22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2003年10月

南條勝子さん(90)大正2年生まれ
冨岡八重さん(87)大正5年新潟生まれ
日時:平成15年10月30日
場所:千葉県船橋市

●南條さん
生家は徳川家の大曽根屋敷の中でした。祖父が徳川家に仕えていたそうです。父がいつの頃か、馬から落ちて腕を怪我して、曲がったままになってしまったんですね。それで徳川家の方が「ずっと面倒をみる」と。

○冨岡さん
私は新潟の高浜、(今は柏崎)というところです。海岸の方で、佐渡が見えるところでした。

●南條さん
子供の頃、夜は真っ暗でしょう。夜にお手洗いに行く時に怖くてねえ。母にぼんぼりを持ってついてきてもらいました。便器が唐草模様だったんですよ。それが余計怖くてねえ。障子にね、竹の影が映るんです。それがさわさわと揺れるんですよね。もう怖くてねぇ。

○冨岡さん
そう、そう。お手洗いはね、家の中にあることはあるんだけど、遠くて暗くて。怖いといえばね、お祭りの時のお獅子は怖かったです。

●南條さん
お祭りに行くと祖母が「見るだけだよ、見るだけだよ」というんです。そんなお祭りで売っているようなものを買ったり、食べたりなんてとんでもない、ということなんですね。我慢して母の袂につかまって帰りました。貧乏ということではなくてね、厳しかった、という事ですね。
そういえば、子供の頃はお金を持った事なんてなかったですね。お年玉も親に渡しました。お菓子はね、お正月のお餅があるでしょ。それを小さくして干しておいて、長火鉢で祖母が煎ってくれるんですよ。

●夕方5時になると家に帰されました。外も明るくてまだ遊びたいのに。ですので、鬼ごっこなどもしたことがなかったですね。

●魚屋さんが天秤に岡持をもって魚を売りに来ました。干物ではなく生の魚です。その場でも買えるし、「何時に切り身にして」とお願いすると、そのようにして持ってきてくれましたね。昭和になってからも、豆腐屋はラッパをふいておなじように天秤をかついで売りにきました。味噌汁用に賽の目にするとか、希望に応じて切ってくれました。小学生が自転車に乗って、つと納豆(藁の納豆)も売りにきました。3銭か5銭だったですか。からしを持っていて、つけてくれました。昭和10年頃ですかねえ。

○冨岡さん
その頃と言えばね、家の客間に長火鉢がありましたね。いろりも。新潟は寒いせいかどの家にも割とありましたよ。寒いと言えば、雪は多いです。一番積もった時は屋根から降りたこともあります。夏は暑いですが、家は広かったから戸を開け放しておくと風が通って家の中は割合暑くはなかったです。

上京と結婚

●南條さん
6歳の時に東京の麻布に行って、女学校を出るまでいました。小学校の後山脇学園にいきまして。当時女学校に行く人は少なく、毎日居残って補習授業をしてましたね。帰りは暗くなるので母が提灯を持って迎えに来ました。山脇学園は市電に乗って通いました。天現寺から乃木坂まで。

○冨岡さん
近かったんですねぇ。私のところだと高校に行く人は4km自転車に乗り、それから電車にのって柏崎に行きました。

○私が上京したのは昭和8年頃ですね。東京で商売をしていた兄の所に身を寄せたんです。裁縫の先生の所に通いました。今で言う塾みたいなかんじかな...まぁ花嫁修業ですね。

●南條さん
22歳の時、昭和10年にお見合いで結婚しました。7つくらい年上の方です。祖母が亡くなる迄は結婚しないと決めていたんですが、3月に亡くなりまして。お見合いの時は恥ずかしくてずっと足下しかみていません。東中野の日本閣で式を挙げたんですが、その時に顔合わせをして「結婚するのはこの人なのか」と思ったくらいです。式がすんで帰ると、「せっかく着物を着ているからそのままご挨拶まわりに行きなさい」と言われ、とても恥ずかしかったのですがそのままご近所へ挨拶にまわりました。
阿佐ヶ谷に住んだのですが、お風呂がなくて、生まれて初めて銭湯に行きましたよ。しばらくしてお風呂を家に造りましたけど。檜の角風呂でした。マキで湯を沸かすんです。マキの割り方も教わりました。その後、石炭で沸かすようになりましたけど、それも最初の火つけはマキでしたね。煙突があって、掃除屋さんがいつも真っ黒になって掃除してくれました。
すのこを洗うのが大変で。木でしたからね。風呂桶もね。
そうそう、当時髪の毛に形を付けるのに”こて”を使ったんですよ。火鉢にかざして熱くするんです。

○冨岡さん
数えで22歳の時に結婚しました。お見合いではなく、お知り合いの方と。
私の所は風呂はありまして、もらいにくる人がいましたよ。「どうぞ~」と声をかけて、入ってもらって。あがった後にお茶を飲んで帰ったりね。

戦争

○冨岡さん
息子がお腹にいる時に数えで29歳だった主人が補充兵で召集されました。昭和15年です。3ヶ月教育を受け、出征する直前に家に寄った時に、生まれていた息子と対面出来ました。中国で戦死したらしいのですが、公報がこないんです。戦友が遺品をもって来てくれたんですね。
後に、新聞に主人が亡くなる時の様子が記事になっているのを孫が探し出してくれたんです。ちゃんと名前も出ていました。中国の戦死した場所にも行ってきました。

●南條さん
19年、主人に赤紙が来ました。どうなることかと思っていたら、とられたその日に帰ってきたんです。歯医者だったので、考慮されたのでしょうか。ご近所の手前、大っぴらには喜べなかったですが嬉しかったです。

○冨岡さん
私の兄にも赤紙が来たんですが、外地に行かないで無事に帰ってきました。遅くに赤紙が来た人はおそらくほとんど無事だったのではないですか。

○戦争時、自営業(家具屋)を営んで日暮里にいたんですが、20年3月の空襲で家は焼けました。そのころは家族みな新潟に疎開していて大丈夫でした。日暮里にいるときは空襲警報とか怖かったですね。寝る時はすぐ動けるようにゲートルを撒いて寝ました。遠くの場所でも、空襲があると空が赤々と燃えて見えて、怖かった。

●南條さん
庭に防空壕を掘れ、と言われましたね。

○冨岡さん
そうそう。

●南條さん
お年寄りは新潟に疎開したのですが、私の家族は阿佐ヶ谷にそのままおりました。幸いに家は空襲にも耐えて、残りました。

○冨岡さん
新潟に疎開したときは静かで、「本当に戦争をしているのか」と思いました。最後は長岡に空襲はありましたけれども。

●南條さん
雑炊も配給制になり、並びました。最初は雑炊は濃いのですが、列も後ろの方になると、水を入れて増やすから、まるで水のような雑炊でしたねえ。雑炊といってもほとんど草などで、米はほとんどなかった。麦をつぶしたようなものが入ってました。

○冨岡さん
家族は14人いましたから、食べるものに困りました。自分の山にサツマイモを植えたのですが、それすら供出しろ、と言われましたよ。

●南條さん
芋をいろんなところに育てました。葉が立派になって、「これは大きい芋が出来る」と思うと、大きいのは葉ばっかりで芋はとても小さかったです。

○冨岡さん
戦争が終わる直前は米のかわりに砂糖が配給されたんですよ。農家は木綿が大事だから、木綿を持っていって米と交換していました。千葉へ芋の買い出しにいったことがあります。

○指輪も銀貨もみな供出しました。隠していた人もいましたよ。私は馬鹿正直だったんでしょうかね。火鉢がありまして、中は真鍮なのですが、それも出しました。

●南條さん
うちにも瀬戸物の丸火鉢があって、お客さんが来ると渡して暖まってもらいましたね。
供出といえば、蚊帳の釣りカギまでも出しましたよ。

終戦

●南條さん
終戦後子供が大福をもらったことがあったんですが、それがお菓子とは知らないから、ただ持っているだけでどう食べるのか困っていましたね。笑い話ですけれども。

○冨岡さん
戦後もしばらくは何かを直すにしても、直すヒモがないくらい物がなかったですよね。

●南條さん
当時は物を大事にして、なかなか捨てられなかったですよね。今もそうです。下駄も歯がすり減るまで履きました。

○冨岡さん
疎開していたときに、履くものがないので父が藁で長靴を編んでくれたことを覚えています。

南條1.jpg



田中太典(たなかたいすけ)さん(75)
昭和3年生まれ
日時:平成15年10月29日
場所:東京都調布市

●動員
昭和19年の4月、京都の旧制中学3年終了時に動員された。琵琶湖畔にて一週間軍事教練を受けた後、帰宅してその翌日、間を空けずに工場へ。紡績工場が接収されて軍需工場となった所で、飛行機の高度計や速度計を作っていた。
翌昭和20年に4年生で繰り上げ卒業(本来の旧制中学は5年制)したがそのまま動員、在学中も学校には行かず工場で働いていたから、卒業したところで何も変わらなかった。毎日超満員の市電にゆられ通勤した。最初は一ヶ月程旋盤、フライス盤の削り方などを教わるのだが、年輩の人にそれはひどくしごかれた。旧制中学、という学歴にやっかみもあったのかも知れない。
当時京都の学校の生徒は名古屋や舞鶴に動員されることが多かったが、私はたまたま学校の目の前の工場で、家から通えたのは幸いだった。名古屋に行った人たちは昭和19年の名古屋大地震(東南海大地震)にて多くが死亡、舞鶴に行った人たちは空襲で命を落とした。
私の通っていた中学の校長は積極的に軍に協力していた。当時は競って軍に協力する、というような風潮があった。

●京都の爆撃
京都は空襲がなかったように思われているが、実は1度だけあった。東山に爆弾が落ち、級友が一家全滅した。風評では「間違えて爆弾を落とした」などとも言われていた。
当時、京都に米軍機から「京都は爆撃しないので安心です」というような意味のビラも配られていた。大人達が信じたかわからない。半信半疑だったと思う。

●父親
父親はどうやったのか徴用逃れをし、出征もしなかった。どうやら、昔は左傾向だったようで、「資本論」「史的唯物論」などの本も家に隠してあった。防空壕も「こんなもの爆弾一発落ちてみぃ、何もかもあらんで」といいながら、形だけの壕を掘る程度、開戦当初から「勝てる訳あらへん」とも言っていた。当時としては非国民である。そんなに派手ではなかったので特高に目を付けられる程ではなかったが、当時の庶民としては珍しかったと思う。
私は「お国の為に」「天皇陛下の為に」という教育をたたき込まれていたから父の言うことを信じ難かったが、戦争が長引くにつれ、「確かにおやじの言うとおりだ」と思うようにはなった。

