22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2003年03月

岩田シズヱさん
大正4年2月16日生まれ。17歳で結婚、ご主人を戦地で亡くす。
原田静子さん
大正13年1月10日生まれ。元小学校の教員。
国光武子さん
大正11年7月10日生まれ。ご主人はのり会社を営む。戦中は使用人25人を抱え、家庭を支える。
宇多信江さん
大正5年11月20日生まれ。元気でどこも悪くない!と豪語する。

日時:平成15年3月20日
場所:広島県の岩田さん宅
聴き手:新藤浩伸

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岩田シズヱさん

岩田:子供の頃は夏休みには草刈り。みしろを打ちよって、縄をのうて、自分の小遣い持ってって、鉛筆こうてこうて、うちらのこどもんときゃあね。 宿題でもちいたああったかもしらんけど、いつも子供を負わされるんじゃけん。ほいちゃあ遊びに行って、おろしてまた遊ぶんよ。4年生ごろじゃったかの。

―11人もいたら賑やかだったでしょうね。お嫁に行ってからは?

岩田:17の3月。主人が23じゃった。8人のうち6人が女ばかりの岩田家へ。主人と弟が男。温室でカーネーションを作った。昭和16年、召集かかって主人が出た。でも出ることを内緒にせにゃいけんかった。9月23日に来て五日目に出た。親類と近所にだけ知らせて。いつもは青年会が集まって、一杯飲んで出たんやけどね。わしと親類だけ電車で行って。ちょっと後ろ向いて、ああこれで最後じゃと思ったんじゃろうね。暁部隊いう部隊で、ちょっと来たとき、「今5分休憩」ゆうて「おとうちゃん兵隊になったけん、いいこにせえよ」ゆうたきりで、出るのを見もせんと戻ったんよ。ララマ、スマトラ、比島、橋をかけたり、家を建てたり、まあひどかったようです。そしたら今度はビルマに渡って。手紙が来んようになった。最後じゃいうんが来てから、20年の7月に戦死した。

―それでお骨を受け取って。

岩田:岩田の骨ったってなんもありゃせん。しょうがない、骨もろうて、風呂敷包んで、戻ったわけ。墓もたってもらえん。京都でも靖国神社でも。しょうがなかったんよね。お寺に集めて葬式してもろうただけじゃ、欲しいとも思わんが勲章も何もありゃせん。20年の7月20日に戦死したわけやけど、小指切って焼いて箱入れて戻った。しょうがないよね。どうしようもないよね。誰もゆうちゃいけん。どうじゃろうかのう、ある人ははよ死んだゆうけどわからんよね。部隊長さんが言われたとおりにして。憲兵が殺しに来るってゆうて恐ろしかったね。なにをゆうても憲兵、憲兵…。なにひとつ言われるじゃない。

―そのころがいちばん大変でしたか。

岩田:ええ。婦人会で松葉を負うておいといて、空襲きたらそれをうすぼらす、煙で隠す。はよ、飛行機来るけんゆうて。娘三人、電気も消して泥棒もよう入らなんだこと(笑)。B29が山口に来たらサイレンがウーウー鳴る。防空壕、刃物の破れで穴掘って。


宇多:あの頃の話をすると涙が止まりませんよ。戦死したり、大変だった。私らの若いころ、戦争中、何も食べるものがなくなって。パーマかけてもいけない。みんな食うや食わず。私のところは8人家族、やっと食べられるだけのお米をもらって。ゆのみへちょこっと。供出してしまって。あたしも長生きしちゃ国にご迷惑かけちゃいけないと思うわけよね(笑)みんなゲートボールしよってっけど、まちでも年寄りのほうが多いですよ。一生懸命食うや食わずで銃後の婦人。年寄りが長いこと生きてるのは、みんな元気で青春時代を取り戻しちょるんじゃ。・・・さて、一時間や二時間じゃ語れません。どこを絞って聞きたいの?

