22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2005年02月

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佐藤 栄さん(95歳)明治42年(1909年) 生まれ 岡山県小田郡矢掛町

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井原市の県主、門田に生を享けた。力仕事の多い百姓は嫌で、百姓にだけは嫁ぎたくないと考えていたのに、気がつけばお百姓さんに。10人の子を育て上げる。戦中、戦後にわたる百姓仕事の苦労を語ってくれた。

聴き手:さとう俊(孫)
聴き取り日:平成17年2月22日

■気がつけば、お百姓に

百姓だけには嫁ぎたくないと思っていた。ところが、お見合いをしていい人にめぐり合い、結婚したら農家の人だった。鍬を持って力仕事の毎日が始まる。食べ物は畑でスイカやトマト、米、麦をとって食べた。子宝に恵まれ、思い返せば幸せだったという。

── おばあちゃんは何処で生まれたの?

栄 明治42年3月24日、井原市の県主(あがたぬし)門田(もんでん)いうところで生まれた。兄弟は六人で、私は下から二番目。今はもう、みんな死んでしまったけど。兄と弟は軍人で、私は貧乏な百姓。兄は徴兵検査で軍人になったんだけど、近衛兵で戦争に行って、大島部隊長にまでなった。皇室から剣を贈られたりもしたんじゃ。軍人って言っても大尉やら中尉やらで、偉いほうじゃった。兄も弟も、そろって新聞に載ったりして、兄弟そろって出来が良かった。兄は戦争から無事帰ってきたんじゃけど、弟はシナ事変で戦死した。大きくなってからは会うこともなかったし、兄弟いうても、兄弟らしいことは何もしなかったなあ。

── 学校とか、若い頃の話を聞かせてくれる?

栄 学校は井原の女学校。学校を卒業してから、お裁縫を一年習って、それから今度は学校の先生になろう思うて師範を受けたけれども、よう受からなんだ。

── へー、学校の先生を目指したことがあったんだ。結婚とかはいつ頃したの?

栄 昭和四年にお嫁に来た。実は、私は百姓が嫌いじゃったから、百姓のうちだけには嫁ぎたくないとずーっと思っとったの。でもね、その当時は今みたいな恋愛なんて全くなくて、「三歩下がって歩け」が普通で、男女が手をつないだりしたら「非国民」て呼ばれたわな。今とは全然違う。男女の目が合っただけでも「非国民」だもの。でね、そんな時代じゃから、恋愛して結婚、なんて縁もなかなかなくて、ある時仲介さんに頼んでお見合いしたの。そしたらまぁ、いい人にめぐり合ったけん、結婚することにしたんじゃ。けど、結婚するまで家も見たことがなくてね……。結婚して初めて家に来た時、びっくりしたぁ。畑があって、蚕を飼っとるんじゃけん。うわっ百姓の家だったのかって(笑)! そうしていきなりの力仕事。きつかったぁ、鍬なんか持ってね。

── 絶対に行きたくないと思ってた農家に嫁いじゃったなんて、人生って面白いね。

栄 そうね。農家は嫌だったけど、子宝には恵まれて、四人も授かった。だから、幸せだったかな。娘二人に息子二人。今は孫が岡山におってよく世話してくれる。幸せなことだね。

── その頃の食べ物とかってどうしてたの?

栄 うん、そこの畑で何でも作っとった。小玉スイカ――切ると黄色いやつな――トマトに桃、米、麦。そうやって、畑で作ったものを食べとった。家では、養蚕もしてたな。蚕ではあんた、ずいぶんもうけたんじゃよ。この辺じゃみんな飼ってた。

── 蚕なんて、どこで飼ってたの?

栄 家の二階。でも、餌がとれんようになってからは、よう続けんかったな。昭和30年代頃には、もうやってなかったように思うな。あとはニワトリ。ほら、子供たちが遊びに来ると「肉が食べたい」って言うから、そこで飼ってたニワトリをさばいて、谷川で洗ってね。きれいにさばけた肉を、竹で作った竹串に刺して焼いてやったね。五右衛門風呂もあったんじゃよ。枯れ松葉をとってきてくべてな。

■白壁は黒く、家中は暗く

食べ物は配給制となるがそれでは足りない。「銃後の働き」をしに山へ。木を掘って竹の筒に油をとっていたという。B29から家を隠すため白壁を黒く塗り、飛行機の音がすると家中暗くして息をひそめた。

── 戦争中はどんな生活してた?

栄 戦争中はもう、難儀だったあ。食べ物は配給、お魚でも何でもね。「この家は何人おるからこれだけ」いうてな、食べるだけしかもらえんの。それで私ら「銃後の働き」いうて山に行って木を掘ってな、油をとるの。竹の筒を持って。それに配給があるっていっても、お砂糖が足りない。今もまだあるのかな? ゴボウ菓子っていうのを食べたよ。これもあまり砂糖を使っていないんだけど、そんなのを食べたね。

── 怖い思いをしたことはある?

栄 ああ、B29が飛んできてな、そりゃいつ爆弾を落とされるかと思って、怖かったぁ。飛行機から見つからんよう、当時まだ新しかったこの家の白壁な、それを墨持ってきて黒く塗ったの。ほれで飛行機の音がすりゃあもう、電気を消して家ん中を真っ黒にしたんよ。

── この辺の家はみんな壁を黒く塗ったの?

栄 いやいや、当時は白壁は珍しくてね。ほとんどは藁葺きの長屋じゃった。じゃけん、白壁塗ったなぁ、うちとこと、他幾軒かあったかな。

── 実際に空襲はあったの?

栄 この辺はなかった。飛行機の音はよく聞いたけどな。白壁を黒う塗うて、電気消しとったかいがあったわな(笑)。

── おじいちゃんは兵隊に行ったの?

栄 それがな、役場に勤めてたし、翼賛青年って団体に入っとったから、行かなくて済んだんよ。勤めとった役場は、矢掛が合併した時辞めてしまったけんど。何年かな……もう忘れた、わからん(笑)。役場辞めてからは、養蚕教師いうて、蚕飼う先生になってあっちこっち出歩いとったな。

■戦後、10人の子育て

戦後一番大変だったのは子育て。10人の子供を育てるのは並大抵ではなかった。毎日サツマ イモばかり食べて、辛抱して仕事を続けた。村では大学に行く人は少なかったが、子供を大学に行かせた。

── 戦後はどういう暮らしをしてた?

栄 戦後の暮らしというか、子育てがとにかく大変じゃったな。なんせ10人もおったもの。とにかく食わさにゃならんから、サツマイモをよっけ蒸したりしてた。毎日、毎日、サツマイモばかり食べとった。でも、じゃから元気なんじゃろうかな。ほれ、いいもの食べとらんから(笑)。

── 一番大変だった時期とかある?

栄 俊のお父さん大学へやる時分。村で大学行く人はようけいなかった。しかも早稲田は私立でしょう。そのころはな、「子供大学にやるんかい」って近所の人は不思議そうに見よる。で、あんた、うちとこはお百姓じゃから、収入はなし、財産もあればええけど、それもなあてな。大学にやるお金を貯めるため、辛抱して働いた。そりゃようけかかったんよ。でも夏休みには家に帰ってきて、ようけ仕事を手伝ってくれた。ごぼう作って、市場に持って行って、それを売ってお金を稼いでた。そうそう、女の子にチクワもろうてきたりしてたこともあったな。ほれ、あんたのお父さんええ顔しとるけえ。

── ところで、ここの屋号の「みどげえち」ってのは?

栄 御堂ヶ一って書く。この下は「めいげいち」って書く。あと、どうぜん(「堂前」)ってのがこの裏。

── 他にも屋号があるの?

栄 みんなある。「きぶねさま」いう屋号もある。「みどげえち」言えばみんな知っとる。この家も、夏太言えばわかる。タクシー頼むんでも、なっつぁん言うたら今でもわかるんよ(笑)。

── どうしてそういうふうに言うの?

