22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2004年07月

■24(土)

甲府

松本

高田

*遠雷が印象深い。

■25(日)

*燕温泉。
*マンテンホテル泊

■26(月)

帰京

本城 義雄さん(65)昭和15年生まれ
日時:平成16年7月7日
場所:北海道 歌志内市

■一家で歌志内を目指した■
本城 私の家庭はね、もともと十勝の方で農業をやっていたんです。だけど、炭鉱が景気がいいからってんで歌志内までやってきたんですね。私が生まれてすぐだったから、まったく覚えていませんが。私は10人兄弟の6番目でした。引っ越してきてからは、最初は8件長屋に住んでました。その後、立て替えなどがあって4件長屋に住み始めました。
―― 当時の歌志内は、どんな様子だったんですか?
本城 歌志内にはふたつの大きな祭りがあるんです。「成田山祭」と「炭山祭」ね。成田山祭は寺のまつりで、炭山祭は炭鉱の無事をいのる神様の祭です。成田山祭の方が規模がものすごく大きくて、当時はすぐそこの目抜き通りが人で埋まったくらいです。東京でいうと渋谷とか、あのへんをイメージしてもらえればわかりやすいかな。とにかくものすごい人出だった。「人が人を見に来る」って言われてね。砂川や赤平からは臨時バスが運行していたくらいでした。

■腕白そのものの子供時代■
本城 子供の頃の遊びっていったら、やっぱりチャンバラごっこ。時には試合形式でやったりしてね。本当はやられたのに、「やられてない、やられてない!」なんていう負けず嫌いを言ってました。山の斜面を走り廻ったり、小屋を作ったり、イチゴを盗んで怒られたり(笑)。食糧難の時代でしたからね、色々工夫して遊んでましたよ。
―― いやあ、腕白の一言ですね!
本城 昭和25年頃に鉄道にラッセル車が導入されて、除雪をするようになったんですね。あれを見たときはすごかったなあ。迫力があってね。胴が伸びたり縮んだりして、こんな便利なものが!と思いました。雪をドンドンどけてしまうんだからね。それから、炭鉱の人は新し物好きの人もいてね、ラジオとかテレビとか新製品が出るたび買ってきてた。そうすると、近所の連中がみんなその家に集まってくるんです。もともと炭鉱の居住区というのは、最初から電気が通っていたから、ランプなどはまったく見たことないですね。 当時の歌志内は本当ににぎわっていてね、相撲の巡業があったり、サーカスがきたりしていた。ゾウやライオンが来たりね。僕も初めて見た。歌志内は、芸能人も出ているんですよ。「しょうじ・うたえ」って知りませんか?
―― ああ、知りません… このあたりでは、戦争を実感することはあったんでしょうか。
本城 戦争中の思い出といえば、空を飛ぶ飛行機に向かって手を振って怒られました。あれは敵機だったのかな? 攻撃を受けたっていうはっきりとした記憶は無いんですが、石炭の液化工場が狙われて、爆撃されたらしいです。とにかくもう、物資が無かった苦しい時代でしたね。昭和34年頃、炭鉱の合理化が始まった。そこで、私以外の家族はすべて埼玉県に引越したんです。

■絵描き少年の頃■
本城 高校の頃は美術部に所属して、絵ばっかり描いていました。いまでも絵は続けています。あとでぜひアトリエを見てください。大正館に保管しているもののほとんどは、絵のモチーフなんですよ。
―― ぜひ見せてください! そういえば本城さんは絵画で高い評価を得られているとか。
本城 まあまあ、見てってくださいよ。すぐ隣にあるんでね。そういえば、美術部だった頃の写真があります。(写真を見ながら)あ、これなんかそうですね。

■郵便局員は楽しい便りを届ける■
―― 学生時代を経て、どうされたんですか?
本城 学校を出て、郵便局で働き始めました。もともと文通をやっていて、手紙ってなんて楽しいんだろうって思っていたんです。そうして、手紙を届ける人=楽しい知らせを届ける人という図式ができたわけです。もう、郵便局員意外は考えられなかったな。家族が引っ越しても歌志内に残ったのは、この仕事があったからです。実際の配達は、ご覧の通り山間の町なので大変だった。斜面急で、夏でも滑ってどうしようもなくなったり、祭りのときは人だかりで郵便配達の自転車に乗ることすらできなかった(笑)。つい最近、退職まですぐそこの歌志内郵便局で働いていました。平職員でね。

■昭和を振り返って■
―― 昭和とは、どんな時代でしたか?
本城 昭和っていうのはやっぱりね、いい時代だったと思いますよ。ただそれも、「公害」っていうことばが出てくる前までかなあ。公害問題が現在にもつながってくるというか。いい時代っていうのは、具体的に言うと、助け合う心、そうしなければ生きていけない時代でした。つながりが強かったんでしょう。今は「貧しい金持ち」ばかりが増えている時代だと思うんです。
―― 心が貧しい、ということですね。
本城 『大正館』をやっているのは、歌志内に少しでも芸術文化が根付いて欲しいからなんです。以前は脚本家や絵描きなどもたくさんいて、色々な交流があった。でも今はほとんどない。ゆとりが無いのかな。大正館に来てもらうことで、過去にこんな時代をあったということを見てもらいたいんです。展示物のほとんどは歌志内のもので、この町の歴史がここに詰まっているんです。だから、歌志内の人たちにも見学に来て欲しいんですが、意外と少ないんです。


