22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2003年01月

藤平恭子さん(ふじひら・きょうこ)
昭和4年、山形県米沢市の藤電機商会社長・藤平貫一の四女として生まれる。戦時中は事業がうまくいっていたお陰で、ある程度財産を持っていた家だったが、戦後妻よし(恭子の母親)が他界したことで仕事のやる気をなくし、毎日酒と芸者遊びに明け暮れるようになる。そんな父親の姿を見ていた恭子は、結婚をするのを辞め、藤平家を継ぐと決心。30歳頃、東京に出てきてからも最後まで父親の面倒を見ていた。現在では、貫一の17回忌やその母ハルの50回忌など法事を取り仕切きる。

聞き取り日時:2003年1月30日
場所:東京都西東京市

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■戦後の状況

藤平:終戦を伝えた天皇陛下のお言葉。あれを初めて聞いたとき、意味が理解できなかったんですよ。男の人に教えてもらってやっと日本が負けたって分かってね。「おい、日本負けたんだってよ」って、泣きましたね。

――戦争を終えたとき、直後の混乱ぶりはどのようなものだったんですか?

藤平:進駐軍が山形に入って米沢見に来るっていうんで、女、見つけられると引っ張っていかれそうだと思ったから、親父が緊張して、屋根裏に女だけ隠して、囲うとこ作ってくれたんですよ。

――それは、藤平家としては、ほとんど全員いなくなるみたいな。男は親父さんしかいないですもんね。

藤平:はい、そうです。もう何されるか分からないですから。昔は戦争で負けたら殺されるくらいは覚悟してましたから。

――そうだったんですか。

藤平:そうしたら、ちょうどうちの前で、アメリカさんたちのジープがパンクしたんです。

――あらら。

藤平:でも、うちには入ってきそうもなかったんで、二階の屋根裏の窓からそ~っと姉妹全員で覗いてたんです。そしたら、すごいですねぇ。自動車のタイヤに入れる空気入れが日本にはないんですよ。自転車用のしかない。だから、その自転車用の空気入れで空気を入れてたんですけど、その体力のあること!シャッ、シャッ、と。きちんと空気入れましたからね。

――え、自転車用の空気入れで、ジープのパンクを直しちゃったんですか?

藤平:ええ。しかも、最後までしっかり押しているの。力持ちだね~、そりゃ日本は戦争に負けるわけだよね~って。日本の男だったら、すぐへなへなになって、あんなのできないよね、ってこそこそしゃべっていたのを覚えています。

――そうですか~。それを屋根裏の窓の間から見ていたわけですね。

藤平:そうです。曇りガラスのちょっとの間からね。見つかると何されっかわからないから、見っかんないように見なさいよなんて言われてさ(笑)。



戦前と戦後の価値観の違い

――戦後になって、例えば、民主主義という言葉とか、いろいろ戦前とは違う価値観が入ってきましたよね。そういう世間の価値観が変わったことについてはどうお感じになりましたか?

藤平:そうですねぇ、もう学校は卒業してしまったので、ある日突然先生の教えることが変わったとか、教科書に墨を塗った経験はしてないですね。で、親たちからは厳しく長幼之序を仕込まれていましたから。どんな無理を言われても「はい、お姉様」。それで来てますから。最近、こっち(東京)来てからですよ。妹たちにも敬語付けるようになったのは。

――妹さんたちには、敬語を付けるようになった?

藤平:はい。前には妹たちには呼び捨て、上には敬称付けたんです。だけど、妹たちもひとりの人格として見なすようになって、敬称つけるようになったのはこっち来てからですね。

――そうですか。

藤平:それまでは、威張ってていいんです。ひとつでも上ならば。だから、姉は言いますよ。「いいなぁ、妹は。娘よりも言うこと聞いてくれるから」って(笑)。

――どうして変わられたんですか。

藤平:それは、周りの民主主義かなんかの影響でなんとなく。世の中の流れでね。でも、気持ちはまだ姉だぞというのはありますね。



戦時中(幼少~少女)の頃

●藤電機商会は銀行から米沢で一番経済的に潤っていたと言われたことがあるくらい事業が軌道に乗っていた。その社長貫一の娘七人姉妹は、当時まだ周りが着物を着ていた中で、洋服に身を包んでいたため、地元では「藤電のお嬢様」と言われていたらしい。

●住んでいたのは、米沢の町のちょうど中心部。

●しかし、物は乏しく、白いご飯を食べると周りから言われるため、食事というと芋がいっぱい入ったご飯ばかりだった。卵はごちそうだった。

●軍歌を好んで歌った。特に「露営の歌」(♪天皇陛下のためならばあ なんで命が惜しかろう…)。戦争は当たり前だと思っていた。個人の自由なんてないのが当たり前だと思ったいた。

