22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2004年09月

■8(水)

上野 10:15
高崎 11:50
   12:15
横川 12:47 バス
   13:50
軽井沢14:24
   15:42
小諸 16:05
   16:32
小淵沢18:40
   18:59
甲府 19:38

■10(金)

*大阪。収録。
*大津泊。

■11(土)

大津

柘植

亀山

鳥羽

伊良湖

豊橋

*焼き鳥百万石。

■12(日)

豊橋 伊那路

飯田

甲府

厳しかった軍隊生活
山田 利一さん(78歳)
大正15年(1926年)生まれ

長野県松本市出身。太平洋戦争に海軍として従軍。
忘れられない戦争体験をする。戦後、療養を兼ねて訪れた白骨温泉で生涯の伴侶となる妻と出会い、大恋愛を経て結婚した。

日時:平成16年9月6日
■鉄鋼組合から海軍に志願
戦争体験をよく話してくれた祖父。聴き取りにあたって、詳しい軍隊経験を教えてくれた。
志願して海軍に入隊した理由とはなんだったのだろうか。


利一 実科中学を卒業して、そいで鉄鋼組合に入ったわけ。なぜ入ったかというと、徴兵制っていうのがあってな。そのほかにも学徒動員みたいな強制的なものがあっていかんきゃいけないだ。だから鉄鋼組合に行って、海軍に志願しただ。鉄鋼組合は潜水艦の部品作ってるで、そこに入って、1年いたんかや? いなんだかや? なんで志願したかっていうと……

── 海軍はハンサムだったからじゃないだ?(一同爆笑。以前祖父から海軍になるためには、足が長くハンサムでなければならなかったという話を聞いていたため)

利一 なんで志願したかっていうと、運動場で連隊を見てただよ。そしたら、ラッパ卒(ラッパを吹く連隊)が上手くできなかったらグラウンドの土手を回って来いっていわれるだ。競技場のグラウンドを1周するのに400メートルあるだろ? その外の土手だからものすごいわな。それをいって飛ばす(走ろ)わけさ。そんで飛んで(走って)くるだろ。けぇって来るとハーフーハーフー言ってるところに、「吹けっ!」ていわれるだ。そんなの吹けるわけないじゃねーか。そうするともう1回飛んでこいっていうだ。それでな、これじゃイヤだし、大体陸軍はそこらに物もねぇーに、歩かんきゃいけねーだろ。それじゃやーだってって志願しただ。けどおおばあちゃん(私のひいおばあちゃん)は反対しただ。親は戦争に志願してまで行ってもらいたいなんて普通は思わないだ。

■厳しい軍隊生活
軍隊での苦い経験が、祖父にある決意をさせることになった。断片的に知ってはいたが、こ こで詳細を聞くことになった。

利一 おらぁの軍隊は1軍隊っていって450人いただ。そん中の1人が「こら!」っていわれるだろ。その晩は全部整列してばったくらうだ(棒でもって尻を叩かれる)。1人が「こらっ!」てなると。先任の上のほうがよくみてて、そいでみんな殴られるだ。その班になると一番若いのが一番叩かれる。次から次へと上から全員に叩かれるだろ? その中で若いもんを先任の者が叩く。またその下がいるだろ? そうするとまた叩くわけ。自分の班がやらなかったら終わっちゃうわけ。反対に自分の班が叱られると最後まで叩かれるだ。そいだもんで船に乗るとな、ホースやなんかみんな曲がってるだ。そいで一番痛いのはロープ。それを濡らしておいてたたかれるのが一番痛いだ。なんでそういうことするかしらないけど、面白いやつがいてな、おらぁの同年兵で、「なんで毎晩叩くだ?」って聞いたら、「叩かねぇとごはんが上手くない」っていっただ。中にはそういうのもいるだ。なんでも難癖つけてやるだよ。じいちゃんは1回殴った。

── あれでしょ。ほうきの話でしょ?