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田村 洋子さん(64)昭和15年生まれ
河原 恵美子さん(69)昭和9年生まれ
中川 恵子さん(66)昭和13年生まれ
川崎 芳子さん(72)昭和7年生まれ
中野 淑子さん(60)昭和19年生まれ

日時:平成16年7月7日
場所:北海道 歌志内市

――皆さんドライフラワー教室にご参加されているんですね。
川崎そうです。自分なりのアレンジをして、すぐそこの道の駅とかで売ってるんです。飛ぶように売れるものではないですけど、色々工夫するのが楽しいですね。売上は施設に寄付しています。アレンジを始めて数年になりますね。ここでやっていた講座がきっかけで、自主的に集まっているんです。
――自主的に集まっておられるんですか。こうやって見ていると、お話をしながらもみなさんすごい手さばきでドライフラワーを作ってますね。
中川そうですね。もう慣れているからね。

■田村さん■
田村私は10人兄弟の8番目でした。父親は炭鉱で働いていましたよ。
――やっぱり兄弟の数は多いんですね!
河原そうね。8人とか9人とか。昔は普通でした。
川崎昔はそうね。多かったね。今はそんなことないんだろうけどね
田村兄弟仲はよかったですよ。今でもこう、何かとつきあいがあります。
――小学校の頃は、どんな子供だったんですか?
田村私は小学校3年のときから学校を休んでね。掛け算とかそういったものを教わるところで学校に行かなくなってしまったんですよ。小さい頃は体が弱くてね。妹がいたんですけど、一緒に遊んだりしてました。でもね、男の子とか女の子とかっていう区別はあんまりなくて、みんな活発に遊んでましたよ。ちゃんばらもやったし、山に入って遊んだりもしたしね。

■河原さん■
河原私は10歳のころに函館から引っ越してきたんです。8人兄弟の5番目でね。父親は水力発電所に勤めていていました。函館の大沼の近くでね。昭和16年に大沼の爆発があって。灰が降ってきて空が真っ暗なんですね。自然が豊かでとてもきれいなところでしたよ。はっきりと覚えています。私はあの場所が本当に好きでしたね。
――歌志内に移ってきたのは、お仕事の関係ですか?
河原ちょうど10歳のとき、戦争になって水力発電所が閉鎖になって。家族で親戚を頼って歌志内にやってくることになったんです。
――なるほど、そうでしたか。
河原歌志内の思い出といえば、初めてきたときですね。朝に向こう(函館)を出ても、ここに着くのは夜の9時ごろだったと思うんです。夜、山の斜面に段々で建っている長屋の窓が、明かりでとてもきれいだったんですよ。本当にきれいで見とれてしまいました。今でも忘れられないですよ。

■中川さん■
中川私の実家は駅前で電気屋をやっていたんですよ。7人兄弟の4番目です。小さいときの思い出っていったらね。労働者たちが、賃上げ闘争をおこすんです。労働条件が結構厳しかったからかね。それを恐る恐る店の窓から見ていました。みんな明かりを手に持っていてね、どこかへ向かっていくんですよ。駅前に集まったりしてね。特別危ないことは無かったですけど、怖かった。
楽しい思い出と言えば、アメリカ人がチョコレートをくれたっていうことがありました。ガムとかもあったね。やっぱり美味しかったよ。それまで見たこともないようなものだからね!
――進駐軍が来たんですね。
中川あれは進駐軍だったのかねえ。それから、バナナなんかね、運動会でしか食べられないような貴重品だったんだ。みんな大切に食べたよ。親が運動会の日に買ってきてくれてね。あとは風邪引いたときとかね。
――そうだったんですか。バナナを見る目がちょっと変わりそうですよ。
中川長屋には水道が無かったから、みんな汲み水で作業していたね。川の水で洗濯をするのが普通だった。石炭を洗った後の水だったりすると、川の水が真っ黒になっててね。それでも男の子は川で泳いだりしていたね。遊ぶことっていうのには、男も女もそんな変化はなくてね、みんな一緒だと思いますよ。ただ、今と違うのは、遊び道具やら何やらが、すべて自分たちの手づくりだったっていうこと。竹馬とかお手玉とか、遊び道具なんかも色々工夫して自分で作っていたよ。それから、家事の手伝いをしてたね。朝とか、甕に水を汲んでくるっていう仕事もありましたよ。家の裏が山でね、生活の足しにするために、畑で野菜を作っていたんです。私も畑仕事をしてね。でも畑仕事をしているところを友達に見られるのはイヤだったなあ(笑)。

■川崎さん■
川崎私は歌志内の出身です。9人兄弟の末っ子でした。長屋暮らしだったんですけど、本当に隣近所の結びつきが強くてね。4件1棟で、5メートルくらいの間隔で並んでいました。長屋の生活っていうのは壁が薄くて、話し声がよく聞こえました。家を出れば、すぐ会って話しができるのに、わざわざ壁の向こう側と話をしたりしてね。手紙の壁の隙間から手紙とかメモのやり取りをしたりしたんですよ。
――夕張でも似たような暮らしだったようですよ。
川崎そうでしょうねえ。夕張との交流っていうのは、特に無かったと思いますけど、よく似ているんじゃないかと思いますよ。
――川崎さんはどのような子供時代だったんですか?
川崎炭鉱労働者の居住区にある呉服屋で、21か22歳くらいまでかな、働いておりました。だんだんと仕入れ業務などを任されて楽しかったのを覚えています。呉服屋もやっぱり周囲のみなさんの社交場でしたね。いろんなお客さんがやってきましたよ。