栄 昔のこんだから、おばあちゃんわからんよ。ボケとってこまるな(笑)。

── (見回して)そういえばこの家、結構古いよね。これはいつごろ建てられたの?

栄 古いよ。おばあちゃんが来る20年も前じゃないかな。この家もそこの長老池――チョーロンてここらでは呼んでるがな――が決壊したときに一度流れたんじゃ。瀬戸内は雨が少ないんじゃが、そこの谷川が直角に曲がっているところは、雨がたくさん降ると暴れるんじゃ。洪水の時、そこの長屋で飼っていた牛が浮いとったのを覚えとる。この家も私も、ずいぶん年をとってしまった。私はここで死にたい、死んだらまぁ……、勝手にせいよ(笑)。79e71fd3.jpg



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坪倉 博則さん(76歳)昭和3年(1928年)生まれ 鳥取県日野郡日南町

少年時代は転勤を繰り返す。軍人を目指して師範学校に入るも予備学生時代に終戦を迎え、教職に就く。41年の教員生活の中で県内の村々の気質を熟知するようになる。退職後しばらく悠々自適の生活を送ったが、やがて教育長に就任。今も、これからの世代の教育や躾について関心を持って見守っている。

日時:平成17年2月21日

■軍人になりたかった少年時代

警察に勤めていた父は転勤が多かった。そのため、小学校を6回も変わった。東京や大阪に進学して軍人になりたいと思っていたが、「跡取りだからよせ」と父親に言われて鳥取の師範学校に通った。予備学生になったその夏に終戦、盲学校次いで小学校で教師として働いた。

うちの父は警察に勤めていたから、転勤が多くてね、転校ばかりしてた。小学校は六回も変わったよ。最初は中部にある八橋小学校、次が倉吉市の成徳小学校、鳥取市の久松小、東部に移って智頭小、河原小、そしてまた鳥取市に戻って日進小。中学時代は鳥取市にある鳥取第一中という学校だった。五年制の学校で、現在は鳥取西と米子東に分かれているけど。中学三年の時、学徒動員に行ったんだ。戦時中だから、短縮で四年で卒業。一級上の人たちと一緒に卒業した。昭和二十年三月のことだね。

実はずっと軍人になりたくて、東京や大阪への進学を考えていたんだけど、「跡取りなんだから、自分から志願しなくてもいいだろう」と父に言われて断念した。当時、県内には、鳥取師範学校と鳥取高等農林学校(現・鳥取大学農学部の前身)、米子医学専門学校(現・鳥取大医学部)しかなくて。結局、師範学校に行った。晴れて海軍予備学生になった年の8月には終戦を迎えた。海軍に行っていたら、今ごろ生きていなかったと思う。師範学校を卒業して盲学校に勤務したんだけど、この地元に戻ってきた。そして、山上小学校に十四年勤めた。生徒は二百人くらいだったね。

■土地ごと、そして村ごとに異なる人々の気質

41年間の教員生活の中、色々な土地を訪れた。土地によって村によって気質は全く違った。比較すると、今の子供は変に世慣れていて、近代化され過ぎているように見えるという。

小学校20年、中学校21年。小中両方の教員免許を持ってるんだ。19歳の時、大宮中で教員生活を始めた。その後、大宮小で9年、山上小で2年。阿毘縁(あびれ)小で教頭として5年間勤めた後、大宮小学校に校長として戻った。大宮小の先生が亡くなり、同じ年代の先生が必要になったんだよ。その後、合併して日南中学校になり、そこでも3年間校長をやった。

日南町のイメージは粘り強く、そして素朴だね。粘り強く力を付けていくから、会社の幹部になったりする人の割合が多い。「金の卵」と呼ばれたりもしてたな。会社の人にも喜ばれてね。それに、村によっても性格があるんだよ。山上三か村と呼ばれていて、海抜五百メートルぐらいのところに三つ村があるのだけど、その山上は競争意識が強くてね。

例えば、寄付金を持ち回りで集めるとき、「隣は幾ら?」と必ず訊く。それが阿毘縁(あびれ)の場合は、「隣が千円だったら、こちらは九百円」というタイプ。そして、大宮が一番人間性がいい。物事を良いほうに考えるし、とても純朴なんだ。四十一年のうち、三十八年は山上にいて、教員生活の最後は日南中。これは、ここら辺では都会だったな。

当時の先生というのは、生徒にとっては怖い存在でね。いじめがあったとしても、当時は「先生に言うぞ!」でおさまった。今は先生も友達感覚だから、効力がないようだけど。今みたいに、親が先生の悪口を子供の前で平気で言うなんてことはなかったしね。当時の子供たちは家に帰っても、親に学校でしかられたことを言わないんだ。親に言うと、「先生が叱るんだから、お前が悪い!」ってさらに叱られたからね。

今の子供は近代化しすぎてると思うな。モノを知り過ぎてるし、へんに世渡り上手だし。当時なんて、今じゃ考えられないけど、汽車や海を見たことがないっていう子供はざらだったんだ。海を見たことのない子は、海水が「塩辛い」と実感して驚いたり……。

ここらの子供も、最近はだんだんと都会化してきているね。山上の子(三か村に住む子ら)は挨拶をするけれども、それ以外の子は挨拶をしない子もいる。そういえばね、むかし大宮の小学校で、子供の交通事故が多いから「交通事故防止運動」というのをやったんだよ。交通事故を防ぐために色々やったもんだ。

飛び出しをしないように、廊下や階段に私の似顔絵を貼るんだ(笑)。でも一番効果があったのは「挨拶」。子供達に、車に乗っている人にも挨拶をさせたんだ。だから、車が近づいているのに飛び出していくなんてことはないし、車の人も挨拶をするから、徐行してくれる。挨拶運動とあわせて交通安全もできる。それに「挨拶されて、気持ちがよかった」と礼状が来たりもしたよ。一石二鳥の方法だった。

■校長の前で足を投げ出して、タバコを吸っていた

19歳で教師になった当時は生意気盛りだった。校長先生が気に入らず7、8年は反抗していた。送別会で退官する校長の心遣いに感じ入り、初めてその人品を知った。

教師になり立ての頃は、19歳だったんだけど、タバコを吸っててね。当時は「校長室」が無くて、私は校長先生の目の前の席だった。今考えると恥ずかしいんだけど、机に足を上げて、タバコを吸ってたんだ。

当時は校長が嫌で嫌でね。それでそんな態度をとっていたところもあるね。そうしたら、ある日の休み時間、校長が「イロハのイ」とか言って電話で電報を打ってたんだ。勤めはじめてから7、8年目のことかな。

私は近くの席だから、耳をすますと何を言っているのかが聞こえてきたんだ。「タイショクケツイス(退職決意す)」って打ってたんだ。ずっと校長のことが嫌いだったから、すごく嬉しくてね。それで、送別会の日、二次会で校長の家に行ったの。そしたら、校長に呼ばれて、こんなことを聞かれたんだ。「おまえの机の上を片づけていたのは誰だと思う?」って。私は「女子生徒ですよね。」と答えた。そしたら、「この鈍感野郎」って言われた。

教員室の洗い物は女子生徒の役割だったから、てっきり私の灰皿の片づけや机の上をきれいにしているのも女子生徒だと思ってたんだ。でも、そうじゃなかった。実は校長さんだったんだ。そこで初めて「そういえば、校長さんが出張の時は、机の上が片づいてなかったなあ」と気づいたんだよ。私は校長さんより早く登校したことなんてなかったから、校長さんがやっていたなんて、全く気づかなかった。