―やはり戦争のときのことを。



戦争の思い出

宇多:大変だった。あの頃はみんな米を作った。突然台所へ入って、見回りに来る。ある日、団子作ってたら、おじいさんが「今日はもちが食べにくいのお、ヨモギが多いんじゃないかのお」って。6人兄弟の一番上、下に男二人、その下に女二人。私は今、目も耳も、口も達者。昔のことなんか誰も聞いちゃくれん。古いこというなって。今もイラクがあるけど。どこの家にも戦死者がおる、優秀なのが。そのころの話すりゃあ、語るも涙。いやじゃないけど、そのころの辛さはなしたって、現在をもっと元気に生きてもらわにゃいけんし。でも忘れて欲しくない、あのころの辛さ。あのころ、庭の松ノ木にもかぼちゃ登らす。でなったのを食べる。弟が戦死したのが終戦の日、接岸作戦で。そのごろ、戦争のこと大きな声で話しちゃいけん、憲兵さんにやられるからね。あのときでないとわからん。あの時は戦争せにゃいけんかった。やるとかやらんとかじゃない、政治の流れでやらにゃいけんかった。そういう時代に生きてきたのじゃ。政治の大事さもわかる。私ら田んぼ耕しちゃ、銃後の守りじゃって一生懸命、だから私も節くれだった手。
原爆落ちて終戦になったとき、山の畑におって、こうして泣きました。涙が落ちて、あたしらが一生懸命やったけど、こんなにたくさん亡くなってしまって。戦争のない国にせにゃいけん思った。持ってる鍬を立てて、涙がぽろぽろ落ちるんです。私は短歌を作ってるんですけど、その時代を生きてきた歌日記になってるんです。「軍靴を今高らかに出でたつと・・・」行進していくそのなかに自分の弟たちがいる。今ドームがあるでしょう。あそこまで、握り飯作って、歩いていった。あれが西練兵場。あの軍靴のなかに弟がいる、生きて帰れますように、って祈って。でも口に出しちゃあいけない。夜中に広島駅まで歩いていって、列車が着くのを待って。「市川さん、市川さん、いらっしゃいませんかああーー!」そうしたらいたんです。「お姉さんここまで来てくれてすいません」「元気で帰ってきて下さいよ!」列車が通過するために止まった。改札員は誰もおらん、私が開けて入ったんです。走ってプラットホームの中へ。遠い昔じゃけんね。

国光:戦争も終わりのほうは、みんな死ぬるゆうことわかって出陣したんじゃ。消耗品みたいに。玉砕いうて、言葉はいいけどあんた・・・国内の警備のほうにまわっとった。東洋工業が大砲の弾など作ったんですよ。今のような平和産業ではなく。その部品を作るほうへまわっとったんです、私の主人。ひとつも軍事、海外へは行かん、国内警備にまわっとった。サイレンが鳴ればゲートルこう巻いて、帽子かぶってタオルを持っていくんですよ。巻いたりはずしたり大変やった。東洋工業と製鋼所がほとんど。非国民ですけど、海外へは行かなかった。国内警備に召集されたのは昭和18年の12月1日。私ら結婚式が11月20日。10日しかないんですよ。はよ嫁もろうとかにゃといって。そうすりゃ兵隊の生活が苦しくても、自分で自分を撃つことがないゆうて。苦しいんですよその兵隊の生活は。一つのりんごを八つに分けて食う生活。九人いたからなお難しい(笑)。おにぎりでも分けて。今の時代の人はもったいないことするねと思う。ごみ見てごらんなさい。

宇多:あの頃のことを思えばね。テツドウグサをとって食べよった人いっぱいある。

―テツドウグサ?

宇多:鉄道のヘリに花が咲いとる。いもはまだいい、茎や葉っぱも甘みがあっておいしい。そのごろそれご馳走じゃったんですよ。

国光:のり商売をやっていて、使用人まで25に食べさせなきゃならん。大戸をあけてテーブルを並べて、朝食べて片付けたらもう支度、朝味噌汁とのり、昼は晩のおにしめの残り、とうどんって決めてた。で夜はまた材料を買い出して。昭和20年に生まれた長男をおぶっててんてこまい。やんやんやんやんいう子供をおぶって。結婚は22。

宇多:一番苦労されたのはこの岩田さんじゃろうね。子供が3人も4人も生まれたころ戦争で。そりゃ辛いときよ。

岩田:(笑)・・・

国光:化粧だのファッションだのいう時代やないんですよ。いつ空襲来てもとんで出られるように。子供を後ろに負うな、見えんから前に抱っこして行きなさいよゆうて。長男が20年の1月に生まれて、これを死なしちゃならん思うて。で庭の中に防空壕ほって畳ひいて電気引いて。豪華な防空壕じゃったよ(笑)

岩田:私んとこむしろじゃった。ほんとは電気つけちゃいけないんじゃけどね。

国光:電気つけりゃ泣き止むよ。21年、23年、26年、みんな男ばっかり。



原爆の落ちたころ

宇多:肝心なことは絞ってきかにゃあ、夜んなってもおわらんよ。長い人生じゃけん(笑)

