22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2005年07月

■25(月)

長野泊

■26(火)

上越市役所

安塚

高田 花火

三上敏和さん(74)昭和6年8月31日、東京都生まれ。

昭和20年、浅草で東京大空襲に遭う。その後、13歳で国鉄に就職。上野にある変電所勤務を振り出しに、都内各地の変電所勤務を経験する。東京電気第一工業学校(現在の東京電気大学)夜間部を仕事をしながら卒業し、その後、変電所の工事に移り、東京駅変電所、東北新幹線の変電所などを手掛ける。現在は奥さんの実家・新潟県上越市安塚区で暮らす。

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聴き取り日時:2005年7月26日

十三歳で国鉄に就職


三上 私は国鉄の職員を四〇年間やりました。国鉄にもいろいろな職種がありまして、なかでも私は電気技師でした。国鉄の変電所の保守管理をしていたんです。最初に入ったのが上野変電所。今は、移っちゃいましたけど、上野と御徒町のガード下――アメ横のところにガードがあるでしょ――高架線の下は、今はアメ横になっているんですが、そこが変電所だったんです。そこで、最初に勤務しました。ですから、終戦後、変電所の前の扉を開けるとアメ横だったんです。

―― いつごろのことですか?

三上 国鉄に入った時、私は十三歳、昭和六年生まれですから。昭和二〇年の時です。当時は、戦争真っ最中でした。私は当時、浅草にいて地獄を見たんです。

 昭和二〇年三月一〇日に浅草が大空襲に遭いましてね。このとき、本当の地獄を見たんです。これが地獄だというのを知りました。その日、頭上からB二九が焼夷弾でさんざんな目にあいました。焼夷弾の直撃で亡くなった方もたくさんいた。焼夷弾というのは大きなドラム缶のような筒型で、一センチくらいの長さの中に、どろどろした液体がはいっているんです、それに火がついているんですよ。それが落ちてきて爆発する。そうすると火が広がる。それが焼夷弾なんです。

 あのころは、木造建築が多かったから、木造が丸焼けになりました。それで、そのまっただ中を逃げたんです。三月ですから、大変寒いときでしたけれど、防空ずきんをかぶって、頭からバケツで何倍も水をかけて、びしょびしょにしてから逃げる。そうでないと、熱くて逃げられないんです。火は、風をおこすんですよね。だから、辺り一面が焼けているでしょう。ですから、もう火の海でした。

 大きな火の粉が降ってくる。頭が怪我するぐらいの大きさの火の粉でした。それが降ってくる中を逃げるんだから、まともに当たったら、絶対に生きていられない。

 だから私は、水をかぶって、そのまま逃げたんですが、そのときたまたま運が良かったのは、私の住んでいた清川町の一キロ先に田中町という町がありました。この田中町は、同じ浅草区(現・台東区)にありまして、たまたま一月か二月に空襲にあって、焼け落ちてしまった広場があった。そこが野っぱらになっているのを知っていたので、あそこに行けば燃えるものは何もないなと思ったのです。

 それで、父と兄と私の三人でそこをめがけて逃げた。その間、ずっと燃えていました。家が焼かれちゃって、身体に火がついて、そこで倒れてもがいている人たちをまたいで逃げたんです。すごかった、本当の地獄です。火の中でもがいている人がいっぱいいるんです。
 その人たちというのは、空き地に防空壕がつくってあったのですが――一メーター半くらいの穴を掘って、そこに屋根をつけて、そこの中にみんな逃げ込んでいた――その防空壕そのものに火がついたから、ひとたまりもありません。

―― 防空壕に屋根?

