水野正雄(みずの・まさお)さん(83)
大正9年、東京・新宿、神楽坂の染物屋に生まれる。旧制中学を卒業、昭和15年に中国へ出征。
焼け野原の神楽坂に復員後、食糧庁に勤務。大病を患い、その療養中に、歴史学、考古学の面白さに目覚め、図書館に通いつめる。
退院、食糧庁退職後は、家業の傍ら、全国各地の寺社や文化遺産、発掘現場などを訪ねる。個人事業主の税制改革や、
新宿区の地場産業の振興にも尽力。地元・神楽坂で、三時間にも及ぶ歴史散歩「まち歩き」も行う。

日時:平成14年2月17日
場所:東京都新宿区
聴き手:新藤浩伸

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あそこに店を構えてもう100年になります。うちの親父は96で亡くなりました。17のときに商売始めてるんですよ。11のときに人形町に奉公に出てるんです。着物の整理って奴ですね。我々の職業言葉でいう「ゆのし」ってやつです。着物を織ったり染めたりして、最後の仕上げで湯気でふかすわけです。

――糊づけでぱりっとさせる、ということですか?

いや、のりづけでなくて、反物の幅を全部そろえるわけです。そういう整理屋さん、ゆのし業。着物関係は全部で22業種あるんです。これがまとまらないと、一反の染物ができないんです。だから昔はどの町にも、紺屋町っていう町があった。江戸時代には神田にあった。関東大震災で丸焼けになって、染物屋さんも、再建するならもっと水のきれいなところでっていうんで、別の場所を目指した。それで大体決まったのが、高田馬場から落合。で結局新宿で今染物屋が残ってるのはその範囲内。新宿は今でも染物の本家本元なんです。

新宿区の地場産業ってのは、染物業と印刷業。地場産業ができたときが、私の記憶によると、昭和53年ごろ。私が60歳ぐらいだったかな。胆石で入院していて。そのとき総会が開かれて、のっけから私が副会長で、欠席裁判で入っちゃった。全然私知らなくて、出てきたら副会長だよって(笑)。会長が双葉屋さんっていう老舗中の老舗、落合の小紋屋さん、でご当人当時で80何歳、で92歳まで会長やったの。6年か7年、その間私がずーっと副会長でお付き合いしてて、よく新宿の区長に呼ばれて、「いつまでも90代でやらせることねえじゃねえか」って言われたことあったですよ、先代の山本区長に(笑)。そしたらまあ、92歳で引退するって言い出して、「私の遺言だ、水野さんを会長にしてくれ」って、でこんどは私が二代目の会長になった。

で私の代にね、たまたま西新宿で区に一億円を寄付した方があった。いわゆるバブル時代ですよ。で一億円を区長がどこへ回そうかなってんで、論文提出で大変だったんです。区長が考えてくれて、「産業の方からの寄付だから、新宿の重要な産業にまわしたい」と言ってくれた。その出版業者の方は、いらないって言うんです。出版社だったら新潮社、講談社。印刷だったら江戸川のトッパンがあるでしょう。全然業界の話が合わない。そこいくと染物業者はみんな零細業者、並んでますから、なんかやりたい、ことに後継者を残したい。で私が「後継者のために使いたい」っていったら、「お前、論文書いて来い」って言うんです。

――論文?

だって区議会通すのに論文がいるんです。で私一週間かかって書いて、出したら通っちゃって、一億円もらっちゃった。その利息でいろんな運動起こそうって。当時私の代では利息が年間650万もついた。なんかできるわけですよ。で45人連れて京都に行って、京都の染物屋をずーっと見学しました。高い新幹線代払えたし、後継者の会も作ったし、青年部も作った。それが今、染色協議会の会長をやっています。

――育っているわけですね。

そうそう。私の会長の代の功績はそんなもんです。一億円もらったら100万円も今つかない。

親父も50年商売やって、新宿区から表彰されてます。で私も。親子二代(笑)。私は7年も戦争行ってますけど、それも勘定していいって言うんです。

――7年戦争に行っていたと言うと、昭和13年に召集されて。

いやいや、捕虜の時代があります。昭和15年、初めは北満に行きました。北満で盛んに討伐に出された。万里の長城を討伐で歩きました。あるときは満州側、あるときは北支側におりてずーっと長城伝いに半年近く歩きました。それで結局、討伐中に大東亜戦争がはじまって、元の場所に返されたわけです。ぺいあんという寒冷地帯だから。零下45度。

――45度!?え、そんなとこがあるんですか?

(笑)冬はね。すごいですよ、お酒から何からみんな凍っちゃいます。りんごだってバナナだってかちんかちん。それでも病気にならないで、雪ん中で訓練受けて。スキーやったりなんかして。私学生時代スキーやってたんです。十日町のほうで、入営する五日前まで。帰ってきておやじに怒られちゃった(笑)。

――遊びで行ったんですか?

もちろん。入営の日は決まっていて、その五日前まで頑張ってたんです。

――やっぱり、行くのが嫌だったんですか?

いやだって言うより、惜しいからね。当時は二十歳ですよ。それで4年いたんですよ。ぺいあんってとこからハルピンへ移って。ハルピンは零下30度まで下ります。でもずいぶんあったかいと思いましたよ、ぺいあんよりね。

――零下30度なのに。どうやって寝るんですか?

いやあ、軍隊生活ってのはよくできてますよ、それなりにね。ペーチカっていう暖房装置があって。そいでそのうちに南方の部隊に編入されて、上海のほうに下ったわけです。私ね、中国民族が不思議だなーって思ったことがたくさんあるんだけど、そのうち最大なのが、ちょうど南方へ下るとき。ハルピンから貨物列車に乗せられて、夏服着せられて、4月だったけど雪の中、夏服で。向こうは5月にならないと溶けないから。で広東州の・・・どこだったかな・・・駅も何もないとこに止まって、そこで飯を炊けっていう。貨物車から出て、飯を炊いたり洗濯したり、雑用をやったわけ。ところが、地平線いたるところ、人っ子一人いないわけ。秘密だから。ところがなんとね、止まっている間が3時間くらいだったけど、そのうちに何万って人が、地平線を越えて、集まってきたの!

――・・・何万!?