22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2004年01月

安谷屋ウメさん(86)
神谷ハルさん(85)
伊礼フミさん(73)

日時:平成16年1月9日
場所:沖縄県石垣島宮良

安谷屋 キビ狩りが始まってたでしょう? 3ヶ月くらい続くよ。
ここは15日からだね。畑といえば紅イモとキビだね。あとマメか。

神谷 大豆だね。糸満の町まで持っていって売ってたんだね。
イモも作ってたけど、うちはお酒が飲めんかったからわからんねー(笑)。

●小さいころは手伝いといってもね、松をたきぎにして集めるのが子供の仕事。木から落ちた松の木ね。いっぱい抱えてね、町に持っていくんだ。

●「いもくじ」(イモの麹)もやってたね。イモをすった粉だよ、メリケン粉かわりにしてたのね。

●みんな一緒に住んでいたね。いとこ同士で、みんな親戚さ。

●お正月はね、旧正月に肉親だとか近い親戚が集まるもんだけどね。1月22日(旧正月)はねぇ、みんな忙しくて休み取れないからね、息子も孫も新正月に帰ってくるね。そんで部落のな、拝むところにみんなで行くんよ。うちの部落、宇江城はな3箇所だ。

●ここいらにはお祭りってないね。家々でごちそうを作ったりするのは十五夜ぐらいかねぇ。那覇の方には大きいお祭りよくやってるけど行ったことないね、おばあは忙しいからさあ(笑)


安谷屋 結婚したのは、20歳のときかねぇ。でもお父さん(旦那さん)は戦争で死んでしまったね。

神谷 私は24歳の時ね、かなり遅いほうでよ。今じゃひ孫までいるさあね(笑)。内地にいるよー。

神谷 爆撃は、もう雨を降らせたような感じだったさー! 自分ももう死ぬんかね、ってホントに怖かった。


●自然の洞窟に隠れて、山の向こう側に抜けて海沿いをずーっと逃げて歩いてった。

●兵隊さんが来てよ、あんたがたどっかに隠れていなさいっていうけどな、アメリカ兵に捕まってな、1年くらい収容所に入れられてた。

●伊礼:私は山原(やんばる:沖縄本島北部)に連れて行かれてね、木の芯を切って回りの皮をはいでね、真っ白な木を大根みたいにして食べてたね。時々は米兵さんのいわしやとうもろこしの缶詰なんかもらってきたけれど。あそこはなんもなかったからね。

●そこから南部の人間はまた一ヶ所に集められてね、部落ごとで班を作ってな、戦争前に作ってた畑のイモを集めてくるんだ。それをみんなで配給するからね、もう全然足りなくてね……

●そこから元々の部落の場所には戻ったんだけどな、しばらくは家を建てるまではみんな一緒に住んでたね。一ヵ年ぐらいかな。

●戦争がひどいから、もう自分の家族しかいないね、みんな死んでしまっただろうね、と言っていたらこんなに助かっていた。珍しいんじゃないかねえ。

●神谷:戦争終わってしばらくしてね、小学校の子供たちに読んできかせたんだ。うちが書いたこれを。

神谷 ハワイは行ったよ。20年も前に。もう飛行機が怖くて乗れないねぇ。腰が曲がってしまっているからさあ。でもいい話を聞いたら腰も伸びるさあ(笑)。

安谷屋 えばって歩けば背筋ものびるさあ(笑)。

●第一は健康だね。そいで真心、家庭円満、心のもち方、年寄りを大事にすること。この5つ、大事に守ってくださいな。


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前花哲雄さん(96)
宮良さんの婿嫁のいとこのお父さん。石垣島に蔓延したマラリアについての著書が、東南アジア向けに英訳されている。

日時:平成16年1月9日
場所:沖縄県石垣島宮良

じゃあまずは八重山の話からしてあげよう。
八重山郡っていうのは──昔は八重山村だったけどね──石垣や西表などの7つの島々からなっているんだな。昔に大陸からの人々が米を持ってきてな、稲ダネををもって北上していったんだ。

米はもともと南方、ビルマ(ミャンマー)から伝わってきたと言われているけれど、伝わったのはお米だけじゃあないんだよ。

●それは「言葉」。日本語だよ。大陸から海を渡ってきた人たちは、人のいないあちこちの島に移り住んでいったんだ。台湾から西表、小浜や石垣にもね。島の人々とのやりとりは、言葉が通じないから漢文でおこなった。

