22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2003年11月

櫻田あささん(95) 千葉県成東郡出身
石井むらさん(96) 東京都出身

日時:平成15年11月28日
場所:東京都 板橋区にて

■自宅

○石井 私の家は横須賀で材木商をやっていたの。一時期は50人ぐらいを使っていたかなり繁盛したお店だったわ。

●桜田 うちは千葉の農家。今でも弟が成東で農家をやってるよ。女4人、男2人のあたしは長女だった。家族の中に女が多かったからとても明るかったね。石井さんのところとは全然違う家だよ(笑)。

―― 戦争の時にはもうお子さんがいらっしゃったんですよね。

●桜田 そうよー。子供が中学生の時かしらね。騎兵隊の人たちがうちの裏山に馬をとめて、そこいらの家に泊めさせてもらってたのよ。その頃はよくそういうのがあったの。ご飯を食べさせて泊まらせてっていうのが。一軒に二、三人ずつぐらいでね。

○石井 うちも木材を海軍に納めていたから、海兵さんたちが航海から帰ってくるたんびに家に泊まりに来て大騒ぎよ。

●桜田 それでその時に子供が兵隊さんのサーベルを持ち出して外で遊んでいたの。そりゃあもう、こっぴどく叱られたわ。

○石井 航海って一度出たら長いでしょ。それぞれ個人の荷物を置いていって帰ってくるたんびにうちに来るから、もうずっと馴染みの人たちばっかり。主人も面倒見がいい人だったからね。

●桜田 主人と始めてお見合いしたとき、気むずかしいなあって思った。9つ違いの学校職員の人だったけれど、勉強は良くできて頭の回転が早い人だったわ。

■戦争~終戦後

○石井 横須賀には海軍の刑務所だとか養成学校があったから、爆撃の目標になりやすかったの。家の畳をあげて、縁の下にもぐってね。さらに木材を上にのっけて防空壕代わりにしたの。商売道具をそんな風に使っちゃまずかったかしらね(笑)。

●桜田 子供は疎開させなかったの?

○石井 どうなるかわからない時代だったから、子供を疎開させて親に先立たれても不憫だったからね、疎開はさせなかったの。

●桜田 そうね、わかるわ。

○石井 結局十年くらい横須賀にはいたけれど、終戦後に店をたたんで東京に戻ろうとしたの。でもその頃、東京から出るのは簡単でも、入るのはとても大変でね。

―― どうやって東京に戻ったんですか?

○石井 東京では砂糖が不足していたから、主人が一人で砂糖を大量に持っていって東京に入り、、、

―― もしかして、通行料ってことですか?

○石井 そう(笑)。その頃は笑えなかったけれどね。まず墨田にバラックを建てて土地を最初に確保したの。それから家族を呼び寄せて、東京で住み始めたんです。

●桜田 その頃は貧乏だけれど和気あいあいとしていたよね。今はみんなお金持ちだから自分勝手な行動ばっかりしてまとまらない(笑)。

―― そうですね。人の悪口ばっかり言い合っている感じがします。

●桜田 そうでしょ。人の話を聞かずに足の引っ張り合いばかり。妥協が無いのよね。「こうしたらどうでしょう」っていう提案が。選挙の政見放送なんか見てると、そんなのばっかりで、「どうでもいいや」って思っちゃう。


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人見鐵三郎さん(86) 大正6年生まれ

満86歳。大正6年(1917年)栃木県黒磯生まれ。外務省に勤務し、総領事・大使として世界7カ国に赴任した。

日時:平成15年11月27日

■幼年の頃~終戦

一言で言って、元気な少年でした。クラスで一番のガキ大将をぶんなげたこともあった。そいつが悪いことをしたんだな。

うん、はっきりと覚えている。そいつが同級生の女の子をいじめたんだった。それで天井がひっくり返るくらい見事にぶん投げたよ。後々の無鉄砲さも、この頃から変わっていないんじゃないかなあ(笑)。
もっと小さい頃、5つか6つの時だね。近所の材木置き場の二階から別のガキ大将に、「くやしかったらそこから飛び降りてみろ」とはやされて飛び降りたんだよ。子供で身軽だったからか怪我はしなかった。目は回ったけどね。

成人してからそこへ行ってみたが、成人の目で見るとそんなに高くなかったね。でもやっぱり飛び降りる気はしなかったよ(笑)。

●父方の祖父は神奈川の秦野で町の助役をすると同時に、タバコの販売に関する仕事もしていた。当時政府が企画中であったタバコ専売計画に反対し、夫婦で全国のタバコ産地を遊説して周り、旅先の那須で父親が生まれた。

●祖父がハッピにももひき姿で、小学校の校長先生と対等に話していたのをよく覚えている。

●養子として百姓家にもらわれた父親。苦労して育つが、手に職がつくといいというので建具職人になり、やがて腕のいい親方になる。素晴らしい長火鉢・箪笥・机を作る、黒磯で一番優秀な親方であった。

●父親いわく
「金は一番大切。でも注意しなさい。大臣でも賄賂をとって失敗しているよ」
「死ぬということは、眠っているようなものだ」
「勝ち負けはしょうがないけれど、ウソをつくのはね」(戦争が終わった時に)

●日露戦争は自分が生まれる12,3年前。自分にとってその戦争はずっと昔のことであったが、今の人にとっての太平洋戦争もそんな感じだろう。なにせ、終戦後58年も経つのだもの。


大学入学時に父親が作った机。今も現役で愛用している。

人見 戦時中、下関から輸送船が出る時に、陸軍の主計少尉だったから、荷物の積み込みの作業を監督していてね。

あと1,2時間したら出航し、海上で敵潜(アメリカの潜水艦)の攻撃を受けるだろうな、と考えながら、ぼんやり海を長いこと見つめていたんだ。

戦後何十年も経ってから、その時の僕を見ていた部下に会って、そいつに言われたよ。「人見さん。あの時の姿を今でも覚えています」って。

●昭和17年、満州に出征。現ウラジオストクに近い琿春(コンシュン)で任務にあたる。陸軍主計中尉。

●アメリカがこっちの出港を狙っているのはわかっていたから、陸軍参謀本部は台湾上陸説、海軍の軍令部は沖縄上陸説をそれぞれ主張した。あとでわかったことだけど、終戦の年の1,2月頃は海上はかなり危険で、実際に満州から沖縄には行けなかった。

●やむなく台湾に向かった三個師団のうち、自分たちの前に出航した師団、後の師団も全滅。僕たちの師団は敵潜の近寄れない支那大陸沿岸を何日もかけてノロノロ航海。台湾海峡を抜ける最期の夜だけ、ミズスマシのように海上を走る海防艦二隻に守られて海を渡ったんだ。それで台湾の基隆(キーロン)港に到着したんだ。

●台湾の新高山東麓の斗六という小さな町に駐屯していたある日、僕をめがけて低空飛行のグラマン戦闘機が機銃掃射をしてきた。操縦士の表情も見えるくらいの距離で、一対一、俺を殺しに来たヤツはどんなヤツだと思ってね。地上に伏せながら振り返って見たんだ。向こうはメガネをかけていて表情まではわからなかったけれど、その瞬間俺の左側一メートル半のところを「バリバリバリッ!!」と一線に土ケムリをあげて弾丸がかすめていったけれど、俺には一発も当たらなかった。その時の死の覚悟は満足感に近いものだったよ。

●一度死んだら二度は死なない。何事も、「その時その時」を必死で生き抜いてやろうと思った。つまりわが身を時代と結びつけるということだ。

●戦争は勝ち負けは問題じゃない。何を体験し、そこから何を学び取るか、それが問題だ。

斉藤直さん(74)
昭和4年4月、兵庫県生まれ。

昭和24年、東京で銀行員として働き始める。17年間務めた後、松竹会館ボーリング場で働きつつ専門学校に通い、昭和48年鍼灸マッサージを東京葛飾に開業する。

日時:平成15年11月25日
場所:東京都新宿区

■幼年の頃~終戦■

小学生の時には学校でも映画を見せてくれましたし、夏には甲子園球場のグラウンドに大きいスクリーンを設置してねぇ、入場料いくらか払って映画をよく観たもんですよ。無料の時もあったなぁ。『ターザン』なんて繰り返しやっていたし、柳家金悟楼の喜劇で大笑いしたのをよく覚えているね。

昭和17年が最後だったかな。昭和19年の暮れに入って、私のいた阪神間も空襲を受け始めたけれど、休みの日にも学徒動員の帰りにもよく観ました。ただ困ったことに空襲警報が鳴り始めると映画は中止になったんですよ。

でもね、ホントによく観た。「続・姿三四郎」「日本剣豪伝」……。当時の東宝の役者たちが勢揃いした慰問映画「勝利の月まで」。この映画なんて三回観ましたからいまだに内容を覚えていますよ。


●10歳の時、日中戦争で南京、また主な都市の陥落、そして太平洋戦争のシンガポール陥落まで町中で提灯行列が行われていたのを覚えてます。

●戦争中はみんな苦労ばっかりしていたと思う人もいるがそうではないですよ。たとえば、田舎で米を作っている人。自分で食べる分には困らないし、街から買いに来る人には高値で売れる。損している人がいるってことは、得している人もいるってことです。

●学徒勤労動員。昭和19年7月ごろから旧制中学校三年生以上が軍需工場に動員されました。地方によってのバラツキはありますけれどね。

●私は関西ペイントという会社に動員されました。私の通った甲陽中学校の三年生は、神戸製鋼・阪神電鉄・関西ペイントに分けられました。苦しい思いをして動員をされた同期には申し訳ないが、関西ペイント組は楽な動員生活だったと思います。工場に使う油をドラム缶ごと盗んで、自宅で使ったりしていた友達もいたよ(笑)。

●戦争中に一番苦しい思いをしたのは集団疎開をした子供たちだろうね。考えてごらんなさい。小学校3~6年生の少年たちが親からはなればなれになってしまったんだよ? 

