22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2004年10月

水野 正志さん(82歳)大正11年(1922年) 生まれ 山梨県大月市

山梨県梁川村(現梁川町)出身。養蚕農家に生まれる。中央線施設、国道整備などで実家の移転・移築を経験する。昭和29年、美津枝と結婚。現在梁川町に妻の美津枝、長男である浩二・樹美夫妻、孫の秀哉、愛己と暮らす。

聴き取り:平成16年10月31日

■移転・移築を繰り返した家

山梨県梁川町。中央線が開通し、ついで甲州街道の改修が行われ、その都度移転・移築をしてきた農家に育った祖父・正志。桂川での遊びの話など、思い出を話してくれた。


祖父と両親と兄弟で暮らしていた。もともとは別の場所にあったんだけど、すぐそこを通ってる中央線の開通工事が始まったとき、移転したんだ。俺の母親が10歳のときに移転したって言っててね。中央線が開通したのが明治38年だから、完成まで10年以上。かなり時間がかかったようだね。それで移転したと思ったら、今度は国道(甲州街道=国道20号線)の改修工事が始まった。それでまた移転することになって、移築したんだよ。

このあたりも昔に比べたら様子は変わったね。でも住んでる人は変わらないよ。むしろ増えたくらいだね。戸数は280、今は300くらい。農家の次男三男は分家して、農業を継いだり……みんな貧しい生活をしていたね。うちも養蚕で生計を立てていたんだよ。でも結局、農業では食べていけないから、東京へ働きに出て行ったわけだね。今でも始めようと思えば農業はできる。でもね、専業から兼業へ変えて、それでもやっていけない家があるくらいだ。それに兼業っていったって、換金作物なんてのは本当に少ない。

この小さい部落が50世帯として、3分の1くらいが3世代で暮らしてるんじゃないだろうか。でも、隣近所の関係はまだある。色々行事があるとお手伝いする。徳川時代の五人組制度が生きてる頃、そして戦争中は隣組という制度ができて、回り番で役をして、冠婚葬祭もやってね。でも、子どもたちが外へ出て行くと大変だよ。若い働き手がいないと。

ほとんど勉強もしないし、学校から帰ってきたら桂川でみんなで夕暮れまで遊んでたり、釣りをしたりして、楽しかったなあ。昔は鮎がよく釣れた。自分で竹を切って、釣竿を作っていたよ。竹は火であぶると曲がるでしょ。うまい具合に調節して、竿を作る。6月1日、鮎の解禁日になると、友達みんなで競争で作って、釣竿の出来栄えを見せ合った。「いい竿ができたよ」って言ってね。まあ、釣竿を買うお金が無かったっていうのもあるけどね。

冬、このあたりにも少し雪が降った。それでもせいぜい30~50センチくらい。このごろは本当に少なくなった。「雪が降ると豊作になる」って。

■大月空襲

戦時中は「学校工場」で働いたという祖母・美津枝。大月空襲の特集が掲載されている新聞の切り抜きを見ながら、女学生だった当時の思い出を振り返ってくれた。

女生徒は、6年で卒業すると、製糸工場に働きに出された。きつかったと思うよ。無理に働いて、若い女の子がみんな結核になったり、肺病になったりしてね。あれは気の毒だった……女の子は八王子の片倉とか、信州にある製糸工場に送られてね。(新聞記事を取りだして)「大月空襲」って言ってね。あたしたちが働いていた工場が空襲を受けたんだ。その頃学校を改造して工場にして、落下傘を作っていたんだよ。

ハンカチ大の白い布でできたもの。そのときは落下傘にぶら下げて、物資を届けるものだって思っていたんだけど、この新聞記事を読んだら、爆弾を運んだなんて書いてある。驚いたよ。

勉強なんてできないの。修学旅行なんて一回も行ったことない。とにかくお国のためってね、勤労奉仕をしていたよ。私も女学校2年生くらいから勤めていた。アイロンがけとかミシンがけとか。でもね、白い布をずーと見続けていたのがいけなくてね、同級生でも失明した人が何人かいるって。

落下傘を作っていると、白目が真っ赤になる人がいた。みんな結膜炎だっていって目医者通いをしていたんだけど、当時は満足な医療もなくて、治療もままならなかった。原因がわからないまま失明してしまうことがあったんだよ。よく知っている人は、失明したんだけど、好き嫌いがたくさんあったから栄養失調で亡くなったって聞いていた。だけど、実はそうじゃなかったんだよ。落下傘を作っていたせいだって、この新聞を読んで最近知ったのよ。そして終戦3日前に大月空襲があった。私が落下傘を作っていた学校工場が爆撃されたんだ。先生も亡くなってね。なんで私が助かったかって言うと、私の両親がね、この日に限って「お前学校休め」って言ったんだよ。いやな予感がしたんだろうね。

