●父と鉄道
薩摩大口駅──それは国鉄マンであった父の最後の職場であり、さかのぼれば、母方の曾祖父の土地に開業した駅でもある。大きくなったら国鉄マンになって、父のあとを継ぐ場所だと心に決めていた「駅」である。
私が物心ついたとき、父は油津駅で、改札と構内アナウンスを担当していた。
──油津 油津 ご乗車おつかれさまでした。車内にお忘れ物のございませぬ よう、お手回り品にご注意下さい。まもなく宮崎行きが発車いたします。次の停車駅は日南、日南でございます
というフレーズを幼い私は、
──あぶちゅー あぶちゅー おつかれました。つぎのていちゃえちは ちなん ちなんでじゃます
と真似していたそうだ。遊び場は当然、父の働く駅である。終日、貨物列車の入換を見たり、出札口にちょこんと座らせてもらい、汽車の絵を描いたりしていた。


●赤字ローカル線が俎上に
昭和50年代後半、莫大な累積債務に喘いでいた国鉄は、それを脱却するには徹底的な合理化そして分割民営化を余儀なくされていた。その具体策として、赤字ローカル線が俎上に上がり、私の住む大口を走る山野線、宮之城線が選定・承認された。
そのころ高校生であった私は大きなショックを受けた。父を始め、家族全員がたいへん世話になり、思い出のいっぱい詰まったこの薩摩大口駅──感謝の意を込めて、「今できることを精一杯しておこう」と決意したのは、この時である。以来、私は写真撮影や資料の収集に奔走した。それはまさに時間との闘いであった。


●薩摩大口駅の来歴
薩摩大口駅は伊佐盆地で収穫される米や木材の輸送路線として、大正10年9月11日に開業し、それまで栗野まで馬車に頼っていたこれらの移出や、肥料・食塩その他の物産移入に寄与した。
その後、昭和12年12月12日、山野線の久木野・薩摩布計間、川内方面から東に建設を進めてきた宮之城線の薩摩永野・薩摩大口間も全通し、薩摩大口駅は北、西、南に鉄路を延ばす交通 の要衝としての地位を築いた。
戦時中、軍人の出征や遺骨の出迎え、そして種子島からの学童疎開の受け入れ、米国戦闘機による駅への機銃掃射に見られるような暗い時代を経て、戦後を迎えた。そして高度成長期に入ると、旅客列車のディーゼル化、宮崎・出水間を走破する準急『からくに』号が運転されるなど、鉄道の全盛期を迎えるに至る。
しかし、昭和40年代後半入ると、マイカーに押されて利用者が減少し、ダイヤが間引きされ、貨物輸送は57年11月15日、荷物は59年2月1日にそれぞれ廃止され、旅客営業だけとなった。


●鉄道の恩恵
鉄道によってもたらされた恩恵は絶大であった。これまで陸の孤島として、新鮮な海産物とは縁遠かった大口であるが、水俣方面で取れる海産物を両手と背中一杯に背負ってやって来る行商のおばさんたちのおかげで、人々は新鮮な海の幸を口にすることができるようになった。
また、駅周辺には、国鉄の物資部、運送店、米検査所、製材工場、商店、金融機関などが次々と建設され、産業、地域経済の発展に大きく貢献した。また、馬車や船で一昼夜近くかかっていた鹿児島までの道のりも3時間あまりに大幅に短縮され、人と物資の流動性が一気に促進された。
このように、鉄道そして駅は地域経済、そして街づくりの中心として重要な役割を演じてきたのである。


●地域社会の中心として
薩摩大口駅の朝は、山野、菱刈、薩摩永野方面からの通学生で賑わう。往年は4~5両編成でも満員で、一番後の学生が降りるころには、もう先頭の学生は大口高校に達していた、というくらい長い学生の列が駅と学校を繋いでいたという。
昼は、近隣から大口へ病院通いのお年寄りや買い物客がやって来て、駅前通りは活気にあふれ、夜は、帰途のひとときをくつろぐ勤め人が近隣の酒場を賑わせた。
二本のレールは全国に延び、各地の親戚、知人との一体感・安心感を生み出した。そして、その玄関である駅は、単なる汽車の乗降場としてだけではなく、コミュニティーの中心として機能し、様々な人生模様の舞台となったのだ。