■中野さん■
中野私は砂川の出身なんですよ。すぐ隣の町。5人兄弟の2番目ですね。私だけ戦後生まれですね(笑)。
――歌志内に移られたきっかけはなんだったんですか。
結婚を機に、歌志内市にやってきたんです。砂川で過ごした小さい頃は、家族で海に行ったのがいい思い出。トラックの荷台に乗ってね。小樽に銭箱っていう有名な砂浜があるんですけど、そこに行きました。それから、学校にはすごくまじめに通っていたんです。皆勤賞と精勤賞っていうのがあって、私は皆勤賞を狙っていたんですけど、小学校6年でそれが途切れてしまったんです。今は精勤賞ってあるのかしら。とにかくそれが残念でしたね。
――結婚後、歌志内市で暮らしてこられて、もっとも感じる変化ってなんでしょうか。
長屋が無くなったことでしょうかね。炭鉱が閉鎖されていって、人もどんどん減っていったからね。
日時:平成16年7月9日場所:北海道歌志内市 聴き手:竹内 松裕

■聴き取りを終えて
緊張しましたが、皆さんが丁寧に接してくださったので、すぐに安心して聴き取りができました。炭鉱労働者は、ほとんどが男性かもしれませんが、そこには男性を支える女性や家族がいたはずです。皆さん一人ひとりに、もっとお話を聴きたくなりました。

阿部忠夫さん(65) 昭和13年生まれ

日時:平成16年7月7日
場所:北海道 浜頓別

■生まれ故郷の今と昔■

ここはいわゆる中心街で、私は「在」の出身です。「在」っていうのは周辺地域を指す言葉なんですが、宇曽丹という場所で生まれて、昭和40年に浜頓別に出てきました。28歳のときです。昭和32年に高校を卒業して、浜頓別の駅に就職。退職するまで浜頓別駅で務めていました。33年間ですね。

住めば都じゃないけれども。僕が若い頃なんか、人口は7~8千人いて、活気もありました。列車もあったしね。結局天北線が廃止になって、バスは通るようになったけれども、やっぱりみんな車で都会に出て行く。どんどん人は減っていった。今は4千7百人くらいで、その中でも4割が60歳以上、つまり高齢者でしょうね。天北線をなくすのはもちろん嫌でしたが、難しい現実もあった。というのも、駅間があまりにも遠くて、勾配がきつくて列車がのぼれないような区間もあったんです。そういう現実ね。だって本当は、宗谷本線よりも天北線の方が乗客が多いくらいなんですよ。大きな町も多いしね。ただ、そんなようなどうしようもない無理(赤字)があったのも事実です。

生まれ故郷もすぐそこなんです。やっぱりね、子供時代を思い出しますよ。学校の休み時間で川に遊びに行って、時間を忘れて遊びまくって、怒られたことがありました。まあ、遊びに行って学校に帰ってこないんだから当たり前ですよね(笑)。昔はあのあたりにも、戸数が5~60戸くらいあったもんですが、今は20戸くらいになってますね。それから、昔は畑作が中心だったんですが、それじゃあ食べていけないっていうんで、だんだんと酪農経営に変わってきた。そしてその結果、家畜の糞尿で川が汚れてしまったんですね。昔は蛍がたくさんいたのに、もういなくなってしまった。10種類位いた魚は、今は5種類くらいになってしまった。当時の自然はもう見る影も無いですね。まあ、仕方ないことなんですが。

■浜頓別駅で働くこと

実家は多産で、11人兄弟でした。僕のうちはずっと牛飼い、つまり酪農をやっていたんですよ。学生時代は実家の手伝いをして過ごしましたね。実家を手伝うのは、どこの農家も一緒じゃないかな。遊びもしましたけどね。高校を出て、そのまま就職したんです。

国鉄職員には変わりないので、普通は何年か経てば異動になる。でも僕は、色々あってずっと浜頓別にいた。詳しく言うと長くなるし、色々なところから呼ばれたこともあったけど、浜頓別に残ることに決めたんです。

■陸上選手として

マラソンをやっていました。陸上競技の選手ですね。昔の写真で、ちょうどゴールしそうなところの一枚があります。

こんな感じで選手としてもやっていたし、引退してからは地元でコーチをやっていたんです。今でも陸上はやっていて、走っていますよ。テレビで見るのも楽しい。今は選手を育てるのが夢なんです。オリンピックで勝つような、ね。

■浜頓別駅との別れ

そうねえ、あれは30歳ごろかな。研修で天北線に乗ったとき。列車が雪で動かなくなってた知事往生になってしまったんです。驚いたのは、天北線が止まってしまったことです。どんな大雪でも止まることないと思っていたんでね。車内で待っていたんですけど、あの出来事は忘れられないですね。

天北線が無くなるというのは、いきなり決まったことじゃなかったんです。噂があったし、さっき言ったような現実も知っていた。仕方無いと思っていても、やっぱり寂しかった。それはつまり、浜頓別駅の終わりでもあるからね。天北線は町の夢でもあった。浜頓別駅で働くのは楽しかったですよ。浜頓別駅がなくなっても、僕はまだJRの職員だった。だからどこか他の駅で働くこともできた。でもそれはやめようと決めたんです。浜頓別の駅で最後にしようとね。

