22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2003年09月

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1954年(昭和29年)下宿で洗濯「山口大学Webページより」.jpg


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●関連写真

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大正12年1月3日生まれ。

山梨県上野原の農家の出身。尋常高等小学校卒業後、高等科でさらに2年学ぶ。14歳の時に機屋の女工として年期奉公に。昭和17年結婚。5人の子供を産む。41歳の時に八王子で家政婦をする。

●農家は経済が苦しかったからね、わたしは高等科出たらすぐ年期奉公に出ましたねえ。

○その当時の学制というのはどんなだったんですか。

●尋常小学校が6年でね、わたしはそのあと高等科を2年。余裕のある家の子なら女学校に行けたね。でもたいていは女工さんになって家計を助けてたんだよ。わたしはハタヤの女工をしてたの。

○ハタヤというのはどんな字を書くんでしょう?

●機屋。機を織る仕事だったの。いまの子たちは勉強をきちっとやってればいいけど、あの時は働きに出なきゃならない家がたくさんありましたよ。

○昭和17年にご結婚なさった訳ですけど、最初の間は日本は勝ってましたね。その間少しは生活も楽でしたか?

●いいえ。工場行ってた人なら軍需があったかも知れないけど、農家はそんな事無かったですよ。真珠湾であれだけやったから、みんな米英が攻めて来るとは思わなかったのよ。そしたらどんどん攻めてきたでしょう。

○日本は負けないという風に思ってた事はありましたか。

●お上は日本は神国だから負けないなんて言ってましたけどね、あちこち爆弾が落ちるようになってからはもう、負けると思いましたよ。食べ物だって無いから、そこらの草で食べられそうなのはみんな採られてましたからねえ。とても日本は負けないだなんて、思えなかったですよ。

○こちらにもB29が来たりしたんですか?

●こっちの方に来たのはね、グラマンっていうちっちゃいやつ。これが戦争じゃなかったなら、綺麗だと思ったねえ。八王子なんかは焼け野原にされたけど、この辺りは爆撃なんて無かったですよ。

○ご主人は戦況の苦しくなった昭和18年に海軍に入営という事ですが、心配でたまらなかったんじゃないですか。

●ねえ、だから手紙だって一通も来ないし……。主人はお婿さんだったから、わたしは実家の家族と一緒でまだ助かりましたね。これがお嫁行ってたら心細かったろうけどねえ。主人はゴウコクのハルマヘラ島に行ったんです。

○ゴウコク……? 豪国、オーストラリアの事ですか?どんな字を書きましたか?

●いやあ、よく覚えてないねえ。(筆者註・あとで調べたところハルマヘラ島のある一帯は「濠北」と呼ばれていた模様。参考までに付す)横須賀から軍艦に乗って行ったんだけど、途中で他の軍艦は沈められちゃったんだってさ。ハルマヘラ島に着いても戦闘なんかほとんど無くて、さつま芋作ってたんだって。

○玉音放送は聞かれましたか? ショックだったとか、そんな事はありませんでしたか?

●わたし聞いたけども、あんまりよく覚えてないねえ。ただ、来るべき時が来たなって。だからそんなに感慨は湧かなかったねえ。


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高橋正さん(80) 大正12年生まれ

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修学旅行で2・26事件に遭遇。復員後、故郷の山梨県に入植。炭焼きを生業とする。
●昭和16年かなあ、太平洋戦争が始まった時は……徴用で海軍工廠の方へ入ったんじゃけん、軍属としてね。それでやっぱり同じようにね、工作機械のようにね。

○そこで工作機械の使い方を学んだあとに、鶴見の工場っていうのがそれで?

●ええ、ええ、鶴見にちょっとね、ここに一緒におったひとのね、お父さんたちがいたの。そこであの……なんていうか、それは旋盤が一枚しかないじゃけん、あんまり仕事がねえっちゃ。そんだけんどね、その旋盤工のうまい弟子来てくれっちゅうて。来るね、そこへ。それで……あそこ、小さいガスタンクみたいのを造るってたんだ。それでそこに、小さいバルブみたいのを付けるでしょ。そういうのを旋盤で削って、それでそれを溶接で取り付けるっちゅう訳だね。それをやってたって訳。

○へえ……。

●その後、横須賀の方で……。それくらいもう、軍需経費でね、造船所は忙しかった。そして、浦和ドックはね、輸送船と、巡洋艦……じゃない、駆逐艦か。専門に造っててね。

○ふうむ。

●その中の、色々、造機の部品をね、削る仕事をやってたの。

○その時お母さんが横須賀にいらっしゃったっていうのは、向こうで仕事をということですか?