●軍国主義が一夜にして民主主義に
私は生まれたときから軍国教育を受けてきた。奉安殿への参拝、宮城遙拝ももちろんあった。教育勅語を間違えて切腹した校長もいたくらい。
それが、戦争に負けた途端、一夜にして民主主義教育に変わった。180度の転換だ。
こんなエピソードがある。ある先生がいた。彼は、それは熱烈な軍国主義者で、軍国教育一辺倒だったのが、8月15日をすぎた途端、しゃあしゃあと一転して民主主義を教えだした。あまりにものその変わり身の早さに生徒達が怒り、「俺達を愚弄した」とその先生を袋叩きにしたことがあった。

●私の上の世代の人は軍国主義しか教育されていない。下の世代は民主主義しか教育されていない。両方を経験したのは私の世代だけなのだ。だから、どちらも良くわかる。今は戦前の教育を全面否定するが、良いところは残しても良いのではないか。今は「自由と権利」を声高に主張するが、自由と同じ量の責任がある、権利と同じ量の義務がある筈です。今の人たちは「恥」を知らない。

□戦後、田中さんは高等商学校を卒業後、京都の絹織物を売りに全国をまわった。周りはアメリカ兵ばかりで、商売よりも英語の勉強のつもりだった、という。その後、大学の3年次に編入し、卒業して貿易商社に入り、定年まで勤め上げた。

桜井千代子(さくらいちよこ)さん(69)昭和8年品川生まれ
菅野園子(すがのそのこ)さん(67)昭和10年日本橋生まれ

日時:平成15年10月28日
場所:東京都世田谷区


桜井さん)
疎開したのは、昭和19年、小学5年の時ですね、静岡の網代へ行きました。学童疎開ですね。
本来通っていた学校は違う所への疎開だったのですが、妹は小学3年生でしたし、手を離れるのを父が心配しまして。大田区(当時大森区)に祖母がおりまして、内孫が大田区の学校に通っていたんですね、

それで祖母が寮母(疎開する児童の面倒を見る人のような形)で一緒に疎開先に行くことになりまして、私と妹も大田区に引っ越して内孫(いとこ)と同じ学校に転入して、一緒に網代に疎開に行ったんです。そうすれば、祖母が見守ることができますからね。

菅野さん)
私は栃木の佐野に疎開しました。私の学校は生徒数も少なかったもので、集団の疎開はなくて、縁故疎開でした。親戚縁者を頼って、めいめいが疎開しました。

○疎開先の様子はどうでしたか?食事などは?

桜井さん)
二階建ての老舗旅館に3~5年生の女子が泊まりました。100人くらいだったんでしょうかねえ。部屋ごとに学年が散らばるようにして、5年生が班長、4年生が副班長になりました。お寺に行った人もいまして、そちらは住職さんがとてもかわいがってくださって。朝と夕に勤行を教えてくれていたようです。庭もあるし、羨ましかったですね。最初は遠足のような気分で楽しかったんですよ。けれど、時が経つにつれて、ホームシックになって泣く子もおりましたね。私は祖母もいるし、泣きはしませんでしたが、やはり寂しかったですねえ。家族への手紙は、全部検閲されました。
毎朝、先生が戦局を伝えるんです。敵に与えたダメージなどを聞くと嬉しかったです。その時はね、やはり日本が戦果を挙げた、というと子供までね...。

菅野さん)
私は親戚の家に身を寄せました。私はズボンを履いていたものですから、「男みたいだ」と良くからかわれました。いじめという程では無かったのですが。兵隊さんが学校に来るんですよ。真冬でもみな乾布摩擦してね。兵隊さんと遊んだ、というような印象がありますね。

桜井さん)
食事は一汁一菜でした。網代は海が目の前、ということで、たまにですがブリの照焼きなどが出たことはありましたね。けれど、やっぱりご飯はとてもお腹一杯程の量はなく、お豆などの混ぜ物いりでした。それにお味噌汁は薄いのが一杯だけ、たくあんが1切れか2切れくらい。たくあんなんて、少しずつ齧りましたよ。すぐ無くなってしまうから。

○桜井さんは当時の日記を残されているんですよね。それによると...
ある朝は「飯のおかづは、たくあん一きれとおみそ汁のみは、おなすがたくさん」
ある昼は「ごはんの中にはさつまいもがたくさん、このくらゐの大きさのが(聞き取り者注:大きさをあらわすマルが書いてある)入ってゐた、たくあんも一切れついた」
ある夕飯は「わりにごはんがこはかった。おつゆで中には、とうなすとごぼうが入ってゐた。それではとてもおかづがたりない」とあります。これは昭和19年の10月。しかし、この日記は貴重ですね。字もしっかりしてらっしゃる。「おやつはふかしぱんだった。あまくておいしかった」という記述もありますね。「朝飯は、おみそしるだけ」「おかづはかんづめのいわしと豆とこぶ」という日もありますね。これでも、割とましだったのでしょうね。

菅野さん)
私は小学校3年だったのであまり覚えてはいないのですが、やっぱり、食事事情は悪かったです。ご飯は芋やかぼちゃの混ぜ物いり、イナゴも佃煮にして食べましたよ。タニシも。タニシを取りに水に入るとヒルが足に吸い付くんですね。

○疎開はそのまま終戦まで?

桜井さん)
いえ、昭和20年の4月に埼玉に移りました。今の久喜の近くですね。児童みなが岩手に二次疎開することになりまして。さすがに岩手は遠い、という事で、今度は一家みんなで縁戚の家に疎開いたしました。1間に家族7人が暮らしました。祖母、両親、妹、弟2人です。網代は安全だったのですが、いろいろ事情があったのでしょう。安全と言っても、艦砲射撃はありましたけれど。

菅野さん)
近くに中島飛行機の工場があったんです。それで、爆撃を受けましてね。鎌倉に移りました。最初は横須賀が近い、ということで敬遠していたのですが、いざ行ってみたら爆撃どころか、飛行機の姿すらみませんでした。古都、ということもあったのでしょうね。

○疎開しているあいだ、ご両親は?

桜井さん)
父は弁理士でした。出征はなかったので、埼玉にいる時は普段は東京で仕事をして、週末になると帰って来ました。大変だったと思いますよ。夜、田舎道を家に帰る途中、雨が降っていて道と川の区別がつかなくて、2度落ちて帰って来たことを覚えてます、全身泥だらけ、ずぶ濡れになって。

菅野さん)
家は乾物屋問屋でした。統制経済で廃業同然でしたが、やはり兵にはとられませんで。町内の警防団ですか?をしていました。母は国防婦人団。出征前の方を家に泊めたりしていたようですね。

○そして終戦を迎える...

桜井さん)
村の薬師堂にラジオがあったので玉音放送を聞きに行きました。周りの大人達が泣いていて、戦争が終わったと言いました。私もくやしくて泣きました。
夏休みの最後頃だと思うのですが、東京に戻る時に、どういう訳か、一家でタクシー(今思うとハイヤー?)に乗って東京にもどりました。石炭車だったんでしょうか。どうやら父の父の知り合い関係に手をまわして用意したようなのですが、当時はほんとうに珍しかった。一家7人、荷物と一緒にぎゅうぎゅうになってね。1日がかりだったでしょうか。思うに、早く引き揚げたかったのかもしれませんね。

菅野さん)
汽車も混んでますものね。貨車にのったくらい。しばらくすると東京に入れなくなる、という話もありましたよね。
鎌倉で終戦を迎えまして、一時千葉の茂原に家族で身を寄せました。その後日本橋に戻って、父はなんとか乾物屋を再開しました。

桜井さん)
しかし、あの頃の日本はほんと、みなが洗脳されていたようで..。父が出征していなかったのが恥ずかしかったくらいだったんですよ、当時は。その父も、東条英機のラジオ演説を正座して聞いていたことがあるくらいでした。戦後は口ぐせのように「日本はバカな戦争をしたもんだなぁ」と言ってましたが。

菅野さん)
私は小さかったので戦争にどうこう、というのは無かったのですが、「陛下の為に」という意識のようなものははっきりとありましたね。宮城遥拝もありましたし、毎朝。学校の歴史教育もね、源氏は良くて平家はダメ、とか。楠木正成は良かったんですね。

桜井さん)
宗教的な面でも色々とありましたね。埼玉に疎開していた頃、”宗教調査”があったんです。うちの両親はキリスト教で、随分悩んだようですが、最終的には「キリスト教」と書きました。勇気がいったと思うんですよ。幸いにおとがめはなかったのですが、戦局もひっ迫してきていて、それどころでは無かったのかも知れませんね。
※お二人は、お知り合いの方にも当時の思い出を聞いておいて下さいました。下に列挙しておきます。

●伊東に疎開した方:イルカの脂身をたべていた。みかんもキンカンのような小ささで、10個食べてやっと食べた気がした。

●富山:田んぼに入ってタニシを取らされ、それを食べた。

●柿を取って、それが渋柿でも食べた。その為ひどい便秘になった。

●八王子では、生栗を渋皮のまま食べて、おできが身体中にできて死んだ子供がいた。

●冬でも薄い靴(今の学校で履くうわばきくらい)で雪の中を歩いて登校した。真冬以外は裸足で登校し、学校に着くと井戸水で洗ってから教室に入った。

●疎開先では東京の子は差別された。

●網代の磯で岩に生えた海草をとり、お習字に使うすだれに並べ干して海苔にしたつもりで食べた。

●随分長く歩いてとなり村へ干しいもをもらいに行きリュックに入れたのを旅館の玄関にみんな出した。ところが一個だけすみに残っていたのを後で発見し、大事にして食べた。あんなにうれしかったことはなかった。

●旅館の客用トイレでは足りなくなり、先生方も土方をして新しく作ったがそれもいつも一杯だった。くみ取りがこなくて先生方が桶にすくって処理していたこともある。

●身体に抵抗力もないし、蚊にさされてもおできになった。(桜井さん)

