22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2005年11月

■10(木)

甲府…県立大学

長野

■11(金)

長野

高田

安塚

■12(土)

浅利氏?

埼玉県秩父市(吉田)のご出身。大正4年4月15日生まれ。

1、お祭り(絵葉書の中から)

-お祭りの思い出といえばなんでしょうか?

何と言ってもね、12月3日にある(出身地である)夜祭(秩父夜祭)が思い出です。秩父神社の夜祭は、三大祭り(日本三大曳山祭:他 京都祇園祭、飛騨高山祭)なんです。中でも屋台(と呼ばれる山車)が団子坂を駆け上がるところ(シーン)と芸者の踊り(花柳一門と杵屋一門による「引き踊り」)は見事で、小さいころからよく観てきました。あっ、私は参加しないよ、観るだけ(笑)。屋台はねぇ、裸の男たちが「わぁー」ってすごい勢いで屋台を引くの。それはすごかった。それと花火ね。羊山であがるの。この花火は大きくて、他の花火とは全然違うの。


2、(私の祖母と父が旧満州に居た、という話の流れから)戦争中

-そのときの印象に残るお話しをお聞かせください

天皇陛下のラジオ放送(玉音放送)を近所の皆と聞いたときは、ただただその場で泣き崩れてしまいました。戦争はとにかくひどかった。火の見櫓の鐘から、それから家の中まで調べられて、八寸尺の刀や懐中電灯、それから蚊帳の入り口の真鍮まで、それこそ何でももっていかれたのよ。でもそれで戦争は負けるな、って思った。私は秩父にいたけれど(空襲など、直接的な被害はあまり無かった、という意味)それでも近くが空襲に遭って、サイレンが鳴ると子供を(当時三人)抱えて逃げ回ったのよ。下の子(恐らく三番目)は小さかったからね。とにかくオムツ(当然布)だけあわててもってね、必死で逃げたのよ。この辺り(住んでいたところ)は年寄りと女、それと小さい子供だけ。土で鍋を作って、そこに松を入れるのに(松の油採取)、松を切らなきゃならない。それが堅くてねぇ、のこぎりなんてないから(もっていかれてしまったため)ホント大変だったのよ。

食べるものもない 着るものもない

それと本当に食べるものが無くってねぇ。お米も(配給?)一合だけ。お腹が減って仕方なかった。子供もいるし、とても足りないから、山へ出て、摘み草を採って食べていたのよ。それからくず芋。それと砂糖代わりに、豆板とさつまつるを粉にして使っていたの。物を手に入れるのはすべて物交換。そういう状態でした。もう二度とあんな戦争はしたくないもんだねぇ。


3、戦後~(取り留め無く)

家電

-ご飯を炊くのはどうされたのですか?

釜でやったの。それからガスになって、そして電気。とっても便利になったねぇ。子供達が小さい頃は、朝起きて、釜でご飯を炊いて、朝ごはんの仕度をしてから今度は洗濯。そのときは手洗いよ。洗濯機なんてものは無かったから・・・。そう言えば初めて洗濯機を買った時、(洗濯物を)いれるでしょ、それから手で回して洗ったんだから(笑)。横にハンドルみたいのがあってねぇ(笑)(自走式のものなのでしょう。もちろん私は見たことがありませんでした)。そして畑仕事。子供(恐らく四番目)はずっとおぶりっぱなし。背中にね。今みたいに前でおぶれないから。それじゃあ仕事できないでしょ。子供もよくぐずって大変だったと思うけど、私も本当に毎日大変だったのよ。

50(歳)を過ぎたくらいから(43年前くらいでしょうから、昭和40年くらい。ちょうど高度成長時代)横浜(鶴見)に出て働き始めたの。息子が「遠いから近くに出てきなさい」って(当時は未だ秩父にいらしたそうです)。68(歳)まで働いた。

-何をやってらしたのですか?

工場でね、流れてあがってくる仕事を順番にね(ライン)。半田付けとかね、いろいろやったのよ。それは今のためにね(老後の生活)。子供達の世話もいいけど、やっぱりね、自分で自分のことは考えなきゃ!でも息子に見つかると「そんなに働かなくていいんだっ」って怒られたのよ。だからね、見つからないように、コソコソ働いたのよ(笑)。


好きな歌手、TV等

美空ひばりさん。たくさん観ました。あのひとは本当にすごい。歌も芝居も。本当にそれになりきってる。そこがすごい。ここで(ヴェルデの森)紙芝居をしてくれる杉本さん(職員の方)も上手。美空ひばりみたいになりきってるの。歌も上手だしねぇ(杉本さんを見てとびきりの笑顔)。あとは水戸黄門。今は里見幸太郎がやってる。この間子連れ狼がやってた(北大路欣也)。昔よく観たのよ。そして巨人ね。最初は全然わからなかったんだけど、毎日テレビをつけるもんだから、知らず知らず覚えちゃってね、ウチは家族全員巨人ファン(横浜なのになぜか・・・)!


4、昔と今の地域(質問させていただきました)

昔の近所はね、皆思いやりがあったわ。先祖代々からのつきあいでしょ、何もなくても集まって、お茶飲んで。それからおしんこやおにぎり持って原っぱに行ってね、摘み草採ったりしていたの。誰かがちょっと調子が悪いとね、おかゆを作って持ってったりねぇ。助け合ってたわ。

・昭和15年入隊。20歳のときだった。
・6ヵ月後に霞ヶ浦の航空隊へ行った。ぐるぐる回る訓練装置の中から出てきたときに足元がふらついてしまったため、海軍の飛行機整備兵にされた。
・その後、青森県の三沢へ。三沢基地整備のために、網走刑務所から2000人の囚人が駆り出された。囚人たちは煙草を欲しがったので、私は密かに、煙草を地面に落とすふりをしてあげていた。
・一式攻撃機を整備していた。
・三沢の後は木更津へ行き、その後マーシャル群島のタロマ島へ行った。タロマ島の原住民に煙草をあげたら、お礼にたくさんのバナナをもらった。いま日本に売っているバナナと違って、自然に黄色く熟したものなので、すごくおいしかった。
・スコールはシャワー代わりになった。みんな裸になって体を洗っていた。
・その後、私はデング熱にかかってしまった。27名のみ一時帰国命令が出て、私はその中の一人だった。
・帰国後は三重県の鈴鹿へ。海軍大佐の従兵として、大佐を送迎したりしていた。
・兵隊には特務という名前がつくものがあった。特務大尉など。兵学校からきた者には特務という名前がつかなかった。特務と特務でない人とは態度がちがっていた。
・鈴鹿で仲の良くなった女性がいたが、私の兄が迎えにきて、実家へ帰ることになった。新潟の実家は精米などをしているお店だった。兄のすすめで、兄嫁の妹と結婚した。
・その後兄の事業の手伝いとして、元住吉に来た。