●女学校を卒業した後は、栃木へ1年間家事手伝い(花嫁修行)に出された。掃除や水汲みなど、一通り行った。途中で帰りたいことも度々あったが、親から言われた通り1年間はしっかりやろうと決め、最後までがんばった。

●米沢はあまり空襲されることがなく、防空壕には2、3回ほどしか避難したことはない。ただ、夜は明かりをつけられなかった。戦争が終わって、自由に明かりをつけられるようになったのは嬉しかった。



■父・貫一の仕事

●満州にて鉱山開発を行う。

●貫一は、よく出張していたため、家にはほとんどいなかった。店は、母親よしがすべて切り盛りしていた。妹が学校で父について「顔を見たことがない」と作文に書いたとき、母は「まるで妾の子だねぇ」と笑ったことがあるという。

●米沢に工場はあったが、東京まで仕事を取りに出かけていた。


■戦後

●満州から父が帰還した。焼け焦げた頭巾を被り、玄関にいる父の姿を見たとき、まるでお化けが立っているのかと思った。

●母よしが亡くなり、貫一は一気に仕事へのやる気をなくす。酒と芸者遊びに明け暮れる日々が続いた。

●日本が高度経済成長期に入っても、事業はずっと右肩下がりが続いた。

●預金封鎖によって、財産の大部分を失った。貫一は、事業を行うためには金が必要だと言って、財産のほとんどは物や土地にせず、銀行へ預けていたことが裏目に出た。

●虱が大発生。どんなに綺麗にしていても、どこからか湧いて出た。シャボン等のものがまったくなかったせい。

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樺島和加(かばしま・わか)さん

大正9年、上海に生まれる。8歳で日本に帰国、祖母のいた奈良に住む。
昭和16年、精一さんのもとに嫁ぎ、福岡へ。福岡市内、田川市へと転勤、昭和38年に東京へ。
クリスチャンとして、日曜の礼拝を欠かさず続けている。

日時:平成15年1月29日
場所:東京都中野区

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樺島和加さん-10代の奈良―平和な日々にさす戦争の影

◆8歳で小学校に入るときに父に日本に返され、祖母がいた(公証役場未亡人)奈良にいついた。奈良の女子高等師範に行くためでもあった。

樺島:女高師付属のあいだはほんと平和でした。女学校5年ごろから(s12ころ)戦争の気配がしてきたんです。
女学校時代はのほほんとしたほんといい時代だったんです。そのあとの人がね、英語はないわ動員されて工場に働きに行ったりしたみたい。そういう目にあわないで済んだんです。

―いい時代だったんですね。

樺島:震災で母の兄一家が東京から女中を連れてきたんです。
そしたら大仏さんのごーんという鐘で腰を抜かして、それを私覚えてるんです。大仏さんのすぐ側だったんです。でもいい時代でした。春日さんのお祭りとか、若草山のお祭りとか。

―しばらくすると、東京では515事件とか226事件とか結構物騒な事件が起きてきます。そういうものを奈良にいながらどのようにご覧になっていました?

樺島:あまり知らされてなかったんですよ。226事件なんて新聞にもあまり出ないし。
満州国の皇帝さんがきましたよ。そして私行列してお迎えしました。それからあとが兵隊さんが出征するのを旗振って…

―まだ幸せな時期だったんですね。その5年後に戦争が起きるなんて考えてらっしゃいましたか?

樺島:そんなのぜんぜん!思いもかけない。盧溝橋事件があったというのも、日本が正しいようにずっと聞かされてたし、警察も「アカ」っていううちを探して、何にもわかんないけど「『アカ』ってこわい」って聞いたり。

―次第にそういうようなことが身の回りにおきるようになってきて、不安を感じるようになったんですね。そのころは楽しかったですか?

樺島:いいえ、あまり。もうほんとになごやかなあれからこうだんだん戦争に出て行くっていう感じで、どうなるかなあっていう気持ちはあったと思いますね。

―10代前半は穏やかな時期で、後半は急激に…



家族

◆父・藤井岬さんは、当時中国にあった大学・東亜同文書院(現在、跡地は鉄道大学に)に事務職として勤めていた。おじ(和加さんの姉のご主人)が東亜同文書院の創設者の一人で、おじ夫婦が父に中国行きを勧めた。

樺島:父がおじに傾倒してね、私の名前も付けてくれたんです。死んだあとも、墓側にたのむっていって、桃山の墓地の隣に。

◆母・二宮きのさんは高知の出身。女子高等師範を出て小学校の教諭・助手をやっていたが父と結婚した。

樺島:わかが生まれて父は喜び、ベランダから食用鳩を逃がしてやったんだって。

―食用鳩?