●本当に苦しかったのは東京大空襲の後、つまり昭和20年の3月からです。なんでかというと、食料や物資があったとしてもそれを運搬できないから人々の手に渡らない。手に入るのは軍隊とその関係者だけだった。

●当時、私の家があった甲子園のそばには川西航空機という飛行機の組み立て工場がありました。6月のある早朝にB29爆撃機が100機編隊でやってきて、その工場の8割を破壊していったのを覚えています。あの正確さには、恐怖というよりも驚きを感じました。

●私の父は胃ガンを病んでいて終戦の二ヶ月前に亡くなりました。敗戦の悲しみを知らずして死んだことはせめてもの救いだったと思いたい。家も8月5日夜の空襲で焼失しました。

●玉音放送は尼崎駅前で聞きました。たくさんの人だかりの中でよく聞き取れなかったから、家の向かいのお医者さんに尋ねにいったところ敗戦の事実を知りました。茫然自失ですよ。これから私はどうすりゃいいのかってね。

●終戦直後に父方の家があったもので山形県の鶴岡に越していきました。朝の出発予定が昼の一時ぐらいになって結局ついたのが翌日の午後三時。出発する時は超満員というわけでもなかったけれど、途中の京都あたりからギュウギュウ詰め。だけど、福井のあたりでかなりすいてきたのを覚えてます。空襲のなかった、地方ののんびりした風景、若い女性が駅員に多かったのも印象深いですな。

■学生時代■

●中学校時代に学徒動員をしていましたから高校の入学はもう大変でしたよ。必死に丸暗記。テストってのは勉強したところが出るか出ないかの運次第だと今でも思う(笑)。

●中学校の先生のひと言が忘れられない。怖くてうるさい人だったんだけど、太平洋戦争の時の授業中に「元寇の時の神風は台風であった」と言ったんです。わかります?つまり、「神風なんてのは吹かない。日本は戦争で負ける。」ということを分かっていたんでしょうな。

●旧制高校には結局二年ほど行きましたけど、姉が病気になったり、なんだかんだでね、途中で辞めたんです。今思えば学校に行く情熱に欠けていたかな。でもそれと同じくらい行っておけば良かったと後悔してる。だって就職の時の待遇なんて全然違うもの。当時は学歴社会だったからね。今でもそれは変わらないだろうけど、風穴が空きつつあるのは間違いないんじゃない?

■社会人■

昭和24年かな。親父のツテで銀行に就職しました。 何が仕事って、預金を集めるのが仕事のすべてですよ。だって預金より貸し出しが多いわけだから経営に差し障りが出る。銀行も借りなきゃならんから、役職が上の方の人は日銀に頭があがらないわけです。

上下関係が本当に厳しくなり始めたのは、1960年安保闘争後、経済成長と合理化の嵐からですね。

●入行当時の給料は当時のお金で6000円くらいだったかな。その頃、靴一足が3000円、ワイシャツが1000円だったからかなり生活は厳しかったね。みんな貧しかったんだよ。

●行員全体の運動会。昭和20年代はのんびりなごやかな雰囲気だった。でも意識統一のためか、1960年の安保以後はだんだんと厳しくなってきて、ある年には「全員参加せよ」の指令が出たこともありました。不参加者は理由書を出せと言って。僕? 僕は「行きたくないから、行かない」と書いて出したよ(笑)。

●昭和37年の夏に肋膜炎を患って、一年ちょっと会社を休んだ。その間の半年ぐらいはちゃんと給料が出ていたな、それはありがたかったね。あとは健康保険で暮らしていたけれど。そのときに将来のことをつくづく考えて、何も好きでない勤めにしばられることはないと気付いてね、昭和41年に退職しました。

■転職、そして開業■

昭和41年の6月から一年ぐらい失業保険で暮らして、築地の松竹会館のボーリング場で働き始めました。松竹セントラルって映画館があってね、地下にも三つ映画館があったなぁ、、、そこで働き始めて2,3年してからいわゆるボーリングブームがやってきた。

そうそう。その時期は本当にみんなボーリングに夢中だったけれど、ニクソンショックから世間が円高になってね、人気が落ちるのもあっという間でしたね。「ブーム」という意味がよくわかった。

お客さんを集めようと、考えられるありとあらゆる企画を実行してみたけれど無理でしたな。つい先日まで超満員だったのが嘘みたいだったよ。

学校に4年間通いました。鍼灸2年、マッサージ2年。先生についてみっちりやったなぁ。何が良かったかって、勉強していた中で医学の基礎知識を学べたことだね。新聞の医学関係の文章を読んでいても、自然と理解できるようになったもの。

●勉強をして確信したけれど、患者も医学の基礎を知らなかったらダメだよ。なんでって、それじゃお医者さんも親身になって患者の状態を教えてくれないからね。

●生理学の先生が言ってました。「きみたち、肝臓は身体の毒素だけでなく薬の効力も分解する。だから肝臓に効く薬はない、ということを覚えておけ」と。

●お店をやる場合は必ず二人でやること。一人じゃうまいこといかないね。何事もバランスが大事だよ。

●自営業というものの厳しさというものを実感しました。サラリーマン時代よりも自由ではあったけれど、休めば一銭の収入もない。自由には、餓死する自由もあるということだね。

●今、フリーターが流行っているようだけど、その餓死する自由もあるということを認識しておいた方がいい。つまり、自分で選んだことは自分が責任を取るということだよ。


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佐藤ナヲヱさん(84)
大正8年生まれ
中洞増海(なかほらますみ)さん(83)
大正9年生まれ

平成15年11月12日
千葉県船橋市にて

●佐藤さん
新潟北蒲原(きたかんばら)というところに生まれました。田んぼばかりの村で、農家です。
8人兄弟で、家族みなで10人以上いる大家族でした。

○中洞さん

長野県木曽郡の生まれです。家は旅館をしておりました。林野局の人などがお客さんだったのですが、時代が進むにつれ、高速も出来て人が通過するようになり、後に廃業しましたが。

少女時代

●佐藤さん

小学校は1学年に1組で24,5人くらいでしたか。

○中洞さん

私のところは1学年に1組で50人くらいでしたかね。着物に下駄履き、学校でわら草履にはきかえました。

●佐藤さん

私も最初はわら草履でしたが、ほこりがでるからとそのうち禁止になり、わら草履に端切れを編みこんだものを履いてましたね。肩掛けカバンさげて通いました。私のお祝いに叔母が買ってくれたんです。かばんがなくて、風呂敷の人もいました。

○中洞さん

兄が山口で働いておりまして、たまに帰ってくる時に、名古屋駅でいろいろとおみやげを買ってきてくれたんです。珍しい鉛筆入れや、手提げカバンとか。夏は木曽川で泳いで遊ぶのですが、水泳着と浮き輪なども買ってきてくれました。当時としては”先端”ですよ。優しい兄でしたが、私が5年生の時に発疹チフスで亡くなりました。

●佐藤さん

手提げカバンは当時憧れでしたねえ。高学年になってやっと、というところでしたか。

○中洞さん

雪の日は長靴でしたが、買えない人もおりましたね。

●佐藤さん

雪はね、日本海、弥彦の方から吹雪がくるんですね。雪は背丈よりも高くつもる。村人が通学路を藁むしろで囲って、大雪のときは村の人が当番で迎えに来ました。

○中洞さん

私の方は寒い割には、雪はそんなに多くはなかったです。

●佐藤さん

私たちは恵まれてはいましたね。学校に行く前にぞうきん掛けをしてから行きました。「手伝いしてからでないと学校に行ったらだめ」と言われてました。学校から帰ると、風呂の水くみをしました。外井戸もありますが、家の中に水汲みポンプがあったのですね、それを一所懸命漕いで、お風呂の中に溜めます。風呂といえば、当時、村で天然ガスが出たんです。もちろん、お金をかけて掘って、運良く当たったようなんですけれど。珍しいと思いますが、ガス灯や暖房に使いました。風呂はガスで焚いたんです。今のガスコンロのようなものですね。

○中洞さん

家は厳しかったです。私も、学校へ行く前にぞうきん掛けなど必ず掃除をして行きました。たとえ貧乏になっても学校だけは行け、と学校に行かせてくれた代わりになんでも手伝いました。父は兄弟みな学校に行かせてくれたのです。 小学校を卒業してすぐ女学校へ行ったのですが、それは村ではとても少数でした。

●佐藤さん

その頃楽しかったことは、汽車を見に遠足に行ったことですね。遠くに駅があって、「今日は汽車を見に行きましょう」と。皆で並んで見物しました。他にも、小学校3年か4年くらいの頃、新津に石油堀りの見学に行きました。初めて汽車に乗りました。それに、競馬を見に行ったことがありましたねえ。楽しい思い出なので、今でもテレビで競馬中継をしているとつい見てしまいます。

私はのびのびと育ちました。家のすぐ下に駄菓子屋があって、そこのおばちゃんの所へ「ご飯食べに行く」とお茶碗を持っていってご飯をご馳走になったり。その頃、駄菓子といえばそうですね、こうぺいとうにねじ棒...ねじ棒は1銭で2本買えましたかね。

●佐藤さん

1銭で指の先くらいの大きさのあめ玉が7つ買えました。村に一軒だけ、「何でも屋」がありまして。高級な菓子は隣の町に行かないとないんですけれども。けれど、駄菓子を食べた記憶はあまりないですね。それよりは家で作ったあられなどをおやつにしましたね。あられにする分のお餅を切って、ゴザで陰干しして。他には青豆を炒ったり。 大人が田んぼに仕事に行く時は、午後にお腹がすくからと、あられや豆を一緒にして持って行っていました。一升瓶に水をつめ、日陰において。

○中洞さん

年に数回だけ、芝居小屋でお芝居がありました。自分の家の旅館に役者が泊まったので見に行く機会はありました。そうそうは見に行けなかったですが。当時としては、気楽にいけるような娯楽ではなかったですね。