・静岡県の藤枝生まれ。家は代々の大工。
・昭和20年1月25日に、志願兵として入隊。当時17か18歳。
・沼津で入隊し、広島へ行く。昭和20年の6月に広島から大阪へ。2カ月違いで、広島に落とされた原爆の被爆をまぬがれた。
・大阪で終戦を迎えた。終戦直後は警察もいなかったので、藤枝の飛行場へ忍び込み、パラシュートを盗んだ。生地を三角に切ってマフラーにしたら大売れした。
・昭和21年から、藤枝で大工の腕を活かしてパチンコ台を製造した。材料は清水港から仕入れた。
・県内のパチンコ屋が、新台を求めて毎日リヤカーを引いて買いに来た。
・当時の景品は煙草。現金の換金はなかった。
・昭和30年くらいまでパチンコ台の製造が大当たりして、財をつくった。
・その後はマンションの内装をやった。30人くらいの職人を使っていた。
・父は東京駅の赤レンガ造を手がける職人。私も丸ビルや迎賓館、目黒雅叙園、横浜市役所など多くの内装を手がけた。
・姉夫婦は満州鉄道で働いていた。日本に引き揚げるとき、夫婦は船に乗れたが子供は乗れず、殺される場合があった。姉は袋に息子を入れて呼吸用の穴を開け、荷物のふりをして船に載せた。無事帰国できた。その息子はその後三井銀行の支店長にまで出世した。人生は運だと思う。

 本当に 思いがけずに長生きしたものです。この年齢になって思うのは、永く生きているものは人間的に純粋なものを持っている人が、その対局にある人か、中間にある人はほぼなくて、真ん中はなくてそのどちらかのように思えます。
私は時折、自分自身がおそろしくなる時があります。まるで、お手玉でもするように自分の周囲にいる人を動かす事に対してです。通常の付き合いでは微塵もそうは見えぬ「ワル」になりきらないと、この年齢まではとてもとても生きてはこれませんでした。仕事を裸一貫から大企業に成長させた人物は、清々しい人柄と同時に私が思う「ワル」です。
私の生まれた家は、当時はとても珍しかった写真屋さんをしていました。地下に真っ暗な現像用の暗室があったのは、子どもの頃からしっかりと覚えています。
太平洋戦争での大阪大空襲の後だったでしょうか。死んでしまった妹をリヤカーに乗せて、本来なら荼毘に付してもらう場所まで運びました。そこで見たのはこの世の地獄絵図です。
荼毘に必要な薪が増え続ける死体にまるで追い付かずに、積み上げられた死体からは体液がだらりとかなりの遠くまで流れだしている。まさに、地獄を私はそこに見たのてでした。
また、同年の男子たちが「鉄の棺桶」と後に表現された人間魚雷として死んでいったのは、飛行機を使った神風特攻隊のように広く知られてはいないけれども、酷い事この上なかった。暗黒の海の中 自爆するためにぎゅうぎゅうの狭い操縦席に乗り死んでいった青年たち。もう、戦争は起こってはならぬ。妹の死、そして酷い死を余儀なくされた若者を思うと胸に悲壮な決意が疼くのです。
 私が成人して結婚してから生まれた娘に先立たれる体験をしました。この時、神も仏もないものかと私は張り裂ける世の無情に晒されました。替われるものなら私が替わって死にたかったと。
老年になり、夫に先立たれた折りも立ち直るまで数年かかりました。

生年:大正7年5月14日(満90歳)
ご出身:お父様の転勤のため栃木を中心に関東一円を7回引っ越すー> 一番最後の宇都宮を出身地としている

1.出身地をお尋ねした時から自然と幼少期の話がはじまりました。

「父が東電だったので、電気製品は新発売のものはすぐに家で使っていたのよ。ほら、実際に使ってみなくては人様に売ることができないですからね。」

「結婚まじかだったのに、22歳から26歳までずうーっと寝たきりの病人だったんですよ。盲腸をして、十二指腸潰瘍、目の病気と続いて、やっと28で片付きました。寝床にいながら空襲警報が鳴るたびに、寝床ごと防空壕に担ぎ込まれていましたよ。」

「家にはいつも電気製品がたくさんあったから、私28で結婚するまでご飯を炊いたことがなかったのよ。結婚して初めて大きなお釜を洗ってお米をとぐということをしたの。炊くのもまきでしょう。もうたいへんでしたよ。」
「父がね、野球ぐらい知らなきゃ嫁の貰い手が見つからない、といって東京6大学野球に私を毎回連れて行きましたよ。サイドカーでお友達と鹿沼から東京まで行くんですけれどね、私は恥ずかしいから、別で電車で行きました。おかげで今もテレビで野球をやっていると見ますねえ。」

「家にはねいつも音楽があり賑やかでしたよ。母は「びわ」をやっていました。父は「アコーディオン」、弟は「ギター」「ハーモニカ」等が上手で、夜になると
さながら家庭コンサートが始るんですよ。家で大きな犬を飼っていたんですけどね、音楽が始まると遠吠えをはじめたものよ。だからうちはうるさいの。うるさいから家を探す時には隣から離れた所を探して住んだんですよ。」

「弟が3人いましてね、一番上が大学卒業後軍事会社に勤めておりました。2番目がね、9月で終わる大学で特攻隊として沖縄まで行きました。少年兵の指導をして、最後は自分も特攻隊として飛ぶんだといって飛行機の中で(おふくろー!)って叫んだそうです。少年兵たちがみんな特攻隊で飛んで行ったのに弟の飛行機は飛ばずに、それを修理している間に終戦になったんですよ。終戦になってもしばらくは家に帰ってきませんでした。しんだつもりで特攻隊へ出かけたのに、こんな形で生きて帰るのは忍びない、といって連絡をよこさなかったのですが、周りの女子青年団の方が手紙をくださって、(弟さんは生きていますよ)って。しばらくして帰ってきましたが、その後は造幣局へ勤めました。」
「3番目の弟は、耳が悪くて兵役をはじかれて、国鉄に勤めておりました。そこで米兵の輸送を仰せつかって、、、当時弟は19歳でしたから、同じ年の米兵2人と仲良くなり、日本の家庭とはどういうものか見てもらいたいと言って、家に連れてきて泊めたことがありました。そして、こんな日本の家庭を戦争は壊したのだぞ、もう戦争はしてはいけないって説教をしましてね、そうしたら米兵は涙をこぼしながら聞いていたそうですよ。」

2.懐かしのイラスト集を見て
(釜)「うちには釜はありませんでねえ、父が東電でしたから炊飯器を使っていました。白くて筒になっている形の・・・」
(蚊帳)「うちには白い蚊帳がありましたよ。下のほうが水色になっているんですけど・・)
(行李)「あー、行李ねえ。将校行李を知ってますか。戦争が終わってその中に軍旗やら軍服やらを入れて主人が帰ってきたんですよ。戦争、負けましたからね・・・」

