22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2005年04月

■14(木)


高田

*高田泊

■15(金)

*長岡泊?

■16(土)

帰京

石川テルさん(90歳)
東京都世田谷区 大正4年(1915年) 生まれ

聴き手:副枝志保子

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■あきらめた教師への道

石川 宇都宮市内の戸祭というところで生れたの。家が貧しくてね、子沢山だったから、私が4歳くらいの時、母の実家の旅館屋に預けられたのね。おばあさんと叔母さん、母のお姉さんね、それに養子の叔父さん、みんな良い人たちだったわね。
体は弱かったんだけど、めはしがきく、というのかよく動いたので可愛がられたわ。
今思うとよく働いたわ。
朝は5時に起きて、お客さんのお茶を用意して、階段を上ったり降りたり、髪を結って、急いで朝ご飯を食べて。そうこうしている間に、お客さんのお膳を片付けて、かばんを肩にかけながら走って学校へ。途中の土手で宿題をするの、先生が通りすがりに「何してる!」って。「宿題です!」って返すの。それでも級長していたのよ。

土手で思い出したんだけれど、二三夫兄が妹をおぶって友だちと川原で遊んでいたの。そのうち、その妹を下ろして、自分は友だちと夢中になって遊び出しちゃったのね。妹はハイハイして動き出し、ころころと川に落ちちゃったのよ。
私は、吃驚して、急いで川に入って、ひっぱって土手に押し上げたんだけど、それより上にあげられない。困って兄を呼んだんだけれど、夢中で聞こえない。ちょうどその時、旅館に泊まっていた軍人さんが通りかかって、助け上げてくれたの。
さあ、それからが大変。兄は、母親にさおでたたかれ、私は、全身ぐっしょり。そんなことがあったわねー。

小学校4年生のとき、叔父さんが、雛人形と雪洞を買ってくれたの。嬉しくてね。
雛人形といっても、女の人1人で「竹小町」って書いてあったの。「雪洞や 雛を飾りて 桃の花」「雪洞や、昔を偲ぶ 竹小町」だったかな、二つ作ってお客さんに見せたら、ずいぶん誉められたわね。

── 子どもの頃、将来、何になりたいと思った?

石川 学校の先生になりたくて、高等科に行くつもりでいたら、旅館に泊っていたお客さんが、「女学校へ行けば、2年早く先生になれるから女学校に行ったほうがいい」と言ってくれたの。でも、勉強なんかろくろくしていないじゃない。だから、あきらめ半分で試験を受けに行ったんだけど、結果はなんと合格。
びっくりしたわね。

今でも憶えている試験問題があるの。「栃木県で一番大きな川の名は?」という問題だったんだけど、私は「田川」って書いたの。旅館の横を流れていた、その川しか知らなかったのよ。

── それから、女学校生活が始ったのね。

石川 旅館の仕事を手伝いながら、女学校に通っていたの。女学校では、「葉桜の君」って言われてね、最初は嬉しくてね、桜がついているし素敵だな、と思ったら、何のことはない、歯が少し出ていたから。桜は、花が咲いてから葉が出てくるでしょ。でも、葉桜は、葉が先に出てから花が咲くのね。
歯(葉)が鼻(花)より先に、ということ。そんなでもないのにね。

他には、みんなの前で落語を披露したりしたのが楽しかったわね。
そうこうしているうちに、叔母さんが死んじゃったの。もう悲しかったわ。
おばあさんと叔父さんだけでは、旅館をやっていくには大変、ということになって、しばらくして、叔父さんが再婚したの。
でも、このお嫁さんが、子ども嫌いで、私の居場所がなくなって。仕方なく、女学校も中退。で、世話する人があって、奉公に行ったの。

── 先生の夢、やぶれたり、だわね。

石川 そうね、学校は行きたかったけれど、一人立ちもしなければならず、感傷にひたっていられなかったわね。
その奉公先で、小さな子に「テル、テル」と呼ばれ、腹が立って「あんたに呼び捨てにされるすじあいじゃない」って、ひっぱたいて飛び出しちゃったの。

