22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2006年01月

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斎藤哲雄さんは昭和4年6月22日、山口県下関市生まれ。

昭和22年に国鉄に入り、以来37年間勤め上げました。下関駅勤務時代は、出札を中心とした業務に携わりました。現在は、下関駅の歴史の研究に勤しまれ、その成果は、『下関駅物語』、『下関駅百年』としてまとめられています。 下関駅は本連載にぜひとも盛り込みたい駅の一つとして、昨年末予備取材のために訪問していました。その際、副駅長・野上さん、下関駅弁当の荒瀬さんに面会し、いろいろと興味深いお話を伺いました。それから10日後、駅は放火による火災によって焼失してしまいました。斎藤さんと焼け落ちた駅を訪ねました。「ショックの一言で、何も言い表すことはできません」長年慣れ親しんだ駅の無惨な姿を前に、斎藤さんは言葉少なげ。今回は、斎藤哲雄さんから、下関駅での出札掛の思い出を伺いました。

─下関駅に移られたのはいつですか?

斎藤:昭和34年です。昭和22年に17歳の時、国鉄に入って、最初は幡生駅におったんです。その後、小野田駅に10年ほどいまして、それから下関駅に来たんです。(小野田よりも近い駅を希望していたら)やっと「下関駅の出札が空いとるが、どうか?」とね。私は商業学校を出ているのでそろばんの方は自信があったので、出札掛をやっておりました。国鉄は、切符を売る人は出札掛、切符を切る人は改札掛というように仕事によってしっかり分けられていたんですね。

─ 1日の勤務はどんな感じでしたか?

斎藤:朝は8時30分に出て、翌朝の8時30分までの24時間勤務。そして翌日は休み。そしてまた24時間勤務というように徹夜非番、徹夜非番の一昼夜交代制でした。夜中に仮眠を取るんですね。早寝、遅寝の交代で4時間ほど。早寝の人は10時から2時まで、遅寝の人はその後。きつかったですが、それよりも盆や正月に忙しく、みんなが休んでいる時に働く方がきつかったですね。でも、今のような(休みを自由に取ることができる)身分になってみると、なぜあれだけ正月休みが欲しかったのかわからない(笑)。

─ 鉄道職員の皆さんは一般の人が休みの時に忙しくなりますからね。
仕事もたいへんだったのでは?

斎藤:ええ、当時は「弁納」という制度がありましてね。私たちは出札掛ですから、切符の売上を終列車が出たら計算するんですが、これがけっこう合わないことがあるんです。計算が合わない時は、原因がわかるまで何回も何回もチェックやらないけん。それでも合わないと給料から弁償せないけん。これが弁納。月当たり 2,000円とか3,000円になることもありました。中には2万円、3万円になっている人おったんですが、2万円、3万円といえば月給と変わらない。でもその人はケロッとしとる。家がお寺で暮らしには困っていなかったようで、金銭にクヨクヨしないと言っていました(笑)。

─ そんな制度があったのですか。

斎藤:もっとも売上に応じて手当――売上手当が出たんですが、月に500円とか600円くらい。それより弁納の方が大きくなることが多いので泣かされました。今はコンピュータだから間違いも少ないでしょうが、私らの時はせいぜいそろばん。それに自動券売機もなかった。いつも長蛇の列ができておって、いかにお客を掃かすかについてはいつも考えていました。掃かし方がへたやったら仕事になりませんから。こういう割に合わない仕事ですから、「俺は出札掛はせん」と拒否する人もおりました(笑)。

─ 失礼なことを申し上げるようですが、こういうお話を聴くまでは、出札掛って楽な仕事だと思っていました。

斎藤:暑さ寒さ知らずやろうなんて言われますが、そんなものじゃありませんよ(笑)。たいへんな仕事だったんですよ。昭和30年代、40年代当時は、日曜日の午前中、小倉に出る人が殺到するんです。九州(方面の窓口)は7番、8番――1番から3番はみどりの窓口、5番、6番は山陽東海道、9番、10番が山陰の窓口というように分けられとったんですが、小倉行きの切符はたくさん出るんで、すべての窓口で買えるようにしたんですね。多い時は、ひと窓で1日6,000 枚ぐらい売れました。こういう時は、あらかじめ日付を入れて、200枚、300枚手元に用意しておく。混雑する駅はどこでも何か工夫しとったと思いますね。

─ 6,000枚! 12時間かけて売ったとしても1時間あたり500枚。1分あたり8枚ということになりますね。

斎藤:出札掛はお金を扱うという点では、銀行員や郵便局と同じですが、あの人たちと私らが違うのはスピードと正確さを同時にやらないけんということです。お客に急かされながら、発車間際に駆け付けて「汽車、間に合わんぞ! どないしてくれるか!」「早せえ、間に合わんぞ」と怒鳴られることはしょっちゅうで、窓口がダンゴ(=長蛇の列)にならないように、右でお金をもろうて、左で切符を出すようなこともしていましたよ。



─神業ですね。

斎藤:年間通じていちばんたいへんやったのはやはり年始でしたね。九州の故郷におった人が下関にやって来て、ここから列車に乗ろうとするんですね。ご存じかと思いますが、下関は交流と直流の分かれ目の駅なので、直流専用の特急電車は下関までは下がって来れるけど、九州までは入れんわけですよ。(博多など九州からの直通列車は少ないため)下関駅始発の特急が多かったんです。「はと」とか「しおじ」とかですね。

お客さんは帰りの指定券を持ってないと、みな下関に行くんですよ。下関に行ったら、自由席は座れる、指定券も買いやすい。だから、お正月はずいぶん忙しい思いをしました。初盆の人とか契りごとのある人以外は全員出動態勢です。