<震災・戦災についての記憶>


1、関東大震災

 あの時は小学校4年生でした。驚いて、慌てて畑の方に逃げていったの。どうやら横浜の方で火事があったらしく、遠くから何か(燃えかすなど)が飛んでくるのが見えたんです。
 それからしばらくすると、多くの人がこちらへと避難してきます。迷子になった子どもを捜す人の姿もいました。私の実家は農家だったので、物置の中には年貢米がありました。そのお米を炊いておにぎりを作り、逃げてきた知らない人に食べさせてあげた事もあったんです。
 その時代は何しろ、ものが無い時代でした。他の農家の手伝いをして、(その見返りに)食べ物をもらったこともあります。
 でも震災の時はまだ幼かったし、農家だったこともあって食べ物にだけは困りませんでした。けれど戦災は酷かったのを覚えています。焼け出されて逃げ出し、母親の実家の側に移り住んだ時には「焼け出され」なんて馬鹿にされましたよ。


2、戦争
 戦争中は震災の時とは違い、食べるものがありませんでした。焼け出された為によそのウチの軒下を借りて生活をしていたんです。手作りの小屋を建て、そこに住んでいました。引っ越してきた晩に雨が降って…。まぁ素人が作った小屋ですから、雨漏りをしたんですよ。だから寝る場所が無くなってしまい、端っこに全員で固まって眠ったんです。
 お舅さんが病気のために、田舎からこちらへ移ってきて、それからしばらくすると雪が降ったことがありました。布団の上に雪が積もった様子を見て、お舅さんが「雪の上で寝るとは思わなかった」なんて言いましたよ。娘の所に行けたはずだろうに、お舅さんはそっちに行かず、結局その狭い小屋で死んでいってしまいました。悲惨な思いをしましたね…。江戸川区の一之江に移った時の話です。


3、千人針

 さらしの反物に、筆の後ろをスタンプのように朱肉で押していく…。それを千人分集めるの。そしてその印一個一個に、赤い木綿糸を通して結んでいくんです。それを腹巻きにすると鉄砲玉にあたらない、というおまじないなのよ。
 若い娘さんたちが駅に立って、「千人針お願いします」と言いながら、通る人に一つずつお願いしました。本当は一人につき一つしか印を押せないのですが、寅年の人だけは一人で全部作ってもよかったの。虎は千里行って千里帰る、どこへ行っても帰ってくるという言葉があったからね。私は寅年だったので、一人でたくさん作りましたよ。



<生活・暮らしの記憶>

1、農家の仕事と学校

 学校へは、農家の手伝いの合間に通っているようなものでした。木造の校舎の廊下は、歩くたびにキシキシと鳴ってその音も懐かしいわ。たくさんの人が歩いているから、階段や廊下に踏んだ跡があって、その部分がへっこんでいたの。
 農家の手伝いでは、よく市場へ野菜を運んで行きました。大八車で運んで行きましたが、道路に石なんかがあると、それを乗り越えるのが大変でした。子どもの頃、よくその後ろに乗せてもらったのも覚えています。


2、火鉢

 葛西に移ってくる時に処分してしまったけれど、家族が多かったから、火鉢はたくさんありました。五徳(※火鉢や囲炉裏など、炉の中で鉄瓶や鍋などを乗せるための器具)の上に網を敷いてお餅を焼くと、プク~っと膨らんで、その様子を見るのがまた楽しかったの。
 みんなで手をあてて暖まったりもしました。火鉢を囲みながらいろいろな話もしたんです。結構暖かいんですよ。
 普段は鉄瓶をかけて、いつもお湯が飲めるようにしていたの。今のようなアルミ製ではなく鉄瓶だったから重かったけれど、その鉄分がお湯に染み出して、すごく水がまろやかで美味しくなったんです。


3、お正月

 お正月には、みんな新しい着物と下駄を揃えました。そう考えると、母親は偉かったのよね、昔は。朝起きると下着から着る物から帯から、一人一人の枕元にみんな置いてあるの。いつ襦袢なんか縫っていたのかと思うほどでしたよ。
 「一年の初めだから、新しいものを着なさい」と言って、全部新しい物を用意してくれたのよ。今はもう、お正月もお盆もあまり関係なくなっちゃったけれどねぇ…。そういう点では、昔の方がきっちりしていたんですね。
 お正月には、獅子舞や漫才師が来ました。毎年来る家が決まっていて、そこで芸を披露し、お祝儀をもらって帰って行きました。消防の出初め式が1月の6日だったかなぁ…とにかく、決まった日に行われたの。それを見ると、「ああ、年が改まったんだなぁ」「一年が始まるんだなぁ」という気分になって、嬉しかったのを覚えています。
 そして普段はもらえないお小遣い…お年玉がもらえるんです。朝起きると、紙でくるくると巻いたお金が枕元に置いてあって、その中身は子どもの年に応じて違っていました。
 そのお金は何にでも使って良かったのよ。だから嬉しくて、普段は行けない駄菓子屋に行ってお菓子を食べたり、当て物をやったり、紙芝居を見たり…。普段厳しかったからこそ、そういう事がとっても楽しかったんだと思います。

<戦災の記憶>


1、疎開

 私は東京の浅草にある寺の、9人兄弟の末っ子として
生まれました。当時は寺の家族、出家のお坊さんや女中
さんを入れて13、4人くらいが生活をしてたけれど、
戦争の為に疎開をしなければならなくなたんです。
 親戚が近所にいなかったので、日本のシベリアといわ
れた信州の唐沢山という場所でした。家族が多かったも
のだから、その半分は甲府の石和(いさわ)という場所
にある無住の寺に引っ越したの。
 半分になった家族の連絡係として一番動きやすかった
私が、主に連絡係として信州、甲府、東京を行ったり来
たりしました。兄や姉と一緒に大八車を引っ張り、夜の
道路に寝て甲府まで食料を運びました。東京へは真夜中
の空襲を避けながら汽車に乗り、その中で一夜を過ごし
たこともあります。
 その時の食事は茶封筒に入れた、煎った大豆だったの
ですが、甲府の人に「東京の人間はさんざん贅沢してき
たんだから、同情なんてすることない」と言われたのが
凄く悔しかったのを覚えています。


2、防空壕

 当時、それぞれの家に防空壕を作れという決まりがあ
りました。空襲の際にはそこに避難するのですが、それ
が作れない住民たちは、町内の防空壕に入ったんです。
 静岡の寺の養子に入った兄がいます。6月の20日の
大空襲の際に、お墓の所に作った防空壕に入っていまし
たが、お爺ちゃんとお婆ちゃん、それにお嫁さんと子ど
も3人が全員焼け死んでしまいました。防空壕には扉が
無かったので、ウワーって爆風が入ってきたんです。で
も兄一人がかろうじて生き残った。頭から足先まで全身
大やけどだったけれど、それでも何とか生きていたの。
 家族全員を亡くした兄は、生きているのが嫌だとさん
ざん嘆いたんだけど、私は「あなたが死んでしまったら
、誰が家族を供養するのよ!」と説得をしました。兄は
今年で94歳になりますが、現在も静岡で暮らしていま
す。
 私が蔵前で空襲にあったとき、入った防空壕が道路に
面していました。もの凄い爆風が起こって、私の嫁入り
道具の着物、それからお布団なんかが、ボウボウ燃えな
がら目の前を転がっていくんです。ホントに目の前を通
ったんだけど、取りに行くこともできなかった。
 ちょうど爆風の届かない所に隠れていましたから、私
たち家族は助かりました。その時、私は飼っていた黒い
犬を抱えていましたが、その犬の毛に火が着くんですよ
。だから私は必死にその火を消しました。
 それら戦災の光景は、ホントに見た人でなければ分か
らないと思います。


