22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2004年08月

■7(土)

*富士山清掃

ゴミなんて、ぜんぜんなかった。。

中井 辰子さん(91歳)大正15年(1926年)生まれ

尋常小学校を卒業するとまもなく、中井精(まさし)と結婚。戦前に一男三女を、戦後に一女二男を産む。松山市を経て鳥取県境港市へ移住。夫の興した水産加工業「かねまん水産」を支え、引退後は俳句の道に精進する。二冊の句集を出し、地方新聞にも大きく取り上げられた。

聴き手:坂本 理抄(孫)
日時:平成16年8月15日

■嫁に行く前は

宇和海に突き出た風光明媚な小半島、西海町は、海と山に囲まれた半農半漁の村。山の斜面 を開墾した段々畑で芋、麦、野菜を作った。下肥えを入れた桶の天秤棒を肩で担ぎ、きつい 傾斜を上った。収穫した芋麦も担ぎ下ろした。牛馬は使えないのですべて人力。厳しい畑仕 事と家事。一時も休む暇がない重労働を耐え抜く逞しさだった。

嫁に行く前は怖かった。中井の家はしつけや礼儀に厳しいけんど堅い家やけん、と父親が決めた。まだ14歳。子どもじゃったけん、何もわからず従ごうていった。大舅、大姑、姑のリカおばあさん、義妹、義弟のいる大所帯に嫁いだ。一番はおじいさん、おばあさん、親。口返事は一つもすられん。長男の嫁は辛抱せにゃな。耐えてその家に従うのが務めやけん。中井家は船を持ち、漁師を雇ってきびなご網やらいろいろの漁もしたりな。家督持ちで畑も広かったけん、食べるものに不自由はせなんだ。けんど仕事が多てな、畑仕事に大勢の家族の面倒に、我ながらよく辛抱したわ。小さな義弟妹は私をよく慕うてくれてね。まだ10代の若い義姉さんじゃった。

けど、辛くても泣いて実家へ帰ったことは一度もなかったよ。何事も「時代」というものがあるのじゃけんね。昔は一にも二にも辛抱。今の人は、辛抱ということをせんね。辛抱はもう美徳ではないのやけど…。仕事はきつくても若い時分じゃったけん、なんぼでも働けたよ。子どもを何人も産み育てながらね。


   肥えたごの 棒下ろす音 母帰り

山の畑で一日働いた母が肥えたごの天秤棒をかついで戻ってくる。帰り着いた家の前でやっと下ろした棒の、コトリという音の響き。その音を聞きつけ、「お母さんだ!」と顔を輝かせて、祖父母と留守番していた幼い兄弟たちが、ぱっと外に走り出る。なんだか泣けてくるね。辰子 そうよな、子どもは母親が一番。何てったって母親。母親は偉大なもんだよ。

■天長丸の遭難事故

終戦後まもなくの11月7日。内泊から宇和島へ航行する船、天長丸に岩男と義弟と乗ってい たとき、宇和島の湾内に入ったところで船が転覆。九死に一生を得たが、抱いていた3歳の 三女律子は波に飲まれてしまう。しけという悪天候に加え、船が定員オーバーの超満員だっ たことが転覆の原因らしい。

船がしけで左右に揺られて窓が水面と同じになったと思った瞬間、船内に突然、潮がなだれこんできてね。そうしたら大勢の人が船外に出ようとなだれうって狭い出口へ押し寄せて、もがきながら引っ張りあいしよった。窓からも人が出て、足を引っ張りよった光景も見たよ。抱いていた律子はあっという間に波に飲まれてはぐれてしまって。「こらえてや、堪忍してな」と律子に言って、私はどうしても家に残されたあとの二人の娘のために生き抜かなくてはと必死になって船外に出たの。大きな波がざぶーんと来たら海底に足が届くほどじゃったよ。海底までだよ! 

それを必死でもがいて海上に上がるとまたじきに次の波が来る。それでまた海底に押しやられてまたもがいて海上に出て大きな息をして。波がだいぶおさまってきたと思ったら、たくさんの死んだ人の体が立ったままの姿で縦にぷかぷか浮いておった。つかまるものが欲しくて波間に浮いているリュックにすがるけど、ごぼごぼと沈んでしまう。人にしがみつかれたこともあった。体力も尽き果てようとしたときに、目の前に板が流れて来てな、子どものときに習ったようにその板につかまって体を水平にしてみたらいつまでも浮かんでいることができたの。そうしているうちに助け舟がきて、下ろしてくれた縄につかまって助かったのよ。船の中に岩男さんと義弟もおってな、二人は私が死んだものと思いよったそうな。

300人乗っていたのに、250人は死んでしまって、宇和島の浜に遺体がたくさん上がったのよ。テントの中にたくさん寝かされていて、律子も見つかったの。昔は天気予報もないので、しけに遭うたりして遭難が多かった。遭難した人の供養塚があちこちにたくさんあったよ。松山の家におったときは、おじいさんが連れてきた下宿人や芝居小屋の人やお遍路さんをよく泊めていた。「夕べは阿弥陀さんが出やはりましたな」と言った人もあったよ。つまり幽霊のことよな。そういう話はたくさんあるよ。「つないでいた船が大しけになったとき、丘に上がりそうなほど揺さぶられている船を、小坊主が長い竿を使って沖に突き出していた話とか。供養のお礼かしらん。漁に行くとき丘にあがった遭難した人の死骸を見つけることがあって、そんなときは「待ちよんなれ、戻りがけに連れていんで(=帰って)あげるけん」というと戻るまで死体がそこにおると。魂が供養してもらいとうて、ずっとそこで待ちよるのじゃな。それでお寺でお経をあげてもろうて、埋めよった。無縁仏やけど。遭難したら連絡のしようがないのでね。見つけた人が供養していたのよ。

■かねまん水産の設立

昭和33年、夫が水産加工業「かねまん水産」を立ち上げるというので鳥取県境港市へ移住。

貨物船の船長であちこちの港の事情に詳しかったおじいさんが、四国よりこの港町の将来性を見込んだのやね。台風もないし、地下水が豊富で、人も親切だしね。

おじいさんが決めたことだもの。自分で決めたことを変える人やないけんね。ついて行かなんだらしようないでしょ。添い遂げなければ。また粉骨砕身の日々。四国から境港に来て事業を興した人らは皆働き者じゃった。裸一貫で来たでしょ。早くトラック一台持ちたい、工場を拡張したい、家も大きくしたい、そう思って、身を粉にして働いた。家族総出で働いた。外から帰っても、荷物を置く間もなく工場へ飛んでいった。

■俳句と花・野菜作りの余生

昭和54年、長男の岩男と同時期に自らもガンを患う。 一家に二人ガン患者を抱えたこの時期は中井家にとっ て最も辛かった。長男は亡くなり、自らは一命をとり とめた。それ以来、工場の仕事を引退し、孫夫婦にゆ ずり、通院の日々を送りながら若い頃からやりたくて もできなかった俳句を始める。

逝きし子はとわに童子や盆灯籠

昔、娘や息子たちは学校の宿題で、母の作ったこの句をこっそり拝借し、先生にほめられた ことがある。それは今でも笑い話の一つとなっている。 平成14年秋、43年間連れ添った夫、精が病で逝去。自らも年々入院が多くなった。

花とはいつも話をしよるのよ。寒かったね、いま湯水をかけてあげるけん。暑かったでしょう、いま日覆いをしてあげるから、と声に出さなくても花に話しかけているのよ。慈しんでやれば花は応えてくれる。かわいがってやれば必ず応えてくれるんだ。

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