22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2005年01月

大正15年(1926年)生まれ

硯で有名な山梨県硯島村雨畑に生まれる。勤め先の製鉄会社が倒産した後、教職に就いた。ベルが鳴るとすぐやってくるというので、ついたあだ名が「消防ポンプ」。多くの生徒に信頼され、その関係は今現在にも及ぶ。


聴き取り日:平成17年1月30日

■硯の村に生まれる
山梨県の硯島村雨畑――今は過疎のこの村も、往時は林業、お茶、硯の産地として、多くの人々が暮らしていた。

山梨県の硯島村雨旗、現在の南巨摩郡早川町雨畑で生まれた。昔は早川町も6000人くらい人がいたんだけど、今はすっかり過疎化が進んで、1800人くらいしかいないんじゃないかな。
産業が衰退したこともあるね。硯島村は林業、お茶、硯なんかが盛んだったから。林業はもうすっかり衰退してしまったし……。硯も、もう職人がいなくて、今はもう、2人しかいないみたい。
雨畑は硯で有名な地域なんだよ。「雨畑硯」といって、中国の「端渓」なんかと並び称されるくらいの最高級品だ。うちにもいくつか置いてあるだろう。ほら、こういうの見たことあるだろ?

■結婚のあいさつは留置所で

職場で知り合った女性に一目ぼれ。彼女は会社の社長の姪っ子だった。労働組合の役員をしていたため、周囲の猛反対にあう。結婚するまでに2年かかった。

山梨工業専門学校を卒業してから横浜の製鉄会社で働いていたんだけど、そこの工場長が私の学校時代の恩師で、その人の1年後輩の方が、日本電化の工場長だったんだ。私が山梨県出身だったから、「お前は山梨に帰ればいいじゃないか」ということで、山梨県にある日本電化に職を紹介してもらった。そこでおばあちゃんに会った。一目ぼれだったね。会って2年くらいしてから結婚したかな。でも実は、当時は労働組合の役員なんかしてたから、結婚の反対をされてね。

おばあちゃんのおじさんが日本電化の社長だったんだ。労働組合員と社長は対立する立場だからね。だから結婚する前はもちろん、結婚してからも団体交渉なんかやっていると専務がやってきて、「君はなんだ」と。「社長の親戚じゃあないか、会社にたてつくとは」と。「いえいえ、それとこれとは違いますよ。」とかなんとか、結構もめてたんだ。

おばあちゃんのおじさんは、最後まで反対してたけどね(笑)。だけどおばあちゃんのお父さんが賛成してくれたんだ。おばあちゃんのお父さんとはなんだか気があってね。おばあちゃんのお父さんは職業軍人で、戦時中、司令官をしてたから、その頃にはB級戦犯として、留置所にいたんだけどね。二人して会いに行って、許しを得たんだ。

■教育なんてもんはようわからん

「俺はなぁ、今まで越中ふんどしひとつで、塩をなめながら、鉄を溶かしてきたから、教育 なんてもんはようわからん」と生徒に挨拶して、いざ教職に。子供達に、教育というものを教えてもらったという。在職中は「消防ポンプ」と呼ばれ親しまれた。

さっき言ったように元々は工業専門学校を出て、製鉄会社に勤めていた。入社した頃は、朝鮮戦争のブームで随分景気がよかった。朝鮮特需というやつだ。それが朝鮮戦争が終わったとたん、会社がパタっと潰れた。その時同僚に、「教師にでもなれや」って言われてね。「教師なんてことが俺にできるか」なんて言って、半年ぐらいは失業保険貰いながら生活していたんだけど、食っていけないから、なんとなく「じゃ、教師でもやろうか」と思って、教員の勉強をして、免許をとってね。

28歳。それで教師として初めて学校に赴任した時、子供達の前でこういう挨拶をしたんだ。「おい、俺はなぁ、今まで越中ふんどしひとつで、塩をなめながら、鉄を溶かしてきたから、教育なんてもんはようわからん。だけどな、数学ってのだけは勉強して面白かったから、お前らにしっかり教えてやる」。