3、戦後

 蔵前の寺は戦争で全部焼けてしまいましたが、その寺
の境内の敷地を、遺体置き場にしたんです。300近く
の遺体が境内に並びました。私も遺体を運ぶのを手伝っ
たんですよ。リヤカーに乗せて、また違う遺体置き場に
運んでいったりするの。焼けた遺体を持つその時の手の
感覚は、未だに忘れられません。
 そうやって運び込まれた遺体の中には、焼けこげた人
ばかりではなく、煙を吸ったために亡くなった綺麗な遺
体がありました。親子で並んでいて、私はそれがすごく
気になったんです。
 それから遺体が持っていた物を剥ぎ取っていく人もい
ました。いくら物が無い時代だからといっても、それは
あまりにも酷いことだと思いました。先ほど、私の嫁入
り道具が燃えたとお話ししましたが、唯一ミシンだけは
残ったんです。燃えませんからね。そのミシンも盗まれ
てしまいました。
 私はその時まだ結婚していませんでしたが、主人の姉
が私の一番上の兄の嫁だったんです。その姉の実家、南
千住の三ノ輪の寺が焼け残っていたので、戦後はそこを
拠点としました。
 戦争後は食料も少なく、道ばたに生えていたもさえ食
べました。山に入り、オンバコを採って食べたこともあ
ります。サツマイモは実よりも茎を良く食べましたね。
実が食べられるのは贅沢でした。
 時には物々交換もしました。正目の通った桐の下駄を
、農家へと持って行ったんです。普通に売ればかなり高
価なのに、交換できた物はカボチャ半分…。それを家族
10人で分けて食べました。今と比べると、ホントに物
が無い時代でしたね。



<家族・暮らしの記憶>


1、大家族での暮らし

 戦争前は七堂伽藍のある大きな寺だったのですが、戦
災で建物が燃えてしまい、狭い部屋で兄弟大勢が寝てい
ました。8畳間に8人――まさに川の字でした。焼けて
しまった寺を復興しようと、父は奮闘していました。で
すがその為なのか、父は私が7歳の時に脳溢血で亡くな
ってしまいます。兄弟が多かったこともあって、後年父
の遺志を無事に果たし、復興を遂げました。
 私は兄たちを凄く尊敬して育ちました。兄たちの言葉
には従い、ちゃぶ台を囲んでいろいろな話をしたり、分
からない事を教えてもらったんです。もちろん時には喧
嘩もしましたが、近所では「あんな仲の良い兄弟はいな
い」と評判になるほどの兄弟でした。
 境内が広かったので子どもがたくさん集まり、そこが
遊び場となりました。そこでは戦争遊びをしました。…
まぁこれは男の子の遊びですね。女の子たちは手をつな
いで、昔の鼻唄を歌いながら遊んでいました。それぞれ
が日の暮れるまでね…。今思うと、その頃が一番楽しい
時代でした。
 夕方になると、母がみんなに向かって「帰りなさい」
と言います。すると子どもたちは「夕焼け小焼け」を歌
いながら帰っていきました。
 その後の夕食は必ず、ちゃぶ台に家族全員が揃って食
べました。父が亡くなっていたので母を中心に、座る場
所が決まっていたんです。その席では、お寺の修行の話
やお経の勉強もしました。私もその時いろいろと教えて
もらいましたね。


2、チッキ・柳行李

 夏に一ヶ月くらいの旅行をしました。藤沢に一軒の家
へと行くため、両国の駅から藤沢への列車での旅です。
7月終わりから8月始めくらいに両国で花火が上がるん
です。荷物を柳行李に詰めて、そんな両国の花火を見な
がら旅行へ出発するのが、毎年の恒例となっていました

 旅行する時にはチッキと言って、今で言う宅配便のよ
うなものがありました。荷物を駅の受付へ持って行くと
、チッキが貨物列車で運んでくれるんです。
 昔はみんな旅行をするときは柳行李を持って行きまし
た。便利ですからね。柳行李はたくさん物を入れても、
それに耐えるように作られていたし、逆に荷物の少ない
時には、小さくしっかりとなる構造になっていましたか
ら。縁などの、籠のほつれやすい部分には布があてられ
ていて、高級品ともなると、柿しぶが塗られています。
 私の嫁入り道具を入れた柳行李には家紋が入っていた
んですが、先ほどもお話したように全部焼けてしまった
んです…。嫁入り道具を準備して、明日疎開に出そうと
した3月9日の晩に空襲があったんですよ。積んであっ
た物が全て燃えたから、すごく思い出に残っています。


3、鏡餅

 お正月にお供えする鏡餅は、実家がお寺だった事も手
伝って、たくさんありました。一番大きい鏡餅は本尊で
、そこから順々にお供えされていくんです。檀家さんが
みんな持ってきてくれるんですよ。
 それが日が経つとだんだんとひび割れてくるじゃない
。それを鏡割りの時に砕いて水に入れて、水餅にするの
よ。硬い部分は油で揚げて、子どものおやつになったし
、水餅は蒸して安倍川餅にして食べました。決して無駄
にはしなかったんです。量が多いからいつまでも残って
いたけど、絶対に捨てなかった。15日は小豆がゆ、2
0日はお汁粉の日など、その時はみんなでお餅を食べた
んです。

福島さんは大正11年10月20日生まれ。ご主人が父の代から静岡在住、伝馬町小学校のすぐそばに住んでいたそうです。ご主人は戦争中東京にいて、戦後静岡に戻り、富貴子さんと結婚されました。昭和28年から34年までの6年間、伝馬町小学校のすぐそばの自宅で駄菓子屋を営んでいたそうです。

住まいのあったところは八幡小路と呼ばれ、路地裏に子どもがあふれていました。貸本屋が子ども達のたまり場で、時々来る紙芝居屋に子どもたちが群がっているのを見て、駄菓子屋をやってみようと思ったんです。近所に古道具屋があったので、そこでお菓子の台やせんべいの瓶など買い求めて。みそおでんを作ったり、段々に鉄板も用意し、焼きそばやお好み焼きも作ったんですよ。

おでんは四角いケースに入れてね。厚揚げや小粒のジャガイモ、ちくわに黒はんぺん、牛筋にコンニャクなどを串に刺して鳥ガラのダシで煮て、食べるときに甘みそをつけていました。黒はんぺんが1本2円、牛筋が3円でしたね。

鉄板は厚いほうが焼きそばやお好み焼きがおいしくできると聞いたことがあり、大きさは1㎡で厚みのある鉄板を使ってました。「おばちゃん!」と高学年の子ども達がお好み焼きを喜んで食べてましたね。「おばちゃんちの1番おいしい」と言ってくれて。楽しかったですねえ。子どもが好きだったし。風邪をひいて食欲がない子が親に「何でも食べたいものを言ってごらん」と言われ、「福島さんちの焼きそばを食べたい」と親を連れてきたこともありましたよ。