●佐藤さん

年に一度、7月5日に『天王祭り』という大きいお祭りがありました。福島の方から船で人がくるほど、大きい祭りだったようですね。その時にかかる、『新発田サーカス』が楽しみで。大きなテント張りの小屋を掛けて、外で客寄せに”蜘蛛むすめ”というのがあってね、糸で蜘蛛の巣をつくって、女の人がその中に顔を出しているだけなんですが。これを当時は信じていまして何か不思議でねぇー。サーカスは今と違って、自転車に何人も乗ってみせたり、女の人の肩に竹を乗せて、男の人が上っていって芸をしたり、綱渡りの最後に自転車で傘をさして渡ったりと他愛もないですけれどね。昭和40年頃の新潟地震で神社が倒れて、今はやっていないようですが。

○中洞さん

私の方はサーカスはこなかったなあ。

●佐藤さん

新発田は地元のようなものですから。 映画を見に行ったこともありました。サーカスも映画も青年学校(高等科を卒業すると本科2年、研究科1年の青年学校に進んだ)に通っていた頃です。青年学校に行くふりをして、新発田まで映画を観に行きました。帰りの汽車の時間があって、乗り遅れるとばれるので、いつも映画のいいところで帰らないといけないんです。『愛染かつら』が大はやりで。松島とも子の映画も観た覚えがあります。

結婚

○中洞さん

昭和14,5年頃、数えで20の時に親戚筋の主人と結婚しました。2番目の兄と同級生でした。(東京の)中野運輸省(国鉄)に勤めていたので、中野に住みました。昭和20年に長野の実家に疎開するまで中野におりました。

●佐藤さん

私も似ておりますね。同じように昭和14,5年頃に20歳の時に親戚筋の主人と結婚して、神奈川の鶴見に行きました。電気溶接工でしたが、残業残業で近所に知り合いもいないし、寂しくて一週間で田舎に帰ってしまったんです。母に怒られて、父に送られて鶴見まで戻りました。

戦争と疎開

○中洞さん

中野には空襲はまだなかったですね。しかし、線路に近いところだったので爆撃の危険を避け疎開しなければならず、 昭和20年に長野の実家に疎開しました。それまで東京にいながらも空襲にあわなかったのは恵まれていたと思います。

●佐藤さん

開戦当初は鶴見にいて、隣組の消化訓練でバケツリレーなどに参加したこともあったのですが、主人がスマトラに仕事で転勤になりまして。ついていくわけにいかないし、だったら、と新潟の実家に行きました。そのうちに戻ってきた家族などで人数が膨れ上がって18人にまでなったのですが、父が全員をしっかり面倒見ていましたね。人数が多いので、食事作りとお釜洗いが大変でした。 米どころのしかも農家でしたから、お米には困りませんでした。供出してもまだ米が蔵にありましたから。それを田仕事などで使う着物や木綿と交換しました。魚とも交換しましたよ。イワシ10匹で米一升と交換です。米を持ち帰る内に小糠が落ちて目減りする、ということで多めにあげていました。

○中洞さん

私のところも田舎でしたから、食べ物にはそんなに苦労しなかったですね。七輪でお粥を作って食べていた覚えはありますが。 昭和17年、たまたま知人から「田を買ってくれ」とお話があって、買ったのです。それが、結果的に戦時中でもお米をもたらしてくれたのでとても良かった。

●佐藤さん

佐渡の方からB29が飛んでくるんです。爆撃はありましたよ。一度、B29に迎撃砲が当たったのを村の皆でみて、「ばんざい、ばんざい」と言っていたのを覚えています。

戦後

●佐藤さん

戦後、まだ焼け野原だった大田区に主人の友人のお兄さんが所有する土地を借りて住みました。4畳半とトイレとお勝手だけ作ってね。 昭和35年、主人が42歳で亡くなり、小学校1年の娘と、まだ小さい娘がいたので近所の寮の食堂で5年間働きました。その後、会社の事務で55歳の定年まで働きました。そこはストライキが会社であって、私は関係ないから傍からみているととても面白かったですよ。すぐ近くに社宅の子供達が通う学校があって、デモをしていると、学校の窓をあけて「とうちゃんがんばれー」なんてことがあったりね。気がついたら私が争議の調停役、橋渡しの役をしていたりもしました。 定年でもう仕事をしないつもりが、自分の年金受給資格に6ヶ月足りず、今度はアルミサッシの製造工場で働きました。辛かったですが、次第に慣れてきて結局5年も働きました。 会社で大阪万博に行ったり、楽しかったですよ。行きは夜行の列車で行って、その日に万博を見物して、一泊して夜行バスで帰りました。ロクに寝ないで万博に行ったからさっぱり訳がわからず、ぐるぐる会場を周る何か乗り物に乗って、何も見ず帰ってきました。

○中洞さん

戦後、長野で3年ほど暮らしたあと、また中野に戻りました。 万博は私は主人と二人で行ったけれど、とにかく人が多くて、太陽の塔もちっちゃいのがぽつんと見えただけですよ。 私は専業主婦でした。デパートの事務で働いたことがありましたが、主人が(私より先に帰って)「洗濯物がそのままぶらさがっている家に帰るのは嫌だ」と。結局半年しか続けられませんでした。働きたかったのですけれどね。本当は学校の先生にもなりたかったんですよ。けれど、そのときは父に反対されました。

●佐藤さん

振り返ってみると、恵まれていたと思います。けれど、主人が亡くなるまでの5ヶ月の入院が今思い出してもつらかったですね。病院の部屋を個室にして、子供たちが部屋に泊まって、そこから学校に通いました。ですが、上を見ればきりがないし、下をみてもきりがありません。幸せだと思います。

○中洞さん

今考えると、節目節目、そのたびにそんなに苦労がなかったですね。私も昭和52年に主人を66歳で亡くしましたけれど、長期の入院ということもなかったですし。割と苦労しないで人生を送って来たかな、とちょっとずるいような申し訳ないような気持ちもします。

瀬川はぎ子さん(73)
昭和5年生まれ

日時:平成15年11月11日
場所:千葉県船橋市

●宮城県雄勝町
宮城県の雄勝町(おかちまち・おがつちょう)という三陸海岸沿いの町に生まれました。海がすぐなので、泳ぎはいつの間にか出来るようになっていましたね。
硯の産地で、父と兄は硯づくりをしておりました。山に発破をかけて崩し、石を選びだします。腰にベルトを巻き、のこぎりで石をひいて切り出し、小さめのナイフのような、ナタのようなもので石の目をみて割るのです。それで硯や石版(白墨やロウゼキで板に文字を書く。学校で使った)をつくる。東京駅の屋根がその石なんですよ。瓦ではないのですが、見た目はうろこのようになります。町の家はみなそうでした。
女性はイワシ加工などの仕事がありました。それなりに賑わっていた町だったのですが、戦争で男手も足りなくなり、沢山あった鰯漁の船も軍に供出して、活気が失われてしまいました。
町へは石巻からバスで行くのですが、木炭バスなので途中の坂を登り切れず乗客皆で押すか、降りて坂を先に行ってバスを待つかしてやっとたどり着くのです。昭和40年頃、やっと隧道ができて楽になりました。雄勝町はそういう所でした。

●少女時代
小学校は1学年で3クラスくらいでした。最初の頃は着物で通っていましたが、姉たちが東京で暮らしていたので洋服やランドセルを送ってくれ、それを使っていました。どちらかというと着物もランドセルも珍しかったですかね。
戦争になると、傘もないから雨が降ると外套を頭からかぶって歩きました。履き物は下駄ですがそのうち下駄もなくなりました。何にも無くなって、店があっても商品もないんですもの。わら草履を自分で編んで履いていました。縄跳びで遊ぶと擦り切れて壊れて、裸足で家に帰ったことがありましたよ。配給で長靴もありましたが、数が少ないので生徒皆でくじをひきました。

●開戦、戦争へ
小学校4年の時に開戦しました。学校の階段に貼ってある大きな世界地図をみて、「こんな大きい国と戦争してだいじょうぶかな」と思ったのを覚えています。
兄は3人全員が兵に行ったので、家の男手は父のみでした。姉の子供達は一足先に縁故疎開で来ていたのですが、そのうちに姉達も東京から帰ってきました。姉は東京で外食券食堂をしていたのですが、戦局も進むにつれ、「これでは危ない」と。
海は入り江になっていたので、軍の船が身を隠していました。それを狙ったか、こんな田舎の町ですら爆弾が落ちたことがあります。

●食事
海と山に挟まれた土地ですので、米は元々少なかったのです。魚は獲れるから、農家に持っていって米と換えました。豆がないから味噌に困り、開墾して豆を育て、味噌や醤油などを作りました。海からひじきや昆布をとってご飯と混ぜて食べていました。毎日毎日なので見るのも嫌になりましたね。夜はもう寝るだけだからと、芋のお粥だけ。魚はいつもあったけれど、やはりひもじかったですね。

●手伝い
国有林を払い下げしてもらい、町の皆で畑を作りました。山も開墾しますが、石だらけだから石を丸太で運びます。丸太と石の間に指をはさんで大変な目にあったこともありました。畑の一つは山道を30分かかるんですよ。山の坂道だから休むところもなく、肥やしを担いでそこまで行くのがとても大変でした。着いたら、小川の水で肥やしを少し薄めて畑に撒きます。
学校は、登校するにはするのですが、そのまま皆で出征兵士が出た家に行って、蚕畑を手伝います。夏になると海草のホンダワラを採りに行きます。ヨードチンキにするんですね。
小学校の頃はまだ授業もありましたが、高等科のころは殆ど働いていました。
炭焼きの俵を山からおろす仕事もありました。女の子も、炭俵を2俵背負って山をおりました。辛いなどと言ってはいられませんでした。手伝いをするのが当たり前の時代でしたから。