校長さんは遠くに住んでいたのに、誰よりも早く学校に来ていた。不言実行。偉い校長先生だったんだって、そのときにやっとわかった。目が覚めたというのかな。こういう先生、今はいないよね。冷静に生徒を怒ることができたり、何かあればいつでも責任を持って辞められる。今の先生は、かっとなって殴ったり怒ったりするでしょう? それで殴れば親から連絡が来る。

■「出れば負け」から優勝チームへ

ルールを知らずにバレー部の顧問を拝命した。試合の常識も生徒の苦労も知らずにいた。しかしやがて万年弱小チームは優勝チームにまで成長を遂げる。

それとね、当時はバレーボール部の顧問をしていた。女はバレー、男は野球をやってて。私は「バレーの担当になれ」っていわれたときに、踊りのバレエだと思ったんだよね。だから、練習だといって生徒たちが外で球をついてたのを見たときは、いつになったら踊りの練習を始めるかなんて思ってた(笑)。私は一応、バレー部の顧問なんだけど、当時のボールは重いから、突き指ばかりしてたな。

ルールも何も知らなかった。試合の時も、なんで相手が得点するのかわからなくて。だから、学校に戻ってきてから、「えこひいきされて負けました」なんて報告をしたこともあったな(笑)。それに試合の常識もわからなくてね、負けたチームは次の試合の会場整備やボール拾いをやらなきゃならないのに、さっさと帰って来ちゃったりしてた。生徒のことなんてお構いなし。私がバレー部を受け持ったときは「出れば負け」。でも、あるとき日野郡の郡大会で優勝できた。それで最後の年には、なんと県でも優勝できた。子供たちと接していて分かったことは、子供はもともとの素質ではなく、やる気を起こさせることが大切だということだね。


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坂本 美代子さん(78歳)大正15年(1926年) 生まれ 鳥取県八頭郡八東町

戦争中は軍需工場で働き、工場の廊下で玉音放送を聴いた。印象に残っているのは、放送の後ぱっと暗幕がとれ、窓から明るい光が差し込んだこと。米軍がばらまいた紙が空からひらひらと舞い降りていた。以来戦死した兄の遺志を継ぎ、家も田んぼも管理して、二親も見送った。

聴き取り日:平成17年2月21日

■「戻れんから、家と親を頼む」

「戻れんから、この家と親を頼む」と言って戦争に出て行った兄。台湾からフィリピンに渡る途中、上陸寸前で魚雷にやられたという。戦死の報が届く3日前、母の夢の中で、白装束を来た兄が現れた。

女三人、男一人の四人兄弟。兄と姉と、妹がいて、私は上から3番目。
兄(隆治)は兵隊検査で戦争に行った。鳥取連隊にいてね、初めは台湾にいて、台湾からフィリピンに渡ったんだけど、上陸する直前に魚雷にやられた。兄が台湾にいた頃、現地の女学生から、私のいた師範学校に「お兄さんは元気です。元気ですけど、寂しそうでした」っていう2枚続きの葉書が送られて来たことがあった。兄が頼んで、送ってもらったのね。見つかれば危ないのに。でも、兄はその手紙が私の手元に届く前に亡くなったのよ。

兄の戦死の報が届く前にね、こんなことがあったの。母(とみ)が「ああ、あの子は死んだ」って言って、朝起きてきたの。それがね、「自分の子が帰ってきた、白装束を着て戻ってきた」って言うのよ。自分の子はかわいいから、戦死したなんて言ったらいけないんだけど「戦死した」って言って起きてきて。「何を言ってるんだろう」て思ってたんだけど、それから3日くらいして、兄が戦死したという葉書が届いたの。夢をみて、覚悟ができていたのかな、母は迷いもなくそれを受け入れてた。

兄は戦争に行く時、「戻れんから、この家と親を頼む」って言って、出かけてった。家を継いでくれ、先祖を祀ってくれとね。私は命がある、だから兄の意思を継ごうと思った。それから私の人生が始まったわけ。家も田んぼも管理して、親も見送った。

■一人で死ぬのは嫌

戦争中は軍需工場に行っていた。爆弾が落ちてくる空、きれいな紙がひらひらと舞い落ちてくる空を今でもありありと思い出す。

昭和二十一年の春、師範学校(郡家)を卒業した。この辺りから師範学校に行った女性は一人だけ。上にも横にも誰もおりゃせん。そして、戦争が始まって、昭和二十年から終戦まで軍需工場に行った。愛知時計という大きな会社だったのよ。特攻機の「彗星」というのを造ってた。軍需工場だから、空襲も多くてね。B29に再三爆弾を落とされた。

空襲の時、防空壕では防空ずきんをかぶって、コートも着て、完全防備で寝るんよ。枕代わりに座布団を2つに折って、その間に靴を入れて。何かあれば、枕の中の靴をとってすぐ外に出られるよう、完全武装で寝てた。

学徒の専門学校以上は県外に出てた。中学生以下は県内。師範学校は専門学校だから、私は名古屋へ行ったのよ。ちょうど兄が死んだという葉書が届いた時、私は名古屋にいたから、母は私まで死んだんじゃないかと思って心配したみたい。「どんどんばりばり」が毎日、毎日続く状況。明日の保証もなかったからね。

姉は満州に行っていて、終戦の年の6月に幸運なことに、戻ってきたの。3歳と1歳の子供を連れて、新潟に上陸してね。あと、妹は、当時まだ小さくて女学校に行っていました。

全然、無傷。先生方は苦労なさったみたいだけど。終戦間際、私達のいたのは熱田区で、名古屋のちょうど入り口だったから、空襲が激しくてね。これはかなわんということで、安城町――それも飛行機の部品工場――に行ったの。名古屋からちょっと離れていたから、B29からの爆撃はもうなかったけど、艦載機は来てね。艦載機がきたら、防空壕は危ないんよ。狙い撃ちされるから。そういう時は、家の中に入ってるの。そうすると、隣の工場に爆弾落としよるのが見える。爆弾は水平に落ちるんだよ。自分のいる家の屋根にも、機関銃の弾が当たって、パラパラと落ちる音が聞こえたこともあった。

十九や二十歳の女学生、二百人ばかりかな? 終戦の三日目、先生が私達を鈍行列車に押し込んでくれた。どこで停まるや分からない列車。まだ「馬力出して奪い返すぞ!」って叫んでいる軍人がいっぱい乗っとるような列車でね。両手いっぱいくらいの炒った満州大豆、それが数回分の食料。それをもらって列車に乗ったの。でも京都まで来たら、列車がなくなっちゃって。もちろん宿もないから、駅前の芝生みたいなところに、みんなでたむろしとったの。そしたらな、一人の男が私達のところに来て「どこの生徒だ?」って言いよるわけ。「鳥取だ」って言ったら、「自分は、鳥取の高等農林学校を卒業した。鳥取にはご縁があるから、うちがやっている宿屋の廊下でよければ」って、その人のやってる宿屋の廊下で寝させてくれたの。それで夜露だけは免れた。あぁありがたいなぁって思いましたよ。鳥取にきて、卒業したってだけで助けてくれて。そして、明くる朝、また列車を乗り継いでようやく帰ったの。

一クラス四十人だから、百六十人。行きも帰りも一人も欠けずにね。人が欠けた学校もあるのよ。直撃や爆風とかで。笹をゆする(揺らす)ような音がするのよ、しゅるしゅるって。焼夷弾でも尾っぽがありますからね、長い尾っぽが。

■玉音放送後、空からひらひらと紙が

玉音放送はよく聞き取れなかったが、工場の窓から暗幕がとれ、ぱっと明るくなった。その後しばらくは、空から米軍が見たこともないようなきれいな紙をばらまいていた。

人生で一番嬉しかった。ああ、やっと戦争が終わったって。放送を聞いたのは、安城の工場の寮だったかな。暗幕がようやくとれてね、窓がぱっと明るくなった。それを見て、「これから生きられるんだ」という喜びを感じたね。明るくなったのがとても嬉しかった。とにかくいつも暗かったから。