佐々木まつさん(93) 明治43年生まれ
日時:平成15年10月27日
場所:神奈川県茅ヶ崎市

佐々木まつ1.jpg

●関東大震災
私が数えで14の時の9月1日に関東大震災(大正12年)が起こりました。
ちょうど七輪で魚を焼いていた時に揺れがきて、あわてて炭を流しに捨て 水をかけました。家は酒屋を営んでいたのですが、酒樽は落ちる、瓶は割れるで店の中は通れない。お寺の境内にみなで逃げました。揺れの合間に家に戻っては荷物を運び、墓石の間に置きました。家はその時は 大丈夫だったのですが、翌日には焼けてしまいました。
父と奉公人3人は大事な帳簿をかかえて池の方に、私は「あっぱっぱ」と呼んでいた着物を2枚着て、裾をはしょって貴金属類を入れ、普段からおてんばで裏道などを良く知っていたので、そこを通って寺島の叔父の所に身を寄せました。翌日、家に行って見ると家はもう焼けてしまっていました。 陳列棚の下に入れてあったジャガイモがほどよく焼けていて皆の朝食になりました。父親を探して隅田川べりに出ると、火事の強風にあおられ、 人々はみな川に落ちてしまっていました。川は死体ばかりです。

家族みなが無事再会し、埼玉の母の実家へと避難を始めました。荷物は全部盗まれていました。家は隅田川を挟んで本所側にありましたので、埼玉の方へ行くには川を渡らなくてはいけません。吾妻橋を渡ろうとすると鉄棒だけ焼け残っていて歩いては渡れません。気丈にはって渡りかけた人は真中で川に落ちてしまいます。川の中は既に死体ばかりなので、結局死んでしまう。それで、川沿いに歩くことになりました。
向かい側に行く為に両国橋まで歩いてしまいました。被服廠まで行ったら、もう、死人だらけです。両国橋の上も死人ばかり、周りも死人の山。馬も死んでいます。父親に「目をそらしてはいけない、しっかり見なさい」と言われました。その中でも、生きている人は「水をちょうだい」としきりに言うんですね。私は水を持っていたからあげたかったけど、「あげたらすぐ死んでしまう」と言われてあげられなかった。 死人だらけの橋の上をなんとか渡って、向こう岸に着いて川越街道に出ました。

9月でまだ暑いし、とても喉が乾くのですが、その時は「井戸に朝鮮人が毒を入れた」という噂が広まっていて、今考えるととんでもない噂ですけれども、井戸水は飲めないのです。仕方がないので、みな小さい泥川の上澄みの部分を手ぬぐいを通して飲みました。それでみなチフスになるんです。 私も罹りました。熱が出るので、療養中に水まくらをしたのですが、その時水がもれて耳に入ってしまって、聞こえなくなってしまったんです。後遺症が残りました。

●震災後
暫くは母の実家に仮住まいしたのですが、妹は小学4年、弟は1年生。小学生なのでその地の学校に通えたのですが、私は私立の女学校だったので通えなかったんです。今でも、それが一番辛かったですね。みなが学校に行っているのに、と。しょうがないので隠れて新聞を読みました。その頃は朝刊も遅れて夜届くんです。ランプのあかりでこっそり読みました。読んだ事がわかると叔父に「女のくせに」と怒られた。当時は女が新聞なんて、という雰囲気があったんです。読んだ後はわからないようにきちんとたたんで配達されるところに戻しました。

●酒屋の再開
酒屋を再開すると、お客様の中になんと私の着物を着てくる人がいたんですね。 震災時のどさくさで無くなった荷物に入っていたのです。ですが、お客様なので何も言えなかった。けれど、盗むというよりは、そこにあったから持っていったと いう具合でしょうか。困った人はお互いさまですしね。震災で一家離散した人達 も多かったですし、幸いにしてうちは皆怪我もなにもなかったので、それだけでも幸せです。

●読書
私はとても読書が好きだったのですが、その頃は女の人は本なんて読めなかったですよ。生意気と言われます。私も本は周りに殆どなかったのですが、隣の家に一つ年下の男の子がいまして、読み終わった本を貸してくれる。窓越しに本を交換して何でも読みました。

●昭和に入って
20歳頃(昭和の頭頃)に学校の先生をしていた主人と結婚し、子供が生まれてから荻窪に住んでいました。

●空襲と疎開
荻窪は中嶋飛行機の工場があって、空襲で狙われると言われていたのですが、幸いに殆ど被害は無かったです。しかし、東京大空襲の時に「これは危ない」と思い、 ちょうど女学校時代からの親友がご主人の里の新潟に疎開する、というので昭和20年の3月に出雲崎という所に一緒に行きました。
道が大通り一本しかないような所です。着いたときは膝まである雪にびっくりしましたね。娘は小学校4年で、本来は学童疎開なのですが一緒に連れて行きました。
海と山に囲まれた所で、魚も豊富で食べ物には困らなかったですね。魚は浜焼き (魚を串にさしていろりで焼く)や、刺身などにして食べました。当時、戦争中ですが食事は良かった方だと思います。お米と魚を取り替えに来る人もいましたし。 居候でしたけど、汚い話ですが排泄物も畑のこやしになるので喜ばれました。
新潟の生活はとても楽しかったし、「住めば都」でした。その後47年振りに訪れると、なんと当時の家がまだ残っていたのです。当時1歳だった息子は、「こんな汚いところにいたのか」と驚いてがっかりしていましたね。

●終戦
終戦を聞いて、すぐ東京に戻りました。時期が遅れると東京には入りにくくなると言われていましたし。主人は学校の先生でしたので荻窪に残っていたのですが、 無事に家族がまた揃うことが出来ました。

●今振り返ると
ずいぶん苦労してきたなとは思いますね。苦労も苦労とは思わなかったですけれども。
人生はいろいろですね。いいと思ってしたことが悪かったり、その逆もありますし。自分の子供達がまっすぐ育ってくれたのがとても嬉しいです。

三木欣次さん、くみさん(81)
日時:平成15年10月24日
場所:埼玉県羽生市

□欣次さんは埼玉県新郷村(現羽生市)生まれ。両親と兄妹と5人家族だった

●小作人の家
小作人の家だったから、貧しかったです。同級生は6人、みな地主の子だったから洋服を着ている。私は絣着物だし、食事もまともにはなかったから「乞食の子」とバカにされました。冬はタビが買えないから裸足で、雪の日などは下駄をかかえて学校まで裸足で走りました。
正月も地主の家ではほんものの餅を食べるんですが、私の家は餅粉(もちごな、こごめを粉にした)です。
芋の弁当をバカにされて、同級生にツバをつけられたこともありました。地主さんは、もちろん白米ですよ。

●尋常小学校1年の時、同級生に「乞食」と、小便をかけられて。さすがに怒って相手を田んぼに投げ飛ばしたが、相手は地主の子。母親と一緒に謝りに行きました。

●働く
家計を助けるために、6歳の時から子守りをしました。1日6銭、まんじゅうが1つ買えるくらいですかね。尋常小学校2年からは、『鼻どり』と言って、馬の鼻カンに竿を通して、鍬を牽かせて田畑を耕すんです。私はまだ小さいから、ついていけなくて。ヒルもいました。
兄は昼は土方をし、夜『俵あみ』や『縄ない』をしました。私も幼いながら兄を見習って縄ないができるようになりました。一束3銭だったかな。兎を飼い、売り、利根川に針をしかけ、鰻や鯉を獲って買ってもらう。川でとった魚は家族にとっても、貴重な栄養源でした。
遊びなんて、全くしなかったですよ。ほんとに良く働いた。辛かったです。

□小学校3年、父が亡くなる。より困窮した。小作人は、畑も借金をして地主から買う。不作で収穫が少ないと、その分がお金に換算され、借金はどんどんふくらんだ。利息は1割2分だった

●屈辱
5年生の時、地主が母を畜生呼ばわりしたんですね。「三度の飯も食べられないくせに子を学校に通わせるな、働かせて借金を返せ!奉公に出せ」と。母は「この子が大きくなったら必ず返しますから」と泣きながら必死に頼んだんです。地主は言いたい放題言って帰っていきました。「今に一人前になったら、必ずあのおやじを見返してみせる!」「かあちゃんはお前が頼りだ」と、二人で泣きました。今でもこの話は....涙がでますね。

□3円だった借金は、不作分と利息が足されて、80円にまでなっていた

●兄は奉公に出たんですが、父の死後戻って百姓を継ぎました。私も手伝いました。昼は百姓、夜は縄ない。昼夜働きました。秋には学校をひと月休み、『鼻どり』をした。

□勉強が好きだった欣次さんは高等科に入ったが、2年生になる前、結局自転車屋さんに奉公することになる

●小学校卒業前は地主に「やめて働け」と言われましたが、何とかお願いして卒業しました。奉公は2年で50円、の条件でした。朝5時に起き、夜9時に閉めます。朝、洗濯して、掃除、雑巾がけをして自転車を出して。冬の洗濯はほんとに辛かったですよ。何しろ冷たい。手が痺れて痛くなります。 赤子のおむつの洗濯までしました。水が悪いのでこし水(砂と炭を瓶に入れ、水を漉す)をつかうのですが、ある時こっそり風呂の残りの湯で洗濯していたらみつかって、頭を殴られた。「お前が使った風呂の水でおむつを洗うな!病気になる」と。奉公中は毎日のように殴られていました。

●やけど
初めて銭湯に行ったんです、兄と。その時に、うっかり熱湯を被ってやけどをして。自転車屋の主人が生味噌が効くと言うので塗ったのですけど、痛くて眠ることすらできない。翌日、病院に行って治療しました。家に帰されて休めると思ったら、休ませてはもらえなかったです。そのうちばい菌も入ってひどい目にあいました。

●赤痢
あるとき夜中に腹くだりをおこし、トイレで下痢と目まいに見舞われました。なんとか這って戻って、朝まで我慢したが高熱が出て動けない。赤痢でした。1週間高熱で意識不明。なんとか一命をとりとめました。実家で1ヶ月あまり休み、店に帰り翌日より仕事をしました。

●誤解
正月、酒屋さんの子供の自転車のパンクを直して持って行くと、年始のしるしといって手ぬぐいをもらったので店の棚において掃除を始めました。店のおかみさんが通りかかり何を誤解したか「とんでもない野郎だ、おとうさん、しめたほうがいいよ」と主人に告げられ、頭を何発か殴られたんです。酒屋に来て話しをしてもらい誤解は解けました。気まずそうに主人は「やる」と言い手ぬぐいをくれました。