朝8時30分頃、校門に入ったところで爆弾が落ちてきたんだ。みんな15歳くらいでね、若かったのに。かわいそうに……。

■普通電車で花嫁が

正志が住む梁川村と、美津枝が住んでいた富浜村は電車で一駅の隣同士。美津枝は嫁入りのとき、タクシーではなく、普通電車に花嫁衣裳のまま乗り込んでやってきたという。

隣村の富浜村。今は大月市になったけどね。ここは梁川村って言ってた。

ちょうど大月市制50周年の今年が金婚式だった。俺は病気して、結婚したのが32歳のときだったから、金婚式なんて到底迎えられないって思ってたけど、よくまあここまで、二人で生き延びたなあと思ってね。

花嫁衣裳を着て、電車で嫁入り。電車で一駅なんだけど、たまたま同じ車輌に旅行団の人達がいてね、歌を唄ってくれたの。それがなんともいえないいい思い出だね。

富浜村は一駅だからさ、電車でいいやって言って。ケチしないでタクシー乗せてあげればよかった(笑)。観光旅行で移動しているグループのこと。たまたま乗り合わせたんだね。

■昭和を振り返る

昭和を振り返ると、農家の厳しさだけが思い浮かぶという祖父・正志。もちろん戦争も辛い 体験だった。

疲弊した農村っていうイメージが強いねえ。農民から絞れるだけ搾り取った。それで農村が疲れてしまったんだ。それに加えて、昭和4年ていうのがね、世界中が恐慌になって、繭が売れなくなってしまった。農家は大変だったよ。

そりゃあ変わったよ。今の子は勉強ができてうらやましいよ。衣類から何から配給でね、衣料切符っていうのがあって、その範囲でまかなう。

あの戦争がね、日本が外国から攻められてね、身を守るっていうものならまだ良かった。みんなを守るためだったらがんばろうって思えた。でも、そうじゃないんだ。外国を攻めたのが始まりだっていうんだから。まあ、日本も追い詰められたんだね。

■14(木)

上野原 長命園

女手一つで四子を育てる
神奈川県横浜市

布施ソデさん(87歳)
大正6年(1917年) 生まれ

大正6年10月26日、東京府南多摩郡南村鶴間(現在の東京都町田市鶴間)にて、井上音吉・スワの次女として生まれる。昭和16年4月7日、布施福蔵と結婚。神奈川県横浜市子安に移り住む。昭和35年4月30日、夫福蔵が胃ガンで死亡。その後、安田倉庫に勤め始め、一男三女を女手一つで育て上げる。

聴き取り日:平成16年10月24日

■戦地へ旅立つ弟との記念写真
弟・末吉は海軍の整備兵。夫・福蔵は陸軍衛生兵だった。昔の写真を見ながら、家族や、お見合い結婚だったという夫婦の馴れ初めについて聴いた。


── そうねぇ。これが、やっぱ、一番古いよね。これは、結婚した頃。この人、誰だか、覚えてる?

ソデ 三ちゃん。

── そう、(兄の)三ちゃんね。この人はおじいちゃんでしょう。で、これが弟さんね。戦争で亡くなっちゃったんだよね。

ソデ そうそう。戦争でね。勉強、出来たんだよ~。勉強は、一番だった。よく出来たんだよ。なぁ。

── (制服の碇のマークを指して)これは、水兵さんだってこと?

ソデ そう。海軍。(左端下の女性を見て)ちよの。ちよの。ちよの。 ── ちよのさんね。三ちゃんの奥さん。まだ、ご健在よ、この方。(ソデが通っていた和裁学校の裁縫の先生だった。ソデの1つ上)おばあちゃんさぁ、この人とさ、なんで結婚したの?

ソデ 何でもない。

── 何でもないじゃないでしょ、お見合いでしょ(笑)。誰の紹介?

ソデ おとらさん。

── 最初に会ったとき、どんな感じだったの? おじいちゃんの印象とか。

ソデ おじいちゃん……。

── どんなかんじ?

