南條勝子さん(90)大正2年生まれ
冨岡八重さん(87)大正5年新潟生まれ
日時:平成15年10月30日
場所:千葉県船橋市
●南條さん
生家は徳川家の大曽根屋敷の中でした。祖父が徳川家に仕えていたそうです。父がいつの頃か、馬から落ちて腕を怪我して、曲がったままになってしまったんですね。それで徳川家の方が「ずっと面倒をみる」と。
○冨岡さん
私は新潟の高浜、(今は柏崎)というところです。海岸の方で、佐渡が見えるところでした。
●南條さん
子供の頃、夜は真っ暗でしょう。夜にお手洗いに行く時に怖くてねえ。母にぼんぼりを持ってついてきてもらいました。便器が唐草模様だったんですよ。それが余計怖くてねえ。障子にね、竹の影が映るんです。それがさわさわと揺れるんですよね。もう怖くてねぇ。
○冨岡さん
そう、そう。お手洗いはね、家の中にあることはあるんだけど、遠くて暗くて。怖いといえばね、お祭りの時のお獅子は怖かったです。
●南條さん
お祭りに行くと祖母が「見るだけだよ、見るだけだよ」というんです。そんなお祭りで売っているようなものを買ったり、食べたりなんてとんでもない、ということなんですね。我慢して母の袂につかまって帰りました。貧乏ということではなくてね、厳しかった、という事ですね。
そういえば、子供の頃はお金を持った事なんてなかったですね。お年玉も親に渡しました。お菓子はね、お正月のお餅があるでしょ。それを小さくして干しておいて、長火鉢で祖母が煎ってくれるんですよ。
●夕方5時になると家に帰されました。外も明るくてまだ遊びたいのに。ですので、鬼ごっこなどもしたことがなかったですね。
●魚屋さんが天秤に岡持をもって魚を売りに来ました。干物ではなく生の魚です。その場でも買えるし、「何時に切り身にして」とお願いすると、そのようにして持ってきてくれましたね。昭和になってからも、豆腐屋はラッパをふいておなじように天秤をかついで売りにきました。味噌汁用に賽の目にするとか、希望に応じて切ってくれました。小学生が自転車に乗って、つと納豆(藁の納豆)も売りにきました。3銭か5銭だったですか。からしを持っていて、つけてくれました。昭和10年頃ですかねえ。
○冨岡さん
その頃と言えばね、家の客間に長火鉢がありましたね。いろりも。新潟は寒いせいかどの家にも割とありましたよ。寒いと言えば、雪は多いです。一番積もった時は屋根から降りたこともあります。夏は暑いですが、家は広かったから戸を開け放しておくと風が通って家の中は割合暑くはなかったです。
上京と結婚
●南條さん
6歳の時に東京の麻布に行って、女学校を出るまでいました。小学校の後山脇学園にいきまして。当時女学校に行く人は少なく、毎日居残って補習授業をしてましたね。帰りは暗くなるので母が提灯を持って迎えに来ました。山脇学園は市電に乗って通いました。天現寺から乃木坂まで。
○冨岡さん
近かったんですねぇ。私のところだと高校に行く人は4km自転車に乗り、それから電車にのって柏崎に行きました。
○私が上京したのは昭和8年頃ですね。東京で商売をしていた兄の所に身を寄せたんです。裁縫の先生の所に通いました。今で言う塾みたいなかんじかな...まぁ花嫁修業ですね。
●南條さん
22歳の時、昭和10年にお見合いで結婚しました。7つくらい年上の方です。祖母が亡くなる迄は結婚しないと決めていたんですが、3月に亡くなりまして。お見合いの時は恥ずかしくてずっと足下しかみていません。東中野の日本閣で式を挙げたんですが、その時に顔合わせをして「結婚するのはこの人なのか」と思ったくらいです。式がすんで帰ると、「せっかく着物を着ているからそのままご挨拶まわりに行きなさい」と言われ、とても恥ずかしかったのですがそのままご近所へ挨拶にまわりました。
阿佐ヶ谷に住んだのですが、お風呂がなくて、生まれて初めて銭湯に行きましたよ。しばらくしてお風呂を家に造りましたけど。檜の角風呂でした。マキで湯を沸かすんです。マキの割り方も教わりました。その後、石炭で沸かすようになりましたけど、それも最初の火つけはマキでしたね。煙突があって、掃除屋さんがいつも真っ黒になって掃除してくれました。