樺島:昔はね、鳩をね、自分のうちでね、毛をむしってね、食べたんですよ。
そしたらね、パーっと飛んで行ってね、どっか高いとこへとまって、サーっと逃げていったの。母がよく言ってた。

―そういう風習が上海にあったわけですね。

樺島:父は姉を連れてレストランへ行ったりもしました。

―上海では裕福な家だったんですね。

樺島:そうですね。お給料がよくて苦労知らずだったみたい。



父の死

◆女学校の五年のとき父がなくなってから売り食いだ。
◆姉に聞いたら保険を解約したりして暮らしたって。
◆姉は同志社の女専を出て三井信託に勤めていた。
◆姉とは4歳半上なの 大正5年1月生まれ
◆母は、父の死後幼稚園に勤務。嫁ぐ前は先生をやっていた
◆現在唯一残る家具も、母が父の墓を作るとき売ろうかとしたが、主人が「そんなの売るんだったら僕が買う」と残した。

―お母様とお姉さまがしっかりしていたから、それ程苦労されなかったんですね。

樺島:でもなんか物売りましたね、いろいろ。土地はなく借家でした。売り食いは戦争前5年間くらいです。



戦争中に見た中国

樺島 :北京のおじのさそいで、結婚する1年前に、北京に行きました。紫禁城とか。そしたらすっごいんです。日本とまるで規模が違う。あまり中国がみたとこすごかった。日光行ったらわるいけどぼっちゃんみたいで…。あれをみたからかな 戦争なんて馬鹿なことをするんだって…私一人で思ってたんですよ。

―そのときの北京の様子はどうでした?

樺島:日本人威張ってました。アマっていって中国のお手伝いさん、ボーイもいて、かわいがってくれました。

―中国での印象的なことは?

樺島:アマなどは快く思ってないかな、と思いましたね。日本人に対して気持ちよく思ってないって。

―日本人は結構いたんですね。

樺島:満鉄の人や清水組・大林組など建設の人が多く、暮らしぶりが豊かでした。

―北京には1年ぐらいいて、それでつれもどされてお嫁に行かれた。

樺島:15年に訪中、16年4月に嫁ぎました。帰ってきたら普通の人は中国に行けなくなっていたんです。



嫁ぎ先・福岡で戦争が始まって

◆ご主人・精一さんは同志社を出て大牟田の三井鉱山の事務をしていた。娘が生まれたときには長崎の生月島に出征していた。
◆精一さんは、岬さん・佳寿雄さん(きのさんの姉)に子供がなく、久留米の高橋家から養子に来た。岬さんの妹が高橋に嫁ぎ、生まれた子供が精一さん。
樺島:戦争が始まった昭和16年、九州に片付いたんですよ。この年の12月8日に戦争が始まったんですよね。防空壕を妹と一生懸命彫ったんですよ。終戦の日も。戦争の起こった日は、アメリカと戦争をするなんて「なんてばかなことするんだろう」ってほんと思いました。

―全然かなう相手じゃないと。

樺島:そう。もう全部だめだなって思いました。そのときはそうでもなかったですが、だんだん、死ぬより他しょうがないなって。それで、近所のおじいさんが村の畑を全部畑にしていたんですね。したらそのおじいさんが一手に引き受けて泊りがけで 10日ぐらい泊まっちゃあいろいろ作業してたんですよ。そしたらアメリカの飛行機が空から銃撃してきて。そして打たれそうになって腰抜かしちゃった。そこ歩いてたら。戦争始まってまもなくの時期です。

―あのあたりにも飛行機が舞い込んで来てたんですね。

樺島:あのあたりに爆弾落としてね、大きな穴が開いてるよとかいう話を聞きました。それから大牟田が空襲でめっちゃくちゃになって おたけさんの家族が4人で逃げてきて いまはない蔵で暮らしてた。私たちの主人が どうせ死ねばもろともだってんで 母と姉とでおじが北京から5人で引き上げてきて、大入り満員。戦時中はほんともう無我夢中。そして母も私がやった事がない畑に行くわけですよ。母にやらせちゃいけないと思ったりして家中お掃除、畑もしてお芋作ったりして。


大牟田空襲の夜

・長女・玲子さんが奈良で生まれ、九州に帰った。精一さんは生月島へ出征していた。

和加さん:防空壕を1メートルぐらい掘って そこに入ったの。大牟田っていう町は全滅。じゃんじゃんそこに焼夷弾を落としてもう全滅。そしてね、うちのうらに穴掘って この人を抱いて中入ってんの。そしたらね、他の人みんな見物してんですよ。あの…空襲を。見物っつったらおかしいけど、あああって感じで。

―見えたんですか?

