22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2004年05月

■2(日)

東京 10:00 ビューわかしお

大網 11:11
   11:41

上総中野 12:29

*大多喜。仏教塾合宿修行

■3(月)

*大多喜。仏教塾合宿修行

上総中野 13:29

五井

山崎富栄さん(79)
大正13年、千葉県館山市生まれ

両親が料理屋を営む家で4人兄弟の長女として生まれる。23歳で東京都板橋区にある料亭に嫁ぐ。昭和53年頃、友人の依頼で料理屋『竹富』を始める。一時期は赤坂、京橋、大山と店舗を広げ、現在も千代田区六番町でお店を切り盛りしている。

日時:平成16年5月25日
場所:東京都 千代田区

■幼少時代~上京

千葉の館山の料理屋の家でね、父も母も苦労人だったみたいだけど私たち兄弟の暮らしはとっても平和だったよ。
子供のころから踊りだとか長唄を習っていてね。当時にしてみればいい暮らしだったのかもしれないね。

東京に出てきて神楽坂に住んでた。あら、あなた神楽坂で働いてるの? いい街よね、裏路地入っても昔の面影残ってるし。メインの通りは全然変わっちゃったけど……。
洋裁学校に行ってたの。私が東京に来た後に出てきた妹としばらく住んでいたね。そこでも唄や踊りを習っていたね。そうこうしているうちに戦争が始まってね。だから17,8歳のころかしら。

●生まれは千葉県館山市。両親が料理屋を営んでいた。現在は兄がそのお店を経営している。

●両親は家業に忙しく子供たちは自分たち自身で身の回りのことをしていた。早いうちから親離れ、子離れができていたそう。

●上京をしてきてしばらくすると戦争が始まる。洋裁学校は楽しかったが、戦時中は軍服ばっかり縫っていた。本人曰く、『そこで生活がガラっと変わった』。

■結婚■

23歳のときに板橋にある料亭に嫁いだの。そこは江戸時代から続く料亭でね。もともとは中山道の宿場だったのよ。100坪はある大きなところだったわ。
大部屋もあったし個室もあって、お客様がいらっしゃったら片っ端からご挨拶に回って。これがまたお姑さんが働きものでね。お客様をもてなす極意みたいなものを習ったね。

●嫁いだ先は江戸時代から続く有名料亭『喜内古屋(きなこや)』。昔の大臣の前田米蔵さんや偉い議員の先生もよくいらっしゃったのを覚えているよ。

●板前さんが7,8人はいてね、婚礼会場から大広間での宴会までそりゃあ大きいところだったね。

●娘ふたりを世話ができなくて、それぞれ自分で勉強したり、自分で自分のことはしていたね。だから私の小さいころと同じで、親離れ、子離れがすごく早かったわ。でも子供たちにとってはかわいそうだったかもしれないね。今もお互いに相談することはあっても、泣きついたり頼り切ったりすることは無いね。

■お店
23年前からここでやってます。六番町(市ヶ谷)ね。その前には銀座や赤坂、板橋の大山にもお店があってね。バブルのころはやっぱりいい時期だったわ。
偉い議員の先生とかどっかの団体の会長さんとかいらっしゃってくれてたわ。いまだに食べに来てくれる方もいるわよ。別にお忍びでなくってね(笑)。
銀座とかのお店の立ち退きが決まったとき、ある団体の会長さんが手助けしてくれてね。それで今のお店を続けることができたの。

●もともとは当時飲食店経営も展開していた「ブラザーミシン」で働く友人から「人がいないからお店をやってくれない?」と頼まれたことから。

●『竹富』の名前は、『竹』が好きな山崎『富』栄さんということから由来する。

●あるときとなりのテナントに入っていたお店の人が「もしかして沖縄の方ですか?」って入ってきたの。その人は沖縄からの人で、うちが『竹富』だったから竹富島の人間かと思ったんですって。

●お客様に会話を愉しんでもらうために経済から政治、プロ野球の結果もひと通り頭に入れておかないと。私も毎日勉強してますよ。

●生まれから結婚して、今もずっとお店にいるわけでしょう。商売人魂というか、一本筋の通らないと納得しないのね。

■旅行

海外は時間が取れないからなかなか行けないけれど、日本は四国と和歌山以外全国回ったよ。能登だね。金沢はよかった。加賀屋って泊まったことある? 素晴らしいお宿だよ。

●まだまだ若いつもりでいるから自分の歳のことは忘れているの。人から言われたときぐらいね、自分の歳を思い出すのは(笑)。

●こうやって昔のことから今までを思い出そうとすると、忘れているものね。特に「いつ」とか時代を思い出すことができないね。でもそれは思い出そうとしないと気づかなかったことかもしれないね。

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中村はまさん(91)大正2年、東京都生まれ

日時:平成16年5月 場所:埼玉県川越市

■渋谷駅の白い大きな犬

実家は渋谷にありました。私は青山学院の方から渋谷駅に行っていましたね。実家の近くには大隈重信の家や、斉藤茂吉が院長をしていた青山脳病院があったんですね。病院は火事で焼けてしまいましたね。それから根津嘉一郎さんの家、今は根津美術館になっていますね。岡本一平、かの子、太郎の家族が住んでいた家も近くにあったんです。