三上 はい。材木を渡して、その上に板をひいて、その上に土を乗せていたんですが、その板に引火してしまったんです。防空壕の役目をしていませんでしたね。その中に入っていた人たちに火がついてしまって、慌てて逃げ出したけれど、体中火だらけ。
 そのとき、私たちは防空壕には入らずに、自分の部屋で一生懸命バケツで水を汲んで火を消していたんです。父と兄と一緒に消していたんですが、もう消しきれない。屋根も崩れ落ちましたからね。それで逃げたんです。それで、一キロぐらい走って逃げて。
 そこへいったら、かなりの人が避難していました。
 その空き地のことを知らなかったら、死んでいたと思います。
 空き地を知らなかった人たちは皆、隅田川に逃げたんです。そして、川に逃げた人は、みんな死んでしまいました。
 私が幸運だったのは、父が関東大震災の経験から、川に逃げた人がみんな亡くなっていることを知っていたので、「火がついたら、川に逃げちゃいけないよ」というのを、父から聞いていたことです。
大震災のとき、今の永代橋のたもとに家があったそうです。今の京橋ですね。そこにいて、船問屋というのですか、今の運送会社――当時はトラックはないですから――船で隅田川を輸送していたのですが、父もその会社を持っていたんです。そういったこともあって、船や川に詳しいんです。
 大震災のときは、自分の船で引き揚げて、東京湾から外へ出ていって助かったんです。で、帰ってきたら、川の中にたくさんの人が死んでいた。
 それで、震災や火事のときには川に逃げちゃいけないというのがわかったそうです。
 話を東京大空襲に戻すと、田中町というのは川と反対の方向だったんです。私の同級生は誰もそんなことを知らないから、みんな死んでしまった。翌日探したんですが、ほとんど死んでいましたね。
だから、私は同級会って開いたことがないんです。同級生がいないんです。小学校のときの同級生は全部、死んでしまいました……。寂しいですよね。
 私は当時、蔵前工業、工業学校の生徒だったんです。
 小学校卒業して、今戸という隅田川のところにある高等小学校に入ったのですが、小学校の先生が「腕に技術をつけた方がいい」と言うので、小学校から蔵前工業に鞍替えしたんです。それで、蔵前工業に行っていたのですが、その学校が一〇日の空襲で焼けちゃった。しかも、私は家も焼かれちゃったので、三鷹の親戚のところに行くことになりました。
 当時、三鷹に兄が住んでいまして、勤め先は王子の変電所でした。そのころ、ちょうど若い人が徴兵されていたから、勤める若い人がいなかったんです。そういう状況だったので、「何でもいいから連れてこい」と兄は上司に言われていたそうです。私は学校も焼けて行けないので、何もすることがない。「じゃあ、来てみないか」と、いうことで、兄貴に連れられて、王子の変電所に行きました。そうしたら、今日から働いてくれと言われまして。十三歳ですよ(笑)。
王子の変電所に兄がいますから、兄のところと思ったんですが、「上野の変電所でも人を欲しがっているから、そこへ行ってみてほしい」と言われていったのが、昭和二〇年の五月十二日でした。そこへいったら、「今日から勤めてください」と言われ、その日が、私の就職年月日になりました。ですから、私は、十三歳で就職したんです。
 私とたまたま同時期に入った二つ上、十五歳の人が二人いました。三人で入ったんです。
 この三人で上野の変電所で一緒に勤務したのですが、勤務し始めたのはいいけれど、電気の知識なんか全くない。変電所は命に関わりますから、電気の知識がないと怖いんです。
 だから翌年の三月に、東京電気大学の前身で、東京電気第一工業学校というところに入りました。そこは工業学校から、小学校を卒業すればすぐに入れたんです。そこの試験をうけて入ったのですが、昼間は勤めているので、夜間部です。昼間学校に行きたくても、男手がないものですから、行くんだったら夜間に行けと。
 工業学校ですから、四年間です。昼間勤めて、夜勉強というのを四年間続けました。それで、工業学校を卒業して卒業免状をもらったとき、たまたまちょうど新制高校に切り替わる時期だったんです。工業学校は私たちでお終い。その次の学年から、全部新制高校。
 それで、「みなさんはもう一年頑張れば、新制高校の免状をあげますよ」と言われて。
 工業学校の免状をもらったからそれでもいいんですけれども、もう一年来れば、新制高校の免状も差し上げますよと言われたので、仲間でもって「行こう行こう」と。それで、もう一年通っちゃったんです(笑)。
 戦争が終わると、上野の変電所にも、もと勤めていた人が引き上げてきて、何人も顔を出しました。それで、再就職しました。その人にもお世話になりました。五、六人帰ってきたかと思います。
 上野駅の周りには、人を尋ねて回る人たちがすごく多くて。それと、浮浪者が上の駅周辺にごろごろ。食べるものも行くところもない。
 その人たちが、夜中にアメ横の残飯をあさったんです。そして地下道で寝ているんです。何百人ですよ。女の人だったら、上野に怖くて入れない。私らは平気でしたが。