●でもその漢字をなんと発音するか、どう読むかはわからない。中国の漢文が伝わってきてもそれを解説する必要があったんだね。

●それを解説したのが八重山の人間さあ。そこからヤマトに伝わって、稗田阿礼が『古事記』をまとめたでしょう? そのときに中央政府で研究された結果、「この漢字はどう読むか?」っていうときに八重山語が一番しっくりきたんだね。

●つまりだ。今、みんながしゃべっている日本語はもともと八重山語だったっていうこと。「言葉の読み方を決めた」んだよ。山を「やま」と呼び、海を「うみ」と呼んでいるのは八重山語があったから。標準語が方言なんだね(笑)。

●あとね、日本の国の成り立ちもこっちさね。奈良だとかなんだとか色々説はあるでしょう? でも沖縄(本島)のすぐそばに伊平屋島(いへや島)があってね、そこにちゃーんと天照大神が隠れたという「天の岩戸」があるさね。

●この話は小学校3年生ぐらいまでは学校でちゃんと習っていたんだけれど、それ以降はないね。きっと神様の碑だとか感謝するお祭りとかはあっても、神様は神様であって語る必要はないってことじゃあないかな。

「八重山」っていう名前も、西表に高い山が8つあったからっていう話だよ。
八重山の人はみんな自然に知っていることなんだけどね。言葉にはやっぱり意味があるんだよ。例えば、八重山じゃあ、北を「ニス」、南を「ハイ」、東を「アール」、西を「イール」って言うんだ。わかる?
東はさ、太陽が「あがる」でしょう? だから「アール」だよ。
こっちの言葉でね、「ハイカジがたったら寒さがなくなる」って言葉ある。「ハイカジ」、つまり南の風だね。南風になると春の始まり、ってことさあ。

●昭和5年に20歳の時、徴兵検査を受けてね。甲種合格で九州の小倉に行くことになった。その年の年末に家を出て、那覇に。年を越した7日に鹿児島について、生まれて初めての汽車にのって小倉まで行ったんだ。軍隊には1年半ぐらいいてね、20円もらって帰郷した。

●警察官になりたくてね、熊本の巡査憲兵になるための勉強するところ──まあ学校だね──で友人4人と警視庁に行くために勉強したんだよ。

●でも、警視庁に試験を受けに行くだけで120円もかかる。そこで朝鮮総督の警備の仕事を見つけてね、それだったら20円で現地まで行けるからって受験したんだ。全国から2000人ぐらい集まったけれど、我々4人はみんな合格したよ。あんときは抱き合って喜んだもんだ。

●昭和17年の4月20日から勤務ということが決まっていたから、満州に渡って講習をしたあと地方警察に配属になった。鴨緑江(おうりょくこう)っていう、今の中国と北朝鮮国境に流れる川のところ。つまり国境警備をしていたんだ。

●敗戦色が濃くなるにつれて、「どうやって日本に帰ろうか」 そればっかり考えていたよ。

●敗戦してから捕虜として捕まってね、シベリアに連れて行かれることになったんだ。汽車にぎゅうづめにされて移動したんだけど、途中の山の中で水を汲みに行くための休憩があった。そのとき僕は小さな隊の隊長だったから、部下に先に行かせて自分は後ろから山の中を川へ下って行ったんだ。

●「逃げるなら今しかない」と判断してね、ふっと後ろを見ると部下の一人がついてくるんだよ、「隊長、自分もついていきます」って。

●それから2人で山の中を逃げてね、国境の検問に出くわしたんだ。さあどうしようと悩んでね。朝鮮語はしゃべれたから警備の人間に「この先に行く物資輸送のトラックはもう通りましたか?」って聞いたんだ。その輸送隊の一員のようなフリをしてね。そしたら「もう通ったぞ、早く行け行け」て言うもんだから、「しめたっ!」だよ、本当に。

●機転を利かせてなんとかゲートをくぐることができた。その遮断機がスーっとあがったときは涙をこらえるのに必死だったよ。映画にしたらきっと大ヒット間違いなしだね(笑)。