●徴用
高等科を卒業すると、徴用で軍需工場へ行くことになりました。仲間はみな仙台など割と近くに働きに行ったのですが、私は親戚が東京で旅館を改造して染色工場をしていたのでそこへ働きに行きました。その直前の2月に姉への所用で一度だけ上京したのですが、帰りの切符が買えず、そのまま新宿の姉の経営する外食券食堂で手伝いをしていた事があります。そこで3月の空襲を見ました。その後一度宮城に戻り、再度上京しました。

●東京大空襲
東京に徴用で行ったのが5月23日でした。そうです、着いて次の日に大空襲があったのでした。その日は一度警戒警報が鳴り、消えました。そのまま寝ようとすると今度はいきなり空襲警報が鳴り出しました。親戚達が一緒にいましたから、祖母、次男夫婦、兄、姉、私と一緒に逃げました。最初は防空壕にいたのですが、爆弾が落ちて入り口がばらばらと崩れかかって。

その時いた軍需工場には小さめのバケツが沢山置いてあったのですね。それを持って、淀橋にあった染色工場から神田川沿いに変電所の方へ逃げました。しかし、そこも燃えてきました。では、と新宿の方へ向かうと、そちらも火の海でだめ。中央線の電車が燃えていました。弟が百人町にいたのですが、そこは前に空襲があったので今度は大丈夫だろう、とそちらへ逃げました。
青果市場の塀の脇にみんなで鈴なりになって隠れました。途中、防火用水があったのでバケツに水を汲んで持っていたのです。とても喉が渇きますが、水がない。仕方ないのでバケツの水に手ぬぐいを浸して、それを少しずつ口に含んで乾きを凌ぎました。
その時の経験から、万が一の為今でもプラスティックでない金属のバケツを家に常備してあるんですよ。

夜が明けて工場に戻る道すがら、人が黒こげになって沢山転がっているのを見ました。工場に戻ると焼けてもう何も残っていない。焼夷弾の残りを集めてみると、80発以上落ちたようでした。
防空壕の中から半分焦げた米を出してきて食べました。工場長は三鷹にお住まいがあったのですが、息子さん達が食料を持ち、電車が動かないので線路沿いに歩いて来てくれました。

工場は焼けましたが、徴用はそのまま続きます。熱海の染色工場に行くこととなりました。自転車にリヤカーをつけ、兄が私と姉を乗せて東京駅へ向かって漕ぎました。新宿から市ヶ谷のを通り、四谷までさしかかると蔵だけが残っていて、ほかは全部焼け野原でした。この先どうしようもないので、そのまま引き返しました。新宿まで戻ると小田急線が走る、ということで、それに乗って小田原、そこから熱海まで行きました。

●終戦
毎月1,15日は仕事が休みでした。8月15日も休んでいると、「これから天皇陛下の放送があるから、温泉に入って身を清めてきなさい」と言われました。従業員が部屋に集められ、玉音放送を聞きました。何を言っているかわからなかったのですが、お年寄りが「あっ負けた!」と。

その夜から何も気にせず電気をつけ、ゆっくり眠れたことが一番嬉しかったですね。
「飛行機の音を聞かないですむ」というのは本当に嬉しいものです。今のイラクの人たちの気持ちもわかりますよ。 戦争中は表を歩くと機銃掃射もあったのですよ。

しばらくそのまま熱海にいたのですが、食料は全然なかったです。配給は豆かす(つぶして油をとった後のかす)と、ドングリの粉。これですいとんを作ってもすぐ拡がってしまって、箸にすらかからないんです。小麦粉をやっとのことで少しだけ調達して、なんとか粉をつないですいとんにしました。

●帰郷
9月に宮城に戻りました。食料がないので、海から海水を汲んで二日ほど煮詰めて塩をつくり、往復で2日ぐらいかけて秋田や山形へ行って米と交換しました。塩一升で米2升になります。帰りは米を持って帰るから、重くて大変でした。帰る時は切符を買うために、米や塩を駅の「一時預かり」に預け、身一つで夜通し切符売り場に並びました。姉が正月用の餅米を交換して帰ってくる途中に検閲にみつかって取られ、泣いて帰ってきたこともありましたね。

●兄
3人いた兄は兵隊に取られましたが、幸い全員無事に帰ってきました。一番下の兄は船乗りになったのですが、帰還直後の昭和21年1月、銚子から漁船で出港したときに難破して亡くなってしまいました。終戦直後で捜索もままならず、遺体もあがらないままでした。母は安否がわからないうちは私を連れて毎晩お宮にお参りに行ったのです。亡くなったことがわかった時、母はショックで2ヶ月寝込みました。亡くなった兄はきかん坊でしたが、一番の親孝行でしたので余計辛かったようです。キセルと帽子と手帳だけを埋めて葬式を出しました。

●行儀見習い
昭和22年頃、熱海の別荘で、行儀見習い(家事などをこなす、お手伝い)をすることになりました。給料は2,500円。当時別荘にきていた家族の息子さん達は慶応に通っていて、同い年くらいだから辛いところもありました。辛くて押入に顔をつっこんで泣いたこともありましたね。
朝から夜まで働きました。食事は最低限でしたが、使用人の食事は当時はそんなものでしたね。裸足になって洗濯するのですが、量が多いから大変でした。残ったお米を水につけ、木綿の袋に入れ、もみだして着物をのり付けします。いい着物は生乾きのまま取りこんで、たたんで押して型をつけてからもう一度干すのです。そうするとアイロンをかけないで済むんですね。いろいろと工夫しました。今でもやりますよ。のりは合成のりですけれども。炭を入れて使うアイロンもあるにはありますが、滅多に使わなかったですね。丸3年働きました。

●それから
昭和25年に東京に行き、すぐに姉のいた志木に移りました。新宿に通っておせんべい屋で働くなどしました。
昭和28年に兄の同僚だった、2つ上の主人と結婚しました。当時は新宿高野の2,3階が結婚式場になっていまして、ささやかな結婚式をあげました。
東京で生活を始めましたが、まだお米が無くて。闇米で一升300円もしました。他の食料はともかく、とにかくお米がなかったですね。結婚の時に、嫁入り道具のような形で、米を姉が用意してくれたのですがそれがとても嬉しかったです。
ラジオで「君の名は」を夢中になって聴いたのを覚えています。特に他に楽しみもなかったですし。

内山聖子(しょうこ)さん(72)
昭和6年生まれ
平成15年11月8日
千葉県船橋市にて

●生まれは東京の目白で、育ちは荏原。都庁職員の父、母、長女の私と弟3人の6人家族です。父は東京育ちですが、祖父が満鉄に勤務していたので一時は満州でも生活したそうです。

開戦

●小学校4年の時に開戦しました。小さかったからあまり覚えてはいないです。
空襲や警戒警報はしょっちゅうありました。当時は隣組単位で壕を掘っていたように思います。水道局の庭に防空壕があって、近所の人たちの避難先となっていましたね。掘るとすぐ水が出るので、壕の中に一つ深い部分を作ってそこに水を集め、水がたまるとかき出していました。子供と年寄りが壕に入り、大人は消火作業のために壕に入らずに残るんですが、『火はたき』というはたきのようなもので消火作業をしろと。そんな物で果たして消えるものかどうか。

空襲

●すぐ下の弟が小学4年生の頃、学童疎開で富山の滑川に弟が一人で行きました。そのころロシアが参戦したので、富山は近くて危ない、というので、後に家に戻しました。

●幅の広い道路があれば火災になっても飛び火しない、ということで、水道局との間の道を50mに拡幅することになったんですが、家がそこにあたってしまいました。家を壊すのはあっという間だったですねえ、それをみて泣いたのを覚えていますよ。近くで仮住まいしたのですが、しかし立ち退きがなかったら、本来は避難していただろう水道局の壕に空襲で爆弾が落ちたので、後から考えると命拾いをしたのかもしれません。その時、私は2番目の弟をおぶい、母は一番下の弟を連れ逃げたのですが、近くに落ちた爆弾がその防空壕に落ちたということを後で知りました。

●私は父の手伝いをして防空壕も掘りました。深く掘るにはスコップの使い方にコツがあるんですよ。結局3つ掘った覚えがあります。

●昭和19年に女学校に入学しました。受験が確か3日間あったのですが、その中日に母が出産して、私も手伝いで大騒ぎしながらも合格できたのです。靴はもう買えるような時勢ではなかったのですが、とにかく黒い靴を履きなさいという決まりだったのでお古の靴を靴墨で塗って履きました。服装はもんぺにセーラーの襟、というスタイルです。1年生の時から動員で、工場に行って鉄くずのよりわけなどをしました。

空襲

●東京への爆撃は戸越銀座に落ちたのが一番最初だったと思うんですね。開戦してわりと始めの頃だったと思いますが。父は戸籍係でしたので爆撃跡の確認に行かなくてはならない。多くを語りませんでしたが、爆弾の落ちた真下にいた人の手や足が向かいの家の二階まで飛んでいたような、ショッキングな光景だったようです。浅草の方に爆撃がありますと、焼夷弾が小さい花火のようにぱちぱちと見えました。

疎開

●昭和20年6月、女学校の2年時に祖母のつてで籠原へ疎開しました。祖母と父は東京に残り、母、私と弟3人です。途中から上の弟は東京へ戻りましたが。疎開最初の頃は荷物を大八車で駅まで運び、母が定期を買って2日おきくらいに東京との間を往復して荷物を運びました。長屋二間の内一間を借りて暮らしました。籠原は絹の産地で、蚕を町全体で飼っていたのです。間借りした家も二階に蚕棚がありました。食べるものがないから、さつまいもを食べるのですが、砂地だからたくさんできるのに大きいだけで別においしくはなかったです。毎日朝から晩までさつまいもと、おかずに大根の葉を塩漬けにしたもの、そればかり。肉がないから、近所の人の勧めもあってウサギを飼ったりもしました。水が良くなく、死んでしまいましたが。父が東京から鯨の肉の塩漬けをたまに持ってくるんです。肉がないから貴重です。それを母は畑の手伝いをさせてもらった家などにわけていました。