利一 そうそう。普通のほうきを持ってくるだろ。そうすると下のところ(ほうきと棒の接する部分)を編むわけさ。そうすると強くなるだろ。それを編めっていわれてきたもんで、班の人に「編んでくれ」って言ったら「やーだ」っていうだよ。「やーだ」っていうもんで、「ほーか」っていってじいちゃんが1人でやってただ。そーしたらやらなかった全員殴らんくちゃいけんだよ。400人全部じゃない。自分の班の十何人だけ。そいで途中で泣けてきちゃって。殴りだしたら全員殴らなきゃいけないだよ。だからそれっきり殴らなんだ。その経験から「殴っちゃいけない」って言いだしてるだ。「どこにいっても口で言ってもいいけれど、殴っちゃいけない」って言ってるだ。

■終戦後、横須賀で財務整理
終戦後、しばらく横須賀に残って財務整理をしつつ、次の就職先を探したという祖父。体調上の理由から、白骨方面への赴任が決まった。



利一 そう。他の人はみんなけぇったが、じいちゃんは志願兵だったってことかなんかで同年兵と一緒に横須賀に財務整理で残っただ。財務整理では、機雷に当たらないよう誘導したり、ボートに人を乗せて、岸まで送るっていうような仕事をしてただ。

―― それで、松本に帰ってきただ?

利一 そう。それで帰ってきただ。でそのあとは一度松本に帰ったが、海軍の方から船舶荷役をやれって言われて、横須賀の海に弾を捨てに行っただ。で横須賀に行って、帰ってきて、小野のおじさん(親戚)からの話で日発(日本発送株式会社)に入っただ。そいでマッカーサーが電力発電を分割しなきゃいけないって言って、旧電力会社ができただ。そこで中部(中部電力)行くか、東電(東京電力)行くかって選択して、じいちゃんは東電にしただ。でも色々あって、毎日のように腹を病んでただ。それで、ばあさん(ひいおばあちゃん)に白骨(温泉)に行って治してくるって言って、白骨に行っただ。

―― そこでおばあちゃんに会ったんだ! 行李箪笥のラブレター書いてばあちゃんと結婚したのは本当?

利一 知らねー……。

―― (前から親戚の集まりなどで、祖父母は大恋愛で結婚したとよく聞かされていたため、一同大笑い)

利一 あまり手紙は書かなんだそ。

―― だって沢村のおばちゃん(祖父の姉)やゆっこおばちゃん(祖父の妹)が言うじゃん。「利(祖父)はあんなに筆不精だったのに、かあちゃんと結婚するときは、行李一杯のラブレターを出したんだよ」って言ってたよ。

利一 そんなことないよ。電話があっただ。温泉街の電話をじいちゃんたちが交換しただ。「はい。どこにやるだい」っていって、電話でもって話ができただ。そのが早いだ。職場の人と順番に電気を起こしながら電話番もやってただ。

■昭和を振り返って
忘れられない戦争体験、妻との出会いと結婚生活。昭和時代を改めて振り返ってもらった。

利一 じいちゃんたちはな、昭和の時代に生まれて一番幸せな時代だったと思うだ。こんないい時代に生まれたのはじいちゃんたちだけ。なんでかっていうと、生まれたときはラジオもろくにない。それでラジオができ。そうしてこんだは、テレビができて電話ができて、いまの家にはどの家も全部あるだろ?

―― でも昭和っていう時代は変化が激しい時代だよね。

利一 じいちゃんの家は一番早く電話が入ってただ。テレビも早かったよ。昔はテレビがなかったから、ある家に見にいってただよ。でここの近くには一軒しかなかっただ。だから浅間(浅間温泉)のほうまでいってたわけ。で冨美雄おじちゃん(母の兄)が遅くなるまで見にいってて、帰りがうんと遅くなったもんで、みんなが心配して、探し歩くじゃん。

―― おお。うちの定番だ。(家族が少しでも帰ってくるのが遅いと家族総出で探しにくることが多い)

利一 ほいだもんで、じいちゃんがこんなことならうちにテレビを入れようっていって入ったの。昔は12畳くらいのうんと広い部屋が入ったとこにあって、そこが土間になってて。そこの広いところにテレビを買ってくれて、水汲み中の子供たちがどんどんくるの。ここら周辺の公開場みたいなもんさ。そいでテレビだろ。パソコン。色々あるだろう。昔は起きて「ふーふー」って吹かんきゃ、ご飯が炊けなんだ。でもいま寝ててもご飯が炊ける。そいでいまの人たちは旨いもの食ってるだろ? 我々は戦争で何も食べるものがなかったから旨いものなんてたんとねーわけさ。何食べてもうまかった。サツマイモがものすごくごちそうだったんだぞ。それから仕事について、自分がやっと覚えたっと思ったらまた新しい技術ができるだろ。また勉強しなきゃいけないだ。だからやることに張り合いがあるわけさ。そういう風にとてもよかっただ。じいちゃんはテレビも作ったし、修理したし、ラジオもやったし、そいからステレオも。色々やっただ。定年になったら整流器を直した。よく作ったなぁ。