和加さん:見えたんです。私はこの人死んだら困るっと思ってもうそんな見るどころじゃなかった。向こうからぶわーっときて落としといてさーっと向こう行ったですよ。海の方行ったのかな。



昭和30年代の福岡市内
・旧家を出て、4年間福岡市内へ。

玲子さん:でも福岡の4年間が一番良かったらしいですよ。住んでる人がもうほんとにやさしかったものね。福岡は住みやすいんですよ。埋め立ててなくて、家から散歩していくともう海。小さい頃、水着を着て家を出てそのまま海に行きました。西鉄ライオンズの寮が、家と海の途中にありました。豊田さん、仰木さん、西村さん、高倉さん、中西さん、稲尾さん…もうぞろぞろ出入りして。夕方4時ぐらいになるとバスが選手を迎えに来るんですよ。でバスが後ろ向きに入ってくると、私たちが車に乗り込むのを見に行くんですよ。町も商店街も良かった。博多どんたくとか山笠とか、花電車がとおったり、おみこしが来たらお水をかけたり、断片的におぼえてます。ちょうど良かったんじゃないかな。時代的に。

・市内での勤務を経て、五木寛之『青春の門』の舞台にもなった筑豊の田川へ。

玲子さん:石炭を掘る人と職員が別なんです。岡の上に職員社宅があるんです。従業員は坂の下に長屋。学校まで違うんです。掘る人は危険な仕事だからお金はもらってたみたい。昼間寝る人もいる。おっきなお風呂が会って、24時間稼動してる。ひっきりなしに入りにくるんです。コヤマっていって、三井関係じゃない名もない炭鉱の人がこっそり入りにくるんです。飯塚のほうに行くと住友とかあった。そのコヤマのなかに上清炭鉱ってのがあって、上田清次郎夫婦が一山当てちゃったんですよ。日本の長者番付の10本の指に入っちゃったんですよ。おおきな御殿を立てて。長屋は狭いけれどもお金は職員よりもらっていた。住むところは違っても遊びに行っていた。



慣れない東京
・田川での石炭産業が斜陽になり、縁あって東京へ。
・姉と妹がすでに東京にいた。姉はそれ以前大牟田に勤務、青山学院に勤務していたおじのところに嫁ぎ、上京。15歳下の妹も和加さんの母も、姉の嫁ぎ先に上京。用賀に大きい家があった。
・当時、汚い古い家。4畳半4つ、3畳2つのアパート、そこに青山の学生や写大(工芸大学)の学生が。窓に網戸がついてないってごろごろって来て。つるしあげられておそろしくって。あーそうですかってかんじ。とにかくそのまま入ってもらった。あんときは驚いちゃった。
・誠一さんは三井の重役が作った東京の会社に入ったがうまく行かなかった。二つぐらいうまくいかなくなって独立し、トイレの脱臭剤を大量に仕入れた。全然売れず、和加さんがせっせせっせと捨てた。コンクリートをうつときに、ミキサー車を時間通り現場に着かせる仕事もした。
・九州の人が経営する神田にある会社を任されていたことも。和加さんが事務員で、二人で行っていた。

和加さん:子どもが4人いましたでしょ、そんな家借りて住むなんて考えられない、ていって主人がここ買っちゃったんですよ。そして東京行ったら騙されないようにしなさいって社宅の人が(笑)東京は怖いからねって。そのころローンなんてないでしょ。そして買ったら、裁判があるから出て来いって。境界争い。全然そんなこといわなかった。

―買ったあとにわかったんですか。

和加さん:びっくりして。8万円持って来いって。ああ騙されたと思った。昭和38年ごろの東京・新宿

―40年いれば、東京の思い出が一番大きいんじゃないですか?

和加さん:もう来たときはオリンピックの直前で、あっちもこっちも道路整備。しょっちゅう掘り返したり広げたり。毎週渋谷から姉の用賀まで、昔の玉電で45分。青虫みたいな路面電車。

―新宿が見えますけど、風景も変わりましたね?

和加さん:もうあそこは、浄水場だったものね。新宿によく歩いていったら、浄水場の塀があって、あとは何にもなかった。警察ができて…。中野坂上がなかったから、新宿まで歩いていきました。

―オリンピックは行きました?

