22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2003年08月



東京 はやぶさ



熊本

鹿児島

鹿児島港

与論島



与論島

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●奄美が返還されて50年。そのころの出来事で思い出深いことはありますか?

○大きな声で叫びよったゎ。すごく喜んでもぅ、鹿児島の学校、受験する子供は、「おとーさーん、おとーさーん、私大学に行けるよぉー。内地に行けるんだよぉー」って叫んで走ってきよった。「返還したよー、ばんざい、ばんざい」って言ったことを今も目の前で見えるようだねぇ。

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● 白尾フミさん
昭和3年3月19日生まれ。鹿児島県与論町在住。15歳の時、機織りを習いに鹿児島の姉のもとへ。翌年、工場(こうば)
が潰れ、親戚をたよって大牟田へ。三河鉱第一生命寮で坑夫の賄いをする。終戦にともない帰郷、昭和28年結婚。

○ 聞き手

***

◆◆昭和18年8月、白尾さんは15歳の夏に機織りを習うため故郷の与論島から鹿児島の姉のもとへ向かう。

●琉球丸ちゅう名前の船乗って行ったんだけどね、途中、永良部島と与論島の間ぐらいで潜水艦が見付かってね。

○アメリカの潜水艦がですか。

●危ないっちゅう事でいちど引返して、途中の港で一泊してからまた行ったんですよねえ。そしたらそれ聞いた
うちの親父が、いま行かせたら危ないってんで小船出して漕いで来てね、『降りて来い、降りて来い、島に帰ろう』
って、私を船から降ろそうとしたんです。その姿がいまでも目の前に見えるような感じですねえ。

○そりゃ、危ないですもんね。

●けど私は、『絶対行く。鹿児島行く。行きたい』って言って、父を泣かせて帰らせたんですよねえ。それが一番
かわいそうに思いましたね(笑)。帰ってきた時、『お前が生きて帰ってきたからおれはお母さんに怒られずに
済んだ』って喜んで。親父の涙を見た。

○昭和18年・・・まさに戦時中ですからね。

●それから一年して、その正月は鹿児島で機織った。2ひきぐらい織ってる間に世の中が変わってたんだ。その工場
(こうば)が、もうあんた達雇えないから、なにか他の仕事探してくれって、追ん出されて。

○ほう。

●しかたなし、おじさんを訪ねて大牟田まで行ったんですよねえ。与論には船出ないから帰られないし。親戚の
おじさんの紹介で、第一生命寮っていう……鉱山ですね、朝鮮人がたくさん、600人ぐらい収容されてるところ
の飯炊きに入って。16人ぐらいの炊事婦がおって、交代でそこで働いた。

○ふうむ……。

●空襲がやってきた時にね、飛行機がその寮を焼いてしまったんですよ。朝鮮人の住んでるところを。

○その寮、第一生命寮をですか?

●焼けてしもうてね。その後、内地に空襲が烈しくなって来たの。それから天皇陛下の、あの……声を聞いて、
戦争はもう負けましたちゅう事で、何もかも終ってしもうて。仕事も何もかも。朝鮮人も帰して。それからあの
ね、捕虜よ、捕虜、捕虜。アメリカの捕虜がわいわい騒いで来てね、俺たちを殺した日本人をやっつけてやるっ
てそこから出て来てね。私達それ取り締まる力もないから。日本の国は負けたからね。

○……。

●飛行機から食糧を、石炭増産するとこに落下傘で落すんですよね。缶詰やら。それが落ちて来た時は捕虜が
ワァーッと来て掴むんですよね。

○アメリカ兵の捕虜が。

●それ食べてワアワア叫んで……私達んとこで養ってた豚まで引っ張ってって食べちゃって。何とも言えないです
よねえ、負けたら。それ会社の豚なの。養えって持って来られたのを、私達養ってたの。

○それが大牟田にいた時の話ですよね。すると大牟田には何年まで居たことになるんでしょう?

●(昭和)20年かなあ。


◆◆終戦後、白尾さんは与論に戻るため鹿児島に向かう。練兵場に収容されて引揚船の出るのを待った。与論島
の人ばかり数百人の集団で船に乗り、奄美を経て与論島へ帰った。帰ってみると食べるものが何も無く、家では
芋を作って食べていたという。しかし、前浜などの海で海藻類、貝類、タコやウニを採って食べられたとか。

●生きて帰ってきたら家族がみんなで来て、良かったって。その時私着物なんか無いよ。なんも無いよ。裸一貫
で帰って来てね。でももう家族は、生きて帰ってきただけでいいって。

○戦争中は大変でしたね。

●それはでも、みんなそうだから。誰もがそうやって苦労して来たんだから。

○あの時と比べるといまはいいですか?

