。そこで、私も国鉄に入りました。あの頃は「駅夫」と言っていました。東京鉄道局新橋運輸事務所。新橋、軽井沢間です。当時は、郵便局か国鉄かと言われていました。

私が軽井沢駅へ転勤してきた当時は、月給が68円。そのままの給料で、中央から地方へ移るのは難しかったのですが、いろいろあって一銭も引かれずに月給68円で働くことができました。

空襲で焼け出された私は、着の身着のままで軽井沢駅に来ました。着るものも何もない。それに、高崎まで来るだけでも1日半ほどかかりました。そこから高崎から横川まで出て、横川からは碓氷線に乗る――それは大変でした。焼け出されたのですから、着るものはもうぼろぼろです。

軽井沢は空襲などなかったですから、そんなことなくて。着るものがなかったのは私だけでした。そして、軽井沢に着いて、着るものをもらって。今考えてみれば、とても良くしてもらったと思います。それに、苦しいけれど、国鉄精神がありましたから、強い絆で結ばれていたと思います。

武田:私は国鉄ではないけれど、駅の売店の蕎麦屋をやっていました。
昔、駅前に油屋旅館というのがありまして、そこが私の本家なんですが、もともとお弁当の仕出しをやっていて、私の家では蕎麦をやっていた。だから昔からの駅を知っています。

思い出すのは、汽車が着いて別荘のお客さんが駅へ降り立つ。そうすると、タクシーが送迎をするわけです。その後をご用聞きが自転車で追いかける。当時は、車も今のような馬力はないですからね。10人くらいのご用聞きが自転車で追いかけて、別荘に着いたら、ものを買ってもらうように交渉するんです。あれも軽井沢の風物詩でした。

─ なかには有名人も?

斉藤:昔の別荘地というのは、今とは全く違います。今の軽井沢の住む人とは全然違いました。古き良き軽井沢といった感じですね。今は、セカンドハウスだとかいいますが、昔は最低でも1000坪はありました。そして、車寄せがあって。アイアンの5番で隅から打ったって、端まで届かないくらいです。立派なものでしたよ。芝生で白樺があって。

当時は、大使館の別荘もたくさんありました。そして、大使館と領事館は治外法権。だからあそこで博打をやるんです。けれど、警察は入れない。そうすると、コックさんや「ベビヤマ」――外国人の子守りです――そういう人たちは博打やお酒が好きでしたから、集まるわけです。ご主人の食事が終わると、だいたいが夜10時ころ。そのあたりから集まって、コックの部屋で博打をやる。そして、終わるとみんな数珠繋ぎで出てきたものでした。

昭和6、7年ごろ――不景気の時ですが、私も外国人の子供と一緒に遊んでいたことがあります。外国人の子供が通りに出てきて、街の中を歩いていくわけです。それも風物詩だったな。だから、我々が遊んでいると、アメリカやフランス人が「行くべぇ」とか「ばかやろう」とか覚えちゃうんですよね(笑)。

小川: うちの家内の実家は土産物屋だったんですが、別荘の人と土産物屋との関係も、非常に密接でした。軽井沢に着くと「今来ましたよ」と、必ず挨拶にまわる。今はそういったことはないね。わずかにあるとすれば追分の方面かな。あとはぜんぜんなくなってしまいましたが。

斉藤:徳川でも前田でも、田辺製薬でも、使用人や執事がきて、「徳川家です」「田辺家です」と言ってまわるんです。そして、銀座の貝新(かいしん)という佃煮屋さんの大きな佃煮の包みを持って「今年も軽井沢に来ました。宜しくお願いします」と挨拶をする。いろいろな佃煮が入っていて贅沢でしたね。

そして帰るときは、「お世話になりました」とちゃんと半紙に10円札――当時で言ったら10円なんて高価でした――を包んで渡すのです。

昔はお店の主人や奥さん、家族たちが店を守っていたんですね。でも今はアルバイトのような学生が増えて、従業員がお店を守っている。知らないような人たちがお店を守っているわけですから、お客さんは来ても入りにくい。「お世話になりました」とも言いにくい。挨拶の声も掛けられないんですね。だからつきあいも薄い。

─ 戦後の軽井沢はどのような様子だったのでしょう?