東京に行きたくてもお金もないし、仕方なく旅館している叔父さんのところに帰ったの。そして、叔父さんの知り合いが、南千住にあった紡績工場を紹介してくれて、そこで働き始めたの。

■悲しみを乗り越えて……

石川 どのくらいいたかしら……。ある日、兄が来て、「姉が危篤だ」って呼びに来たので、2人で宇都宮に帰ったのね。
姉はやせ細って、私の手をとって、「おテル、おテル、行かないで」って。とってもひもじい思いをしていたのね。
私は、いそいでお米を買って、ご飯を炊いて食べさせて、ひどいとこに寝ていたから、貯金を下して蒲団を買って、そこに寝かせてね。
この姉は、小さい頃、はしかの高熱で、知恵遅れになってしまったの。小学校でね、この姉が授業中、「おテル、名前が書けない」って呼びに来るの、そうすると先生が、「行ってやれ」って。何回行ったことか。姉が、小学校を卒業した時は、ほっとしたわね。

私の母は、若くして死んでしまって、父が再婚したので、姉は、継母に世話されていたんだけれども、今で言う、児童虐待よね。充分に食べさせて貰えなかったの。
私も兄も知らなくてね。姉は、死の直前、私の手握りながら、継母にされた仕打ちを話し出してね。側で聞いていた叔父さんが、「お雪、もういいから、わかったから」って。堪らなくなったんでしょうね。
姉が亡くなり、後片付けもすんで、東京に戻り、今度は浅草で世帯を持っていた長兄の世話で、浅草の電気館で働き始めたの。
最初は切符もぎをやり、そのうち2階の案内係に。そこで、ある男性と知り合ったの。
その人は、私の仕事が終るのを外で待っていてくれてね、2人でおしゃべりしながら――何をしゃべったんでしょうね――清住町まで歩いて、私の下宿先の叔母さんの家まで送ってくれていたの。
そして、その人はそこから浦和まで帰るの。

ある日、その人の友人が来て、彼が病気だから見舞ってやってくれと云われ、初めて、その人の浦和の家に行ったの。立派なお家だったわね。私が帰るとき、その人が「電車賃だから」って、私の手にぎゅーとお金を握らせてくれたの。あの頃、私は貧乏だったから。
暫くして、友人が「亡くなった」という知らせを持ってきたの。彼、肺結核だったの。
私もずいぶん泣いたわね。隅田川のほとりで泣いたの。
手紙もたくさん貰ったんだけれど、泣きながら全部燃やしたの。

それから、長兄の友人から、電気館での私の働きぶりをみて、丸ビルに出店していた文房具屋さん「文祥堂」で働かないか、と言われて、文祥堂に移ったの。

── お父さん と知り合ったのは?

石川 さっき言った、肺結核で亡くなった人の友だちだったの。

── 結婚した頃、この辺はどうだったの。

石川 田舎だったわねー。家もまばらにしかなくて、畑ばかりで、ほんとに田舎だったわよ。
結婚した時、野田の叔母さんも同居していたのね。その人は、池田公爵家の奥女中をしていたから、何でもできるでしょ。きちんとしたきびしい人だったわね。
私にお琴を教えてくれたんだけれど、音痴でしょ、ひくことは出来るんだけれど、自分で調律ができないのね。
とうとう叔母さん、さじ投げたの、「あんたはだめね」って。


▲大宮公園にて。結婚当時


■そして、開戦

── やがて戦争が始まったんでしょ。戦争中は?