せんべいや麩菓子、こんぺいとう、寒天ゼリーなんかが一般的でした。チョコレート類は高いので、ガラスケースに入れて置きましたが売れなかったですね。森永キャラメルも飾りでやっぱり売れなかったです。子どものお小遣いが大体1人1日3円でしたから、その範囲で買えるものを用意してました。子どもに喜んでもらえたらそれでいいと思っていましたから。寒天ゼリーが1つ1円でしたね。

型抜きとかピッチン、古いマンガ、それに相撲のブロマイドなんか置いてましたね。子どもさんはすぐ飽きるので、問屋さんと話しをしながら品物を用意してました。お菓子は伝馬町の問屋さん3軒くらいで、おもちゃは横田に2,3軒問屋さんがあったのでそこで仕入れていました。毎晩店を閉めてから買いに行ってましたね。子どもが好きだったので大変とも思わなかったです。

夏はかき氷、アイスキャンディーも扱ってました。冷蔵庫が今のようなものではないので、氷に手ぬぐいを巻いて溶けにくくして。シロップは砂糖を煮詰めて食紅を加え、自分で作っていたんです。かき氷の注文は大人5円、子ども3円、原則として配達はしないといっていたんですが、どうしても頼まれたときは、私は店を離れられないので、自分の息子に配達させたりしました。子どもさんからの配達依頼はさすがにお断りしました。

子どものたまり場でしたね。大人は大人の店へ、子どもは遊んでは食べ、食べては遊んで。子どもから学校でこういうことがあったよ、と聞いて、こうしたらいいよ、なんて話したりして。本当に楽しかったですねえ。

菅波 英治(兵庫県宝塚市)


■ 二つの故郷
 私には、二つの故郷があります。その一つは生まれ(1935年)故郷の満州国吉林省吉林市(現:中国東北部)。
二つ目は、先祖代々の墓がある“福井市天(あま)菅生(すごう)町”です。
  父は旧満州国建国と同時くらいに官吏として赴任。 祖父母は、日韓併合(1910年)の直後頃に朝鮮に渡り、新儀州(しんぎしゅう)(現在の北朝鮮)の近くで材木業を自営していました。
 父の勤めの関係で、1.5年~2年サイクルで転勤していたので、私は終戦の日までに国民学校(現在の小学校)を3回転校した。その第一の故郷から離れて60余年、もう一度行ってみたいと思うけど もうムリでしょう?
 この度は、外地に生まれて終戦による悲惨な体験と、戦後60余年を顧みて その想いを少しばかり記します。

~次世代へ語り継ぎたいこと~
1)1945年(昭和20年)8月15日:終戦の日・・・・そのとき私は!?
★ 間一髪で中国残留孤児になるところを救われた
終戦の日は小学校(当時は“国民学校)4年生の夏休みだった。
お昼前、父が役所から帰って来て、「今から大事な放送があるから聞きなさい」と言って、ラジオに耳を傾けたのが「玉音放送」でした。・・だが、よく聞こえなかった。・・・・後で父に聞いて”日本は戦争に負けた“と知った。
放送が終わると父は役所へ出かけました。なんと「ソ連軍が来るので白旗を持って出迎えろ!」とのこと。
(当時 父は葦河県(いがけん)の副県長=>日本の副知事に相当する役職、県長は満州人だった。)
母は、私と弟(1歳8ヶ月)を連れて、隣の県長(満州人)宅を訪ね、私たち子ども二人を預って欲しいと頼みました。そして、両親は他の職員と一緒に玉砕(自殺)する予定で各家にピストルと実弾を配っていたとのこと。
ところが、「ソ連軍が来る」と言うのはデマだったので、急遽我々日本人は貨物列車を仕立てて、衣類や貴重品・お金など皆が持てるだけ持ってハルビンへ向けて疎開した。私と弟は間一髪で中国残留孤児になるところを救われました。

2)終戦直後、外地ではどんな状況だったか?
2-1 終戦と同時に我々日本人の周りは“敵だらけ”になった
終戦の翌朝、ハルビンに到着した。その行き先は「満州赤十字病院看護婦養成所」跡の3階建てのビルでした。勿論、医師や看護婦は一人も居ません。周囲を鉄条網で囲い、外敵の侵入を防いでいる格好でしたが、
満人(中国人)の物売りや、コソ泥のような連中が鉄条網を破って入って来る。また、ソ連兵が掠奪に来る。
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ソ連兵の中には両腕に“腕時計”を幾つもはめて自慢する者や、掠奪したモノを満人に売る者など、世の中はタッタ1日で豹変しました。終戦と同時に我々日本人の周りは敵だらけになった。米軍が占領した日本国内とは大違いだった。

2-2 どん底の生活と、日本人男性のシベリア強制連行が始まった
終戦の日からお金はソ連のルーブルしか通用しなくなって、手持ちの“円”をルーブルに交換しなければ物を買えない。その交換レートなんて その人によって異なるという全くデタラメな状況でした。
この看護婦養成所跡では、約200名収容され、食事は中庭に大きな釜を据えて、コーリャンのお粥を一人一食に缶詰の空き缶一杯(コップぐらいの大きさ)の配給となり、どん底の生活の始まりでした。
コーリャンを買うお金は皆で出し合う、そして、働ける人は使役や街での“立ち売り”を始めたのです。約1ヵ月後に、次の疎開場所「元ハルビン職員の官舎」へ移転しました。
移転した元官舎では1軒(3部屋)に2世帯が住む生活でした。父が満州国官吏の要職だったので毎日のようにソ連兵が探しに来る。父は逃避していましたが、ある日他の日本人の密告で捕らえられ、その年(1945年)の12月にシベリアへ抑留されたのです。母は三男を出産したばかり、私は次男(当時2歳)の子守り、働き手は誰もいない。食事はコーリャンや粟のお粥を1日2食。石炭を買うお金がなかったので、暖房(ペチカ)も同居していたNさん一家(夫婦と子ども3人)が時々焚くという生活でした。(真冬の気温はマイナス20度ぐらいになる。)
母が、翌年の1月頃から生後3ヶ月の弟を背負って街に出て“立ち売り”を始めました。私は次の弟を看ていましたが、時々下の弟に飲ませるミルクなどないので、柔らかい布に水を染み込ませて与えていたことが忘れられません。
相変わらずロスケ(ソ連兵)は毎日のように掠奪・暴行に来るという生活が日本への引き揚げが始まる1946年(昭和21年)5月頃迄続いた。娘さんや若い奥さんは皆 頭を丸坊主にして男装していました。
ところが、一方で“男狩り”が盛んになって、男装でも危ない状況になったのです。“男狩り”とは、ロスケ(ソ連兵)に八路軍(中国共産党軍)が加勢して日本人の男性をシベリアへ強制連行する、そして極寒の地でシベリア鉄道建設などの強制労働をさせるためです。その対象は元軍人に限らず、元開拓団の人たちなど民間人も皆狙い撃ちにされたのです。その数は、総勢105万人とも言われています。その内生きて帰国できたのは、約20万人。父は、私たちが帰国した4年後の1950年(昭和25年)7月に帰国しましたが、身体はボロボロ、片肺癒着の状態で、入退院を繰り返し1960年(昭和35年)3月に亡くなりました(享年55歳)。