ソデ ……いい男だ。

── いい男か。そうだな、いい男だな(笑)。あと、あれでしょ。おばあちゃん言ってたじゃない。一回戦争に行ったから、もう行かないと思って結婚したんだよね。そしたら、また召集来ちゃったんだよね。

ソデ 2回も行った。内地にね。

── 中国の満州の方ね。なんか、写真があったね。あとで見せようね。(帰宅後、結婚前の祖父のアルバムを見せてもらう。祖父が作った衛生兵時代のアルバム2冊、ポストカード等を集めた物1冊。軍より支給のアルバム1冊)

── おじいちゃんは、おばあちゃんのどこが気に入ったの?

ソデ ……。 (照れているのか、口をつぐむ)

── 秘密なんだ(笑)。

■茅葺きだった実家を立て直す
実家の立て直しや、生活習慣としての土葬について。おぼろげながらも記憶を辿り、思い出を話してくれた。



── 関東大震災とか、覚えてる? 子どもの頃だったんだよね。おばあちゃん、いくつだった?

ソデ 7つ。

── あれは大正12年でしょ。大正6年生まれだから、数えの7つになるわけ。関東大震災があったからって、お祝いを1年繰り上げて。翌年やったんだよね。お家とかは、大丈夫だった?

ソデ 大丈夫。大丈夫。

── おばあちゃん、子どもの時、子安にいたんじゃないんだよね?

ソデ 子安だよ。

── 鶴間じゃ~ん、おばあちゃん。

ソデ そうかぁ。(写真を指して)建て前。

── あ、これ、田舎の建て前かぁ。昔のお家だから、和室がつながってて、縁側があってって、感じ。新しく家立てる時の建て前。子どもの頃いた鶴間のお家ね。 で、次に建てたときに2階建てにしたんだよね。おばあちゃんの田舎の人は、女の人は、学校出たら働きに出てたんだって。だけど、おばあちゃんだけは、行かなかったんだって。お父さんが働きに行かせてもらえなかったんだね。

ソデ 「一人娘だから、行かなくていい。」って。後は全部男4人に、女1人。お母さんも早くに亡くしてるし。おじいちゃんが、手放さないんだよね。女の子1人だけだから、かわいくてかわいくてしょうがなくてね。なるたけ、外に出さないように、出さないようにしてたのよね。

── いくつくらいだっけ? おばあちゃんが亡くなったの。小学校の頃だと思うけどね。

ソデ おばあちゃん、いくつんときだったっけねぇ。ぜんそく。ぜんそくで死んじゃった。おじいちゃんは宵っ張りだ。

── おじいちゃんは90まで生きたよね(笑)。八十八のお祝いを、あんまり祝いごとすると良くないって言ってて、伸ばしたんだよね、90まで。で、お祝いして、変な話し亡くなっちゃったの。ホントにそうよ。それが、私が高校3年ときかなんかだったなぁ。昭和37~8年だな。あ、おばあちゃんのお父さんが亡くなったのね。あの頃で、土葬だったの。うちの4軒くらい先にお寺さんがあるんだけど、そこに、おじいさんを担ぎながら、先頭にドラを持った人がドラをたたきながら、お寺まで歩くわけ。そこで、もう掘ってあるんだけど、そこに入れて、親族が土かけてね……。子安の方じゃみんな火葬だったから、鶴間の方じゃまだ土葬なんだって、ビックリしちゃった。だから、お墓って、いっぱいあるわけ。土地が広くあるわけよ。順番に埋めていくんでしょ、結局。すぐ埋めたら、だって、また出てきちゃう(笑)。

■夫の死を契機に勤め始めた

ソデ (アルバムを見ながら)懐かしいねぇ。

── 懐かしいでしょう。……これ、誰?

ソデ うちのお父さん。

── お父さんね。これね、お父さんのね、お見合い写真なのね。

── へ~、お見合い写真?

ソデ そう。

── これが? すごい、いい男じゃないですかぁ。(別の写真を指して)これ、全部会社の人? 大きな会社なんだ。

ソデ そう。(別の写真を写真を指さして)ばあちゃん。若い。

── お茶会って書いてある。

ソデ そう。お茶会なんだよ。行ったな。三溪園お手前やったよ。今は、もう、忘れちゃった。

── お、晴れ着着てるのがある。お正月?

ソデ そう。お正月はね、みんな昔はね、初出勤の時は、着物着てって。今はそんなの考えられないけどね、私たちの頃もそうだったよ。最初の頃は、みんな。着物で行ったんだよ。 みんな振り袖だけど、おばあちゃんは違う。結婚してたから、振り袖じゃないんだ。いつからだろうねぇ、みんな、着なくなっちゃったのは。

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