●食事
食事は冷や飯ばかり、朝と夕飯の二回。店の家族の夕飯の残りを翌朝いただき、朝の残りを夕いただくのです。

●奉公先を飛び出す
店をしめた後にやってきた人の自転車のパンクを直したことがあります。外は雪でした。「修理して明日持っていく」と言っても、「明日は大雪だから悪いけど今直してくれ」と言うのです。直してあげて修理代10銭と言うと、「やきいもでも食べろ」と15銭くれたんですね。翌朝、手ぬぐいの件があったのでおかみさんに訳を話して渡すとそのまま店の勘定箱に入れてしまった。私にとって5銭はたいへん貴重なお金です。そのままなので「私にくれた5銭です」と2回程催促すると「5銭5銭とうるさい、おとうさん、しめたほうがいいよ」とまたしても主人に告げられ、けられて柱に頭をしたたかにぶつけました。私もとうとう堪忍袋の緒がきれまして、「この野郎」とハンマーを投げつけたんです。主人には当たらず、ガラスが1枚割れた。「とんでもない野郎だ、暇をやるから出ていけ」「出て行くとも、こんなとこにいたら殺される!」と喧嘩になりました。「家で呉れたものは一切おいていけ」と言うので奉公に来た時の着物を来て、「大きくなったら、戻って来て絶対に見返してやるから見ておけ!」と言い捨てて外に出ました。騒ぎに近所のおとなが出て来たので喧嘩の訳をはなし、お礼を言って「一人前になったらまたもどります」と街を去りました。

●見知らぬ街で
利根川の堤防に出、西へ西へと行くこと2時間、渡船に乗り、向こう岸の知らない街に行きました。そこで知り合った『かしら』(家の基礎工事、壁づくりなどをする仕事)の親方に顛末を話し「働かせてください」と頼み込みました。すると、親方は奥さんに命じて食事を出してくれたのです。これほどうまかったご飯はなかったですよ。

●新しい仕事
その親方の元で一所懸命働きました。造り酒屋のやぐらの組み立ての仕事をしていた時、その家の三男に召集令状が来たんです。三輪車を運転する人手が足りないと困っているようなので、実は私は車の免許はないけど運転は出来ると言うと、親方は「お前は今の仕事に向いていない」と言って紹介してくださいました。次の日からその酒屋に住み込みで働き、令状がきた三男と一緒に毎日問屋まわりをして仕事を覚えました。なんと、食事は白米のご飯、昼と夜はかならず魚など一品つくんです。ほんとに有り難かったですね。
認めてもらおう、恩に尽くそう、とそれはもう懸命に働きました。仕事が早く終わると周りを掃除したり、とにかく働いた。そのうちに主人に認められるようになったんです。 女主人には「今まででお前ほど働く人はいない」と、50銭札を5枚ももらったんです。こんなにうれしいことはなかった。小遣いも毎月50銭くれました。内緒で1円くれたこともありましたねえ。
貯金もしていましたよ。盆や暮れ、40軒ある問屋のまわると、1軒1軒かならず1円やてぬぐい2本、ぞうり1足などくれるんです。一旦、おかみさんに預ける。お正月になると、他の若い衆は帰すが、私だけ留守番するんですね。皆が帰った後、もらったものを全部くれました。いらないものは全部換金して貯金しましたよ。

●借金完済
酒屋では1年目で120円の給料、2年目でもっとあがりました。370円分前借りし、家の借金を全部返しました。利息などで額もさらに膨らんでいたのですね。母は「私はだいじょうぶだ、お前はもうこれからは自分のことだけ考えろ」と言ってくれました。

□日本はいよいよ本格的に大平洋戦争への突入へと向かっていく

●海軍
酒屋で働いたお金で、「海軍通信講義録」という通信課程で勉強をして、海軍に志願しました。昭和15年、18歳の時です。海軍の試験に受かるのは村では快挙で、20年ぶりだとか。酒屋の人たちもみなせんべつをくれたり、旗を作ってくれました。

□欣次さんは昭和15年に海軍入隊。機関兵だった。空母などに搭乗、ミッドウェー海戦などを経験。

●空母に搭乗しまして、実に3回沈みました。機関兵というのは、常に船底にいるのです。しかし、不思議なことに沈んだ3回とも、当直交代直後で任務を離れていたんですね。任務についていた仲間は亡くなりました。母は常日頃、「自分の出来る範囲内で、できるだけ人を助けなさい」と言っていました。そういう生き方を私がしてきた分、奇跡的に生き残ったのかな、と思います。

□そして終戦を迎え、南方で生死不明だったお兄さんも帰還した。欣次さんは縫製業を興し、羽生を「西の岡山、東の羽生」と言われるまでに発展させた

●今振り返って
戦後の混乱時代は、どんなに困っても人の物を盗んでまで、というのは無かったですね。今はね、もう何でも簡単に盗むでしょう。政治もなんでもそうだけど、「自分さえ良ければいい」というようになっている。

●若い人はいろいろな事を経験しなさいよ、勉強もしないとダメだ、と孫にも常々言っています。

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乗本正名(のりもとまさな)さん(84)、ひろ子さん(75)
大正7年生まれ、昭和7年生まれ
日時:平成15年10月23日
場所:横浜市青葉区

●生まれは鳥取、米子です。15歳で大阪に出て、中学も終えました。裕福な家庭ではなかったので、苦労して学校を続けまして、最終的に中央大学に進むことが出来ました。本来は昭和17年の3月に卒業予定だったのが、戦時ということで16年の12月に繰り上げで卒業です。

○では、学徒出陣で?神宮の。

●そうですね、私は第一回目でした。私は卒業したらすぐ、試験を受けて法の道に進むつもりだったんです。それが、出陣ということになって、もうなんというか「これで俺の人生の計画は挫折した、もう終わりだ」って、とにかく残念というか悔しいというか。半ば諦めの境地で。本当に全てが真っ暗でした。大学二年時に優等生になったんですね。奨学生になって、一所懸命勉学して、頂点に達したときに兵隊にとられた訳です。

○出征されてどのように戦地を?

●昭和17年2月に鳥取の連隊に入隊して、上海に行きました。廬構橋の近くで、大隊砲の観測班にいました。砲撃の為の測量をする訳です。学校の関係でたまたま軍事教練をしないまま兵隊になってしまったので、そうすると兵隊としては一番ヒラからのスタートになるのです。

○軍事教練をしてないと...。学歴も何も関係ない訳ですね。

●そうです。頑張って昇進はしましたけど。
上海の後、サイゴン、シンガポールへと進み、ビルマのラングーンを経てラムレー島の守備隊に派遣されました。最後はビルマの義勇兵二人と一緒に軍の陣地に行っては車に便乗して辿り着いたんですよ。

○ビルマの兵とはどうやって会話を?

●道々で自然と、少しずつビルマ語を覚えましたね。ラムレー島の手前の集落で別れて、島に着きました。昭和18年の夏でした。結局1年半いました。

●ラムレー島についていきなり象の肉を出されました。普段は食べないですよ。たまたまです。とても食えたもんじゃなかったなぁ。
19年、海岸線の沖合いに英軍の軍艦が2隻来まして、今にも敵が上陸しようとするんですよ。「すわ、戦いだ!」と思っていたら、ちょうど引き潮で、上陸出来ずに戻っていったんですね。あの時上陸してきていたら、今思うと危なかった。

○ラムレー島では住民感情などはどうだったんですか?

●島の人たちは本当に友好的で、大事にしてくれましたね。日本軍が味方だと思っているのでしょうか。島を出る時も、みな名残りを惜しんでくれて、港で手を振って。まるで日本から出征する時のようでした。ビルマの人たちは、本当に良くしてくれた。今、ビルマはあんな事になっているけど、日本はもっと何かをしてあげなければ。

○ラムレー島を出てからは...

●ビルマ本土に戻りまして、昭和20年ですね。ある時、一人で野原を移動している時にいきなり戦闘機に機銃掃射を受けました。3度程攻撃を受けたのですが、離れたところにあるネムの木の下に走り込んで、なんとかやりすごしました。パイロットがはっきり見えるくらいの距離でしたね。後にも先にも機銃掃射を受けたのはそれだけ。

●20年の6月に、ペグー山脈という山の中に司令部を移したのですが、雨季ですし、いつまでもいられない。雨は夜も降ります。合羽をかぶって木の根を枕に寝るのですが、気が付くと体半分が水に浸かっているんです。昼間は飛行機に追われ、夜は雨に降られ。
ある時、見えない筈のラングーンの町並みが見えたことがあります。蜃気楼ですね。ふつうは逆さまに見える、といいますけどそうではなくて、本当の町のように見えました。

●移動の最中、ぬかるんだ山を下りるのですが、草の根をつかみながらそろそろと下りる訳です。ふと、つかんだ草が動いた。良くみるとそれは、死んだ兵隊の手でした。ごろごろ死体が転がっていましたね。また、あちこちで爆音がしていました。後で知ったのですが、日本兵が手榴弾で自決していたのです。

●川で夜に米を研いで炊いたことがありました。明くる朝、顔を洗おうと米を研いだ所に行くと、すぐその場所で兵隊が死んで浮かんでいた。知らないでそこの水で炊いたご飯を食べていました。

●世界三大悪流と言われたチッタン川に出ました。ロープを川向かいに渡して、船で伝いながら渡るのですが、私は司令官に可愛がってもらっていたこともあって船で渡った。ほとんどの連中は筏です。仲間の鳥取連隊のみなは筏の上で『安来節』という島根の民謡を歌っていましたね。

○終戦はどこで迎えられたのですか?

●川を越えて、三大降雨地とも言われたモールメンという所まで行った時に、終戦を迎えました。広島の原爆の情報も伝わってはいました。各地の空襲の様子も知ることはできました。

○終戦後は...

●ビルマでそのまま抑留されました。脱走する人もいましたよ。「男は去勢される」という噂もあったんですよ。私は軍の司令部にいた、ということで労働はなく、人の割り振り等を担当していました。英軍の対応は紳士的で、米軍は荒かったですね。けれど、その実英軍は冷たくて米軍は温かかったですよ。

●昭和22年6月、日本へ帰還しました。ラングーンに向かう復員列車に、ぱらぱらと走り寄ってくる人がいるのです。脱走した兵隊でした。「お前達、帰ることが出来て良かったなあ、良かったなあ」と。彼らは脱走兵なので戻れません。多くの人たちがそのまま現地で残ったと思います。ビルマの人たちは親切で、同胞的な感情があったんです。残った人たちも思うよりはそんなに悪くは暮らしてはいないのではないですかね....