しかし、教師になってから、子供達からいろんなことを教えてもらったよ。ある時、「正の数、負の数を知っているか?」って聞くと、「はい、0より大きい数と、小さい数と教科書に書いています。でも、よくわかりません。0はない数なんだから、0より小さい数なんてあるわけないじゃないですか」という子がいた。要領のいい子だと、「なるほど、そういうことなんだ」と特に考えもせず、教科書に書いてあることを暗記してしまうんだけど、その子は違った。「なるほど、確かにそうだな」と思って、0を基準として見たときの正の数、負の数の対応関係を図を使ったりしながら教えてあげたんだ。そうしたら最後にその子が、「ああ、なーるほどなぁ」と言ってもっのすごく喜んだんだよ。「ああ、なーるほどなぁ」ってその声を聞いたとき、ものすごく嬉しかった。百点取った時の喜びと、分かった時の喜びと、どっちがいいって言ったらば、「そりゃ先生、分かった時の喜びのほうがずっといいよ」と言う。国語の点数、数学の点数が何点で、社会を合計して合計点が上の方が成績が上だとか、そんなのは何の意味もない。自分で考えて、ああこうなんだと納得することが重要なんだ。分かる喜び、学ぶ楽しさ、そして教えるということ、教育とはこういうことなんだと子供たちにつくづく教えられたね。

ある時、私の授業に関する感想文を書いてもらったんだけど、その中にこんなのがあった。ちょっと読んでみるね。「とても楽しい授業です。楽しいと言っても、おもしろい、愉快なということではありません。私たちは勉強の楽しみが分かってきたのです。他の先生とは違った何かがある。他の先生とはどこかが違う。松上先生、生徒の意見を尊重してくれる先生。授業の内容も充実していて、毎日数学の時間が待ち遠しいことがありました。怒るときには怒る、授業の時にはみんなと一心同体で勉強する。分からないところがあれば、とことんまで追求していく先生。先生は今の言葉で言えば、スーパーマンのようだ」すごく嬉しかった。教師をやっていて本当に良かったと思ったよ。

生徒たちに、よく「授業が待ち遠しい、待ち遠しい」といわれたから、チャイムが鳴ると同時に教室に入るようにしていたんだ。それでついたあだ名が「消防ポンプ」。ベルが鳴ったらすぐ来るってことだな。そう。それに授業が待ち遠しいなんて、教師にとってはすごく嬉しいし、名誉なことだよ。

教員を辞めたのは55歳の時。真実を貫く民主教育をやろうと考えていただから、山教組の問題には我慢ができなかったんだ。まだ私が教員組合に所属していた時「こんな組合があるか! 子供のことを考えてやっとらんで、選挙のことだけ考えて何が教員組合か!」って言ってたら、共産党を支持する人たちが「涙が出るくらい嬉しかったよ」と。「あなたも共産党に入ってくれないか」と言う。教育を良くするには、政治から変えていかなければと思っていたんで、それじゃあと思ってね。うちの親父も兄貴もバリバリの自民党主義者だけど、基本的なところは同じものだと思った。

中澤 好孝さん(81歳)
大正12年(1923年) 生まれ

少年時代からの「遊び人」。高校はタバコを吸って放校。戦中はシンガポールの軍港に駆り出されそこで終戦に。1年間の捕虜生活を経て帰国、結婚するが「遊び人」の習性は直らなかった。「中澤休(やすむ)」という名前を改名、「中澤好孝」となって60余年。仕事も遊びも思い切りよく、と朗らかに振り返る。

聴き手:中澤 誠(長男)、中澤行雄(孫)
聴き取り日:平成17年1月30日

■タバコを吸って高校を退学に
生まれも育ちも山梨県の甲府市。5人兄弟の末っ子として可愛がられた。高校退学になるまで「悪さも遊びも思い切り好き勝手していた」。

好孝 わしは男3人、女2人の5人兄弟の末っ子だった。末子だったから、非常に可愛がられたよ。親父は学校の先生をしていてね、その教え子の人達には、いろいろと世話になったな。

── 子供時代はどんな遊びをしてたの?

好孝 ガキ大将でね、みんなでもって、でっかい木の上に秘密基地みたいなのを作ってたね。悪玉だったから、悪いこともいろいろしたね。おじいさんの大切にしていた本や、喪服を売り飛ばしてお小遣いにしちゃったこともあったな。

── その本や、喪服はどうなったの? それっきり?

好孝 いや、おじいさんが気づいてね。わしの売った2倍くらいの額で買い戻してた。今考えると、本当に悪いことをした。

── 学校の思い出ってあるかな?

好孝 東京の学校に行っていたことがあった。三田工業専門学校。でも退学になってね。

── 何をして?

好孝 仲間とタバコを吸っているところを警察に見つかってね。「おい、君達、ちょっとこっちに来なさい。医療切符を見せてくれるか?」と言われて。

── 医療切符っていうのは?