2-3 祖国への長い旅・・・・屋根のない貨物列車と歩きと野宿の繰り返しで・・・・
1946年(昭和21年)5月頃、いよいよ日本へ向けての旅の始まりです。現在なら空路で数時間もかからないところですが、当時は列車に乗るにもままならない、まして敗戦国日本人と知れば、普通の客車には乗れません。
 過去に日本が南満州鉄道を買収し、さらに延長してほぼ満州全域にまで発展させ、更に超特急“アジア号”(現在の新幹線と同等)を走らせました。また、“撫順炭鉱”という露天掘りの巨大な炭鉱を創り、地下資源の開発や鞍山製鉄所の建設など、その投資額は当時の日本円で約600億円と言われています。
(当時の公務員の平均月収:約20円)
 それだけ巨額の投資をして、その設備をそのまま中国に残して引き揚げるとき、その鉄道をマトモニ使えない。戦争に負けるという事は、何とも哀れなことです。
 だけど、日本が戦争に負けたのは米英であって、中国やソ連に負けた訳ではないと私は子どもながらに思いました。中国は日本に感謝すべきですし、ソ連も終戦後に多数の日本人をシベリアへ強制連行し強制労働をさせたことにはロシアの大統領は訪日して謝罪すべきだと思う。

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* 貨物列車に乗るにも“袖の下”を要求する中国人の機関士
さて、いよいよハルビンを出発する日になりました。日本へ帰る準備で、他の家ではおおわらわでしたが、うちは本当に帰れるだろうか?母は3人の小さな子どもを連れて、荷物を持って、どうやって帰ろうか?と大変な思いだったと思います。
母の出で立ちは「生後6ヶ月の弟を前に抱いて、2歳5ヶ月の弟を背負って、左右にオムツや下着などを入れた袋をたすきがけにして、私の手を引いて」という格好でした。
私は、自炊用の小さな鍋と洗面器、アルミのコップを持って出発しました。私がやっと歩ける状態でしたから、その時の母の思いは察するに余りあるものがあります。
総勢4~500名の団体は、着の身着のままハルビン駅へ。そこから屋根のない貨物列車に乗りこんだ。
ところが、何時間も動かない。団長さんやお世話係の人たちが慌しく走り回ってようやく動き出しました。後から聞いた話によると機関士からチップを要求されたというのです。如何にも中国人らしい“袖の下”が必要なのです。
ハルビンー>長春(旧新京)―>審陽(旧奉天)―>錦州―>虚濾島(コロトウ)まで、列車で移動する予定だったのが、途中何度も歩いて、野宿しての繰り返し。5月~8月頃は、日中の気温は25度くらいになりますが、夜は10度以下になる厳しさです。(9月から暖房する) そして、列車でもロスケ(ソ連兵)の掠奪に遭った。ソ連という国は「よほど貧しい国なんだ」と子どもなりに思いました。
ハルビンから約1,200kmを約5ヶ月かけて虚濾島(旧日本海軍の軍港)の港に辿りついた。我々一行は皆ボロボロの姿でシラミと同居しながら、周囲は敵だらけの中をよく生き延びてきた。命懸けで連れて帰ってくれた亡き母に感謝の念で一杯。
そして、私たちが乗船したのは旧日本海軍の駆逐艦でした。大砲等武器は撤去されていましたが、船腹に鮮やかな日の丸が描かれていました。乗船すると艦長から「お疲れ様でした、ご安心下さい、本艦には日本人だけです。敵はいません!」と聞いて皆本当に安心してその日は死んだように眠り込んでいた事を忘れられません。
駆逐艦に乗るのは、最初で最後の体験だった。乗船したときと、博多に着いたとき 頭から全身に“DDT(殺虫剤)”を掛けられて真っ白になった。
その翌日「博多港」に着いたときの検診で伝染病の患者が発見され、1週間湾内で停泊しました。・・・・
上陸して、引揚者援護センター(正式の名称は不明)で入国手続きを済ませ、そのとき10円紙幣を1枚貰った。(勿論1家族に10円)
そして実家の在る福井へ向かいました。途中の列車の中で“さつまいも”の蒸かしたのを貰った事を忘れられません。・・・・福井に着いたのは翌日の夜8時頃でした。

3)帰国して見ると
3-1 グランドはいも畑・最初の給食は“いなご汁”
 私は、1946年(昭和21年)10月から田舎(現:福井市)の大安寺小学校4年生に編入しました。
その頃は食糧事情も極端に悪く、小学校のグランドは“いも畑”で、サツマイモとその茎も給食の素材だった。
秋になるとイナゴを取ってこれも給食の材料に使っていた。実際に学校給食が始まって脱脂粉乳(脂肪を取
り除いた粉ミルク)が配られるようになったのは 確か、昭和23年から、私が6年生になってからだったと思う。
 白米のご飯は、年に2度くらい。普通の日はさつまいも、かぼちゃ、ジャガイモや麦をまぜたご飯だった。時々進駐軍(アメリカ占領軍)からの配給だといってチョコレートやチーズの缶詰が配られました。
 食べ物に限らず、衣類にも事欠き、また、履物は“わらぞうり”が主で、“竹の皮のぞうり”は貴重品のようなもの。私は、雨の日は裸足、天気の良い日は“わらぞうり”を履いて通学していた。教科書も6年生になって久し振りに新しい教科書が配布された。それまでは先輩の使ったものを順に下級生が使うと言う仕組みで、中でも戦時中に使われていた教科書は、部分的に墨で塗つぶしてあるという事も珍しくなかった。
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これは、アメリカの占領統治によって根幹となる憲法と教育基本法が大きく塗り替えられたのです。即ち、日本人の精神・魂をこの半世紀でモノの見事に入れ替える措置だったと思います。
3-2 都会から地方へ“買出し列車”は鈴なりの状態
先ず、今日食べる物に事欠く状態でしたから、都会から地方への買出しに行く人たちで連日列車は“鈴なり”の状態が続いていました。その頃の食糧自給率はなんと75%だったとのことです。(2007年の自給率は39%)