松井統治さん(大正11年生まれ)

広島にて被爆。戦後杉並区で羊料理店「成吉思荘」を経営

●祖父・平五郎と「松井本店」
祖父・平五郎(米川家の次男)は伊勢から出てきた。まず品川で食肉・畜産の仲買業を学んだ。その後、占い師から、赤坂田町で商売をするよう勧められた。赤坂に行ってみると、誰も住んでいない野原であった。そこに、ようやく一軒家を発見し、肉屋を開業。「松井本店」と名付けた。
平五郎は子息が二十歳になると店を譲り、現在の学芸大学の地に牧場を開いた。その後、茨城旭村にも牧場を開いて羊を飼うなど、ひじょうに精力的な人物であった。その羊の肉を用いて、高円寺(現在の蚕糸の森公園付近)にジンギスカン料理の店「成吉思荘」を開業する。

●「松井本店」の様子
「松井本店」は宮内庁御用達の店として、とても繁盛していた。当時、肉は公定価格により取り引きされていたが、松井本店だけは免除されていた。理由は、天皇陛下が召し上がる肉に価格を付けるわけにはいかないという事情からだった。
軽井沢や逗子を訪問し、宮家、財閥からのご用聞きも行った。ただし、その手数を価格に上乗せすることもなかった。年末になると、東久邇宮家から半丸(牛一頭の半分という意味の符丁)の注文が入ったことを記憶している。

●中学生時代に手伝い
従業員は40~50人くらいいて、当時としてはたいへん珍しくダットサン、ハーレーで配達していた。私も中学生時代、袱紗で包んだ肉の包みを宮家に配達することもあった。
肉から骨を外す「骨すき」という仕事もさせられた。包丁を誤って使ってしまうと、肉の表面に傷が入ってしまい、売り物にならなくなってしまう。私も何度かそういう失敗をしでかした。
祖父が伊勢から出てくる時からの古株(樋口橋松さん)もいて、店を取り仕切っていた。私も時々、店を手伝わされたが、よく「はい、売上!」と怒鳴られ、売上帳を取りに行かされたことがあった。その人が亡くなると、店葬が行われた。その時、東京府知事からその功労を賞する表彰状が送られてきたことを覚えている。店の間口が14間もある「日本一の肉屋」であった。

●当時の赤坂の様子
「松井本店」は赤坂田町6丁目10番地にあった。今でこそにぎわいを見せている赤坂であるが、祖父が入ったことは野原であった。松井家は赤坂で二番目に古い家である。
赤坂はまさに新しい文化の発祥の地であった。ダンスホールの「フロリダ」、自動車屋も「ビュイック」や「パッカード」など数多く軒を連ねていた。

●暁星から慶応へ
小中は、暁星であった。同窓に、プロ野球選手であった別当薫やマツダの創業者・松田重次郎がいた。
阿部信行大臣の子息は同級で右翼がかっていたがシンガポールで壮絶な戦死。一方、岩瀬という名門家の出は左翼的な反軍思想を持っていたため、軍隊の中でまったく昇級せず、南方疥癬で病死した。極端に、右や左に傾斜していると戦争で死んでいるという傾向があるように思う。
その後、慶応義塾大法学部に進学した。当時、予科在籍中は坊主頭、本科に進学した時に初めてその縛りが解かれた。しかし、当時の荒木貞夫文部大臣が断髪令を発し、本科も坊主頭が強制された。私は仲間と長い髪の終わりの日に記念写真を撮影した。

●学徒出陣
太平洋戦争が始まり、入学するや学徒出陣の第1回として徴兵されることになった。いわゆる神宮雨中行軍には行っていない。学徒出陣については、事前に学校から通知があり、その後、各自宅に召集令状が届いた。学校には結局三日にしか行くことはなかった。
昭和18年11月30日、東京駅から「出陣列車」が出発した。10数両編成の列車はすべて学生であった。新橋に父親が見送りに来た。列車は広島に向い、翌12月1日に到着した。この時のことが人生でもっとも悲しいことであり、情けないことであった。