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宮良マス子さん, 田盛ヨシ子さん

左:宮良マス子さん(72)
石垣島で生まれ育つ。30年間ホテル日航石垣の客室整備の仕事をし、3年前に退職。

右:田盛ヨシ子さん(76)
村に6人いる「司」のうちの1人。「司」はお祭りにおける神主であり、部落のお祭りの際に豊年、健康を部落を代表して神に祈りを捧げる。

日時:平成16年1月9日
場所:沖縄県石垣島宮良

宮良 昭和って長いからねぇ。誰でもこんなお話はできるんじゃないの~
あたしは戦争は難儀したからよーっく覚えとるけど、他は取り立ててなにもやってないよ~

生まれも育ちもここ、宮良。結婚もおんなじ村同士の人とするのが普通だったさ。だから今じゃあみーんな親戚だあね! あはははっ!

●小学校3年生から家のお手伝いで畑に出ていた。作っていたのはいもだね。でも売るためじゃあない。自分たちで食べるためだけ。

●「自分の地元の同じ部落の人同士結婚したらが、あとのためがある」っていう歌は今でも残っているよ。つまり自分らの幸せは後の人たちが幸せであるようにってこった。ずっと言い伝えられてるさあ。

宮良 旅に行った人なんかはさ、、、
あぁ、こっちの言葉で家を出ることを「旅に行く」って言うさぁ。貧しい家庭はね、子供を他の家に女中奉公に出してたりしていたでしょう。うちはそんなのはなかったねえ。兄弟は多かったんだけどねぇ。

そりゃああったさ。母親に頼んだら、「あんたはここにおれば兄さんなんかの洗濯もしてご飯も作って、家のことをしとけばええ」って言ってね、なかなか外へ出さんかった。だからものわからん。ははははっ!

●学校は行ったよ。小学校に入学するとな、うちは田舎な、内地とはちがうからな。うちらは日本語、標準語がわからないからさ、通訳みたいな人がいたよ。そんな時代だった。あれからどんどん方言がなくなってきてね、3,4年生になるころには方言を学校で使った子は罰を受けたよ。その子の首に「私は方言を使いました」って書いた木の板をかけてね。

●うちはずっとこの島だからさあ、最近テレビで日本語(注:標準語)しかはなさんからな。うちはわかるけれど、うちの言うこと内地のみんなはわからんさあ(笑)。英語と一緒さ。英語をちゃんと話そうとしたらしっかり習うでしょう? それで学校にも通訳みたいな人がいて……。そんな時代さぁ。

ここいらへんはみんな親戚さあ。ちっちゃい頃からみーんな知っとる

●昔は寒かったねぇ。靴もあんまり履いてなかったから、地面からきゅーっと寒さが伝わってきてねえ。最近思うのはそれは洋服や食べ物のせいだけじゃあないね。きっと地球がどっかおかしいのね。そう思うさあ。

そうだねぇ。アメリカの飛行機が飛んできてね、二人して「めずらしい飛行機が飛んでるもんだねぇ、こんなに低く飛ぶんだねぇ」って見とれとったねぇ。

田盛 学校の先生も学生もみーんな空をぼーっと見ていたねぇ。あんまりめずらしいものだったからね。

宮良 それで兵隊から「防空壕に入れー!」って叫んでね、初めて戦争ってものが怖いものだって気づいたの。

田盛 畑に出とったなぁ。いもね。買う人もいない、売る人もいないから、自分らで食べる分だけだね。

宮良 でもね、うちらはまだ幸せだったんよ。うちのお母さんがずーっと言っていたんだけど、大晦日にね、親戚のおばあがな、貧しくてな「すいません、お願いします。年を越すためのお米を分けていただけないか」って。
その頃はそばなんてないからな。お米が一番のごちそうだったから、「うちには子供がいっぱい産んであるから。あるだけでいいからお米を分けてもらえないか」ってな。泣きながらいらっしゃったと。

田盛 マス子さんは本家だったからねぇ、財産はあったさ。

宮良 そいでな。お母さんは自分の分を分けてあげたさ。畑を持ってない人たちはいっぱいいた。でも子供もいっぱいだからな。こういうことはよくあったと、お母さんがよーく言っとった。