4)日本の経済成長は“朝鮮戦争の特需”で始まった
4-1 就職した頃は?・・・・・
 私は、1955年(昭和30年)4月、大阪の某個人商店に就職できた。その商店は1951年(昭和26年)創業で入社当時、総勢7名、私は8人目でした。貧乏な家計を少しでも助けるには、働く以外に方法はない。非常に就職難の時代でしたが、知人の紹介により お蔭様で働く場所が見つかったのです。
入社の翌年株式会社に組織変更して、2000年3月に退職するまで45年間勤めさせていただいた。退職時の規模は、社員数:250名、年間売上高約250億円、子会社4社を含めると約800名になっていました。
入社して最初に困った事は、4年目に経理業務を任された事です。経理は勿論、簿記も知らない、計算機などない時代ですから、ソロバンと計算尺が頼り、そこで夜学に通い簿記を習得し、自分流に“ワンライティング”による「伝票式会計システム」を設計開発しました。これが後々のコンピューターシステムへと発展させる源になったのでした。
 昭和30年頃は、朝鮮戦争が休戦になり、日本の経済は成長路線へと走り出した時期でもあります。
その頃の物価を思い出してみると、① きつねうどん:15円、② アイスキャンデー:5円、③ 銭湯:10円、④ 洋画のロードショー:150円、⑤ 月遅れの映画3本立て:30円、⑥ タクシーの基本料金:60円、⑦ バス1区間:10円、⑧ 下宿代(1ヶ月):4,500円、など。
4-2 “朝鮮戦争”が始まると国内の状況は一変した
 同じ民族が戦った“朝鮮戦争”(昭和25年6月25日~28年7月27日)は、朝鮮半島を共同統治することが出来なかった半島南部でアメリカ軍が次々と撤退して行き、共産主義圏に対するアメリカの防衛ラインは、日本とフィリピンを結ぶラインにまで後退したのです。
 それを見たソ連は、今こそ朝鮮半島全体の共産化を進めるチャンスであると、1950年6月25日、北朝鮮の人民軍を使い、韓国に奇襲攻撃を行い、韓国政府を釜山に追い詰めます。
 この背景には、1949年と50年に、北朝鮮の金日成首相がソ連を訪問し、当時のスターリン首相から、武力統一の方針への支持を取り付けていました。戦車を1台も持っていなかった韓国軍に対して、北朝鮮はソ連からの最新鋭の戦車250両を持って攻め込んだ。
 さらに、中国人民解放軍に所属していた朝鮮系中国人3万人が、兵器・装備ごと中国から北朝鮮に送り込まれました。
 これを見たアメリカは、国連安全保障理事会を招集して、ソ連の行為を非難、アメリカのトルーマン大統領は、日本に駐留していたマッカーサー元帥を最高司令官に任命し、国連主導の多国籍軍を組織して反撃に転じた。これが“朝鮮戦争”の勃発です。
 第二次大戦を終えたばかりのアメリカ軍、特に日本を占領している軍隊がこの戦争に借り出され、物資の供給が追いつかない状態になって、未だ立ち直っていなかったが、技術力を保持していた日本の製造業に対して“特別な需要”が起ったのです。この“朝鮮戦争特需”が日本経済の起爆剤になった事は間違いのない事実です。“朝鮮戦争”は、38度線を巡って一進一退の攻防が続きましたが、北に対する核兵器の使用を主張したマッカーサー最高司令官をトルーマン大統領が解任したアメリカ側も、1953年にスターリンが死去したソ連側も、停戦に向かって交渉を始めました。
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そして、1953年7月27日、ついに38度線を“休戦ライン”とする、現在の朝鮮半島分裂が決定したという訳です。【21世紀になった今も休戦状態で、戦争は終わっていません】
 この戦争のお蔭で戦争を永久的に放棄した日本は、経済成長の足がかりを掴んだ事になります。

5)戦後の経済成長がもたらしたマイナス効果
5-1 安全・安心の神話は過ぎ去った昔の話!?
 周知の通り日本は、戦後連合国軍司令部(GHQ)が作った「米国製」の日本国憲法を半世紀以上に亘って(わたって)忠実に守り、経済発展と国民生活の向上を目指して「西側陣営に属し、経済大国・軍事小国」を国のビジョンとして掲げ、「規格大量生産の近代工業社会」を築いて来ました。その結果1980年代にはあらゆる資源小国の日本が世界第2位の経済大国にまで発展しました。そのお蔭で、我々日本国民は物質的には非常に豊かな暮らしを享受する事が出来るようになりました。
 しかし、別の次元で考えてみると日本人の精神的荒廃も重要課題の一つではないかと私は思います。
日本人一人ひとりが精神的荒廃を払拭して「魂を入れ替える」事に真剣に取組まなければなりません。
 一昔には考えられなかったような親がわが子を虐待して殺す、息子が両親を殺害する事件や、通学途中の子どもが誘拐され暴行を受け虐殺されるなど、子どもを安心して外出させられないという事件が後を絶たない社会になっています。
 これらは、家庭での躾にもいろいろ問題があると思います。子どもの言うなりになっている親、「自由」と「勝手気まま」を混同して子育てをしている親、自分の子供に問題があるのは“学校教育に問題がある”と責任転換を平気で述べる親など、何処かが狂っている。
 かって、世界一安全で安心な社会であった筈の日本を“過ぎ去った昔の神話”にしてはなりません。
“安全で安心な社会”を1日も早く取戻すには、日本が世界にも誇れる教育水準の高さを基に、人として弁え(わきまえ)なければならないマナーを幼い時から教えるという、“初心に返った”行動を一人ひとりが心掛け、実行する事だと私は思います。
5-2 労働の本質を見直すこと!
 モノが溢れる“物質的に満たされた”現在では、生きる糧を得る為に働かなくても良い訳です。
アルバイトでも糧が得られますから勤勉でなくても良い事になります。
拘束されることが嫌なら、会社に勤めずフリーターでいいという事になります。親のスネかじりでも生きていけるので、高校を卒業しても就職しない、大学を出ても“自分にあった仕事を選ぶ”といって定職に就かない若者、いわゆるフリーターが217万人にもなるという。(厚生労働省・2003年版労働白書による)
たしかに貧しい時代には生きるために働かざるを得なかった。しかし、働く事を“糧を得る為”と限定していると、豊な時代には勤勉性が失われてきます。
それなら、今の日本人は、働く事の目的を、生きる糧を得る事に止めず、“人間の心をつくる”為である事と、考えを変えなければなりません。労働の本質をもう一度見直す必要があると思います。
5-3 戦後、「衣食を足って、礼節を忘れた」 日本人
 1945年(昭和20年)の敗戦を境に、今まで“善”とされていたものが全て“悪”になり、逆に“悪”だったものは、全て“善”に変り、価値観が大きく変りました。そうすると“道徳”というものがあまり信じられない世の中になってしまった。戦後は皆、非常にお腹を空かしていました。「腹いっぱい食べたい」と言う気持ちを強く持っていました。
そこから「お金を儲けて生活を良くすれば、腹いっぱい食べられる、それだけは信じられる」と、そんな無神経論が出てくるのです。我々の世代は、そんな考えのもとで努力して、戦後の日本の繁栄をつくってきたのです。
 その結果どうなったか。よく「衣食を足って、礼節を知る」と言いますが、「衣食を足って、礼節を忘れてしまった」のです。
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 福沢諭吉は、近代社会を創れば「独立自尊の礼節を知る人間が出来る」と言っていますが、そうはならなかった。近代化した結果、日本は「独立自尊の精神の欠如した、礼節のない人間ばかりを育てた」のではないでしょうか。
5-4 人間として最低限必要なルールを子どもが知らない
 最近は幼稚園でさえ、個性や自主性のある子どもを育てますなどと言って、自由を尊重するあまり、物心もつかない子ども達を放任しています。それでは、人間として最低限必要なルールも知らない人間を量産してしまいます。
 やはり、人間として最低限の持つべきルール、また、人間のあるべき理想の姿は、教育の場で教えてもらわなければいけません。それを知った上で、大人になって破棄するのは自由かも知れません。ただ、子ども達がそれを知らない、一度も教えられていないという事が大きな問題だと思います。
5-5 日本国憲法と対になる道徳の必要性
 戦前の日本には「大日本帝国憲法」があり、その対の存在として「教育(きょういく)勅語(ちょくご)」がありました。これが当時、国民の道徳教育になっていたのです。ところが戦後の日本国憲法では、対になる道徳がつくられていません。
 仏教を基本として、そこに神道や儒教やキリスト教も入れる、そんな思想的に豊で、かつ、伝統に則った道徳を、日本人が自分の力で創り出さなくてはならないと思います。