●陸軍入隊
出陣列車を降り、広島の東練兵場に集合した。ひとまとまりごとに、指令が下されてゆく。南方、北方、内地と自分の行く先が決められていく。私を含む100人くらいの集団は結局、広島電信隊への配属が決まった。
学生服のまま営門をくぐり、すぐに軍服に着替えた。星一つの新兵である。
最初は丁重なもてなしで拍子抜けしたが、やがて五年兵たちから「お前たちはすぐに偉くなるから今のうちに殴られておけ」と言われ、暴力が始まった。新兵が向き合わされ、「対抗ビンタ」をさせられた。
朝は5時起床(冬は5時半)、9時消灯であったが、9時過ぎになるとこうした暴力が横行するのであった。これから数ヶ月間の体験は、その後の人生においてとても役に立ったと思う。

●昇級と陸軍通信学校入学
入隊後1ヶ月で、星が2つに増え一等兵になった。翌年(昭和19年)3月には上等兵に昇級した。5月1日には、陸軍通信学校に入学し、相模大野へ。ここでは徹底的な英才教育が施された。
約半年間の教育を経て、12月1日に卒業したが、その間、一切外出は認められていなかった。外部の人間との面会が許されたのはわずか3回で、その時、和田敏子さんが訪問してくれたことを思い出す。
12月、あかつき16710部隊に配属され、藤井少尉の補助教官となった。当時、幹部クラス(兵長、上等兵、下士官など)が払底していた。その矢先に、藤井少尉は3部隊(東京)へ転属。私は下関に転属し、特攻隊の教官に就任するはずであったが取りやめ。藤井少尉の後継に座ることになった。

●玄界灘で座礁する
昭和19年11月、玄界灘を船舶で航行していた。帰港しようとした刹那、座礁した。理由は、水深に関する情報の誤りであった。17メートルと認識していたのだが、じつは1.7メートルであったのだ。
船の甲板には爆雷が多数括り付けてある。大揺れに揺れているので、いつ爆発するか分からない。この時は、死を覚悟した。幸いにして、乗り組み委員全員、赤間に逃げ切ることができ一命を取り留めた。

●屋根の下敷きに
昭和20年5月(6月?)、広島で疎開地(空襲による延焼防止のための火避け地)を確保するために、隊で風呂屋を壊していた。約100人を動員しての作業で、私は采配をふるっていた。
いつ天井が落ちてくるかわからない危険な作業だったので、私が天井の様子を見張ることにした。「おれは上を見ているから、『出ろ!』と言ったら出りように」と周囲に伝えた。
その時、天井が落ちてきて、私は生き埋めになった。すぐに掘り出され救出された。「教官、生きてる、生きてる」という声が聞こえた。

●検閲のさなか、被爆
昭和20年8月6日朝、検閲(卒業式)が予定されていた。8時(?)には営庭に整列する。ふだんは完全軍装であったが、今日は軽軍装である。
整列し、山本少佐が「おい、松井、整列やり直せよ」、「右へぇ、ならへ!」と号令がかかった瞬間、ピカーッと光った。光が飛んできたようであった。瞬時、焼夷弾のでかいのが間近に落ちたと思った。とっさに炙られた首をかいた。上官たちも同じ仕草をしたが、その直後、吹き飛ばされた。
周囲は砂埃で何も見えなかったが、やがて目の前に防空壕が見えてきた。何十メートルも吹き飛ばされたようだ。腹の下に、抜き身の軍刀があり、ひやりとした。手に繋ぐひもは切れていた。最後まで刀を手放さなかったのが驚きであった。
砂埃が去ると、軍刀を抜いた中隊長がやって来た。私は「中隊長、だいじょうぶですか?」と呼びかけると、「兵隊を集めろ!」という命令が飛んだ。とても印象的なシーンであった。
後になって、落下傘状の物が落ちてきたのを見たというのを聞いたが、どうやらそれが原爆であったようだ。


被爆当時はいていた脚絆

●原爆による悲劇
兵営は爆心地から2キロくらいの所、比治山にあった。この位置での生存率は50%であるという。隊でも多くの死傷者を出した。幸いにいて、起床延期の朝であったので、寝ていた連中は難を免れた。彼らが寝ている上を窓枠が吹き飛んでいったのを見たそうだ。私の毛布も兵舎の梁の間に挟まっていた。その一方で、私の検閲を冷やかしに来て被爆した不幸な者もいた。
私は軽装であるが、服を着ていたので死を免れたが、それでも相当ひどい火傷を負った。同じ頃、裸体操をしていた別の部隊は全滅した。兵舎倒壊による圧死も少なくなかった。