●そりゃあ地獄から生きて還ったんだもの。


◆◆白尾さんは昭和28年に結婚。また機織りを始めた。ご主人は店を始めた。島の米を精米して、沖縄まで行って
商売をした。当時の沖縄は物不足だったのでよく売れた。今でいうヤミ商売だったという。白尾さんは与論島の名
前にまつわる面白い話も聞かせてくれた。

○ちなみにご主人のお名前は何と?

●主人の名前は書かないでよお(笑)。うちの人はね、名前が2つあるの。家の名前と戸籍の名前があるわけ。うち
の息子は「ジャ」。それは先祖の名前なの。

○それが家の名前なんですか?

●おじいちゃんが「ジャ」っていったからそう付けたわけよ。私は「ナビ」。与論の名前ね、「ナビ」とか
「ウトゥ」とか「チュウ」とか「ハニ」とか「マチ」、こういう名前があるわけよ。先祖の付けてた名前だから。
おばあちゃんの名前は「ナビ」だったってから、私も「ナビ」って付けられたけど、戸籍のはまた「フミ」って
付けた。

○フミさん。

●そういうあれが……ずっと与論にはあります。2つずつ。

○さっきのお嬢さんにも名前が2つあるんですか?

●あれのおばあさんは「ハナ」だったけど、「ハナ」って呼んだ事ない。「エミちゃん」って呼んでる。最初に
生まれた子供はおばあちゃんの名前付ける。男の子だったらおじいちゃんの名前。この島の人はそうするの。昔
からの伝わり、それ。

○その名前というのは、家の中で使うんですか?

●使うけどね、学校行ったらそれはやっぱり戸籍の名前使う。家の名前誰も知らないから。家で使うだけでみんな
家の名前は言わない。最近は、もう2つ名前付けるところあまり無いですよ。


◆◆先祖は神様で、「ジャ」=ご主人の祖父は、「いちばん上の神様」。ご主人と知り合った話も聞かせてくれた。

●昔は、二十歳十九になったらね、男の人がが三味線弾いて、むすめの所にトーン、トーン、トーンって来たの。
すると女の子は、『あれ、三味線が鳴る。誰かなあ、誰かなあ』って迎えに出るわけよね。すると、(男が)『あな
たの家に遊びにきたよー、僕と遊んでくれるー』って。それが縁組のまえの、出会いという事になるんですよ。

○そうだったんですか。

●男の人は友達も連れて来るんですよ。出てって、涼しいとこ茣蓙敷いて、輪を作って遊ぶんです。踊ったり歌った
りして。いまはもう無いですけどねえ。

○そういう遊びがあった訳ですか。

●歌ったり踊ったり、楽しみがあるのがやっぱりいい暮らしですよね。だからああいうのは昔に返ったほうがいい
かな。男が三味線持って女のとこ行ってっていうのはとてもいいと思います。それは雨でも降らん限り毎晩やりま
した。

○毎晩のようにやってたんですか? その風習はいつ頃までありました?

●えーっとね、昭和……40年ごろまであったと思います。だんだんと消えて行った。

○ご主人もやっぱり三味線を弾いて……?

●この人は、不器用で出来なくてねえ。いっかいすごい歌の上手な人が来たんです。その人の連れて来た中に混じっ
てて。

○そうなんですか(笑)。

●だけど、お互いに自分にはこの人がいいんじゃねえかなって感じることが出来て。他に楽しい人、心の優しい人も
いっぱい居たんだけどねえ、だけどそういう、何か運命の与えてくれた人って気がした(笑)。


◆◆奄美諸島が日本に返還されて50年になる。当時白尾さんは25歳。最後にその時の思い出を紹介。

●その時は……何かワアワア、みんな大きな声で叫びよったわ。返還したっつって喜んで。受験する子供は
『おとーさあん、おとーさあん、私大学に行けるよーっ』て。『内地に行けるんだよーっ』って叫んで走ってきより
ました。弟が畑仕事してるとこへ、男の子が夢中になって『返還したよ、バンザイバンザイ』って喜んで来たの、
今でも目の前に見えるようです。

