22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2006年05月

小学校を卒業するとき、私は友人と2人で小旅行に出た。八王子から朝早くの八高線に乗り、高崎へ。そこから信越本線に乗り換えた。扉が開け放たれた客車列車で、古ぼけた車内灯がやけに暗く思われた。
高崎にはちょうどお昼頃着いたので、空腹であった。しかし、私たちはがまんした。あと、30分で横川である。

横川に着くや、窓を開け、駅弁屋さんを呼んだ。停車時間はあったが、必死であった。手にした「峠の釜めし」はずっしりと重く、何か特別なものを感じさせた。食べるのがもったいなかったが、軽井沢を過ぎたあたりで箸を付けた。当然、器は持ち帰る。それは私の宝物になった。

今月の「あの駅はいま…」は横川駅を取り上げる。長野新幹線開通にともない横川・軽井沢間が廃止されてから三年半。横川を取り巻く風情は一変した。今回は、「峠の釜めし」に、横川駅の過去と現在を見たいと考えた。

                               

①■宮内庁御用達--「峠の釜めし」

昭和33年10月18日、横川駅は物々しい雰囲気のなかに包まれていた。警察官が各所に立ち並んでいる。まさに厳戒態勢であった。
この日、富山国体へ参列されるために、昭和天皇ご一行を乗せたお召し列車は信越本線を下っていた。午前11時32分(★)、高崎方面から電気機関車に引かれた列車が到着した。あたりはにわかに緊張感が高まった。

ホームに停車して間もなくすると、おぎのや社長・高見澤みねじは、白い布で覆った漆黒の盆を白手袋の手で恭しく捧げ、車内に運び込んだ。--横川名物「峠の釜めし」である。

この日のために、焼き上げられた釜は益子焼き。メニューはお吸い物、フルーツの付いた特製であった。昭和天皇ご自身が希望されたのか、それともお側の者が推挙申し上げたのかは定かでないが、以来、「峠の釜めし」は宮内庁御用達として、皇室の方々に愛され続けている。

②■駅弁ことはじめ

日本の駅弁の始まりは、明治18年7月にさかのぼる。宇都宮駅で販売された駅弁がそれである。握り飯にたくあんというきわめてシンプルなものであった。

「峠の釜めし」の荻野屋が駅弁を扱ったのは、宇都宮にに遅れること半年、昭和18年10月のことであった。同じく、握り飯に漬け物で5銭という値段が付いた。それまで、荻野屋は街道筋で旅館を営んでいたのだが、鉄道開通を受けて、横川駅での駅弁販売に踏み切ったのである。

しかし、「峠の釜めし」の登場まではまだ73年という歳月を必要とした。

③■「峠の釜めし」誕生秘話

昭和30年当時、荻野屋の駅弁は振るわなかった。高崎、軽井沢という「上級」駅に両側を囲まれ、わざわざ横川で駅弁を買う乗客はほとんどいなかった。一日あたりの売上はわずか30~40食あまり。せっかく機関車の付け替えで停車時間があるにもかかわらず打つ手はなかった。

よし、それなら、お客さんに聞いてみよう--荻野屋社長・高見澤みねじはそう思うと、すぐに行動に移した。停車する列車の乗客に、どのような弁当が食べたいのか聞いて歩いたのである。
すると、乗客は口々に「どこの駅弁も同じだ。何か変化のあるものが食べたい」「冷たくて、米が硬い」と言うのであった。「峠の釜めし」の構想が湧いてきたのはまさにそのときであった。
変化があって、地方色があって、暖かい弁当--「峠の釜めし」はこうした着想から生まれた。

④■昭和33年2月10日(★)

釜めしが売り出された。値段は120円に設定された。陶器の値段がばかにならないのである。当時の駅弁の値段は平均80円。高くても100円という時代である。この衝撃的な駅弁の販売を管轄の国鉄高崎鉄道管理局は許可しなかった。重い、危険、ゴミになる、値段が高いなどが理由である。

再三にわたる交渉の結果、許可が下りたのは昭和33年2月のことであった。満を持して販売された釜めしであるが、当初はさっぱり売れなかった。何よりも認知度がなかった。期待に胸ふくらました売り子たちは、売れ残りを担ぎ、肩を落としたという。

⑤■「峠の釜めし」、全国区へ

そんなある日、釜めしが急に売れ始めた。列車から掛かる声は引きも切らず、駅に持ち込まれた釜めしはことごとく売り切れた。当初、何が起こったのか、わからなかったが、程なくして「文藝春秋」のコラムにに紹介されたことが判明した。

以来、「峠の釜めし」は売れに売れた。それを後押しするように、フジテレビで、荻野屋をモデルとしたドラマ「釜めし夫婦」が放送されて、「峠の釜めし」は一気に全国区となった。昭和天皇への積み込みが行われたのは、その年のことである。