●疎開した村には飛行場があったので、空襲がありましたよ。竹林を切って飛行機を隠していたようです。空襲になると、家にあった大きな栗の木の下にいつも同じ兵隊が逃げてきて2人ずつ立つんです。立ちっぱなしもなんだから、お茶を出したりするうちに顔見知りになり、弟にお菓子などを持ってきてくれました。

●母は近所に蚕の世話に行ったり、草むしりへ行ったりしていました。みな出征で男手がないので、重宝がられました。お金のかわりに小麦や芋をもらうようになり、それからは食事は少しはましになったかとは思います。私も、いつのまにかうどんの打ち方やわら草履の編み方などを覚えました。

●僅かな場所をみつけて、開墾もしました。ジャガイモやサツマイモの育て方、床の作り方なども覚えました。サツマイモのつるを佃煮にしておかずにしたが、おいしかったですよ。他にも松林に「木くず」を取りに行ったり、ちょっとコツのいる手袋や靴下編みも教わって作ったり、いろいろと覚え、働きました。

●疎開してすぐには女学校には通えず、終戦の1週間くらい前から熊谷の女学校にやっと通えることになったのですが、授業はなく、熊谷の工場に動員でした。終戦になってからは、しばらく家で2番目の弟の子守をしながら待機しました。そのまま籠原に3年ほどおりました。

終戦

●隣の家で玉音放送を聞いていたようです。それで話が伝わって敗戦を知りました。みな泣いていました。私は「これでもう逃げなくてもいいな」と思ったのを覚えています。母が桑畑で機銃掃射にあったこともありましたから。
今思うと負けて良かったです。アメリカ兵が来るのは嫌でしたが、後で考えると親切でしたね。

戦後

●アメリカ兵を村のみんなが怖がっていました。娘や若い嫁を隠す準備もみなしていたみたいです。しばらくは進駐していたと思います。

●学校は熊谷にまた通い出しました。ノートがなくて、和紙を半分にして綴じて、表紙はマンガの表紙などを流用した手作りノートを使っていました。

●編み方を覚えたわら草履は学校の上履きになりました。通学は下駄です。下駄がすり切れるまで履きました。タビも母の手作りです。もんぺを履いて、カバンは親の手作り。とにかく何でも、あるものでやるしかないんです。端切れも大事にとっておいて、使いました。

●お弁当を作ってからでないと学校に行ってはいけないと言われていたから、登校時間ぎりぎりまでいつも時間がなかったです。遠くから汽車が来るのが見えると、男の人が「ひっぱってやる」といい、引っ張られて乗ることもありました。客室に乗れないときは石炭車にまで乗るんです。熱くて、火傷しました。学校にいっても、学校の田んぼで働かされました。

●東京に戻り、学校制度が変わったので用賀にあった高校の2年生に編入しました。スカートや襟など制服に決まりがあったので守らないといけない。スカートは袴を直してスカートにしていました。そういう人は多くはなかったですが、あまり気にせず通いました。

●終戦後の方がむしろ食べるものがなかく、母は苦労したようです。私もお客さんがきたらうどんを打ったりしていました。配給も量がとても少ないし、弟が3人いるから少しでもあげたくて、自分の食べ物もわけてあげました。

●高校に入ってからくらいですかね、落ち着いて普通の生活を送るように出来たのは。

●疎開でとても生活力を身に付けたと思います。「やればなんでも出来る」という事が良くわかりました。もし家にそのままいたら何でもやってもらえるし、得るものはとても多かったです。どんなことでも前向きにとらえるクセがつきました。やはり苦痛ではありましたよ。意地悪もされましたけど、母の影響も大きく受け、手伝いをしながらいろいろな事を学んだと思います。疎開の時の経験は私の中で本当に大きいものでした。

●今でも物は捨てられないのです。空き箱や裏紙などを使い、折り紙を作ったり、端切れで服を作ったりしています。

鶴嶋謙さん(80) 大正12年生まれ

日時:平成15年11月8日
場所:千葉県船橋市

●東京・本郷の生まれ。家の前に寺田寅彦が住んでいた。

●昭和16年中学入学。戦時色濃い時代だったが、アーティカルな学校だった。教師がみな面白い経歴で、海軍を退役した人、フランスの帰国子女、高名な漢学者の子供などがいた。もちろんご多分にもれず軍事教練はあった。
英語の先生などは「アメリカと戦うなら、アメリカの事を知れ。それには英語を知らないといけない。だからお前たちは英語を習え」と。当時は国としては敵性語だから排斥の機運だったのに。教え方も独自でリーダーを3冊使った。その補助リーダーが世界の歴史などを扱っていて、とても面白い。それで歴史に興味を持った。
同級生はみなラジカルで、「戦争なんて早く終われ」という人が多かった。

●のち早稲田に進む。町で防空訓練があり、出ろ、というので出てみたら信じられない訓練だった。爆弾が落ちると、軍は間に合わないから、市民が消せと。段ボールに火の絵が書いてあり、火を模したつもりか赤いお手玉が3つ置いてあって、そこにバケツで水を掛けるという訓練。あまりのばからしさに笑ってしまった。それでも、みんなくそまじめに訓練している。

●昭和20年、本所の学校に先生として赴任していた。都合が悪くなった同僚に代わって当直をしていた夜、大空襲があった。学校には私一人しかいないから、自分一人で火を消さないといけない。廊下に火のかたまりがどんどん吹き出してくる。どうしようもない、とわかっているのに、そのとき何をしたかというと、防火、消火用に樽に水を貯めて校内各所に置いてあるのだが、『火ばたき』というはたきのようなものを樽の水に突っ込み、一所懸命火を叩いていた。もちろん、何の役にも立たない。ようやく、はっと我に帰り、あわてて消火栓に走ると今度は水がでない。消防署が焼けているので消防車もこない。結局なすすべもなかった。空襲の中を、死ぬと覚悟しながら必死で逃げた。
しかし、あれほど消火訓練を馬鹿にしていたのに、火ばたきなどで懸命に消火しようとしていた自分の姿はおかしくもあり、また怖かった。

□戦前は軍国主義教育、戦後は民主主義教育と劇的に変化する。教師としてどのような葛藤などがあったのだろうか。

●きっと人によって考えは違うし、十人十色ではある。自分の思い通りに仕事をし、収入を得るということは難しい。自分の考えと違っていても、行動をとらなければいけない時がある。戦前(戦時中)がそうだった。それは善悪で判断する問題ではない。結論から言うとあまり抵抗はなかった。
それは「戦争をどうとらえるか」に関係してくる。アメリカとの戦争はある程度しょうがない部分もあったが、私の場合は幸か不幸か開戦前から「日本は負ける」と考えていた。なぜなら、日本は何も生産が出来ないし、原料もない。そういう国が資源豊富な国と戦争するということは、物理的に負ける。
戦争が始まってしまった後は「子供達をあおっていくことはやりたくない」という信念があった。しかし、正面から反対はできない。牢屋にはいるのはもちろん嫌だし、教師という仕事ができないのも困る。かといってノンポリでもなかった。
ではどうするか。こっそりと、戦争の理不尽さを子供に教えるしかなかった。子供は未分化である。そのような人にどう教えたら理解できるか。本当に理解するのは不可能だと思った。結局善悪では教えられないし、状況をきちんと説明する。ずっと後でも良い、その時はわからなくても後から気が付いて欲しかった。
日本人は短いスパンで判断したがるが、長いスパンで考えて初めて総合的に捉えることができる。
戦後になってから、そのような議論を随分した。60年が過ぎて、やっといろいろなことがわかってきたような気がする。

●当時の国民の信条や思想は、地域性や、受けている教育のありかたの違いが大きく左右していた。都会の人間は大学出が多いし、いろいろな経験もあり、整合性のある理屈は身に付けている。冷静に、客観的に物をみるちからはあったとは思う。知識も経験もない人間が「国の興亡はお前たちの肩にかかっている」と言われたら本気にするだろう。私はもちろん死にたくはなかった。けれど、当時の状況の中にほうりだされると、死ぬのも仕方ない、という覚悟はあった。「負けると知っていても、やらざるをえない」という状況で、「いよいよとなったら死ぬしかない」という意識はもたざるを得ない。当時の若者は、国への使命感と、死んで家族と別れるという悲哀感との狭間にあった。

●昭和と現在
人と人で価値観が食い違うのは当たり前。昭和の時代の人々ははそれを互いに認めていた。今は断絶していると思う。


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水野千里(ちさと)さん(82) 大正10年生まれ
2003年11月7日
千葉県船橋市

●朝鮮に生まれ育つ

朝鮮の羅南(中国とロシアの国境、現北朝鮮)に生まれる。父は専売局に勤めていた。小学校(日本人学校)1~5年の時は新義州。校舎は鉄筋3階建てでスチームがあった。6年時に沙里院に移る。朝鮮は全体的に気温は低く、場所により違うが冬は零下20~40度まで下がる。夏は6,7度くらいまでしかあがらない。





上)新義州の小学校 下)沙里院の小学校

●師範学校昭和8年、京城師範学校に入学。入学は難しかった。日本は5年制だが朝鮮は7年制だった。1~6年は寮に住み、7年次は日本人家庭に下宿した。1学年約100人おり、うち20人朝鮮人がいた。彼等はとても優秀だった。スポーツが盛んで、特にラグビーは日本を含み全国一位が3年続いた。泥のグランドがボコボコのまま凍り、その上で練習するからとても強かった。軍事教練はもちろんあった。私は病気をしたのでスポーツではなく書道に力を注いでいた。