私たちの正月というのは、正月輸送が済んでから(笑)。こういう混雑する時は、100円札が山のようになって、机の引き出しが一杯になって、溢れ出しそうになっていました。そうなっても数える暇もない。それを夜、8時頃になると勘定するんですね。夜の7時半か8時になると、売上計算をするんです。切符に書いてある番号――残存番号というんですが、それをお互いに読み上げながらチェックしてから引き継ぐんです。売上計算をパチパチそろばん弾いていると、そのうち間違いが見つかって、「あっ、損した!」なんて......(笑)。そうなると、寝る間も惜しんで再計算する。

─ 正確さとスピードの両面が求められるんですね。

斎藤: なんでそんなに時間がかかるのかというと、国鉄には割引制度がとても多いんです。季節割引とか学割、身体障害者割引、あと戦傷者割引というのもあって、さらにそれが割引率によって何段階にも分かれておったんです。それともう一つ、小児断片というのがあって、子供の切符をはさみで斜めに一部を切り落としたものですね。それが小さくてよう無くなるんですね。大人2人、子供2人という場合、大人の切符2枚に、小児断片が2枚出るでしょ。それに学割がかかってなんてことになると、計算が多いですよ。

今はコンピュータですから、そんなに間違いはないでしょうが。でも自動券売機にようけ並んでいるのを見ると思いますね。あれで年寄りがどこまでいくらで、なんて調べながら買っているのを見ていると、昔の出札のが良かったと思います。1枚買う間に、5枚も売っていたのですから(笑)。

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■21(土)

東京 18:06 はやぶさ

■22(日)

博多

下関 斎藤氏取材

■23(月)

柳井まで鈍行で移動。駅前で一献。列車送れる。

柳井 はやぶさ

■24(火)

東京

●放火された下関駅

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●海峡ゆめタワー

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●古写真

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●唐戸港

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昭和39年の国体の時は、選手の皆さんが宿泊されました。
選手のお弁当を金谷山に運んだことを覚えています。麓まで車で行って、それからお袋といっしょにお弁当を背負って。
金谷山はスキー発祥の地で、当時、スキー客も増えてきましたので、乾燥室を作ることが旅館の条件になってきたんですね。

国体の時は、天皇陛下もお見えになりました。私たち小学生は国道18号に出て、小旗を振ってお迎えしました。新潟地震も同じ年です。震度4くらいでしたか。小学生でしたが、先生に言われて中庭に避難したことを覚えています。それまで地震らしい地震はありませんでしたからね。でも、旅館には地震の影響はありませんでした。

宿泊されるお客様には、本町商店街へ出入りする商売人――問屋さん、あと知命堂病院や中央病院がありますから、製薬会社の人もいました。問屋さんとしては繊維関係。本町には繊維問屋さんが多かったですから。新潟からも、東京からもおいでになりましたね。
高田は総合庁舎などがありましたから、林務、土木など、お役人の出張が多かったです。当時は新潟からでも泊まりだったのです。自衛隊の偉い方がいらっしゃる時は、駅前から橋まで、ジープが並んだことも。うちにも泊まられましたよ。
新潟大学芸能科――昔の新潟師範ですね――がありましたので、受験生も泊まったり、各種スポーツ大会関係者も宿泊されました。
1月、2月はスキー、4月は花見、夏は海水浴。当時は海水浴が流行っていて、谷浜が賑わっていました。臨時列車が出るくらい人出がありましたね。直江津がいっぱいで泊まれないと、高田で泊まるというわけです。

駅の裏の今の駐車場のあたりは、当時貨物ヤードで日通さん関係で物流がありました。そうなると人も動きます。活気がありましたね。
いづも屋デパートはじめ商店街も賑わっていました。当時の高田の人たちの休日の過ごし方というと、いづも屋で買い物をして、「品川」という食堂でごはんを食べて、本町でぶらぶらしてというものでした。映画館も3館ありましたからね。

昔は雪が多かったですね。ここは駅前通ですから、除雪は一生懸命やっていましたが、それでも時々通行止めになりました。
雪で列車が止まると、炊き出しです。駅周辺の旅館は、旧国鉄と協定を結んでいまして、そういう時にはお宿を提供することになっていたんです。足止めを食ったお客さんには、広間に泊まっていただきました。雑魚寝でしたけど、お風呂に入っていただいたり。こういうことが数回ありました。除雪隊の人夫がお泊まりになる場合もありましたね。

旅館は21部屋ありました。昭和39年春に改装し、宴会部屋を作って、部屋も一回りずつ大きく、広間も増やしました。

朝食の準備は6時くらいから。ごはんにみそ汁、卵焼き、納豆、のり、和風の献立です。当時は一泊二食付きが基本でした。お客様も街に飲みに出ることはあまりなくて、接待で仲町に出るくらいでした。今は片泊まり、朝食のみ食べられてという方が多くなりましたが。部屋も六畳にお二人、八畳に三人。大きなお風呂があり、宴会場や広間もありました。
5時半に起きて、玄関開けて掃除して、6時から朝食の用意です。7時からお召し上がりいただき、9時頃には終わります。当時はふとんを上げてあげてから、お部屋で朝食をご用意、部屋出しでしたから重労働でした。
それから、午前中いっぱいかけて掃除して、3時か4時くらいから夕食を仕込みます。ご到着のピークが6時から7時。
夕食を召し上がっていただき、その後、お風呂。その間におふとんをひきます。後かたづけを終えると9時。こんな一日でしたね。

お袋が切り盛りしていました。板前さんが2人、住み込みの人が3、4人。昼間は、近所の人たちが手伝いに来る。親父は外回りです。旅館組合長や商工会議所議員をやっていましたから。お客様の前に出ることはめったにありませんでした。(旅館業を)とくに教わることはありませんでしたね。親の姿をみて学んだんです。

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