22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2004年11月

■24(水)

岩下温泉
*原稿書き、甲府退去荷物積み込み。

田中達雄さん(84) 大正8年 岡山県津山市生まれ

浦和高等学校卒業後、東京帝国大学法学部に進学。
終戦を上海で迎え、復員後に日本放送協会(NHK)入局。
教育局にて児童向けのラジオ番組制作にあたる。

■野球少年

僕は卒業式っていうものに出たことが無いんだ。小学校の卒業式は、友達連中と阿蘇まで遊びに行った。先生と一緒に。 その当時としては珍しかったけれど教科別に先生が分かれていたなぁ。
中学校では野球をずっとやっていて、そのときの先生は僕が野球をやっているということだけで100点をくれたんだ(笑)。まぁ、野球をやりすぎて足を痛めて二年間休学したから卒業式には出られなかったけど、野球はいまだに好きだなぁ。
高校は兵隊検査があって。大学は三年間通うところ、戦争で二年半に短縮されたから卒業式は無かったの。

●京都の舞鶴小学校に入った。村の小学校はタダだったけど、町の小学校は月に50銭支払っていたね。一度、学校行く時にそれを無くして親父にこっぴどく叱られたのを覚えている。

●父親はグンゼ(生糸の繊維加工会社)の工務主任。戦争前の輸出でかなりの需要があり、景気はよかったね。

●そのときの工場長、つまり親父の上司だ。その人の家がやたらと大きくて、「偉くなることは家が大きくなることだ」と子供ながらに思った。

●学歴のある人が上司にいたから、せめて息子にはしっかり教育をさせようと、中学校に入るときにとてつもなく大きな机を買ってくれたのを覚えている。

■高校生活

浦和での高校生活が一番楽しかったね。田舎から出てきたっていう理由もある。寮生活だったからみんな仲良くて。いや、本当に楽しかった。
楷(カイ:ウルシ科の落葉高木)の木を先生が中国から持ってきて寮の目の前に植えたんだ。その木がどうしても印象深くて、1996年に中国までその木のルーツを確かめにいったよ。

■上海へ赴任

●大学が短縮されて、普通三年のところ二年半で出された。それで海軍兵科予備学生になるための試験を受けた。これに落ちたり、受けるチャンスが無かったりすると、無条件で一兵卒になる。

●試験に受かり、基礎訓練と実科を半年ずつ軍人として受ける。ベテラン訓練官よりも、試験に受かった予備学生の方が身分としては上だったので、微妙な関係だったね。一度、酒に酔っぱらった教官と訓練生がそのことで喧嘩しはじめたこともあった。

●その後、海軍少尉として上海に配属。

出征直前。京都駅前の百貨店に駆け込み、親戚一同と。向かって左が父親の八之助。

敵兵を目前にして戦う陸軍や空軍よりも、視界遠く離れて戦う海軍の方がよかった。実際はそんなに変わらなかったけどね。

●その頃日本内地では爆撃による被害が激しかったが、上海には物資がかなりあった。赴任先で運命が見事に分かれたね。

●国際都市上海には各国より新聞記者が集まってきていたが、この頃コーヒー一杯75円。これは月給と同じくらいだったよ。

●仕事は無線傍受の暗号解読。終戦を知ったのも無線を聞いている最中。だから8月15日より前に知っていたけど、誰にも言えなかった。

●終戦を迎え、揚子江の支流、黄浦港内の復興島という島で捕虜となる。ここには揚子江沿岸の海軍部隊全員が集められて中国海軍の監視下におかれた。

●戦後に各地の収容所の話を聞くと、ここでの生活は比較的恵まれていたね。

●仕事は無く、衣食住つき。午前中は兵士に中等教育を行い、午後は畑を耕したり野球をしたこともある。

●後で知ったことだけど、日本の陸軍士官学校を出た蒋介石が面倒をみてくれたからだった。日本びいきだったんだな。

■復員、そして就職

昭和21年3月に上陸用の舟艇で長崎に帰ってきた。 電報を打とうと思ったんだけど、郵便局が大行列だったからやめちゃった。母親がちょうど畑に出ている時に家に着いたから、言葉が無くて呆然としていたよ(笑)。

京都の綾部。九州から一緒の汽車に乗って綾部で降りたのが他に三人いたのを覚えてる。新聞記者とよろず屋をやっている人と、、、あと牧師さんだったかな。

●戦前から籍のあったNHKに電報を打ったところ、すぐに東京に出て来いとの指示があった。その頃はリストラの時期でもあったし、人手不足でもあったからね。

●ラジオの受信料でテレビをカバーしていた時代。「子供の時間」、「幼児の時間」、学校放送などを手がけ、児童を対象にしたラジオ番組の製作に携わっていた。

●渋谷の松涛幼稚園の教室を借りて、子供たちの演劇の勉強が出来るような環境作りをしたこともある。

●55歳の時に退職した。それから教材やテキストを作っている出版協会で働いたけれど、ハガキの整理ばっかりしていてつまらなかった。

●霞ヶ関の家庭裁判所の調査員もやった。なかなか解決しない問題ばかりだったけれど、人の身の上話を聞くことに関心があったんだ。自分の話をするのは苦手だけど。

■これから

身体はずいぶんと弱ってしまったけれど、豪華客船で中国にもう一度行きたいね。だから今計画してる。今回は船で行ける都市を廻りたい。青島とか上海とかね。あんたのお母さん(達雄さんの娘)やあんたの卒業した学校を見て回って、小学校から大学までを写真に撮って歩いたことがあったね。
違う違う、今現在の校門や生徒たちの様子だよ。自分の学校も京都まで撮りにいったけれど。
そう。時間が経ってから前に過ごした場所に行くとね、当然懐かしいし、自分が経験してきたことを振り返ることが出来るんだな。世界や日本の歴史を知って、自分のルーツを探るのはとても大事だよ。


田中達雄1.jpg

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