廃線の日は、家で笛の音を聞いてました。やっぱりね、泣けてきたんですよ。一人で泣いてました。

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井幡重乃丞さん(89歳) 大正5年生まれ
日時:平成16年7月7日
場所:北海道幌加内町

■開拓で幌加内にやってきた

私はね、幌加内の政和の集落で生まれたんです。まだ家はあるんですよ。誰も住んでいないけどね。そこで農家をやっていました。大正2年、私の父親が開拓に入って、馬鈴薯を作ってでんぷんを製造してましたね。父親は富山からやってきてね。名寄から入ってきて、今の政和に移住してきたんだ。

開拓当時は幌加内町なんか無くってね、そのころは北竜町の一部だったんだよ。
このあたりだけで小学校は10校くらいあったんだよ。今は3校くらいだな。子供の数も少なくなっているけど、人口そのものが減ってるんだよ。今はもう1万2000人くらいいたのにね、今はもう2000人切るようになってる。
それはやっぱり、昔の田んぼの休耕ですね。これで百姓たちがみんな札幌の方に出ていったんだ。
もう少し前からそばは作っていたかな。そばはだいたい、種を撒いてから90日で収穫するもんなんですよ。

いやあ、作らんかったね。私はね、15年くらい前まで農家をやってました。家を継いでね。馬鈴薯も水田とか、色々やりましたよ。やっぱりこのあたりは農家が多い。幌加内の農業っていうのは遅れててね、昭和38年にトラクタを入れたんだけど、そのころはまだ、幌加内町にトラクタは無かった。そこで、昭和39年にトラクタ6台を共同で買ったんだよ。土がほんとに細かくなってね。それでやると作物の出来も全然違うんだね。トラクタが入る前は馬でやっとったよ。今はほとんど機械でやっているんだろうねえ。やっぱりね、農家の問題は、後継者がいないってことだね。かといって、売ろうとしても買う人がいない。私の仲間で農家をやっているのは1軒だけだね。後継者がいるから、続いているんだな。

牛だって、機械があれば何頭も一緒に絞れるしね。私んちも酪農をやっとったんだよ。水田も9町ほどやっとりました。馬鈴薯、水田、小麦、小豆・・・それからビートを9町ほど作ったな。遊びなんか限られていてね、そりゃあもう川で遊んでましたよ。雨竜川でね。釣りとかね。カジカとか鮎とか。獲った魚は川沿いで焼いて食べた。本当においしかったね。冬はスキーだね。兄貴たちが作ってくれたスキー道具ですべっていたんだよ。

■子供時代の出来事

9人兄弟。男で5男坊。12人ていう家族もあったくらいだからね。それでも少なくはないねえ。雨竜川はね、石狩川の支流としては長いほうだろうね。昔はここから沼田まで丸太を流送していたんだよ。深名線ができるまではね。このあたりはいい木が採れる場所だったんだね。

流送は雪解け水と一緒にやるんだよ。雪解け水で川が一杯になると、子供たちは川遊びなんかしないんだよ。こわいからね。流送は春が来る知らせだね。

なんでこうなってしまったのかねえ。川の広さが全然違うねえ。雨竜川の改良工事をやってるので、川はきれいになっているよ。

6月、運動会。このころが一番面白かったかなあ。かけっこなんか特に。200メートル走で、全道大会まで何回か行ってましたよ。ちょうど戦争が激しくなって、結局なくなってしまったけどね。小学校が6年、小学校高等科が2年で終わりですね。終わるころには15歳とかそれくらい。小学校の頃から走ってました。やっぱり、一位になるってことかな。オリンピックで言うと金メダル。今もよくテレビで陸上を見ますよ。マラソンなんかずっと見てる。野球も終わるまで見る。

各集落に青年団というのがあって、時々対抗試合があった。その中でもいつも一位だった。
夕方、農家の仕事が一段落して、小学校のグラウンドを借りて練習してた。友達と一緒にね。一緒に走った友達も今はほとんどいないよ。出て行ったり、死んでしまったりしてね。この施設にも3人同級生が入ってるね。昔話とかはほとんどしないけれども。陸上やっていても、家に帰れば仕事がある。ウチには牛がいたので、世話をしなきゃならなかった。朝は牛を放牧させてね。あまり遊んだっていう思い出はないね。
高等科を出てからも、陸上の練習をやってました。時間は2時間って決めてました。

除雪の仕事でほとんど過ぎて行ったねえ。兄貴が深名線の人夫供給ってのをやったので、冬はそればっかりだった。一日働いて60銭だよ。安いねえ。陸上の練習もまったくできないね。今でも走っていると楽しかったことを思い出すよ。ずっとやっていたかったけど、しょうがなかったね。

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佐々木 正忠さん(71)昭和8年生まれ 
相馬 昭光さん(71)昭和8年生まれ
日時:平成16年7月6日
場所:北海道 夕張市