すのこを洗うのが大変で。木でしたからね。風呂桶もね。
そうそう、当時髪の毛に形を付けるのに”こて”を使ったんですよ。火鉢にかざして熱くするんです。
○冨岡さん
数えで22歳の時に結婚しました。お見合いではなく、お知り合いの方と。
私の所は風呂はありまして、もらいにくる人がいましたよ。「どうぞ~」と声をかけて、入ってもらって。あがった後にお茶を飲んで帰ったりね。
戦争
○冨岡さん
息子がお腹にいる時に数えで29歳だった主人が補充兵で召集されました。昭和15年です。3ヶ月教育を受け、出征する直前に家に寄った時に、生まれていた息子と対面出来ました。中国で戦死したらしいのですが、公報がこないんです。戦友が遺品をもって来てくれたんですね。
後に、新聞に主人が亡くなる時の様子が記事になっているのを孫が探し出してくれたんです。ちゃんと名前も出ていました。中国の戦死した場所にも行ってきました。
●南條さん
19年、主人に赤紙が来ました。どうなることかと思っていたら、とられたその日に帰ってきたんです。歯医者だったので、考慮されたのでしょうか。ご近所の手前、大っぴらには喜べなかったですが嬉しかったです。
○冨岡さん
私の兄にも赤紙が来たんですが、外地に行かないで無事に帰ってきました。遅くに赤紙が来た人はおそらくほとんど無事だったのではないですか。
○戦争時、自営業(家具屋)を営んで日暮里にいたんですが、20年3月の空襲で家は焼けました。そのころは家族みな新潟に疎開していて大丈夫でした。日暮里にいるときは空襲警報とか怖かったですね。寝る時はすぐ動けるようにゲートルを撒いて寝ました。遠くの場所でも、空襲があると空が赤々と燃えて見えて、怖かった。
●南條さん
庭に防空壕を掘れ、と言われましたね。
○冨岡さん
そうそう。
●南條さん
お年寄りは新潟に疎開したのですが、私の家族は阿佐ヶ谷にそのままおりました。幸いに家は空襲にも耐えて、残りました。
○冨岡さん
新潟に疎開したときは静かで、「本当に戦争をしているのか」と思いました。最後は長岡に空襲はありましたけれども。
●南條さん
雑炊も配給制になり、並びました。最初は雑炊は濃いのですが、列も後ろの方になると、水を入れて増やすから、まるで水のような雑炊でしたねえ。雑炊といってもほとんど草などで、米はほとんどなかった。麦をつぶしたようなものが入ってました。
○冨岡さん
家族は14人いましたから、食べるものに困りました。自分の山にサツマイモを植えたのですが、それすら供出しろ、と言われましたよ。
●南條さん
芋をいろんなところに育てました。葉が立派になって、「これは大きい芋が出来る」と思うと、大きいのは葉ばっかりで芋はとても小さかったです。
○冨岡さん
戦争が終わる直前は米のかわりに砂糖が配給されたんですよ。農家は木綿が大事だから、木綿を持っていって米と交換していました。千葉へ芋の買い出しにいったことがあります。
○指輪も銀貨もみな供出しました。隠していた人もいましたよ。私は馬鹿正直だったんでしょうかね。火鉢がありまして、中は真鍮なのですが、それも出しました。
●南條さん
うちにも瀬戸物の丸火鉢があって、お客さんが来ると渡して暖まってもらいましたね。
供出といえば、蚊帳の釣りカギまでも出しましたよ。
終戦
●南條さん
終戦後子供が大福をもらったことがあったんですが、それがお菓子とは知らないから、ただ持っているだけでどう食べるのか困っていましたね。笑い話ですけれども。
○冨岡さん
戦後もしばらくは何かを直すにしても、直すヒモがないくらい物がなかったですよね。
●南條さん
当時は物を大事にして、なかなか捨てられなかったですよね。今もそうです。下駄も歯がすり減るまで履きました。
○冨岡さん
疎開していたときに、履くものがないので父が藁で長靴を編んでくれたことを覚えています。