○日本に戻られてからは?

●公務員試験に通って、警察庁に入り定年まで防犯畑を歩きました。「小暴力防止法案」というのを日本で初めて作成したんですよ。

●貧しかった故に私は割の悪い道を歩きました。その割に運には恵まれたと思います。

●今のミャンマーにね、日本はもう少しなんとか出来ないか、と思います。ビルマ人の当時の好意に報いるべきだと。

●昭和とは起伏の多い年でしたが、その中を溺れないでよく生きていたと思います。弱気はだめですね、信念をもっていれば、どんな時代でも生きていけると思います。動揺してはいけません。
帰還できてよかったです。生きていて良かったし、本当に目まぐるしい社会の変化を身に沁みて味わうことができたのは幸せだった。よくぞ生きてこられたと思いますね。

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佐藤二平さん(72)大正6年生まれ
日時:平成15年10月22日
場所:埼玉県坂戸市

●少年時代
生まれは栃木県上都賀郡小来川(おころがわ、現日光市)。電気もまだ来ていなかったんですよ。水は近くの池から汲んでいました。半林半農で、村全体は裕福でした。旅館は3軒、何しろ「カフェ」があって、白いエプロンをしたウェイトレスまでいたくらいです。人口は2,000人、小学生が400人、戸数400戸くらい。 冬はあまりの寒さに、囲炉裏に向かうのではなく、みんな背を向けて後ろを向きながら輪になってご飯を食べました。真冬でも裸足でしたね。村びとは近隣皆が家族同然の付き合いでした。 子供なりに良く働きました。杉皮の運搬、草刈り、シャクトリ虫取り--桑の葉を食べてしまうんですよ--麦踏み、家の馬に飼い葉をやったり。馬は同じ屋根の下で、家の中に飼われていました。

●村びとの出征
戦争が始まる前は箝口令がしかれたような雰囲気で、出征兵士も人数がわかってしまう、という理由でお見送りはしなかったですね。半纏姿のまま入隊した人がいると、「目立たない」という理由で誉められたくらい。しかし、戦争に突入すると逆に村総出で、万歳三唱で送り出しました。 戦死した人が遺骨になって帰ってくると、村葬をしました。私はまだ子供だったし、そういう事があると「悔しい、仇討ちだ」とは思いました。けれど、戦死なされた人のお母さんはどうでしたかね..。私の兄も出征しましたが、無事に帰りました。

●軍事教練
3年生以上になると軍事教練があります。普段も宮城遙拝から奉安殿への拝礼などもさせられました。ある日、皆で憲兵の近くを通った時、一人が赤い鼻緒のぞうりを履いていたんですね。当時は端切れでも大事に鼻緒にしたりしましたから、たまたま赤い色だったのでしょう。憲兵はそれに目をとめて、「日本男児にあるまじき!」と怒鳴られ、年長の者が大目玉 をくらいました。大変な目に遭いましたね。そんなことですら怒られるような時代だったんです。

●表彰
昭和20年の夏に健康優良児で表彰されたことがあります。海軍報道部長大佐から賞状をもらいまして。 その縁で、戦争が続いていたら、昭和20年9月に古河の航空機乗員養成所に行く事も決まっていたんです。

●朝鮮人
県道の工事に朝鮮人(半島人と呼びました)20~30人が飯場をつくって従事していたことがあります。子供同士は、朝鮮人の子供ともトロッコに乗ったりして別け隔てなかったのですが、大人たちはちょっと警戒していたようですね。差別意識が少しあったのでしょう。

●終戦
村に電気がなかったから玉音放送は聴けませんでしたが、風のうわさで終戦だということはすぐにわかりました。その時の気持ちは良く覚えていません。

●終戦後、上京
兄弟は9人、13人家族の大所帯だったので、”食い扶持を減らす”意味もあって、上京しました。 今市までお父さんがお見送りに来てくれました。東武線は電車だけど、木枠の窓。 恐れや不安より期待感の方が大きかったですね。 東京は全てが珍しく、面白くて興味は尽きなかったですよ。電車も初めてだったし、北千住の「お化け煙突」を良く覚えてます。海も初めて見たんですよ! 浅草駅では戦災孤児が地下鉄にぽつぽつとおりました。私と同じか、年下、年上の人もいたように思います。あまりじろじろは見ていませんから。 市電で天現寺から広尾まで行きました。布団と毛布一枚、100円を握りしめての上京でした。

●焼け跡整理
当時東京は入りづらかったんです。労働の人手は必要だったんですが、「住む」となると。 幸いに、戦後の東京で”焼跡整理会社”をしている知人がいたので、頼って上京、就職することができたんですね。 有栖川公園に管理事務所があって、炭焼小屋を公園内につくり、神社などの柱などの焼け残りなどを炭にしました。慶応の裏にも炭焼き小屋がありましたですね。労働者なので多少優遇されたのか、特配(特別配給)もありました。お酒などもありましたよ。 朝8時ころから夕方5時ころまで働きました。年少者なので、皆より少し早く起きて食事の準備をしたり、飯炊き役、見張りなど役割はいろいろでしたね。 ご飯は配給米に、あずき、グリーンピースを混ぜたものを良く食べていました。 焼跡の”灰燼”を集めては、隅田川わきのちょっとした空き地に積んだり、道路の空いているところにまとめたり。 トラックで木場の先、洲崎、当時は遊廓があった所ですが、の方まで灰燼を捨てに行きます。今は完全な埋め立て地ですね、あのあたり一帯は。そのトラックは「T型フォードのロットブレーキ」式のもので、ブレーキの効きが悪く、ちょっとしたコツが必要で、それもまた楽しかったですねえ。 焼跡整理会社も、焼跡の整理が進むと、神田川の護岸改修などの工事も請け負うようになりました。 会社の先輩の意見もあり、勉強を身につけたくて昭和21年になると保善高校の夜間部に通 いました。

●外食券
配給通帳は移動できないので、代わりに外食券を持って上京しました。1食分ずつ10枚つづりで、現住所、つまりその時は栃木ですね、の村発行。東横の外食券食堂でうどんやおじやなど、簡単なごはんを食べたなあ。パンもありましたけれど、一斤で3食分、券は3枚とられる計算です。

●マッカーサー
第一生命ビルでマッカーサーを何度か見かけました。そのふるまい姿に、ただ感心しました。 村にいた頃はそれこそ「鬼畜米英」の世界だったけれども、戦後出会ったアメリカ兵に抵抗は全くなかったです。それよりも好奇心でいっぱいだった。倉庫作業をしている米兵に荷物の数え方の簡単な計算をしてみせて、「ボーイさん(当時はこう呼ばれた)、頭いいね」と誉められたこともありましたよ。

●東京裁判
縁があって、2回傍聴をしたことがあります。犯罪人でも、人権を配慮して人間として扱っていことにとても感銘を受けました。ブレクニーさんと言う弁護人が印象に残っています。

●米軍専用車
山手線、中央線の先頭か最後尾は一両まるまる米軍の専用車だったんです。談笑しながらサンドイッチや小瓶のビールを飲食している様子がよく見えましたね。別世界でした。

●放出物資
トマトケチャップがありました。粉だったんですよ。使い方が良くわからなかったので、水でといて無理矢理ジュースにして飲みました。おいしくはなかったです。ほかにもピーナッツ、チョコレートヌガーなどがありました。一番最初に食べたチョコのせいか、今でもあるとつい買ってしまいます。

●振り返って
少年の頃の、一番大切な人間形成時期、一番教育が必要な時を戦争でつぶされた、ということが、今でも悔しく、とても残念です。教育どころではなかった。今の子供達には同じ目には絶対にあわせたくない。それが、今一番強く思うことです。 今も、ふと気が付くと鼻歌が軍歌になっていたりするんですね。軍歌など絶対に歌わないようにしているのに、ふとした弾みで出てしまう。子供の頃に覚えたもの、覚えさせられたものは容易には消えません。

●家の近くの小川も...
昔は家の近くの小川の水がそのまま飲めたんですよ。こうやって、顔を水に突っ込んで。それが、たった60年ほどで飲めなくなってしまった。この事実、これはとんでもない、恐ろしいことです。


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高崎愼一(たかさきしんいち)さん(77)
大正15年(昭和元年)生まれ
2.26事件を小学生の時に目撃。勤労動員で空母信濃建設にも携わる
日時:平成15年10月21日
場所:杉並区永福

●小・中学校時代
父の代は材木屋だったが、関東大震災で家屋が焼け廃業した。
小・中学校と暁星に進む。市電に乗り30分~40分の道のりを通学した。門前仲町~飯田橋三丁目間が7銭だった。
午前7時くらいまでの「早朝割引」もあり、5銭になった。昭和7年、日本橋白木屋百貨店の火事、「白木屋の火事」を目撃。


●2.26事件
小学校4年時、雪がやんだ朝に市電で通学途中、軍人会館(現九段会館)に当時あったロータリーに土嚢が積んであり、剣付き銃を構えた兵隊がいた。学校に行くと即下校させられた。何があったのかは分らなかったが、誰か重臣が殺されたらしい、という事だけは知った。あの銃を構えた兵士は鎮圧軍だったようだ。それが「2.26事件」だった。ある先生が「天皇のためにするのは良いが、方法がいけない」と言っていたのを覚えている。

□高崎さんは中学卒業後、早稲田予科理科(高等学院)を経て(戦時中のため2年で卒業。通常は3年)早稲田大学理工学部に進む。受験勉強も熱心にしたという。

●予科練
中学3,4年頃は当時のならいとして、予科練に対する憧れはあった。

●開戦時
開戦の予感はあった。靖国神社の横に野砲などが並ぶのを見たりするうちに漠然とではあるが、開戦が近いのを悟った。
ある程度、敗戦の予感はあった。周りの大人にも敗戦の予感は少なからずあったのではないか。しかし、7対3くらいの割で勝つと考えていたのではないか。

□高崎さんは当時の「東京日日新聞」を今も大切にとっている。聞き取り者も見せてもらったが、コピーではない本物の当時の新聞には迫力があった。これが朝配られた時の市民の感情を思う。余談だが、同時に掲載されている広告も戦時色が強くなっている。

 
開戦を伝える当時の新聞

●空襲目撃
17歳の頃、四谷坂町の英語教師宅にて、市ヶ谷参謀本部より高射砲の発射音が聞こえたので外に出ると、黒色のノースアメリカン機が低空に降下しながら爆撃するのを目撃する。不思議と恐怖感はなかった。