●いやいや、そうでなくってね、俺のお父さんてのは早く死んじゃったの。それで、兄貴と二人でこっち居たんだけど、それから、何年か経ってね、母は横須賀の方で世話をしてくれる人が居て、まあ再婚してた訳ですね。そういう関係でもってあんまりあの……寂しくなったんじゃないかな、戦争は始まるしね。旦那さんもね、なんか仕事の関係でね、どこか行ってしまったので、弟が……まだ小さい時だから、きっと心細くなって、それで家帰えって来いちゅうかね。それで家に帰って浦和の造船所入ってやってるうちに、どうせ徴兵とられるなら横須賀の海軍工廠はいっちまえって事でね。世話してくれる人がいたから、試験受けてね、そこ入った訳だ。

○それが18歳とかそれぐらいの時ですよね。高橋さんは兵隊に対して憧れとかはあったんですか?

●いやないない(笑)。そんなの。

○じゃあまり行きたくなかったと。

●いやあ行きたくねえって事もねえけど、当時はね、もう義務だから。徴兵検査でみんな兵隊取られてって。それはだから覚悟はしていたけど。そんでもね、海軍工廠行ってたお蔭でね、歳のほうが12月生まれだったから、同級生より一年遅れて徴兵検査だったんだ。

○12月生まれだと次の年に入るのですか?

●軍属で勤めてた関係なんだけど、みんなより遅れて。だから同級生のみんな18年に徴兵されたと思うんだけど、俺19年に。それから20年に、高崎の連隊に入隊したんだ。

○陸軍に。

●うちの親父さんの籍が、群馬県の藤岡だから、その関係でね、群馬の高崎連隊に入隊した訳ですよ。

○横須賀でお母さんが下宿屋さんされてたっていうのは、ほとんど海軍の人が……。

●ええ、ほとんどそうですけど、陸軍の人が一人ね。大津から浦賀の途中に馬堀っていうところがある。そこに、陸軍の銃後学校があってね。そこのね、教官をしていた人。

●海軍の人はね、兵隊さんだったら一週間に一回、下士官だったら三日に一回ぐらいかな。みんな下宿屋さんを持ってるわけ、兵隊さんが。

○ふうむ。

●そういうとこがうんとよかった、横須賀は。

○普段は船で生活してるけど、陸に上がった時は宿が無いと……なるほど。

●そう、それで下宿屋が多かった訳。

○当時横須賀の街はどんな感じでした?

●兵隊ばかりだったですね、ほとんどね。まあ、兵隊で持ってたようなとこだから、あそこね。海軍工廠があって……それから、日本の艦隊の一番のがあった。だから観艦式なんつったらすごいですよね。何十艘って軍艦がね。何回か見たけどすごかった。

○それは年に一回ぐらいあったんですか?

●そうだね、正月にね。

○見物人が見に来たりするんですか?

●いやいや、一般の人は見れなくって。軍が厳しく管理してましてね。

○じゃ、一週間に一回下宿に来る時はみんな羽を伸ばしにって感じなんですね。

●そうそう、なんか遊び行ったりね、それからその……泊ったりね。昔は女の人のそういうのが、横須賀にも三つぐらいあったかな。

○色街に行くんですか。

●まあ兵隊の場合は金がねえから(笑)、帰ってくるけど、下士官になるとけえって来ない人もね。

○その後高崎に行かれるんでしたよね。連隊に入ってから。徴兵検査はどちらで受けられたんですか?