●駅は眠らない
山野線、宮之城線の分岐駅であった薩摩大口駅には、昭和50年代後半まで駅長以下首席助役、助役、運転主任、改札、出札、小荷物担当の他信号場、機関支区、保線区などに約100人もの職員が在籍していた。
早朝5時ごろからの始発列車の仕業検査、入換からはじまり、朝礼、点呼、乗客への案内、通票閉塞器を使用しての運転業務など、職員はそれぞれの業務をキビキビとこなし、午後9時過ぎの終列車の発車後も翌日の準備などに余念がなかった。
泊まり勤務の職員もおり、ディーゼルカーのアイドリング音は、休むことなく、夜通 し駅構内に響き渡っていた。


●「鹿児島の北海道」
大口の別名は「鹿児島の北海道」──。四方を山に囲まれた盆地の中心に位 置し、冬は放射冷却現象で氷点下7~8度まで気温が下がる。また南九州には珍しく、年に数回積雪もあり、大口駅で十センチぐらいの積雪でも山間部では数十センチにもなり、大口市から川内、人吉方面 、水俣・栗野方面への国道が軒並みチェーン規制や通行止めになるなか、山野線、宮之城線は運休することなく定時運行した。
──汽車が走っで陸の孤島にならんじすんなあ。まこて心強かど
こうした近所の人の声を、私は朧気に記憶している。
しかし、その陰には、カンテラを焚いてポイントの凍結防止に努め、始発列車にさきがけて線路の点検や吹き溜まりの除雪作業に出動する保線区員、見通 しが悪く運転感覚も違うなか慎重に運転する運転士、安全運行を駅で支え見守る助役──そんな人たちのたゆまぬ 努力があったのだ。


●廃止に至る日々
廃止の日程が決定すると、今まで無関心であった沿線住民が堰を切ったように乗車し始めた。JRが走らせた「さようなら臨時列車」は日を追うごとに別れを惜しむ人々であふれかえり、沿線には日頃皆無に等しかったカメラやビデオを持った人々が繰り出した。ガラ空きだった定期列車でさえも、都会のラッシュ並みの混雑で積み残しが出るほどであった。
鉄道マン達は、最後の日まで安全に列車を運行することを懸命に取り組んでいたが、次第に別れの時が近づいて来ると、
──胸にこみ上げてくるものがあり、本当は放送したくはないんです・・・
と車内放送で、心情をもらす車掌もいた。
私は引退した父に、何度か「駅に一緒に行ってみよう」と声をかけたのだが、決して腰を上げることはなかった。


●薩摩大口駅、最後の日
山野線、そして薩摩大口駅最後の日となった昭和63年1月31日、早朝よりたいへんな人出であった。定期列車は予備車や日頃他線区で運用されている車両を増結。鹿児島・宮崎各方面 からの「さようなら列車」、その合間を縫って団体列車が線路容量いっぱいに運転された。
JR、県、大口市それぞれの廃止記念式典、山野線を陰から支えて下さった方々への表彰、JRからバス会社への「ハンドル引き渡し式」、乗務員や駅長への花束贈呈や発車式などのイベントが催された。
午後10時過ぎの最終列車の見送りでは、「蛍の光」を背景に、感謝や別れの声が飛び交った。泣きむせぶような長い汽笛を鳴らしながら、ゆっくりゆっくり走り去っていく列車を、私たちは断腸の思いで見送った。
そして自分にとっていかに大切なものであったかを痛感し、先人達が想像もできないような努力をして開業させ、私たちにたくさんの恩恵を与えてくれたこの駅を、みすみす廃止させてしまった世代の人間の一人として、やりきれない思いに苛まれた。


●廃止から13年
2月1日──それは山野線・薩摩大口駅の廃止された日である。早いもので今年で13年になる。
駅なきあと、大口市は人々の交流・文化の中心地になるようにと願いを込めて、ちょうどホームのあった場所に、平成4年『大口ふれあいセンター』を開館。アトリウム、図書館、多目的ホール、そして鉄道があったころの様子を語り継いで行くための資料館がある。
線路敷は道路になり、都市計画事業もあいまって、駅周辺に鉄道があったころの面影を伝えるものは何もない。久方ぶりに大口市に帰省した方からは、あまりの変わり様に『まるで浦島太郎になったようだ』との声が聞かれるほどだ。
私は鉄道マンにはなれなかったが、父が働いていたこの場所に建設された「ふれあいセンター」に勤務し、鉄道の案内をしていることに奇妙な縁を感じる。今は、薩摩大口駅の思い出を風化させず、未来に伝えていくことが私の使命であり、はなむけでもあると考えている。