■夕張で生きる■
――まずお生まれからお伺いします。
相馬:夕張生まれ。8人兄弟の3番目で長男です。実際に炭鉱で働いてました。
佐々木:旭川生まれの8人兄弟の5番目。私は居住地区で床屋をやっていたんですよ。
――(生年月日を伺って)お二人は同い年ですか?
相馬:いや、佐々木さんがひとつ学年上かな。僕の父親っていうのは、色々やっていてね。当時まだ炭鉱には、飯場っていう制度があった。農家には、長男が跡をついでしまうと、財産の配分が行われない次男三男が出てくる。そこで、東北6県を回って、そんな連中を連れてきてた。今で言う口入屋っていうのをやってたみたいです。大正1年から大正11年まで。そこでそういう連中が力をつけて、結婚して社宅に入るという流れがありました。飯場制度っていうのは、一時期廃止したことがあったんですけどね。ヤマ(炭鉱)の中にも飯場がいくつかあったんですが、父親は飯場に籍を置いてた一方、北炭にも籍があった。だから飯場が廃止になったら北炭で働いたんです。私には下の兄弟がいたから、働く必要があった。
当時は、一部は外に出て行きましたけど、だいたい炭鉱に就職しましたね。鉱員養成所っていうのがありましてね。労働基準法では満18歳以上にならないと就職できないってのがあって。だから私なんかはその鉱員養成所で働いて、昭和25年に18歳になって、炭鉱で働き始めました。
ヤマ(炭鉱)の中で大きな事故が3回ありましたね。それでいくつか閉山になったりしました。私は夕張で石炭を採る機械を扱っていたものですから、三笠からその技術を教えて欲しいと招かれました。しばらく三笠で働いて、55歳で退職。年金生活を始めました。子供が二人いますが、夕張で結婚して子供を生んだ。そこで、孫の面倒を見てくれないか、ということで三笠から夕張に戻ってきました。まあ、いわば出戻りっていうわけですね。
佐々木:僕の父は大分県の生まれだったんだけど、一度本州へ来てから北海道に来たんです。僕は旭川のあたりで生まれました。アイヌ語でね、カタカナの地名っていうのは覚えてる。旭川のね、誰も人のいないところで生まれたわけです。僕は8人兄弟の5番目。今も旭川のどこかにあるJRのトンネルの近くですよ。実はね、うちの兄弟は、一人として同じところで生まれてないんです。転勤が多かったからね。お前はあの場所で生まれたっていう感じでね(笑)。
父親はトンネル技師。本州のあっちこっちで仕事をして、北海道にやってきて旭川で働いていた。ちょうどそのとき夕張で、誰かトンネルを掘ってくれないかということで、親父さんに声がかかったわけですね。昭和13年くらいかな。僕も一緒についてきて。それから住み着いてます。小学校3年の頃かなあ。それ以前のことは、あんまり覚えてないんだな。小学校に行くなり、先生から「あなたは2番方ね」といわれたんです。でも、なんのことかまるでわからない。後で聞いてみると炭鉱の話だった。つまり炭鉱は、1番方から7時から3時、2番方は3時から9時、9時から翌朝までという形で、3交代制でやっているんですね。当時は学校の規模の割に生徒数が多いから、交代制でやるっていう冗談を言ったわけですね。
――夕張ならではの冗談だったんですね。
佐々木:よく覚えてるのは、教室の中にね、だるまストーブがあるんですよ。私の席はちょうど真ん中で、だるまストーブの近くでね。石炭を足してあったかくするんだけど、自分で調整して、あったかくなったもんですよ。だって石炭はいくらでもあるからね!
相馬ああ、あれはよかったよねえ。

■ヤマ(炭鉱)と子供たち■
相馬小学校の頃から太平洋戦争が始まってね。学校も戦争一色になった。特に記憶に残っているのは、佐々木さんのお兄さんがね、軍服を着て、体育館で朝礼をしたんです。金ボタンがついた白い軍服でね、アレ見てあこがれちゃった。鮮烈に記憶に残ってますね。小さい頃はみんなあこがれたと思いますよ。
佐々木ああ、そうでしたねえ。
相馬こどもの頃の生活っていえば、学校の授業ってのはほとんどなくて、竹を切って加工して、色々作業をしていたんですね。とにかく色々やった。当時はどんな人でも働いていた。足が動かない人でもね。そういう人たちと一緒に働いていた。今思うとね、結局私らは学校で、学問というものをほとんど学んでないんですよ。
佐々木:子供たちは集団で登下校してね。自然と体が大きい子がボスになったりしてた。私はもともと足が悪くてね。頭はいいほうだったんですよ(笑)。勉強は私が担当して教えてね。重いものは大きい人が持つように分担したりしてね。そういう気配りみたいなものが自然と行われてたね。
相馬:ケンカなんていったって、刃物持ってる小学生なんていなくてね。ケンカになったらね、ガキ大将が仲裁して、「好きなだけやれ。ただし3分間!みたいなね(笑)。」それで一件落着だったよ。いじめなんていうのも無かった。だってガキ大将が目を光らせていたからね。ガキ大将は常にみんなの先頭に立たなきゃならなかった。遊びでもなんでもね。面白遊びを思いついたり、度胸試しを一番最初にやったりしたよ。それで怪我しちゃってね。親にすごく心配されたんです。「誰と喧嘩したの!?」ってね(笑)。本当は違ったんだけどね。
――面子を保つため、ですね。
佐々木:私は学校へ行くのが楽しみでね、校門が開く前から待っていた。友達を誘ってね、水甕(家ごとに使う生活水)に水を入れていくのが仕事だったりした。それを手伝ったりしたんだよ。
戦争の話で言うと、シンガポール陥落の時には、お祝いとしてゴムの靴が届いたりした。配給っていっても、景気がよかったんだね。戦争に勝ってるうちは。
相馬体ひとつあれば仕事はある。住むところも食べるものもある。東京大空襲の後も増えたって言ってた。戦争終わって、たくさんの引揚者たちが仕事をするために炭鉱にやってきた。国としても増産増産でね、願ったりかなったりだったんです。

