22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2002年06月

●父と鉄道

薩摩大口駅──それは国鉄マンであった父の最後の職場であり、さかのぼれば、母方の曾祖父の土地に開業した駅でもある。大きくなったら国鉄マンになって、父のあとを継ぐ場所だと心に決めていた「駅」である。

私が物心ついたとき、父は油津駅で、改札と構内アナウンスを担当していた。

──油津 油津 ご乗車おつかれさまでした。車内にお忘れ物のございませぬ よう、お手回り品にご注意下さい。まもなく宮崎行きが発車いたします。次の停車駅は日南、日南でございます

というフレーズを幼い私は、

──あぶちゅー あぶちゅー おつかれました。つぎのていちゃえちは ちなん ちなんでじゃます

と真似していたそうだ。遊び場は当然、父の働く駅である。終日、貨物列車の入換を見たり、出札口にちょこんと座らせてもらい、汽車の絵を描いたりしていた。

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●赤字ローカル線が俎上に

昭和50年代後半、莫大な累積債務に喘いでいた国鉄は、それを脱却するには徹底的な合理化そして分割民営化を余儀なくされていた。その具体策として、赤字ローカル線が俎上に上がり、私の住む大口を走る山野線、宮之城線が選定・承認された。

そのころ高校生であった私は大きなショックを受けた。父を始め、家族全員がたいへん世話になり、思い出のいっぱい詰まったこの薩摩大口駅──感謝の意を込めて、「今できることを精一杯しておこう」と決意したのは、この時である。以来、私は写真撮影や資料の収集に奔走した。それはまさに時間との闘いであった。

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●薩摩大口駅の来歴


薩摩大口駅は伊佐盆地で収穫される米や木材の輸送路線として、大正10年9月11日に開業し、それまで栗野まで馬車に頼っていたこれらの移出や、肥料・食塩その他の物産移入に寄与した。
その後、昭和12年12月12日、山野線の久木野・薩摩布計間、川内方面から東に建設を進めてきた宮之城線の薩摩永野・薩摩大口間も全通し、薩摩大口駅は北、西、南に鉄路を延ばす交通 の要衝としての地位を築いた。

戦時中、軍人の出征や遺骨の出迎え、そして種子島からの学童疎開の受け入れ、米国戦闘機による駅への機銃掃射に見られるような暗い時代を経て、戦後を迎えた。そして高度成長期に入ると、旅客列車のディーゼル化、宮崎・出水間を走破する準急『からくに』号が運転されるなど、鉄道の全盛期を迎えるに至る。
しかし、昭和40年代後半入ると、マイカーに押されて利用者が減少し、ダイヤが間引きされ、貨物輸送は57年11月15日、荷物は59年2月1日にそれぞれ廃止され、旅客営業だけとなった。

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●鉄道の恩恵


鉄道によってもたらされた恩恵は絶大であった。これまで陸の孤島として、新鮮な海産物とは縁遠かった大口であるが、水俣方面で取れる海産物を両手と背中一杯に背負ってやって来る行商のおばさんたちのおかげで、人々は新鮮な海の幸を口にすることができるようになった。

また、駅周辺には、国鉄の物資部、運送店、米検査所、製材工場、商店、金融機関などが次々と建設され、産業、地域経済の発展に大きく貢献した。また、馬車や船で一昼夜近くかかっていた鹿児島までの道のりも3時間あまりに大幅に短縮され、人と物資の流動性が一気に促進された。
このように、鉄道そして駅は地域経済、そして街づくりの中心として重要な役割を演じてきたのである。


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●地域社会の中心として

薩摩大口駅の朝は、山野、菱刈、薩摩永野方面からの通学生で賑わう。往年は4~5両編成でも満員で、一番後の学生が降りるころには、もう先頭の学生は大口高校に達していた、というくらい長い学生の列が駅と学校を繋いでいたという。
昼は、近隣から大口へ病院通いのお年寄りや買い物客がやって来て、駅前通りは活気にあふれ、夜は、帰途のひとときをくつろぐ勤め人が近隣の酒場を賑わせた。