「天皇の重大放送があるから集まれ」って言われて、工場の廊下に整列して、ラジオを聴いたの。でも何て言っているのかわからなかった。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」というところだけはわかったんだけど、それ以外はガーガーガーガーいってね。そのときは、「これからも耐えて頑張れ」ってことかなぁって、みんなで言ってたのよ。でもその放送の後、毎日毎日きれいな紙が空から舞い落ちてくるの。

アメリカからの伝言。ひらひらひらひら、いっぱい落ちてくるんだけど、「拾ったら駄目っ」て言われてたの。私たちは、書いたらちぎれそうな紙しか使ったことをなかったけど、その紙は真っ白のきれいな紙でね。そこには「おまえらは負けたんだ」って書いてあるの。でもきれいな紙でね、とても羨ましかった。戦争中、「日本は絶対に勝つ」ということを教育でたたき込まれてたから、負けるってことが信じられんわけ。勝たんとは思わんけど、負けることもないって。不思議でしょう? 二十歳にもなってね。でも、当時のことを先生方に聴いてみても、負けんと思っとったと。大人の先生達それじゃあ、子供だった私たちが思うのもしょうがないのよね。

何ヶ月かの自宅待機。その後、学校に行ったら、師範学校の歴史の先生が「わしらが教えたことは、みーんな嘘だったんだね!」って仰った。学校に行っても勉強はできなかったのよ。芋を作ったりなんなり、農作業を手伝わされたの。英語の時間は絶対作業だったわね。英語なんか必要ないって。英語の先生は、「英語は、勉強するのに十年掛かるんだから、絶対せにゃいかん」って言ってたけど。

地元の丹比小学校に2年間勤めて、その後はずっと農業をしてた。早くに勤めを辞めたのは、農業は体力勝負だから、若いうちに体を慣らしておかなきゃと思ってね。そのころ給与なんて、お米一升くらいだったからね。家族を支えて食べさせていかんといけん。それを考えたら、農業するほうが良かった。死んだ兄貴の遺志を継がなきゃならんとずっと思ってた。

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内藤 富士丸さん 大正11年(1922年)生まれ 山梨県西八代郡六郷町

山梨県甲府市伊勢町の生まれ。小さいころから器量よしで「伊勢小学校のそばのいいぼこ」と呼ばれ、みんなに可愛がられた。少女時代は働き尽くめのお母さん(幸)の代わりに家事を手伝う。毎日母が恋しくてたまらず、あたごのお山で「ドン」が鳴るのを今か今かと楽しみにしていた。

聴き取り日:平成17年2月6日

■伊勢小学校のいいぼこ

父(河西仁蔵)からもらった粋な名前。かわいいぼこと呼ばれた幼少時代。

山梨県の甲府市の伊勢町で生まれました。二人兄弟で兄が一人いました。私の名前、変わってるでしょ? 
お父さんが粋な人でね。芸者っぽい名前をつけたかったみたいなの。将来立派になって、富士山に日の丸を立てられるような人になって欲しいって。お父さんは糸商人をしててね、早くに亡くなったから、私は母子家庭で育ったの。

そりゃとてもかわいかったのよ(笑)。小さい頃は「伊勢小学校のそばのいいぼこ(よい子供)」って評判で、年頃になったら女優のようになるんじゃないかって期待されていたらしいの。でも、女学校4年と師範学校2年の計6年は、バスケット部の選手をしててね。当時は屋内競技場なんてものはなくて校庭でずっと練習をしてたから、炎天に焼かれて肌はガサガサ、髪はボサボサ、おまけに運動してお腹が減って減ってしょうがなくて、食べるは食べるはで、ぼんぼん太っちゃってね。ちょうど年頃には「伊勢小学校のいいぼこ」はどこかにいっちゃったみたい(笑)。母もそんな私の姿には、ちょっとがっかりしてたみたいだったけど。

勉強は全般的に好きで、割と出来たほうだったけど。ピアノだけはどうも苦手でね。でも師範学校を卒業するには、バイエルとチェルニーが弾けるようならなきゃいけなくて。夜中に懐中電灯を持って夜の音楽室に練習しに行ってたわね。

いやいや、もうそれどころじゃなく、必死だったからね。努力の甲斐あって卒業はできた。でも、その頃の先生は、卒業するとすぐに音楽主任になるの。ある時、軍の音楽会があって、「内藤先生、あなたまだ若いからピアノを弾いて、皆を歌わせなさい」ってことになってね。もう、ひっどい音楽会だった。かえるの歌をやったんだけど、ピアノも下手、歌う生徒も下手。斉唱にすればまだよかったのに、輪唱なんてやったもんだから、もうぐっちゃぐちゃでね、かえるの歌なんて聞こえてきやしませんでしたよ(笑)。昔の先生に会うとそれが恥ずかしい。

ええ、うちのご飯の支度はよくやってたわね。食糧難の時代で、夜はご飯は食べなくてね、いつも代用食のおほうとうを小麦粉から自分で練って、のして、食べてたのよ。

うちは母子家庭で、母が昼も夜も働いてたから、大抵私が夕食の支度をしてたわね。それで長屋住まいだったから、共同炊事場とかで洗い物をして、井戸端会議とかに参加してたの。「今日もお寒いですね、おたくの今晩のご夕食はなんですか」って。いっちょまえに大人のような口をきいたりしてね。おませさんだったのね。

そうね、近所の人には本当によくしてもらったわね。学校の先生も可愛がってくれてね、小学校を卒業する時には、「卒業祝いに欲しいものを何でも買ってあげる」って言われたの。

少女倶楽部っていう雑誌を買ってもらったの。買ってもらった号には付録としてボール紙を組み立ててつくる羽子板が付いててね。友達にそれを見せてもらってたんだけど、それがどうしても欲しくってね。靴でも、服でもって言えばよかったのに、よりによってそんな安いものを買ってもらったの。ほんと、お馬鹿さんねぇ(笑)。

うちは貧乏だったから、小学校の間中、本なんて一冊も買ってもらえなくてね。その時がはじめて本を買ってもらった時だったの。ものすごく嬉しかった。欲しかった羽子板も手に入ったし(笑)。

■「ドンはもう鳴った?」

あたごのお山でドンが鳴ったら母に会える、お昼ご飯が食べられる。毎日その時間が待ち遠しく、何度も近所の人に訊いていた。

ドン? ああ、ずっと小さい頃の話だね。まだ学校行く前だよ。私が小さい頃ね、母は製糸工場に働きに行ってたの。12時になるとあたご山で大砲が「ドンっ!」て鳴るんだけど……。

そう、大砲が「ドンッ」て。お寺の鐘みたいなもんかな。市民に時間を知らせるため、12時に大砲を鳴らすようしてたの。それが鳴ったらお母さんがお昼休みだから、すぐおいでって。「ドン」が鳴ったらすぐおいでって言われてたの。お昼ごはんの合図だからって(笑)。お母さんに会えるし、お昼ご飯が食べられるんで、その「ドン」が待ち遠しくて、待ち遠しくてね。近所のおばちゃん達に、朝からずっと「ねぇドンはもう鳴った?もう鳴った?」って何度も聞き回って、「ドン娘」なんて呼ばれてた。鳴ったら自分の耳でも聞こえるはずなのにねぇ(笑)。本当に待ち遠しかったのね……。