冨岡八重さん(87)大正5年新潟生まれ
日時:平成15年10月30日
場所:千葉県船橋市
●南條さん
生家は徳川家の大曽根屋敷の中でした。祖父が徳川家に仕えていたそうです。父がいつの頃か、馬から落ちて腕を怪我して、曲がったままになってしまったんですね。それで徳川家の方が「ずっと面倒をみる」と。
○冨岡さん
私は新潟の高浜、(今は柏崎)というところです。海岸の方で、佐渡が見えるところでした。
●南條さん
子供の頃、夜は真っ暗でしょう。夜にお手洗いに行く時に怖くてねえ。母にぼんぼりを持ってついてきてもらいました。便器が唐草模様だったんですよ。それが余計怖くてねえ。障子にね、竹の影が映るんです。それがさわさわと揺れるんですよね。もう怖くてねぇ。
○冨岡さん
そう、そう。お手洗いはね、家の中にあることはあるんだけど、遠くて暗くて。怖いといえばね、お祭りの時のお獅子は怖かったです。
●南條さん
お祭りに行くと祖母が「見るだけだよ、見るだけだよ」というんです。そんなお祭りで売っているようなものを買ったり、食べたりなんてとんでもない、ということなんですね。我慢して母の袂につかまって帰りました。貧乏ということではなくてね、厳しかった、という事ですね。
そういえば、子供の頃はお金を持った事なんてなかったですね。お年玉も親に渡しました。お菓子はね、お正月のお餅があるでしょ。それを小さくして干しておいて、長火鉢で祖母が煎ってくれるんですよ。
●夕方5時になると家に帰されました。外も明るくてまだ遊びたいのに。ですので、鬼ごっこなどもしたことがなかったですね。
●魚屋さんが天秤に岡持をもって魚を売りに来ました。干物ではなく生の魚です。その場でも買えるし、「何時に切り身にして」とお願いすると、そのようにして持ってきてくれましたね。昭和になってからも、豆腐屋はラッパをふいておなじように天秤をかついで売りにきました。味噌汁用に賽の目にするとか、希望に応じて切ってくれました。小学生が自転車に乗って、つと納豆(藁の納豆)も売りにきました。3銭か5銭だったですか。からしを持っていて、つけてくれました。昭和10年頃ですかねえ。
○冨岡さん
その頃と言えばね、家の客間に長火鉢がありましたね。いろりも。新潟は寒いせいかどの家にも割とありましたよ。寒いと言えば、雪は多いです。一番積もった時は屋根から降りたこともあります。夏は暑いですが、家は広かったから戸を開け放しておくと風が通って家の中は割合暑くはなかったです。
上京と結婚
●南條さん
6歳の時に東京の麻布に行って、女学校を出るまでいました。小学校の後山脇学園にいきまして。当時女学校に行く人は少なく、毎日居残って補習授業をしてましたね。帰りは暗くなるので母が提灯を持って迎えに来ました。山脇学園は市電に乗って通いました。天現寺から乃木坂まで。
○冨岡さん
近かったんですねぇ。私のところだと高校に行く人は4km自転車に乗り、それから電車にのって柏崎に行きました。
○私が上京したのは昭和8年頃ですね。東京で商売をしていた兄の所に身を寄せたんです。裁縫の先生の所に通いました。今で言う塾みたいなかんじかな...まぁ花嫁修業ですね。
●南條さん
22歳の時、昭和10年にお見合いで結婚しました。7つくらい年上の方です。祖母が亡くなる迄は結婚しないと決めていたんですが、3月に亡くなりまして。お見合いの時は恥ずかしくてずっと足下しかみていません。東中野の日本閣で式を挙げたんですが、その時に顔合わせをして「結婚するのはこの人なのか」と思ったくらいです。式がすんで帰ると、「せっかく着物を着ているからそのままご挨拶まわりに行きなさい」と言われ、とても恥ずかしかったのですがそのままご近所へ挨拶にまわりました。
阿佐ヶ谷に住んだのですが、お風呂がなくて、生まれて初めて銭湯に行きましたよ。しばらくしてお風呂を家に造りましたけど。檜の角風呂でした。マキで湯を沸かすんです。マキの割り方も教わりました。その後、石炭で沸かすようになりましたけど、それも最初の火つけはマキでしたね。煙突があって、掃除屋さんがいつも真っ黒になって掃除してくれました。