石川 そう、大変な時代だったわね。
東京は、爆撃が激しくなるからと、荷物を宇都宮に疎開させたの、次兄のところにね。
やがて、その宇都宮も危ないっていうんで、家の荷物と兄のところの荷物を、さらに田舎に疎開させようと玄関に積んでおいた、その晩に空襲にあって焼けてしまったのよ。
でも、荷物に保険がかけてあったので、助かったわ。あの時の保険料、現金はほんとうに助かったわ。
家の玄関の床の下に、防空壕を掘って、荷物をいれたり、あんまり大きくなかったのでね。
私たちは、家の前の関根さんの庭に作った防空壕や、お隣の林さんの所の防空壕にはいったんだけど、お父さんは、絶対に入らなかったの。
飛んでいるアメリカの飛行機を窓から見て、
「きれいだなー、敵ながらアッパレだなー」って。私は、はらはらしたわよ。
また、町会で消化訓練のバケツリレーとか、竹やり訓練があったんだけれど、お父さんは、絶対に参加しないのよ。
一世帯に一人は出なければならないので、仕方なく私が出るでしょ。
毎回だから、ご近所さんは「うちはかかあ天下」と思っていたらしいの。でも、とんでもない! 訓練のあと少しおしゃべりして家に帰るでしょ、すると、「すぐに帰ってこない、人にこどもを預けて」って怒るの。
さらに、紙に「おさなごを われに預けて 遊びほけたる 妻憎きかな」なんて書いて置いてあるじゃない、しゃくにさわったわね。
遊んでいたわけではないのに。

── よく、憶えているわねー。

石川 だって、腹がたって、くやしくて憶えているわよ。「妻憎きかな」ですもの。

── お父さんは、兵隊にならなかったのね。

石川 赤紙ではなく、青紙が来たの。青紙は、教育召集といってね。
でも、途中で赤紙に変更になることがこの頃は多かったそうよ。昭和19年の2月だったと思うけど、徴兵検査を受けるため、一緒に、千葉県の習志野まで行ったんだから。結局不合格で返されたんだけれど、嬉しかったわね。
私が思わず嬉しそうにすると、お父さんが、「しっ、営門を出るまでは、静かに」って。徴兵検査が終わったのが、夜の9時過ぎ。雪は降ってくるし、最終電車が遅れて、豪徳寺まで帰れないだろうということで、浅草のおばさんのところへ行くことになったの。当時は郊外だからね。
それで、着いたのが真夜中。そこでやっと落ち着いたわね。

「お父さんが戦争に行ったらどうしよう。あの性格だから、絶対生きて帰ってこれないだろうな」などと考えていたから、「不合格」と聞いたときの喜びは、わかるでしょ? 合格した人は、家族の待合室にきて、私服を持って帰ってもらうの、でもね、喜んでいた人なんていなかったわね。皆、沈んでいたわ。足が悪い人まで、招集されていたのよ。不合格になったと思うけど。

不合格になると、大変なの、役所へいって、その旨の報告をし、徴兵検査の不合格の証明書を提出しなければならないのね。
お父さんは、再びお役所勤めでしょ。食料も乏しくなって、お弁当には苦労したわ。
配給だけでは、足りなくて、いつもひもじい思いをしていたような気がするわね。
あなた(聞き手)がお腹にいるときは、妊婦ということで配給物が優先されたことはあったけれど。

あなたが生れた時、お父さんは「女ですか」ってがっかりしたような言い方だったから、お産婆さんから怒られてね。
「上に3人も男の子がいて」って。
大きくなってからは、「女の子がいてよかった!」とよく言っていたけれどね。

ある日、あなたを負ぶって、子どもたちの手をひいて、警察に行ってね、
「発育盛りの子どもたちに、配給だけでは足りないから、お米を分けてくれ」って言ったのよ。
当時の警察には、闇取引の物が没収されてあったのよ。沢山はなかったような気がするけれど、分けてもらって帰ってきたの。
あなたは赤ん坊で、私の背中で、よく眠っていてくれて、ほんとに助かったわ。防空壕に入れても、寝ていてくれたものね。

── その時から、親孝行だったんだ! それで、玉音放送は聞いたの?