好孝 歳の証明書のことだ。あの頃はみんな持ってたんだ。当然みんな未成年者だったから、5、6人つかまって警察署に連れて行かれてね。所長の訓示を聞かされて帰されただ。

── でも、それだけで退学になったの?

好孝 まぁ色々なことがあったからなあ(笑)。それも含めてってことだな。

■シンガポールで1年間捕虜生活
戦争が始まると南方に召集され、シンガポールのセネカ軍港で終戦を迎える。戦後は捕虜となり、滑走路作りを手伝わされた。仕事中は足を蹴られたり棒で殴られたり散々な目にあったという。

── 兵隊として、戦地へ行ってたんだよね。

好孝 横須賀海兵隊として、シンガポールへ行っただ。シンガポールのセネカ軍港。あれはイギリス軍の5万トンの船があったところだ。102航空機基地に行くとしか聞かされてなくて、着いてみたら、シンガポールのセネカ軍港だった。その頃は、そういった基地は全て、暗号で呼ばれてたんだな。戦争中はずっとそこにいて、そこで終戦を迎えた。終戦後は今まで捕虜にしていたやつらと立場が逆転してね、1年間くらいセネカ軍港の滑走路作りをさせられてた。仕事中は、足を蹴られたり、棒でぶん殴られたりした。元捕虜と現捕虜。立場が逆転したんで、そりゃあ働かされた。

── 日本に帰ってきてからは、何をしてたの?

好孝 戦争から帰って、1年くらいぶらぶらしてた。南方ボケしてしまったんだな。向こうは四季がないからね。なんかこう、一年中夏休みみたいな感覚で、その感覚をひきずったまま日本に帰ってきたから、仕事をしてもなんとなく集中できないっちゅうか、手に付かなくてね。日本のリズムに慣れるのに1年ばかしかかったちゅうわけだ。色々な会社に勤めたね。缶工場、ペン工場、自動車の山梨モーター株式会社にもつとめた。山梨モーターは結構良かったんじゃけど、社長の息子が車売ったお金を使い込んじゃってな。社長も自分の息子がしたことだから、警察に言うわけにもいかなくて、なんかごたごたしとったら、重役達が皆、身を引いちゃってね。それで会社は立ち行かなくなった。

── それからはどうしたの?

好孝 その後、おやじ(敬造)の紹介で、市役所に勤めるようなって。運転関係の仕事だったから、事務系統とは違って割と単純な仕事だったから、やりやすかった。市長さんとか、県長さんとか、役所のお偉いさんをいろんなところに連れてく仕事。人と知り合う機会は多くて、顔は広かったね。皆に「アイアン」と呼ばれて。

── アイアン? どういう意味?

好孝 兄貴ってことだ。姉さんなら「ネーヤン」。兄貴だったら「ニーヤン、アニヤン、アイアン」だ。役所では、31年の間に6とか7とか課を回ったね。土木行ったり、建築行ったり、色々なところに行ったよ。また、昔はただ飲みがあってね。結構楽しかったな。

── ただ飲み?

好孝 ま、接待のことだな。でかい業者はお役所の仕事を引き受けることができると、仕事が完了した後、必ずお役所の職員を接待してくれただ。業者にすれば、でかいお役所の案件を引き受けられて、結構な儲けになるわけだから、そのお返しってわけだな。小料理屋とか、割烹料理屋とか、普段なかなか行かれんような、高級なところに連れて行ってくれた。とにかくお金があるっちゃけん。

── 今では考えられないけど、昔はそうだったんだろうね。

好孝 そう、今そんなことやってたら、首になる。

── 仕事の中で印象に残っている出来事はある?

好孝 うーん、そうだな。ある時同僚に「用事ができたけん、人の送り迎えを変わりにやってくれ」ってお願いされたことがあった。「わかった」って言って、代わりに人を迎えに行ったんだけんど、どうもその車のブレーキを同僚がいじっとったみたいで、それを教えてくれとらんかったけん、いつもどおりの感覚でブレーキを踏んだら、急ブレーキがかかってな。乗せていた人が胸を打ってしまった。ありゃ肝を冷やした。それ以外にも、車を運転してたから、事故は結構あったよ。ただ、車で人を轢いたり、傷つけたりっていうことはまったくなかったけんどね。そのおかげで、退職する時、市長から表彰状をもらったよ。

── 転勤に抵抗はなかった?

■家族には迷惑をかけた



好孝 みどり町に「曙」というダンスホールがあって、そこで知り合ったんだ。

── ダンスホールで出会っただなんて、なんかロマンチックだね。どこに惹かれたのかな?