和加さん:最後に終わりの火が消えるのを見た。知らないビルの上に上がってみたら、聖火がぱっと消えたとこだった。それだけ(笑)。あーおかしい。



結婚のいきさつ
・当時奈良にいて、おば・かずおさんのところに嫁いだ。京都の学校に行っていた、精一さんがよく会いに来たが、奈良で育った和加さんは、福岡へ嫁ぐのを嫌がった。
・おば・かずおさんは高知生まれ、関西育ちで九州では四面楚歌。小日向台の鳩山音羽御殿の近くに住んでたのが、熊本へ。50で主人(岬さん)に先立たれ、子どもなく、苦労した。隣の分家の人から邪魔がられ、追い出されそうにもなった。

玲子さん:九州に行くのは抵抗したんですよ。断りに行ったの。父が同志社に行ってたとき、休みのたびに京都から奈良へ行ってアピールしてたわけですよ。

和加さん:こんな高いゲタはいちゃってさ。バンカラのね。であたし、九州の人ってなんだと思ってたですよ。そしたらおばも九州でたった一人、相当苦労したみたい。

玲子さん:そういう田舎だから行きたくなかったんでしょうね。

和加さん:その叔母がしっかりもんでね、「こわいおばさん」って言われてた。二番目のあたしに眼をつけて、精一もあたしを気に入って。でも母もあまり九州にやりたくなかったから、もよりの駅で断って、そのまま帰ってきちゃった(笑)。それで北京の親戚に1年逃げてたの。よかった、これさいわいと行ったの。でも叔父は早く帰してくれって行って、帰ってきたの。私はひとり立ちしようと思って、邦文のタイプライターの学校に行ったの。そしたら叔父が「樺島家どうするつもりだ」って。そしたら母が「兄に言われちゃって」てへっちゃんこになっちゃって、もうしょうがないって。

玲子さん:今みたいに関門トンネルがないから船で渡って。(笑)

和加さん:それで、その16年4月から初めて女中のいない生活。何にも役に立たない嫁で腹立っただろうね。拭き掃除でもたてに拭かなきゃいけないっていちいち一つ一つ具体的に。それがおわったらお針仕事。



荒らされた旧家
和加さん:私たちが転勤している間、おばあちゃまが「やるよ」っていって蔵をひとつあげちゃったの。そこへね、戦時中親戚がね、疎開してたんですよ。蔵の中に。それでこの田舎に10年いました。それで福岡市に転勤になったんです。福岡ドームの近くに。

―それでこの家を出られて。

和加さん:そうなんですよ。そしたらお手伝いさんがおばあちゃまと一緒に住んでくれて。

玲子さん:かずおさんが78歳で亡くなった後は、お手伝いさん一家が住んでいた。何年かに一度父が行くが、あとはほったらかし。お手伝いさんが亡くなり、ご主人と子どもになってからが運の尽き。骨董屋さんに家を見せてしまい、何度やお蔵から金目のものを掠め取って、売ってた。一つ二つがエスカレートし、どんどん流出。あるとき父が見たら何度が空っぽ、すぐに出て行ってもらったけどもう後の祭り。父が仕事を辞めて10年ぐらい一緒によく半々の行ったりきたり。車に積んでフェリーで運んで。あるとき、よそのうちに行ったらものがあるんです。そんなことがいろいろあって、父がなくなって、一人の人が18回泥棒に入り、他にも何人か。写真を撮ったものが、次の年にはもうないんです。

和加さん:あんな重いものをさあ…よく盗られたもんだ。考えたら腹が立つから考えない事にしてる(笑)おとうちゃまがなくなってからがひどかったね。



クリスチャンとして
・父・藤井太七さん(9人きょうだいの7男)の実家、滋賀・長浜がクリスチャン。

和加さん:母はかんかんなクリスチャン。祖母がまたクリスチャン。もう教会一辺倒。5年生でなくなるときみんなで賛美歌うたったんですよ。そしたら口をちょっと動かしてました。そしてすーっと亡くなったんですよ。はあ、人が死ぬってこういうことか、と思ったんですね。私なんかただ母にくっついて教会いったっていうだけでね。で母が日曜学校してたんです。子どもと賛美歌うたって、エス様の話をして…だからひらめいてもなんでもない。親戚がみんなわりとクリスチャン。

―戦争中はご苦労はありました?

和加さん:大牟田の教会が空襲で焼けて。牧師さんが家を回ってたんですが、終わりの頃はもう滅茶苦茶。牧師さんもどこいっちゃったんだか。子どもらはみんな行ってました。

玲子さん:でも今は教会すごいですよ。毎週欠かさず。

和加さん:私はもう教会しかない。教会とお習字。絵手紙はもうつまんなくなっちゃって。教会行って一週間の事ざんげして、清められて帰ってきて、一週間また穢れてまた行って(笑)あーおかしい。とにかく行ったらいい友達が一杯いて、ごはんを食べに行っていいたいこと言い合って、みんな何言っても許してくれるんですよ。ほんとにこれだけはなんの障りもない。