田盛 お正月に一つ歳をとるからな、正月はとっても大事だったな。今はおそばだからな、とっても楽だねぇ(笑)。

●戦争が始まってな、二人とも飛行場作りにかりだされたの。今の石垣空港は昔の海軍の飛行場だからな。陸軍の飛行場が白保(海沿いにある、宮良の隣り町)にあって、朝から晩まで土を運んでいたさ。男も女も。

●海に近いから船からの艦砲射撃がすごくてね。そのたびに裏山の防空壕に隠れにいったよ。兵隊さんは内地からの人たちが多くてね、すごく威張ってたなあ。

●戦争が終わってから、米兵が島にいっぱいいたからな、若い女の子は危ないってな。みんなビクビクしとった。要領いい人はいるもんでね、タバコと日本の旗を交換してったなぁ。旗はきっとアメリカの家へのお土産だね。

田盛 うちは分家だからねぇ、「シータムラー」。「シー」が「後ろの」って意味だからさ、「後ろの田盛」ってことだよ。

宮良 「前」と「後ろ」があるわけさ。部落によっては「東」「西」って方角でいうところもあるさね。

田盛 そうよー。本家を中心として家が前にも後ろにもあるでしょう? だからうちは「シータムラー」



外間善明さん(78) 大正14年生まれ

平成16年1月11日
沖縄県東風平市

東風平(こちんだ)村役場で勤め始めてからずっと地元の青年団だとかそういった振興会の仕事をしているね。
産業開発青年会っていうものがあってね、まあ若者を集めて「手に職」をつけさせるんだな。職業学校とは違うんだけれど、若いうちは現場に立って指揮をとったもんですよ。
なにかと問題のある子たちもいたけどね、手が焼けるほどかわいいもんですよ。

●東風平の尋常高等小学校を卒業してね、おじさんがいた東京に行って高校までそこで過ごした。

●昭和18年に海兵予科練に自ら志望したんだ。滋賀の航空隊に移って卒業。そこから水上特攻隊に入隊。水中もあったけど、僕らは水上でね。「マルヨン」ってよばれてたモーターボートで訓練をしたさ。

●実戦部隊は鹿児島に配置された。昭和20年の初めかな。

●特攻艇は長崎の佐世保で作られていて、敵船が現れたら300キロの爆弾を積みこんで突っ込むんだ。ひどい話だよ、当時はそれがお国のためではあったけれど。

●8月16日に僕は出撃予定だったんだ。爆薬も積んで待機をしていたらそこで終戦。結局は出撃しないで助かったわけだけれど、その頃は自分も含めて若かったからね。「出撃させろ」って騒いでいたなあ。

●母親と妹が宮崎に疎開していてね、あちらこちらから疎開していた人が集まってきてね、うちは沖縄県疎開者指導連絡員ってなあ、その人たちをとりまとめることをしていた。沖縄からは熊本、大分、鹿児島、宮崎に疎開をした人が多かったね。

●昭和21年の9月に母親や妹も含めた、地域の人たちと沖縄に帰ってきた。

外間 内地の人からすると沖縄に関する知識なんて全然なかったからさ、いざこざがあったこともあったよ。沖縄の人は英語がペラペラだって思っている人(笑)。

●故郷に帰ってきても家がないからなあ。企画住宅といってね、他の家族と一緒に暮らしていたんだよ。2世帯が1つの家に。今いるこの場所はその頃弾薬庫でね。一ヵ年は向こうの山のあたりに住んでいたよ。

●働き始めてから青年団のような組織が作られ始めてね、学校で6・3・3制が敷かれたころ、つまり──昭和23年か。人手が足りないっていうから2年弱ほど学校の先生をやったさ。

●なんで人が集まらないかっていうと、先生の給料は安いのよ。たとえばアメリカの軍作業に行くといろいろもらえるわけですよ、食料も生活用品も。「戦果」って呼んでいたけどね(笑)。我々はそれはできなかったから役場だとか先生になったの。

●タバコ1ボール(12個入り)がね、300円ぐらいしとった。我々の給料は230円だった。ここいらは田んぼも少ないから米が無い。だからみんな田んぼにできそうなところは土を持ってきて、水を入れて……。仕事をしながらそういうことしてたね。