それからね、家の近くの通りに、毎日いろんな物売りが来たんです。にぎやかでしたよ。豆腐だとか、アサリ・シジミ、魚とか納豆とか。他にも鍋や釜の修理をしてくれる人もいました。アメや風鈴なんかもありました。売り声が聞こえてくると、お金をもって買いにいったんです。

渋谷駅はそんなに大きな駅じゃなかったですよ。市電があってね。私は学校に行くようになってからも青山にいたんです。そう、結婚するまでね。 女学校時代、通学で渋谷駅を使っていたんですね。気付いたら、いつも白くて大きな犬が寝そべっているのを見かけたんです。他の犬が来て、騒いだりしてね。ケンカしたりしてたんですよ。
ちょうど昭和2年~5年の間ですね。そのときは名前はわからなかったんです。ただ大きい犬がいるなあって。そして、あとになってあれが「ハチ公」だってわかったんですよ。昔は犬も放し飼いでしたからね。かなり大きい犬でしたよ。他の犬よりも目だって大きかった。

とくにかわいいとは思わなかったですよ。いつも犬がいるなあって、それくらいですよ。ハチ公がいなくなったのは、私が渋谷駅を使わなくなってからでしょうね。有名になって、銅像ができたのなんて、後になってからの話ですよ。若い人はあまりそういう話を知らないかもしれないですけどねえ。

■小学校時代

青南小学校の遠足で、代々木八幡へ行ったんです。ほんとになんにも無いところでね。広い原っぱでした。そこに八幡様が建ってるんです。今のNHKのあたりでしょうかね。荒れた土地っていうか。ずっと歩いていったんです。楽しかったですよ。

■関東大震災

まだ結婚する前、10歳くらいの時でしょうか。関東大震災もありましたね。私が住んでいるのが青山の方で焼けなくて大丈夫だったんですけど、下町の方は被害がひどかったみたいです。

深川、本所、浅草・・・あのあたりですね。荷物もった人たちが避難してきたりしていたんですよ。そのときは本当に怖かったですね。悪い人たちが井戸に毒を入れた、なんていううわさが広がってね、井戸の水に注意しました。本当にあったかどうかはわからないですよ。 電車が動かないから、みんな歩いて荷物もって避難してきていましたよ。道端に警察官が立っていたりしてね。怖かったですね。 ウチの知り合いの人がね、毎日毎日行方不明の人を探しに行っていました。散り散りばらばらになってしまった家族が多かったんです。そういう子供がウチに避難してきて、しばらく居たりしてました。
川があったんですけど、川に飛び込んで助かったっていう人もいるし、焼け死んでしまった方もいるし。余震も怖くてね、夜はどこの家でも道に布団を敷いて寝たんですよ。

私たちはまだ子供だったので、外で近所の友達と一緒に寝られるのが面白かったんですよ。ふざけあったりしていましたね。それからね、地震のあった日、私の兄が浅草に遊びに行っていたんですね。10歳くらい離れているんですけどね。無事に歩いて帰ってきてました。

家の中にいたときだったんですが、神棚とかいろんなものが落ちてきて、ちゃんと立ってられないんです。どれくらいゆれていたでしょうか。しばらくとしか覚えてないですね。とにかく長く感じました。落ち着くまで這って歩いていました。揺れがおさまってから外へ出ました。つぶれた家っていうのはそのあたりには無かったんですけどね。夜になったら空が火事で真っ赤になっていてね。

■明治神宮と表参道

大正9年ごろ、青山周辺は赤土だったんですね。風が吹くと土ぼこりがすごかったんです。それから代々木の原。そこに明治神宮ができたんです。表参道もですね。落成したときには、たくさんの参拝者で道があふれかえっていたんですよ。人がとにかく一杯でね。クルマもあまりない時代だし。

当時の表参道も、やっぱりお店が並んでいましたね。 表参道が出来上がってくると、同潤会アパートができたんです。なんていうかね、とてもモダンな建物だと思いましたよ。見たことないような、めずらしい形をしている家だなあって思いました。 初詣にも行きました。おみやげを買ったりしてね。
それから、代々木の原で大正天皇を見たんです。毎年1月7日なんですけどね。白い馬に乗って、兵隊さんを見て回るんです。「観兵(かんぺい)式」っていってね。整列して、日の丸を振りながら見ていました。大正天皇は、少ししか見えませんでしたよ。

昭和天皇のお后、良子さまのお興入れを見たんです。今の渋谷赤十字病院の近くにあったご実家から、おすべらかしでね、十二単衣の姿でいてね、おひなさまみたいでしたよ。

■川越での暮らし

戦争中に川越に来たんですよ。昭和20年3月10日に東京大空襲があって、まだ空襲があるかもしれないって小さい子供をつれてきたんです。危なくてどうしようもなくってね。疎開というんでしょうかね。川越まで来る途中で電車が止まってしまって、途中から歩いてきたんです。電車が何台も何台も焼けてしまっているのが見えましたよ。
学童疎開っていうのは嫌だったんです。離れ離れになるのがね、だから一緒に引っ越してきたんですよ。それから主人と川越で仕事を始めてね。ラジオを作ったりして。

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