●焼け爛れ膨張した顔
被爆した者たちは同様に顔が腫れ上がった。そうなると、人間の顔というものは区別が付かなくなる。顔の見分けがつかないので、名札が頼りになる。周囲はお互いを気遣って、名札を見ながらお互いを認識し合うのだが、どうしても間が空いてしまう。その時のお互いの気遣いが、状況のひどさを物語っていた。
私の顔も腫れ上がった。兵舎に落ちていた鏡の破片で自分の顔を見たが、「こりゃ、だめだ」と絶望した。
比治山には広島市内から人々が避難してきた。その中の一人が右手で頭を押さえてた。そこから血がボコンボコンと吹き出していた。やがてその人は倒れて死んだ。髪は抜け落ち、全身火傷なので男女の区別もつかない。
死んだ子供を負ぶった母親がやってきた。子供も全身焼け爛れているので、体温すらわからない。母親は子供が死んでいることをまだ知らない。兵隊たちはそれを知らせないように気遣うのだが、子供の皮膚の一部が火傷から免れており、その肌があまりにも冷たかったので、初めて子供の死を知った。その時の母親の咆吼が今も耳に残る。

●終戦のラジオ放送
音が悪く、よく聞こえなかった。ただ、戦争が終わったことは認識できた。連隊に帰った後、することがない。自棄になり、裏山に登り、刀(昭和刀)で竹を切って回った。

●小泉信三先生
慶應義塾塾長の小泉信三は私がもっとも尊敬する人物である。学徒出陣する学生を前に、「命を大事にしろ、死を逸るな、無駄死にをするな」と語りかけた。当時の雰囲気からすると、きわめて異例の弁舌であったと思う。
六代目菊五郎に似ている美男子である小泉先生であるが、戦後、再会した時は顔に火傷を負っていた。昭和25年(26年?)の秋、東京ステーション・ホテルで先生を見かけた私は声をかけた。
すると、先生は「ああ、君、よく生きて帰ってきたね。君の年代が生きているのを見るととても嬉しいよ」と言った。先生の息子は2人戦死している。

●成吉思荘に身を寄せる
終戦後帰京、中野駅1番線ホームに着いた。赤坂は焼けていた。
杉並南高円寺にあった別荘に身を寄せた。当時、平五郎は日本で初めて羊を飼い始めた。政府が「羊100万頭増産計画」という計画をたちあげ、羊毛からくる被服の自給自足を目指した。羊が100万頭いても、毛を刈るだけではしょうがない。そのためには肉を食べよう、と言うことになり、別荘を料亭にして羊の試食場にせよと決まった。こうして、昭和10年、政府肝いりの「成吉思荘」が会員制でスタートすることになった。丸山鶴吉(警視総監)などが会員だった。
羊の料理法は試行錯誤しながらだった。北京に「コウヤンロウ」(羊の肉をあぶる、という意)という料理があり、その手法を取り入れた。「成吉思」(ジンギス)という名付けの理由は諸説あるが、明らかではない。

●矢崎総業の代理店業に
昭和21年終わり頃、赤坂の掘っ建て小屋で戦友、部下を集め6人ほどで松井商事という電線販売を手がける代理店を興した。何しろ焼け野原で電線などないから、儲かった。地方にいくつか代理店があったが、矢崎総業に一本化、吸収することになった。他の従業員は矢崎に入社した。

●成吉思荘の経営を
松井商事がなくなり、さてどうするかと言う時に「お前がやってくれ」と成吉思荘の経営を託された。が、仕事のイロハも知らない。そのためには、商売を学ぶ必要があったから東京ステーションホテル(田誠さん、田英夫さんの父が経営)に入社した。

●東京ステーションホテル
25年5月東京ステーションホテルに入社、宴会部に配属された。とてもいい経験をすることになる。
1年後、室長になった。仕事がとてもおもしろく、1年ほどで帰ろうと思っていたが結局11年間お世話になった。当時帝国ホテル、第一ホテルは接収されていたから民間ホテルの第一号だった。