■子供の誕生、孫の誕生

私は子供にずっと恵まれなくてね。10年くらいたって、ようやく女の子が生まれたの。それで泉のように湧き出したってことで、『いづみ(長女)』って名前をつけたの。私は本当に嬉しかった。これが私の子だってね。でもね、夫(義太郎)は男の子じゃなかったからがっかりしてたの。夫が病院にきてどんな子だっていうから、女の子でおばあちゃんにそっくりのいいぼこだよって言ったら、「じゃあ見なんでいい」って子供見ずにいっちゃった(笑)。うんと男の子欲しかったんだね。力は家で生まれたのよ。病院へ行く用意をしてたんだけど、伊勢湾台風が来た時で、私も大きいお腹して、水の中を泳ぎまわってたの。水から出たら、なんだかお腹が痛くて。そこへちょうどお産婆さんがやってきてね。お腹が痛いってことを伝えたら「じゃ、ちょっとここに横になって」って言って、義太郎さんも呼んできて、いつの間にか、「がんばれー、がんばれーっ」てお産が始まってたの。今で言う、ラマーズ法というやつね。で、生まれてみたら男の子だったから、義太郎さん、喜んじゃってね。「俺がここにいたから男の子が生まれたんだ!」ってしばらく言ってましたよ。

太一(力さんの長男)は医大で生まれたんだけど、その時、嫁(恵美)の実家のお母さんと一緒に医大に車で行ったの。夕方で、いい月が出ててね。こんないい気持ちで月を見るのは初めてだって。この月は一生忘れんよねって二人して言ってたのを覚えてる。病院へ喜びの気持ちで行ったのは初めてだった。でも、次々と孫ができると、だんだんと喜びが薄くなってきてね。雅人(力さんの三男)の時は、とうとう病院へも行かないの(笑)。そうして、「3人目くらい女の子のほうが良かった」って言ってたら、最近雅人が「僕は女に生まれなかったから駄目?」って聞いてくるのよ(笑)。かわいそうなことを言っちゃったわね。


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伊藤 シウ子さん(76歳)昭和3年(1928年)生まれ

福島県北会津村(現在の会津若松市)出身。四人姉妹の四女。昭和22年伊藤文一と結婚し、夫の実家である会津若松駅前の旅館「煙草屋」を切り盛りした。

聴き取り日:平成17年2月6日

■会津の自然の中で過ごした幼少期

福島県北会津村、現在の会津若松市に生まれた母。 猪苗代湖畔の自然に囲まれて過ごした日々や、冬には積雪2メートルにもなる雪深い村での 思い出を聴いた。

よく遊んだのは、縄跳び、お手玉、おはじきだね。おはじきはガラスで出来てるもの、お手玉は親に作ってもらったね。中身は小豆。いくらでもあったよ。

夏は猪苗代湖畔の小石が浜。よく歩いたね。あそこは公の草刈場だったの。友達と一緒にそこに弁当もって行ったんだ。んで昼寝したりしてね。ありゃ楽しかったなあ。それと、魚を釣った。

シンシロ堀で釣れたのはフナ。もう一つ思い出した。秋になると落ち葉を集めに行ったよ。父親と馬の背に乗ってよく山に入って行ったの。そんで集めた落ち葉を肥料にしたの。それを売ったりしてね。でも、山じゃ遊ばねえよ。冬は雪が2メートルくらい降ったよー。そうすっと、もう郵便屋さんが歩いた跡を歩くしかなくなってね。前から来た人とすれ違うときなんか、よけようとして雪ん中に転んだりしてね。冬は「ゲスすべり」をしたよ。俵の両端の丸いふた状の部分(=サンダラという)をお尻の下に敷いて、学校帰りに雪の上を滑って遊んだよ。

■寄宿舎での出来事――女学生時代

小学校を卒業して、女学校へ進学。自宅から遠く通学が困難だったことから、寄宿舎に移り 住んだ。戦争中の食糧難を乗り越えるのが大変だったという。

女学校を卒業したのは昭和15年。学校は卒業しても、実家が農家の人以外は、外に働きに行くことになったの。

そう。だから勉強はしてません。学校の門をくぐったっていうだけ。それでもね、食糧難だったから、満足に食べられなかったよ。

学年250人中、寄宿舎に入っていたのは15人ぐらい。夏になると減って13人ぐらい。ほかに舎監の先生、住み込みのまかないさんがいた。私は父親が寄宿舎の玄関にわらじ履いて入ってくるのが、本当に申し訳ないと思ってた。食べ物を持ってきてくれるんだけど、恥ずかしかったの。

朝ご飯が出るんだけど、半分食べて、半分弁当に持っていくように先生に言われるんだけれども、お腹がすいて、結局お昼前に食べてしまうんだよ。それが、校長先生に問題になったのね。昼ごはんで持ってきたものを朝ごはんで食べちまうんだから。でも食べ物なんて売ってねえんだから。

実家には1ヶ月に1回しか帰らなかったの。自宅から寄宿舎に「何月何日に(娘を)帰してください」っていう手紙が来ないと帰らなかった。だけどあまりに食糧難が続くから、先生に「帰してください」って言って、1ヶ月に2回くらい帰った。実家から寄宿舎に戻ってくる時には、リュックサック山ほどのおむすびをお土産に、みんなに渡したの。
農家だったからね。米を5俵出せって言われて、1俵残ったのね。それを使ったの。

あ、大事なこと忘れてた。ばあちゃん一回ダブったの。 試験でね、バスケットが出たの。そんなの知らなかったの。見たことも聞いたこともねえんだもん(笑)。小学校で級長だったのに女学校に受からなくて学校中でみんなたまげたよ。篤農家だった父親が学校にバスケの道具を寄付したの。1年のときには学科の勉強はしたよ。みんな農家に行って草取りとか田植えとかを手伝いに行ったりもした。でもね、3年生から4年生になったときには「学校工場」になったの。会津若松の家から全部ミシンを徴収して、兵隊さんがやってきて、体育館に椅子とか机を並べてね。馬鹿みてえにまじめにやってたもんで、今でも会うと「シウちゃんになんぼ怒られたか」って。毎日同じものを作るわけ。私は班長だからみんなが仕上げたものを見るわけ。仕上げたものをみると、ポケットがついてなかったりする。私が上の人に直してこいって言われるから、その人のところへ行って、直してって言ってたわけ。

ごはんと昆布の佃煮と味噌汁。学校は8時から夕方16時くらいまでやってた。帰ってきて、お風呂にも入った。薪が十分になかったから、毎日風呂に入るわけじゃなかった。夜ご飯もほとんど変わらんよ。

寄宿舎にはなかったよ。夜は22時くらいになると電気消されちまうから。夜に勉強したい人は、ロウソク使ってやってたよ。懐中電灯なんていから。

そのとき父親が取引してた市内の米屋に革靴を預けて、草履に履き替えて旧道を歩いて帰ったの。1晩で帰らなきゃならないんだけど、帰りたくないから2泊するようになるのね。そうなると月曜の朝、真っ暗いうちに実家を出なきゃならない。そうしたら父親が旧道の途中まで送ってくれたのね。やっぱりね、親を思ったときに親はいないね。あるとき、寄宿舎から米屋まで友達の自転車を借りたの。これで朝早起きしなくても大丈夫と思ったら、ブレーキが壊れてて転んじゃったのね。今も傷が残ってる。

■戦後すぐの結婚、そして「煙草屋」での日々

女学校卒業後、実家の赤いに戻った母。終戦を迎え文一と結婚。文一の実家である会津若松駅前の旅館「煙草屋」で働き始めた。


昭和19年に女学校を卒業して赤井に戻った。草刈りでも田植えでも何でもしたよ。大変だった。郡山が大変だったよ。向こうで空襲があったのが見えた。B29がやってきてピカッピカッって光ったの。父親ってのが機械好きでね、戦争中なのにラジオを買ったの。ラジオ聞いたらば、郡山が空襲を受けたっていったの。

