22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2004年02月

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大津 繁一さん(75歳)昭和4年生まれ

実家は農業をやってました。兄弟が8人いて、私は長男。色々あって、私は農業からは手を引きました。幌加内は冷害が多くて。冬には雪が2メートルも積もるんですよ。想像できないかもしれないけどねえ。そんなことで、どうにも儲からないという状況があってね。私は長男ということで、20歳で役場に入るまでも、家業を支えるために、色々な仕事をしました。

流行っていた遊び……そうね、小学校1~2年のころはやっぱりチャンバラごっこだね。雨竜川の川原とか、その辺の原っぱとかを駆け回っていたよ。で、雪が降ると百人一首をやっていたな。友達の家にみんなで集まってね。それから夏、というか雪の季節以外は、実家の農業の手伝いをやっていました。当時の旧制中学校の生徒は深川まで行きましたね。私たちの級は40人位の学級だった。学校から帰るともう仕事。農家の子供はみんなこんな感じだと思いますよ。私は一番上だったから、下が大きくなるまでがんばりました。実家は畑作中心の農家だったんですが、貸付牛制度(搾乳ができる子牛を役場から借りる)というのが始まって、牛を飼うようになった。僕も面倒を見たりしました。

冬になると、山仕事をやって金を稼いだ。向こうの山を見てください。このあたりは大きくていい材木が採れる。だから、ほとんどが国有林なんだね。あっちの山とかね。それを切る木こりを「山夫」と呼んでいたんだけど、彼らの仕事を手伝っていたね。17~8歳のころかな。

昔は雨竜川に「アバ」という、材木の集積場があって、上流から材木を流して集積していた。私の頃は「山夫」が切り倒した「マルタ(材木)」を運び出してできるように「ガンタ」とか「トビ」という道具をうまく使って、丸太を降ろすための場所に持っていく。そして、「やぶ出し」といって、馬を使って降ろすんだね。馬が斜面を駆け下りていく様子はこれはかなりの迫力だったね。
特に馬が大変だったと思う。まさに命がけだね。それを1日2~3往復する。もちろん僕たちもかなり疲れる作業だった。でもそれなりに稼ぎがあったので、みんなその仕事をやるようになっていたよ。

昭和40年頃から、耕運機や田植え機、トラクター、コンバインなどの導入が進められて、農業の近代化が図られたんです。その一環として、農家の話し合いの場を作るために、各集落に公民館の分館を作って不便さを解消したり、牛や馬の草地を造成したり。土木開発関連や町政の企画財政関連などもやりました。まあ色々です。思い返すに、役場勤め一筋だったわけですよ。

幌加内駅は鉄道の廃止後、焼けてしまったんだね。立派な駅舎だったからあれは残念だった。深名線は開通当初雨竜線と呼ばれていてね、全線開通して深名線と呼ばれるようになった。
終戦直後は、各駅で切符の販売枚数の上限が決まっていて、買えたり買えなかったりしたんですよ。列車には空席があるのに、乗れないっていうこともあってね。
僕がちょうど、岩見沢の学校に通学してたときのことでね、深川駅まで来て、切符が買えなかった。でも、どうしても帰らなきゃならない事情があって。多度志駅まで行けば、ローカル線だし、切符は買えると思ったんです。そこで学友と2人で多度志駅まで線路を歩いていったんです。
でも結局は、切符を買うことができなかった。仕方なく多度志の旅館に宿泊して、翌日一番の列車で帰ってきました。当時は蒸気機関車で、深名線の苦い思い出のひとつですね。
友人と話し合いながらだったから、それほど苦でもなかったかな。「そろそろ俺たちも牛を飼おうか」なんていう、家の仕事の話をしたのは覚えてるんですよ。


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鉄帽誰かに蹴っ飛ばされたかと思った  

河井作一さん 大正9(1920)年7月20日栃木県南那須町生まれ。
 下江川高等小学校卒業後、東京の炭問屋山口屋に丁稚として勤務。
 21歳のときに暖簾分けをしてもらう予定であったが、1938年戦争のため中国へ 出兵。
 1945年25歳のときに戦争が終了し、栃木県南那須町に帰郷。山口屋が戦災で消失し、経営者もその家族も不明。暖簾分けの約束は果たされず。
 帰郷後、父とともに炭焼きを行い、のちに和独立。60歳で廃業するまで炭を焼き続ける。 現在は、年金暮らし。家族は妻ウラと娘婿文男、娘久江とともに暮らしている。

聞き取り:平成15年2月1日

■炭焼き仕事

学校を卒業して、足掛けすつねんかん東京で丁稚奉公した。うちのずうさまの知り合いの人にみつけてもらったんだ。そっからこんだ兵隊に行った。
21になったらば店を開いてくれる。21になったときぬ兵隊にいっちゃったからゼロ。帰ってきたら家もなかった。爆撃で、終戦前5月、きれいに亡くなっちゃった。そういうわけで運が悪かった。そのあとは親父の炭焼きの仕事手伝った。