斉藤:昭和21年は食べ物がないから、今の軽井沢プリンス・ショッピングプラザの辺りの土地では馬鈴薯やもろこし、さつまいもなど何でもつくっていましたね。我々が駅のトイレのものを担いで捨ててたし。

武田:だから、線路でもどこでも大事なモノが落ちていた(笑)。昭和21年に、軽井沢は米軍の第8軍の人たちの避暑地になりました。ニューグランドホテルや万平ホテルはみな接収しちゃって。そして、その人たちの鉄道輸送のために、RTO(Rail transportation office)と呼ばれるものができました。

軽井沢には昔から、1等待合室、2等待合室があったのですが、境をつくって昔の一等待合室といわれるところに米軍がRTOをつくりました。自分たちの兵隊が来るときには、そこを使ったものです。そのとき、私はたまたま旧制中学を出ていたものだから、「お前、ちょっと通訳しろ」と言われて、わけも分からず英語を使っていたという苦い思い出があります。

21年後半には新しいR.T.Oがつくられて、正式に職員が配置されました。また、占領軍の指揮官(第8軍)、アメリカのアイケルバーガー中将が軽井沢に来たときには、軽井沢駅は、下りだったら下りホームに着けるのに、その人は日本は負けたからと、下り列車を上りホームにつけた。そんなこともありました。

斉藤:そうそう。中線に列車をおいて、木の板を渡して、万平ホテルへ行ったんだよね。

武田: そのとき、戦争に負けた惨めさというのは、つくづく感じました。

斉藤:上野から進駐軍の専用車が下ってくると、その後ろには一般の車もついてくる。直江津、上野間を走る列車の他にね。そういう列車が来るときは、上野が出るときに連絡がくる。そうするとバスが手配されて、駅でちゃんと待っているわけです。ポーターがバッグだとか積んでやって。それで万平ホテルなどへ行き、休暇を過ごすわけです。

天皇皇后も上野からいらしたときには下りホームで降りるのですが、米軍のアイケルバーガー中将が来たときは上り線につけろなどと言う。でも上り線に直接入れるわけにはいかないんです。だから、いったん下り線に入れて、上り線に持ってきて降ろす。

武田:米軍のために、お召し列車が足止めを食らってしまったこともありました。
お召し列車は、菊の紋章がついている列車なのですが、これだけにはシートをかぶせていました。もちろん、他の車両にはカバーなどはかけません。このお召し列車を交代で寝ずの警備するんです。私が一番最初にやった仕事がそれでした。懐かしいですね。

─ 皇室の方々をはじめ、著名人にも愛される軽井沢ですが、やはり当時も駅は混み合いましたか?

武田: たいへんな混みようでしたよ。というのも、当時は長野から東京までの切符は買えなかったんです。「局が違う」という理由からか、軽井沢でいったん打ち切られたからです。長野から軽井沢までは買えても、そこから先は買い直さなければならない。だから、軽井沢でいったん全部降りて、切符を買い直して乗ったんです。昭和30年ごろかなぁ。だから、軽井沢駅は切符を売るのが忙しかったですよ。座って売っていれば、お客さんにつるし上げにあっちゃいますからね(笑)。

松田聖子さんが売り出しの頃――16歳くらいだったでしょうか――に軽井沢にいらしたんですが、そのときはホームに人があふれちゃって大変でした。

─ そのときはどのようにして事故を防いだのですか?

武田:松田聖子さんのような有名人がみえた際には、駅長室に通しました。列車が来ると、乗るのをファンが待っているわけです。ですから、裏口というか、庭を通って、自分の乗る車両まで誘導していました。碓氷峠を越すために、補助機関車を着けますから、5分は停車するんですが、その間にそういった方々を駅舎で休ませたりもしました。


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○西村登美子(にしむら とみこ)さんの来し方
明治四三年一月一日生まれ。旧 愛知県南設楽郡鳳来町塩瀬(現 新城市塩瀬)に生まれる。

 学生時代は、おてんば娘だったねぇ。鞠ついたり、お手玉やったり…。でも親がとっても厳しくてね。学校終わってもまっすぐ家に帰って来てたよ。
 お隣さんに私ら兄弟(〓登美子さんは兄弟の四番目)を見てもらって仕事に行ってたけど、それでも「遊んじゃいかん。」っていう親だった。
 それから、字の読み書きもあんまり好きじゃなかったね。あの頃は、女が字読んだり書いたりするのは生意気だって言われたから。だから本読むのも大嫌いだったよ。