―では、原爆のことを聞かせて下さい。

国光:19年の暮れに空襲。小倉から見ても呉が大火災。呉は軍港だったから、次は広島じゃいうて。その日は今から役場へ行こう思うときでした。どっかーん、ああ今どこかな思うたら、ヤカンも何もひっくりかえっとる。ガラスがびびーんって響いて。

宇多:ガラスを十文字に張っといたね。

国光:私んとこのおばあさんとおじいさんは「なあにここがやられるわけがない、わしは日清日露を経験してきとる。あんなことがあるもんかい」「おじいさん、今ごろは兵器が盛んになっとるんじゃけん、」いうても頑として動かん。そうしたところにボカーンと来たでしょう。主人はすぐ部隊のほうにいったんやけどだーれもおらんやったから戻ってきた。で夜探しにいったら、おじいさんがガラス窓のとこにポカーンっていて血まみれになってた。箪笥が倒れ掛かって、その下から声がする、「あんた、箪笥の下じゃけん」いうたら下からおばあさんの白髪頭が出てきて引きずり出した。なんにもありゃせん、工場も全滅。あのときは涙涙よ。お父さんも「支店がみなやられた」いうて男泣きでしたよ。おじいさんも怪我しとる、火達磨のようじゃ。ガラスの破片が爆風で飛んできて刺さっとる。お医者さんいったら一つ一つピンセットで。もう見られんよ。こっちが気い失いそうになる。外科の先生が、「おうちのほうへ帰っとって下さい、患者さんは届けますから。」あっちの病院もこっちの病院も負傷者ばっかり。主人はおじいさんとおばあさんを大八車に乗せて家に届けて会社へ。そしたら何にもありゃせん。

宇多:この辺は家は倒れなかったけどガラスは割れた。私のところは直接のあれはない、看護はした。子供が帰らんおらんいうて探しには行った。病気にもならん。ここらまでは大きな被害はない。ここから建物疎開に行った人は被害を受けた。

国光:8時半から9時ごろのあいだにもくもくもくもく。こりゃただ事じゃないよって。毒ガスかわからん、こっち来るけんいうてひどかったね。びびーんいうて。

原田:記憶にあるのは・・・学校で教員してて、分校に出てたんですよ。遠く。帰りに「先生、広島の方はおおごとじゃそうだよ」いうて見たら、高い山の向こうから黒い煙がもくもく。何もわからず帰って。原爆のあと、姉の学校の教室が全部被爆者の収容所。全部髪ぬけて、男か女かわかりません。みなさん髪がない。知り合いの人が、髪が抜けるんじゃいうて、なんとなく髪がなくなってるんですよ。それから勤め先に電話して、村長さんのご子息が原爆にあわれて亡くなったって。私は姉のところ行って。学校からは煙が上がり、ああ誰かが亡くなったんだろうなと。お骨が二トン車に二台。今の児童館のところにトラックで二台。そこでみな焼いたんじゃろうな。霊が出るよって。

岩田:焼くところで降ろしちゃみな焼いた。焼き場の番をするおじさんが、「12時過ぎたら鳴く声が聞こえる」って。霊が「ここじゃなかった、うちじゃない」いうんじゃろうよ。役場の人が行ってみてみたら、やっぱりわんわんわんわん泣くんじゃけ。毎日お経上げたら霊が治まった。

国光:骨の中のりんが燃える音がするんじゃって。方々で焼くんだから。



しばしの別れ

岩田:また因縁じゃけんねえ。会えるのも因縁。

宇多:とりとめもない話を悪いね。みんな年寄りじゃけん、あっはっはっは!

岩田:因縁じゃけんねー!

西ヶ迫五郎さん(73)
昭和6年、広島県生まれ。

退職後は平和公園内でビールを飲みながら、道行く人と話しをする毎日。

日時:平成15年3月19日

■原爆の光

ここから一時間ほど離れたところでしたが、ぱーっと黄色く光ったですよ。目の前が黄色くなってね、広島の空見たら原爆の雲が、すぐあがったです。原爆ドームの200、300メートル離れた島病院の550メートル上空で炸裂したんよ。大正4年にできて、市のいろんな珍しいもん展示してあるところだったですよ。

―原爆の被害は?

全然なかった。原爆症にもならなんだ。ちょっとトイレ行っとく。川のほうでちょっと・・・。

・・・

■世代間の差、日米の力の差

飲んだ方が話しが弾む。こうして人の話聞くのも社会勉強じゃ。人間は生きとる間は一日一日が勉強じゃけんね。いろんな人と話すのがええ。話ししてから、相手の悪いとこは四捨五入してはねるんよ。でええとこを吸収すればええ。だれでもみな長所短所ある、それでええんよ、人間死ぬまで勉強、これでええいうことはない。職人でも研究仕事でもみなそうでしょう、これでええいうことはない。人間社会はきりがない。今の若いもんは生意気なもんが多い。毎日のように言いよるでしょう、親が子を、子が親を殺す。私ら子供んときゃそんなこと滅多になかった。

―何が違うんでしょう。教育? 環境?