***
**

★昭和20年夏、食べるものは何もなく、みんな芋を食べていた。しかし、前浜などの海に行けば、ホンダワラなどの海草、タコ、ナマコ、ウニ、貝類などが豊富でとてもおいしく食べた。

★家の周辺は荒れ地で、発破を使って地ならしをした。何をするにも力が必要で、力がなければ生きられない時代。

★昭和28年1月に結婚。その後、30年、フミさんは機織り、ご主人は店を始めた。最初は島の米を精米して沖縄に持ち込んで商売した。当時沖縄はまだアメリカ統治下であったが物不足だったためによく売れた。今でいうところのヤミ商売である。

★昭和20年代始め、土地の金比羅に詣でるのに、みんな金がない。そこで、みんなで米を出し合って管長がまとめて奉納した。

★昭和18年8月、機織りを学ぶために、フミさんは鹿児島へ。鹿児島には姉がいた。船の名は「琉球丸」。沖永良部島に差し掛かったあたりで米軍の潜水艦が表れたという情報が入り、とても恐怖した。

★昭和〓年、与論に戻れず、親戚を訪ね、鹿児島から大牟田へ。三河鉱の第一生命寮で朝鮮人鉱夫向けの賄い婦の仕事に就く。そこには朝鮮人が600人も働いていた。

★戦後、鹿児島に向かった。与論に帰るためであるが、なかなか実現できない。鹿児島でしばらく”収容”された後、与論行きの乗船できることに。何百人かいたがみんな何も持たず、着物すらない。

★島に戻ったら、家族は喜んだ。地獄から生きてきたようなものだ。

★与論には、戸籍の名前と「家の名前」がある。家の中では、「家の名前」で呼び合う。ちなみに、フミさんの「家の名前」は「ナビ」。先祖(おばあさん)の名前にちなんで付けられた。

★「家の名前」は先祖の名前にちなんで付けられる。フミさんのお子さんは、長男から「ジャ」さん、「ウシ」さん、「フラ」さんという。「ジャ」という名は、ご主人の祖父の名、「ウシ」はご主人の父の名、「フラ」は自らの父の名が付けられた。

★ご先祖様は神様であり、「ジャ」=ご主人の祖父は、「いちばん上の神様」である。島には、他にも「ウトゥ」、「チュー」、「ハニ」、「マチ」、「ムチ」という名もある。ただし、学校などでは戸籍の名で呼び合い、使用することはない。最近ではすっかり廃れてしまった。

★19歳、20歳になれば、男は三味線を弾きながら、女を訪ねる。女は手をたたいてそれを迎える。月の晩、草原に茣蓙を敷き、車座になった。そこで踊りを踊ったり、歌を歌ったりして、それは楽しいものだった。それが縁となって、結婚することもしばしばだった。

★フミさんのご主人もその席で知り合った。ただし、ご主人は不器用な人で、三味線が上手な人に混じってやってきた。これが縁で結婚した。

★戦争に負け(いくさに負け)、朝鮮人を帰すことになる。そこでフミさんは仕事を失うことに。

大正10年生まれ。沖永良部島の少年学校を卒業後、20歳で兵役に就き満州へ。昭和20年ソ連の捕虜になり、
重労働に従事させられる。昭和22年帰国、農業を営む。35歳の時和泊町町会議員に。
◆兵役

●末川さんはお生まれが大正10年ということですので、関東大震災のちょっと前ですね。

○うちは家が貧しかったからさ、けっきょく中等学校にも行けなくって。尋常高等小学校というのがだいたい8年かかるんだよね。それから青年学校行って……、もうその当時は兵役の義務あったでしょ。徴兵検査で甲種合格になってね、あとは軍隊生活よ。

●徴兵検査の時はおいくつだったでしょう。

○二十歳よ。あれは義務だからね。三大義務ってあったんですよね、我々の時代。納税、兵役、教育の義務。日本国民だったらいやおうなしに、その歳なったら徴兵検査受けると決まっとったからね。

●ふうん……少年学校におられた頃、世間では二・二六事件とか物騒なことがあった訳ですけど、当時それをどうご覧になってましたか?

○その時はあまり関心とかなかったねえ。満洲事変なんかもあったけども。

●そんなに危機感を感じたりはなかったんですか。

○僕等の時の教育ってのは、いわゆる天皇というのが、なんて云うかな、神様ということで奉ってたんだ。結局あの……絶対服従だと。そういう教育だからね。それにたてつく事できないし。そういう教育でずっと来て、やがて戦争が始まったということでね。まあ結局、不幸な戦争ですよね。原爆投下されたり……。まあ僕は、日本国民として生まれたからには自分の国守るのがつとめだと、そういう教育受けてたからね。

●昭和17年、徴兵されてから鹿児島へ行ったというおはなしですが、これはどうしてなんですか?