なーんも職なかったから。まず山を買う。
いや、木を。売り買いの証文もらって。アメリカと朝鮮の戦争で景気がよかった。石油がなかったから倍で売れた。どんどんどんどん。直接買いに来た。問屋にも卸した。あのころはしなものがひっぱりだこだった。こさえば売れる。景気が良くて。独立したときはひとりでやってた。

うん。ばあさんと二人でやってた。最初はあきさんとやってて、独立するときは結婚してた。

■従軍・負傷・南方へ

戦争に行ってたのは21から27まで、足掛け七年、北シナの山東省から済南まで、鉄道の警備。百里もある。敵に襲われっから。

あーるある。汽車が走る前に装甲列車が走んだよ。装甲列車の親方をやった事もある。おっかねえよ。敵が爆薬引っ掛けりゃやられちまう。でも客は守れる。普通のタマは通らない。タマが光ってくる方向に撃ち返す。中国人民が乗ってた。

占領してたんだもん。まんすうこく。大事に扱ったんだよ。何もしねえよ。普通のお客さんをちゃんと警備しとった。ずうにんに一人は日本人の業者。

戦闘もしたよ。歩き、あるいは自動車に兵隊、鉄砲、馬を乗せて。中国には殆ど飛行機がなかった。国民党・蒋介石と共産党・毛沢東。

行くときさんびゃぐにんいたんだよ。さんずうにんしか帰ってこなんだ。9割方は死んだりまんすうの方に連れてかれちまったんだ。戦争が終わってからロシアに。日本が玉音放送したんだよ。そしたらロシアがぶあーっと攻めてきて。帰ってきた人もいるよ。おれらはそのころ山東省にいたから大丈夫だった。

目え撃たれたのは5月の13日、麦の穂が出てノンビリ行軍してたんだ。敵に左側から撃たれた。麦畑に隠れたってタマは飛んでくんべや。で馬はどんどん逃げて谷底に。兵隊は麦畑の土手に隠れて。部隊長の側にいたから撃たれたんだ。右目のところ。半年かかったんだ、目が見えるまでに。ほとんど失明同然だった。野戦病院で。目玉にあたってたら死んでたね。こういうふうに向いてたら南無阿弥陀仏だ。当たった瞬間は全然痛くねえ。鉄帽だれかに蹴っ飛ばされたかとおもった。それで、「おめえ撃たれてんぞ」っていうから、あれーって(笑)急にわかったんだ。鉄帽すっ飛んでった。あいててて!後ろへさがれーっていうから這って下がって、そいから衛生兵が来てつうしゃ(注射)したり、タマの毒が身体にまわんねえように。

毒あっぺえ。鉛球だから。ほいて包帯巻いて、戦闘終わるまで隠れてたんだよ。ほいてこんだ突撃してって、戦闘は終わり。突撃するほかねえんだ。相手は城壁、そこに砲丸ぶっこんだんだ。どっかんどっかん。ばりーんばりーんっていって扉に穴ッコあいて、そこに飛び込んでいくんだ。こっちから飛び込んでいけばもう逃げ腰だから。打ってる暇ねえ、逃げるよ。そして櫓に日の丸揚げれば、占領されたと思って。逃げんのはええから。

伝書鳩に迎えに来いって行って。こっから宇都宮くらいだな。朝飛ばして昼頃迎えに来た。そうしたら自動車がたっこんがたっこんいってきて、野戦病院に行ったのはあしたの朝だよ。顔がはれて両方目が見えなくなった。それで野戦病院で手術して。

弾は取らねえ、突き抜けてっから。頭の両方にガーゼ詰めるだけだよ。簡単なんだよ。6ヶ月間は戦闘行かず、遊んでた。

半年間はな。部隊長が見にくんだよな。「ああお前は命拾いした、よかったな。もう一度天皇陛下のために働いて来い」ってんだ。でまた治ってから行ったよ。「鉄砲ぐらい撃てんだろ」って。(笑)
撃たれたのは25。そのころまだ勝ってたから、待遇が良かったよ。すんずわん(真珠湾)で勝っただろ。で負ける頃になったら、ひどかった。俺そのころチンタオにいたんだけど、アメリカ軍マッカーサー元帥が沖縄からチンタオに来るっていって。沖縄全滅したろ? そっから。「みんな、死に場所はチンタオだ」って、山の崖っぽに穴掘ってよ、「そこが死に場所だからよく掘れ」って、ダイナマイトくれんだよ。一人ひとつの穴掘って。ほんと子供だましのようだ。夜は岩ん中で寝て、昼間は穴に隠れる。それですうせん(終戦)になったんで、あー助かったんだ、て思った。

軍の方から命令が来た。中国人が来ても何もしないよ。本性としては嬉しかったな。ああこれで寿命が伸びたって。あれだな…なんていうか…来る時が来たなって。

あああ、勝てるとは思ってなかったな。状況がどうも悪かったもんね。シナ軍がものすごく強くなって。アメリカ軍が応酬してきただろ。あっちで全滅だ、こっちで全滅だ、て伝わってくんだ。

流さないよ。現場だけがわかってる。勝てねえとは思っても、誰も口にださねえよ。腹ん中では「ああ助かった」って思ったんじゃねえの?俺も「ああこれで命が延びたな」って思ったもん。

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