この「峠の釜めし」の爆発的売れ行きは、一大駅弁ブームを生んだ。黒磯駅の「九尾ずし」、長万部駅の「かにめし」、苫小牧駅の「シシャモチップ寿し」など、地方色たっぷり、容器も一工夫加えられた駅弁は、旅の楽しみ、そして目的として定着していった。

⑥■立ち売り30年――「峠の釜めし」とともに

桐生富作さんは現在67歳。横川で駅弁を売って30余年になる。桐生さんが荻野屋に入ったのは、昭和45年、すでに釜めしブームが到来してからだ。それまで、林業に携わっていた桐生さんは体力に自身はあった。肩掛けに25個の釜めしを担ぎ、元気な声を上げる。

「釜めしー、釜めしー。釜めし、いかがですかー!」

朝は7時過ぎから夕闇が迫るまで、ホームで釜めしを売る。当時の報酬は歩合制であった。先輩の売り子さんたちは、それぞれの縄張りを作り、その中で次々と売りさばいていた。桐生さんも負けじと車窓を渡り歩いた。

ある冬の日、スキー客の若者で満載の列車がホームにゆっくりと停車した。「さぁ、来るぞ」と桐生さんは身構えた。一斉にホームに飛び出した乗客は、桐生さん目がけて殺到し、手押し車ごと後ろに押し込まれ、ホームにあった池に倒れ込んだこともあったという。釜めしの人気ぶりが偲ばれる。

⑦■「目迎目送」--峠の駅の日常風景

お昼前に、上野から「白山」が来るんですが、これが一番売れましたねぇ--桐生さんは当時を懐かしそうに振り返る。荻野屋トップの売り子であった桐生さんは、1日1500個の釜めしを捌いたそうだ。
当時の給料は7万円以上、「おそらく駅長さんよりももらっていたんじゃないですか」--桐生さんの顔がほころぶ。

列車に向かって、駅弁の売り子さんたちが深々と頭を下げる様子は横川駅の名物である。この「目迎目送」はおぎのやの精神である「感謝・和顔・誠実」に則っている。この精神は、おぎのや中興の祖・高見澤みねじ社長以来のものだ。

 服装には厳しかったですね。ネクタイや帽子が曲がっていると、よく注意されました。でもね、がんばった後には、「ご苦労様でございます」と仰っていただいて、よく褒美のタバコをもらいましたよ--桐生さんは、嬉しそうにみねじ社長を懐かしむ。

高見澤みねじ社長は、昭和58年9月17日、釜めし1億個達成を待たずして亡くなった。

⑧■日本最初の電化区間

明治18年には横川まで、明治21年には長野方面から軽井沢までの工事が完成した。信越本線の全通まで残すところ、横川・軽井沢間だけとなっていた。全長11.2キロ、直線距離で約8キロ、高低差はじつに553メートルというこの区間の工事は難渋を極めた。殉職者は500名超--。こうした尊い犠牲の結果、明治26年4月1日、ついに横川・軽井沢間が開通した。

峠を貫く横川・軽井沢間はトンネルが多い。急勾配のアプト式区間を喘ぎ喘ぎ牽引する蒸気機関車の煙は当然車内に充満した。乗客、乗務員ともにじつに1時間以上もの間、この苦痛に耐えなければならなかった。
こうした悪環境を解決するため、大正2年(★)年3月(★)、この区間はついに電化された。日本最初の電化区間には、10000型(後のEC40型)電気機関車が投入されることになった。

⑨■「峠のシェルパ」

大正11年、この問題(★どんな問題?★)を解決すべく投入されたのが、電気機関車EF63、別名「峠のシェルパ」であった。昭和38年にのアブト式の廃止まで、毎日峠を往復した。

★「峠のシェルパ」のエピソードが一つ欲しい。探してください。

アブト式時代に沿線で使われていた煉瓦造りの橋やトンネルは現在も残っており、国の重要文化財に指定され、歴史を物語っている。

長野新幹線が開通する平成9年10月1日の前日9月30日横川・軽井沢間は廃止された。横川駅は104年という歳月を経て、再び静かな峠の駅に戻っていったのである。

⑩■横川駅はいま…

早いもので、横軽間廃止から3年以上が経過した。特急列車が引きも切らずに発着したホームに到着する列車はほとんどなく、すっかり生気を失ってしまった様子である。跨線橋を渡った向こうのホームには、雨ざらしになった「あさま」が機関車に繋がって放置されている。

            ***

さぁ、間もなくですよ--桐生さんの表情が引き締まった。

高崎駅からの3両(★)編成の各停電車が1番ホームに入ってきた。桐生さんは、カートの釜めしにかかる布の覆いを取り払った。それから、ホームの端に直立するや帽子を取った。そして、入線する電車に深々と頭を下げる。