●月給だけじゃ生きていけないからね、家内も内職している──そういう時代ですよ。

●こういう話聞いたことないかな? 意地になって配給制度を受け入れて、ヤミ米に手を出さなかった人間は死んでいった、ってね。だから当時の政府のいうこと──これだけ配給するからこれだけ食べて生活しなさい──ということを守っていると、とてもじゃないけど生きていけないんだよ。東京付近でもこういう話があったと思うさ。

●その頃は「百姓さん」だったからね。自分で作って、町から来る人に米を売る。ホクホクだったと思うよ(笑)

平和な生活を乱しにやってくる魔物はね、なぜか曲がるのが下手で、T字路や三叉路の突き当たりだとか袋小路の奥にある「石敢當」の石板にぶつかって、砕け散ってしまうんだ。……っていう伝説、みたいなものさあ。

沖縄を歩いていたら家々の屋根だとか玄関にシーサーがのっかっているでしょう?
屋根の上にいる漆喰で作られたシーサーは、どっかで買ってきて乗っけたものじゃあないんだよ。
瓦屋根でしょう。あれは「瓦とシーサーが一個のもの」なの。だからひっとつも同じものは無いんだよ。
でしょう。僕は東京もいったことあるし、日本はあちこち回ったけれどやっぱり沖縄は特別だね。他に換えはきかない場所だよ。

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照屋寛文さん(78) 大正14年生まれ

日時:平成16年1月10日
場所:沖縄県糸満市宇江城


うちは戦争のことしか知らんなあ。
うちはヤギだとか豚を飼っててな。馬とか牛とかもな。 山に行って草刈りな。エサだよ、キビの葉っぱとかな。
8人兄弟だったからね、親はかなり苦労したらしいね。下の妹3人はまだ元気にやっとるよ。 新正月に家族全員ここに集まったさ。子供6名、孫が17名、また孫(ひ孫)3名。お年玉が大変だったよ(笑)。

●19歳のときに佐世保におった。上陸用の船、小さいやつな、それを作ってたけれど、1カ年半して戦争負けたでしょう。そんで食べるもんもないから熊本に農業をしにいったさ。

●昔はね、食うもんないからね、自分で作ったさ。野菜も全部自分で作った。

●でもな、畑ばっかしてっても金がすぐ入るわけじゃあないからね。キビにしたって植えてから収穫するまで1カ年半かかるからねえ。

●結婚もしてたから、お金無いでしょう。だから町の建築会社でもアルバイトしてたさ。

●昔の話をしても若い人たちは笑うね。時代が流れているってことをわかっていないんだなぁ。苦しかったことは本人しかわからないんだよ……

崎山用豊さん(67)
昭和11年生まれ

幼少期を台湾ですごし、スペインの日本人学校の校長を務めた経験もある国際派。

日時:平成16年1月10日
場所:沖縄県那覇市石嶺

日清戦争のあとに日本は台湾を植民地化したからね、現地の人とはわかれた暮らしをしていたよ。父親が台湾でトラック会社を経営していて、日々の暮らしに困った記憶はないなあ。
小学校のころだったからたしかじゃないけど、頭に残っていまだに消えないことがあってね。家は葬儀場のそばで、友達と遊んでいたある日、赤ん坊をおんぶした女の人がいてね、ずーっとそこに立ち尽くしているんだな。きっと旦那さんか子供を戦争で亡くしたんじゃないかな。子供心にずっとそれは残っているさあ。

●僕は国民学校という、まあ普通の学校に通っていたけど、現地の子供は別の学校でね。公学校って呼ばれていたっけか。そこではもちろん日本語で授業。だから今でも台湾には日本語をしゃべれる人は結構いるよ。

●何年か前にも台湾にはいったけれどね、日本人が特に現地の人に悪いことをしたわけではないからさ、今でも毛嫌いされるだとかそういうことはないんじゃないかな。

●ただ横柄な部分はあったね。「自分たちは優秀で選ばれた人間だ」みたいなね。差別用語も普通に使っていたし。

●今でも日本人って海外に行くとえらぶるよね。心がせまいというか、外の世界に順応することに抵抗を感じるのか……。だからいつまでたっても「島国」なんだよ。

スペインの日本人学校の校長を3年間していたよ。しかもマドリードだとかバルセロナといった大都市じゃなくってね、ラスパルマスっていう大西洋に浮かぶ離島(笑)。それが面白いところなんだな。

●地中海を回遊する魚がジブラルタル海峡を通り大西洋に出る。よく育ったマグロが大西洋に出て周遊するルートにラスパルマスはあったんだよ。

●それに目をつけた日本企業──商社だとか漁業組合だとかね──の社員が現地に移ってきて、その家族の子供たちが行く学校が必要になったんだ。そこでできた日本人学校。面白いでしょ?