修身と道徳で、親孝行を習った。そのあとマッカーサーが修身道徳なくしてしもうたんじゃ。人間だめにしよ思うて。そうすりゃ自分の好きなようにできるでしょう。で今の暴走族みたいなのができた。特攻隊でも杯いっぱいで最後じゃけ、敵の軍艦突っ込んで、死んで帰らぬが花。

―おじさんは兵隊へは?

14歳で身体検査は受けたんよ。それですぐ終戦。戦争に14歳の兵隊出したって、何の役に立たりゃせんが。鉄砲打つことも手旗信号もなんもできん。日本とアメリカ、三つ子と赤子が相撲とるようなもんだ。日本が昔ロシアを相手に勝ったでしょう。シナ事変でも勝った、勝ち戦でしょう、のぼせてしもうた。でもアメリカは相手が違う。新聞には大本営発表言うてね、敵の軍艦何隻沈めた、飛行機何機落とした言うて、みな嘘やった。

―そのときは本当だと?

そのぐらい言わにゃあ国民がやる気にならんでしょうが。逆にいい知らせ書きよったんや。わしら子供のときやから、嘘を書いとったのはわからんやった。山口の萩、吉田松陰の門下生、伊藤博文。石炭炊いてぽんぽん蒸気、革靴はいて背広着てネクタイ締めて。日本は下駄はいて着物着て。伊藤博文は日本はアメリカに100年遅れてる言うた。で戦争中だって、アメリカは原爆もっとったのに、夏に婦人会が、アメリカの兵隊突くんや言うて、青竹をとんがらかして練習しよる。勝てるわけないよ。今日本の車の3分の1は女の人。戦前でもアメリカは女の人でも子供でも車を運転しよる。今になってようやっと追いついとる。60年遅れとんのや。わしら子供のとき女の人が運転しよるの見たことない。農業機械だって60年遅れとる。明治維新の伊藤博文がアメリカ行ったから日本は変わった。門下生14,15人が日本を変えよった。

■食事

一日2合5尺の米の配給。それに大根やらいもづるやら入れて雑炊炊きよった。いももない。

―うまいもんですか?

おなかが減っとるからなんでもうまい。で夏は八時過ぎまで明るいでしょう。で雑炊は3分の2が水でしょう。で2、3回トイレ行ったら、夜おなかがきゅうきゅういって寝られんのよ。

―腹一杯食べた覚えがないでしょう?

ないですね。で終戦になってようやくコッペパンが一食に一戸ずつ配給になって、そんときは嬉しかったですよ。さつまいも蒸したもんもらったら、おごちそうやいうて頬張って食べよったよ。若い人に話してあげたい。

年寄り=偉いことはない

―じっさい、若い人に話す機会はあるんですか?

・・・ないね。お兄さんみたいに聴いてくれる人がありゃいいけん、「おじさん、昔のこと言いさんな」て言われるけ。自分の体験やないことは聞いてもわからんしめんどくさがりよる。でも人間苦労しなきゃだめよね。

―僕らは苦労がない世代。食べ物もある、学校にも行ける、食いっぱぐれることもない。子供がじいちゃんに話を聞く機会がない、そうやって苦労も知らないまま育ってしまっていいのかな。

子供に、「昔は戦争中で食べ物に苦労したんじゃ」と教えてもぴんとこんじゃろうな。頭のええ子は一生懸命聞くんじゃろうな。えらい子はじっと聞いとります。知らん顔してる子もおる。みながみなじゃない。ここに座っとっても、おじさんこんにちはって頭下げる子もおりますよ。女の子でこんにちはって。

―おじさんはここによく来て?