○僕等は満洲行くんだったけどね、いちど鹿児島に集められたの。(昭和)17年の1月10日だったかな。満洲って寒いからね、一期間(3ヶ月)そこで訓練受けてから5月に満洲へ渡ったの。そろそろ暖かくなってるから。

●満洲行くときはどこから、佐世保とかからですか。

○いや、門司から。門司から大連に出て、そこから列車。すごい臭い、ニンニクのにおいのする列車でな。当時の満洲はほんとうに立派な、日本の領土みたいな格好になっとったからな。何時間ぐらいだったかな、電車でゴットンゴットン揺られて……5月にもなると向こうも暖かいんだ。

●満洲はどちらへ?

○ハイラルってとこだ。71連隊558部隊に入ってね、それからいろいろあったんだよな。

※末川さんは下士官を志望したので教導学校へ行く。連隊に戻って来てから一年ほどで軍曹に昇進した。 満洲へ渡ったのは末川さんの代が最後で、ご本人ものちに別の連隊に転属になったという。



◆抑留された前後

●初めて行かれた満州のご感想は?

○広いなあーと思ったな。海で水平線見えるでしょ、あれと同じ状況。もう地平線がずーっとあるわけよね。おおーきな河(黒龍江)もあるしね、それ渡ると陣地なわけよ。そこからソ連軍の陣地も見えたよ。

●ソ連軍といえば、その何年かまえにノモンハン事件がありましたね。

○それは僕の行くまえ。みんなやられたんだ。結局ノモンハンというのは、何と云うかなあ、向こうは部隊も大きくって戦車だとかにしても進んだ機械のもの持っとった。それで散々やられたの。

●いつか自分達もソ連とやるんだって思ってましたか?

○その時はソ連と不可侵条約結んでたんだよね。お互いが攻めない、と。だから警戒はするけども、まずソ連は入ってこないだろうと考えとったけどな。ところが最後、日本が負けそうになったら、来たよ。

●はい。

○だから結局ああいった国にとって、条約なんてのは紙切れみたいなもんだったんだよね。こんな常識の無い国だったとは思ってなかった。だから抑留されてからもソ連の兵隊と付き合いしたり、どこか行ったりしたけどね、教養の無い人間がたくさんおる。あの連中見てたらね、負けたのが口惜しかった。本当に口惜しかった。

●ソ連が攻めてきた時は昭和20年の8月ごろですか?いつものように守備に付いてたら攻め込まれたという感じですか。

○うんにゃ、7月には攻めて来たよ。いきなり国境越えて。

※ソ連の参戦、そして終戦へ。「そこからが面白いんだ」と末川さんは語る。末川さんのいた第二大隊の人たちには、フィリピンに転属され、上陸作戦に失敗し玉砕した方々もいるという。「そういうこと考えると、人間ってのは運だな。僕も行ってたら今ごろ生きてないだろうし」

●ソ連に攻め込まれる直前になにか前触れはありましたか。

○前触れなんかないけども、ああいう国だから、この際満洲押さえとこうって事で入り込んだわけよ。満洲はそうとう豊富な資源があったからね。中国は満洲に対して力無いし、結局は朝鮮の北の方まで支配下に入れたわけだな。

●その瞬間にはどうされてました?

○戦闘態勢取って陣地入って、やったんですよね。けど、向こうは戦車でダーッと来るんですよね。兵器なんかでもいろんな面で劣勢だった。対抗するだけの力は無かったよな。

●勝ち目無いって感じでしたか。

○まああそういった感じだね、当時の状況からすればな。だって日本なんてこんな小さな島の人がさ、支那からあんた南方までずーっと守備に行ってたからな。それだけ戦線が広がれば駄目ですよ。

●ハイラルの街にもけっこう民間人が居たことと思いますけども……。

○居たよ。当時の国の政策でね、開拓団というのがあったんだ。義勇軍とかなんとか名前付いとったけどね。その人たちが連れて行かれるんだけど、最後は小さな子供までが、南のほうへトボトボ歩いてくんだよ。恐らく最後まで生きて帰れたのはほとんどわずかでしょう。いちばんかわいそうだったと僕は思ってますよ。

※ソ連軍は末川さんたちを日本に帰すからという話で武装解除を命じた。が、連れて行かれた先はクラスキー。その次はナホトカ。待っていたのは強制労働の日々だった。「ただ運のいい事には、僕等がナホトカ着いたの最後だったから、日本に復員する時いちばん最初に帰れたんだ」

●2年間抑留されていたということですが、どんな事をさせられたのですか?