●横須賀で。甲種合格。そして、工兵になったんですが、工兵つったらトーチカ掘って、戦車来るやつをね、棒地雷とか、爆雷とかを持って、蛸壺に隠れて待ってるの。あとは、鉄舟っていうんですが、みんなが河渡る道を作るのに、舟をならべてね、それで丸太を割ってつなぎにして、橋みたいにするんだよね。そういうね、訓練。きつかったですよ。

○きついでしょうね。

●重いやつ4人でかつぐんだから、その鉄の舟をね。

○そうやってずっと訓練をされていて……。

●それで、終戦になった訳よね。4月に入隊してね、8月終戦で。でもまあ10月いっぱいまでは残されてましたけどね。それで十月の末に復員して、その時はすでに横須賀の家は俺が兵隊行ってるあいだにね、軍が強制撤去しちゃった訳。湘南大津の駅の外から50メートル以内は全部撤去ということでね。

○じゃあその下宿屋も。

●だからおふくろさんもね、おれが兵隊言ってるあいだに実家のほうに帰ってて。

○高崎で空襲に遭われたという事ですけども。

●14日の晩でね。それ消火しに出動してね。そして、夜が明けて兵舎帰ってきてからみんな寝ちゃった訳ね。それから何時ぐらいだったかな、昼ぐらいだったと思うんだけども、舎内で整列しろって言われて。天皇陛下の放送があったんだよね。

○ああー。

●そんだけども俺は眠くて眠くて(笑)、聞いてても何が何だかわからなかった。

○そうですよね、前の晩空襲で疲れてますものね。その日も高崎は暑い日でしたか?

●ええ、暑い日でした。その中みんな整列して、直立して。立ってるのがやっと。何言ってるかわからない。当時のラジオはね、聞きにくいっちゅうかはっきりわからなかった。だから、将校なんかだってわからなかったんじゃなかったかな。夕方になってからわかって、そこでやっと大騒ぎになった。

○(笑)。でも、天皇陛下の放送だなんて大変だとは思わなかったんですか?

●いやあ、何が何だか。前夜の空襲からいくらも経たんうちに起こされたから、眠くて。みんな兵舎の中に整列して……。

○前後に並んでいた他の同僚の方にわかった人は居なかったんですか?

●いや、みんなわからんよ。中隊長とか下士官とかでもわからんかったろね。終わったらみんな、んじゃまた寝ていいって事で(笑)。夕方まで寝てたな。なにしろ、終戦だってのはわかったのね。どうも終戦らしいと。そしたらそのあとね、飛行機がビラ撒きに来て。ラジオで放送した件だが、徹底抗戦するっていうのよ。

○どんな感じでしたか、戦争終わったという時は。

●終わったけんど、終わったという感じしなかったね。幾日か経ってから、負けて、降伏したんだと。将校なんかは口惜しがってね。

○でも10月末まで連隊にいたという事ですけど。

●旧農家のお蔵に、靴だとか何だとか物資を預けてあるという訳よ。それを全部トラックで集めてあると。それ連隊持ってきて、兵舎に収納。一ヶ月以上かかったですね。

○立川、東京を経由して山梨へ。何年ぶりの帰郷でしたか?

●そうですねえ、14,5歳で出て……22歳で帰ってきたのかなあ。

***

★太平洋戦争開戦の年、昭和16年に徴用で海軍工廠に入った。その後、鶴見の工場、横須賀、浦和ドックと渡り歩いた。

★当時の造船所はどこも忙しかった。

★父君ははやくに亡くしていたが、母堂は横須賀で再婚して下宿屋を営んでいられた。母堂に呼び寄せられるようにして横須賀へ行った。

★下宿屋を利用したのはほとんどが海軍の兵士。普段船上で生活している彼等は羽を伸ばしに来ていた。将校クラスなら毎日でも泊まれたが、普通の兵隊は一週間に一度ほどしか来られなかった。