もうあんまり仕事もせんけんね。人通るの見ながら、ビール好きやからよくこうして飲みよる。やからお兄さん、人間は、年取ってるからえらい、若いけんえろうないいうことは言われん。なんぼ60年70年人生経験積んどっても、心の悪い人はだめじゃけんね。人生経験だけじゃない、脳みその問題じゃ。小学生でも頭下げていきよる子もおれば、大人でも心の遅れた人はだめじゃ。やっぱり人間脳みそや。子供でも相手の気分を壊さんようにものを言うてくれる。その人間の持ち前じゃ。わしゃそう思っとる。でもあいさつようできるからって、大きゅうなってその子が出世できるかいうたら、それは保障できん。子供と大人はまた考えが変わる。でも大体子供のとき賢い子は大人になっても賢い。いつも座っとって感心するんよ。ほいでやっぱし、あいさつしてくれりゃ気持ちええよね。大人の人でも話しかけてもめんどくさい、知らんような顔して通るけんね。

■人生は厳しくも楽しい

結局あれよね、日本の財閥いうたら世界の財閥やけんね。松下幸之助は東北のほうの人間、親がコレがないけん小学校にもろくにいっとらんよ。で大阪の自転車屋に丁稚奉公。で集金に行かせたら、向こうの人が「まけてくれ」いうてまけて帰ったんよ。14さいぐらい。「ばかたれこの、なんでまけて帰った!商売人は食うか食われるかじゃけ、あほなことすな」いうて怒られた。こうして世界の松下じゃ。人間、脳みそ持ったもんと、まるいもん持ったもんが、貧乏人を食いもんにするんよ。人生がそういうもんになってるんですよ。野生の王国と同じじゃ。

―厳しいですね。

おにいさんもう一杯飲め、話が弾むやろ。

―ああすいません。

月謝もらわにゃいけん

―ええ!?

わはは冗談や冗談。ちっと小便行ってくる。

・・・

お兄さんとよう話しが合うけん、こう話するんよ。結局世の中一寸先が闇いうけど、うちの兄が公務員やった。25年して辞めたんよ。でその兄の嫁さんの弟が尾道にある因島いうところでスーパーを一軒始めたら儲かるかわからん言うて、作ったらしいんよ。そいから半年くらいしたらもっと大きいスーパーができて、結局食われて半年間で1000万円パー。当時でよ。今も昔も、コレもっとる方が強い。安く売る。

―今なんかもっとひどいでしょうな。

今贅沢しておるのは日本。米騒動いうて、組合の倉庫に押し入って、大正時代にね。今凶作になっても心配はない。貿易やるから。

―詳しいですね!商売されとるんですか?

トーダイでとるんよ。宇品の灯台でとるんよ。

―・・・。

わっはっは冗談やがな。人間冗談言えにゃあいかんよ。冗談言えん人は出世できん。

―どうしたら言えるようになるんですか?

そりゃあ場踏まないかん。人生経験体験せないかん。わしもはじめ言えんかったよ。人間いうのは相手のケツ極端に持ち上げようとしてもだめ。腹ぁ見られる。相手に気がつかんようにジワリジワリ持ち上げる。おにいさん、これ。

―え?もう一本?どうも。

よう聞いてくれるけん。

(まだまだ続きました。)

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繁さん:僕は恵まれているんです。19歳で徴兵検査を受けました。日本の兵隊さんの最後の現役兵として徴兵されたんです。新兵さんはそれ以降はいないんです。あとはみんなお年寄りが入ってきました。40から50くらい。息子さんが見習士官という初老の人もいました。二等兵や上等兵にいつも叩かれてね。叩かれに行ったようなもんだ。僕らは新兵さんの一番最後。旧制中学を卒業して、一年ぐらい仕事して召集されました。

芳香さん:私は勤労奉仕。各工場に行きましたよ。

―じゃ日本からは出ないで?

繁さん:そう。タイメン鉄道建設を完成させた当時の技術軍団です。鉄道兵と云うんです。でも銃剣もありませんでした。分隊長が当時としては思考力の幅広い人で、幹部候補生(私等はそう云う名前で呼ばれていました。)教育の説話時間に、島崎藤村の詩を読んで聞かせてくれました。

―・・・へえ。

繁さん:特殊な人でした。ほんと兵隊さんらしくない。本来なら当然将校になれるのに、「自分は下士官で満足だ」と。でもそのかわり、ほかの二等兵や上等兵に叩かれる叩かれる(笑)ものすごく叩くんですよ。靴で叩かれる。お互いを叩かせる。仲間同士で。やさしくしよったら、また叩く。初頭兵教育なら当然。そういう時代でした。

―!!!