玲子さん:今の教会は、父が葬式をしてもらってからだから、10数年。ルーテル教会になじめなくて、神学講座に5、6年通って。そしてローマに行ってルターがひざを突いてのぼった階段に行って。 イスラエル旅行
玲子さん:20年ぐらい前に、ローマ、イスラエル。せまいところを一週間。今みたいに危なくないので、ぐるぐる回って。それからギリシャへ。そのときのガイドさんが良かったんですよ。

和加さん:涙とともに祈ってくださったんです。情熱的な方で。それから帰ってきて、知り合ったお友達の誘いでイスラエルの集いで行ったら、またイスラエル旅行に当たっちゃったんですよ。一度目の次の次の年にもう一回行っちゃったんです。銀座みたいな町も行きました。こんなとこがあるんだってびっくり。

―礼拝堂のイメージが…

玲子さん:あそこは旧市街。テルアビブは最先端ですよ。

和加さん:嘆きの壁に願い事をかいてはさんできたんです。「世界平和」って。なんとなくそんな気がして。(笑)

玲子さん:私たちの頃は結構どこへでもいけたんですよ。

和加さん:イエスキリストの当時のままの石段を歩けたんですよ。今は鎖がかかっていていけない。ここをエス様が上られたんだなあって。海外旅行の楽しみ 玲子さん:こうやってみると結構お母さん幸せな人生だよ。とくに北朝鮮の人の話を聞けばね。

和加さん:父が死んだとき、女学校やめなきゃって思ったけど、そんなも事なかった。品物は死んで持ってけるわけじゃないし、どうでもいい。

玲子さん:あと母は、毎年のようにヨーロッパ行ってます。

―えっ!!

玲子さん:ここ10年以上毎年。パリには必ず。自分たちで計画を立てて行くんです。白鳥城ちかくの安い民宿に泊まったら、親戚の方が「よく来たねえ、勇気あるねえ」って。(笑)

和加さん:この人のおかげで、ほんとに玲子さまさま。だれがこんな私をつれていってくれますか(笑)。

玲子さん:お母さんはどこが好きですかね?

和加さん:小学校の友達が天才ピアニスト、戦争が始まっても帰ってこなかった。今はなくなってしまったその親しい友達(ようちゃん)のいたパリが大好き。

玲子さん:マッターホル唐ナ気分が悪くなってしまった。ラッキーなことに、たった一泊のマッターホルンの朝焼けを見ることができた。

―いいですね!また行かれるんですか?

玲子さん:前みたいに移動ができないから、楽なところで。

和加さん:いつも「これが最後」と思って。行くのが楽しみ。うれしくってわくわく。セーヌの水を触ってきました。何でもやりたい事をやって。

◆8歳で小学校に入るときに父に日本に返され、祖母がいた(公証役場未亡人)奈良にいついた。奈良の女子高等師範に行くためでもあった。

樺島:女高師付属のあいだはほんと平和でした。女学校5年ごろから(s12ころ)戦争の気配がしてきたんです。
女学校時代はのほほんとしたほんといい時代だったんです。そのあとの人がね、英語はないわ動員されて工場に働きに行ったりしたみたい。そういう目にあわないで済んだんです。

―いい時代だったんですね。

樺島:震災で母の兄一家が東京から女中を連れてきたんです。
そしたら大仏さんのごーんという鐘で腰を抜かして、それを私覚えてるんです。大仏さんのすぐ側だったんです。でもいい時代でした。春日さんのお祭りとか、若草山のお祭りとか。

―しばらくすると、東京では515事件とか226事件とか結構物騒な事件が起きてきます。そういうものを奈良にいながらどのようにご覧になっていました?

樺島:あまり知らされてなかったんですよ。226事件なんて新聞にもあまり出ないし。
満州国の皇帝さんがきましたよ。そして私行列してお迎えしました。それからあとが兵隊さんが出征するのを旗振って…

―まだ幸せな時期だったんですね。その5年後に戦争が起きるなんて考えてらっしゃいましたか?

樺島:そんなのぜんぜん!思いもかけない。盧溝橋事件があったというのも、日本が正しいようにずっと聞かされてたし、警察も「アカ」っていううちを探して、何にもわかんないけど「『アカ』ってこわい」って聞いたり。

―次第にそういうようなことが身の回りにおきるようになってきて、不安を感じるようになったんですね。そのころは楽しかったですか?

樺島:いいえ、あまり。もうほんとになごやかなあれからこうだんだん戦争に出て行くっていう感じで、どうなるかなあっていう気持ちはあったと思いますね。

―10代前半は穏やかな時期で、後半は急激に…



家族

◆父・藤井岬さんは、当時中国にあった大学・東亜同文書院(現在、跡地は鉄道大学に)に事務職として勤めていた。おじ(和加さんの姉のご主人)が東亜同文書院の創設者の一人で、おじ夫婦が父に中国行きを勧めた。

樺島:父がおじに傾倒してね、私の名前も付けてくれたんです。死んだあとも、墓側にたのむっていって、桃山の墓地の隣に。

◆母・二宮きのさんは高知の出身。女子高等師範を出て小学校の教諭・助手をやっていたが父と結婚した。

樺島:わかが生まれて父は喜び、ベランダから食用鳩を逃がしてやったんだって。

―食用鳩?