 十七歳で学校を卒業して、旦那さんのところへ来たのは十八の頃だったかな。元々お父さんが仕事の関係で、旦那さんの家に泊まったことが何度かあったのよ。
 それである日、私もお父さんについてったの。そこで私は内職のお針をやっとったんだけど、その家のお父さんみたいな人が私の顔を見て、さーってやって来たから「何だろう、あの人」って思っとったら、私を一目見て「この娘をもらおう」って言ったのよ。その人は旦那さんのお父さんで、その時、私はまだ旦那さんの顔を知らんかったけどね。   そんな感じで、ほんとに親同士が決めた結婚だったなぁ。旦那さまの顔を見たり、見合いもせんで決めて。ただお父さんが決めて。私の旦那さんもおとなしい人だから、何とも言えへんかった。
 だからここに来てね、挨拶に回った時初めて旦那さんを見て「この人が私の旦那さんか」と思ったよ。
 旦那さんの第一印象は「立派な人」かな。背はちょっと小さいけど。でもほんとにおとなしい人でね、兄弟の中で一番へボかった。弟とその息子さんは警察官の署長になってるのにねぇ。ふふふ。
 結婚式当日は普通の着物を着てきて、家に入るときに白無垢に着替えるの。で、そんとき鉄砲を鳴らすのよ。あの頃は「狐が嫁に着いて来る」って言ってね。それを追い払う意味で鉄砲を鳴らしたの。私の時代までだなぁ、あんなことやったのは。
 隣がおきもりさん(〓1)でね。裾模様(〓2)は二回やったかしら。
 私の在所は、お母さんもお祖母さんも一番の大家さんから来たし、私のお祖父さんも土方の親方だったから、お舅さんが張り切ってねぇ。部屋の隅に薦被り(〓3)を置いといたの。
 そしたらあくる日、組の人から親類衆までやって来て、畳を上げてみんなで酒を飲み始めたんだよ。ばあさんが「何事か」ってやって来ると、畳を元に戻すんだけど、いなくなるとすぐまた上げるの。
 畳を上げてたのは畳が傷むからかなぁ。あの頃は家中畳の敷ける家なんて一軒もなかったから。畳は行事の時だけ敷いて、翌朝早くにめくって高く積んでおいたんだよ。
 嫁いでからは、そりゃもう働いたよ。田んぼ作ったり、山登ったり。毎朝五時に起きて、せっせと野良仕事したなぁ。子供たちが学校に入るまでは、着物も縫ってやったよ。
 自分の着物だって一日あれば一枚縫えた。子供七人産んだからね、そのくらい手早く仕事せんと食っていけん。子どもが産まれる前の日まで働いたこともあったなぁ。
 ある日おしゅうとさんが「うちが持ってる山を一個やる。それ売ってお前の小遣いにしろ」って言ってきたんだよ。ビックリしたなぁ。よっぽど私が働いてると思ってくれてたんだねぇ。
 おしゅとさんもかなり仕事熱心な人で、ご飯食べ終わると草履作ったり蓑作ったり、休むまもなく働いてたけど。こんなに気を使ってくれるおしゅうとさんは、そうそういないよ。ありがたいねぇ。

 戦争が始まってからは、私が嫁いで来た時に飼ってた蚕もいなくなったよ。旦那さんも背は小さいけど戦場に行ったし、長男は特攻隊へ志願しそうになった。満州へ行って結核になって亡くなった人もいたな。
 その人が病院から退院した時持ってきた薬を飲んで、私の次男は死んじゃったんだよ。まだ四歳だったのに…。
 それから、戦中はお米が本当になくてね。「蔵に蓄えてあるお米は全部差し出せ」って命令が出てたから。でもうちは、お舅さんがずっと蔵に隠してた。「調べに来るなら来い!」って開き直って虚勢張ってたね。
 ところが、調べに来なかったんだよ。おかげで家のご飯は毎日白いお米ばっか。ほかの家はお米なんか残ってなかったのに。調べに来てたらどうなってたんだろうねぇ。
 ご飯以外のおかずには、野菜を作って食べてたよ。大根にきゅうり、じゃがいも、なす…。もうできるものは何でも。大根は煮たり漬物にしたり、切干にしたり、色んな形にしたなぁ。