繁さん:僕の弟は旧制中学二年のとき予科練に志願して出征しました。当時16歳、まだかわいい子供ですよ。特攻隊、二度と帰ってこない飛行機に乗ることをわかってて志願する。燃料は帰りの分は積んでない。たまたま終戦になって帰ってきたけどね。


仕事に忙しく
繁さん:結婚は昭和26年。25歳のとき。

芳香さん:あなたももうそろそろね(笑)

―仕事がないことにはなあ。

繁さん:復員してきて、新日鉄を辞めて、福岡銀行へ。この人も福岡銀行、戦前から。僕は戦後。

―お仕事は大変だったんでしょうか。

繁さん:朝は早くから夜遅くまで。子供たちの成長の過程や学校に行く姿等は、写真で見るよりほかに記憶にない。

芳香さん:引越しを3回しましたが、主人は荷造りすらしたことはありません。

繁さん:非常に忙しかった。でも希望がありましたよ。一生懸命やれば将来は明るい幸せが必ずあると。

―そこは今の向き合い方と違うなあ。これだけ景気が悪いと、どれだけがんばっても、働くことに希望を持ちにくいのかもしれません。

繁さん:特殊な技能を持つ人はいい。でもそうたくさんはいないもんね。あなたたちは一番苦しい世代ですよ。将来に希望を持てない、不透明な時代を生きて行くことは、本当に難しい。

―そういう生活が定年まで続いたんですね。

芳香さん:家のことはなんもかんも私。いまは料理のボランティア。健康料理教室、市が主催のふれあい昼食会。65歳以上の一人暮らしのお年寄りの方に来ていただいて料理を食べてもらう。ぜんぜんでれっとしてるわけじゃない(笑)なんのかんのと世間の中で生きて行くのは楽しいね。昔はこの家に15人おったんですけどね。おじいちゃんおばあちゃんと三世帯、小さいのがうようよ7人いたんだもん。

―15人!??

芳香さん:私の子供はみんなここでお産。いっぺんにお風呂に入れて、オムツを洗って、三度三度のごはんをつくって。


今になってみれば
繁さん:やっぱり人間というものはその人の寿命というか運命というか、決められて生まれてくる。そう思いますね、この年になると。長生きしたいと思っても、早く死にたいと思っても、そうも行かない。このごろ、そう思うようになった。若いうちは考えないもん。

―考えもしない。明日のことや、今腹が減ったとか。

繁さん:自分の持ち時間が少なくなってきたというのは確実にわかる。人間やっぱり、毎日毎日を悔いなく生きること、生活すること。そうしたらきっといいこともある。

―毎日誠実にというのは難しいですね。

繁さん:ちょうどあなた方の年代は悩むね。でもその時代時代、年齢年齢にふさわしい悩みがある。悩む人はいいよ。悩む人はいい。進歩がある。

芳香さん:私はがんで、子宮も卵巣もない。だんなさんはトイレでばたーって倒れた。やっぱ年ぃとったらだめね。血液検査は3ヶ月にいっぺんは必要です。

繁さん:平成5年の暮れ、くも膜下出血で倒れ、平成13年に胃がん。3分の2切った。くも膜下出血で運ばれたら、脳外科の先生が当直だった。すぐに頭切って。早期発見、早くてよかった。もう78にも77にもなりゃ…もうええ(笑)

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―こうしてよく集まってお話を?

きみ江さん:みんなでゲートボールやっとったな。でももうあかんわ。
椴山さん:この人うまいの、ゲートボールでも風船バレーでも的当てでも何でも腕前達者。
きみ江さん:ゲートボールはやったなんて言えないよ。何でも玉が横に行っちゃう。
椴山:それあたしのことだわ。(笑)

竹内きみ江さん(写真右)
大正11年10月2日、常滑市矢田生まれ。尋常小学校卒業後、紡績工場に勤める。結婚後は家業のさらし屋を手伝う。

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椴山(もみやま)みよさん(写真中央)
大正12年1月25日、岐阜県生まれ。陶器工場の事務員として働く。結婚後、常滑に移り住む。

竹内タマさん(写真左)
大正12年、6人きょうだいの長女として、常滑市に生まれる。横須賀の女学校に通った後、おじの手伝いで綿織物業に従事。

林チカさん(写真はお嫌いとのこと)
大正14年常滑市生まれ。タマさんの妹。横須賀での女学校時代、捕虜の強制労働の姿を強烈に憶えている。



聞き取り日時:2003年3月17日
場所:愛知県知多市 竹内きみ江さんのお宅にて
聞き手:新藤浩伸


子供時代

きみ江:常滑市矢田で育ちました。

林:よう知っとるね。記憶力いいね。

きみ江:間違ってても合ってる風な顔して言うだ。

林:よう憶えておいでだわ。

きみ江:違っとっかもしれんよ。ごめんなさい。

―何人兄弟?

きみ江:生まれるはようけ生まれた。六人生まれて三人は亡くなった。一人は20年あとに生まれて。

―そんなに違うんですか?

