22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2006年07月

■28(金)松本

■29(土)

大糸線・北陸本線の駅巡り

●中土駅

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●平岩駅

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●小滝駅

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●根知駅

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●頚城大野駅

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●梶屋敷駅

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●浦本駅

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●能生駅

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●筒石駅

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●南高田駅

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一献して、南高田まで散歩。高田まで一駅乗車。
こういうのが楽しい。

高田中央ホテル


■30(日)

身延・源泉館

■31(月)

富士宮を経由して帰京。

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花堂純俊さんは昭和5年1月6日生まれ。

昭和35年、転勤で鹿児島から宮崎に。その後、約24年間、宮崎駅の旅客掛に勤務。駅の変遷を肌で感じて来られた花堂さんに、新婚旅行客が大挙した当時の宮崎駅の様子についてお話を伺いました。

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─ 宮崎駅といえば、当時新婚旅行客で相当な賑わいを見せていましたね。

花堂:本州から九州に入ってまず賑わう場所といえば別府。でも別府は、当時はまだ"温泉がある街"という位置付けで、観光といえば、断然宮崎でしたね。

宮崎交通のバスガイドが駅前にずらりと並んで、観光客を出迎えていました。お客さんが駅に到着すると、一斉に旗を振ってね。プラットフォームにまで出迎えに行く旅館の女将さんや社長もいましたね(笑)。特に、昭和42年11月から京都と宮崎の間に走った「ことぶき列車」の頃は、大勢の人が駅にあふれかえって大混雑しました。

─ 「ことぶき列車」は毎日走っていたのですか?

花堂:新婚さん用の臨時列車として、大安や友引の前後に、下り線のみ出ていました。例えば「今度の大安は連休と重なるから大入りだな」といった見当を付けて、発車させるタイミングを見計らっていたのですね。
全て1等の寝台列車で5両編成。昭和48年に運行を終えるまでに、4000組を超える新婚さんを連れてきたそうですよ。

その頃の賑わいぶりといったらすごいものでした。新婚さんが集団でゾロゾロと駅に降りてくる、そしてみんな手に花束を抱えてね。あまりにも列車に置いていかれる花が多いもんだから駅前や改札に籠を設けて、そこに入れてもらうようにしました。

─ ちなみにその後の花の行方は?

花堂: 駅員のみんなで、老人ホームや孤児院に持っていきました。結婚式をしてそのまま電車に乗ってやって来るわけだから、みんなきれいな花ばかり。とても喜ばれましたね。

駅では、あまりの新婚旅行客の多さに、一般の人が泊まるホテルがない、とよく相談を受けました。いわばホテルの争奪戦ですね。タクシーについても同じ相談を受けました。当時は旅館斡旋を行うタクシーもいたようです。旅館側が客室のマッチ箱にお金を隠しておき、お客さんを連れてきたタクシーの運転手が、こっそりそのお金を受け取って帰る――そんな話を聞いたこともありました。

─ 現在はいかがですか? ホテルの数は減りましたか?

花堂: 数自体はさほど変わらないですが、つくりが変わりましたね。当時は全て新婚旅行のお客さん向けに造られていましたから。今は泊まってゆっくり過ごすというより、眠るための場所としてのホテル、ビジネスホテルがほとんど。当時の雰囲気を残す旅館は非常に少なくなりました。

九州にやってきた新婚さんたちには、気の毒な光景も見られました。旅行中にうまくいかなくなってしまう、今で言えば、いわゆる「成田離婚」ですね。早ければ別府でさようなら、そして次は宮崎でさようなら......。といった感じでね(笑)。旦那さんが1人で宮崎から帰っていく姿も目にしましたよ。私も2人くらい宮崎駅のご案内をしたこともありました。

─ 全国各地の新婚さんが宮崎に集まってきたというのは、本当にすごいことですね。

花堂:そうですね。中には、東京行の乗客もとても多かったです。東京との間を走る特急「富士」や急行「高千穂」。こちらは特別に2両ほど追加して走っていたこともありました。ただし、その2両は一般の乗客のためのもので、この切符を取るために、地元の人たちが徹夜で並んだほどでした。

当時は飛行機もあまり普及していなかったので、交通手段の要といえば、列車一本。だから、鉄道員はとても鼻が高かったですね。


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直江津港はその昔、冬の間、土砂が岸に堆積し港口が浅くなってしまいました。

そのため、河口分離もしくは分流といった整備が必要とされていました。しかし、それには膨大な費用を要すため、国の予算に頼らざるを得ません。

そこで立ち上がったのが運輸省(当時)港湾局長の天野良吉さん。昭和34年の参議院議員選挙に立候補した天野さんを、古川長四郎さんは地元の発展を願って応援しました。

写真は選挙期間中の一幕。メガホンを使っての街頭演説は当時の様子をよく伝えています。

支援者の尽力の甲斐あって、天野さんは当選。翌年度の国家予算に直江津港整備が組み込まれることになりました。直江津港の発展は、人々の熱い想いに支えられているのです。

(和栗由美子)

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雪下駄職人・竹田亀治さんが出征したのは、昭和15年4月24日のこと。

写真は、その前日に撮影されたものです。ご両親と妹、父親、そして奉公先でお世話になった履物問屋の金井さんから送られた旗が写っています。

竹田さんは、昭和8年に奉公に出て、昭和14年までの間、金井さんにお世話になったのです。戦争が終え、約一年間の捕虜生活を経て、無事復員したのは昭和21年7月14日。

「戦地では、宿舎まで水を運だり、畑で肥やしを担いだりね。乗馬班だったので、将校の乗る馬の係として、山で馬を先導していました。そのおかげで、足腰がとても丈夫になりましたよ」竹田さんは当時をそう回想していました。

(NPO「昭和の記憶」新潟支部・和栗由美子)

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