●ホテルで結婚式
当時、東京ステーションホテルには「コーヒーショップ」があった。この呼び方は社長の田さんが日本で初めて使った。ホテルは満室で売上15万円の時代に、コーヒーショップは回転率がいいから30万円稼いだ。宴会で回転を良くするにはどうしたら良いか、と知恵を絞って、宴会場で結婚式をやろう、と思いついた。
「新婚列車は式場から」というキャッチコピーも作って売り出したところ、大ヒット。庶民には手が出ず、一流の人たちが続々と式を挙げた。神主も日枝神社に頼んだ。神主が新郎新婦の名前を間違える、というハプニングもあった。ステーションホテルで式を挙げるのは、当時のステータスだった。式1回だけで30万円を稼ぐようになった。ホテル業務に「宴会」を持ち込んだのは初めてだっただろう。

●組合と労働争議
ホテル従業員が組合を作るようになり、その調整役を私がした。本社機構と現場の給与体系の違いから紛糾し、争議へ。最終的には是正した。そのうち、結婚式式場に全逓と国労組合員が赤旗を持って乱入するという事態が起きた。どうしても許せなくて、即日辞表を出した。慰留され、結果的には12月末まで在籍した。
社長から極秘裏に大金を預かって収集と調整に勤めた。普段温厚な人でも、組合活動になると人が変わる人が多い。人のいろいろな面をみた。私の行動も組合側で監視していたり、小説のような経験をした。

●退社
組合への行動が一段落ついたところで、昭和35年12月末日をもって退社した。田さんが送別会を自ら開いてくださった。ステーションホテルでは何物にも代え難い、得難い経験をさせてもらった。

●成吉思荘へ
昭和36年、成吉思荘の経営へ。当時は叔母が経営していた。
会員制ではなく一般客が入れるようになっていたが、昔の料理屋の形が残っていて、女中は客室で寝泊まりするし、チップを大きな収入源にしている。古い料理屋の形式を新しくするにはどうしたらいいのかを考えた。古い女中には煙たがられることも承知で改革に入った。女中の客室睡眠を廃止、宿舎と調理場を新たに作った。自分の着物を着るのをやめてユニフォームを着用させ、月給制にした。杉並区保健所から優良店のお墨付きをもらい、東京都から賞を得るほどまでになった。

今から10数年前、一大決心をして「成吉思荘」を閉じた。

江頭玲子さん(73歳)昭和6年(1931年)生まれ

福岡県出身。小学校時代に太平洋戦争を経験。戦後、満州生まれの夫・信義と出会い結婚。福岡から宮城への転勤を経て、現在小郡市に在住。

日時:平成16年9月5日

■故郷と幼少時代

自然の中で過ごした幼少時代。遊びに男女の区別はなく、野山を駆け回ることもあれば、屋内の遊びに興じることもあったという。

田舎やったよ。家の前に国道走りよったけどね。戦争のときは兵隊さんが行進しよったとよ。ちっちゃいときにちょんまげで刀さした人が歩いとるところも見たことあるし。

山、川、石蹴り、おはじき、馬乗りとかやったね。川では泳いだり魚やエビをつったり、稲刈りが終わった田んぼで走りまわりよったよ。あとはトランプもしよった。

昔は男の子女の子関係なく遊びよったね、わりとそうやね。トランプもあったとよ。でも、男と同じ遊びがほとんどやったね。あとは、「ばんこ」っていって、家の前の縁台でよく夕涼みしながらおとなの人ともお話したりしよったね。小学校はね、300人くらいの学校で1クラスだいたい30人規模の小さい学校やったよ。給食はなかったけど、弁当は作ってくれよった。白いご飯に梅干、おかずも入れてくれとったよ。放課後の遊び場は、山は遠かったけん、川とかやね。近くに神社があったけん境内に上がったりして遊びよった。紙芝居もよく見よったよ。1円玉ば持って行きよった。飴玉ばもらえたけんね。

キャンディ屋も来とった。ちーんちーんって鳴らして来よったよ。豆腐屋さんもラッパ鳴らして来よったし、魚屋さんも売りに来とった。

修学旅行は戦争のせいでなかったよ。4年生の頃に大東亜戦争が始まって、6年生の卒業前に修学旅行は行けんかったと。本当はあったっちゃけど、おばあちゃんが6年生のときに女学校の受験があったから受験生たちはお留守番しとった。しかも自分たちで勉強をせないかんかったと。でも、みんな受験するもんじゃないよ。おばあちゃんのときは少なかったよ。今みたいに裕福じゃなかったけんね、戦争で。おばあちゃんの家も裕福じゃなかったけど行かしてもらえたとよ。柳川高等女子学校に行きよった。4年生で卒業やった。だけど卒業生はしてたから伝習館に行ってみようかと思って柳川女子の後は伝習館に行った。でも、2年生でやめた。おばあちゃんのお姉さんが病気がちで看病するためにね。