タマ:上と下はそんぐらい違う。親子みたいなもんじゃって。

椴山:(笑)今の人が見ると面白いやな。

きみ江:私のだんなさんが怒ったもん「今頃・・・」って。

林:怒ってもできやあ仕方ないがな。

きみ江:怒らんでもいいやね。

椴山:自分が悪いんだもの、怒らんでもええやのお。

タマ:うちは6人、女が5人に一人戦死。長男が。政府が悩んでいる間に、朝鮮の先で沈没しちゃった。さっぱりわからん。軍隊手帳もありゃせん。もう半年はよう終戦になっとったら。

椴山:私の姉は92で、12違うけど元気なの。兄が戦争で亡くなったけど、4人兄弟はみんな元気なの。



仕事

きみ江:尋常小学校6年行って。学校が嫌いで、岡田の工場へ働きに行った。

タマ:この辺は綿織物が盛んだったわさ。

きみ江:私は勉強嫌いだったからいいけど、勉強できる人は泣いとったよ。

林:まるでおしんみたいなこといっとる(笑)。

椴山:むぎわら峠なんて話があったでしょう、あんなもんだよ。

きみ江:5、6年。くだまき、へとおし。

―くだまき、へとおし?

タマ:若い人にはわからんだろう。私はおじが田舎で機屋。召集され兵隊に。それで私は機屋の女工さんのご飯炊き。それで工場のこと知っとるんだわ。おじのとこで覚えた。ようやらしてもらったわ。いちにいいちにいって。だからあんたのことよくわかる。原綿できた糸を織って、小幅の機を織る。おしっこなんかでついた油を加工して白くする、そういう商売をうちでしていたの。昔からそういう商売。手ぬぐいぐらいの長さに裁断して、工場へ持ってくだよ。それから何もかも切符制になっちゃったでしょ。で、妊婦者には、ハラマキを一畳、それも配給で出さなならん。そういうのも作ってたね。今はマジックでひっつけるだけでしょう。

―お仕事はいつまで?

タマ:最盛期は戦争中。昔は木綿で肌着をつくってた。東京だ大阪だ、肌シャツをたくさん使うところがあって、繁盛しとったよ。大野の駅前に芸者屋、機屋の景気よかったときはすごかった。夢じゃ。夢夢。あんなことやって、どれぐらい遊んだだか。

きみ江:工場で働き行ったことだけ言える。

椴山:聞いてもわからんだろ、そんなこと。

―林さんは?

林:私はどこもいっとらん。朝倉の資料館行ってみな。昔の手機を今もやってるよ。

椴山:私は全然方角違い、全然知らない。陶器工場の事務。登り窯が山にだーっと並んでる。都会のほうからみえると火事だって腰抜けるぐらいびっくりする。岐阜県の洞戸村からかまどに送りつけられてくる。

―事務仕事はいつまで?

椴山:…5年くらい働いたか。働いたか、遊んだか…諏訪湖に遊びにも行った。



空襲

タマ:ここに工場があったもんで、狙われたな。

林:空襲で、土手にぺたあーって張り付いて。

林:怖かったよ。松林に逃げても飛行機で追っかけてくるんだもん。タマ:夜中でも来たもんな。このへんに工場があって。ものすごい爆撃を受けた。

林:お通夜でろうそくの火がちょろちょろってしてたからそこをめがけてでででででででーってきたって。燃えるならもっと燃えればいいのにな、燃えついでに(笑)って思っとった。

タマ:北粕谷なんか全滅かって思ったもんね。それと飛行場の空襲だな。地震もあったし、上から下から怖かった。

椴山:粕谷に落ちたとき、まあきれいなこと!

タマ:そらきれいだよ。あんな光見たことない。粕谷全滅だと思ったもんな。

林:ちょうど花火が落ちるが如しだなあ。ほんでも死ぬのは嫌で土手に張り付いて見とったね。

タマ:あの焼夷弾ってのは、ゴムでもついてんのか、ぱあんぱあんってはぜて壁でも何でも張り付くだいな。屋根突き抜けてね。



食糧難

林:ひどかったよ。るたやら…

―「るた」?

タマ:こんな大きな丸い…

林:大根か人参みたいな…。

タマ:あと種粕!大豆の殻みたいなの。あれご飯に入ってるの思い出すとうえぇってなる。まずい。入ってかへん。ちょっと食べたら倍になって戻ってくる。るた、大根、干し大根の入ったご飯、とうもろこしのだんご汁なんて、食べれんよ!