樺島:昔はね、鳩をね、自分のうちでね、毛をむしってね、食べたんですよ。
そしたらね、パーっと飛んで行ってね、どっか高いとこへとまって、サーっと逃げていったの。母がよく言ってた。

―そういう風習が上海にあったわけですね。

樺島:父は姉を連れてレストランへ行ったりもしました。

―上海では裕福な家だったんですね。

樺島:そうですね。お給料がよくて苦労知らずだったみたい。



父の死

◆女学校の五年のとき父がなくなってから売り食いだ。
◆姉に聞いたら保険を解約したりして暮らしたって。
◆姉は同志社の女専を出て三井信託に勤めていた。
◆姉とは4歳半上なの 大正5年1月生まれ
◆母は、父の死後幼稚園に勤務。嫁ぐ前は先生をやっていた
◆現在唯一残る家具も、母が父の墓を作るとき売ろうかとしたが、主人が「そんなの売るんだったら僕が買う」と残した。

―お母様とお姉さまがしっかりしていたから、それ程苦労されなかったんですね。

樺島:でもなんか物売りましたね、いろいろ。土地はなく借家でした。売り食いは戦争前5年間くらいです。



戦争中に見た中国

樺島 :北京のおじのさそいで、結婚する1年前に、北京に行きました。紫禁城とか。そしたらすっごいんです。日本とまるで規模が違う。あまり中国がみたとこすごかった。日光行ったらわるいけどぼっちゃんみたいで…。あれをみたからかな 戦争なんて馬鹿なことをするんだって…私一人で思ってたんですよ。

―そのときの北京の様子はどうでした?

樺島:日本人威張ってました。アマっていって中国のお手伝いさん、ボーイもいて、かわいがってくれました。

―中国での印象的なことは?

樺島:アマなどは快く思ってないかな、と思いましたね。日本人に対して気持ちよく思ってないって。

―日本人は結構いたんですね。

樺島:満鉄の人や清水組・大林組など建設の人が多く、暮らしぶりが豊かでした。

―北京には1年ぐらいいて、それでつれもどされてお嫁に行かれた。

樺島:15年に訪中、16年4月に嫁ぎました。帰ってきたら普通の人は中国に行けなくなっていたんです。



嫁ぎ先・福岡で戦争が始まって

◆ご主人・精一さんは同志社を出て大牟田の三井鉱山の事務をしていた。娘が生まれたときには長崎の生月島に出征していた。
◆精一さんは、岬さん・佳寿雄さん(きのさんの姉)に子供がなく、久留米の高橋家から養子に来た。岬さんの妹が高橋に嫁ぎ、生まれた子供が精一さん。
樺島:戦争が始まった昭和16年、九州に片付いたんですよ。この年の12月8日に戦争が始まったんですよね。防空壕を妹と一生懸命彫ったんですよ。終戦の日も。戦争の起こった日は、アメリカと戦争をするなんて「なんてばかなことするんだろう」ってほんと思いました。

―全然かなう相手じゃないと。

樺島:そう。もう全部だめだなって思いました。そのときはそうでもなかったですが、だんだん、死ぬより他しょうがないなって。それで、近所のおじいさんが村の畑を全部畑にしていたんですね。したらそのおじいさんが一手に引き受けて泊りがけで 10日ぐらい泊まっちゃあいろいろ作業してたんですよ。そしたらアメリカの飛行機が空から銃撃してきて。そして打たれそうになって腰抜かしちゃった。そこ歩いてたら。戦争始まってまもなくの時期です。

―あのあたりにも飛行機が舞い込んで来てたんですね。

樺島:あのあたりに爆弾落としてね、大きな穴が開いてるよとかいう話を聞きました。それから大牟田が空襲でめっちゃくちゃになって おたけさんの家族が4人で逃げてきて いまはない蔵で暮らしてた。私たちの主人が どうせ死ねばもろともだってんで 母と姉とでおじが北京から5人で引き上げてきて、大入り満員。戦時中はほんともう無我夢中。そして母も私がやった事がない畑に行くわけですよ。母にやらせちゃいけないと思ったりして家中お掃除、畑もしてお芋作ったりして。樺島3.jpg


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齋藤律子さん(73)
大正15年生まれ
米沢の電機会社の七人姉妹の次女として裕福な暮らしを送る。戦後は夫との苦労の日々

○お家はどんなことやられてたんですか?