好孝 そんなことはまぁ……。話をしただから、話があったのかな。出会ってから3年くらい付き合って、ちょうど市役所に勤めだす頃だったかな、兄貴達に「ちゃんとした仕事にも就くだから、そろそろ身を固めろ」って。そういう勧めもあって、結婚した。この辺には、昔、グランドキャバレーというところがあって、結婚してからも週に1、2回はそこに行ってた。ムーランというとこもあったな。悪い友達と一緒に遊びまわって、酒飲んでわーわー騒いでた。家族には迷惑かけたかもしれんが、若い頃は本当によく遊んだよ。


名は体をあらわす。「休」──この名前は今の大変な時代にそぐわないと思った。そうして、名前を変えることにした。

好孝 わしは一度、名前を変えてるんだよ。8月3日に生まれて、その頃ちょうど夏休みだったから「休」と書いて、「やすむ」という名前をつけられた。「きゅうちゃん」って呼ばれてたな。軍隊から帰ってきてから、この社会状況で、「やすむ」っていうのはうまくねぇ。こんな名前じゃだめだって。そんで、名前を変えることにした。名前を変える時、口頭審問があって「なんであんた名前を変えるんだ」と。「働き者なのに(笑)、『きゅう』とか、『やすむ』とかって言われて、どうもしっくりこない。だから変える」と答えた。名前はおじいさんが本やなんやいろいろと調べてくれて、「好孝」か「好彦」のどっちかにしろってことになったんで、自分で「好孝」のほうを選んだ。こっちの名前の響きのほうが良かったからね。

■次世代へのメッセージ
── 次世代の若者に向けて、何かメッセージをもらえるかな。

好孝 私は道楽したからねぇ。ま、仕事は一所懸命して、だけど抜くところでは気を抜きなさいってところかな。ストレス解消は絶対に必要だからね。私ももう歳だけんど、今でもカラオケ行ったり、スナック行ったりしてるよ。若い頃はしっかりいろんな経験をするために遊びもしっかりすることだね。何事も勉強になるからね。

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佐野 さと子さん(79歳)大正14年(1925年)生まれ 山梨県南巨摩郡身延町

山梨県三富村出身。農家に生まれ、幼いころから家業を手伝っていた。昭和25年、出征から戻った義正と結婚し身延での生活を始める。現在、長男富雄・美保子夫妻と孫を含めた7人で暮らす。

聴き取り日:平成17年1月30日

■農家の娘は働いた

国道から伸びる坂道を上がったところにある集落で暮らす佐野家。祖母さと子、長男富雄・ 美保子夫妻、孫孝文、文香、佳香、国正の7人が暮らしている。周囲のほとんどが高齢者の みの集落内で、大家族を形成しているのは珍しい。

三富村ね。塩山の奥の方の村だよ。雁坂峠の方かな。田舎だよ。大正14年に生まれてね。7人兄弟の真ん中。家は農家でね。お父さんが馬を飼っていてね。小さい頃からよーく働いたもんだよ。夕飯食べて寝てしまうとね、その子にはおやつをもらえなかったりしたよ。働かないとダメっていうことね。

近所の人の変わりにとうもろこしや米、蜜柑とかの食料や日用品の買出しをしてきてあげて、そして配ってまわるんだね。引き換えに墨を交換してもらうっていう仕事だった。墨俵を編んでね、それで親からお小遣いをもらっていたよ。その集落は農家の子どもが多いからね。年3回の蚕の収獲の頃、忙しくなると学校が休みになるんですよ。「お蚕休み」っていってね。お蚕売って、お金もらってね。

小さな子どもをおぶってでかけていってね、それで遊んだりしたよ。天神さんにお菓子をもらったりしてた。

勉強の神様を祀ってある神社だよ。お椀を作ってもっていくと、お菓子をくれたんだ。そんな感じの部落の行事が一杯あったよ。
お団子作ったり、歌を唄ったりして、納会みたいなことをしたよ。そこで劇や踊りをやったりね。今、学校でやっているようなことをやっていたんだよ。部落会ってものがあって、文化の日には村人総出で文化祭を催すの。それも、当時は公民館なんてものはなかったから、よそに人の家で発表会とかやるんだよ。私は婦人の会の中で、劇やダンスを練習して披露したよ。一生懸命練習してみんなに楽しんでもらおうと頑張った。村人同士が仲良くなって協力できるっていうのはいいことだよね。