二本のレールは全国に延び、各地の親戚、知人との一体感・安心感を生み出した。そして、その玄関である駅は、単なる汽車の乗降場としてだけではなく、コミュニティーの中心として機能し、様々な人生模様の舞台となったのだ。

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●駅は眠らない

山野線、宮之城線の分岐駅であった薩摩大口駅には、昭和50年代後半まで駅長以下首席助役、助役、運転主任、改札、出札、小荷物担当の他信号場、機関支区、保線区などに約100人もの職員が在籍していた。

早朝5時ごろからの始発列車の仕業検査、入換からはじまり、朝礼、点呼、乗客への案内、通票閉塞器を使用しての運転業務など、職員はそれぞれの業務をキビキビとこなし、午後9時過ぎの終列車の発車後も翌日の準備などに余念がなかった。
泊まり勤務の職員もおり、ディーゼルカーのアイドリング音は、休むことなく、夜通 し駅構内に響き渡っていた。

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●「鹿児島の北海道」

大口の別名は「鹿児島の北海道」──。四方を山に囲まれた盆地の中心に位 置し、冬は放射冷却現象で氷点下7~8度まで気温が下がる。また南九州には珍しく、年に数回積雪もあり、大口駅で十センチぐらいの積雪でも山間部では数十センチにもなり、大口市から川内、人吉方面 、水俣・栗野方面への国道が軒並みチェーン規制や通行止めになるなか、山野線、宮之城線は運休することなく定時運行した。

──汽車が走っで陸の孤島にならんじすんなあ。まこて心強かど

こうした近所の人の声を、私は朧気に記憶している。

しかし、その陰には、カンテラを焚いてポイントの凍結防止に努め、始発列車にさきがけて線路の点検や吹き溜まりの除雪作業に出動する保線区員、見通 しが悪く運転感覚も違うなか慎重に運転する運転士、安全運行を駅で支え見守る助役──そんな人たちのたゆまぬ 努力があったのだ。


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●廃止に至る日々


廃止の日程が決定すると、今まで無関心であった沿線住民が堰を切ったように乗車し始めた。JRが走らせた「さようなら臨時列車」は日を追うごとに別れを惜しむ人々であふれかえり、沿線には日頃皆無に等しかったカメラやビデオを持った人々が繰り出した。ガラ空きだった定期列車でさえも、都会のラッシュ並みの混雑で積み残しが出るほどであった。

鉄道マン達は、最後の日まで安全に列車を運行することを懸命に取り組んでいたが、次第に別れの時が近づいて来ると、

──胸にこみ上げてくるものがあり、本当は放送したくはないんです・・・

と車内放送で、心情をもらす車掌もいた。
私は引退した父に、何度か「駅に一緒に行ってみよう」と声をかけたのだが、決して腰を上げることはなかった。


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●薩摩大口駅、最後の日

山野線、そして薩摩大口駅最後の日となった昭和63年1月31日、早朝よりたいへんな人出であった。定期列車は予備車や日頃他線区で運用されている車両を増結。鹿児島・宮崎各方面 からの「さようなら列車」、その合間を縫って団体列車が線路容量いっぱいに運転された。
JR、県、大口市それぞれの廃止記念式典、山野線を陰から支えて下さった方々への表彰、JRからバス会社への「ハンドル引き渡し式」、乗務員や駅長への花束贈呈や発車式などのイベントが催された。

午後10時過ぎの最終列車の見送りでは、「蛍の光」を背景に、感謝や別れの声が飛び交った。泣きむせぶような長い汽笛を鳴らしながら、ゆっくりゆっくり走り去っていく列車を、私たちは断腸の思いで見送った。
そして自分にとっていかに大切なものであったかを痛感し、先人達が想像もできないような努力をして開業させ、私たちにたくさんの恩恵を与えてくれたこの駅を、みすみす廃止させてしまった世代の人間の一人として、やりきれない思いに苛まれた。

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●廃止から13年

2月1日──それは山野線・薩摩大口駅の廃止された日である。早いもので今年で13年になる。
駅なきあと、大口市は人々の交流・文化の中心地になるようにと願いを込めて、ちょうどホームのあった場所に、平成4年『大口ふれあいセンター』を開館。アトリウム、図書館、多目的ホール、そして鉄道があったころの様子を語り継いで行くための資料館がある。
線路敷は道路になり、都市計画事業もあいまって、駅周辺に鉄道があったころの面影を伝えるものは何もない。久方ぶりに大口市に帰省した方からは、あまりの変わり様に『まるで浦島太郎になったようだ』との声が聞かれるほどだ。