★横須賀では正月に観艦式が行われたが、一般の人が見る事は出来なかった。

★徴兵されたのは昭和19年の事だった。同級生はみなその前年に招集されていたが、海軍工廠で働いていた関係で一年遅れの徴兵検査を受けた。

★工兵として訓練を受けていたが、そのまま終戦を迎える事になった。玉音放送の前夜、空襲による火事の消火活動に携わっていたため、放送を聞いている間眠かった。

★玉音放送の意味は、その場に居た人間の中にはわかった者は居なかったように思う。自分も最初はピンと来ず、幾日か経ってから負けたという実感が徐々にに湧いてきた。

★農家の蔵に預けた物資を処理する関係で、10月末までは連隊で活動を続けた。兵役に就いているあいだに、母堂の営んでいた下宿屋は軍によって強制撤去されていた。


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聴き取り活動に使用できる「取材キット」を作りました。

よろしければ、ご活用ください。

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奥地隆吉さん(73)
神戸生まれ。3歳で父親を亡くし、10歳で一家離散となる。平戸の雑貨屋、服屋などで丁稚をし、昭和17年、兄を頼って東京へ。木工所で兄の手伝いをしていたが、戦争の激化に伴い、銚子の造船所で働く。現在は江戸川区在住、印刷業を営む。

日時:平成15年5月16日
場所:東京都新宿区神楽坂
聴き手:新藤浩伸

年をとれば考え方も変わる

戦後日本の復興は早かった。昭和27年に、戦前の最高水準に戻ってます。当時の首相は吉田茂。私嫌いでね(笑)。年齢から考えて御覧なさいよ。そのころの19はたち、24,5の連中が自民党を支持することなんてありませんよ。共産党、社会党ばんばんざいってなもんですよ。そのあと40歳、50歳になれば、社会党・共産党ではだめだって思う。40歳過ぎても共産主義の理念持ってるようじゃ先が思いやられます。早い人は35、6歳から保守的な思想に変わっています。その年代は何もありませんからね。金もなければ地位もない。おやじと大喧嘩するのってそのころじゃないですか?

―します。

そうでしょ。会社でも商店でも同じこと。親父のやり方じゃ従業員はかわいそうだ、もっと給料上げてやらなきゃって、正義派の人なら思います。ところが自分が経営者になると、結局自分が非難した親父のやり方になっていくんですよ。現実路線。個人でもそうだから国でもそうなるんじゃないですか?必ず自分が責任者になると変わってくる。何の責任もないときは勝手放題言ってられるけど、それでは担えないですよ。



子供時代
生まれは神戸、それから平戸へ。苦労ばっかりで、ちっともいいことなかった。3歳で父親、10歳で母親が亡くなる。生まれは神戸。神戸駅から出たら目つぶっても行けますよ。もう家はありません。もう教育もないですよ。小学校出てすぐ丁稚小僧に行かされた。 丁稚は長崎のこんにゃく屋。木工所をしていた父が死んだ。神戸の家は、使用権はあったが土地の権利はなかった。父の死後兄は言った、「おまえの親父も爺さんもばかものだ、地面を買わず3000円も払うばかがあるか。」と。月5円とか10円あれば、三人とか五人が暮らせた時代です。それが大正の末、その前の3000円です。父の契約がまずかった。江戸から明治にかけては、土地の値段などあってないようなもの。例えば有名な新撰組の近藤勇、小日向の道場を売ったときは、買う方の気持ちだったって言います。日本橋あたりでこそ、土一升金一升と言ったでしょう。でも他はそんなもんだったでしょう。不動産への認識が薄かった。特にうちは職人。それでつぶれて一家は離散、親父の骨の行方さえわからない。3歳で亡くなり、何年か頑張ったが、小学校4年で平戸へ。おじ、母親の兄貴のもとへ。

―3歳から10歳の頃が苦しかったと。その頃の思い出はありますか?

苦しいなんてもんじゃありません。当時は一軒一軒餅屋がきて軒先で餅をつく。それができない。子供の目からしてもやって欲しい。そういうどん底の生活。

―そのあとは?

おじが心配してくれて。気持ちのいい人のところへ、と。当時志佐といっていたあたりの、酒もこんにゃくも売る村に一軒あるよろずや。昭和15年、景気よかったころで忙しく、人を雇っても居つかず、小僧を欲しがっていた。私をそこへ連れてった。今もやっています。おじは「約束した手前、一週間でいいから行ってくれ」と。はがき一枚、自分の名前を書いて持たせてくれた。「嫌になったら、『迎えに来てくれ』と書いて入れろ。本当に嫌ならこのまま入れろ。そしたらわしが迎えに行く」という。そしたら忙しいうちで、朝6時から夜10時ころまで、休む暇なし。近所のばあちゃんが親切で「あんたどっからきたの?」と聞く。そうすると、おじを知っている。それでおじのところまで行って、「あんな小さなからだで働いてたら病気になる、だめだ」といってくれた。これで親戚中一騒動。小学校しか行かせられなかったから悪いと思っていたんでしょう。おじは「わしが迎えに行くぞ」とはいうものの、自分で頼んだ手前行きづらい。で、分家のおじがうまく丸め込んで3ヶ月で辞めた。それで、こんどは呉服屋で丁稚をしてもらおうとしたが、さっきのおばあさんと知り合いだからちょっとやりづらい。でもそんときはそんときだということで、呉服屋に行くことになった。それが昭和15年6月末ごろの話しかな。そこで約2年。