すのこを洗うのが大変で。木でしたからね。風呂桶もね。
そうそう、当時髪の毛に形を付けるのに”こて”を使ったんですよ。火鉢にかざして熱くするんです。
○冨岡さん
数えで22歳の時に結婚しました。お見合いではなく、お知り合いの方と。
私の所は風呂はありまして、もらいにくる人がいましたよ。「どうぞ~」と声をかけて、入ってもらって。あがった後にお茶を飲んで帰ったりね。
戦争
○冨岡さん
息子がお腹にいる時に数えで29歳だった主人が補充兵で召集されました。昭和15年です。3ヶ月教育を受け、出征する直前に家に寄った時に、生まれていた息子と対面出来ました。中国で戦死したらしいのですが、公報がこないんです。戦友が遺品をもって来てくれたんですね。
後に、新聞に主人が亡くなる時の様子が記事になっているのを孫が探し出してくれたんです。ちゃんと名前も出ていました。中国の戦死した場所にも行ってきました。
●南條さん
19年、主人に赤紙が来ました。どうなることかと思っていたら、とられたその日に帰ってきたんです。歯医者だったので、考慮されたのでしょうか。ご近所の手前、大っぴらには喜べなかったですが嬉しかったです。
○冨岡さん
私の兄にも赤紙が来たんですが、外地に行かないで無事に帰ってきました。遅くに赤紙が来た人はおそらくほとんど無事だったのではないですか。
○戦争時、自営業(家具屋)を営んで日暮里にいたんですが、20年3月の空襲で家は焼けました。そのころは家族みな新潟に疎開していて大丈夫でした。日暮里にいるときは空襲警報とか怖かったですね。寝る時はすぐ動けるようにゲートルを撒いて寝ました。遠くの場所でも、空襲があると空が赤々と燃えて見えて、怖かった。
●南條さん
庭に防空壕を掘れ、と言われましたね。
○冨岡さん
そうそう。
●南條さん
お年寄りは新潟に疎開したのですが、私の家族は阿佐ヶ谷にそのままおりました。幸いに家は空襲にも耐えて、残りました。
○冨岡さん
新潟に疎開したときは静かで、「本当に戦争をしているのか」と思いました。最後は長岡に空襲はありましたけれども。
●南條さん
雑炊も配給制になり、並びました。最初は雑炊は濃いのですが、列も後ろの方になると、水を入れて増やすから、まるで水のような雑炊でしたねえ。雑炊といってもほとんど草などで、米はほとんどなかった。麦をつぶしたようなものが入ってました。
○冨岡さん
家族は14人いましたから、食べるものに困りました。自分の山にサツマイモを植えたのですが、それすら供出しろ、と言われましたよ。
●南條さん
芋をいろんなところに育てました。葉が立派になって、「これは大きい芋が出来る」と思うと、大きいのは葉ばっかりで芋はとても小さかったです。
○冨岡さん
戦争が終わる直前は米のかわりに砂糖が配給されたんですよ。農家は木綿が大事だから、木綿を持っていって米と交換していました。千葉へ芋の買い出しにいったことがあります。
○指輪も銀貨もみな供出しました。隠していた人もいましたよ。私は馬鹿正直だったんでしょうかね。火鉢がありまして、中は真鍮なのですが、それも出しました。
●南條さん
うちにも瀬戸物の丸火鉢があって、お客さんが来ると渡して暖まってもらいましたね。
供出といえば、蚊帳の釣りカギまでも出しましたよ。
終戦
●南條さん
終戦後子供が大福をもらったことがあったんですが、それがお菓子とは知らないから、ただ持っているだけでどう食べるのか困っていましたね。笑い話ですけれども。
○冨岡さん
戦後もしばらくは何かを直すにしても、直すヒモがないくらい物がなかったですよね。
●南條さん
当時は物を大事にして、なかなか捨てられなかったですよね。今もそうです。下駄も歯がすり減るまで履きました。
○冨岡さん
疎開していたときに、履くものがないので父が藁で長靴を編んでくれたことを覚えています。