―いつごろから食べ物はひどくなりました?

タマ:配給になってからだな。わしが女学校にいたのが昭和15年…私たちの女学校、横須賀では、冬になると豚汁を作ってくれたの。私たちの出た後がひどくなったみたいね。学校でも勤労奉仕やって、工場へ借り出されて。

―戦後になったらやはり楽になりましたか?

もみやま:でも昭和25年ぐらいまでは…

タマ:そうええことないわねえ。終戦後でも。

林:何しろ、犬も食べんようなものを食べとったね。

タマ:終戦後、軍隊が解散するとき、リヤカーで米をもらいに行った人もあるよ。食料事情は何しろ悪かったねえ。田舎は外で飼っっとった牛でも豚でも、盗まれた。そのぐらい泥棒があっただよ。商売でやったかもしれんよ。牛一匹盗られた、豚盗られたって、粕谷の方では盗人がよくあっただよ。

林:そこらにありゃ、よそのものもうちのものもありゃせんわな。

タマ:動物性の食料が足りんだわ。

きみ江:私の矢田ってとこは、米が豊富。でも供出だのなんだので出さにゃならんで、大変だったよ。

タマ:名古屋から古着を持って、物々交換。流行ったよ。えらい旦那衆の人がええ着物持ってきてねえ。粕谷の方では米と交換したね。

―その頃はみんな大変だったって聞きますね。

タマ:全国がそうだろうよ。だけどまあ、米は本当に、食べたかったね! どれぐらいひもじい思いしたか!



横須賀の捕虜

林:工場には行かなかったけど、百姓には借り出された。捕虜の人がこんな重そうな荷物を象みたいに引きずって、かわいそうだったな。じゃらじゃらじゃらじゃら歩いてるんだもん。憲兵が竹もって叩くのよ。「どういうことするの!」ってよく喧嘩したもんよ。

―捕虜というのは…

林:確か中国人だったと思うよ。涙こぼして、裸足でやっとった。冷たいだろうねって言っとって。曲芸の象みたいに繋がれて、ちょっとけつまずくとぴしゃっていくんだもん。

タマ:横須賀には留置場があったのかな。

―どんな仕事を?

林:それは見せてくれなんだ。でも空襲だって言えばあっというまに逃げて早かったよ。私たちもかごをかぶって逃げて、怖かったよ。ばらばらばらばらって降ってきて。





戦中の意識

タマ:下らん話ばっかりで。今イラクのことでどうのこうの言ってるけど、やれば犠牲者が出るから止めないかん。

―戦争開始当時、嫌だって思いましたか?

タマ:そんなもの、勝った勝った勝った勝ったって情報ばっかだもん。

林:負けたことちっとも言わへん(笑)

タマ:ほんだけど最後の時には、なんだあな、なぎなただの槍だの稽古しに行ったなあ。

林:あんな竹で突かれて死ぬたわけはおらんよねえ(笑)ようやったと思うよ。

きみ江:私は忘れちゃって口にだせん。覚えてないの。

タマ:広いとこで稽古した。お寺さんだのお宮さんだの。あんなの、爆弾バカバカーンって落とされりゃ役に立つもんかい!

―じゃ、やってるときもばかばかしいと?

タマ:ほのときは軍を信用しとったからねえ。まあでも今の子にそんな話したってよくわからんらに。

林:わからんより、ばかだって言っとるわね。このばかが何やっとるって。





エピソード

・結婚、空襲、みかんの花

椴山:結婚式は戦争中、熱田神宮でやったの。で電車で常滑に来るとき、空襲がまたあった。朝倉のほうかな。島田のかつら下げてね。私、ここに嫁いで来たの5月だったけどね、みかんの木を見たことがなかったの。そしたら浜のほうからずっと上がってくると、みかんの花が咲いてるもんでびっくりしてね。そのあとみかんをむいてみたらぼろぼろでね(笑)びっくりしたねえ。はじめてみた。

タマ:花がつくころはそうなっちゃう。ぱさぱさだね。

林:このへんみんな桑畑ばっかりだったな。ずーっと。

椴山;私のうちのとこももそうだった。それからみかんを植えたね。

・松茸大豊作

椴山:これは松茸。取るとぼりぼりって音がするよ。これは取れた記念で撮ったの。私らの会社は名古屋の布池に本部がある。

林:松茸は足で蹴飛ばしていったよ。靴で踏んで見向きもしない。あの松茸山どうなってって聞いたらゴルフ場になったって。

・遠足
椴山:これは遠足。ひげの先生が珠算、修身、国語を教えてくれたの。





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