22世紀に生きる君たちへ

「よばあたれ」といじめられた坂本竜馬、 「うつけ者」とバカにされた織田信長、 「姫若子」とよばれるほど内気だった長宗我部元親、 超KY大村益次郎、超どん臭い吉田松陰。 超発達児・偏発達児・臆病児が、英雄児だ。 英雄児育成の盛池塾。塾長・盛池雄峰のブログです。

2001年10月

渡辺栄造さん(宮崎県日南市)

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―渡辺さんのお父様は、油津で海上運送の仕事を営んでいらっしゃったのですよね?

ええ、最初は下駄職人--親父の兄貴に当たりますが、この人に弟子入りしたんですね。この人は、九州で三本の指に入るといわれる腕のいい職人だったわけですが、喧嘩をして辞めてしまい、その後は、船に乗って飯炊きをしていたのですよ。それから叩き上げで、自分で仕事を始めたわけですね。

―いきなり事業を立ち上げられたのですか?

いえいえ、最初は仲間と資本を出し合っての共同経営ですよ。まず、中古の機帆船を買ったんですね。同じころ、山から木材を切って、それを運んだりしていました。飫肥杉をはじめ、このあたりの野菜類などの食材を大阪方面に運んでいたのですね。で、向こうからは、衣類とか、こちらでは珍しい物を運んできていました。

―けっこう繁盛していたのではありませんか?

そうですね、5人ほど雇っていたようですが、乗組員にはいい給料を払っていたようですね。運賃も高かったから、そうできたわけですがね。当時としては、かなりいい身分だったんじゃないでしょうね。だから、横店(※河野俊子さんの営む呉服店)でも、なんぼか買ってあげることができたんじゃないですか。姉たちの婚礼の時も、着物を買って持たせていましたよ。

―では、渡辺さんのお家はかなりの財を成したのでしょうね?

それについては、そうでもなかったですね。どこの親方ともいっしょで、こういう仕事は、飲めや歌えやで、結局、何も残らないのですよ。親父は所得をごまかさない人でしたから、ドーンと税金払っていましたね。今にして思えば、土地でも山でも買っておけば良かったのでしょうけど。

―豪快な方だったのですね。

戦争に行っていたのですが、同期6人の内、5人が死んでいるのですよ。後の人生はおまけみたいな物と感じていたようですね。機帆船の仕事にしても、復員後に始めた仕事ですから。

―今もご健在ですか?

いや、もう亡くなりましたよ。亡くなって、26年と1ヶ月経ちましたね。

―そうですか。さて、先ほど、大阪に荷物を運んでいったということですが、そのあたりのお話を聞かせて下さい。まず最初に、船のお話から。

123トンの機帆船で、焼き玉エンジンで走っていました。重油を燃やすエンジンです。93馬力ほどでしたから、力が弱くて、船があまりすすまんとですよ。さらに、船酔いもしやすい。だから、風が強いときは、帆を上げて帆船にし、弱いときは焼き玉で進む。ハイブリッドってやつですね。

―そういう船で行くと、大阪まではどれくらいかかるのですか?

2、3日ですね。往復でも1週間ほどでしたから。大阪南港までは、豊後水道、瀬戸内海を通るコースと四国沖を通る直行コースがありました。

―お父様とごいっしょに大阪まで行ったことはありますか?

ありますよ。昭和43年でしたね、21歳の時。8月4日でした。その帰り道、8月6日の原爆投下の日に、広島によって見物して廻ったことを覚えています。

―いろいろなところに立ち寄ることもあったのですね。

ええ、他にも宇和島などにも。帰りは積み荷が少なかったので、釣りをやったりしましたよ。シイラという2メートルもある口先のとがった大きな魚がいるのですが、これを引っかけたりしました。擬餌針を船から海に投げ、目標が沈むとグイッと引き上げるのです。これを塩漬けにしたり、刺身にしたりして食べるととてもうまい(笑)。豊後水道で、よく釣れました。

―目に浮かびますね。先ほど、お父様が26年前にお亡くなりになったということでしたが、その後、いつころまで海上運送のお仕事をなさっていたのですか?

昭和46年までやっていました。

―では、渡辺さんがシイラ釣りをしていたときのわずか3年後ですね。

そうですね、昭和45、6年あたりにはけっこう繁盛したのですが、46年3月には、船を売って廃業しました。だんだん儲けもなくなっていましたし。

そうですね、昭和45、6年あたりにはけっこう繁盛したのですが、46年3月には、船を売って廃業しました。だんだん儲けもなくなっていましたし。

外材が入ってきたことですね。それまでは、飫肥杉を運んでいたのですが、しだいに売れなくなってきました。飫肥杉は節が多いので、建築材には向かず、間伐材に使われることが多いのですが、これが外材に取って代われたということですね。しばらく、韓国からの注文はあったようですが、昭和50年代になると一気にだめになりました。宮崎丸という船が昭和52年までやっていましたが、それが最後ですかね。

―飫肥杉が盛衰を決定付けたのですね。話が前後しますが、全盛期の油津の様子をお聞かせ下さい。まず、積み荷の様子はいかがでしたか?

油津の町の中を堀川という運河があるのですが、ここがいわば著木場、私たちは「土場」と言ってましたが、そこが置き場だったわけですね。堀川は、山から切り下ろされた杉で、一面覆われていました。その杉をポンポン船が引っ張り出し、機帆船に横付けて積み込むわけです。

―いつころが全盛期でしたか?

昭和25年あたりですね。製材所もたくさんありましたね。杉を引っ張る馬もたくさんいて、道には、馬の糞がたくさんあって臭かったですよ。

―馬の糞のにおいと杉のにおいがない交ぜになっていたと。渡辺さんにとって、当時の思い出深いエピソードってありますか?

堀川で子供が死んだという事故がありましたね。堀川で遊んでいて、潜っていた子供が溺死したんですよ。水面に上がろうとしたら、ぎっしり覆われている杉の木によって、上がれなかったのですね。私が知っているだけでも3人死にましたよ。

―そう悲劇もあったのですね。しかし、当時が油津にとっては、もっとも活気ある時期だったのでしょうね。

そうですね。遠洋漁業も盛んでしたし。港から、カツオ船やマグロ船が出かけるときは、家族やみんな出てきて見送りをしていましたよ。飲み屋のママさん連中も来て、テープを手に持って、見送りをしていました。港を出るときには、3回ほど回航するのですよ、特攻隊のように。未練が多いほど、回航の回数が増えるのですね。軍艦マーチをならして、それが港に鳴り響き。それは賑やかでしたよ。



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