●二合三勺
食料事情はあまり良くはなかった。隣の空き地を耕し、ジャガイモやサツマイモを作る。
サツマイモや西洋かぼちゃは大きくはなるが、水のようでおいしくはなかった。けれど、”質より量”で有り難かった。白米が玄米に代わった。胚芽米もあった。玄米は一升瓶に入れ、棒でつついて精米した。最期は二合一勺だった。

●勤労動員
昭和17年頃より、勤労動員に。
色々としたが、柴又帝釈天そばの江戸川で、川辺の葦を刈って農園したり、中島飛行機工場や石川島造船所に通ったり。
昭和19年、横須賀海軍工廠にて勤労奉仕。逗子と田浦の間にある沼間に宿舎をとり、半年間。福島高女、横須賀高女、物理学校(現東京理科大)などの人たちがいた。宿舎に戻る時、軍歌を歌わないといけないのが嫌で、皆三々五々宿舎にはいった。
魚雷運搬、水陸両用戦車エンジンの工場ラインなどにつく。真夏で、肉体的にも辛かった。
空母「信濃」の建造にかかわる。その巨大な姿に驚いた。突貫工事、朝7時から午後6時まで。弾薬庫内での仕事の場合、アセチレンガスのにおいがきつい。
終戦の年3月、学部入学のため動員解除。

●映画
映画もよく見ていた。フランス映画なら上映されていた。必ずニュース映画の上映もあった。戦局も緊迫してくると、空襲警報が頻繁に鳴るようになり、そうなると映画は中止、避難しなければならないので最後まで観る事はほとんど出来なくなった。

●学徒壮行会
昭和18年10月15日、早稲田大学出陣学徒壮行会が戸塚球場にてあり、戦地に赴く先輩を送る。翌日、最期の早慶戦。

●徴兵検査
昭和20年3月、理工学生のため延期していた徴兵検査を受ける(結果的に最後の徴兵検査となった)。肺に疾患があったこともあり、第三乙。結局、8月に終戦を迎えたため、出陣することはなかった。
当時、とにかく「俺は死ぬのだ」とだけ思っていた。

●空襲
昭和20年5月に大空襲があり、豊島区中野区杉並区など被害を受ける。当時杉並にあった自宅の周りには木が多く、水を大量にかけて逃げた。それが良かったのか、幸いに家は残った。永福町にかけては全焼、運も良かったと思う。永福にあった電車区に集中して焼夷弾が落ち、吉祥寺にあった2車両だけが残った。車両数が少ないので、後に電車を使う時は本数が少なく、苦労した。空襲翌日、電車不通のため自転車で、戸塚早稲田大学迄行ったとき、甲州街道にてリヤカーを引っ張っていた女の子が、目があった途端に泣き出したのが忘れられない。ほんの数件焼け残った建物の旅館で、焼出された人たちにお茶をふるまっていた様子も忘れがたい。

●終戦
玉音放送は町内の皆で聞いた。何を言っているのかはわからなかったが、戦争に負けた、ということはわかった。泣いている大人達も多かった。私も、当時の若者の常として、悔しさはあった。

●戦後の学校
学校に行くには行ってみたが、疎開で帰ってこない先生や、研修室に家族で寝泊まりする先生もいた。最初は授業は週に一度くらいだったが、、半年もするとそれなりに授業も出来るようになった。士官学校が無くなったので、一つ下の学年に陸海軍の軍人が多く入学してきた。

□大学にしばらく残った後、高崎さんは企業にてゴムの研究にいそしんだ。後、親戚の会社などを手伝い、今でも週の内半分は仕事に通う。

●今振り返って
今振り返ってみても、戦争当時の記憶はとても強く残っている。最近の日本は、昭和の終わり頃から、盛衰で言えば、ちょっと「衰」のような印象も受ける。

伊藤さだじ(愛称さだこ)さん(82)
大正10年、長野生まれ

平成15年10月21日
神奈川県鎌倉市のお宅にて

●長野時代(佐久)
お母さんは少女歌舞伎の先生をしていました。40年程前に亡くなったが教え子さん達は今も多くいらっしゃいます。
私も小さいころは歌舞伎の舞台に立ったことがありますよ。母の教えは、
「勉学は学校で習えば良いが、人の生きる道は歌舞伎の筋から、私から習いなさい」というものでした。
後に上京して、看護学生になりました。ある日、手みやげを持って帰省すると怒られたのです。
「嫁に行く先でそのように気を使いなさい。私は息子(の家庭)が気を使ってくれるからよいのです」
厳しい母でしたが、筋が一本通った人でした。

●上京
昭和10年代後半に上京し、東京看護婦学校に学びました。

●ハルピンへ
看護婦学校を卒業した後、ハルピン第一陸軍病院に勤務することになりました。結局終戦まで4年働きました。
何しろ忙しいし、「お国の為」とやりがいはありましたから、ホームシックになる暇もなかったです。
満州の人も一緒に働いていたよ。当時はまだ纏足(てんそく)をしている人も街には見受けられましたね。
食事は決して贅沢ではないのですが、日本本土にくらべると恵まれていたと思います。
宿舎はフランスかどこかの大使館で、それなりに快適でした。
2番目の兄が奉天にいたので会いに行ったことがありますが、年より若く見られたので現地の人に
「こんな子供を働かせて!」と怒られました。
冬は寒いが夏は爽やかな所で、きれいな街でした。
最近、現地を訪れた人に聞くと今でも素敵な街のようですね。



●終戦
終戦になり、帰国しました。都立駒込病院にて3年働いて、その後に結婚しました。

●デモ行進も
駒込病院時代、食料の質向上を請願にデモ行進をしたことを思い出します。

●大家族
結婚後、横須賀にて生活が始まりました。おじいさん、おばあさんも一緒の大家族で、ひしめき合って暮らしていましたね。お風呂を近所にもらいに行っていました。

●御主人の逝去
昭和50年、主人が胃ガンにて亡くなりました。50歳目前でした。仕事のストレスなどもあったと思います。

●その後
子供もいましたので、昼和裁をして、夜は寮で賄い婦をしたり、他にも材料を自分で仕入れてお弁当を作ったり、昼夜問わず、ほんとうに良く働きました。
看護の資格はもうないものと思っておりましたが、念のため確認すると東京の方で確認が取れ、晴れてまた看護婦(士)の仕事に就くことができ、パートで働きはじめました。病院というところは社会の縮図で、ほんとうにたくさんの事を学びました。
今は主人の年金以外は全て自分でまかなって生活しています。和裁をまだやっていますよ。

●今思う
私は制度上、年金の受給資格を満たしていないそうです。もう少し国も考えてくれると良いのですが。けれど、仕事が出来るのは幸せ、と思って頑張っています。
人生で一番大事なのは何と言っても健康。
生きていくうえで一番大事なのは思いやり。
人の信用は簡単には得られない。だけれども、なくすのは簡単です。結局、人の”心”というのが肝心だと思います。


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酒井豊次さん(71) 昭和7年生まれ

日時:平成15年10月20日
場所:神奈川県鎌倉市の自宅にて

●芦屋
芦屋は当時から裕福者の住宅地と言われ、静かでのんびりとしていた。海などは自然なままで綺麗な白浜が広がり魚の姿も色濃く美しかった。しかし戦局が激しくなるに連れいつしか高射砲陣地が設けられ、その姿は壊されていった。

●戦争へ
真珠湾攻撃が華々しく報道された時、父は「ああ、えらいことになった。アメリカに勝てる筈はないのになあ。すべて終わりや」と言っていたそうだ。父は商売の理に長け、先見力に優れていた。胸の中は深刻さでいっぱいだったと思う。
「隣組」制度も活発になり、皮肉にも近所付き合いはやや希薄であっただろう芦屋にも、近所同士の交流や結束感などが生まれつつあったように思う。

●兵隊
近くの軍事基地から兵隊さんが一軒あたり一人ずつ、下宿人の形で割り当てられた。我が家は若い無口な兵隊さんだった。後に入った中学での、教練担当将校の粗暴な振る舞いとくらべると同じ兵隊でも随分と違っていた。

●イベント
時節柄非常識だったのかも知れないが、趣味で謡曲をやっていた父が発表会を我が家で行ったことがあった。その日に限って空襲警報もなく、穏やかな一日だったことが不思議で、父の思い出の中でももっともさわやかなものとして心に残っている。

●学校
学校では男の先生が次々と戦争にとられ、しばらく自習ばかりが続いたり、体育の時間を増やすという名目で畑仕事をやらされることも多くなった。便所の肥を桶に汲んで畑に撒く仕事も六年生の大事な仕事だった。
ある時、先生が下駄箱を見つめて立ちつくしていたことがあった。「とうとう、わら草履ばかりになってしまったなあ」と元気のない声で言われた。既にズックの運動靴さえも、買いたくても買えない時勢になっていた。

●少年の”仕事”
6年生にあがる頃(昭和19年)、家の一員としてやるべきことが増えていった。代表するのが風呂焚きだった。焚き用のマキを確保するのも重大な仕事で、ある時漆の木を切ってしまい体から顔にいたるまで膨れ上がってしまったことがあった。また、海岸では貝や魚を獲り、家族の食料確保にも貢献した。他に畑仕事でもなんでも、出来る事はなんでもした。

●空襲
昭和20年に入ると、空襲は昼夜を分かたず波状的に行われるようになってきた。同じ空襲警報でも夜に鳴るとより恐怖感が高かった。大阪湾の対岸の堺市に夜間爆撃があったときの光景はすさまじく、芦屋まで明るくなる程だった。その一週間後に、父母の出身地であり、親戚も多数いる和歌山市が爆撃された。海岸に出、すさまじい光景を眺めながら立ちつくしていた父の姿が瞼に焼き付いている。後にわかったのだが、この時、父の姉が亡くなった。
家にグラマンの機銃掃射があったり、対空砲火の不発弾が落下したりという大変な事件も起こった。しかし、その当時は驚きよりも好奇心の方が勝っていたように思う。

●国民学校卒業と中学入学
20年3月、国民学校を卒業。結果的に、自分たちが国民学校最後の卒業生となった。学区などの兼ね合いもあって、あえて私立中学に入学した。当時は、誰もが中学に行けるとは限らない時代だったが、憧れの名門校に入ったからとて、そこにはもはや学びの園の別世界はなかった。