お祖父さんがね、昭和22年の春にシベリア抑留から戻ってきて、11月8日に19歳で結婚したの。そんで26年に千江子さんが生まれた。宿の仕事しながらは大変だった。年取ったマサさんていう女中さんがいたからばあさん助かったんだよ。幼稚園のお迎えに行ってもらったり行事に参加してもらったりしたんだよ。私は嫁としては苦労したよ。七草なんて言ったら家全体で色々やってた。そういうことを自分でやってきたおばあさまがいたからね。赤井ではそういったことしなくて済んだ。私は早くに母親が亡くなったからわからなかったんだ、そういう面で苦労した。女中さんがいなくてパートの人頼んでやったけど、それじゃ商売になんなくてね。涙こぼれるぐらい苦労したよ。私一人で商売してね。

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時田 信良さん 山梨県南アルプス市 昭和11年(1936年) 生まれ

南アルプス市の時田冷菓。
「美味しくて、体にいいお菓子を子供達に」――お菓子のことばかり考えて生きてきた父。仕事一筋、家族のことを顧みることは少なかった。私の結婚式の日、仕事一筋だった父が「こんな父親なのに、素直に育ってくれてありがとう」と頭を下げた。父の涙を初めて見た。

聴き取り日:平成17年2月5日

■先生に将棋を教えて「授業免除」
昭和十一年、山梨県見栄村で生まれた。八人兄弟の六番目だった。子供の頃はガキ大将。なぜか人がついてきた。

昭和十一年、山梨県三恵村寺部ってとこだ。八人兄弟の下から二番目。おやじ(時田源三)は小作をしていたから、生活は厳しかった。桑畑七割、田んぼ三割の農家で、農作業がない冬は土方をやっていたよ。今で言う出稼ぎだ。

麦とか芋を主食として食べていた。米はなるべく食べないようにして、風邪を引いた時のお粥用とかのためにとっとくだ。おかずはもちろん畑でとれたもの。朝と昼は麦と米が七対三くらいのご飯を食べ、夜はどこの家でもうどんを食べていた。

今は高価ではないけど、当時は普段食べられない塩鮭とかニシンとか食べたな。
ぼろっきれを丸めてボールやミットを自分達で作って、棒っきれのバットで野球をよくした。「これやるぞ!」って言うとみんなついてきたもんだ。

中学の時は、悪ガキだったから先生に叩かれた思い出しかない。悪いことをいろいろしたから。覚えているのは、試験でカンニングした時のことだな。うまくやったと思っていたのに、俺のカンニングを見たやつがいて密告したんだ。いやあ、あの時は先生に怒られた、怒られた(笑)。学校では絵と習字が大嫌いだった。その授業中は、先生に将棋を教えてやって、なんとかやらずに済ませてたな。

中学入ってからはサッカーね。野球をやりたかったけど、家が貧乏だったから道具を揃えられなくて。サッカーでも、スパイクなんて持っているやつはめったにいなかったから、みんな普通の靴でやってた。試合で着るユニフォームも、先輩が残していってくれたセーターだったな。試合の時、特に夏なんかはセーター着てるもんで、汗びっしょりになったね。そういえば、あのセーターは洗った覚えがない(笑)。

■「商品を回せ」カネボウの社長に電話で直談判

ひょんなはずみで引き受けたアイスクリーム配達の仕事が縁となり、饅頭屋のアイスクリーム部門を経営することに。当時はアイスクリームの全盛期。納期は必ず守るという信念で働いた。

おやじは戦争中、息子に召集令状が来なくても、志願兵に出させていた。兵隊となって、お国のために働くのは日本男子の勤めだと思ってたんだ。でも、そんなおやじも、兄貴達の戦死の通知が来た時、普段なら風邪ひとつひかなかった元気な人だったけど、急に体調崩してね。お国のためとはいえ、やっぱりショックだったんだろうね。俺が中学を卒業する頃には、兄貴達の戦死で兄弟は五人になっていたんだけど、おやじの従兄弟に子供がいない家があってね、そこから是非にってんで、俺は千葉にもらいっ子に出されたんだ。

全然。さみしくもなかった。元の家は貧乏で、そのうえ兄弟がたくさんいたから我慢しなくちゃならないことも多かったけど、千葉に行ったら子供は俺一人だからね。裕福な生活ができて楽しかったよ。千葉の家は隣がさつまいもからでんぷんをつくる工場だったから、そこで働きながら、新しい生活を楽しんでたな。でも二年ぐらいして、そこの家のおやじが外に女を作っていたのがわかってね。家の中がだんだんゴタゴタしてきて、それで嫌になって実家に戻ったんだ。実家に帰ってから、いろいろな仕事をしたよ。送電線の鉄塔の基礎部分作りもやったし、雑貨の卸し屋も三年ばかしやったな。どれもなんかぴんとこなくて、結局雑貨屋もやめてしばらくぶらぶらしてただ。そんな時、兄貴から「アイスクリームの配達の仕事があるけどどうだ?」って言われて、「あいよ」って二つ返事で引き受けて、始めた仕事が今の時田冷菓につながったわけだ。

饅頭を中心にアイスクリームも製造販売している店で、アイスクリームをミゼットで櫛形町、甲西町、白根町、若草町あたりに配達していた。朝五時に出社して、まだ店が開いていないから木戸を乗り越えて中に入るだ。帰りは夜九時頃だった。配達のあと饅頭作りを手伝っていたから、遅い時は夜の十一時、十二時だったな。その頃、お母さん(重子)と知り合った。

この辺は大きい会社がないから、集団就職で静岡へ行く人が多かった。その中に横内さんという知り合いの人がいただけど、静岡で横内さんとお母さんが知り合って、その紹介、見合いで結婚しただ。結婚後も前と同じ様に仕事をし続けて、とにかく忙しくしてた。そのうち勤めてた饅頭屋の息子がぐれただ。両親が忙しすぎて息子をかまう時間がなかったからさみしかったんだろうな。それで、その店のオーナーは息子のためにどうにか時間を割こうと考えたんだろう、アイスクリーム部門を全部俺にまかせたいって話をしてきただ。アイスクリーム部門を持っていって、独立してやってくれないかと。

独立してからは、絶対納期に間に合わせるという信念を持って仕事をした。アイスクリームの全盛期、よく売れた時代だったから、本当に大変だった、品物がなくてね。取引では担当の営業を通さず、本社と直接掛け合うこともした。カネボウと取引してたんだけど、営業の長谷川さんに言っても「品物がない!」て取り合ってくれない。彼は彼で、全国に品物を回さなきゃならないから大変だったと思うけど、こっちだってアイスクリームを楽しみに待ってるお客さんをたくさん抱えてるわけだ。その人達のことを考えるといても立ってもいられなくてね。それでカネボウの本社にいる社長に直接電話して、商品を回してくれるように話をつけただ。前代未聞だということで、しばらくカネボウでは有名になってたみたいだな。売りに行く人は品物ではなく、自分を売りこむだ。「あいつが卸す商品は売れる」という信用を得ることが大切だよ。そのためには、一生懸命やって、納期に間に合わせるということがまず必要なんだ。

俺が卸すアイスクリームは売れるって自信を持って仕事していた。そして、自分を売り込んでいくと、いつのまにか人が慕ってついてきてくれた。他人の事は夜でもかけつけたりしていたからな。でも家族の事はあまりかまわなかった。今になって思えば、家族にはかわいそうなことをした。夫、父親としての務めをおろそかにしてた。学校の行事にも一度も参加してあげられなかったね。俺が忙しくしてることを知っていた近所の人、親戚が手助けしてくれて、それでなんとか家族としてやっていけてたのかな。仕事が忙しくて今までは気づかなかった。外面はいいけど、内面はわるいとお母さんにも言われたよ。

伊藤 光代さん(80歳) 大正14年(1925年)生まれ 山梨県南巨摩郡身延町


地元・静岡県沼津市で「浜の観音さん」と親しまれる長谷寺に生を享けた。高等女学校に進学し、勉学にいそしんだ。高等学校を終え、補習科を修了し、第一国民学校に奉職、在職のまま三月十七日に山梨県西嶋の青原院に嫁ぐ。新婚三日目、夫に召集令状が届き、空襲によって生家も焼失した。「故郷に向かう途中、隣の電車が飛行機に狙撃され、大勢の人の死を目にした」という。