■長屋の暮らしは助け合い■
佐々木:炭鉱っていうのはね、事故が非常に多いんで、お互いに助け合う、互助精神ていうのが昔から強かった。外でちゃんばらやったり、森で果物採ったり、川で魚釣ったり。そんなのもみんな一緒でやっていた。ヤマ(炭鉱)は過ごしやすいところだなあっていう思い出があります。
相馬:1年に2回は爆発事故起こして、500人くらいが死んでる。ドオンっていったら100人から200人が一度に死んでしまう。そんな中で暮らしているから、隣近所助け合いの精神だね。
佐々木:自分の家に帰ってきたら、隣の家にも声かけてね。
相馬:そうそう!
佐々木:なんだかんだ言ってもね、ヤマ(炭鉱)の暮らしっていうのはね、今考えると、やっぱり特殊なんだよね。電気代、光熱費、病院代がタダなんだ。あと何に使うって言ったら、子供の養育費とか、飲んだり食ったりしてね。15日の給料日、みんな金を使うんだね、米、醤油、味噌、そして酒を買ってね。いいものを食べて。本当にみんなよくお金を使った。やっぱりみんなわかってるんです。明日をも知れない、明日はわが身だからね。
相馬:おこづかいもたくさんあったね。
佐々木:そうね、でも貯金っていうのはしなかった。
相馬:大金は残らないけど、炭鉱は本当に暮らしやすかった。北炭の従業員というだけで、色々ツケがきいたりしたんですよ(笑)。
佐々木そうね。そんな感じだった。元気で一生懸命に働いていたらね、それで十分だった。そんな生活だとね、貧富の差がない。生まれようがないんです。みんな一緒。それがよかった。
佐々木:一軒ごとには風呂がついてないから、それぞれの居住区にある共同浴場に行く。それはまさに社交場になっていた。ヤマ(炭鉱)で働いた男だけじゃなくて、奥さんたちも入りに来る。誰と誰が結婚するとか、誰の子と誰の子がケンカしたとかね、そういった情報が飛び交っていたわけですよ。僕がやってきた床屋もそう。みんなの情報交換場所になっているんだね。
相馬:そうねえ。新しく引っ越してきた奥さんがいたら、その隣の奥さんがひょこっと覗いてさ。余った茶碗なんかをあげたりしてね。「ああ、ココの家何がないの?」とか言ってね(笑)。本当に炭鉱はいいところなんだけど、炭鉱、即事故につながるんだね。
佐々木:日本を支える産業だったからね。ヤマ(炭鉱)を閉鎖するわけには行かないということでね。ある程度避難してきたら、もうしょうがないと。これ以上鉱内を燃やすと、炭鉱として機能しなくなってしまうからっていうんで入り口を密閉して、酸素を止めて火を消すんだね。今はそんなことないけどね、そういう時代だったんだね。
相馬:昭和56年、10月16日の爆発で93名が死んだ。この事故で友達が8人死んだ。平成7年になって、同じ学校を卒業して51年たったところで、熱海で全国に散らばった級友が集まることになったんだね。「あいつが死んだとき、おれあいつの遺体の回収に行った」とか話してね。そしてね、国の政策に翻弄されつつも、おれたちよく生き残ったなあ、なんて話をしたりしたよ。

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阿部潤子さん(74) 昭和4年生まれ

日時:平成16年7月6日
場所:北海道 浜頓別町

■オホーツク海岸に育って

オホーツク海に面した頓別という村で生まれました。そこは栄えていたんですけど、大正10年ころかしら、津波があったんですね。それで町並みもだいぶ小さくなって。それで頓別で商売をしていた人たちが、駅舎ができたのをきっかけに人が移っていったんです。そして、浜頓別が大きくなって、役場とか、お寺とか、大きなお店ができ始めたんですよ。だから昔は、頓別のことを旧市街、浜頓別を市街と呼んでいたんですよ。

そうねえ、漁業もありますけど、いい材木があったみたいです。木工場があちこちにありました。それから昔は交通の便が悪かったので、海の交通を使っていました。

実家は商店で、色々なものを売っていました。衣料品、化粧品、食料品、薬、キセルの詰め替え、なんでも売っていたんです。なんでも屋ですね。その家に、お姉さんと二人でいたんです。19歳のときに妹が生まれて、3人姉妹になりました。当時は9人とか10人家族は当たり前で、少ないほうですね。
祖父は警察官で、札幌に家がありました。そこで、頓別の土地を持っていた人から、頓別に行って土地を管理してくれと言われてきたんです。そこで店をやりながら、地代金を集める土地管理の仕事をしていました。母は養女で、父は養子に来たんです。

店には、在からも馬に乗ってお客さんが来てましたね。毎日毎日、いつも人が出入りしていたのを覚えています。

父がとにかく風変わりな人でしたね。破天荒っていうか。お酒も好きで。母は小さな体で型破りな父を相手取って、店を切り盛りしていました。読書家で、どんなに忙しくても寝る前には枕元で本を読んでいたんですよ。2年前に母は94歳で亡くなったんです。父は有名人だったんですよ。店を母に任せてしまって、自分は飛び回って家を留守にしてねえ。