●運命の日、8月5日
親子6人と、母の母(祖母)、家に寄宿していた叔父さんが加わった合計8人の夕食が終わり、団らんにふけっていた時、警戒警報のサイレンが鳴った。慣れっこになってしまっていて、「またやな」と思っていると、空襲警報がいつもよりも早く鳴り、どうも様子が違う。祖母が残り、みな外へ飛び出した。私たち子供が防空壕に入ろうとしたその時、辺りが昼のように明るくなった。真向かいの山に照明弾が落とされたのだった。驚く間もなく、西の方からものすごい地響き、続いて火柱が火の壁のようになってどんどん迫って来た。そこから後はもう何がなんだかわからなくなった。B29の低空爆撃だ。目の前の自分の家から猛烈な火花が何本も立ちのぼり、隣近所の家々も同じようにすさまじい火炎を吹き上げていた。そして父と叔父が燃え盛る家の中に飛び込んで行き、しばらくして祖母と、腕に何かを持ち出して来た。その一つは写真アルバムがぎっしりとつまっていたバッグで、後から思うに家は焼け落ちたが何か大きな財産が残されたと感じる。それから宮川の河原に最終的にたどりつくのだが、不思議と未だにはっきりと思い出せない。極度の恐怖の中で放心状態であったことは確かだと思う。

家族全員がようやく川床に集まったが、祖母は怪我をし、兄は焼夷弾の油脂が右肩にかかり火傷をしていた。数時間のち、空が白みはじめると家族一団となり歩き始めた。前夜の夕食と団らんももう想像すらできない、変わり果てた姿だった。途中、見なれた家々はみな焼け落ちていた。あのような状況では消火だのバケツリレーだのという話は何の意味も為さないと気が付く。

自分の家の焼跡にたどり着くと、期せずして近所の人たちも戻って来ていた。けが人はいても、幸い死者はいないようだった。が、程なくして知人の家の父親が防空壕の中で亡くなっているのが見つかった。私の父は自分の家の扉を外し、その上に死体を寝かせた。黙々と行動する父の姿が子供ながらになんとも言えず気の毒に見えた。

いつの間にか夕方近くになり(空襲の翌日)、雨がぽつぽつと降って来たが黒い雨だった。しかし雨宿りをするところもない。が、行動力のある父がいつのまにか奔走し、徴用されていた会社の社宅に入れるようになっており、隣近所の人も誘って3世帯、計15,6人がひしめく共同生活が始まった。
それから後は自然とばらばらになったが、戦後の混乱等もあり、一緒に暮らした人たちの消息はわからない。

●空襲の後
記憶から絶対に消えない光景がある。強い昼の日差しの中を、着の身着のまま5,6人の男女が重い足取りで行く姿に出くわした。足を引きずっている人もあれば、顔の一部が焼け爛れたような人もいた。通りがかりの人が理由を聞くと、広島から国鉄でようやく芦屋にたどり着き、親戚の家に行く途中とのことで、広島に「新型爆弾」が落ちた、という。噂は聞いていたが、その人たちの話を聞き、その姿をみただけで何かぞっとするものを感じた。当時、原爆とか核兵器などという言葉もなかった。

●終戦
8月15日の正午前、当時疎開していた加古川の家で子供も一緒にラジオの前に正座した。正午になり、ラジオから天皇陛下の声が流れ始めたが、雑音がひどい上に口調や語彙が聞き慣れないものだから、何が何だかわからない。結局大人達も少しずつ立ち去って行った。父と叔父だけはどうやら事態を掌握できていた様で、父は小一時間もたたないうちに「さあ、芦屋に帰れるぞ」と帰り支度にとりかかり、午後の列車に飛び乗って芦屋まで戻った。

●兄の死去
空襲の際に焼夷弾の油脂がかかり大火傷をした2つ年上の兄は、火傷が原因で併発した腎臓疾患から、空襲の約1ヶ月後に息を引き取った。世が世であれば、充分な手当てもできただろうと今でも残念だ。父はその夜一睡もせず、夢遊病者のような仕草で、蝋燭と線香の火が途切れることのないよう次から次へと火をつけていた。ささやかながらの葬儀が行われた。子供に先立たれた父母の心中を慮ると私も無念だった。兄の魂は今も私の心の中にある。

●父の死去
20年の暮れ、大阪に移った。風呂は家にあったが燃料がなく、近くの銭湯に行かねばならなかった。数日通ううちに、蔓延していたシラミが移った。後から後から湧いて出るシラミに閉口しながらも潰す毎日だった。そして年が明け、奇しくも結婚記念日、父は闇市で珍しく衝動買いをして来たが、その後「今日はしんどい」とその場に寝転がってしまった。未だかつてない父の動きだった。シラミを媒体とする、発疹チフスだった。すぐに隔離病院に移されたが、伝染病病棟ということでそばにいられず、時々病室を覗きにいくことくらいしかできなかった。そして3日後、行動力そのものの人であった父は還らぬ人となった。父の亡骸を目の当たりにしても、涙も出ず、ただ呆然と雲の上にでも立っているような面持ちだった。このまま別れなければならないということも全く信じられなかった。こうして家族は、兄、父の二人を相次いで失った。

●母の苦難
父親を亡くし、残された母子三人の前途は艱難辛苦、まさにいばらの道だった。あらゆる苦難を乗り越え、ようやく人並みの生活を確保するまでには、少なくとも15年という歳月が必要だった。とても「苦難の連続」であった、などと簡単に一言に片付けられるものではない。しかし、母は屈することなく頑張りとおし、昭和の時代が終わる寸前(1984年)、75年の生涯を閉じた。父母に対する想い、感謝の念は年月とともに逆に一層強くなっていく。

●海外赴任時代
戦後大学に進み、卒業後商社に入社した。タイ、ヨーロッパ、ブラジルなどに海外赴任の経験を持った。今でこそ海外支店など珍しくはないが、その先駆者的存在だった。日本の高度経済成長と私の歩みは一致する。自分自身への反省も込めて、「お金、お金だけではない、尊敬されるような日本人、日本企業になることが大事」だと思う。

●政治家と国民
政治家、国を動かす人、そういう人の発する言葉を理解し、その人がどういう人かを見極める力を皆が持たなくてはならない。国民を国の為の道具にしてはならない、されてはならない。

●誰もが忘れてはならないこと
戦争や空襲は決してドラマの世界ではない。広島、長崎の原爆だけでなく、世界に例のない大規模な空襲が日本の全土にわたり実際にあったのだ。そして、無条件降伏をし、今のイラクのように占領下におかれたのだ。そういう時代がこの日本にあったことを忘れてはならないし、永遠に語り継がれなければならない。我が家の歴史を語るだけでは、時代に生きた人間として無責任だとすら、何時も感じている。あんなことは二度とあってはならない。世界のすべての子供達に戦争の苦しみと犠牲を強いてはならない。

昭和4年(1929年)名古屋生まれ。京都の大学を卒業後、神戸で就職。日本の雑貨をアメリカに輸入する商社マンとして、1953年に渡米。民間企業職員の渡米は、当時非常に稀なことだったという。1959年にあいこさんと結婚、70年までアメリカで過ごす。帰国後は同会社の日本支局の職員として東アジア・東南アジア諸国に活動の場を移す。その後はイタリアの婦人服輸入などに携わる。豊富な海外取引の経験を活かして、今も貿易に関する相談などを続けている。埼玉県川口市在住。

聞き取り:2003年2月1日
聞き手:新藤浩伸



珍しかった渡米

●大学卒業後、神戸で就職。

●パスポート取得のために東京の商社「三和貿易」に籍を移す。当時は東京でしかパスポートが取得できなかった。パスポートは皮製、手書きの部分もある非常に立派なもの。

●1953年12月、渡米。

●渡米直後、2~3週間は当地に慣れるためマンハッタンにあるYMCAのホテルに住んでいた。そのあと、別のアパートへ。ピアノもあり高級なところだった。近くに住んでいたコロンビア大学の学生を家に呼び、遊びに来たことも。同年齢という事もあり、バーベキューに行ったり、楽しい時を過ごした。「とにかくあそこはね、ちょっと僕には高すぎたね。当時110ドル、会社が3分の1を負担してくれました。あまり治安の悪いところへ行っちゃ駄目だって。とにかく良くしてくれたよ。」

恭男さん:24歳で行きました。就職してから2年弱ですね。

あいこさん:若いでしょ。違う人みたいになっちゃった。(笑)

恭男さん:当時給料が1万円ぐらいだったんです。そのときに渡航費が片道43万いくら。


―今だったら、月給が20万として…片道800万!!始めてアメリカに行く事が決まったときは、どう思われました?

恭男さん:嬉しかったね!嬉しかった。こんなチャンス逃がしたら駄目だと思って。金銭的にも許可が下りなかったし、留学生もフルブライトだけ、あとは私費留学。それも普通では行けない時代だったからね。私は飛行機で行ったんだけども、当時はあまりに運賃が高くて、船で行った留学生が多かった。40日くらいかかった。貨物船で方々寄って来るでしょ。

―40日!ところで、当時のアメリカにいた日本人というのは…

恭男さん:エリートの人達だね。私のような、庶民でニューヨークに渡ったって人は、私はその当時一人も知らなかったです。日本人というと、三井・三菱・住友のような大きな総合商社の出張員。それでも、あれだけ大きな会社でも、2、3人しか来てなかったな。


左:渡米直前の恭男さん
中央:独身時代のアパートの前で
右:日本人留学生との交流



あいこさんとの結婚、アメリカでの生活

●仕入れでたびたび「日本に出張」していた恭男さんは、59年にあいこさんと結婚。
●当時渡米した男性は単身が多く、のちに奥さんたちを連れてくるようになった。当時そういった家族が言葉の壁に苦しむ中、あいこさんは英語が話せたのでそれほど苦労はなかったという。

―ご結婚をされたのはアメリカで?