●文部省が全国募集してね、僕は音楽畑の人間だからオーストリアとかヨーロッパに行きたかったんだけど、スペインもいいかといざ行ってみたら大西洋に浮かぶ小さな島でしょう?

●最初はなれるまで大変だったけれど、現地の人たちがあったかくてね。本当にいい空気がそこには流れていたな。マグロやタコがまたおいしいんだよ! とれたての魚介類には事欠かないからさ。

●日本人はどこにいっても文化を持ち込もうとするね。温泉施設まであったもの(笑)。しかも粉末の「温泉の素」みたいなやつあるでしょ? あれを入れて「今日は草津か」なんて言っていた(笑)。

スペインの一般家庭はソニーや日立の電気製品を使っていたな、今もだと思うけど。これにも理由があってね、なんで日本製品が好まれるか。それはアフターケアがすごくいいんだな。
別にスペイン製品を使っても同じようにもちはいいんだよ。でもね、壊れたときや調子が悪いときに、営業の人はすぐに飛んできてメンテナンスをしてくれるのは日本製品だけなんだな。

●いつかの『ロンドンタイムス』に面白い特集が載っていたよ。「日本の車も故障する」ってね。あるときに大事な会議に遅刻をしてしまった社員がいて、理由を聞いてみると「うちの車(日本車)が調子悪くて……」と言ったんだと。壊れないイメージのあった日本製品も決してそうではないことを新聞一面の特集で組むんだよ!?

●世界に日本人学校って180か190くらいあるんだよ。やっぱりね、現地では偉そうにしているんだよ。校長をしていて、「日本」を持ち込む人はたくさん見たよ。

●それで結局魚の買いつけ商人やその家族が「1年に1回くらいは日本の土を踏ませてくれ」と会社に言い始めてね。

●漁場をスペインに売って、それからモロッコのものになった。韓国もいつか参入していたね。だから今でもスペインの港に行くと船体に消えかかった日本語で「○○○○号」って書いてある船がたくさんあるよ。

●何度も言うけれど、日本人は外国での暮らしを味わないとダメだね。狭い世界で狭い視野しか持ってるようじゃ、いつまでたっても馬鹿にされる一方だよ。

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花城英行さん(80)
17歳のときに小浜島を飛び出て、南方で真珠の採集船に乗り組む。戦後に島に帰り、石垣島にある竹富村役場に30年間勤務。その後小浜島の公民館館長を3期12年務める。

日時:平成16年1月8日
場所:沖縄県小浜島

■飛び出した生まれ故郷

生まれは小浜島だよ。小さいころはあんまり覚えていないなぁ。
小学校を卒業して、その上に高等科っていうのがあってそれが2年。これは義務ではなかったけれどね。そして青年学校という軍隊の学校にいった。まぁ勉強するというよりも、訓練するところだね。
昭和14年に島を飛び出した(笑)。
伯父さんがパラオ諸島の方にいてね。そのツテを頼って、島を飛び出て南方へ行った。最初は現地の郵便局で働いていたけれど給料は安かったなぁ。


●その頃パラオ諸島は「委任統治地」と呼ばれる植民地であった。日本は1914年から44年までの30年間、南洋群島を統治していた。おもに製糖業や漁業に従事するための日本人が大量に移民し、1939年当時、その6割を沖縄出身者が占めたという。

●日本人と地元民の行く学校も分けられていて、地元の子供たちが通う学校が「公学校」と呼ばれていたね。

●郵便局を辞めたあと、真珠買いの会社に入社してね。オーストラリアとニューギニアの間にアラフラ海ってあるでしょう。パラオを本拠地にして、そこで真珠の採集船に乗り組んでいたんだ。

●僕はダイバーじゃなかったから、実際に海に潜って真珠を採ることはしなかったけれど、1年間海の上でね。食料や燃料を持ってくる母船が来るのが待ち遠しかった。陸の話を聞くのはその時しかないからさ。食料を下ろしたあとは、採れた真珠をその船に積んでまたお別れだよ。