私は鉄道マンにはなれなかったが、父が働いていたこの場所に建設された「ふれあいセンター」に勤務し、鉄道の案内をしていることに奇妙な縁を感じる。今は、薩摩大口駅の思い出を風化させず、未来に伝えていくことが私の使命であり、はなむけでもあると考えている。

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●“箱庭”の風情

「春の霞がかかる山々に囲まれた小さな駅に下り立つと、山の奥からは採掘の音が聞こえてきました。ちょうど駅前の桜が満開で、まさに“箱庭”とでもいうような風情でした」

渡辺誠さんは当時をこう振り返る。今から約25年前、初めて東赤谷を訪れたときのことだ。東赤谷の雰囲気にすっかり魅了された渡辺さんは、以来、この地を何度も訪れた。

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●ヤマの賑わい

1970年代の東赤谷駅は、まだ鉄鉱石輸送でたいへんな賑わいをみせていた。この駅から、専用線でさらに分け入ったところに採鉱所があるのだ。駅には間断なく、山奥からの貨物列車が到着し、貨物列車に積み荷を移していた。
駅付近には、鉱山に務める人たちの家々が軒を連ね、山間のわずかな平地に民家がひしめいていた。その数は最盛期に100戸を越えていたという。


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●夕刻、小さな駅は活気づく

夕方になれば、新発田方面 から息を切らせて登ってきたディーゼルカーがスイッチバックを経由して短いホームにちょこんと停車する。そこから、黒い制服姿の中学生、高校生が降りてきて、小さな駅はにわかに活気づく。

佐藤諭駅長は、その誰とでも顔見知りだ。


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●駅の思い出

「私が駅長の頃には、乗客は学生さんだけでした。週末になれば、焼峰山などに登る人も来ましたけど・・・。とにかくみんな顔見知りでした。駅の周りには、小学校や銭湯、商店などもあったんですよ。でも、今はもうないでしょうね」

当時を懐かしむ佐藤さんは、現在、山内に住んでいる。かつて「新山内」駅があったあたりである。

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●駅長はいま

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まもなくススキを透して右手に一段高く東赤谷駅のホームと直立する駅長の姿が見えてくる。
(宮脇俊三著『終着駅へ行ってきます』「東赤谷」より)
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この「直立する駅長」が、佐藤諭さんである。 佐藤さんは、赤谷線が廃止になる年、国鉄を定年退職した。その後、悠々自適の生活を送っていたが、最近、心臓を患い、療養生活を送っている。 「もう72──、歳ですよ」──と自嘲するが、佐藤さんの笑顔は今も若々しい。


●汽車か、道路か

──汽車がなくなるということになったとき、村中みんな反対しましたねえ。でも、道路を代わりにつくるというので、納得したんですよ

──汽車と自動車、どちらが便利だと思いますか?

──やっぱり、そうねえ、道路の方がよかったのかねえ・・・

「東赤谷」の対岸には、滝谷と呼ばれる集落がある。ここに暮らす星和子さんは、赤谷線廃止当時の記憶を辿る。

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●鉄鉱石を運ぶ汽車

赤谷線は大正9年、商工省製鉄所専用線として開業した。当初は、途中駅である簀立沢までであったが、大正14年に赤谷、昭和16年に東赤谷まで開通した。

急勾配に位置する東赤谷は、スイッチバック式の駅であった。これは国鉄の終着駅としては唯一の存在として、よく知られていた。

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●あの駅はいま

しかし、鉄鉱石の産出が減少したことと、モータリゼーションが進む中で、東赤谷に住む人々は土地を後にした。そして、昭和58年、赤谷線は地元の合意を得た上で廃止されることになった。

東赤谷駅の駅舎は、赤谷線が廃止されても、しばらく残されていたが、3年の後、ついに取り壊された。現在、跡地は整地が進み、その面 影を残すのは、駅の入り口脇に立っていた大きな桜の木だけである。


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