●朝鮮での日本人の暮らし日本は朝鮮を植民地としていたので、軍国主義教育は日本よりも激烈だった。日本人は多く、現地の人との交流はなかった。京城では日本人向けの新聞(京城日報)があった。物価は日本と大差なかったと思うが、朝鮮で暮らす人(働く人)は手当として加俸6割されていたから、暮らしは楽であった。「朝鮮貴族」という言葉があったくらい。食事も日本食だし、日本と生活は変わらない。



京城日報

●卒業、すぐ徴兵
昭和16年春卒業(病気で1年休学した)、元山の川内(現北朝鮮)の小学校に赴任。小野田セメントの工場があり、日本人の子供がたくさんいた。同年、20歳の徴兵検査。教師になって1年もしないうちに徴兵、昭和17年1月千葉・佐倉の歩兵第57連隊に配属。本隊が朝鮮の孫呉にあり、4月に門司から日本を後にし、孫呉へ。


●軍隊生活
孫呉は黒竜江の支流から水道を引いていた。水がとても冷たく、洗濯など大変。地面を60cmも掘ると永久凍土が顔をだす。毛皮の帽子に毛糸の手袋で防備した。
最初は二等兵だった。昭和17年11月、予備士官学校試験を受け合格し、豊橋で半年間教育を受ける。見習い士官として18年5月に孫呉へ戻る。2月に少尉となる。
19年4月、孫呉を出て門司から台湾の高雄(3週間滞在)→マニラ(1ヶ月)→ボルネオ・サンダカン→ボルネオ反対側のミリー→シンガポール(1ヶ月)→ジャワ(1ヶ月)→バリ→ロンボック→10月にスンバへと転進した。

予備仕官学校時代

●沈没昭和20年の4月7日、スンバからシンガポールへ向かう巡洋艦五十鈴(陸軍の輸送船がなかった)に搭乗中、魚雷3発を浴び、撃沈された。頭を怪我し、丸太につかまって海上を漂流中に救助され、スラバヤの陸軍病院に入院した。(後で知った事だが、軍艦は沈んだ時のために角材や丸太を積んでいる)この時は多くの仲間が亡くなった。「申し訳ない」という気持ちがあり、本当はこういう話はしたくない。復員後も悪夢に悩まされた。

●終戦へ陸軍病院を1ヶ月で退院し、ジャカルタ、シンガポール経由でマレーシアのクルアン近くのラビスで飛行場警備にあたった。飛行場大隊で、整備などの後方部隊である。そこで終戦を迎えた。私の下に一個小隊を抱え、飛行場に続く一本道にかかる橋は落とされ、電話線は切られての3週間の籠城の後、英軍の捕虜となった。

●捕虜当初、先が見えず不安だったが、結局シンガポール南の無人島に移され、捕虜生活を送ることになった。小屋を建て、畠をおこし、英軍携帯食の1食分を3食分として自活する。何も無い無人島で何でも食べた。蟹を生煮えのまま食べて命を落とす者もあり、果てはアメーバ赤痢が蔓延した。どうしようもなかった。

●復員昭和21年5月、栄養失調状態で名古屋に上陸復員した。すぐ東京下谷の陸軍病院に転送され、父とともにすでに仁川から引き揚げていた母が上京し、病院で白い米の飯を炊いて出された時、涙が溢れた。軍隊生活では、「生きて帰ろう」とは思っていなかったし、自分の行動に疑問を差し挟む余地もなかった。

●教員生活昭和21年8月から本籍地の千葉・安房鴨川にて教員に復職した。終戦から1年経っていたし、捕虜になっていろいろと考えもしたから、民主主義教育にはさほど抵抗はなかったが、それまでの「教え込む教育」から「手をさしのべ手助けする教育」に変わったことでやり方としてとまどいはあった。鴨川での同僚の妻と結婚し、市川市に暮らした。書道を主に教え、小学校の校長や教頭を歴任し、今に至る。書が人よりもちょっと巧い、というだけで随分と助けられた。市川の新設小学校開校に伴い、校長として東奔西走したのがいい思い出。

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板東とし江さん(85) 大正7年生まれ
日時:平成15年11月7日
場所:千葉県船橋市

○お生まれはどちらですか?

上野です。松坂屋で生まれました。

○松坂屋で?

●はい、家がとなりで..ほとんど同じ敷地でしたね。家の目の前はデパートに来る人の自転車置き場でした。

○はぁー...

●家族は、薬剤師の父、母、私の三人でしたが、佃煮屋をしている親戚達と一緒に暮らしておりました。佃煮屋は規模は小さくなりましたけど、今もまだありますよ。

○ずっとそこで育ったのですか?

●はい。幼稚園にも通っていたそうです。ほとんど覚えてませんけれど。和服を着て通ったようですね。小学校は黒門小学校です。ランドセルしょって、洋服で。

○ランドセルは珍しかったのではないですか?その当時は。

●いえ、そうでもないですね。みな使っていましたよ。

○そういう場所で育つと、さぞや都会的な遊びを..

●それがそうでもなくて、湯島天神がすぐ近くだったので、学校が終わるとみんなで、女の子だけでですけれども、天神に行って小川で靴をぬいで川遊びをしていました。もっとも、上野鈴本(演芸場)に裏から入りこんで遊んだりはしていました。顔見知りですしね。友だちの家に行って、車に乗せてもらってどこかに行った覚えもありますね。仲の良い同級生に、有名な福神漬屋の娘さんがいたのですが、その子は遊びに行く時に、お店のレジからお金を持っていくんです。もちろん黙って、ではなくて、親公認ですよ。さすがに羨ましかったですねえ。


臨海学校。前列中央右側が板東さん。

●小学校3年生の時、上級生に交ざって千葉の姉ヶ崎に臨海学校に行ったこともありました。笑いばなしなんですが、両親が送り出したは良いものの、心配で近くの旅館に来て泊まっていたんですね。私もそれを知っていて、両親が帰る時に泣いてしまったり。

○娘さんの一人っ子ですからご心配だったのでしょうね。ところで、小学校の授業はどうでしたか?

●体操が得意で、先頭にたってやっていました。先生も可愛がってくれましてね。活発で朗らかな子供だったと思います。勉強はね、高等女学校を受けることになって、頑張って勉強していましたよ。受験する子は居残って暗くなるまで補習授業をするんですよ。家庭教師もついたんです。

○それで、晴れてご入学を。

●はい、そうなんですが、親戚の人が合格発表の時に勘違いをして、「落ちた」と家に伝えにきたんです。それでワァワァ泣いていたら、間違いだ、ってことがわかって。後で謝りに見えましたけど。笑い話ですね。昭和6年です。

○どういうところなんですか?

●修学旅行で関西に行ったのも楽しい思い出ですね。横浜から神戸まで、大洋丸という船で行くんですが、なんと一等船室なんです。普段接する機会のない、カッコいい船員さんをお部屋に呼んでうるさくして、怒られていた人たちもいたようですよ。関西は奈良、京都、神戸などをまわりました。向こうに着くとね、自動車に分乗して移動するんです。今考えるととても贅沢ですよねえ。横浜を出港する時はね、テープをお見送りの人に飛ばすんですよ。映画とかであるでしょう、ああいう感じです。それがね、修学旅行に行くだけなのに母をみてわんわん泣いてしまって。母も泣いていたと思います。これも笑い話ですね。


修学旅行。

●2.26事件の大雪は良く覚えています。学校で雪投げをして遊んでいたんです。後で事件を知りました。事件と同じ昭和11年に卒業をしました。それからは、家の手伝いや、親戚の佃煮屋さんのお手伝いをしましたね。着物を着て、朝早く髪結いさんの所に行って髪を結ってもらって。一度結うと何日かそのままなんですよ。ほつれに櫛を入れながら何日か形を保つんです。

○その後、ご結婚を。

●はい、昭和15年頃、14,5歳年上の歯医者の主人と結婚しまして、東京の足立区に住みました。男の子を2人授かって、空襲にも遭わずにすんで、幸せな暮らしだったと思います。


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日比谷マツさん(81) 大正11年生まれ
日時:平成15年11月6日
場所:東京都足立区

●生まれ
生まれは東京の足立区小右衛門町(現梅島)です。
農家で、両親、祖母、兄弟姉妹と賑やかな家族でした。

●当時の小右衛門町
その頃は田んぼばかりで、人も少なかったんですよ。はるか遠くまで望め、富士山、筑波山も見えました。家が増えてきたのは戦後になってからですね。

●小学生時代
木造の2階建校舎で、結構ぼろぼろ。地震で傾いたところにつっかえ棒がしてあったりね。階段の下は暗くて怖かったですよ。「お化けが出る」だのなんだのと噂もありました。
服は、みんな着物に下駄ばきです。何人か、裕福な家の子はサージのセーラー服を着ていました。
体操のときは裸足。下駄じゃあ出来ないですからね。真冬もですよ。足の洗い場があるんですが、冬は冷たくて冷たくて。運動靴を持っている人もまれにいましたが、そういう人はもちろん靴のままで体操です。
登下校の時、雪の日は下駄は歩きにくい。下駄の歯の間に雪が詰まるでしょ、落としても落としてもすぐ詰まる。しょうがないので学校を休むと、次の日は「長靴もってないから休んだ」とバカにされるんです。
肩掛けカバンは小学校1年の時に買ってもらったままで、そのうち小さくなるし、ボロボロになってきますよね。でもなかなか買えないので、ほつれを自分で直しながら使いました。完全にダメになると風呂敷です。
着物も、破れても親は忙しくて暇もないので自分でほつれをかがって使いました。
和裁の授業もありました。着物などを縫います。高学年になると大人の浴衣も作れるようになりました。
お弁当はあけてもくれても海苔弁当ばっかり。おかずはほんとにたまにあったくらいで、ほとんど記憶にないですね。町の子は卵焼きとかいろいろなおかずを持ってきていました。