■民間輸送船が軍事用に

昭和の11年の11月に、これはよく覚えている。夜に洋上で停泊をしていたら、パラオからの連絡船がやってきてサーチライトでこっちをバーッと照らしたんだ。

突然の命令でね、パラオに戻って来いというんだよ。わけのわからないうちにパラオへ戻った。戦争だよ! その年の12月でしょう? 開戦は。みるみるうちに南方は戦地になっていったな。

●パラオに着いたら、すぐに船が軍に徴用された。次の年の1月に1ヶ月くらいかけて横浜に行き、造船所で軍用の輸送船に改造したんだ。できあがるまではなーんもすることない。毎日遊んでたね(笑)。

●船の改造が終わって、南方のソロモン群島に配置された。輸送船だから物資、つまり燃料や食料を運ぶ仕事でしょ? 米軍に見つかっちゃ大変だってんで、船のまわりに木や草を貼り付けてカモフラージュ。実際に行動するのはほとんど夜だったなあ。

●船に乗り組んでいたのは、沖縄の人間は少なかったな。なぜか和歌山や三重県の出身者が多かったね。

■友人の死

●あるとき、2機の戦闘機が攻撃をしてきて、ずっと船倉に隠れていた。攻撃が終わって甲板の様子を見にあがったら、あたり一面血の海でね。弾薬にも引火する一歩手前だったから、全部服を脱ぎ捨ててふんどし姿で海に飛びこんだ。

●陸に向かって泳いでいると、醤油を詰めていた樽につかまって泳いでくる仲間がいた。よくよく見ると、真っ青な海の色がそいつのまわりだけ黒ずんでいるんだよ。励ましあいながらなんとか陸まで泳ぎきった。

●ももの付け根を機銃で打ち抜かれていたからまずは止血をしようとしたんだが、ももの付け根でしょう? 結ぶにも結べない。腰を力いっぱい布で縛ってもあまり意味が無かった。

●そいつをおんぶしてマングローブ林まで逃げていった。でもそいつが息も絶え絶え言うんだよ。「ここにおいていってくれ」ってね。「そんなことできるか!」と叱り飛ばしても打つ手はない。

●そうこうしていると、「水が飲みたい」と言い出した。水を求めるってことはもう長くもたないな、と思ったけれどあまりにもかわいそうだったから近くの島民の家で水をもらって持って行くと、本当においしそうに水を飲みほした。

●最期にね、「あんたがもし生きて帰ることができたら、おれの両親におれの最期はこうだったと伝えてくれ」と言い残して、すぅーっと息絶えたんだ。本当に忘れられないよ、そいつの名前と顔とあのときのことは。

■ちゅら島へ帰る

それまでは輸送船で南洋群島をまわっていたけれど、海が封鎖されたから、パラオの山に隠れて生活していた。
自分たちで食べ物を作っていたよ。「生産隊」を結成してね(笑)。
ほとんど沖縄出身者で生産隊をつくって、食べ物を採ったり、野菜を作ったりしていた。沖縄出身の人は海人(うみんちゅ)ですからね、海に潜ったり、火薬を使って魚を採っていたよ。

●終戦はパラオの山の中で知った。島民はそうでもなかったけれど、朝鮮の人たちは騒いでいたね。

●沖縄に帰ってきてもすぐは小浜に帰ってこられなかった。本島に収容所が作られていて、戦争が終わって帰ってきた人たちを1つの場所に集めていた。僕は1ヶ月くらい1つのテントに20人と暮らしていたね。

●ようやっと小浜に帰れるって時に僕はずっと船の底にいたんだ。だって那覇や石垣は戦火でボロボロ。本当に何も無い状態だったから、故郷の島を見るのが怖かった。甲板にいた仲間たちが「島が見えたぞー!」って叫び始めたら、いてもたってもいられなくてね、甲板に駆け上ったんだ。

●遠くに昔のままの小浜島が見えて、どんどん視界に緑が増えてきてね。なにも変わっていなかった。昔のままの島を見たときに涙がボロボロ出てきたよ。島があんなに美しく見えたのは後にも先にも無かったね。

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