電車が止まりドアが開くと、乗客がホームに下り立った。そこで、桐生さんは声を上げる。

「釜めしー、釜めしはいかがですかー」

終着駅に下り立つ乗客に、駅弁カートで立ち止まる人はない。

「次の電車では必ず売って見せますよ」

笑顔の桐生さんの言葉に力がこもった。

高柳英麿さんは昭和8年2月4日生まれ。生まれも育ちも鎌倉です。

今も駅前のビルの経営者として、鎌倉を見守る高柳さん。著名人が集まる街、歴史と文化の街として名高い鎌倉の今と昔を伺いました。

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高柳: 横須賀線の敷設は、明治22年の6月16日。現在、米軍の基地がある横須賀に、日本の海軍が基地をつくったことから、軍用線というような位置付けだったんです。

明治時代には、蒸気機関車が走っていましたが、それがチョコレート色の車体の電車に変わりました。日本の電車のはしりです。

もちろん、当時は今みたいなアルミではなく、鉄でつくった電車でした。横須賀線が敷設されてから、文化人や実業家がどんどん集まってきました。

東京や横浜で事業をしている方が、「海風が健康にいい」ということで、鎌倉に保養の別荘をつくったのです。そして、その別荘に絵描きや作家といった文化人が遊びに来て。それで、かつての歴史ある鎌倉のイメージが確立されて、人口も観光客が増えていいたんですよ。夏目漱石や芥川龍之介の記述に、明治時代の風景が見られます。

─ 「海風が健康にいい」というのが発端だったんですね。

高柳: そうなんですね(笑)。
鎌倉の街区のつくりは、800年前と同じなんです。というのも、今の人口は大船まで入れて17万人なんですが、この市内だとだいたい6、7万。地方から武士や雇人が来ていた。そういう人たちが館を建てたから、鎌倉時代はいっぱい住居があったんですね。つまり、人口密度が高かった。それが今も変わらないので、自動車の交通を考えた街づくりというのができないんです。だから、渋滞がすごいわけですよ。

─ そうなんですね。昭和に入ってからの鎌倉駅は?

高柳: 第二次世界大戦のときは、駅前は軍人の送迎で人が集まり、電車もラッシュを除いた日中は30分に1本くらいでした。鎌倉駅には爆撃の影響はありませんでした。

─ 戦後はいかがでしたか?

高柳: 昭和30年ごろから、首都圏を中心に、地方から集団移住でたくさん人が出てきたわけですが、それによって神奈川県の人口がどんどん増えました。その影響で、観光客も増えました。歴史的なものが破壊から崩れていくのを防ごうと、川端康成とか大佛次郎(おさらぎ・じろう)といった人たち、それからお寺のお坊さんたちが立ち上がり、話題になりました。「鎌倉風致保存会」もできました。

今年がちょうど設立40年。昔、文化人が立ち上がって署名運動をしたりお金を出し合ったりして、八幡宮裏山の土地の開発を止めたこともありました。

─ 高柳さんご自身の、子どものころの思い出は?

高柳:当時、僕なんかが育ったころは、鉄道は一番のハイテクだった。だから、駅に停まる電車の下をくぐったりして遊んだものです。線路に釘を置いたりね。電車が通ると、釘がつぶれて磁石になるから。あとは、線路に耳をつけて、遠くから来る電車の音が聞いて、近くまで来ないうちに逃げたり(笑)。今考えると危ないけれど、昔はのどかでしたからね。そんな思い出があります。

─ 鎌倉駅といえば、三角屋根と時計台ですよね。これは昔から変わらずですか?

高柳: 鎌倉駅は明治22年にできたんですが、そのときからしゃれた洋風の建物ができて、大正時代には中央線の国分寺駅にも似たような、時計台のあるしゃれた駅になっていたんですよ。

─ 鎌倉駅は明治22年にできたんですが、そのときからしゃれた洋風の建物ができて、大正時代には中央線の国分寺駅にも似たような、時計台のあるしゃれた駅になっていたんですよ。

高柳: ここの沿線では、横須賀の軍港で進水式をやっていましたから、天皇陛下が横須賀線に十数回乗ってみえました。それで、横須賀線は品格があったんだと思います。

天皇陛下の「御召し列車」という言葉がありますが、当時は代々木の駅から、専用の列車で横須賀までお見えになっていました。今は代々木の特設ホームも使われなくなりましたが。

葉山御用邸の入り口の逗子駅は階段の上り下りがなかった。平らなわけです。従って、横須賀駅もフラット。つまり、そこに赤い絨毯をひいて、電車からすぐお出になることができた。

天皇陛下がお越しになるときは、改札口まで取りはずしちゃったというほど。もちろん、陛下は切符なんかお買いにならないわけですし。そうした皇族の方々を見かけることもありました。

駅には、和服の着流し姿の川端康成や大佛次郎が見掛けられましたよ。それに、大船に松竹の撮影所があったから、田中絹代とか、女優さんが駅に出入りする情景を見たことがあります。最近は、鉄道を使う有名人が少なくなったからあまり見かけませんが。強いて言えば、「みのもんた」さんぐらいかな(笑)。

横須賀線100年を記念して本を作りましたが、平成20年の120年の時にも本を作ります。

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