聴き取り日:平成17年2月5日

■父の思い出

父は「教育はお金には代えられない」と、当時非常にお金のかかった高等女学校への進学を勧めた。時宗のお坊さんとして、自らを厳しく律し、周囲からの信望も厚かった。庭の砂地に描いた模様を崩しては、よく叱られたのを思い出す。

大正十四年、一月十七日、静岡県の沼津市に生まれたのよ。沼津の第二小学校へ行った後、教育の程度が高い県立の沼津高等女学校へ行ったの。当時、大半の女性は6年制の小学校を卒業したら、養蚕業に就いたり、女中さんになったりしてた。でも、うちの父(=泰圓)は「貧乏しても、教育はお金には代えられない」という考えの人だったから。

母(=ねん)の方が厳しかったかな。父は教育のためにお金は出すけど口は出さないといった人だったね。そう、時宗のお坊さん。これぞお坊さんっていう感じの人だった。自分を厳しく律し、凛として、信念を持って仏教の普及活動を積極的にやってた。お寺さんとして果たす勤めは全部こなしていたね。沼津では「立派なお坊さんだった」って語り草になってるのよ。

長谷寺というのは観音信仰のお寺さんで、うちのお寺にはお観音さんが描かれた百二十反の布があるの。これを年に一度、四月の半ば頃、「浜の観音さん」という沼津では有名なお観音さんの誕生日を祝うお祭りの際、やぐらを組んで広げるの。これがまた大きくてね。広げると高さ三十m横十五mもあるの。

父はこのお祭りにとても力を入れていて。信仰心を高めるためのことにはとても熱心だった。檀家さんはあまりいなかったんだけど、信徒さんは多かった。当時うちは、長谷寺ではなくて「お観音さん」って呼ばれていたの。だから私も、「お観音さんのお嬢さん」って呼ばれていたのよ。

そうでしょ。「お観音さんのお嬢さん、どこ行くの?」「ちょっとそこまで」なんてね(笑)。沼津の実家は二十段くらい階段を上がったところにあるのだけど、階段を上って、門に行くまでの間が砂地になってる。枯山水ってほどではないんだけど、父がその砂地の真ん中に熊手で模様を描いているの。うっかり真中を通ると、その模様が崩れてしまうの。そうすると「こらーっ」てしかられるのね。それがおっかなくって。厳しくてちょっと近寄りがたい父だったけど、今思えば、門をくぐる前に周りをみて一呼吸おきなさいっていう教えだったのよね。

周りの状況を良く見ること、庭をきれいにしている人の気持ちを思いやること。父は、周囲への心配り、優しい心、思いやりの心を教えてくれたんだと思うの。でも自分が歩く時は、熊手をずるずる引きずりながら、自分の足跡を消していってたわね(笑)。

■終戦間近に燃えた生家

結婚3日目に、夫に赤紙が届いた。疎開してきた姪っ子と二人、夫の帰りを待ちつつ、お寺を守った。空襲があっても、寺が見えるように庭の柿の木の下でやり過ごしたという。そんなある日、ラジオで実家のある沼津に空襲があったことを知る。駆けつけると、生家は燃け落ちていた。

戦時中で先生が足りない時代だったから。女学校を卒業した後、上の補習科に行っていて、他の人に比べたら高学歴だった私が先生をすることになったわけね。補習科修了後、第一国民学校に奉職中の三月十七日、山梨の西嶋にお嫁に行ったの。でもね、三月二十日には、旦那さんに召集の赤紙が来たのよ。

そう。皇居を守る連隊に入隊って命令が来たの。でも結局、中国の北支へ行ったのよ。運が悪かったらシベリアへ送られたり、船で南方に送られて、その最中に沈没させられるってこともありえたんだけど。運が良くてね、ずっと北支にいたので帰ってこれたんだね。ありがたいことに。本当に運のいい人だった。戦争中、私は家で疎開してきた子を一人預かっていて、その子と二人で暮らしてたの。そんな時、沼津の空襲をラジオで聞いた。急いで駅に向かって、三時間待って路線の切符を買ったんだけど、片道しか売ってくれなかったね。戦時中、いつ電車が動かなくなるかわからなかったから。

富士から沼津へ行くために東海道線に乗ったら、B29より少し小さいくらいの飛行機が走っている電車を狙ってくるの。隣を走っている電車に穴があくのが見えた。狙撃してきた飛行機のいくつかも真っ赤に燃えて落ちてきた。その飛行機から脱出した兵隊さんがパラシュートで降りてくるのも見えた。それを見た人達は「ざまあみろ!」って言ってたわ。電車の中で、いっぱい人が死んだのよ。結局、電車は原というところまでしか行かなくて、そこから沼津までの八里を歩いたんだよ。

そう、八里歩いたの。三十二キロくらいかな。戦争のまっただ中で二十二の時だったけど、怖くはなかった。実家のほうに歩いていくと、海岸線に沿って松林がずーっと続いている千本松原というところがあるんだけど、その松の木の脇にいっぱい人が死んでるの。町が焼かれるから、浜の松林の方に逃げたんだね。沼津に着いても、お観音さんのお寺が見えない。焼けちゃっているから見当がつかないのね。お寺は見えないけれど、とにかく実家のあったほうに向かって歩いてたら、母と妹が呆然とした顔で立ってた。「どうしたの?」って聞いたら、うちが焼けてしまって、父と妹が火傷をしたって言うの。空襲があった時、近所の人はみんな浜へ逃げたけど、うちの家族はお寺を放り出して逃げるわけにはいかなくて、お寺の防空壕へ逃げたんだね。だけどその中にも火は入ってきた。父は顔に大きな火傷を負いながら、本堂も防空壕も燃える中、鐘と木魚だけは運び出したの。今でも、その鐘と木魚は残ってるよ。ご本尊さまや他の仏様は疎開してたから、無事だったけどね。

沼津市はね、空襲の対象だったから「仏様を疎開させなさい」って命令が出たのよ。信仰があつい土地柄でもあったから。

そうね、でも疎開させきれないものもあった、本とか衣とか。いいものもあったんだけどね。全部燃えてしまった。境内に墓所があるんだけど、空襲の後、その墓所に不発弾が突き刺さってた。高さが一m五十くらいあるの。あれを見た時はびっくりした。すぐ警察に連絡したら、三島の軍隊が来て処理してくれたけどね。焼夷弾よ。大きな穴があいていたねえ。

その後、父は妹と火傷の治療をするため、下部の源泉館ホテルに来てね。ほら、下部には武田信玄が傷を治した隠し湯があるから。二人は一ヶ月くらいいたかな。その期間、私は時々そのホテルまで食料を差し入れに行ったのよ。二人は自炊をしていたからね。身延線なんか使わないで、そのホテルまで歩いて行った。往復三十キロはあるかしら。

まあ、へとへとになったけど、若かったからねえ。慣れちゃうと平気になるんだねえ(笑)。

西口 キミエ さん(79歳)大正14年(1925年)生まれ 石川県江沼郡山中町

日本統治下の台湾という環境で生まれ、22歳まで台湾で育った。終戦後、千円札一枚とリュック一つで日本に渡航。初めて見た日本の風景は驚きだった。今でも台湾の先輩や後輩、友人達とは交流が続いているという。

聴き取り日:平成17年2月5日

■生まれも育ちも台湾

日本統治下の台湾、花蓮港廳で生まれ育った。台湾語を話すことは許されず、もっぱら日本語を話した。日本の遊びをし、日本人に囲まれな がらの異国暮らしだった。将校だった今のご主人と出会って結婚、神前結婚式だったが時勢柄きらびやかな挙式とはいかなかったという。