―丁稚が長かったのですね。



東京へ

兄は、知り合いのつてで東京へ行っていました。今の江東区、両国駅そば。映画館があった。そのフィルムを運ぶ仕事。映画館から映画館へ。あういうことをしている人間は半やくざばっかり。それで映画館の人が「おまえここにいるのはいいんだがどういうつもりだ」と聞くと「まともな職人になりたい」と。それである木工所へ。そのあと兄の消息が知れて、私も東京に行きたい、と頼んで、東京に出たのは昭和17年6月13日。

―戦争中ですね。

私が上京する直前の昭和17年4月、ドーリット立案の東京空襲。昭和16年12月8日の開戦以来、打ち沈むアメリカの士気高揚のため。

―はじめはお兄さんの手伝いを?

同じ工場で兄貴の手伝い。ところが昭和18年、兄貴は兵隊へ。だんだん戦争はひどくなってくる。当時椅子を作っていたが、平和産業でだめだということで、訓練用のもくじゅう(木銃)を。そのうち嫌になって辞めちゃった。そして職業紹介所に行ったら、館山に基本船をつくる工場を紹介された。そこで二ヶ月訓練を受け、各造船所に配属。二ヶ月過ぎる頃、同じ部屋にいた男が「卒業したら俺のとこに来い、食い物はあるし米はある」と言う。食い物がない頃だったので、「それなら俺もいこうかな」と友達と二人で。利根川の川っぺりの船大工、救命ボートを作っていた。ところが従業員は洋服屋や米屋の旦那。寄せ集めでさっぱり船なんかできやしない。一隻もできやしない。田舎の船大工の親方なんですね、経営技術がない、川船はできるが近代技術はできない。結局私ら二人は半年いるかいないないかでクビ。それで横浜ヨット工作所で工員を募集していたので、そこへ。それまで高速艇を屋内でつくっていたが、昭和19年、それをやめて体当たり用の船をはじめた。特攻隊用のベニヤのボートを。

―ベニヤ?

そう。ベニヤ。二人乗り、スクリュー、操縦席、ハンドル、トヨタのエンジン70馬力、機関銃、無線、船首に150キロ爆薬。敵艦に向かって命中を間違いなしとなったら、舵を固定される。そして前をドンとけると椅子がひっくり返って海に落ちるようになってる。

―はあ、そんなもんなんですか?

何感心してるんですか?だってそうしないと海に落っこっちゃうじゃないですか。それじゃあ天皇陛下の許可が下りないっていうんです。それで落っこちたところへ、それより早い船で落ちたやつを拾い上げる。実戦にも使われたが効果がない。昭和20年6月ごろ、船にカバーを付け出した。沖縄戦の頃。米軍は海に無数の丸太を浮かべた。なんたって海が浅いんです。のしあがっても動けるように取り付けた。でも実際には効果なかったと思います。 船は横須賀海軍工廠に納めていたが、終戦間際は銚子で爆薬を詰めるところまでやった。工員は当時学徒動員で3000人。

通用門近くの倉庫で爆薬を詰める。「用のない者は近寄るべからず。その中でやっていること、話しても聞いてもならん」でも三日も経たんうちにみんな知ってる。余計話したくなるでしょ。見た人間の話では、茶色の飛行服、民間では絶対手に入らなかった真っ白い絹のマフラーを身に着けて、「さらば」とやるわけです。そりゃ感激しますよ。そういう光景もあった。働いている女の子は胸が熱くなったと思いますよ。もうこれで再び帰ってくるかどうかわからない。・・・

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