 戦争終わってからは、五平餅作ったり、とろろ芋の料理作って売ったよ。八丁味噌も作ったね。
 八丁味噌はうちの畑で作った豆を取ってきてね、それを剥いて潰して団子にして、四斗樽っていう大きな樽に入れるの。この時、一昼夜温度を下げちゃいかん。これはよく覚えてるよ。こうしてできた味噌を五平餅なんかに使うんだよ。樽二つ分は作ったかなぁ。
 普通、五平餅は男の人が作るんだけど、私の旦那さんは見ているばっかで焼くことしかやってくれなかったねぇ(笑)。
 これの作り方は、ただご飯練って箸につけるだけなんだけど、ご飯は固めに炊いて、すり棒で味噌をすり込む時は餅のようになるまでよくすらんといけない。じゃないと箸につけた時、餅が落ちてくるからね。
 そんで、ご飯を棒にはり付ける時は力がいるんだよ。味噌入るとやっぱり落ちてくることがあるから。しかも薄くつけるんじゃいかん。厚くつけんといけない。
 とろろ芋作る時は、よくお舅さんが山から山芋取ってきてたよ。ほんとに働き者だったから、あの人。とろろにかけるタレは、煮干しの出汁を出さにゃあうまくない。今は水道水だから、水は駄目になっちまったしね。
 正月やお盆には本当に客がたくさん来てねぇ。お盆にはお米四升炊いてたかな。一時はもう毎日大変だったよ。

 うちは山をいくつか持ってたんだけど、その山の木を二代ずっと切らんでおいたの。でも私の代で木を切って材木として売ってね、そのお金で私の子ども二人と孫三人を大学へやったんだよ。ここは田舎だから、学校に通うのも一苦労でねぇ。子どもも孫も、高校、大学と下宿して通わせたよ。
 木を切ったおかげで財産も増えてね。孫が嫁に行くとき嫁入り道具を持たせたんだけど、車三台分くらいあったかなぁ。タンスとか二人で寝るベッドとか、車とか。山のおかげ、先祖のおかげだよ。ありがたいねぇ。

 うちには金のお弘法さまの小さな屏風絵があるんだけど、ある日の朝起きて「あれ?」と思ったら、(金色の「おいべっさま〓」を指して)これが置いてあったんだよ。
 どこから来たのかは分からん。不思議なこともあるもんだねぇ。でもお弘法さまがおいでになって、毎朝拝むようになってから、皆が着物を持って来てくれるようになったんだよ。
 お弘法さまのご利益かねぇ。おかげで着るものには困らん。朝、お弘法さまを拝む時には、お菓子も一緒に差し上げてるよ。
 お弘法さまと、金のおいべっさまもうちにはいらっしゃるんだけど、おいべっさまにもお菓子を差し上げるんだ。それから、おいべっさまのうたもあるよ。ちょっと歌ってみようか。

   一に俵踏んまえて
   二でにっこり笑って
   三にさかずき手につけて
   四つ世の中良いように
   五ついつもの報徳を
   六つ無病息災に
   七つ何事ないように
   八つ屋敷を広めて
   九つ小倉を建て直し
   十でとうとうお師匠さま(〓4)
 
 そうそう、私は毎朝お経もあげるよ。神様とお弘法さまと、お不動と心経(〓5)、これだけ読む。
 神様の前に行くと、自分のことよりまず子供のことが目に浮かんでくるよ。健康で仲良く食べていけますようにって。
 私はねぇ、三夫婦で一三年間一緒に暮らしたんだよ。今は結婚して親からずーっと続いていく家なんて少ないからね。最高一、二人ここで生活してたなぁ。ご飯炊くのが大変だったよ。
 でも代々そうやって続いてきたから、こんなにいい子が産まれたのかもね。子供も孫もみーんないい子だもん。
 前にね、孫がこんなこと言ってたんだよ。上の姉さんと弟が二人で「おちのおばあちゃんは本当に私達のことを可愛がってくれるね。この恩を忘れちゃいけないね。」って。
「あぁ、ありがたいこと言ってくれるな」って思ったよ。「これから本当におばあさん孝行してくれるのかな」って思ってたら、姉さんのほうが、私の五平餅を食べにお客としてくるたんび、お菓子を持って来てくれるんだよ。私のこと、とっても大切にしてくれてねぇ。
 野良仕事やってたせいで今でも背中痛いし、自分でも「なんでこんなに長生きできるんだろ」って思うけど、いい孫や子に囲まれて本当にありがたいと思ってるよ。

〓1 仲人
〓2 お色直し
〓3 薦で包んだ四斗(約七二リットル)入りの酒樽
〓4 よく似た内容の歌詞で『大黒さまのわらべうた』がある
〓5 天照大神、弘法大師、不動明王、般若心経のこと


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○聴き取り日:平成十八(二〇〇六)年八月三日

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