生まれは台湾の花蓮港廳というところ。当時の台湾は、日本が統治していたのよ。女学校を出てからすぐ、戦争が始まったの。今でも学校時代のみんなと同窓会をつくっているから、年に何回か会うのよ。東海地区は龍眼会という名前。龍眼というのは、台湾の果物の名前なのよ。

今と違って軍隊があった。徴兵制度の影響もあって男の子はチャンバラごっこをよくしていたわね。女の子はおままごとかな。日本と同じ。まあ、日本が統治していたからね。「お手玉」、「あやとり」、「花いちもんめ」なんかして遊んだわね。あやとりは上手だったのよ。

山の畑で一日働いた母が肥えたごの天秤棒をかついで戻ってくる。帰り着いた家の前でやっと下ろした棒の、コトリという音の響き。その音を聞きつけ、「お母さんだ!」と顔を輝かせて、祖父母と留守番していた幼い兄弟たちが、ぱっと外に走り出る。なんだか泣けてくるね。辰子 そうよな、子どもは母親が一番。何てったって母親。母親は偉大なもんだよ。

台湾には中国語ではなく台湾語というのがあるのね。阿仁族や高砂族といった先住民もいて、現地の人とも交流する機会はあるんだけど、台湾語を覚えたり、話すことは許されなかったわね。日本人が通うのは、日本人だけの学校。将校だった旦那さんと台湾で出会って結婚したんだけど、旦那さんは山代温泉の人。神前結婚式だったわ。時代が時代だからあんまりきらびやかな事はできなかったけどね。

■初めて見た日本の風景

戦後台湾をほとんど身一つで追われ、日本へ。「日本人が荷夫や土方をしているなんて」初めて見た日本の風景は衝撃的だった。


終戦は二十二の頃。それまでずっと台湾にいたのよ。だから、生まれも育ちも台湾って感じだわね。終戦後、日本人は追い出されてね……。追い出された時は、千円札1枚と、リュックサックに入るだけの着替えくらいしか持たせてもらえなかった。食器も、写真も、着物も、全部そのまま置いていかされた。でもね、台湾で仲良くしていた人は、「帰らないで!」って涙を流してくれたんだよ。生まれ育った場所だし、今だに向こう(台湾)には友達や後輩がいるから、今でもよく遊びに行ってるけどね。

船で帰ったわね。キールン港という港から、貨物船みたいな船に乗って大竹港に行ったわ。台湾から日本に渡る船に乗った時、船の中で検査があったの。千円札以上のお金、貴金属を持っていないかどうかの検査よ。見つかった人は船から降ろされたみたいね。

日本人が荷夫や土方をしているんですもの。台湾では日本人はこんな仕事はしなかったからね。山口県の岩国が故郷だから、山口から石川まで、迎えに来てくれた旦那さんと一緒に来たの。来る途中、広島を見てきたんだけど、原爆が落ちた跡はすごかった……。見渡す限り焼け野原で何もなかったのを今でも覚えてるわ。岩国では原爆のことを「ピカドン」って呼んでいたの。帰りの車中は戦争帰りの軍人さん達で満員で、座る所もないほどだったわね。

鈴木 三雄さん(85歳)大正8年(1919年)生まれ 愛知県豊橋市 

農家の長男として生まれ家の農業を継ぎたかったが生活が立ち行かない。そのため逓信省(戦後、電気通信省。今のNTT)に務めた。戦時中は照空隊通信兵として索敵を行い敵機の位置を高射砲隊に伝える役目を担う。小柄で乙種だったため満州には行かずに済み、そのせいで生きながらえたという。戦後は電気通信省に戻り電信電話事業に関わった。当時、電気通信省の仕事は皆の憧れだった。

聴き取り日:平成17年2月4日

■遊び道具は全て手作り

幼少時代は家の近所の大きな原っぱで鳥を捕ったりして遊んでいた。遊びに使う道具は全部 手作り。あたり一面、畑だったが、豊川用水が出来てから田んぼに変わった。農家の長男で はあったが農業だけではやっていけず、逓信省に勤務する。

昔のこの辺り(豊橋市)は、高師原と言われる軍用地だった。家もこんなに建っていなくて、ずーっと原っぱ。

子供の頃はこの原っぱでずっと遊んでた。トリモチを使って鳥を捕ってね。捕った鳥を入れる鳥かごは自分で作ったんだよ。兵隊ごっこもしたけど、どれもこれも、遊びに使うものは全部手作りだった。原っぱ以外には、清水池で遊んだりもしたね。

当時は周りにこんなに家がなくて、池の水がとてもきれいだったから、池に入って遊んだりできたんだけどね。昭和30年頃からかな、以前の軍用地が開拓されることになり、家が次々に建って生活排水が流れ込むようになって……今はもう、遊べるような池じゃないね。

いや、昔は畑だったんだ。豊川用水で水を引いて、田んぼに作り変えたんだよ。昭和30年頃かな。用水公団という公団が豊川用水というのを造って、その用水のお陰で田んぼができるようになったんだ。農作業も昔はそりゃー大変だった。大正15年の頃の日本は、今の中国とそっくり。お百姓さんは手で畑を耕作していたんだよ。手で。馬を使って農作業をするようになったのは随分後のことで、当時はみんな手でやっていたんだ。

当時、小作人じゃなく田畑を持っている人は、普通、農家をしてたんだ。うちの家も田畑を持っていて、私は長男だったから、本当は学校を卒業したら農家をやるんだけど、うちの田畑の面積は小さくてね。七反くらいかな。農業だけじゃ、とてもやってけなかったんだ。それで学校に9年通わせてもらって、それで逓信省に行ったんだ、昭和10年くらいの時かな。普通の人は学校には6年しか行かないんだけどね。逓信省っていうのは、今のNTTのことなんだよ。

■戦中は通信兵として

戦時中、敵機の音からその位置を割り出して、高射砲隊にその情報を知らせる通信兵をしていた。体が小さかったから乙種に振り分けられた。それで生き残れたという。

戦時中はね、通信兵だったんだよ。電話線を使って、高射砲隊へ指揮官の指令を伝えるのが私の仕事だった。

そうそう。聴音機で敵機の音を聞いて、速度もある程度測定した上で、三角関数で飛行機の飛ぶ位置を割り出すんだ。そうして割り出した敵機の位置(高度、方向と航速)を高射砲隊へ知らせる。そうすると、その敵を攻撃できるだろ。当時ね、兵隊として召集された人たちは、甲乙に分けられてたんだ。体も大きくて身体強健な人は甲種、健康ではあるけど少し小柄な人は乙種ってね。戦争に行くのは甲種が先だった。

今考えると、私は乙種で、戦地に行く兵隊じゃなくて、通信だけやっていたから、内地にいて死なずにすんだんだと思うね。乙種だから出兵が遅くて、それも日本で通信兵をやっていたから助かった。満州へ行っていたら、生きて帰れなかったと思う。当時の満州は、満州事変からすでに3年ほど経っていて、ゲリラが多く、今のイラクみたいと言ったらいいのかな。

■復興していく豊橋市街地は、東京都心にそっくり

一面焼け野原の豊橋市内は東京都心にそっくりに見えた。戦後は通信の仕事に復帰。当時電話を持っていたのは公共施設の他は銀行、新聞社、駅とタクシー会社くらい。一般には土地の有力者しか使えなかった。

豊橋市街地は東京そっくりだったな。一面焼け野原でね……。戦後は通信の仕事に戻ったな。通信というのは、当時、皆の憧れの仕事だったから。

公共施設の他は、銀行、新聞社、駅、それにタクシー会社。あとは有力者の家くらいかな。電話を設置したい人は、郵便局に申し込んで電話を設置してもらってたんだよ。

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