これは出征するお兄さんを見送った写真だね。太鼓を持っているのが私。右で馬に乗っているのがお兄さん。生きて帰ってきたからよかったね。

■おじいちゃんの思い出

祖父義正は幼少の頃から出稼ぎを繰り返し、苦労してきた。出征から戻りさと子と結婚、身 延の山間での生活を始めた。食べ物も遊び道具も自分たちで作る生活。それが当たり前だった。平成16年、義正死去。

おじいちゃんはここ(身延)で生まれてね。中学校卒業して13歳から丁稚奉公に出たんだよ。住み込みで働いて。でもお金はあまりもらえなくてね。おじいちゃんも農家でね、東京で出稼ぎもしたけどね。丁稚奉公しながらバイオリンを勉強したんだよ。

おじいちゃんが弾いてた大正琴もあるよ。お寺で納会っていうのをやってね、そこで弾いてたんだよ。

三富村の村長さんが仲人になってくれてね、お見合いをしたんだよ。出征から戻って、戦争終わってすぐだったね。当時私は新宿に出稼ぎに出ていて、パン屋や竹製の籠なんかを作る籠屋で働いていたよ。おじいさんは昔からよく畑仕事を手伝っていたみたいで、出会った時はバイオリンをよく弾く結構な音楽好きな印象があったね。(床の間からバイオリンと大正琴を持ってきて)それ本当に音がでるのかな?

おじいちゃん、竹を切って弓を作ってくれたんだよ。針金を弦にしたやつでね、面白がって矢を射ったら、ガラスが簡単に割れちゃうくらいの威力だったなあ。

遊び道具はもう全部自分で作ったんだよ。自分で山に入って木をもってきてね。竹馬とか、遊び道具は全部自分で作ったね。お手玉、めんこ、それに三輪車とかね。

そう。丸太を輪切りにして中に鉄の心棒を入れてから、ペダルが上手にすべるようにネギの白い部分をつけるんだよ。油代わりにね。二又になった木をハンドル代わりにしてね。

なんか危ない感じだけど大丈夫だった。ほかには、凧を作ってくれたりしたね。それに絵を描いてとばしてね。凧なんて買うものじゃないと思ってた。おじいちゃんに作ってもらったり、自分で作ったりもした。(居間の柱にかけてある2つのパチンコを指差して)あのパチンコは、おじいちゃんと作ったんだよね。ビー玉を飛ばしてね。メンコには地域独自のルールがあってさ。紙を厚くして強くしたり、ロウを塗ってすべりやすくしたりして、色々工夫してたよ。

そばを作ってるときにね、「ハトがいればなあ」ってね、おじいちゃんが言ったよ。それはヤマバト。キジバトとも言って野生のハト。そばのだしにすると、あれは美味しいね。ざるとか魚を入れた木箱とかを使って、罠にかけて取るんだよ。子どものころは、自分たちの縄張りを作って罠をしかけて、学校から帰ってきてざるが下りていればハトが取れてるかもしれないって騒いだね。

■山間の暮らし

国道から車で山道を十数分。山間の集落からの通学には時間がかかる。街灯もない。

小学校までの通学はおもしろかったよ。学校までは6kmくらいあって、行きは下りで1時間、帰りは登りで2時間はかかって歩いていた。歩きながら自然に触れたり探検したりして遊んだよ。そしたらやっぱりそんな長く歩いているとお腹がすいてくるんだよ。おやつになりそうな新芽や花の蜜を取って空腹を満たしていたね。ススキの新芽なんかは甘いし、ガムみたいな食感なんだよ。今だから言えるけど、たまに畑で果物を盗む悪知恵を働いたこともあったなぁ。帰りが夜になると下の道から見てさ、上の方でおじいさんが「おーい」って呼んでくれるんだよ。たいまつもってさ。それで「おーい」って呼び返したりしてさ。上に行ってみるとたいまつはもう見えなくて、まっくらになってた。坂道の途中で友達と別れたら、文字通り暗闇の中を一人で歩いてね。あれはさすがに怖かったね。

そういえば、よくたけのこを拾いにいったな。戦時中は特にね。たけのこの皮をとってご飯を包んでお饅頭を包んだりしたよ。今はたけのこの皮は高級品だけどね。柏の葉っぱを使うこともあるね。竹の皮に梅干や紫蘇をはさんでチューチューやってたこともあったな。学校行くのに1時間も2時間もかかったからね、色々遊んでたよ。お盆とか正月にはね、着物を作ってくれたんだよ。友達とお揃いでね。

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