大正8年、鹿児島県生まれ。

国鉄職員を経て、昭和14年に入隊。旧満州各地を歩兵として転々とする。終戦後はソ連軍から逃げ続け、昭和23年、大連より帰国。

昭和24年に東京・神楽坂に居を移す。その後独立、会社役員としての生活の傍ら、国会図書館に通いながらアジア近現代史を自主的に学ぶ。戦友会も束ねるなど精力的に活動している。

日時:2003年5月15日
場所:神楽坂
聞き手:新藤浩伸

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国鉄職員から歩兵へ、満州各地を転戦

国鉄職員。3年いて、昭和14年に満鉄、15年に入隊。部隊の歌は土井晩翠がつくって。徴兵検査は満二十歳。満鉄に一年いました。でも得したことは、あそこは中国人の先生が中国語を週に2回くらい2~3時間教えてくれました。難しい話はともかく、普通の会話は困らない。一人でどこへでも行けます。

―今も?

いま中国に会社を作って。いま変な病気が流行るんで行きませんけど、去年も行ってきました。戦地では、鉄道職員としてではなく、歩兵として。体格よかったから機関銃兵。一分間に機関銃は600発。 55キロの機関銃を分解し、27キロと28キロのものを担いで山でも何でも登る。

―!?すごいですね。

4個中隊、各中隊から選抜された討伐隊、軍用列車で毎年。そして太平洋戦争開始。満州国安定のための戦い。終戦間際は、万里長城付近でのたたかい。列車に乗れば、行く限りの大平原大平原。そこにこれだけの鉄道網の整備を。特急アジアは、大連が基点。奉天、ちょうしゅん、ハルビン。昭和の初期に冷暖房をそなえとった。満鉄総裁だった方が提唱して始められたですよ。

―実際の戦闘も?

ありますよ。たくさん仲間が死にました。階級章は私の頃から肩から襟に。狙われて撃たれるからね。



終戦、脱走、帰国

―終戦後は?

23年、大連から帰国。3年間捕虜生活。中国語をしゃべれるようになった。9月の末、捕虜収容所を脱走して、中国人の農家に飛び込んだ。日本の軍隊はいい服着てるから、中国人の服と代えてもらって。関東省は果物、とうもろこし、さつまいも、何でもできて食べるに困らなかった。奉天から大連まで、400キロくらいを半月ちかくかけて行きました。ソ連軍が入っているから無政府状態。下手に外を歩くとまたひっつかまって連れてかれてしまう。あんまり目立たないようにして、3年間もぐり続けましたよ。

―では捕虜としてではなく、逃げながら3年間を!

一般人の中にまぎれて。大連は日本の租借地、行政区域だから、たくさん日本人いました。神楽坂に来たのは昭和24年。出版の仕事を。しかし倒産、お客さんから、「独立したら仕事回してやるよ」といわれ独立。

―そしていまは図書館がよいを。

満鉄なんて、兵隊行った人でもあんまり知らないでしょう。成り立ちや歴史的なものや。独立守備隊の任務が何だったのかを知りたい。台湾の歴史を知りたい。

―どのあたりの歴史が、今言われている事と違いますか?

重慶まで行って、蒋介石と話ができる度胸のある政治家が欲しかった。

―今は戦友会の事務もなさって。

仙台と靖国で交互に慰霊祭。昭和6年9月18日奉天郊外の柳条溝事件(注:満州事変)の実施部隊がうちの部隊だったんです。それでいつもこのあたりで慰霊祭を。うちの会の第一回会長は、柳条溝事件の部隊長。平成3年、「私の履歴書」に載った島本・部隊長。 靖国の小さい部屋で新聞記者の取材、事務局長の私と島本会長で取材を受けました。 「君たちは知らないかもしれないけど・・・ 満州国・中華人民共和国はわれわれ独立守備隊がつくったようなもんだ。蒋介石の国民党がいつまでも日本と妥協しないから大東亜戦争が破滅。われわれが蒋介石と戦ったから、中共軍が建国できたのだ、よくおぼえとけ」会長はこういいましたね。・・・


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