石川 どこで聞いたんだろう……? 自宅で聞いた、という記憶はないんだけれど……。
「戦争が終わった」「負けた」と聞いたけど、実感はなかったわね。
ただ、その夜から、電気の傘に黒い布をかけなくてよかったのがとても嬉しかったわね。
明るかったわねえ。戦争中なんか、ちょっと明るくしていると、町会の人が来て、「敵機にみつかるではないか」と怒鳴られたもの。
でもね、戦争が終ってからの方が、食糧難で大変だった。
お芋の買い出しによくいったわね。
農家へいくでしょ、先ず最初に「何をもってきたの?」って聞かれるの。そこで、着物だとか、帯だとか見せてから売ってくれるの。
もちろん、お芋の料金は現金で払うのよ。
私の着物も帯も、二つ折りにできる三味線も、ヴァイオリンもみーんな食べちゃったわ。

いつだったかしら、お父さんの役所が焼けたの。
確か、落雷だったと思うけど。大蔵省も焼けたんじゃなかったかしら。その時、業者からの火事見舞いなんでしょうね、果物の缶詰を貰ってきたの。
嬉しかったわ。子どもたちも大喜び、美味しかったわね。

戦争が終ったのが、昭和20年の8月15日でしょ。碩哉(子?)は、まだ疎開先にいて、いつ帰ってくるのかわからなかったの。
近所の人が様子を見に、疎開している新潟県の白根に行ったんだけど、その人いわく、みんなやせてがりがりだから、早く連れ戻した方がいいって言うものだから、新潟へ行ったの。

── 切符はすぐ買えたの。

石川 なかなか買えないのよ。
当時、父が鬼怒川の大きな旅館の帳付け番頭をしていて、その父が、知り合いのつてで買い、それを送ってくれたのね。
そして、疎開先へ行ったら、ほんと、骨と皮だけ。先生たちは、まるまるして、当時はそう思ってしまったのね、憎らしかったわよ。
碩哉に、「一緒に帰る?」と言ったら、「皆と居る」というので、あきらめて帰ろうとしたら、「やっぱり帰る」というので連れて帰ったわ。途中、宇都宮に寄った時、旅館の叔父さんが碩哉を見てびっくりして、「かわいそうだから、ここへ置いていけ、東京より食べ物はあるんだから」って。
でも、本人は帰ると言うので帰ってきたの。
お米を持たせてくれて、嬉しかったわね。頭にしらみはいるし、やせてしまって、ほんとにかわいそうだったわね。

── 「人骨」騒ぎがあったっていう話、聞かせて。

石川 そうね、そんなことあったわね。昭和22年か23年だったのかしら。
ここから、少し先の大きなお家に、お父さんとその息子と娘の3人が住んでいたのね。あまりご近所付き合いのないお家だったそうよ。
ある日、その家族が引っ越して行って、山下で鰻屋さんをしているという人が新しくやってきたの。

その鰻屋さんのおかみさんが、自宅に向って歩いていたら、自宅の門の前に、白絣を着た若い男の人が立っていて、すっと入って行ったのが見えた。「お客さんかな?」と思って自宅に着いてみても、そんな様子はない。
こんなことが1度や2度ではなかったから、さすがにおかしいなあと思ったの。

ある夜、おかみさんが寝ていると誰か起す人がいる。はっと目をあけると、その若い男の人がいるんですって。
おかみさんは気持が悪くて、前に住んでいた娘さんを問いただしたところ、「父親が放蕩息子を刀で切って殺し、遺体をそのおかみさんの寝ていた部屋の下に埋めた」と白状したんですって。

すぐに警察が来て掘り返したら、人骨が出てきたの。頭から肩へかけて傷があったという話だったけど。
結局、その父親は既に亡くなってしまったし、目撃した娘さんは精神がおかしくなった、という噂はあったけど真偽の程はどうでしょうね。
鰻屋さんは、その後引越してしまい、その後、4軒の建売になったものね。
この事件が新聞に載ったか記憶にないんだけれど。

今思っても、大変な時代をよくここまできたなと思う時があるわね。
今また、徴兵制やら戦争なんて言ったら、私は、反対のデモに先頭たってやるわ。

(我が家で、一番血の気の多い母でした。)


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3.昭和の記憶ブックレット.pdf

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4.市井の昭和史.pdf

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※PDFデータが発見され次第、公開します。

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