●小学校卒業
尋常小学校を卒業、高等科に行きたかったのですが行けなかった。すぐ畑仕事の手伝いをしました。その頃はそれが当たり前でしたね。


卒業写真。みなおめかししている。当時は男女別クラスだった。
前から3列目中央右側がマツさん。

●子守
卒業してしばらくしてから、浅草の菊屋橋にある襖の材料問屋に住み込みで子守に行きました。大きいところで、従業員や女中さんなど大勢いました。屋敷も広くてトイレは水洗だし、電気はもちろん、ガスはあるし電話もありました。みないい人でしたなね。若旦那の子供をお守りしたのですが、この人もいい人で、海軍にいた頃のお話を聞かせてもらったりしていました。食事も白米に立派なおかずがつくし、実家にいるよりも暮らしは良かったんですよ。
8月になると千葉の御宿に避暑に行くんですが、私も子守で一緒に行きました。優雅と言えば優雅ですよ。結局14から17歳まで3年間おりました。興味深い世界でおもしろかったし、楽しかったです。今でもいい思い出ですね。空襲で燃えてしまったらしいのですが、場所を少しだけ移して、今も営業しているようですね。

●結婚
19歳(昭和16年)の時、親戚にあたる6歳年上の夫(栄蔵さん)と結婚して、同じ町内で暮らし始めました。当時は人手が足りないから、そのために結婚するといった側面もありました。
農家だったので、最初は大変でした。私の家は小さい農家ですし子守もしていたのであまり畑仕事をしたことがなかったのです。慣れても、やはり畑仕事は辛かったです。
そうこうするうちに、主人は結婚してわずか8ヶ月すると出征となってしまいました。

●戦争へ
開戦したときは、「これからどうなるのか」という不安感はありました。最初は勝てると思っていましたが、空襲が頻繁にあるようになってからは、「果たしてこれで勝てるのか」という疑問は出てきました。
食事も配給制になって、お米はもちろん調味料からマッチから何から何まで配給です。農家でしたから作ったものを多少は食べられますが、不作だろうとなかろうと供出もしないといけないのでお米はなかったです。最初は蓄えもありましたけど、すぐにままならなくなりました。

●空襲
小右衛門町は田んぼだらけだったので、爆弾を直接落とされることはなかったです。ですが、一度きり、梅島駅の近くに落ちたことがありました。東武鉄道を狙ったのではないですかね。八百屋があって、その一家は防空壕に避難していたのですが、真上に落ちたんですね。全滅です。娘さんが、忘れ物を取りにいったん外に出た時に、落ちた。それでその娘さんは助かりました。紙一重ですよね..。落ちた後の穴に水がたまって、池のようになっていました。
どこかに空襲があると、照明弾が遠くに見えるんです。それを見ながら「あれは浅草あたりだね」などと近所の人と話をしていました。
昭和20年3月の東京大空襲の時は、夜9時から翌朝まで波状攻撃で、ひっきりなしです。夜中なのに、東の空から西の空まで明るくなってね。爆弾を落として帰るB29が真上を通って行くんです。はっきりと見えます。ジェラルミンがきらきらしてね、本当に怖い。家のごく近くに高射砲陣地があって、その発砲の音がすごかった。その高射砲も飛行機には届いてはいないんですよ。火事で起こった風が南から吹いて、灰や燃えかすが飛んでくるんです。すぐ消火できませんから、それから何日間も夜は火事で明るかったです。
家の辺り一帯は土も浅くて、水も出るし防空壕も掘れなかったんです。畳をかこって隠れるくらいがせいぜいでしたね。空襲があったら大変だったでしょうね。

●終戦
「重大発表がある」と言われ、玉音放送は家で聞きました。負けた、ということはわかりました。悔しさなどよりも、「もう空襲がない」とほっとしました。しかし夫の消息はわからず、不安でした。

●戦死と帰還
南方、ビルマに転戦していた夫の消息はずっとわかりませんでした。戦後、千葉の稲毛で兵隊の消息がわかるところがあったのです。そこに行ってみると、少なくとも昭和20年まで生きていたのはわかりましたが、その後がわかりません。
話は前後しますが、私の兄は太平洋戦争の始まる前に、中国で戦死しました。まじめで家族思いの優しい兄で、両親のことをとても心配していました。「戦争から無事に帰ったら、良い家を建てて親を住まわせる」と言っていたんですよ。それだけに戦死に両親はそれはもう嘆き悲しんで。戦死公報が来た時は夕飯も食べず、家族皆で泣いてそのまま一日が終わりました。戻って来たものは血だらけの千人針とハンカチ、腕時計。そして骨の破片が少しだけでした。
稲毛に夫の消息を確認に行ったとき、弟も見つかったのですが、名前は赤線で消されていたんです。それで戦死がわかりました。沖縄で玉砕したとのことでした。名前を書いた紙がただ来ただけでした。
そして昭和22年でしたでしょうか、夫が何の前触れもなく、ひょっこり帰って来ました。ビルマで抑留されていて、貨物船に乗り20日以上かけて広島まで帰りついたそうです。
色も真っ黒で、兵に取られてから6年が経っていましたから、最初は「誰?」と。夫もそうだったみたいですね。「おばちゃんになったな」って。「お互い様だね」って笑ったものです。

●それから
しばらくは農業をしていましたが、戦争前から、働き手がいなくて田んぼを減らしていたのでそれだけではやっていけないんですね。それで、機械を買って、家でプレス加工の仕事を始めました。今から8年ほど前に主人は亡くなりましたが、そのままずっとここで暮らしています。


一家総出で苗代。昭和20年後半頃の小右衛門町。中央がマツさん、
後方左側がご主人の栄蔵さん。

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伊東ゆきさん(78) 大正14年生まれ
日時:平成15年11月5日
場所:千葉県船橋市

●芝に生まれる
生まれも育ちも芝です。両親とも東京で、結構珍しいと思います。江戸っ子ですね。
左官職人の父と、母、兄、姉、妹3人に弟が1人とにぎやかな9人家族でした。

●小学校
小学校は、普段は洋服でした。アイロンはなかったですから、毎晩布団でスカートの寝押しをしていたのを思いだしますね。旗日は今と違って、学校に行って式があるんです。そういう時は着物、袴です。
小学校は一組で35~40人くらいでしたでしょうか。耳を病気していて、みんなとなかなか遊べなかったのは残念でした。6年生の時に手術をして、それきり左耳は聞こえなくなってしまいました。

●日常
家は2階屋です。住んでいたあたりは、同じような家が密集して建っておりました。
冷蔵庫があったのですが、当時は氷を使うんです。毎日氷を買って、冷蔵庫の中の棚に氷を二つ入れるんです。
お風呂はなかったです。風呂付きの家は少なかったと思いますね。近くに銭湯が3つあって、今日はあっち、というふうに日によって違う所にいったり。父はお風呂が大好きで、仕事がない日は朝からお風呂に入っていましたね。
当時、芝の増上寺の隣に『からす山』っていう山があったんですよ。「山に入ると迷い込んで帰ってこられない」と言われていて、頂上の方までは行けませんでした。戦時中はそこに軍が大きい防空壕を掘りました。いつのころでしょうか、無くなりましたね。

●働く
小学校を卒業すると、夜学に通いながらすぐ働きに出ました。当時はそれが当たり前でしたね。うちは家族も多いですし。浜松町の大門で印刷職工として働き、活字のヤスリがけをしていました。仕事を嫌だと思ったことはないですねえ。仕事場でも嫌な思いをしたことはないです。
戦争が終わるまで働きました。戦時中もずっと働いたんですよ。戦時中は、男の人がみな兵隊にとられていないので、力仕事もしました。空襲後は阿佐ヶ谷に住みましたが、空襲などで朝鉄道が走らないと、阿佐ヶ谷から浜松町の大門まで歩いて通ったこともあります。

●満州事変
姉の子供が小さいときに、子守の為に横浜にひと月ほどいたことがありました。満州事変の時は、それは大騒ぎで、「勝った、勝った」と提灯行列をしたのを覚えています

●太平洋戦争へ
夜学に通っている時から、既に体操の時間は軍事教練がありましたよ。槍など訓練しました。シナ事変等を通して、「日本は強い国」という印象がありました。
太平洋戦争が始まるまでは特に食生活は変わらず、お菓子(おせんべい、パンのようなお菓子、あんこ玉、和菓子など)もあったし、食事も白米です。
開戦時も日本は負けるとは思ってなかったです。もうみなそういう雰囲気ですよ。
しかし、食事がだんだん変わってきます。配給制になり、とうもろこしやさつまいも、コーリャンなどが配給されるようになって来ました。コーリャンはおいしくなかったですね。まだ小学校低学年くらいだった弟は夜中に「お腹がすいた」と言って、父に怒られていましたね。
埼玉の親戚が住んでいる方へ姉と一緒に良く買い出しに行きました。着物と交換するのです。帰りの列車で検査があるんです。警官がリュックを棒でつつくんですね。米があると音でわかるんですよ。私と姉は米を芋と芋の間に隠して運んで、ついに見つかることはありませんでした。

●空襲
昭和20年になると、空襲が頻繁に起きるようになりました。飛行機が家の屋根ぎりぎりまで飛んでくるんです。空襲警報がなると、とにかく女子供は「芝公園へ行け!」って、先ほどお話した『からす山』の防空壕に逃げ込みます。大きい壕で、廊下も大人が5,6人並んで歩けたのではないでしょうか。家の下にも防空壕が掘ってあって、父はそちらに避難するのです。
そしてとうとう、芝も爆弾でやられました。焼夷弾ではなかったんですが、爆弾が家のすぐ近くの防空壕に落ちまして、そうですね、10畳くらいでしょうか...そのくらいの穴があきました。防空壕から家に戻ってみると、爆風できれいに2階だけが無くなっていました。1階は家具も何も大丈夫だったんですよ。父は家の下の防空壕にいて無事、兄は隣の家の柱に足を挟まれたのですが怪我もなく、小さい兄は軍需工場で働いていて無事、弟は志願兵として北海道にいて無事でした。家族みなが無事だったんです。
爆弾で亡くなった人たちの亡骸を、リヤカーで運んで、お寺のすみに並べてあるのを見たことがあります。腕がなかったり、顔がなかったり。それでも服だけは着ていて。忘れられない光景ですね。
芝の家には住めなくなったので、阿佐ヶ谷に移りました。兄は所帯もあったので、隣の高円寺で家を買いました。1軒100円でした。