■鰊が待に活気をもたらす

浜頓別っていうのは漁業の町でね。鰊が「群来る」と、学校が休みになって、旗が揚がるんです。休みだ休みだってみんな喜んで。漁師の子供さんたちは手伝いで忙しいんですね。でも私はおとなしく遊んでいたんです。子守する子供もいなくて。それに私は内気だったので、家でお人形さんと遊んでいる感じでしたよ。誰かお客さんが来ると隠れてしまうような。姉は私と違って活発だったので、一緒に遊んだっていう思い出も無いですね。

頓別の学校で、私のクラスっていうのは私一人だけなんです。男子が8人とか9人いても、女子は一人だけ。運動会になると、何メートルか先にたって走るんですよ。下級生と走るときは何メートルか後ろを走って。なんでこんなに女性がいないのかって、そのころは嫌でしたねえ。後で聞いた話なんですけど、私が子供のころ、風邪がはやって小さな子供がたくさん亡くなったそうなんですね。私はその中の生き残りなんですよ。そんな小学校時代でした。

■結婚を機に市街地へ

24歳のときに、浜頓別の役場に勤めている主人と結婚したんです。こんな風に、家庭で結婚式を挙げました。結婚したてのころは二人とも若いですけど、今はもうしわくちゃでねえ。

春には、まだ流氷のかけらが残っているんです。そこに上がったりするんですけど、「そんなことをしていると、ロシアの方まで流されてしまうぞ」なんてことを言われました。でも流氷を眺めていると、なんというか、うららかな気持ちになるというかね。夏になると、一日中砂浜で遊んでいるんです。砂に部屋の図を書いたりしてね。結構面白いんですよ。服がぬれても乾くまで遊んでね。楽しかったですよ。

そうですね、それよりもここの海は海水浴には向いてないんですよ。急に深くなるんです。だから、波打ち際で足をバシャバシャさせて遊んだりしてました。友達もいましたけど、一人でいるのも楽しかったものですよ。

ハマナスの実や葡萄を採りにいきましたね。秋はやっぱり寂しいなと思いましたね。秋になると、内地から来ていた漁師の人たちが帰っていくんですね。町もがらんとしてしまって。漁師に使われていた人たち、出稼ぎに来ていた人もいなくなって。缶詰工場も閉じてしまって。秋は嫌でしたよ。そういえば、魚はとてもよく獲れるんですけど、なぜかみんな貧乏でしたね。
鰊漁で思い出すのは、きなこが飛ぶように売れたことですね。おにぎりにきなこをまぶしたのを持たせるんですよ。海苔は高いからというのでね。冬はねえ、川が凍るんで、川の上を歩いたりしましたよ。

そうです。流氷が去るときはうめくような音がするっていいますけど、聞いたこと無いんですよね。やっぱり最近も流氷は来ますけど、どうも違うような気がします。昔ほどの迫力が無いって言うか。私が見た流氷っていうのは、もう本当に、それに乗ってどこまでも行ってしまえるようなものでした。私はね、流氷に乗って行きたかったですよ。たまにアザラシがいたりしてねえ。流氷が去ると、春が来るんですね。暖かくなって、その中を流氷がぷかぷかとね。実を言うとね、流氷に乗ったことあるんですよ。小さいころにね。港じゃなく、海辺に流氷が来るんです。陸と海がつながるような感じで、雪も積もっているので、地続きになっているような。波も無いですよ。

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村元正巳さん(71) 昭和8年、稚内市生まれ

日時:平成16年7月5日
場所:北海道 豊富町

■稚内での収穫の日々

稚内生まれ。昭和34年に豊富町に来て、そのまま住んでいます。稚内で生まれたわけだから、それが普通でしたよ。僕は五人兄弟の長男でね。父親は日通の職員をしていました。家から少し行けば海も山もあったから、小さい頃はそのあたりで遊んでいました。そうそう、学校も遊び場のひとつだったな。

海では釣りをやって、山では森の中で探索。春は毛ガニや鰊。夏はホッキ貝にアサリ、シマエビ、秋はコクワやサルナシの実、冬はタラバガニ・・・とにかくいろんなものを獲っていたな。そうですね。僕らが子供の頃は、そういったものを獲るために、8~10キロ歩くのは普通でしたよ。
「遊び=食べ物の確保」だったんだね。やっぱり、食べ物が豊富では無かったから、自分の食べ物を確保するために、遊びとは言いながらも必死だったんです。

■鰊の群来

親戚に漁師がいたから、春は昆布漁や鰊漁の手伝いもやってました。稚内は漁業の町だったからね。ところで、「くきる」って知ってますか?
「群来る」と書く。鰊が大量にやってくることを言うんです。は今も覚えていますが、鰊の白子で海が白くなるんですよ。そして、学校が休みになってね。鰊休とも言ったな。漁師の家の子供はみんな漁獲の手伝いに行くんです。その様子。獲れた鰊をご褒美でもらって、背中にしょって町を歩いてました。そんな生活だったから、僕なんかは、魚を買って手に入れるっていう感覚は無かった。自分で採るか、あるいはもらうかするものですね。

ところが、昭和30年を境に、鰊がまったく獲れなくなってしまった。原因は何なのか、まだわかっていないんじゃないかなあ。昭和30年にぴたっと。ほんとに不思議でした。

廃業する人も多かった。稚内だけだったのかな。小樽の方では、鰊御殿が建ったりしていたくらいだから大丈夫だったんだろうか。

いやそうでもないんです。まだよくわかってないみたいですね。

戦争中は、攻撃を受けるようなことは無かったけれど、とにかく戦争が生活の中心になりました。物資が無くて、配給を待つ暮らしで。B-29を見たりもした。稚内周辺には、「終戦後、ロシアが攻め込んでくる」なんていう噂話が広まって、怖かったのを覚えてますよ。