恭男さん:いやいや。アメリカの三井銀行の支店長から、「君、なにじんと結婚するつもりだ?」って。(笑)そんなこと言われたってわかんないじゃない。そしたら「日本人と結婚したくないか?そしたら俺紹介してやるよ」と言うんですよ。そしてアメリカから帰ってきたとき紹介してくれたんです。

あいこさん:主人はアメリカから出張で毎年仕入れに帰ってきてたんです。そのとき初めて会って。向こうからの社員として。

恭男さん:これはその当時扱ってた商品です。

恭男さん:日本で結婚して。新婚旅行でそのまま向こうに仕事に帰りました(笑)。ハワイに2日ばかりいて。

あいこさん:そのとき私は口に入らないこんな大きなステーキ食べました。飛行機も初めてだし、とにかくエキサイトしてました。全部初めての経験。

恭男さん:で助かったのはね、この人英語が上手だったの。よく勉強してたから。

あいこさん:プラス貿易会社に勤めてたから、嬉しくて行ったってかんじ。

恭男さん:買い物から何から面倒見る必要がなかった。着いた翌日から車引いてスーパーに行ってました(笑)。

―あっという間になじんでしまったわけですね。



商社の仕事

●日本のおもちゃや陶磁器、服飾品といった商品を輸入、アメリカで販売する仕事に携わっていた。

―雑貨を日本から輸入してアメリカで売る、というお仕事は、どんな毎日だったんですか?

恭男さん:仕入れするにはお客さんの声が必要ですから、販売もしなきゃならない。だからセールスマンとよく旅しましたよ。ステーションワゴンに荷を積んで交代で運転して。一番楽しかったのは夜ですね。モーテルに泊まるんですけど、夜になるとモーテルのパブにみんな集まって、面白い話が始まるんです。

―どんな人が?

恭男さん:商売の人や、村や町の訪問者。知らない人がたくさんいるんです。だから、英語を話せるようになりましたよ。

―渡米当時は話せましたか?

恭男さん:勉強はしてましたし、英語を使った仕事をしてましたけども、やっぱり楽じゃなかったですよ。それまでは決まったバイヤーが来て話してましたけど、向こうはいろんな人と会いますでしょ。それに言葉が違うんですよ。南部に行ったとき、こりゃ英語かしら、と思ったよ。バージニア州から下はわかりにくかった。でもいい人が多かったね。

―たくさんの人と会って話されたんですね。

恭男さん:いっぺん行くといい勉強になるよ。言葉はうんとやっておくといいね。向こうに行くとブラッシュアップされます。

あいこさん:話して始めてわかる言葉もたくさん。pretty good  とか gonna とかなるほどって思って。住んでると自然に口から出てくるようになる。

―そうやってアメリカじゅうまわられたんですね。

恭男さん:一件お客さんでね、エルビス・プレスリーの生家のまん前に店を持ってる人がいてね、。テネシーのナシュビル。行ってみたら、なんとなんとすごい、エルビスプレスリーのレコードがずらり。とにかく売り上げがすごかったですね。観光地だったみたいで。うちの会社もあそこはよく売りましたよ。

―お仕事は忙しかったですか?

恭男さん:忙しかったですよ!シーズンによって波がありました。一番忙しかったのは夏から秋ですよ。というのはね、クリスマスがとにかく一番消費が多いときですね。ヒットしたおもちゃなんていったら、もう間に合わないですよ。当時の日本は、おもちゃをアメリカに輸出していたんです。



仕事・家庭への向き合い方

あいこさん:1年経って仕事の成果があがると、年俸の交渉をするんです。お互い納得して決めて。逆に、能力のない人はすぐにくびになっちゃうんです。

恭男さん:まあ、自分で辞めてくよ。合わないっていってね。

―そういう転職が日常的なんですか?

恭男さん:でもいい人は辞めない。このパティなんて、28年いたんだよ。頭がいい人でさ。


あいこさん:みんな仕事終わったらすぐ家に帰っちゃうんですよ。6時には家にいましたね。子どもが生まれても、母親が手伝いに来れるような時代じゃないんですけど、もう6時にいたから、一緒に洗いものしたり、ミルクの煮沸や家のこともまめにやってくれて、助かりました。二人なのにやってこれたのは、向こうの会社が家に早く帰らせてくれたからですね。

―いくら仕事がたまっても残業はないんですか?

恭男さん:基本的に残業はありませんが、どうしても仕事が残っている時は、翌朝早出して片付けるというのが常識でした。もう6時に家を出ちゃう。

―6時!?

恭男さん:7時台から仕事してるからね。

あいこさん:でもディナータイムは家族と一緒。でもそれは習慣で考えかたが違うからよ。

恭男さん:女性は夜のほうが怖いでしょう?それに書類の作成なんていうと、彼女らの力が必要ですから。

あいこさん:みんな名前で呼び合って面白かったですよ。恭男だからヤスって呼ばれて、今でもそう(笑)。社長もボブだし。私も呼び捨て。社長の家に行ったらコートを脱がしてくれるし、ドリンクを出してくれるし。プライベートになれば、友達ですよね。社長も部長もない。

―会社にいるときはきっちりビジネスをやって。

恭男さん:そう。で、外へ出たら友達。

―仕事への向き合い方が違うのかなあ…。じゃあ、会社帰りに飲みに行くなんてのは?

恭男さん:帰りにちょろっと会社近くのパブでビールを一杯二杯飲んで帰るなんてことはあるよ、夏なんかは。でも遅くまで飲んで酔っ払って帰るなんてことはない。この人たちとよく昼飯食いに行ったよ。


あいこさん:女の人誘っても、日本の会社みたいにうるさくない。この写真だって、男の人が後ろにいたって平気で足組んで。みんな平気ね。


カルチャーショック

●車、町、店、あいこさんは当時の日本と比べて、その違いの大きさに驚いたという。「お若いからわからないでしょうけど、当時の日本の状況をわかってると、驚きが違うと思いますよ。だいいち車があるってのでカルチャーショックを受けましたもの。スーパーなんてのもないし。とにかく色彩がすごいきれいで。きれいなタオルがザーッと並んでて。車も行ったらあるし。家族で週末に大きな車で一杯買ってくるのを見てショックでしたね。日本ではかご下げて買いに行ってた、そういう時代でしたから。とにかくすごく広かった。」


色とりどりの風船

―アメリカの生活がやはり一番思い出深いんですね?

あいこさん:影響受けましたね。家族大事にするとか。

―それまでの子ども時代に、戦争を体験されたりしたときとはまるで変わってしまったわけですね。

あいこさん:やっぱり若いときの影響って大きくて、皆さんこの年になると和食とか召し上がられますけど、うち違うんですよ。

―そうなんですか。

あいこさん:今でもサンドイッチだとか、カナディアンベーコンがどうのとか、好きなんですよ。二人で、そんな高いとこ行けないけど、お昼にはサンドイッチを食べます。



スーツケースとパスポートが手放せない日々

●70年、帰国。アジアに仕事の場を移す。
●イングランド・アイルランドにも行ったという。

恭男さん:後に1970年に日本に帰ってきて、東京に事務所作ったんです。どんどんどんどんアジアへの市場が広がってきて、日本にファンクション作れって。それからは、日本を拠点に、香港・台湾・フィリピンを回ってたんです。だんだん日本での仕入れの比重が減ってね。

―市場がアメリカからアジアに移っていったんですね。

恭男さん:だいぶまわりましたよ。パスポートもハンコ押すところない位、あんまり多いから二冊一緒に束ねてね。(笑)


恭男さん:これは香港に出張したときのもの。香港にはよく行きました。これは香港上海銀行本店前。当時はイギリスのカラーが強くて、言葉も食事も。

あいこさん:若かったし楽しかったから、ほんとあっちこっち行きましたね。トータルでその会社は24年。親戚みたいな古い付き合いの人が何人もいますね。

―で70年に帰ってきて、アジアを回られた。

あいこさん:もうトランクしまう暇がなかったですね(笑)。出張だらけ。若いから大丈夫だったけど。

恭男さん:でも会社が閉鎖になって。やはり時代とともに変わってきますよ。今はコンピュータ関係が一番ですからね。閉鎖はいつごろだったかな…会社に24年いたから、77、78年くらいになりますね。結局、この会社は一代で終わったんです。みんな若かったね。全部閉鎖するときは私は定年間近でした。

古いパスポート

恭男さん:そのあとは手伝って欲しいと頼まれて、イタリーからの婦人服の輸入の会社に入ったんですよ。そこに65歳までいましたよ。イタリアの仕事っていうのはアメリカと全然違う。日本に近いですね。やってるものがものだし。だから日本の女性ってのは高いもん買わされてるなって思いましたけどね(笑)。

―「ブランド」ですか。

恭男さん:しかし、ブランドのものを持ってこないと売れないですよ。

あいこさん:若かったら若いだけで可愛いでしょ。だから若い子がブランドを持つって考えられないですよ。自分似合ったものを見つけてくるのが彼らは上手なんです。

―しかしアメリカ、日本、アジア、イタリア…お仕事の範囲が広いですね!

恭男さん:まあ、それだけ長く生きてきたんですよ!(笑)
今も元気に

●当時の仕事仲間が元気に暮らすアメリカに度々遊びに行く加藤さんご夫妻。

恭男さん:ここ7、8年くらいは遊びで行きます。今は子どもさんたちが現役になってるんで面白いです。



恭男さん:これは社長やってた男。今年85の誕生日の男。元気で、まだドライブするし、テニスもスキーもやるんです。これがシニアハウスの中。

―すごい。日本の老人ホームとだいぶ違いますね。

恭男さん:病人じゃないんです。高齢者ってだけでね。痴呆の人もいるけど、痴呆であって病気ではないんです。最近日本じゃ「中高年」というと40歳からだそうですね。

あいこさん:その人に会って、いいなと思えば雇えばいいし、最初から門閉じちゃったらね。40代くらいでもできる方一杯いるのに。

恭男さん:若いことがいいこと、というか、ありますね、この国には。

―「経験」があるというのに…。

恭男さん:それを買わないとね。

あいこさん:日本もそういう風にならないと先進国じゃないんじゃないかなあって思ったり。年配の人も「もう私は老人だから今のことは覚えない、おしゃれもしない」ってなっちゃったらおじいさんおばあさんになっちゃいますね。

恭男さん:向こうでは若い連中が高齢者を尊敬しますよね。バスなんかでも高齢者を見ればさっと立ちますよ。女性だったらすぐ立つね。

―日本だったら狸寝入りだ。

あいこさん:いいレストランで女の人を迎えるときみんな立ちますね。イギリスでもそう。西欧の人はそうなんだなってことがわかりました。

恭男さん:相当高齢になっても、町を歩くのが楽ですよね。

―行ってみたいです、アメリカ!

あいこさん:これからですよ。うらやましいわね、お若いから。まあ誰でも平等に年取るんだけどね(笑)

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