6)世界に誇れる“日本の伝統と文化”
6-1 高く評価されていた日本人の精神
 1549年に来日したイエスズ会(ローマカトリック教会の男子修道会)の宣教師、フランシスコ・ザビエルは本国に送った書簡に「日本人はこれまで遭遇した国民の中で、最も傑出している。名誉心が強烈で、彼らにとって名誉がすべてだ。武士も平民も貧乏を屈辱とは思っていない。日本人の生活には節度がある。酒を飲みすぎるきらいはあるが、多くの人たちが読み書きが出来、知的水準が極めて高い。学ぶ事を好み、知的な好奇心に溢れている」と。
徳川末期、日本に開国を迫った太平洋艦隊司令官ペリーも「日本は極めて組織化された社会機能を備えており、彼らが開国して我々の文明に幅広く接するなら、驚くほど短時間で軍事国家、産業国家になるだろう」と予測し、武力での開国を諦めました。
■ なぜ、日本人が欧米の人々を驚嘆せしめるほどの崇高な精神を持ちえたか?
 日本民族という単一民族を形成したのは、征服、非征服という形ではなく、混血結合して、大和民族という1つのアイデンティティが出来上がり、その大和民族が2000年に亘って歴史を作ってきたのです。
 一方、欧米や中国の歴史を見ると、世界の殆んどの国は、征服されるか、征服するか、という戦いに明け暮れた戦争の繰り返しで今日に至っています。民族と民族がぶつかり合い、その都度為政者が交代していました。永続して同じ民族が統治していた国は殆んどありません。
 日本では多くの人が、「中国は四千年の遠大な歴史を持った国」と思われていますが、
中国は、紀元前2100年頃に興った“夏(か)”に始まり、殷(いん)、周、泰、前漢、後漢、三国、南北朝、隋、唐、五代十国、宋、元、明、清と続いた王朝、そして中華民国、現在の中華人民共和国に至るわけです。付記すると、フビライハンの蒙古族、満州族、漢民族などが次々に覇権を握って来ました。一民族が四千年続いた訳ではありません。
 日本民族は西洋のように生存のために“争う文化”としてではなく、“分かち合う文化”となって発展してきた。
日本民族はあらゆる自然を“神(よろずの神)”として その恵みに感謝してきました。
 世界に類を見ない日本人の心は、「何事も“争いのない”、調和と融合、そして“話し合い”で物事の解決を見出す」という、平和を重んじた精神と、使命感から培われてきたものと私は思います。
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6-2 武士道精神を受け継ごう!
 平和を重んじた精神と、使命感によって培われた日本人の魂の結晶となって花開いたのが“武士道”です。武士道は、自然発生的に武士の間に育った“道徳規範”です。
 武士道精神の根本は“使命感”にあります。名誉でも利益でもない、自分で正しいと思う志の為には身の危険も顧みないという、精神なのです。
 日本人のDNAの中には、先人達が築いた偉大な魂が眠っていると思います。遺伝子はあるが、発動していない。その歴史や伝統といった価値観を蘇らせて後世へ伝えなければならないと私は思います。
6-3 アメリカの民主主義と日本の民主主義
■ アメリカの民主主義
戦後60余年、この間、日本はアメリカが持ち込んできた民主主義に洗脳されて、あたかも日本の民主主義は戦前も今のような考え方であったかのように錯覚している向きが多いのではないかと思います。
 アメリカの民主主義は「キリスト教」を母体にしています。アメリカ独立宣言を読むと「我々生きとし生けるものの権利が何処に由来しているか?と言うと、“造物主”というものに由来する」となっています。キリスト教世界の神が“造物主”で、この世の中の全ての物を創ったのが「造物主」というのです。
 人権というものは、その「造物主」が我々を創ってくれた時に与えられたものである。
だから、その事を「基本的人権」と言っているのです。
■ 日本の民主主義
 これに対して、日本本来の民主主義は、“話し合い民主主義”なのです。その原理を定義しようとすると非常に分かり難いのですが、日本は昔から 離れ小島で「みんな腹を割って話せば分かる」という社会だった為に、原理をマニュアル化して 人目で分かるようにして置く必要がなかったからです。
お互い「日本人同士なら分かる」と言う概念から、「人間同士なら腹を割って話せば分かる」と言う事になったのです。では、実際に韓国人と日本人が話し合って分かり合えるかと言うと、難しいと思います。それは、同じ人間同士であっても、考える事の規範となっている信条、宗教と言う物が全く違うからです。
その辺りから理解をしなければならないでしょう。
6-4 日本社会の理想は「和」である
 「和」とは、「環」とか「輪」と言う意味があります。
「和」の思想は、日本の社会にかなりの影響を与えています。企業においてもQC(品質管理)サ-クル活動が盛んですし、福祉関係でもボランティアグループ活動などを通して地域活性化を目指している。また、日本の社会では突出した人間が非常に嫌われる傾向が強い。何かに優れていても、職場の「和」を乱す奴は嫌われます。
 この日本社会の理想・日本人の根源をなすものは、聖徳太子の「十七条憲法」です。
第一条は「和を以って貴しとなす」で始まっています。
これは、「お互いの心が和らいで協力する事が貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。
ところが、人には其々党派心があり、大局を見通している者は少ない。
だから、主君や父に従わず、近隣の人と争いを起こすようになる。しかし、人々が上も下も和らぎ睦まじく話し合いが出来るならば、事柄は自ずから道理にかない、何事も成し遂げられない事はない」というものです。
 日本というのは、柔軟な社会で、何かあるとパッと物事を変えられるという所がある社会です。
 この日本民主主義の根源に立ち返って、素晴らしい、世界に誇れる伝統を次世代へ伝えたい。
そして、戦後60余年間戦争を放棄し、平和な社会の実現と経済発展による世界への貢献を果たした事を、日本人の誇りとして、世界の人々へ広めていきたいものだと、私は思います。

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