もともとは稚内で信用金庫に務めていたんです。昭和32年に豊富町に転勤になった。そこでサロベツ原野と出会いました。「こんなのがあったのか!」とびっくりしましたよ。それでもそのときは、豊富町に永住するような予感は無かったんですけどね。

自然保護なんていう言葉は無い時代。終戦後の食糧難が重なって、サロベツ原野全体を水田にしようという計画もあったんです。運良くというか、無くなりましたね

サラリーマン務めの後、観光協会に務めたりして、昭和48年に退職して、今の仕事を始めることにしました。ビジターセンターで講師をしたりしながら、自然を見守るという仕事です。もうひとつ、ふたつくらいやるべき仕事が残っているかな。立ち上げたばかりのNPOをまとめなければならないし。それがこれからの目標です。


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中野正太郎さん(82) 大正11年、北海道豊富町生まれ

日時:平成16年7月5日
場所:北海道 豊富町

■酪農家の長男として

おう、俺は西豊富ってところで生まれたんだ。そこが本家で、分家してきた。
酪農は、おう、親父が始めたんだ。そのころはまだ手絞りだから、4~5頭くらいだった。絞るだけじゃなくて、加工も手作業だからな。
俺は長男だったんだけど、学校終わったら家の手伝いしかしてなかった。帰ってきたら、裏の山から燃料の木を切ってきたりしてな、遊びも勉強もしなかった。頭も悪かったしな!戦死してしまった弟と二人でやるようになってから、だいぶよくなったけどな。

駅は立派なもんだった。農家も家も多かった。子供たちも多くてな。今は小学校も閉校になったりして寂しいもんだけどな。すぐそこの国道がアスファルトになったのだってつい最近だ。その前は道が悪くて車なんか通れたもんじゃなかったな。

汽車はうん。ぐちゃぐちゃで道路が全然あてにならないからな。みんな電車使ってた。うちのいいところは、徳満駅が近かったことだ。もっと奥の農家は山を越えてこなきゃならなかった。5キロも6キロも、重いものを抱えてな、夜を越えて山越えて歩いてくるんだよ。大変だったなあ、あれは。

脂肪と脱脂乳と分けて、脂肪だけを汽車で名寄まで送ってたんだ。脱脂乳はもって帰って鳥や豚にあげていた。今はタンクローリーで集めるだけだ。

■厳しい自然

親父は新潟から来たらしい。長野県の中野市から来てるっていう話もあるんだけどな。
当時はみんなで掘っ立て小屋に住んでた。草の屋根でな。ありゃあ寒くて寒くて。薪はいくらでもあったからあったかくしてたんだけど、ボヤ起こして燃えたらどうしよう、なんて心配があってな。

このあたりも入植者が多かった。木材が豊富だったんだな。みんな地主になりたいっていってな。でも、地主になってもそんなに儲からない。木材切って儲かろうと思ったら、なかなか売れなくて、結局ここに居残った、なんていうのがほとんどじゃないか。入植するとき、親父の兄貴がフィリピンと北海道で迷ったらしいんだな。結局北海道になったみたいだ。当時はまだ札幌にもいい土地があったのに、なんでこんな北まで来たのかっていうと、札幌周辺はもう地主におさえられてたんだな。

その頃は、酪農の方法なんて知られてなかったんだな。親父はそこでデンマーク農法ってのを勉強して、豚・牛・鶏を飼いはじめた。馬鈴薯とかも作ってた。他の農家が勉強しにきたりしてたよ。そのうち戦争が始まって、酪農とかどうとかいう前に、とにかく食料になるものを戦地に送ることになった。物資そのものがない。着るもの、食べるもの・・・戦争が始まったら、体が丈夫な連中は戦争に行っていたから、残るのは女子供だしな。

ああ、俺は昭和15年から3年間出征したんだ。青森で入隊して、ソロモン方面に転属命令が出て、シンガポールに行った。でも、そこで戦争が終わったんだ。ガダルカナルが玉砕して、シンガポールで3年間、往生した。戦争には負けたけど、シンガポールで見たものはすごかった。

日本では馬車とかだったのにな、車が走ってるんだよ。建物とか、道路も整っていてな。結果的に見れば、いい勉強になったな。シンガポールは。でもやっぱり、負けて帰ってきたときは気まずかった。行く前には「死んででも」って言って出てきてるからな。

昭和22年から経営を譲られた戦前は、樺太の景気が良かったもんだから、みんな稚内から船で樺太に送ってた。卵とかは高く売れた。だから鶏は200から300羽飼ってた。終戦後は樺太は無くなったから、やり方変えなきゃならなくなって、牛を中心にした経営に変えたんだ。

いやあ、こんなに大変なことは無かったと思うな。掘っ立て小屋から始めて、戦後の近代化があって。酪農は、戦後が来るまでまったく進歩しなかったんだよ。他にも金の問題があるし、跡継ぎの問題もあって、続けていける農家は少ないしな。牧場主が亡くなって、そのままになってしまっているのもある。うちは何とかやっていけてるけども。やっぱりな、昭和の時代をやっとのことで生きてきたっていう感じだよ!

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