ちょっとお勤めをしてた。けど、その後はお姉さんが洋裁で着る物を作ってたからそのお手伝いをしてた。着るもんもあまりなかったから、作ってくれって頼んでくる人もおったしね。そしてもう20歳で結婚したからね。

■結婚、そして子育て

二人の偶然の出会いと結婚。自宅で行われる結婚式は、現代のものとはかけ離れていたという。結婚後の転勤の話などもしてくれた。

お見合いじゃないよ。恋愛結婚って言えるかもわからんけど。おじいちゃん(信義)は中国、今の満州生まれやったけど戦争が終わる前に親子全員で柳川の方に引き揚げてきて、それから柳川で育ったみたいよ。確か3歳くらいのときに引き揚げてきたっちゃないかな。

今で言うナンパかな。近くの小さな鉄工所に事務のお手伝いをしにいったときに出会ったんかな。その前に仕事を習いに行ったときに初めて会って、そのうちにおじいちゃんがおばあちゃんの働いとるとこに来たとよ。何でかは分からんけど。

全然違う。おばあちゃんのときは家でやりよったもん。しかも、仲人さんとほんと身内だけでやりよった。日本式やったね。黒い紋付の着物を着てウエディングドレスなんていうのもなかったよ。ほんと仲人さんと身内で家でやね。

結婚の1年半後くらいの21歳のときに生んだとよ。おじいちゃんのお母さんもいたしおばさんもいて育てることに関してはあまり大変ではなかった。でも、おじいちゃんのお母さんが病弱でそっちの方に行きよったけん、あまり遊んではやれんかったかもしれんね。あとは、手作りの服とか着せたりしよったかな。母さんはおとなしかったよ。芯はしっかりしとったと思うよ。

そういえば、福岡から仙台への転勤ってのは当時珍しかったみたいよ。九州から東北は遠いしね。教育委員会の人もびっくりしとったね。でも、夏は涼しいし冬も思ったよりは寒くなかったし過ごしやすかったよ。米もおいしかったし。仙台には12年おったよ。ほどほど都会やし、のんびりしててよかったよね。暮らしやすいとこやったよ。

そりゃ心配したけど、(娘は)そんな弱い子じゃなかったし。まあいいかなとは思ったけど、最初は大変やったんやないかな、とは思うよ。家から学校まで遠かったし。あとは、いずみってとこに住んどったけど、学校が満杯で仙台の方の学校に行かないかんかったとよ。

当時の中では晩婚やったけど、今思えばそれでよかったのかな。あんまり変わらんかったかな。母さんが生まれた後もやっぱり預けてどっか行くってこともあった。

完全に手がかからんくなったあとはいろんなとこに行ったけど、やっぱ忙しいときの方がいいよ。 

■戦争中の生活

薙刀を振り回したことや長崎の原爆を目撃した話などを淡々と振り返る。

なぎなた持って「えい」ってやりよったよ。一億玉砕っていう教育を受けとった。やけん、負けたときはショックやったよ。勝つものと思ってたから。

経験はしたことないけど、飛行機は見たことがあるよ。あとは、長崎の原爆の音は聞こえたよ。長崎から福岡まで。日中やったけん光とかきのこ雲とかまでは見えんかったけど、音ははっきり聞こえたもんね。伝習館にも一回爆弾落ちたけど、そんときも音は凄かったよ。大牟田ってところに空襲あるときはその模様は家の裏から見よったね。きれいなくらい真っ赤に燃えよった。それくらいはっきり見えよったもんね。もちろん防空頭巾を頭にしてから見よったけどさ。

玉音放送は、聞いたけど何言っとるか分からんかった。あとは米軍が飛行機からビラを落としよった。それは、見とらんのやけどね。

昔は近所同士の繋がりが強くてよかった。今はないから。近くの農家のおばちゃんちに泊まりに行ったりもしよった。お母さんみたいにしてくれたもんね。生活は今のほうが便利やけど、人の繋がりを見るとやっぱり昔が良かった。ちょっと今は寂しい感じやね。今は恵まれすぎやもんね。

江頭礼子.jpg



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