薩摩大口駅──それは国鉄マンであった父の最後の職場であり、さかのぼれば、母方の曾祖父の土地に開業した駅でもある。大きくなったら国鉄マンになって、父のあとを継ぐ場所だと心に決めていた「駅」である。
私が物心ついたとき、父は油津駅で、改札と構内アナウンスを担当していた。
──油津 油津 ご乗車おつかれさまでした。車内にお忘れ物のございませぬ よう、お手回り品にご注意下さい。まもなく宮崎行きが発車いたします。次の停車駅は日南、日南でございます
というフレーズを幼い私は、
──あぶちゅー あぶちゅー おつかれました。つぎのていちゃえちは ちなん ちなんでじゃます
と真似していたそうだ。遊び場は当然、父の働く駅である。終日、貨物列車の入換を見たり、出札口にちょこんと座らせてもらい、汽車の絵を描いたりしていた。


●赤字ローカル線が俎上に
昭和50年代後半、莫大な累積債務に喘いでいた国鉄は、それを脱却するには徹底的な合理化そして分割民営化を余儀なくされていた。その具体策として、赤字ローカル線が俎上に上がり、私の住む大口を走る山野線、宮之城線が選定・承認された。
そのころ高校生であった私は大きなショックを受けた。父を始め、家族全員がたいへん世話になり、思い出のいっぱい詰まったこの薩摩大口駅──感謝の意を込めて、「今できることを精一杯しておこう」と決意したのは、この時である。以来、私は写真撮影や資料の収集に奔走した。それはまさに時間との闘いであった。


●薩摩大口駅の来歴
薩摩大口駅は伊佐盆地で収穫される米や木材の輸送路線として、大正10年9月11日に開業し、それまで栗野まで馬車に頼っていたこれらの移出や、肥料・食塩その他の物産移入に寄与した。
その後、昭和12年12月12日、山野線の久木野・薩摩布計間、川内方面から東に建設を進めてきた宮之城線の薩摩永野・薩摩大口間も全通し、薩摩大口駅は北、西、南に鉄路を延ばす交通 の要衝としての地位を築いた。
戦時中、軍人の出征や遺骨の出迎え、そして種子島からの学童疎開の受け入れ、米国戦闘機による駅への機銃掃射に見られるような暗い時代を経て、戦後を迎えた。そして高度成長期に入ると、旅客列車のディーゼル化、宮崎・出水間を走破する準急『からくに』号が運転されるなど、鉄道の全盛期を迎えるに至る。
しかし、昭和40年代後半入ると、マイカーに押されて利用者が減少し、ダイヤが間引きされ、貨物輸送は57年11月15日、荷物は59年2月1日にそれぞれ廃止され、旅客営業だけとなった。


●鉄道の恩恵
鉄道によってもたらされた恩恵は絶大であった。これまで陸の孤島として、新鮮な海産物とは縁遠かった大口であるが、水俣方面で取れる海産物を両手と背中一杯に背負ってやって来る行商のおばさんたちのおかげで、人々は新鮮な海の幸を口にすることができるようになった。
また、駅周辺には、国鉄の物資部、運送店、米検査所、製材工場、商店、金融機関などが次々と建設され、産業、地域経済の発展に大きく貢献した。また、馬車や船で一昼夜近くかかっていた鹿児島までの道のりも3時間あまりに大幅に短縮され、人と物資の流動性が一気に促進された。
このように、鉄道そして駅は地域経済、そして街づくりの中心として重要な役割を演じてきたのである。


●地域社会の中心として
薩摩大口駅の朝は、山野、菱刈、薩摩永野方面からの通学生で賑わう。往年は4~5両編成でも満員で、一番後の学生が降りるころには、もう先頭の学生は大口高校に達していた、というくらい長い学生の列が駅と学校を繋いでいたという。
昼は、近隣から大口へ病院通いのお年寄りや買い物客がやって来て、駅前通りは活気にあふれ、夜は、帰途のひとときをくつろぐ勤め人が近隣の酒場を賑わせた。
二本のレールは全国に延び、各地の親戚、知人との一体感・安心感を生み出した。そして、その玄関である駅は、単なる汽車の乗降場としてだけではなく、コミュニティーの中心として機能し、様々な人生模様の舞台となったのだ。