●終戦
職場で「今日は天皇の放送があるぞ」とひとつの部屋に集まり、玉音放送を聞きました。聞き取りにくかったですが、戦争が負けたということはわかりました。悔しさなどよりも、何も考えられずぼーっとしていたのを覚えています。

●恋人
好きな人がいました。彼が兵隊に行く時に家にお別れに来ました。昭和20年の5月に出征、7月に南方で船に乗っていて、戦死しました。戦争が終わる直前に召集されて戦死ですよ。
本当に好きでした。まさに一生に一度の恋でした。彼が兵隊にとられてからは毎日泣いて泣いて。成田から移動を告げる連絡があって、彼の母と一緒に会いに行きました。それが最後だったんです。戦争が終わっても生死がわからなくて、仕事をしながらも、通知がないか毎日気にしていました。無事に帰還したら結婚するつもりでした。
昭和23年になって、「戦死」との通知が来ました。24歳でした。骨箱だけ増上寺に来たのですが、もう立ち上がることも出来なくて、兄が取りにいってくれました。骨箱を開けてみると、頭の毛とネクタイピンと..。後一つ何でしたか、それだけが入っていました。恐らく遺品用に、乗船前に前もって集めていたんではないでしょうかね。辛くて辛くて、家族と話しも出来なかったです。「何で戦争を始めた」とも思いました。
今でもね、戦争の思い出とともに彼の事はどうしても思い出しますね。

●『リンゴの唄』
職場から近かったので銀座にもすぐ行けるのですが、日本人の女の子がアメリカ兵と腕を組んで歩いているんですよ、それは嬉しそうにね。もう、その姿を見るのが嫌で嫌で。私の好きだった人はアメリカのせいで戦死までしているのに、って。『リンゴの唄』がありますでしょう。あの歌と、その光景がどうしても一緒になるんです。今でも『リンゴの唄』は大嫌いな歌です。

●戦後
23歳の時に結婚しました。姉に「嫁に行っていないのはあなただけだ」とも言われて。当時はね、結婚てそういうものです。こう言ってしまうとなんですけど、好きでも何でもない人と結婚しました。
戦後すぐの頃はね、「軍人の写真を持っているとみな殺しにされる」と言われていたんですよ。後で思うとたわいない噂ですけれど。それで、恋人の写真も処分したのですが、実は1枚だけ隠し持っていたんです。けれど、いつまでも引きずっていてもいけないし、一大決心で最後の1枚の写真も燃やしました。

●今振り返っても、恋人が出征して亡くなったのと、爆弾で家の2階がふっとんだ事は大きな事柄として心にあります。
2度と戦争は嫌です。

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馬場金作さん(85)大正7年生まれ
日時:平成15年11月5日
場所:千葉県白井市

●少年時代
茨城鹿島の農家に生まれた。とにかく元気な子供で、上級生と喧嘩をして勝ち一目置かれていた。つまりガキ大将。メンコも強かった(ベーゴマはまだなかった)。2銭でメンコが10枚くらい買えた。最初だけ買ったが、勝つと相手のメンコを取ることができるので最終的には手持ちのメンコも多くなった。
畑の手伝いもした。電気はなかったからランプを使う。学校から帰るとまずランプに石油をいれて、ガラスの筒を掃除する。それに風呂焚き、薪割りも。家の山があったから、薪も拾った。やらなければならない仕事をちゃんとやってから遊びに行った。
川釣りが好きで、フナを良く釣った。小さいのは佃煮、大きいのは煮て食べるから、ちゃんとおかずにもなる。夏には、学校からそのまま海に行ってひと泳ぎして帰る。1kmくらいは泳げた。鹿島灘は波も荒かったが、遙か沖まで泳ぎに出た。
小学校は1学年で50人くらい。男は11人しかいなかった。着物を着て、足は草履。5km離れていた学校に歩いて通った。雨がふると泥道になるから、裸足で行く。雪が降っても裸足だった。寒くはなかった。先生に殴られたこともあるし、わんぱくだった。
弁当は日の丸弁当かおにぎりだった。
今の子供はいくじがない。人に言われたままのことしかしない。盗んだり、人を傷つけたりは昔はなかった。喧嘩はあったけれど。

●卒業
小学校を卒業して高等科に進んだ。高等科も卒業すると、家で畑の手伝いをした。父がとても喜んでいた。畑仕事は苦にはならない。卒業したら当たり前と思っていた。

●徴兵
20歳になると義務で兵隊検査をする。体重から何から検査。甲乙丙と三段階あるが、甲種合格だった。戦争にいくというのは当時名誉だった。教育もそうだった。陛下のため、お国のため、と。軍国主義にこりかたまっていた。だから鼻高々だった。
昭和13年、21歳の時に徴兵。これで一人前の人間になったな、と嬉しかった。家は人手が足りなくなるが、家族も困った素振りは見せないし、見せられない。
麻布三連隊に歩兵として入隊した。3ヶ月訓練をまずするのだが、とても厳しかった。一班に30人いるが、誰かのミスも班全員の連帯責任で、スリッパで毎晩ビンタをくらった。その時の傷がまだ残っている。殴るのはせいぜい上等兵程で、それがまた悔しい。殺してやろうと寝る時に考えた事も何度もあった。今では「馬鹿だなあ、そんな無理な仕打ち、聞かなければいい」とも言われるが、当時は上官の命令すなわち陛下の命令だった。
行軍もつらい。15kgくらいの荷物を背負い小銃を持ち、45分で6km歩き15分休憩してまた歩く、の繰り返し。途中で倒れると衛生兵がつれていくが、その後、さんざん殴られる。

●中国へ
訓練が終わると外地へ。外地はつらさにおいて訓練よりまだましだった。汽車で広島に行き、そこから船で玄界灘を渡り上海へ。それから揚子江を遡上して、北京へ行った。鹿島では漁師の船にのっていたから船は平気だった。馬も船に乗るが、人よりも良いところにいる。「お前らは1銭5厘(ハガキ代)で買えるが、馬は3銭」と上官に言われた。
北京で警備隊に配属。中国兵の夜襲に備える。6ヶ月いた。転属して上海に戻り、上海警備隊となった。北京と上海は全然違う。北京は建物も壊れ、人もいない。上海は国際都市で、治安が安定していた。関東軍と上海市長と協定を結んでいて、いわば中立地帯でのんびりしていた。そこに日本から兵隊用に食べ物、衣料などが届く。それをさばく事務方になった。結局兵役を終えるまでいた。
安全なかわりに1年の兵役はそのまま1年と数えられる。危険なところだと、1年が3年として数えられる。私は純に3年しか数えられないから、恩給がでなかった。けれど死んだら何にもならなかったと今は思う。
上海などでしか使えない軍票が支給される。一・二等兵は月に7円70銭、上等兵は10円24銭だった。夜は外出できないし、使うところもない。軍で通帳が発行されていて、貯金していた。

●帰還
3年間過ごして昭和16年の8月か10月に帰国した。結局中国では危ない目には遭わなかった。帰国は嬉しかった。地元では歓迎されたし、家族は泣きながら喜んだ。しかし、父の姿が見えない。昭和15年に亡くなっていた。日本に帰って初めて父の死を知った。ショックだった。すぐ下の弟は兵にとられて、家には母、弟、妹しかいない。
鉾田飛行場が出来たので、鹿島の家は強制退去、畑は没収され麻生町に移っていた。
半年ほど休んでから、在郷軍人として役場の所属で指導員をした。兵隊直前の人たちを訓練する。その時は自分の訓練時代の経験もあるから、怒鳴るくらいで殴りはしなかった。

●太平洋戦争
開戦を聞いて「やった」と思った。負けるとは思っていなかった。役場から必要な人物だから、と「招集延期願い」がでていて、私は徴兵されなかった。
家の近隣には北浦航空隊、土浦航空隊、鉾田飛行場などが多かったから、昭和17,18年くらいから頻繁に爆撃された。空襲は終戦間近まであった。
敵が上陸するから、といって女性を集めて竹槍の訓練をした。教えながらも「竹槍で相対するような敵ではない」とは知っていた。志気を上げるだけ。アメリカ兵からの乱暴を避けるため、の意味もあることはあったが、心の底からやろうとは思わなかった。戦争後半からは「勝てる訳がない」と思った。
弟は志願兵で出征した。志願兵だと18歳くらいから兵隊する。19年にニューギニアで戦死した。戦死公報は昭和20年の7月頃にきた。母はとても消沈していた。近所の手前、そんな姿は見せられなかった。

●終戦
玉音放送は聞き取りづらかったが、「ポツダム宣言受諾」は聞こえたし、敗戦したとわかって聞きながら涙を流した。しかしその一面「これで爆撃がない」とほっとした。

●その後
昭和21年に関東鉄道自動車部に就職し、定年まで勤めた。
28歳の頃、3歳年下の夫人と結婚した。式は家で。当時はだいたい新郎の家で式をした。

●テレビ
テレビが出てすぐ、購入した。25万円くらいしたと思う。当時珍しかったが、周りでは10軒に1軒くらいの割合であったとは思う。力道山の試合は近所の人達も部屋にあがって一緒にみた。その頃は近所の子供も自分の子供のようだったし、家族同然の近所付き合いをしていた。放送はNHKしかなかった。「おはなはん」などを覚えている。

●「戦争は絶対にやらないこと。良いことは一つもない」


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