○いろんな事させられたな。でも最初は良かったのよ。満洲の物資をね、クラスキーの駅まで運んで来たのを汽車に積んだり、けっきょく物資の積み降ろしだね。それを僕40人ぐらいの兵隊といっしょにさせられたんだよね。その時は食糧もあったから、何不自由しなかったわけよ。それが約3ヵ月ぐらいで終っちゃって今度はナホトカ連れてかれてね……それから重労働になった。

●ナホトカではどんな感じの事をさせられました。

○あの、港の埋め立てやる時にさ、発破かけて石を割るでしょ。その石をずっと集めてくんだ。1人当たりノルマが決まってて、それ達成するのにくたびれてね。

●重労働のなかで、亡くなられた方とかはおられませんでしたか。

○いやあ、だからもう零下30度40度でしょ。それでも仕事さぼる訳にはいかないから……でも、僕がいまでも元気あるのはそういう苦労してきたからよね。鍛えられたわけよ。

●そんな生活のなかで、いずれ日本に帰れるんだとか、そういう希望は持てましたか?

○それは何か、いろいろ情報入っとったからね。

●あっそうなんですか。

○まあそれまで死なないようがんばろうと。ただ食糧がさ、これっくらいの枕みたいな黒パンでね、まずいんだよ。それだから道端のセリとか取って食べるし。やっぱり人間ってのは食いものが無くなると心も荒んでね、泥棒してでも食べたいとか、そういう気になれるんですよね。生きるためにね。そういう辛抱したから、僕もいま精神的に肉体的に、きたえられたんじゃないかと思ってますけどね。

※抑留を経て故郷に戻った時、末川さんは27歳になっていた。それから農業をしていたが、その後「若い連中に勧められるままに」町会議員を務める。末川さんの居ないあいだ、沖永良部の島も大変だった。空襲のほか、島の守備隊を標的とした「もう、水兵さんが見えるぐらい近く」からの艦砲射撃もあった。「ポン―ポン―ポン―」(射撃の音)

米兵の上陸こそ無かったが、被害は相当なもの。家屋の屋根などは萱葺きなので、焼夷弾が落ちるたび焼けたという。

末川さんの弟さん(四男。末川さん本人は次男)も中学を出ると同時に学徒動員で召集され、関門海峡で敵の魚雷ために落命されたという。もうひと月もすれば終戦という時期だった。



◆最後に

○まあ、戦争というのは本当につらいもんですよね。日本は負けたんだ結局……兵隊さんだけの戦いじゃなくてその頃はやっぱり、何て云うかなあ、軍でなくてもやられたりやってるわけよね。

●帰ってこられた時はさぞかし驚かれたでしょうね。どんなお気持ちでしたか?

○そうですねえ、もう米国の占領下だから、(星条旗といっしょに)日本の国旗も立ってるような状態じゃな。われわれ日本の国旗見て一生懸命軍隊でがんばってきたけども、それもかなわず敗戦になっちゃったって、そういう風に感じたな。

●島に星条旗が立ってたんですか?

○星条旗立ってなくても結局日本の旗立ってるって感じかな。教育とか全部違って来るでしょ。行政とかね。日本から分離させられたようなもんだからな、沖縄といっしょにね。

●そういえば今年(2003年)がちょうど返還50周年ですね。

○おお、そうなんですよ。だから、今年はおっきなイベントやるんですよ。

●末川さんの目からは、いまの日本はどう見えるのでしょう。

○いま人殺しとかいじめとか多いでしょ。僕等の時は心の教育が徹底しとったからね。だから道徳教育というのが、いま何か駄目だな。僕等の頃は修身と云ったけども。いまの若いみなさんには、もっと自分の祖国というものをね、どういった目で見るのか考えてほしいですね。僕もう83で、いつお迎えが来るかわからんけども、目の黒いうちはやっぱりこう、世のため人のためでやってきたんだから。これからの日本はちょっと耐えないと駄目かな。逆境に耐えられるようなんないと。心の強い子供を育てないと駄目だと思います。それが僕の持論ですね。

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