変電所工事局に異動

―― 上野の変電所には何年くらいいらっしゃったのですか?
三上 十三年ぐらいいましたかね。それから、兄のいた王子の変電所に転勤になって。その後、王子から日暮里に転勤して、日暮里にいたとき、そこの区長さんが「三上君、ずっと変電所でやってくんだったら、保守作業員だけじゃだめだ。工事をやりなさい」と言うんです。で、その人の紹介で工事局の中に――同じ国鉄の中ですけれども――私たちの変電所は保守業務なので、保守局。それとはちがって、工事局というのが全く別にあって、そこの工事局に転勤しました。それから、工事の勉強を始めました。
 工事局は、職員そのものが工事をするんじゃなくて、工事するのは業者なので、現場を監督するんです。いろいろな変電所の工事の現場監督。しばらくして、局に上がって、今度は設計業務、変電所を作るための設計業務をやったんです。



 私は工事に移ってよかったなというのが二つあるんです。今でも私のやった仕事が残っている変電所があって、これは正直言って私の自慢の種なんです(笑)。
 一つは、今の東京駅に地下の三階に大きな変電所があるんですが、これを頼まれました。昔、東京駅を大改造したんですが。昭和何年だったかな――。その時に地下に変電所をつくりたいということになったんです。
 変電所は大きなトランスがあります。電信柱の上にも小さなトランスがありますよね。駅の変電所では、あれの数十倍の大きなトランスを使っているんです。高さ三メートル、幅四、五メートルくらいの変圧器を使うんです。トランスの中には油が入っています。銅線のコイルを付けてあって、それが変圧器。上が六〇〇〇ボルトの線なんですが、下が変圧器から出たのが一〇〇とか二〇〇、電圧を落としてきているんです。
 交流の電気といいまして、家庭では関東では五〇ヘルツ、関西では六〇ヘルツ電気を使っているんです。電気は波をうっているんです。これが国鉄では超高圧といって二万ボルトとか六万ボルトとか、ものすごく高圧の電気を持ってきて、変圧器で電圧を落とすんです。東京近辺は直流のモーターをつくっているので、変電所で交流の電気を直流の電気に変えなければならなんです。
 だから、電圧を落とした上に、交流を直流にかえなければ、電車は走らないんです。その機械が整流器というんです。これは国鉄独自の物です。
 変電所は整流器も変圧器も油をつかっているんです。だから火がついたら、東京駅が火事になっちゃう。だから「油を使わない変電所はできないか」と頼まれたのが私たち。メーカーと交渉したり、研究して。東京駅の地下の変電所というのができました。
 これは世界で一つしかないんです。油を全く使わない変電所というのはないんです。恐らくないでしょう。日本でも初めての変電所。これで、渋沢栄一賞というのをいただきました。こういう賞が当時はありまして。今はないんですがこれが国鉄にいたときの自慢でした。
 今も東京駅の地下で動いています。あの変電所がなければ、東京の電車は動きません。


―― それは素晴らしい仕事です。では、もう一つというのは?

三上 東京駅の工事が終わってから、他の仕事をしたんですが、東北と上越に新幹線ができるという話がでまして。新幹線用の変電所は、東海道線のものがあったんですすが、この二つを頭になって造れと言われまして、部下を二人使って請け負ったんです。それで、大宮に新大宮の変電所を作ったんです。
 直流の変電所なら昔からあるんですが、新幹線は交流のままなんですが、ただ電圧が違うんです。
 大宮へは発電所から十五万四千ボルトの超高圧の電圧をもらっていて、それを変電所で一万に落として新幹線に送り出すという変電所を造ってくれという。
 どこに、どんな変電所をつくればいいか、全部まかせると。それを受けてから、場所をどこに作れば一番理想的か、規模はどれくらいかというのをすべてまかされたので、夢中になったんです。現地まで見に行って。大宮のところで、上越と東北と二つに分かれるので、分かれ道につくれば起電ができるのではないかと思いました。その場所が上尾というところでした。上尾市ってあるでしょう? 何回も現場を見に行って、この現場にこれぐらいの用地がほしいということで設計して考えて、国鉄の中に土地の買収をする専門の人がいるのですが、それに頼んでいってもらって買収をしてもらいました。
 みんな、あの辺りの人は新幹線反対だったんですよ。「反対」の旗を掲げているから、視察に行くだけでもやられるんです。だから隠れて見に行って、そこへ造ったんです。


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