●電機工事と販売と、大きなモーターや変圧器の修理やなんか。キョウデンで。米沢なんか機織り
が名物ですからさぞかしそういう仕事があるだろうって米沢に構えてはみたんですが、なかなか
そういう仕事って入らないんですよ。かえって東京から仕事が来て、やってたようです。

○キョウデンっていうのは何でしょう?

●ラジオとかの弱電に対して、強い電器のこと。工事関係のものです。

◎発電所から来る電力を使ったりする……。

○「強電」ですか。

●おかげさまでね、その頃電機屋さんなんかあまり無かったものですから。

◎二軒しかなかったんです。

●それで割合、おかげさまで、手広くなって、いまで言う????(確認中)なんか付けたものですから、
市内からみんなわざわざ乗りに来たそうですよ。その頃はすごく良かったんですけど、私たちの小さい
時はね。女中さんも3人居てね。

○じゃずいぶん大きなお屋敷だったんですね。

●それが段々、段々ね、終戦後没落してって(笑)。

◎見事にねえ。

●だから育ち盛りはね、おかげさまでねえ。お琴だのを習わせていただきました。

○お琴をねえ。いまそこにもありますけども、その頃からやられていた訳で。

◎いちおう七人姉妹ぜんぶお琴持っています。昔はピアノよりお琴でしたからねえ。

○なるほど。それはあれですか、お父さんやお母さんが習いなさいみたいな感じでですか?

●そうなんですよねえ。

◎下の方はもういい加減です。こうなっちゃってから。

●戦争中なんてよく、出征兵士慰安のために、市の公会堂あたりでお琴弾いて、踊り習ってる人なら
踊りをご披露したりねえ。

○じゃ、その頃まさに、公会堂とかでみなさん七人姉妹で出たりなさったんですか。

◎私たちは……上の連中だけですけども、出たのは。私たちは、まだ女学校でABCやっと揃った
ぐらいですよ。あとは工場行ってヤスリ掛けて。

○あっそれは、学徒動員でですか。

◎だから(生まれる年が)ちょっと違うだけで。育ちはグッと違いますよね。

○そんな感じですよねえ。じゃ結構、律子さんの時はいい時代だったんですね。

●母が亡くなってからねえ、やっぱりどんどんどんどん、こう……殴り合いになったって言うか。

◎終戦後。現金草とか、親父さんの一所懸命買ってたお金を全部押さえられて。それで、逮捕になった時はお金の
価値がこんな下がってるから。そこでもう、ずいぶん貧乏になりました。その前はいい思いしたけど私たちの時は貧乏した(笑)。

○その、いい思いした時のエピソードは何かありますか?こんな贅沢な暮らしをしていたとか、そういうのは。

●贅沢ねえ……そう言えば、お祭りの時なんかは、皆さん一張羅着てたってお祭りに行くんですよ。その時にね、お祭り行くのに
父がわざわざタクシー呼んで、人混みのなかをわざとブーブーブーって(笑)、鳴らして通ってった覚えがあります。タクシー
そのものが贅沢で普通乗れなかったんです。だから、みんなよけてくれるの。ふんぞり返って、親父さん乗せてくれた覚えあります。
いまにしてみりゃ当たり前のことがすごい贅沢だったんですね。いまそんなブーなんて鳴らしたら怒られますよねえ(笑)。

○そうですよねえ(笑)。

●あとね、お盆にお寺さんにお参りする時に、やっぱり七人姉妹でしょ。七人みんなで着物着て行く訳ですよね。そしたら、
近所でね、藤電さんのお嬢さんが通る時は楽しみだと言ってたそうです。

◎七人姉妹がそろそろ出てくるころだー、とか言ってたそうです。後で聞いた話ですけどもね。

○見物人が居た訳ですか(笑)。じゃその街のアイドルだったんですね。

●◎(笑)。

***

★大正15年生まれ。その年、実家が米沢に家を建てていたので、「建子」と名付けたかったが、
それではおかしいというので、ぎょうにんべんを付けて「律子」に。七人姉妹の次女。

★実家は電気の工事、販売、モーターや変圧器の修理をしていた。

★父君は米沢では織物が名物なので、電機の需要を見込んでいたが、むしろ仕事の依頼は東京の
ほうから来た。

★電機屋は当時米沢に二軒だけ。実家の経済は潤い、琴などの習い事もさせてもらえた。父君の
扱っていたのは強電のものだった。

★タクシーというのが当時は誰も乗ったことの無いような贅沢だった。お祭りに行くのに父君は
タクシーを呼んでくれた。みんな道をよけてくれた。

斉藤律子1.jpg


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