●駅は眠らない
山野線、宮之城線の分岐駅であった薩摩大口駅には、昭和50年代後半まで駅長以下首席助役、助役、運転主任、改札、出札、小荷物担当の他信号場、機関支区、保線区などに約100人もの職員が在籍していた。
早朝5時ごろからの始発列車の仕業検査、入換からはじまり、朝礼、点呼、乗客への案内、通票閉塞器を使用しての運転業務など、職員はそれぞれの業務をキビキビとこなし、午後9時過ぎの終列車の発車後も翌日の準備などに余念がなかった。
泊まり勤務の職員もおり、ディーゼルカーのアイドリング音は、休むことなく、夜通 し駅構内に響き渡っていた。


●「鹿児島の北海道」
大口の別名は「鹿児島の北海道」──。四方を山に囲まれた盆地の中心に位 置し、冬は放射冷却現象で氷点下7~8度まで気温が下がる。また南九州には珍しく、年に数回積雪もあり、大口駅で十センチぐらいの積雪でも山間部では数十センチにもなり、大口市から川内、人吉方面 、水俣・栗野方面への国道が軒並みチェーン規制や通行止めになるなか、山野線、宮之城線は運休することなく定時運行した。
──汽車が走っで陸の孤島にならんじすんなあ。まこて心強かど
こうした近所の人の声を、私は朧気に記憶している。
しかし、その陰には、カンテラを焚いてポイントの凍結防止に努め、始発列車にさきがけて線路の点検や吹き溜まりの除雪作業に出動する保線区員、見通 しが悪く運転感覚も違うなか慎重に運転する運転士、安全運行を駅で支え見守る助役──そんな人たちのたゆまぬ 努力があったのだ。


●廃止に至る日々
廃止の日程が決定すると、今まで無関心であった沿線住民が堰を切ったように乗車し始めた。JRが走らせた「さようなら臨時列車」は日を追うごとに別れを惜しむ人々であふれかえり、沿線には日頃皆無に等しかったカメラやビデオを持った人々が繰り出した。ガラ空きだった定期列車でさえも、都会のラッシュ並みの混雑で積み残しが出るほどであった。
鉄道マン達は、最後の日まで安全に列車を運行することを懸命に取り組んでいたが、次第に別れの時が近づいて来ると、
──胸にこみ上げてくるものがあり、本当は放送したくはないんです・・・
と車内放送で、心情をもらす車掌もいた。
私は引退した父に、何度か「駅に一緒に行ってみよう」と声をかけたのだが、決して腰を上げることはなかった。


●薩摩大口駅、最後の日
山野線、そして薩摩大口駅最後の日となった昭和63年1月31日、早朝よりたいへんな人出であった。定期列車は予備車や日頃他線区で運用されている車両を増結。鹿児島・宮崎各方面 からの「さようなら列車」、その合間を縫って団体列車が線路容量いっぱいに運転された。
JR、県、大口市それぞれの廃止記念式典、山野線を陰から支えて下さった方々への表彰、JRからバス会社への「ハンドル引き渡し式」、乗務員や駅長への花束贈呈や発車式などのイベントが催された。
午後10時過ぎの最終列車の見送りでは、「蛍の光」を背景に、感謝や別れの声が飛び交った。泣きむせぶような長い汽笛を鳴らしながら、ゆっくりゆっくり走り去っていく列車を、私たちは断腸の思いで見送った。
そして自分にとっていかに大切なものであったかを痛感し、先人達が想像もできないような努力をして開業させ、私たちにたくさんの恩恵を与えてくれたこの駅を、みすみす廃止させてしまった世代の人間の一人として、やりきれない思いに苛まれた。


●廃止から13年
2月1日──それは山野線・薩摩大口駅の廃止された日である。早いもので今年で13年になる。
駅なきあと、大口市は人々の交流・文化の中心地になるようにと願いを込めて、ちょうどホームのあった場所に、平成4年『大口ふれあいセンター』を開館。アトリウム、図書館、多目的ホール、そして鉄道があったころの様子を語り継いで行くための資料館がある。
線路敷は道路になり、都市計画事業もあいまって、駅周辺に鉄道があったころの面影を伝えるものは何もない。久方ぶりに大口市に帰省した方からは、あまりの変わり様に『まるで浦島太郎になったようだ』との声が聞かれるほどだ。
私は鉄道マンにはなれなかったが、父が働いていたこの場所に建設された「ふれあいセンター」に勤務し、鉄道の案内をしていることに奇妙な縁を感じる。今は、薩摩大口駅の思い出を風化させず、未来に伝えていくことが私の使命であり、はなむけでもあると考えている。




